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  • 今日,神への奉仕に喜びを見いだす
    ものみの塔 1966 | 9月1日
    • があるからです。キリスト教の宣教について述べた時,使徒パウロはこの原則を指摘しました。「わたしは,あなたがたもこのように働いて,弱い者を助けなければならないこと,また『受けるよりは与える方が,さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを,万事について教え示したのである」。(使行 20:35)パウロやその同労者は,学んだ良いものを与えることに喜びを見いだしました。今日でも,同じく正しい考え方を持って,徳を高めるこの同じわざに携わり,エホバに奉仕する人は喜びを得ます。

      16 悲しむ人が真理によって慰めを得,偽りの宗教につながれた人が真理によって解放されたことを喜び,生きる希望を与えられた人が幸福になるのを見るとき,人は真理を語る特権を神から与えられ,祝福されていることを感じて大きな喜びを味わいます。キリスト教の宣教においてこのことを体験するまでは,真理の知識を人に与える幸福をほんとうに知ったとは言えません。

      17 パウロは,なぜテサロニケ人が自分の喜びの冠であると語りましたか。

      17 使徒パウロとその一行はマケドニアのテサロニケに真理を伝えました。その伝道の成果である会衆は彼らの喜びの源でした。テサロニケでも,敵意にみち,伝道に反対する人々に会って不快な経験をしましたが,福音に耳を傾ける善良な人々に会えた喜びはそれを忘れさせました。パウロとその同好者の気持ちは,パウロの次のことばに表わされています。「実際,わたしたちの主イエスの来臨にあたって,わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は,あなたがたを外にして,だれがあるだろうか。あなたがたこそ,実にわたしたちのほまれであり,喜びである」― テサロニケ第一 2:19,20。

      助けあう

      18,19 (イ)会衆内の責任の地位に対して,どんな考え方をすべきですか。(ロ)このような特権はだれに与えられますか。

      18 エホバ神に奉仕する人々の会衆内には責任の地位があります。これらの地位に伴う務めを勤勉にはたすのも,やはり神への奉仕です。会衆は神のものであり,会衆の目的は神の崇拝と聖書教育にあるからです。このような地位に対して正しい考えを持っているならば,それを割りあてられた人は責任をはたすことに喜びを見いだすにちがいありません。このような監督の地位に伴う仕事,責任また問題だけを見るのではなく,自分がクリスチャンの兄弟にもたらす益,神のことばと目的を公に宣明するわざを組織することの必要を考えなければなりません。責任の地位にある人々は,まことの神との良い関係を保ち,神に正しく奉仕するようにクリスチャンの兄弟たちを助けて大きな働きをします。そのことだけからでも喜びが生まれます。

      19 神の民の会衆内における監督の地位は,エホバからの祝福です。それは神への奉仕を拡大する機会です。このような機会は,エホバに奉仕して良い働きをした,そして霊的に円熟していることを示した人に与えられます。このような人は自分が得た神のことばの知識を賢明に用い,与えられた会衆内の奉仕の特権を勤勉にはたしたゆえに,いっそう大きな奉仕の特権と責任を与えられたのです。これはイエスが言われた次のことばとも一致しています。「おおよそ,持っている人は与えられて,いよいよ豊かになる」。(マタイ 25:29)言うまでもなく,これは極端に走って自分にできる以上を引き受けることではありません。

      20 会衆内において長いあいだ,神に仕えることは,何によって可能となりますか。

      20 自分の健康が許す以上の,あるいは自分の力にあまる責任を会衆内ではたそうとするのは,分別のある行ないではありません。自分にできる以上のことを引き受けるならば,会衆内で神に奉仕する喜びをなくします。そこで分別を働かせることが必要です。正しい考え方をする人は,自分の能力をじゅうぶんに活用することに努め,認識のたりない人は奉仕の特権を避けるための口実をさがします。後者のような人に与えられる特権はますます少なくなります。クリスチャンのしもべは,責任をはたすために必要な体力と神経が自分にどれだけあるかを知っています。いつまでも喜びを失わずに会衆内で奉仕するには,この能力の限界を越えないことが必要です。会衆内の他の人と責任をわかつならば,喜びを失ったり,健康を害さない程度に仕事の量をとどめることができるでしょう。

      心の楽しみ

      21 (イ)神のしもべはどのように楽しんでいますか。(ロ)神に奉仕する喜びはどのように失われることがありますか。

      21 「わがしもべたちは心の楽しみによって歌う」。(イザヤ 65:14)エホバは預言者イザヤによってこのことを預言されました。今日は,世界的にみて,この心の楽しみを経験しているのは,エホバに奉仕している比較的に少数の人々です。この人々は人種の相違や政治上の対立によって心を苦くせず,また世の道徳の腐敗によって心を害されていません。無神論的な哲学あるいはまちがった宗教の教えに心を毒されてもいません。徳を高める神のことばの真理,神の正義の戒め,将来に関する神の約束から得る慰め,神から与えられて行なう愛のわざによって,彼らの心には楽しみがあります。しかし心をこの状態に保つかどうかは各人に依存しています。神への奉仕のなんらかの面において,まちがった考え方をするようになると,奉仕の喜びは失われ,心の楽しみはしだいに不健全な状態に変化します。ゆえに「油断することなく,あなたの心を守れ」と,神のことばが戒めているのも,いわれのないことではありません。(箴言 4:23)エホバの真理と目的に対して深い認識と熱意を持ち,正しい考え方を常に持つことは,心の楽しみを守るために大切です。

      22 愛はなんの実ですか。それはどのように明らかになりますか。

      22 心に楽しんでいる人々の喜びは,神の霊がその人々に働いている証拠です。喜びは,ガラテヤ人への手紙 第5章に述べられているみたまの実のひとつにかぞえられています。専心の献身をして神に仕える人々には,神の霊がそそがれています。現代においても神の証人はみたまの力により,全世界に真理を宣べ伝える大きなわざを行なっています。それは使徒が宣明した,自由を得させる真理です。直接に,あるいは神のことばと組織をとおして働く聖霊に助けられ,力づけられて,彼らは心に楽しみ,エホバのお目的を公に宣明するわざに励みます。このようにして人がつちかう喜びはみたまの実です。

      23 神がみたまによって行なわれるどんなことを,受け入れるべきですか。

      23 もしあなたが,今日,専心の献身をして創造者に仕えることを望み,そのみこころにかなうわざに励み,その恵みと,生命の賜物を望む,数少ない人のひとりであるなら,エホバはみたまによって,その民のしるしである心の喜びをあなたに与えてくださるでしょう。心を開いて神の教えを受け入れ,神への奉仕に対して正しい考えをつちかってください。神のことばの福音と,生活を改革する真理に動かされ,宇宙の偉大な神に仕える時に得る格別の喜びをつちかってください。

  • 怒ることは危険
    ものみの塔 1966 | 9月1日
    • 怒ることは危険

      ◆ J・A・シンドラー博士は,自著『1年の365日をいかに暮らすか』の中で次のように説明している。「怒っている間,あきらかに心臓の鼓動は早くなる。180回あるいは220回というのは普通で,それ以上になることもある。怒りが止むまで鼓動は上昇したままなのだ。血圧は正常の130ぐらいから急に,230またはそれ以上に高まる。これは重大な結果がもたらされる兆候であることが多い」。御霊の実をつちかい,「怒りをやめ,憤りを捨て」ることを教えた聖書の助言に心をとめる者は,たしかに賢い。

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