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  • バプテスマを受けた証人の責任をになう用意がありますか
    ものみの塔 1969 | 5月1日
    • ほかにも証人がいます。イエスが言われたように,人は『父と子と聖霊との名によって』バプテスマを受けるのですから,確かにエホバとイエスもこうしたことに深い関心を持つ証人と言えます。その人は,エホバを命の与え主また至上者と認め,人間のあがない主で神の子であられるイエスを,エホバの正義の新しい体制を統治する即位した王と認めるようになりました。ゆえにエホバとイエスも関心をいだいておられるのです。その人は生活の面でもエホバの霊の導きとその力を認め,また献身とバプテスマを経た今,「信仰の導師またこれを全うする者なるイエス」の導きに現在忠実に従っている「多くの証人」の側に自ら立っていることをも認めます。―ヘブル 12:1,2。

      12 さまざまな障害があっても,神への献身の道が勧められているのはなぜですか。

      12 バプテスマは責任と特権だけでなく,他の人からの反対をもたらすことがあります。エホバに対する個人のこうした献身は,家族あるいは親族が反対しても,生活の中で優先させねばならないことをイエスは示されました。人は忠実を保ってのみ,エホバに喜ばれる者となります。そして,命に導く忠実なその同じ道を取ることがどんなに大切かをそれらの人に銘記させる結果となるかもしれません。(ロマ 10:13)イエスはこう言われました。「己が[刑柱]を負ひて我に従ふ者ならでは,我が弟子となるを得ず」。(ルカ 14:26,27,[新])あなたは喜んでそうすることができますか。追い求めるべき目標は大きなもの,すなわち永遠の命です。報いはこれほど大きなものですから,いうまでもなく,それをとらえるのは容易ではありませんが,エホバの助けがあれば,報いをとらえることができるのです。こうした報いをとらえる過程をイエスは,少数の人が見いだす狭い門として細い道にたとえましたが,それは,ひとたび見いだしたなら,途中でどんな問題に直面しようとも突き進むべき道です。(マタイ 7:14)エホバはご自分の御子の犠牲を通して偉大な愛を人間に示し,永遠の命の見込みを開いてくださったのですから,わたしたちは献身に恥じない生活をして,神に対する不動の愛を表わしたいと願います。―ヨハネ第一 4:9。

      13 (イ)バプテスマを受けたからといって,それは何を意味するものではありませんか。なぜですか。(ロ)バプテスマを受けたクリスチャンは,聖書のどんなすぐれた助言に従わねばなりませんか。

      13 しかしたとえバプテスマを受けても,これで自分は神のご要求を果たしたのだと考えて,気をゆるめ,小成に安んじることはできません。イエスの生活に示されているとおり,これは道の終わりではなく,始まりなのです。イエスが公の宣教を始められたのは,バプテスマを受けたのちのことです。こうして彼は当時の宗教指導者層から向けられた反対や憎しみにもかかわらず伝道の仕事に活発に携わりました。そしてついにイエスが死なれて初めてその憎しみは和らいだのです。したがって,自らをエホバにささげる人は,前途のわざを見て,そのために十分の備えをしたいと願います。そうするには研究が必要です。会衆における研究だけでなく,個人で聖書研究をしなければなりません。そうすれば,他の人が真理を理解するのを助ける必要が生じた場合,聖書から確かな答えを与えて助けることができるでしょう。(テモテ前 4:16)箴言 18章15節はこう述べています。「さときものの心は知識をえ,智慧ある者の耳は知識を求む」。ペテロはこう勧めました。「キリストのめぐみと主を知る知識とに進め」。(ペテロ後 3:18)パウロはこうさとしています。「なんぢ真理のことばを正しく教へ,恥づるところなき労働人となりて神の前に錬達せる者とならんことを励め」。(テモテ後 2:15)最後にヘブル書 6章1節(新)は,「円熟を目ざして進もうではないか」と励ましています。ゆえに,バプテスマを受けた証人は,すでにバプテスマを受けたからといって,あるいは以前に自分と一緒に研究していた人がそうした援助をやめたからといって,聖書の勉強を少なくしたり,やめたりしてはなりません。それとは逆に,自分の知識と理解を増し加え続けることの必要を認め,個人研究を続ける明確な予定を立て,また,エホバに祈り,時を経るとともにますますみことばを理解できるよう,神の霊の助けを願い求めます。(箴言 2:4-6。ヤコブ 1:5)その人はこのことを霊的な強さを保つための,バプテスマを受けた証人の責任の一つと認めます。

      14 (イ)エホバはご自分の地上のしもべたちの福祉を図るためにどんな取り決めを設けておられますか。バプテスマを受けた人はなぜその取り決めに従うべきですか。(ロ)イエスはクリスチャンの一致についてなんと言われましたか。

      14 エホバは天におけると同様,御心を行なう民から成る見える組織をこの地上にも持っておられます。バプテスマを受けた人は,その研究およびエホバの民との交わりを通してこのことを理解できるようになります。イエスはその民の中に「忠実なさとい奴隷」級が存在することを予告されました。そしてこの級の者は,地上の献身したしもべたちで構成される神の家族に霊的な糧を供給し,神の伝達の経路として働き,全世界における御国の事柄の遂行を監督します。(マタイ 24:45-47)これら油そそがれた監督たちは,キリストの右の手によって導かれているかのようにその活動を進め,奉仕します。そしてイエスがかつてエホバに,「我がこころにあらずして,みこころの成らんことを」と語った時と同様の見方をいだいています。(ルカ 22:42)ヨハネ伝 15章1節から10節の中でイエスは,エホバの組織に行きわたっている調和を,多くの枝のあるぶどうの木にたとえています。エホバは偉大な栽培者で,イエスはぶどうの木,そしてイエスとともに霊的に結ばれる人々はその枝です。これは明らかに今日の地上にあるエホバの組織を認めることの必要性を示しています。このぶどうの木は豊かに実るもので,その実は無事にハルマゲドンを通過するでしょう。―ヘブル 13:7,17。

      15 クリスチャンはすべて,どんな良い実を生み出すことに努力すべきですか。

      15 このぶどうの木に連なる人々は,神の恵みを得,かつ,不毛の枝として切り捨てられないようにするには,どんな実を生み出さねばなりませんか。事実,聖書はクリスチャンが努力して生み出さねばならない二種類の実を指摘しています。その一つは,愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制などのみたまの実です。(ガラテヤ 5:22,23)キリストとの一致のうちにとどまり,かつ,エホバに喜ばれるためには,こうした資質を生み出さねばなりません。しかしわたしたちはこうした実を自分自身だけでなく他の人々のうちにも見いだすことを願っています。キリストの弟子になった人は,他の人々をも弟子にするのがエホバの御心であることを理解しています。箴言 11章30節はこう述べています。「ただしきひとの果はいのちの樹なり 智慧ある者は人を捕ふ」。パウロや初期クリスチャンがもっぱら行なったのはこの仕事でした。パウロはローマ人に手紙を書き,「ほかの異邦人のうちより得しごとく汝らのうちよりも実を得んと(し)て」,彼らの中で奉仕することを望んでいると述べました。(ロマ 1:13)ここで彼は御国の実つまりクリスチャンの弟子について言及しています。エホバに献身する人には個人個人この点で努力し,多くの国の民を弟子にして実を得る責任があるのです。

      16 聖書はクリスチャンの責任とその従うべき賢明な道をどのように指摘していますか。

      16 パウロはこの責任を痛切に感じて,こう語りました。「われ福音を宣伝ふとも誇るべきところなし,やむをえざるなり。もし福音を宣伝へずば,我はわざはひなるかな」。(コリント前 9:16)この仕事は単にわたしたちが自分の力で行なうものではありません。わたしたちが用意を整え,自分の分を果たすかぎり,エホバの霊の助けが約束されているのです。全地にわたる神のしもべたちの働きの結果として実を生み出し,増加をもたらされるのはエホバです。エホバに献身する各人は,創造者の御前で重大な責任を負っています。エゼキエル書 33章8節はこう述べています。「汝その悪人をいましめてその途を離るるやうに語らずば悪人はその罪に死ん されどその血をば,我汝の手にもとむべし」。むしろ,警告を伝えるわざに活発に携わり,その結果,エホバの新しい体制下の楽園における命を得るよう,心の正しい数多くの人々を救う喜びにあずかるほうがはるかに幸いです。こうした人々に対してイエスは言われました。「われ汝らに告ぐ,おほよそ人の前に我を言ひあらはす者を,人の子もまた神の使たちの前にて言ひあらはさん」― ルカ 12:8。

      17 さまざまな困難があるにもかかわらず,エホバに献身した人は何を確信できますか。

      17 御子の恵みを受けるのはなんと大きな喜びでしょう! ゆえにエホバとの献身の関係にはいり,イエスをその仲介人として受け入れる人は自動的に責任をにないます。しかし多くの祝福と豊かな喜びにもあずかります。そうした人は,エホバを自分の力とし,エホバに助けを求めます。エホバはその民を助け,牧するかたです。(詩 28:7-9)その人は,エホバのために行なう奉仕が重荷どころか,豊かな幸福をもたらし,心をさわやかにするものであることを知ります。(ヨハネ第一 5:3)時には家族や友人から相当の圧力を加えられたり,しばらくのあいだ困難な事態に直面したりするかもしれません。しかし生活の中で御国の事柄をいつも大切にし,エホバとその奉仕を第一にする人には,やがて道が開かれるでしょう。このことは復帰したシオンのとらわれ人にとって真実でした。同様にそれは今日の霊的なイスラエル人にとっても真実です。詩篇 126篇5,6節はこう述べています。「涙とともにまくものは歓喜とともにかりとらん。その人は種をたづさへ涙をながしていでゆけどたばをたづさへ喜びてかへりきたらん」。

      18 まだバプテスマを受けていない人は何をすべきですか。どんな目標をいだいてそうしますか。

      18 この「終わりの日」のいま真理を知り,御国の事柄を推し進めることにあずかれるのは大きな特権です。バプテスマについて考えていたあなたがたにとって,備えをする時は今です。注意深く研究し,自分の生活をエホバのご要求にかなうように改め,エホバに祈って導きを求め,バプテスマに備えることができます。では,しり込みをしないで,より大きな奉仕を目ざしてイエスのように前進し,エホバの是認を受けてください。そしてこの段階を踏んだ人は,各自エホバに対する献身に伴う責任を負い,それにふさわしい生活をいたしましょう。そのような人は次のことを知っています。「ああ〔エホバ〕よあはれみもまたなんぢにあり なんぢは人おのおののわざにしたがひて報をなしたまへばなり」。(詩 62:12)あなたは古い体制を出て,新しい体制にはいりました。また真理の清いことばを学んできました。そして,バプテスマを受けた証人の責任を喜んで受け入れるゆえに,今や王キリストの導きの下にそのことばを他の人に教えることもできます。では,このことをすべての人に示してください。―ルカ 9:59-62。

  • 初期クリスチャンと職業
    ものみの塔 1969 | 5月1日
    • 初期クリスチャンと職業

      ● ローランド・H・ベイントンは自著「キリスト教側観史」の中で,初期クリスチャンが職業の面でいかに制約されていたかについて述べている。初期クリスチャンたちはいかなる点においても,偶像や偽りの宗教とかかりあいになりたくないと願っていた。エール大学教会史学の教授であったベイントンは次のように書いている。

      「クリスチャンには偶像崇拝が禁じられていただけでなく,どんな方法であれ偶像を作ることを援助して偶像崇拝にあずからないように命じられていた。ある物は彫刻家であったかもしれないが,偶像を彫ることは禁じられていた。それゆえ,墓や記念碑の装飾物を彫刻することはできたが,それが神を表わすものであったなら,ライオンやクジラや牛などのかたちは彫らなかった」― 64ページ。

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