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ヱホバは御自身の民を導くものみの塔 1955 | 5月1日
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の権利を持たれている方の崇拝と奉仕に活潑に従事することを示すからです。(ルカ 4:8)パウロは,最初に集められた者にも言及しつつ,この最重要の業に対するこの定めの時について語り,こう述べています『それは御自分で目的を立てられた神の御旨によるのであつて,定めの時の満ちるにあたつて行われるものである。つまり,天にあるものも地上にあるものも,すべてのものを共にキリストの中に集めることである。たしかにキリストの中にである……それは,キリストに初めて望みを置いた私たちが彼の栄光を讃えるためである。』― エペソ 1:9-12,新世。
19 (イ)どんな肝要な業と質問に私たちは直面していますか?(ロ)この質問に対する正しい答を,聖書はどう示していますか?
19 この非常に大きな仕事に面して,その達成を図る目的に神の用いる手段についての質問は強い意義を持つものであることを知ります。王であり旗であるキリスト・イエスは御国制度に集められ,またこれから集められるすべての者を導くよう任命された唯一人の御方ですか? これは,何らかの面で地上にいるヱホバのすべての僕に直接影響を及ぼす重大な質問であつて,私たちは正しい,そして又聖書的な答を望みます。バビロンから戻つた忠実なユダヤ人の残れる者を言及しつつ,ヱホバはイザヤにこう書かせました『ヱホバ宣給わく,なんぢらはわが証人わがえらみし僕なり。』(イザヤ 43:10)これは,ヱホバの僕は,時折りに一個人として語られても,別のところでその僕は集合体の意味で語られている場合があると示す多くの聖句の一つに過ぎません。他の言葉で言うと,イザヤ書 43章10-12節が最終的に成就される際,ただ一つの油注がれた僕級または群があるとき,その級は多くの個々の証者または成員によつて構成されていることを知ります。(コリント前 12:14)イエスは,これと同じ油注がれた奴隷級について話し,次のような質問を尋ねて答えられたとき,その級に委ねられた責任について語りました。『主人が家人の上に任命して,正しい時に食物を与える忠実にして賢い奴隷とは実際に誰であるか?……私はまことにあなた方に言う主人は彼を任命して全財産を管理させるであろう。』― マタイ 24:45-47,新世。
20 これらの聖句から,どんな結論が得られますか? さらに考慮すべきどんな質問を起しますか?
20 それで,主人はつねにどんな面でも総元締ですが,しかし自分の忠実な追随者には御国福祉の奉仕の面で多くの分担部分と責任を与えます。すでに言われたように,一人として『神の恵みの御親切を受けて,その目的を失する』ことを欲しないために,この事柄について各個人はどのように見るべきですか?(コリント後 6:1,新世)これに続く記事でこの質問を考慮いたしましよう。
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正しい種類の奉仕者ものみの塔 1955 | 5月1日
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正しい種類の奉仕者
1 人はどのようにしてヱホバの奉仕者になり,そのことを証明しますか?
ギリシャ語聖書に用いられている奉仕者(ギリシヤ語でディアコノス)という言葉は,文字通りには僕の意味です。(テモテ前 4:6,新世)つまり,ヱホバの公やけの僕であつて,神の御意をなそうという厳粛な同意で初め献身の段階を取つた後,神により任命されている者ということです。そのような奉仕者は,御名にふさわしい者と証明し,神の恵みを保とうとするために,『上にある権威』によつて置かれるあらゆる命令や任務を忠実に成し遂げようと努力いたします。そのような奉仕者はまた,神の第一の奉仕者イエス・キリストの足跡にしつかりと従う追随者であると証明し,イエスと同じく,キリストによるヱホバの設立した御国の良いたよりの伝道者になる主要な義務を必らずや認めるでしょう。このようにして,この奉仕者はイエスの如くヱホバの証者の一人であると証明し,真理について証をいたします。―ロマ 13:1。ヨハネ 18:37。イザヤ 43:10。
2 僕または奴隷は,ヱホバの奉仕で責任を与えられますか?
2 奉仕者という言葉の本来の意味は,僕あるいは奴隷というものであつても,他人を監督し,世話を見るということを含めて,責任を多く持つ地位にその僕が置かれるという可能性はあり得るものです。前の記事の終りに引用されているマタイ伝 24章45-47節の聖句は,すぐ後に続く譬話の中でイエスの言われたことと相俟つて,このことについての良い例です。マタイ 25:21,23を見て下さい。
3 初期のどんな社会形態は神の是認をうけましたか,そこで指導について何が示されましたか?
3 家族生活にしても,又はあらゆる種類の国家的もしくは共同生活にしても,人間が共に居住して以来,制度化されたある形の社会が必要でした。これはこういうことです。つまりある者は権威と指導の地位に置かれ,他の者を訓練して正しい道に指導する責任を持つということです。そのような取り極めは,神の是認をうけるものです。何故ならばノアおよびアブラハムとその子たちから特に始め
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