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  • 「善意の人」からなる「大群衆」に加わる
    ものみの塔 1972 | 9月15日
    • れません。エホバはご自分の是認と善意のあたたかいほほえみを彼らに投げかけ,彼らの夢のような願いすらも考え及ばない祝福をもって報いてくださいます。ヨハネはこう続けています。「御座に坐したまふ者は彼らの上に幕屋を張り給ふべし。彼らは重ねて飢えず,重ねて渇かず,日も熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいますこ羊は,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目より凡ての涙を拭ひ給ふべければなり」― 黙示 7:15-17。

      13 「善意の人」からなる「大群衆」の一員になるため,各人に何が要求されていますか。

      13 あなたは,イエスの使徒ヨハネがわたしたちのためにここで描いてくれた「大群衆」のひとりですか。あなたは神の真の崇拝者としてのこの恵まれた立場を望まれますか。従順な態度で,神の恵みと善意を得るために要求されている手段をすすんで講じ,エホバのみ手にある救いと命にあずかる者になりたいと思われますか。そうであれば,エホバに個人的な献身を行ない,その献身を公に確認するクリスチャンの行為,すなわち水のバプテスマに従順に服する必要を認めるはずです。

      14 (イ)ロマ書 10章1-3節によると,熱心さ誠実さは神の善意を得るのに十分ですか。(ロ)要求されている最も重要なことはなんですか。

      14 外面の敬虔さ,また,しきたりになっている祈りや宗教的なことばをくり返しても,神の是認を得られるものではありません。熱心さや誠実といったほめられるべき特質を持っていても,それだけでは神の善意を得るのに十分ではありません。使徒パウロの時代にも,彼と同国民の中には疑いもなく多くの信心深い誠実な人がいました。ですが,パウロは彼らに欠けているものがあったゆえに彼らのことを大いに憂慮しました。「兄弟よ,わが心のねがひ,神に対する祈は,彼らの救はれんことなり。われ彼らが神のために熱心なることを証す,されど其の熱心は知識によらざるなり。それは神の義を知らず,己の義を立てんとして,神の義に服はざればなり」。(ロマ 10:1-3)神の「善意の人」のひとりになるには,正確な知識に基づく真の信仰を得,それを働かせ,神の義に謙遜に服することが大切です。そのためにはまず,命に導く教えと導きを与える聖書を読むことと研究することが必要です。―ヨハネ 17:3。テモテ後 3:15-17。

      15 ロマ書 12章2節によると,どんな変化が必要ですか。

      15 あなたはその研究から,自分の見方を少し調整しなければならないことに気づかれるかもしれません。生活の仕方を変更しなければならないことさえあるかもしれません。しかし,自分の命が危険にさらされているとき,そうした変化は遂げるだけの十分の価値があります。使徒パウロはこう勧めています。「この〔事物の体制〕に効ふな,神の〔意志〕の善にして悦ぶべく,かつ全きことを弁へ知らんために〔思い〕を更へて新にせよ」― ロマ 12:2〔新〕。エペソ 4:22-24。

      16 (イ)献身にはどんな認識と動機が先行しますか。(ロ)自分の献身を公に確認するにはどうしますか。

      16 神のみことばから知識を取り入れ,その真理や原則について推論するにつれ,神を考えに入れない人間の推論の愚かさ,その絶望的な状態に気づかれることでしょう。地球に対する,また,祝福や喜びを享受するよう地上に創造された人類に対する神の意志と目的をめい想するにつれ,神の物事の取り決めの中に自分の位置というものを認めるようになります。神の意志を行ない,その「善意の人」になることを賢明にも選ぶ人には,すばらしい機会と特権が開かれているのです。あなたはこうして,神に対する愛と,義の新しい秩序における命の備えに対する認識とを示します。神に専心の崇拝をささげたい,神の祝福を受ける者になりたいというあなたの望みは,神に献身し,それを水のバプテスマによって公に確認したときに明らかになります。

      17 イエスのバプテスマの模範からわたしたちはどんな教訓を学びますか。

      17 神に是認される,この義にかなった型の例としては,イエスご自身の例にまさるものはありえません。聖書は彼が30歳のとき,そして地上におけるご自分の宣教を始める時が到来したさい,彼がバプテスマのヨハネから浸礼を受けるためにヨルダン川でご自身を差し出された様子を記録しています。彼はこの謙遜で自発的な行為により,ご自分の天の父の地におけるご意志を完遂するため,自らを父に差し出されたのです。ヨルダン川におけるイエスの浸礼,つまりバプテスマのすぐあとに,神はご自分の愛するみ子の示した自発的な従順さに対する是認と喜びを表わされました。マタイはそのことをこう書きました。「イエス,バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき,視よ,天ひらけ,神の御霊の,はとのごとく降りて己が上にきたるを見給ふ。また天より声あり,曰く『これは我が愛しむ子,わが悦ぶ者なり』」― マタイ 3:13-17。

      18 マタイ伝 28章19節のイエスの命令によると,信じる者となる人はなぜみなバプテスマというクリスチャンの行為に服さねばなりませんか。

      18 真のクリスチャンは,父からの是認をもたらしたこの模範に従うことを幸福に思います。イエスは『わたしたちをその足跡に随はしめんとて模範を遺』されたのです。(ペテロ前 2:21)キリスト教の1世紀において,ギリシア語聖書は,キリストの弟子となり,霊と真理とをもって神を崇拝する決意を象徴するバプテスマを受けた,文字どおりに何千という人々の記録をとどめています。そのすべては,イエスがご自分の忠実な追随者に与えられた最後の命令に従うものでした。「然れば汝ら往きて,もろもろの国人を弟子となし,父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し,わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教えよ」。(マタイ 28:19,20)その命令は今も変わっていません。今日,ほんとうに神の「善意の人」になりたいなら,神に対する個人的で無条件の献身を認めるものとして,謙遜にそして従順にバプテスマを受けるようにしなければなりません。それは天のわたしたちの父に喜ばれることなのです。

      19 「和解の職」はどのように,今日の多くの人に祝福と益をもたらしましたか。

      19 この「和解の職」は,現代の「キリストの大使」により,今なお全地でその勢いを弱めることなく続けられています。イエスの命令に従順を示しつつ,エホバのクリスチャン証人は忠実にそして熱心に,自分たちに託されたわざを行ない,『弟子を作り,バプテスマを施し,教えています』。1971年だけでも,バプテスマを受けた14万9,808人の弟子たちが,「善意の人」からなる増大する「大群衆」に加えられました。それら14万9,808人は神の善意を求め,それを見いだしたのです。彼らは,全地にいる144万人を数える他の忠実な「善意の人」に加わり,一致して神を崇拝し,他の人々に神の善意を得る方法を示しています。自分の献身を忠実に果たしつづけることにより,彼らは神の「善意の人」としてその好意と善意を永久に享受することでしょう。

      20 (イ)神の「善意の人」は,神に対する従順をどのように示しますか。(ロ)神の「善意の年」が残っている間,他の人々にはどんな前途がありますか。

      20 彼らの献身とバプテスマは,神との関係における結末でも終わりでもなく,始まりにすぎません。彼らは,今日にかかわる神の意志を従順に行なうわざに専心しています。その神の意志とは,王座につかれた,任命された王,キリスト・イエスをもって,神の王国が天で樹立されたという「良いたよりを」を宣べ伝えること,しかもそれを「証をなさんため全世界に」宣べ伝えることです。彼らがあらゆる人種と国籍から来るという事実は,分裂や問題を起こすものとはなりません。むしろ,それは祝福です。なぜなら,「和解の職」は彼らを通して,言語や人種また皮膚の色にかかわりなくあらゆる国民のもとに至るからです。彼らは「エホバの善意の年」が許すかぎり,この全地にわたる神への奉仕を『昼も夜も』忠実に行ないつづけます。その宣べ伝えるわざが続けられ,各地に広がってゆくにつれ,あらゆる国民の中からもっともっと多くの人々が「良いたより」を聞き,態度を変え,神の善意を求めるようになります。そして神はそうした人々を退けられません。彼らも神の「善意の人」からなる増大する群衆に加わり,神と神の崇拝とに献身し,その献身を神の意志に従い水のバプテスマを通して象徴します。彼らは神の任命された王を受け入れ,こうしてその心に喜びをもたらします。箴言の述べているとおりです。「王の喜びは,洞察力をもって行動しているしもべにある」。「義しき口唇は王によろこばる 彼等は正直をいふものを愛す」― 箴 14:35,新; 16:13。

      21 忠実に神の「善意の人」としてとどまる人々を待ち受けている希望を述べなさい。

      21 霊的な洞察力と理解ゆえに,これら「善意の人」は直きことを学び,話すようになりました。子羊イエス・キリストの油そそがれた弟子たちの残れる者とともに,彼らは『昼も夜もその聖所にて神に事えています』。忠節と霊的な清さを保つことにより,彼らはいつも神の善意を保持し,神からの霊的な糧と力を,そして「われらの神の刑罰の日」には,そのときに発せられる神の怒りの焼きつくような熱からの保護を受けます。それから,「御座の前にいますこ羊は,彼らを牧して生命の水の泉にみちびき,神は彼らの目より凡ての涙を拭ひ給ふべければなり」。これが,まだ時間の残されている今日,神の「善意の人」からなる「大群衆」に加わる人々の喜ばしい前途なのです。

  • 歴代志略はなぜ書きしるされたか
    ものみの塔 1972 | 9月15日
    • 歴代志略はなぜ書きしるされたか

      あなたは聖書を通読したことがありますか。歴代志略上のところまで来たとき,読み進む意欲を鼓舞するものが何もないと感じたのではないでしょうか。聞きなれない名前のいつ果てるともしれないような列に出くわし,10章になってやっと,ダビデ王の治世中のでき事をおもに扱った歴史的な記述が始まります。そして歴代志略下にくると,ダビデの子ソロモンの統治からユダとエルサレムの荒廃までの期間のでき事を基本的に扱った歴史がしるされていますが,その期間のことについては,列王記略上と下ですでに読んであります。

      「どうしてこの資料が聖書に書きしるされ保存されているのだろう。それにはいったいどんな目的があるのだろう」と疑問に思われたかもしれません。その答えを知るためには,祭司であり学者であったエズラが歴代志略上と下を書き留めた当時のユダヤの人々の背景を考慮しなければなりません。

      忠実なユダヤ人の残れる者たちがバビロンの捕囚から帰還して以来およそ80年が経過していました。捕囚そのものによって,彼らは過去とのつながりを断ち切られていました。したがって,それらのユダヤ人には,先祖の犯した悲惨なあやまちを避けるために自分たちの歴史を知る必要が大いにあったのです。真の崇拝という重要な役割に対する認識を持つようになることはとくにたいせつでした。エホバに忠実に仕え,契約の義務を履行することにおいて,彼らは強められねばならなかったのです。歴代志略上と下は,これらの点で,帰還した捕囚たちの必要をりっぱに満たしました。そのことを調べてみましょう。

      系図によってユダヤ人たちは過去の歴史と直接につながれました。それらの系図は王家の子孫と家族の遺産を確立する根拠となりました。また,祭司として,あるいは他の資格を持って神殿で仕えることを許される人たちも系図によって明らかになりました。王統に関する系図は,メシアを識別する一つの手だてとなることになっていましたから特にたいせつでした。

      基本的には,預言者エレミヤによって1世紀以上前に書きしるされていた列王記略の上と下が扱っている期間と同じ期間の事柄に関するものですが,歴代志略上と下の歴史的記述のほうは神殿における崇拝を非常に強調しています。それは,祭司だったエズラが,預言者エレミヤよりも関心を持っていたからですか。そうではありません。なぜならエレミヤも祭司だったからです。エズラもむしろエレミヤと同様,霊感のもとに,同時代の人々の必要に応じて書きしるしました。当時のユダヤ人は,神殿において行なわれた真の崇拝を,引き続き支持するよう励まされる必要がありました。そして,歴代志略上と下はその目的をりっぱに果たしたのです。

      その記録は,エホバおよびその正義の律法に対する統治者と被統治者の態度によって,イスラエルの歴史上のでき事が発展していったことを示すような方法でしるされています。歴史がそのまま教訓となっているのです。そして,真の崇拝に忠実につき従う

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