-
ヱホバを試みるものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
を倉に納めてヱホバを試みる機会を備え給うたのです。私たちがなせばなす程,ヱホバは新世社会の全体に注がれるのと同じように,私たち一人一人にその祝福を注がれるのです。その祝福は非常に豊かであるため,私たちには容れることができないでしよう。
たしかに,是認された仕方でヱホバを試みることができます。それはヱホバに讃美を帰すと共に私たちに永遠の祝福をもたらします。
-
-
ヱホバの制度に尊敬を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
ヱホバの制度に尊敬を示しなさい
『我子よ,汝の父のいましめを守り,汝の母の法を棄つるなかれ。それ,いましめは燈火なり,法は光なり。こらしめは生命の道なり。』― シンゲン 6:20,23。
1 キリスト教国の子供たちは誰ですか。その状態はどんなものですか。
キリスト教国の子供たちは,この世の組織制度の子たちです。キリスト教国はこの世の組織制度の主要な部分だからです。キリスト教国の子供たちは,多くの言語で幾千万冊と配布されている燈火,すなわち聖書を持つています。しかし,その子供たちにとつては聖書は,火の点ぜられていない燈火のようです。なぜですか。なぜなら,この世の組織制度の父と,その自堕落な裔なる『キリスト教国』は,子供たちの心を暗まして燈火の光を見させないからです。更に悪いことには,彼らはその燈火に対する正しい認識を得させずに故意に子供たちを外に追い出し,そして,子供たちをして真暗闇の窮乏の状態にさまよわせているのです。強力な手によつて阻止されないなら,覆いのかけられている聖書そのものももぎとられていたでしよう。キリスト教国内にいる古い世の子供たちは,そのような状態なのです。―コリント後 3:15; 4:4,6。
2 どんな意味深い面で新世社会の子供たちは,キリスト教国の子供たちとちがいますか。
2 ヱホバの証者の新世社会の子供たちを見るとき,それはなんという対照なのでしよう! 彼らも一つの燈火を持つています。実際のところ,それは同じ燈火である神の書かれた御言葉です。しかし,詩篇 119篇105節にはこう書かれています,『なんじの御言葉はわが足の燈火わが路の光なり。』彼らは光を持つているのに,キリスト教国の子供たちが光を持つていないのはなぜですか。両方とも同じ燈火なる神の言葉,聖書を持つています。そのちがいは何処にあるのですか。その答はこうです,顔に覆いのかけられて居ない彼らは,天の御父の光り輝く御言葉を見つめ,また母のごとき制度を通して与えられる啓開の教えをも受け入れたからです。シンゲン 6章20,23節にこう書かれています,『我が子よ,汝の父のいましめを守り,女の母の法を棄つるなかれ。それいましめは燈火なり。法は光なり。教のこらしめは生命の道なり。』
3 聖書からの光を持ちたいと欲する人々には,何が要求されていますか。
3 しばらくのあいだそれを考えてごらんなさい。父のいましめと母の教なる法の二つの事柄が言われています。そのシンゲンの説明によると,父のいましめは火のついている燈火ですが,また母の教なる法からの光もあります。この世には,神のいましめの書かれている本,聖書で充ちています。それであるなら,なぜ人々は正しい道を見つけることができないのですか。なぜなら,母の教なる法,すなわち光を持つていないからです。ヱホバ神は聖なる御言葉を全人類に与えられました。この御言葉の中には,生命の路を歩むのに必要なすべての知識が記載されています。しかし,その御言葉を自立で語らせるとか,あるいは生命の真理を自立で輝かせる,というのは神の取り極め給うことではありません。神の御言葉は『光は義しき人のためにまかれ』と述べています。(詩 97:11)シンゲンに言われている母の教なる法,すなわち光は,神の制度を通して備えられるのです。真理の光の中に歩むためには,ヱホバ神を私たちの父と認めるだけでなく,その制度を私たちの母と認めねばなりません。
4 イスラエル人たちは,どの程度まで父と母を尊ぶように要求せられましたか。そして,今日のクリスチャンは,どの程度まで?
4 自らクリスチャンと言い,神は自分の父であると言う人々の中には,こんな風に誇る人がいます。つまり,自分一人だけで神と共に歩んでおり,神は彼らの歩みを個人的に導かれているというのです。そのような人々は母の教なる法を棄てているだけでなく,実際には神の女を街路に投げ出しているのです。神の真理の光は彼らにはありません。イスラエルの国民内で,両親に従順であることはヱホバの絶対命令でした。『なんじの父母を敬え』は十のいましめの第5番目のものです。(出エジプト 20:2-17。申命 5:16)従順に対するむくいは,長寿で,不従順ならば死のむくいを受けました。『人にもし放肆にしてそむきもとる子あり。その父の言葉にも母の言葉にもしたがわず,父母これを責るも聴くことをせざる時は,……邑の人みな石をもてこれを撃ち殺すべし。』(申命 21:18-21)自分の血肉の両親にそのような尊敬と従順を示すことは,絶対に必要でありました。また,イスラエル内の長老たちにも示すべきであつたのです。悪童の群はヱホバの予言者なるエリシャに,正しい尊敬を示さなかつたため,たちどころに殺されるという当然の刑を受けたのです。(列王紀略下 2:24)神は,今日でも自分の子供たちから従順,尊崇,そして尊敬を,要求しています。生ける神御自身にそれらを捧げるだけでなく,神の妻のごとき制度にも捧げねばなりません。
母制度を見分ける
5 パウロは,クリスチャンの真の母をどのように見分けていますか。
5 クリスチャンの真実の母は,地的な制度ではありません。パウロは,この事実を示すために,肉によるユダヤ人の立場と,霊的なユダヤ人なるクリスチャンの立場とを比較して,それからこう述べています,『上なるエルサレムは自由の女であつて,私たちの母をさす。』(ガラテヤ 4:26,新口)そして,パウロはイザヤの予言の一部を引用しています。イザヤ書 54章の中にあるこの予言の前後の文の関係から,『私たちの母』と言われているものが何であるかを知ります。その5節と6節は次のようです,『なんじを造り給えるものはなんじの夫なり。その名は万軍のヱホバ,なんじをあがない給うものはイスラエルの聖者なり。……ヱホバ汝をまねき給う,棄てられて心うれうる妻また若きとき嫁ぎてさられたる妻をまねくがごとし。』かくしてパウロはヱホバの妻を見分けています。それはキリストとその共同相続者の母なるヱホバの見えざる宇宙制度です。
6 (イ)イザヤ書 66章8節に示されているごとく,『上なるエルサレム』と新しい世の社会との間に存在する関係は何ですか。(ロ)更にどんな関係に彼らは産み出されますか。
6 それでは,この天的な女と,目に見える新しい世の社会の神権制度とのあいだの関係は何ですか。そして,私たちは誰に尊敬をささげるべきですか。再びイザヤの予言の中に答を求めます。66章7節は,男子の御国政府の誕生を述べています。すなわちシオンの子らの中の主要な方,キリスト・イエスが天で王位につかれたのです。それは1914年に起りました。それから8節にはこう記されています,『ひとつの国はただ一日の苦しみにて成るべけんや。一つの国民は一時に生るべけんや。されどシオンは苦しむ間もなく直ちにその子らを産めり。』この聖句は多くの子たちの誕生を予告しています。しかし,この度は地上の誕生です。このことは1919年に起りました。生まれた国とは,新しい世の社会内にいるヱホバの油そそがれた残れる者の地上の復興した状態です。その状態はヱホバの崇拝を自由にすることができるものであり,組織化された奉仕を神権的になし得るものです。新しい国民は,バビロンから解放されて今では新しく誕生して設立された御国の支配下にいる霊的イスラエルの残れる者です。この国民は地上における神権的な国に住みます。すなわち,キリストの共同相続者の残れる者の解放されて復興した状態に住みます。しかし,上なるシオンのこの子たちはキリストと共に統治する,という天的な前途を持つている故に,彼らは神の妻である宇宙的な制度の一部になります。そして,キリストとともになつてその制度の首都を構成します。それで神の女なるシオン,すなわち上なるエルサレムは神の宇宙的な制度であり,その成員である14万4001人の子たちは,終極には男児政府のごとく首都を形成します。これらの者はみな,その宇宙的な制度の主要な部分になります。キリスト・イエスおよび14万4000人なるこれらの子たちは,支配制度なる首都を構成しています。キリストの『花嫁』は新しいエルサレムだからです。しかし,霊によつて産み出された14万4000人の神の子たちとその頭なるキリスト・イエスおよび目に見えない聖なる霊者である御使は,みな神の宇宙的な制度である神の妻を構成します。昔のエルサレム内で産まれた子供たちは,その都の住民になりました。同様にシオンの14万4000人の霊的な子供たちは,その宇宙的な制度の一部になるよう産み出されています。と同じ時にイエス・キリストと共にその首都になるように産み出されているのです。
7 真の娘制度はどのように見分けられますか。或るものの主張は偽りである,と何が示していますか。
7 キリストの『花嫁』は母の制度と密接な交わりを持つています。それで,あらゆる面において母に似ます。また,キリストに許婚されていて地上で人間として存在しているクリスチャンたちも母に似るでしよう。これらの者たちは彼女の代表者としての奉仕をいたします。そして,目に見える伝達径路に対する神の要求に従う,という点から見て容易に認めることができます。極めて明瞭に分ることですが,キリスト教国のいわゆる教会制度はシオンの真実の娘制度ではありません。彼らは天にある神の女の制度にすこしも似ていないのです。真の崇拝から離れそむいた彼らの『教会』制度は,真正なものでなければ,使徒に従つているものでもありません。その形式はさまざまであり,或るものは教職制度にしたがい,或るものは民主主義的なものや会衆的なもの,また別の或るものは教会支配の宗教会議形式を採用しています。そのような形式はみな正当な権根が与えられたものでなく,利己主義と自己中心の野心をつちかうものです。贋の制度は彼女の子ではありません。そのわけで彼らは真のクリスチャンの『母』に悪しき反対をなし,神に敵対すると共にヱホバの宇宙的な制度の主要なる者,すなわち神の王イエス・キリストに敵対しています。―詩篇 第2篇。
8 どのように又誰によつて,娘制度は神の教会として産み出されますか。彼女は,どのように神の径路になりますか。
8 シオンの娘なる,神の教会は,人間によつて考案されたものでもなければ,発展されたものでもありません。パウロは明白にこう述べました,『今は神は,体の肢体のそれぞれを御意のままに置かれた。神はそれぞれの者を会衆の中に置かれた。第一に使徒,次に予言者,その次に教える者』その他が,目に見える制度全部に置かれたのです。(コリント前 12:18,28,新世)更にパウロは,エペソ人に宛てた手紙の中で次のことを示しています。すなわち神の径路は,キリストが『人々に賜物』として与えた者によつて強められ,建てられるということです。そしてパウロは次の言葉をつけ加えることによつて事柄をはつきり示し,その達成される仕方を示しました,『ある者を使徒,ある者を予言者,ある者を宣教者,ある者を牧者,および教える者とし,奉仕の業のために聖徒たちの訓練を目的とされた。それはキリストの体を建てるためである。』(エペソ 4:8,11,12,新世)この言葉からも明白に分る通り,会衆内のすべての者は奉仕者でなければなりません。そして,『忠実にして慧き奴隷』としてのこの奉仕者の群に向つて,御国のすべての事柄を委ねる,とイエスは言われたのです。そのような構成は天にある神権制度に対当しているもので,シオンの子らの残れる者が産み出された1919年以来の今日,それはイザヤの次の言葉を成就しています,『ここにひとりの王あり,正義をもて統べ治め,その君たちは公平をもてつかさどらん。』― イザヤ 32:1。
9 神の径路のどんな約束された復旧は,神の子たちであると言うキリスト教国の偽りの主張を排斥しますか。
9 目に見える神の径路は,正義の中に設立されており,正義の高い原則に従つて維持されねばなりません。使徒たちの死んで後に自称クリスチャンたちは腐敗し切つた背教に落ちこみました。しかし,この制度が,腐敗し切つた背教から癒されて回復することは予めに告げられていたのです。『われ黄金をたずさえ来りて赤銅にかえ,白銀をたずさえ来りて鉄にかえ,赤銅を木にかえ,鉄を石にかえ,なんじの施政者をおだやかにし,なんじを役する者を義しうせん。』(イザヤ 60:17)イエスが弟子たちの中で始めたのは神権的な制度です。それは各個人にかかわりなく,保たれて行かねばならぬ,とイエスは表明しました。制度を清く保つて,正しい原則に献身しよう,という彼の決意は,最初の12使徒の一人を排斥した行からもはつきり分ります。それで明白に分るとおり,神の制度内にいるということだけで身の守りが得られるわけではありません。また,キリスト教国の不法の『娘』制度に属していて霊的な姦淫をなす悪しき指導者たちの偽りの主張は,ことごとく悪しきものということになります。彼らは神の制度の外にいるのであつて,彼らの中に光はすこしもありません。
光に感謝する
10 聖書についての真の光の源は何ですか。私たちは誰に尊敬を与えるべきである,とどのように示されていますか。
10 それで私たちの母の教なる律法は,地的な制度からの光ではありません。ローマ・カトリックの教職制度の主張しているような『決して誤まることのない解釈』として来るものではありません。その光の源は,真の神の御座にちがいなく,その光はシオンの子らの中で最初に生まれた御子,すなわち首都の王を通して来ます。そして,地上にある真の径路は,彼の共同相続者で成り立つ国民です。彼らはその制度的な地の中核として,今日では復旧した神権的な状態を占めています。このことから,マタイ伝 25章31-46節に述べられている『羊』と『山羊』についてのイエスの譬話の趣旨がはつきり分ります。天に召されているシオンの子たちは,地上にいるキリストの兄弟たちです。そのわけでイエスは,彼らに好意を示す羊にむかつて次のように言われたのです,『あなた方によく言つておく。私の兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは,すなわち,私にしたのである。』(新口)このわけで,天にある神の女に深い尊敬を払わねばならないと共に,彼女を代表する地上の子たちにも深い尊敬を払わねばなりません! 私たちの運命は,自分自身の手中にあるのです。『羊』になるか『山羊』になるかは,ヱホバの制度に対する私たちの行為によつて決定されます。
11 或る事柄に不足しているように見える会衆内の者を無視することによつて何が示されますか。しかし,そのような者に対する正し態度は何ですか。
11 今日,神の民と交つている人の中で,この世的な物質を少ししか持つていない人がいます。また,流暢に話しができない人とか,この世の良く言う『社交的な優雅さ』に欠けている人もいます。会衆内のそのような者を無視すること,更に悪いことにそのような者を見下げることは,制度全体に対して不敬を示すことです。パウロはこう問うています,『あなた方は神の会衆を軽んじ,貧しい人々を恥ずかしめるのか。』(コリント前 11:22,新世)品物を余分に持つている人々が,品物に欠乏しているように思える人々の友情の交わりをつちかうなら,新世社会内にいる兄弟たちの一致と愛は更にどれ程良く表明されることでしよう! 施しをすることはみな一方的なことである,というように相手を卑下するような気持でなされてはなりません。たとえ,この世の富に貧しく見える者も,信仰の霊的な業には富んでいるからです。その多くの者たちは試錬や試験に生き残つて来たのであり,ヱホバの御心に全くかなうようになつているのです。本当に,彼らはパウロが次のように書いたピリピ人のようです,『大いによろこんで,主にあつて彼を迎えてほしい。また,こうした人々は尊重せねばならない。彼は私に対してあなた方が奉仕のできなかつた分を補おうとして,キリストのわざのために命をかけ,死ぬばかりになつたのである。』(ピリピ 2:29,30,新口)これと同じような経験をしなくても,ヱホバの制度内にいるものはみなヱホバにとつて大切な者です。それですから,その一人を軽んずることはヱホバ御自身を軽んずることになるのです。また,この僕を召して,祝福にあずからせるヱホバの智を疑うことになるのです。ヱホバは御自分の愛する者すべてに祝福を注がれます。
12 神の径路に不満を感ずることは,制度を尊敬しない或る者によつて,どのように示されますか。
12 神の見える制度に交つている人々の中の少数の人は,神の径路を通して示される神の御言葉についての光に満足しません。それらの少数の者たちは,自分勝手な解釈をしたり,あるいは「ものみの塔」の中に一言も述べられていない事柄を『読み取ろう』と努め,それからそれらの事柄をあたかも真理であるかのように言いひろめます。或は,食物,年代についての意見,その他についての確信は聖書の裏づけを持つているという態度を取ります。そして,シオンの忠実な子たちの間に改宗者を得ようと努めます。彼らの行は次のことを言つているようです,すなわちヱホバの道は正しくもなければ十分でもない。そして,「ものみの塔」は現代に対して充分なものではない,ということです。
13 (イ)或る少数の者は,どのように制度を『支配しよう』と努めますか。(ロ)年齢や真理にいる年月にかかわりなく,僕たちに対する正しい見方は何でなければなりませんか。
13 また,権威を握つて,制度を『支配しよう』と努める者も少数います。或る者の計画は極めて巧妙であつて,一種の『会衆意見』をつくり上げることにより会衆の奉仕委員に影響を及ぼそうと図ります。彼らは人目につかない小さな運動を起して,個人的な意見をひろめ,他の者たちに感染させます。大問題も時折りに些細な事柄から生じるのです。責任の地位についている者たちに圧力を加えたり,あるいは個人的な事柄や意見を拡大しようと図ることは,『議員に働きかける運動』という政治形式です。そのようなものは,新しい世の考えに従う神の僕たちの中にあつてはなりません。(ロマ 16:17,18)家事の切り盛りをしようとする子供は『手に負えない』子と考えられます。その子にはこらしめを与えねばなりません。不平を言う者がたとえ年上で,神の奉仕に従事していた年月が長くても,会衆内の僕の意見よりも自分自身の意見を好むものは,謙遜な態度の中に次のことを自問すべきです,『私たちの年齢というものも,私たちの「母」の年齢や,父の永遠なることとどのようにくらべることができようか。』会衆の僕たちは,年齢にかかわりなくヱホバの制度の神権的な任命を受けているのです。それで,それぞれの義務を果す際には統治体とヱホバの制度全部の経験および権限によつて支持されているのです。このことから僕は自分の責任の重大性を認識しなければなりません。同時に,不平を言う者は,『母』制度の職務代表者に向つて反対しているということを認識しなければなりません。この理由の故にパウロは次のごとく諭しているのです,『あなた方若い者たちよ,年上の人に従いなさい。また,みな互に謙遜を身につけなさい。』― ペテロ前 5:5。新世。
14 会衆内の各人が,会衆の管理の諸問題に心配をすることはなぜ正しくありませんか。
14 それを拒絶することは,会衆の僕たちに向つて次の言葉を述べることと同じです,『なんじらはその分を超ゆ。会衆みなことごとく聖き者となりて,ヱホバその中に在すなるに,汝らなおヱホバの会衆の上に立つや。』(民数紀略 16:3)これは,モーセとアロンに逆らつたコラ,ダタンおよびアビラムの取つた行で,その結果は災をまねくものでした。たしかに,ヱホバは御自分の民の中に在まして,神の与え給う任務を忠実に成しとげるすべての者に豊かな祝福を注がれます。しかし又,神は神権制度を建てて,その王を御座に即かせました。王は事柄を秩序正しく指示します。それで会衆の決定を為すように『君』として任命されている者たちは,その責任を担うことができます。ヱホバやその王に抑圧をかけて,それと異る取極めに祝福を注がせることができますか。『各人その目に善しと見ゆるところをなし』て,国民が非常に悪い邪道に幾度も踏みこんだイスラエル当時の会衆の仕組みにしてはなりません。ヱホバが私たちをかくも保護されたことに,私たちはなんと感謝しているのでしよう! それで,私たち各人は『御国のこの良いたより』を伝道せよという神からの任命を為しつづけましよう。そして,会衆の事柄の管理はその責任を持つ者に委ねましよう。
15 ヱホバの制度を尊重するどんな模範が,世界中にある支部によつて示されていますか。
15 制度の一致を保つためには,今日の神の民の中に占める統治体の地位を認めて,それを尊重しなければなりません。これは全世界に散在している支部制度の採つている道です。支部制度は自分自身の独立した小さな制度を保とうとしません。それどころか,大切な事項は統治体の決定を俟ちます,使徒パウロも割礼についての大切な問題については,統治体の決定を俟ち,またイスラエル会衆内にいたモーセの忠実な補佐たちも,そのような道に従つたのです。―使行 15:2。出エジプト 18:26。
16 ヱホバの制度に正しい尊敬を持つことは,どうして人間に盲目に従うことではありませんか。
16 このことは,イエスの警めた人間に盲目に従うというものではありません。『盲人が盲人を手引きするなら,二人とも穴に落ちこむであろう。』とイエスは言われたとき,彼は偽りの宗教家たちの不忠実な行に言及していました。(マタイ 15:14,新口)イエスは,すぐに欺かれてしまつたイスラエルの人々に言及したのです。彼らは盲目の指導者の自己称賛を聞くだけで,指導者を受け入れました。同時にイエスは,盲目の指導者に盲目に従うキリスト教国内の人々に非難しました。彼らは,神の御言葉によつて指導者に対する要求を識別しようともしなければ,その働きの故に指導者に従おうともしないのです。このことから,次の事実が強調されます,すなわちヱホバの制度内にいる者はみな神権的な活動の中に教育を受け,責任の地位に即くよう訓練されねばならないということです。なぜなら,ヱホバの制度は奉仕者たちによつて構成されている神権的な社会であり,教職者制度でないからです。僕の地位が空位になるとき,会衆外の人が,特別に訓練された者としてその地位を占めるわけではありません。会衆の定期的な一部分として奉仕をなし,かつ責任を忠実に果すことによつて必要な資格を備えたものがその地位を占めます。この理由の故に制度内にいる各人は,神権的な取極めを学び,監督の地位を求めます。その奉仕を忠実に成しとげている兄弟の地位を野心の気持から奪い取ろう,と努めるのでなく,むしろ霊的に適用することにより,もしその責任が自分に与えられるなら,その責任を正しく果すだけの資格を得ようと,努めるのです。―ヤコブ 3:1。テモテ前 3:1-13。
17 神権的な奉仕者にとつて,正しい従順はなぜ重要ですか。
17 真実の監督に対する特筆すべき要求の一つは,謙遜です。ペテロが次の言葉を書いたのは,私たち個人の進歩と,群としての神権的な進歩のためです,『あなた方は主のゆえに,人間のたてたものすべてに従いなさい。主権者としての王(すなわちキリスト・イエス)であろうと,あるいは,悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために,王からつかわされた支配者(すなわち,王の見える代表者,『君たち』)であろうと,これに従いなさい。』― ペテロ前 2:13,14,新世。
-
-
確められた忠実な兄弟たちを信用しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
確められた忠実な兄弟たちを信用しなさい
『あなた方の指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。』― ヘブル 13:17,新口。
1 ヱホバの制度を愛するからといつても,不敬を示すことはない,となぜ保証できませんか。
家庭における子供のしつけは,その行によつて表わし示されます。新しい世の社会の立てている良い記録は,上にある大きな母制度から頂く素晴らしい教えを如実に表わすものです。新しい世の社会内に表面立つた反対があるなどということは,先ず知られていません。といつて,自己満足してはなりません。大ていの子供たちは自分の両親を愛してはいませんか。すると,子供たちが不敬の態度を取るようなことは決してないのでしようか。一番良くしつけられ,一番良い行儀を教えられた子供たちも,時折り小さな事で腹を立てます。母親の言うことを聞かない子供たちは,こらしめを受けねばなりません。母親が『お父さんが帰宅するまで待つていらつしやい。』と言うのを耳にしますか。『教訓のこらしめは生命の道なり』というシンゲンの言葉を忘れてはなりません。それですから,天の御父が妻のごとき制度を通して私たちをこらしめるとき,それは私たちを教えて,父と母を正しく敬う真実に円熟したクリスチャンに成長せしめるためです。私たちの父は,私たちの訓練については母に責任を取らせます。そのわけでパウロは次のように書きました,『あなた方の指導者たちの言うことを聞きいれて,従いなさい。彼らは,神に言いひらきをすべき者として,あなた方のたましいのために,目をさましている。彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない。』― ヘブル 13:17,新口。
2 外部における私たちの行動は,制度にどんな影響を及ぼしますか。
2 この理由にもとづいて,パウロは特定な会衆を監督したテトスにこう諭したのです,『彼らにすすめて,支配者,権威ある者に服し,これに従い,いつでも良いわざをする用意があり,だれをもそしらず,争わず,分別心を持つて,すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを思い出させなさい。』(テトス 3:1,2,新世)『いつでも良いわざをする用意がある』ということの中には,制度の外部であつても,御父と母の良い名に非難をもたらさない仕方で振舞うということも含まれているのです。私達は自分勝手な生活を,もはやいたしません。私たちの生命は,イエス・キリストの血によつて私たちを買われた神に属しているのです。その故に,私たちはキリストを通して神に従わねばなりません。キリストは,私たちの母である神の妻のごとき制度内における主要な方です。両親は子供によつて知られます。それで,目に見える新しい世の社会にそしりをもたらすことは,ヱホバ神とキリスト・イエスおよび私たちの母にそしりをもたらすことです。
3 うわさ話は,どのように制度にそしりをもたらしますか。
3 次にパウロは,『だれをもそしらず』と言つています。うわさ話は私たちの母にそしりをもたらします。どうして,そうですか。なぜなら,私たちの兄弟は神の新世社会の一員であり,もし兄弟をそしるなら,母制度の主要な成員であるキリストに向つてそしることと同じだからです。兄弟がたしかに悪いことをした,と仮定しましよう。その兄弟の恥さらしをするなら,私たちの母に帰せられる尊敬は増し加えられますか。その行は,イエスがマタイ伝 25章で述べている二つの級の中のどちらにふさわしいものですか。イエスに食物と服を与えた『羊』の級にふさわしいですか,それともイエスに何一つ施さなかつた『山羊』の級にふさわしいですか。うわさ話は霊的な必要物を無視するよりも更に悪いものです。なぜなら,その上にそしりと恥をつけ加えるからです。母の子たちの一人には鞭打が必要であると考えるとき,その者の背後にかくれて舌先の言葉でしようとしてはなりません。制度を通して正しく私たちの御父の裁量にゆだね,必要な矯正は御父がするようにしなさい。それは尊敬を示す仕方です。さらに,もしそうしないなら,あなたは『山羊』級のような行をしていることになるかもしれません!
4 新世社会内ではなぜ争いはありませんか。
4 パウロは『争わず」と言つています。或る子供たちはいつもけんか早い,ということに気づいたことがありますか。そのような子供は他の子供のすることは何一つ気に入らないし,それに話すときにはいばりくさつた,人を見下げた調子で言います。そのような子供たちが好きですか。好きでないでしよう。それでは,そんな子供たちの乱暴な性質を真似るなどのことはあつてはなりません。いつも喧嘩腰で一寸のことでも喧嘩をふきかける,などのことがあつてはなりません。新しい世の社会内で青少年犯罪者になりたいと,欲している人は果していますか。
実際的な仕方で従うこと
5,6 (イ)僕たちのことを批評することは,どのように信用の欠如を表わし示しますか。(ロ)協会の助言を適用させることについて,しなくても良いだろうという様に考えることはどのように災のものですか。
5 いません。パウロは『分別心を持て』と強くすすめています。つまり,事柄をする際の神権的な仕方を理解し,それに一致するように努めることです。制度内に生ずる或る事柄は理解できないかもしれません。僕たちのなす行は,悪いと考えられることでしよう。すると,分別心のない態度とは批評することです。私たちはその事柄に関するすべての事実を知ることもできないし,またたいていの場合には知らないのです。ところが,分別心のない人はそのようなことをすこしも考えません。自分には理解できないからという理由の故に,その行はことごとく悪い,と即座に結論してしまいます。私たちの中で核物理学を知つている人がいますか。だが水素爆弾は,その製作者の結論が真実に実際なることを絶対に証明しています。それであるなら,水素爆弾が理解できないという理由の故に,水素爆弾を裏庭で爆発させるなどということは愚かではありませんか。神の家族内にいて分別心のない不敬の態度を取ることは,水素爆弾を爆発させることと同じほどに災をもたらすものです。
6 実際,それ程重大なものですか。しばらくの間,考えてごらんなさい。不従順なサウロにどういう事が起つたかを考えてごらんなさい。彼はヱホバの御言葉と御名を立証せよという神権的な役割を果すのを怠りました。そのため,ヱホバの代表者サムエルより当然な宣告を受けるにいたつたのです。(サムエル前 15:1-3,11,22,23)本部からの助言や,地方会衆内の僕たちの助言を無視することは,不注意な行動であつて,神権的な権威者に不敬の態度を示すものです。或る指示は,聖書的な正しい原則を持つていると認めながらも,自分たちにかかわるものでないし,その指示通りにしなくても良いだろう,などと心の中に考えることがあるかもしれません。これは,制度に対する支持と『御国のこの良いたより』を伝道せよという使命に対する私たちの支持が全面的でないことを示します。このような指示は格別に重要なものでない,大切なことは「ヱホバの櫃をエルサレムに舁き上らす」ことだと考えるかも知れまん。ヱホバに讃美を歌つても,又たとえ意図が良くてもヱホバの祝福の報を十分に頂けるわけでない,とダビデは悲しみの中に(ウザの死をまねいたのです)学びました。真の崇拝はヱホバの定め通りになされねばなりません。そして,些細と見えるものも,もし神の制度の径路を通して来るものであるなら,大切なものです。―歴代志略上 13:6-10; 15:11-15。
7 (イ)神の見える制度の統治体に信用をしても大丈夫ということは,どのように示されますか。(ロ)この信用はすべての御国伝道者によりどのように示されますか。
7 ヱホバの制度に尊敬を持つとは,確められた忠実な兄弟たちに信用することを意味します。これらの兄弟たちはつらい目に多く会つて,経験を重ねることにより,神の御霊を頂いている事を示しています。目に見える制度の上に注がれる豊かな祝福から,統治体と統治体を代表する者には十分の支持と信用を与え得ることが明白に証明されます。『忠実にして慧き奴隷級』を通して主より来るあらゆる御準備を受け入れることにより,支持と信用を表わし示すことができます。それで,会衆内の僕として選ばれている者たちは,主の代表者として統治体を通してなされる自分の任命をよろこんで受け入れるべきです。そして,統治体自体が行うのと同じように自分の任命の義務を忠実に果さねばなりません。つまり,会衆内のすべての者は真の径路から来る神権的な助言を認めつつ,自分の業を成しとげねばならないということです。すなわち,家から家の業をすること,再訪問をすること,家庭聖書研究を司会すること,そして特に今では雑誌の活動に十分の支持を与えることです。協会の取極める特別な文書運動に参加するため,十分な準備をすることを意味します。できる立場にいる人々は開拓者になり,またすでに開拓者になつている人は機会が開かれるなら特別開拓者の業を真剣に考えることを意味します。物質的な寄附によつて協会を支持することを意味します。兄弟愛の真実の精神によつて互に助け合うことを意味します。そして,私たちの福利を図り給うヱホバとその母のごとき制度に感謝を示す機会を得るよう絶えず心がけなさい。彼の子供たちである私たちの兄弟に真実の愛情を示すことによつて,このことが一番良く表わされるではありませんか。
8 「ものみの塔」誌を通して与えられる助言に対する不敬はどのように示されますか。それは実際にはどういうことと同じですか。
8 私たちは神権的な教育と行為にいつも進歩を図らねばなりません。私たちはみなそのことを知つています。私たちは『ものみの塔』誌を通して神の制度から絶えず助言を受けています。『ものみの塔』誌は神権的な生活の仕方を告げている雑誌です。いまこれらの事柄を直ぐに忘れて日常生活に適用しないなら,そしてその努力をもしないなら,私たちの母の教である律法になんと背くことになるのでしよう! それはヱホバの倉に什一のすべてを納めることではありませんし,私たちは豊かな祝福を得そこなうことになります!(マラキ 3:10)実際には私たちはヱホバの食卓をないがしろにしており,「私たちの母の教を棄てて」助言を無視しているのです。私たちの行は,見える制度が処置を取るほどのものでなく,認め得るほどのものでないかもしれません。しかし,天の御父は必らず見て居られるのであつて,御父が処置を取られることは絶対に間ちがいありません。
共同社会の精神を建て起す
9 制度内の各人は,業を助けるためのどんな重要な役割を果たすことができますか。
9 ダビデの詩篇にも述べられているように私たちは神の家の内にいる責任ある者たちに対して,なんと強い感想をいだいていることでしよう,『ヱホバよ我なんじのまします家となんじが栄光のとどまる処とをいつくしむ。』(詩 26:8)そして,イエスが宮から両替人たちを清めたとき『弟子たちは「あなたの家を思う熱心が,私を食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。』(ヨハネ 2:17,新口)或る人々は,ヱホバの崇拝の家の中で占めている自分の地位が重要なものでない,と感じているかもしれません。しかし,祈りの態度を保つなら,それらの人々は重要な役割を果しているのです。信じて下さい。パウロの言葉はこう示しています,『あなたがたもまた祈りをもつて,ともどもに,私たちを助けてくれるであろう。これは多くの人々の願いにより私たちに賜わつた恵みについて,多くの人が感謝をささげるようになるためである。』(コリント後 1:11,新口)確められた忠実な兄弟たちがパウロの誠実な次の願を唱和して言うとき,彼らに信用を置いても絶対に大丈夫であります,『私たちの為に,祈つて欲しい。私たちは明らかな良心を持つていると信じており,何事についても,正しく行動しようと願つている。』― ヘブル 13:18,新口。
10 度を越して感受性を強くしたり,または直ぐに腹を立てることは,どのように不敬と信用の欠如を表わしますか。
10 パウロは又『すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示す』ことにより,あるいはエペソ書(4:2,新口)の中で述べられているごとく『愛をもつて互に忍び合う』ことにより,分別を持てと述べています。それで,一寸したことでも直ぐにふくれるようなことがあつてはならず,度を越して感受性を強くしたり,又は容易に腹を立ててはなりません。しかし,このようなことは,どうして制度に対する不敬となりますか。詩篇 119篇165節はこう述べています,『なんじの法を愛するものには大なる平安あり。かれらにはつまづきを与うるものなし。』一人の兄弟の故に感情を害せられるような場合は,その兄弟のなしたことは全く悪いものかも知れません。しかし,悪を二つならべても善は得られないのです。その兄弟の為したことに腹を立てて,つまづくなら,神の法をないがしろにしたことにより,私たちは悪行に加わることになります。一方,聖書的な道を採り,その者一人のところに行つてその問題を解決するなら神の御言葉に対する敬意を示すことができます。それが旨く行かないなら,その事柄を解決するために円熟した兄弟たち,又は必要ならば会衆の僕たちの援助を受けることもできます。かくして,制度に対する確信を示すことができます。
11 共同社会としての会衆の健康と精神は,正しい服従によつてどのように保たれますか。
11 私たちは争いごとや利己的な利害のみを追求する古い世から出て来ました。しかし,私たちは時折り新しい世の社会として生活している,つまり私たちは一つの共同社会である,ということを忘れ勝ちになります。私たちにはこの腐敗した亡び行く世の裁判所とか仲裁所は必要でありません。私たちは神の御霊と神の愛を持つています。私たちに対する神の取り極めを支持しつづけるなら,それらは保たれて行くでしよう。私たちは協会のすべての事柄に積極的な関心を持ち,かつ心はげます神権活動のすべての計画に熱心に参加することにより,会衆の共同社会を保持しつづけるのに最善をつくしましよう。共同社会の健康をもたらすすべての要因に,私たちは十分気づいています。また共同社会の精神を弱らせるすべての要因にも気づいています。それで,平和のきずなの中に会衆の一致を保つよう私たちはみな熱心に努めねばなりません。パウロは油注がれた残れる者の親密さについて次のように書きましたが,彼の語つている事柄は関心を一つにさせる同じ精神のことです。『もし一つの肢体が悩めば,ほかの体肢もみな共に悩み,一つの肢体が尊ばれると,ほかの肢体もみな共に喜ぶ。』(コリント前 12:26,新口)『視よはらから相むつみて共におるは,いかに善くいかに楽しきかな』とダビデは歌いました。(詩 133:1)パウロがエペソ人に更に次のように書き送つたのは,この精神を保たせるためでした,『キリストに対する恐れの心をもつて,互に仕え合うべきである。』(エペソ 5:21,新口)制度の援助を拒否して,不和の種子を根づかせるなどして制度に不敬な態度を示すよりも,私たちの兄弟たちを信用することはなんと良いのでしよう!
12 清潔にするという正しい習慣によつて共同社会の精神はどのように建て起されますか。すべての人は,どのように参加することができますか。
12 ヱホバの証者は,その清潔さと秩序正しいことで有名です。大会会場の取り扱い方には,外部の人々はいつも驚嘆の声を放つています。清掃係りの者が組織化されているだけでなく,出席者全員も会場のまわりに紙屑を散らさないようにして特別の努力を払つているのです。各人は制度の名声にたいして明確な責任を取ります。そして,清い健全な空気の中にヱホバ讃美の集会を開くことによろこび,そしてヱホバ御自身が代表を通して臨在されていることを認めます。このことは地方の御国会館でも同じです。しかし,会衆内の或る者が時折り思慮のない行いをすることにより制度に不敬を加えることがあります。どうしてそうですか。順番にする会館清掃の当番に参加しなかつたり,子供たちが通路のところに紙を散らかしても,子供を止めさせようとしないことです。次のようなことは滅多にありませんが,それでも子供たちが壁の上や会衆所属の歌の本の上に落書しても両親は止めさせようとしません。また,子供よりも年長の人々は区域の地図の上に何かを書きつけます。会衆のものはみな御国のものであつて,御国の事柄を取り扱うときの尊敬の念をもつて取り扱わねばなりません。極く稀な例外をのぞいては,新世社会の人々は自分の家庭の場合と同じように御国会館を綺麗に清潔に保とうとします。各人の家庭は,清い心を持ち新しい世の生活をする人々をいつも反映しているものです。会衆の僕たちは私たちの為に常に奉仕しています。それで,このような面の一つで会衆を援助して頂きたいと頼まれるときには,できる丈のことをして協力をしなければなりません。パウロも次のように述べています,『どうか,このような人々と,またすべて彼らと共に働き,共に労する人々とに,従つてほしい。私の心とあなた方の心とを,安らかにしてくれた,こうした人々は,重んじなければならない。』― コリント前 16:16,18,新口。
13 集会に後れて來たり,注意を払わない習慣は,なぜ考えのない不敬の事柄ですか。
13 それから又,集会に後れて来たり,集会の行われている間,不注意な或る人々の習慣を真剣に考えたことがありますか。子供の例をもう一度取つてみましよう。その子供は食事が始まつて,食物に対して感謝の祈が捧げられた後になつてから食卓のところに来るのが習慣になつていると仮定してみましよう。手も洗わなければ頭の毛に櫛もあてない ― 食事を取る際の身だしなみをすこしもしないで ― それから食卓のところに坐つて自分の皿のまわりに食物をぐるりと集め,他の者に何一つ廻さないとしたらどうですか。その食物はあなたが一生懸命になつてこしらえたものなのです。その晩の食事にお客がいると仮定してみましよう。その子供を自慢に思いますか。その子供の考えのない態度,無礼な態度にかえつて恥ずかしく感じませんか。さて,会衆の霊的な御馳走の場合には,お客がいるのです。全くのところ,お客以上の方がいるのです,初めての方とか,最近に興味を感じた善意者が出席しているというのでなく,私たちの主イエス・キリストなのです。主イエスはこう言われました,『ふたりまたは三人が私の名によつて集まつている所には,私もその中にいるのである。』ヱホバの証者で自分の天の父や,母親のごとき制度を故意に侮辱するような人はいないでしよう。それなら,考えのない行でなぜ侮辱してしまうのですか。私たちの兄弟たちは,天の御父が備えられた霊的な御馳走を準備するのに一生懸命はたらき,多くの時間を費しました。兄弟たちは,よろこんでそうしつづけます。新しい世の社会の大多数の人々は,テサロニケ人に与えたパウロの次の助言に注意をはらつているからです,『兄弟たちよ。私たちはお願いする。どうか,あなた方の間で労し,主にあつてあなたがたを指導し,かつ訓戒している人々を重んじ,彼らの働きを思つて,特に愛し敬いなさい。』― マタイ 18:20。テサロニケ前 5:12,13,新口。
ヱホバの導きの力に頼る
14 確められた忠実な兄弟たちを信用することは,なぜ安全ですか。何処かが悪いと信ずるなら,私たちの態度はどのようなものでなければなりませんか。
14 ヱホバの制度に尊敬を示すことは,つまりは神の見える径路に対する私たちの態度,および確められた忠実な兄弟たちに置く信頼に帰します。これはヱホバの制度であるとかたく確信するなら,またヱホバは御自分の民を導いて指示せられているとかたく確信するなら,いかなる事が起ろうとも動揺することはないでしよう。私たちには理解できないことに出会うなら,それが全く明瞭になる時まで忍耐強く待ちます。たしかに何処かが悪いと信ずるならば,私たちの父の「いましめを守り」,私たちの行い得る神権的な処置を取り,それからヱホバに待ちのぞみます。直ぐに批評したり,過失を見つけたりするようなことをしません。そのようにして,「私たちの母の教を棄て」ることをいたしません。ヱホバは御自分の制度内に行われていることを知つています。私たちはそのことを認めています。もしヱホバがそのことを許しておられるなら,どうしてそのことに異議を申し立てることができますか。私たちが真実に信仰を持つなら,次のことを知つています。すなわち,もし悪い事があるならヱホバは何時かは必らずその悪に対して適切な御処置を取られます。たとえ小さな問題があろうとも神の制度内にいる事は,混乱と亡びのみがある制度外にいるよりもはるかに安全なのです。
15,16 ヱホバから与えられるどんな理由にもとずいて,私たちはヱホバと私たちの母親のごとき制度を讃美しますか。
15 愛の心を持つ母親のごとき制度を通して表わされる,天の御父のやさしい気づかいを考えるとき,私たちの心は溢れるばかりの感謝の念でさわやかになり,暖められてきます。天の御父の備えられる十分豊かな食物を味うとき,そして私たちの母がそれを給する際の入念な注意深さを見るとき,私たちはかくも素晴らしい両親に讃美の言葉を捧げるのみです。神に従う大いなる母親のごとき制度が,真理と正義の天的な光で身を装つて神の光の道に歩み,そして完全な制度の光が彼女の心を輝かして飾つているのを見るとき,幸福な私たちは次のように叫ばざるを得ません,「この女は『神光なり』と書かれている宇宙の王の配偶者であり,天的な地位に即ている彼女は忠節な天的な被造物を立派に産み出すことができる。」彼女の子供たちになつて,『ヱホバ我らの義』という彼女の美しい名前にあずかれることは,なんという特権なのでしよう!(エレミヤ 33:16),私たちはこの暗い世界から来る心のへりくだつた人をみな歓迎して,輝かしいヱホバのよろこびの中に迎え入れ,かつヱホバの暖い是認の中に招じ入れます。そのとき,彼女から私たちに注がれる神の光を高々と反映することは何というよろこびなのでしよう!
16 私たちは感謝の念に充ちつつ,神の恵みを認めます。そして,感謝しつつよろこび進んでヱホバの制度に尊敬を示します。なぜならヱホバの制度は私たちの母であり,私たちの天的な父であるヱホバ神の愛する妻だからです。
-
-
大会で敬意を示しなさいものみの塔 1957 | 8月1日
-
-
大会で敬意を示しなさい
講演者は非常に良い話をしています。新しく興味を感じた夫婦は,その霊的な食物に驚嘆しています。夫婦の前に坐つていた人は,会場を出て食堂に行こうと決めます。前の方に歩いて行く別の人は,旧友を見て手をはげしく振ります。隣りの席に座つている婦人は,『あそこに〇〇さんがいるわ』と夫に告げます。それらの人々にとつては霊的な食物は極く僅かな価値しかないから,謹聴に値しないものに思うらしいと,新しく興味を感じた人々は考えるでしよう。聴衆内に考えの足りない不敬な人々が二,三人いるだけで,それらの人々の熱意が冷くなるのも尤もな話です。
良く聴いて分析し,覚え書を記して,そして家路につくときに新しい点を論じなさい。遅れて入つて来たり,早く出て行くようなことをしてはなりません。いつもなぜ一番最後まで留まりますが。良い模範を示すという為だけでなく,集会は祈りで閉じられるからです。その日一日のプログラムに対する感謝をヱホバ神に言い表わしたいと,欲しませんか。ほんの数分を節約するために,祈りをしないで出て行くことは神に対して,祈りをしている者に対して,そして自分の兄弟たちに対してのはなはだしい不敬であります。それは,1年の中のわずか数日のことです。5分を節約すること,または30分を節約することは,それほどに大切ですか。
もちろん,割り当ての仕事があつて退場しなければならないなら,退場して下さい。突発の事柄が起きるとか病気になるなら,退場をためらわないで下さい。しかし,プログラムが正式に終了する以前に退場する人は,そのような集まりの重要性に対するヱホバの証者の態度を表わしていません。大多数の人々は,不敬を示す者と同じであると思われたくありません。或る人が無分別にも不敬を示すのを見て,大多数の人々は恥ずかしく思います。
それで,音信に格別の注意をはらい興味を持つていると,他の人々に示しなさい。講演中には,廊下を歩いてはなりません。廊下には人影が見えず,ひつそりとしていなければなりません。このような認識の示されている大会に出席することは,非常なよろこびです。しかし,他の大会のときには,考えの足りない人は異つた習慣を持ち入れています。だが忘れてならないことは,そのような不敬の態度は制度を代表するものではないと,いうことです。神経のいらだつたこの古い世は,じつと座つたままでいることはできません。みなさんの御国会館では,最後の言葉が述べられ,歌が歌われて祈りが捧げられ,そして集会が正式に解散するまで,みなさんは席に着いています。それでは,認識の不足は更に大ぜい人々に見られ,そして皆さんの悪い模範は更に大ぜいの善意者の前に示される大きな集まりのところで,なぜ敬意を少しにしてしまうのですか。
プログラム中に或る人が話しかけてきても耳を傾けてはなりません。言葉を述べずに,分つたという合図をしなさい。そして,自分は講演者や制度,および近くにいる兄弟たちに対する正しい敬意を示したいことを知らせなさい。兄弟たちは,廊下の仕事に割り当てられていようとも,話を聞きたいと欲しているのです。もし,講演者の述べる諸点が大切であると,考えない人がいるなら,その人は多分場ちがいのところにいるのであつて,別の場所にいるべきでしよう。そして話を聞きたいと,欲している兄弟たちは恐らくそうであつてもらいたいと,望むことでしよう。
みなさんは,兄弟たちにそう思われたくないでしよう。そう望む人は,もちろんいません。それなら,考え深い行をなして,時間に遅れずに出席し,静かにじつとしていて時間よりも早く会場を出ることをせず,集会中に廊下を歩いていたりすることもなく,発表中(たとえ外国語の発表であつても)に話をしてはなりません。また食事の列に並んだり家に帰るバスに乗る方が,大会の席にきちんと坐つてプログラムの最終の言葉や結びの歌および神への祈りを聞くよりも大切である,などと考えてはなりません。
-