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  • 「すべての人の血について潔白」を保つ
    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • にゆだねることができました。というのは,彼は神の御言葉を彼らに教えたからです。ヘブル語聖書を創世記からマラキ書に至るまで彼らに説明しました。また,主イエス・キリストの言葉を教え,および彼自身がキリストを通して奇跡的に受けた黙示を彼らに伝えました。さらにまた記録された神の御言葉の一部となつたエペソ人への手紙も書きました。パウロは自分が永久に彼らを去つても,御言葉が彼らと共にあるように,能率的な教授法でもつて神の御言葉を彼らの心にしつかり教えこみました。そのため彼は,彼らをその御言葉と御言葉の啓発の力,保存の力,保護の力,清める力に安全にゆだねることができました。それは確実で,健全で,聖書的な教えでした。そしてそれは彼らを霊的に建て起すことができ,また彼らがついに天の御国,約束の,「すべての清められた者とともに嗣業」を受けつぐことを助けるということを彼は知つていました。こうしてパウロは,神の羊を安全の中に後に残しました。

      血の金で沈黙させられない

      38 どんな任務を果すためならば,パウロは命をも惜しみませんでしたか。

      38 使徒パウロは,自分の使命を忠実に果すことができ,また他の人々が永久の破減をのがれて永遠の生命を得るよう援助することができさえすれば,肉体的生命をも惜しみませんでした。ですから,彼の目標は,神の良いたよりによつてお金をもうけることではなかつたのです。彼の目標は,神の審判執行によつて流される危険にさらされている他の人々の血に対する責任から自分を清く保つ事でした。

      39 どんな動機でパウロは,生命をもたらす宣教を行なつていましたか。

      39 だからパウロは,生命を与える宣教を,救いを求めている人々に何の負担もかけずに無報酬で行いました。彼は,神の御言葉を収入の手段として用いてそれを商業化していたのではありません。見張りとしての彼の奉仕が,雇人のそれのように,給料をもらつての奉仕のごとくならないよう必要な時には世俗の職業につき天幕工として働きました。彼は,キリストのように,長なる羊飼とその羊の両方を愛した従属の羊飼として見張りを致しました。パウロこそ,他の人々が生きて,自分と共に神の過分のご親切を楽しむよう心から願つた人でした。彼はほんとうに隣人を愛しました。ですから,神の審判で隣人の血が流されても,それに関する責任を問われないよう,隣人の利益をおろそかにしませんでした。彼は,喜びと,特権と,そのいろいろなよい結果のために生命を救う者でした。そして危地にある隣人の危険をよく認識し,それに対し,神からゆだねられた手段でもつて何かしなければならないという責任を感じました。もし隣人がパウロの援助を受け入れるならば,隣人を滅びから救うことを望みました。

      40 パウロは,イエスが享受されたところの幸福を得るために,私たちにどんな模範をしめしましたか。

      40 これは,今日の私たちに模範を示しています。もし私たちが,他の人々が永遠の生命を得るよう助けるために,この非利己的で,無私の道を自費で歩むならば,パウロが引用したイエスの次の言葉がいかに真であるかを学ぶでしよう,「受けるよりは与える方が,さいわいである。」弱い人を助けることには,自分自身を与え,神によつて強くされた自分自身の力を与えるという点にはればれとした幸福があります。血の金に匹敵するものを受けることに幸福はありません。その血の金とは,私たちの口を閉じて警告を与えさせず,「神のすべてのみ旨」を伝えさせないものです。誰に対してであろうと,流血の罪を負うことには幸福はなく,自責の念にかられた良心があるだけです。パウロは幸福を望みました。私たちもまたそれを望みます。

      今日における私たちの責任とコース

      41 私たちはなぜ,他の人々が死と破滅から救われるよう援助したいと熱望しますか。

      41 私たち救いを愛する者は,他の人と共にその救いに与ることを熱望します。神の御手による死と破滅からのがれる私たちは他の人々もそのような災難から救われることを熱望します。私たちはヱホバ神の奉仕者および見張りとしてヱホバ神と同様に,こう言います,「わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。」(エゼキエル 18:23,新口)ですから,神と同じく,悪人がその道を離れて生きるよう援助するのを望んでいます。私たちは,滅びる者の血でけがされるという見通しを楽しみません。というのは,私たちは,この事に対して怠惰な見張りとして責任をとわれるからです。私たちは,キリストの享受された幸福のために働きます。この幸福こそ永遠の生命を意味するからです。

      42 私たちはなぜ血について責任をもつ時代に住んでいますか。そのため私たちはあえて何をしませんか。

      42 パウロの時代,すなわちエルサレムとユダヤの滅亡およびユダヤ民族の分散直前の時と同様に,私たちも今日,私たちの同国人および同胞である人間の血が関係している時代に住んでいるのです。「全能の神の大なる日の戦い」は迫つています。そして,ハルマゲドンの戦場で,神の御国の音信を拒絶し,また反対する者すべてに対して,神の審判が執行されるでしよう。彼らは,世界の共同体として,エルサレムやバビロンがしたと同じように,自分自身の血で神と血の勘定をすませるでしよう。(マタイ 23:33-38。エレミヤ 51:3,4,48,49)もし私たちが,この裁きの戦争を生き残つて,神の新しい世に入りたいと思うなら,「すべての人の血について潔白」を保たなければなりません。知識が欠けているために彼らは滅びに行くのですから,滅亡に定められたこの世を無知のままにしておかれるのは神の御心ではありません。聖書の知識をもつている私たちは,人々が無知にとどまることを選ばない限り,かりそめにも彼らを無知にとどめておいてはなりません。私たちは,ハルマゲドンの事,ハルマゲドンで神およびキリストと戦うために人類を導いているマゴグのゴグの事を彼らに警告しなければなりません。「私たち」が彼らに救いの音信を与えなかつたので,彼らが神のみ前で「知りませんでした」と言うことがあつてはなりません。

      43 これに関して私たちは,どのくらい真剣であるべきですか。私たちは,ためらうことなくどのように「神のすべての御旨」を宣べ伝えるべきですか。

      43 私たたちは,人々に警告しまた啓発するに際して,パウロと同じく,これが危険にさらされている人々に対する最後の助言であるかのごとく熱心でなければなりません。またこの助言は,最後の警告となりつつあります! パウロと同じく私たちは,神の御国の良い音信を伝道することを,キリストを通して神からゆだねられており,しかも,今は設立された,力をもつ神の御国の音信をゆだねられています。(マタイ 24:14)私たちはこのことを,証言および警告として,この古い世の終りが来る前に行わなければならないのです。「神のすべてのみ旨」を告げるのをためらつてはなりません。「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と告げているパウロと同じく,私たちは,公けの伝道で,また家から家に行つて教えてこの事を行わなければなりません。―コリント前 11:1,新口。

      44 もしこれを行えば,自分の行為を説明すべき時に,何と言うことができますか。どんな結果が私たちに生じますか。

      44 もし私たちがそうするならば,どういうことになりますか。ハルマゲドン間ぎわに,パウロの言葉を取りあげて,恥ずるところなく全世界にこういうことができるでしよう,「わたしはきようあなたがたに証をする。わたしはすべての人の血について潔白である。神のみ旨を皆あますところなく,あなたがたに伝えておいたからである。」従つて私たちは,流血の罪で死ぬことはないでしよう。清い手と頭と記録をもつて,生命と幸福のみち罪の存在しない神の新しい世に入れられて永遠に至るでしよう。

  • 「御心が地に成るように」(その24)
    ものみの塔 1959 | 12月15日
    • 「御心が地に成るように」(その24)

      ヱホバの聖所は,いまは生けるものであつて「生ける石」すなわち隅の基礎石であるイエス・キリストに従う御霊のそそがれた弟子たちで構成されています。1918年,ダニエル書 8章9節に述べられている「小さな角」すなわち英米両国の世界強国は,この霊的な聖所の場所を投げたおして,1926年には国際連盟と結合して他の国々と共に「荒すことをなす罪」を犯しました。これからダニエル書 8章14節に述べられている。「二千三百の夕と朝」がかぞえ始められました。この期間が終つたときにはヱホバの聖所は正しい状態に回復するでしよう。6年4ヶ月20日のこの期間は,1932年10月15日に終りました,その時聖所級の正式な雑誌である「ものみの塔」は次のことを示しました,すなわち地上にある聖所級は清められて,聖所はその正しい状態に回復したということです。それは,ヱホバの証者の会衆から民主的に選ばれた「長老」を取りのぞき,御国の良いたよりを伝道するため奉仕指導者たちを会衆に神権的に任命することによるのです。そのようにして神権的な支配はヱホバの油そそがれた残れる者の会衆内で行われるようになりました。

      49 その後,1938年6月号の「ものみの塔」(英文)は,何を述べましたか。それは,どんな決議の採決を提案しましたか。

      49 それは正しい始まりであつたに過ぎません。聖所はあらゆる面で神権的なものにならねばならなかつたからです。それから6年の後,「ものみの塔」(英文)は,「制度」という記事を出版しました。その第1部は1938年6月1日号に,そして第2部は次号の6月15日号に出版されました。この記事は,次の言葉で書き出されていたのです,「ヱホバの制度は,民主的なものでは決してありません。ヱホバは最高至上者であられ,彼の政府または制度は,絶対に神権的なものです。」この記事は,各会衆にひとつの決議を採決するよう提案しました。すなわち,「神の政府は純粋な神権政府であること」を認め,また

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