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神のことばから勇気を得るものみの塔 1963 | 12月15日
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ているのだから」。(ルカ 21:28,新口)クリスチャンは,これらの事の中に,悪い古い世の終りが近づいている証拠,また神の正義の新しい世が近づいている証拠を認めるのです。この知識は,すべてのクリスチャンが同様に受ける苦難に立ち向う勇気を彼らに与えるばかりでなく,神の御国の勇敢な支持者として発言する勇気を与えます。
22 エホバの民は,彼らと神との関係についてどんな確信をもつことができますか。またどのようにすればこの確信を保てますか。
22 神のことばを守ったためにクリスチャンは神が自分たちを保護してくださることを知っています。また,祈りによって神に願い求めることができ,神もそれを聞いてくださることを知っています。(詩 145:18)神は,羊飼が自分の群れの世話をするように,愛をもって彼らを見守られます。どんな事態に直面しようとも,神のことばに耳を傾けてその愛ある助言に応える限り,『キリスト・イエスにおける神の愛から私たちを引き離せる』ものは何もないことを彼らは確信しています。(ロマ 8:31-39)ですからクリスチャンは賢明にも,毎日神のことばを研究し,その教訓を熟考することにより,神のことばで心を養いつづけます。彼らは信仰をもってそのことを行なうので「勇気をもってこういう」ことができます。「『エホバは私の助け主,私は恐れない。人は私に何をすることができるか』」。―ヘブル 13:6,新口。
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勇気をもって耐え忍び神に奉仕するものみの塔 1963 | 12月15日
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勇気をもって耐え忍び神に奉仕する
1,2 聖書にしるされた信仰の人々の生涯の記録からどのように益を得ることができますか。
神の偉大さを知らせ,神のみこころを熟知させて,私たちに勇気を与えるほかに,聖書はもう一つの方法で,神のみこころを行なうための勇気を私たちに与えます。それはどんな方法ですか。信仰の人々の生活の記録によってです。したがって聖書は,神がそのしもべたちに要求される事柄を示すだけでなく,神を恐れた人々がどのようにして神に嘉せられたか,その実際の例をあげています。そのため,彼らが私たちと同じような問題にぶつかった時どうしたか,エホバがどのように彼らを祝福されたかを知ることができます。この方法で私たちは,神への奉仕にたじろぐことなく,勇敢に行動するように勇気づけられるでしょう。
2 使徒パウロは,この励ましの源に言及して次のように書いています。「わたしたちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いっさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,わたしたちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。(ヘブル 12:1,2,新口)ですから私たちは,キリスト教時代以前のこの雲のごとき多くの証人や,イエス・キリストおよび初期クリスチャンたちの生活を聖書で読み,彼らの模範から個人的に益を得,励まされて,私たちの参加すべき競争を勇敢に続行しようではありませんか。
3 エホバがしもべとしてお用いになる人はどんな人ですか。
3 ところが,多くの人は,神に奉仕する責仕があるのを知ると,その競争に参加するのをためらいます。たぶんその人たちは,私はふさわしくない,と思うのかも知れません。また私にはその資格がないと感ずるのかも知れません。また,神の御要求に沿えないかもしれないと思うのかも知れません。もしこれがいまのあなたの状態なら,神があなたへの教えのために聖書中にその記録を保存されている人々を見まわしてごらんなさい。「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には,知恵のある者が多くはなく,権力のある者も多くはなく,身分の高い者も多くはない。それだのに神は,知者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,強い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選び,有力な者を無力な者にするために,この世で身分の低い者や軽んじられている者,すなわち,無きに等しい者を,あえて選ばれたのである。それは,どんな人間でも,神のみまえに誇ることがないためである」。(コリント前 1:26-29,新口)神は,自分は賢いと考える者をお用いになっているのではなく,神に導きを求める人々をお用いになっているのです。神は,自信満々の人間に恵みを与えておられるのではなく,神に信仰をもつ人々を恵まれているのです。神が喜ばれるのは,だれよりも良くできる人ではなく,クリスチャンの兄弟たちの進歩に個人的な関心を寄せてそれを見守る人です。エホバに奉仕する人々は,そのみこころを行ないたいと思うだけの愛をエホバに対してもつ人たちです。―詩 25:4,5,9,12。ピリピ 2:4。
4 どんなタイプの人がエホバに奉仕してその是認を得たか,例をあげてください。
4 モーセはそのような人でした。彼は奉仕に召された時,どもりであったうえに80歳の高齢でしたが,それでも召しに応じました。(出エジプト 4:10-12; 7:7)ギデオンは『彼の父の家族のうちで最も小さいもの』でしたが,進んで奉仕し,エホバは彼を後援されました。(士師 6:15,16)アモスはしがない牧者であり,いちじく桑の実を摘む者でした。しかしエホバの預言者になりました。(アモス 7:14,15)またガリラヤから出た漁師ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネがいます。彼らは「無学な,ただの人」でしたが,イエスは彼らを使徒として選ばれました。(マタイ 4:18-22。使行 4:13)パウロのように,少数の人はかなりの教育がありました。しかし他の人々は,犯罪を犯したり,だらしない生活を送ったりして,かんばしくない過去をもっていました。けれども彼らが神に奉仕するために神に献身したときは,世故にたけていた者であろうと悪人だった者であろうと,それらの事柄をすべてうしろに捨て去って,神に奉仕する新しい生活をはじめました。―ピリピ 3:4-8。コリント前 6:9-11。
5 どんな考えは,エホバの奉仕に参加することに対して正しい見方をもつ助けになりますか。
5 たいせつなことは,あなたが神のみこころを知るまえにどんな人間であったか,ではなく,いまどんな人間であるか,ということです。あなたはエホバ神とその御言葉に堅い信仰をもっていますか。心をつくしてエホバ神を愛していますか。神の正義の新しい世における生命を心から望んでいますか。(ヘブル 11:6。マルコ 12:29,30。ペテロ後 3:13,14)ではためらう理由はなにもありません。人間の観点から見て,私にはできないかも知れないと考え,エホバへの奉仕を控えることがあってはなりません。むしろ,エホバがなぜこれほど欠点の多い私たち人間をお用いになるのか,その理由をよく考えてみましょう。使徒パウロはこう書いています。「わたしたちは,この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって,わたしたちから出たものでないことが,あらわれるためである」。(コリント後 4:7,新口)では,神を信頼して勇気を出し,エホバ神に対する献身をバプテマスであらわし,信仰の完成者イエスの模範に従いましょう。そして神がそのしもべたちにお与えになった伝道のわざに参加しましょう。
神の御国の伝道者
6 イエスは彼の弟子になった者すべてに対して,どんな活動のための訓練を施しましたか。
6 これは,神のいつくしみを受ける人すべての肩にかかっている責任です。キリストの生活に関する福音書の記録を勉強するとき,私たちはそのことを痛感します。「わたしについてきなさい。あなたがたを,人間をとる漁師にしてあげよう」とイエスは勧めておられます。「わたしに従ってきなさい」とイエスは言われました。「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。…わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい」。ではイエスに従った人々は何をしましたか。イエスご自身が行なわれていた仕事に参加したのです。「イエスは教を宣べはじめて言われた『悔い改めよ,天国は近づいた』」。(マタイ 4:19; 9:9; 11:28,29; 4:17,新口)彼らはイエスの弟子としてイエスから学び,ほどなく単独で派遣されるほど宣教の経験を積みました。最初にイエスは,「行って『天国が近づいた』と宣べ伝えよ」との指示を与えて,12使徒を送り出されました。(マタイ 10:5,7,新口)そののちに70人を選び,彼らにも同じ使命を与えてつかわされました。―ルカ 10:1-11,新口。
7 (イ)イエスの生涯において伝道はどれほど重要なものでしたか。(ロ)そのため弟子たちはこのわざをどのように見ましたか。
7 イエスは伝道のわざに専心されていたので,のちに総督ピラトに向い,自分が生まれた理由,また世に来た目的はまさに,「真理についてあかしをするため」である,と言われました。(ヨハネ 18:37,新口)そのことをよく理解していたイエスの弟子たちは同じく,真理のあかしを緊急事と考えていたので,役人から伝道を止めるように命令された時,次のように答えたほどでした。「神に聞き従うよりも,あなたがたに聞き従う方が,神の前に正しいかどうか,判断してもらいたい。わたしたちとしては,自分の見たこと聞いたことを,語らないわけにはいかないのである」。(使行 4:19,20,新口)彼らは,イエスが去られる少し前に,「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子と」せよ,と言われたことをよく知っていました。またイエスは昇天直前に彼らに次のような最後の言葉を残されました。「あなたがたは…力を受けて,エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のはてまで,わたしの証人となるであろう」。(マタイ 28:19,20。使行 1:8,新口)イエスの弟子になることが,伝道者になるという意味であることを,彼らは間違いなく理解していたのです。
8 パウロはコリント人に手紙を書き送ったとき,伝道者としてのクリスチャンの責任についてなんと述べましたか。
8 使徒パウロは,イエス・キリストの足跡に従うすべての人にかかっている責任を非常に強く感じたので,コリントの仲間のクリスチャンに次のように書きました。「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。進んでそれをすれば報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである」。(コリント前 9:16,17,新口)私たちもみなそれと同じ責任の重さを感じなければなりません。そしてその点,パウロがコリントのクリスチャンたちを励ましたとおりにしなければなりません。「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」。(コリント前 11:1,新口)もし,イエスとその忠実な模倣者たちに目を留めて離さないなら,私たちも彼らと同じく,良いたよりの伝道の緊急性を感ずるでしょう。
勇気をもって耐え忍びわざを行なう
9 宣教において忍耐はどれほど重要ですか。
9 イエスは御父に向って,「わたしは,わたしにさせるためにお授けになったわざをなし遂げて,地上であなたの栄光をあらわしました」,と報告できるまでわざを続行されました。(ヨハネ 17:4,新口)そしてこれこそイエスの弟子である者すべての決意でなければなりません。それには忍耐が要求されます。信仰をもっているだけでは,あるいは伝道のわざに参加するだけでは足りません。「神の御旨を行って約束のものを受けるため,あなたがたに必要なのは,忍耐である」。(ヘブル 10:36,新口)ぶたが再び泥の中をころがり回るように,真理を見失って,再び古い世のならわしに逆戻りするのは,なんと愚かなことでしょう!「わたしたち
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