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    ものみの塔 1959 | 5月15日
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      13 五旬節の日にペテロの証明したごとく,なぜイエスは天的なパラダイスに行きませんでしたか。

      13 なぜですか。なぜなら,イエスが死なれて埋葬されてから三日間の或る部分ショールにおられたからです。彼の魂は,詩篇 16篇10節(新世)の成就としてショールにありました,『あなたは私の魂をショールに捨ておかれない。あなたは,愛ある御親切の人に坑を見させない。』それは,五旬節の日に神の聖霊が使徒ペテロを通して与えた解釈です。注がれた御霊の働きの下にペテロは次のように言いました,『ダビデは(イエス)について言う,「私はヱホバをいつも私の目の前に持つた…あなたは私の魂をハーデスに捨て給わず,あなたの愛ある御親切の人を朽ち果てさせることを許さないであろう…」故に,(ダビデ)は預言者であつて,ヱホバはその子孫の一人を御座につけるとかたく誓われたことを知つていたので,キリストの復活については先見して語つたのである。すなわち,彼はハーデスに棄ておかせず,彼の肉体は朽ち果てないということである。神はこのイエスを復活させた。』― 使行 2:25-33,新世。

      14 なぜイエスとその犯罪者は,ショールの中のパラダイスにいませんでしたか。なぜ犯罪者は,イエスと共に『第一の復活』にあずかりませんでしたか。

      14 その犯罪者は,死んだ日にはイエスと共にショール又はハーデスにいました。イエスは天に行きませんでしたが,同様に彼も天に行かなかつたのです。また,イエスと犯罪人は,ショールあるいはハーデスの中にあるパラダイスに下つて行きませんでした。パラダイスはそこにありません。また,神はその後になつてパラダイスをショールから天,すなわち神のおられるところに移されたのでもありません。ショール又はハーデスは,昔のラビたちが偽りにも教えた所とちがうからです。聖書によると,ショール又はハーデスは人類の共通の墓です。その魂がショール又はハーデスに棄ておかれないために,イエスが死人の中から復活したとき,彼は『第一の復活』を経験しました。それで,聖書にはこう書かれています,『彼は初めの者であり,死人の中から最初に生れたかたである。それは,ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである』(コロサイ 1:18,新口)その盗人は,イエスといつしよに『第一の復活』にあずかりませんでした。それは霊的な復活であつて目に見えない天界に霊者としての生命に復活することです。その霊的な復活を楽しむために,人は『ふたたび生まれる』『水と霊から生まれ』なければならぬと,イエスはニコデモに告げました。イエスの忠実な弟子たちの場合に,イエスの死んだ日から51日後の五旬節の日になるまでは,彼らは神の御霊で産み出されなかつたのです。

      15 なぜロマ書 6章3-5節でパウロの言うことは,犯罪者に適用しませんでしたか。それで,イエスが死人の中からよみがえつたときその犯罪者には何が生じましたか。

      15 その犯罪者はイエスの側で死にました。しかしパウロがロマ書 6章3-5節(新口)で述べていることは,彼に適用しません,『あなた方は知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは,彼の死にあずかるパブテスマを受けたのである。すなわち,私たちは,その死にあずかるバブテスマによつて,彼と共に葬られたのである。それは,キリストが父の栄光によつて,死人の中からよみがえされたように,新しいいのちに生きるためである。もし私たちが,彼(キリスト)にむすびついてその死の様にひとしくなるなら,さらに,彼の復活の様にもひとしくなるであろう。』この犯罪者はキリストの様にひとしい死を遂げないで,犯罪者の死を遂げました。彼は,死刑を受けていた他の犯罪者に,次のように言いました,『お互は自分のやつた事のむくいを受けているのだから,こうなつたのは当然だ。しかし,このかたは何も悪いことをしたのではない。』(ルカ 23:40,41,新口)それですから,イエスが死人の中からよみがえつたとき,彼はその犯罪者をパラダイスに残さずショールに残しました。

      16 その犯罪者は,御国の中にいる特権をイエスに願い求めましたか。使徒ペテロは,『天国のかぎ』の一つを,犯罪者の為に用いましたか。どのように私たちは知ることができますか。

      16 いま,その犯罪者がイエスに言つた言葉を分析しなさい,『イエスよ,あなたが御国に入られる時,私を思い出して下さい。』それでは,彼はイエスの御国の中にいるようにと願つていましたか。決してそうではありません! 地的の見地,人間的な見地から見てさえ,彼はイエスとは異つてダビデの王系に属していない故に,どうしてその御国の中に入れるよう願うことができましたか。その上,その犯罪者は使徒ペテロを出し抜いて御国に入ることができないでしよう。イエスが以前にペテロだけに告げた次の言葉は,この犯罪者の知らない事にちがいありません,『私は,あなたに天国のかぎを授けよう。そして,あなたが地上でつなぐことは,天でもつながれるであろう。』(マタイ 16:19,新口)五旬節の日になつて使徒ペテロは,御霊を始めて注がれてから『天国のかぎ』の一つを用い始めました。五旬節のその日には,犯罪者はその場におらずペテロの話を聞いていません。彼は,天的な御国に入つて栄光を受けたイエス・キリストと共になるために,ペテロが最初の鍵を使用した恩恵によくしていません。

      17 イエスは誰たちと御国の契約を結びましたか。なぜこれはその犯罪者を含みませんでしたか。

      17 側にいた犯罪者とともどもにイエスが苦しみの杭にかけられた前の夜,彼は1年に1度祝う主の夕食を始めました。イエスはそのとき11人の忠実な使徒たちにこう語つたのです,『あなた方は私の試練のあいだ,私と共に耐え忍んだ者たちである。それで,私の父が御国の契約を私と結んだように,私もあなた方とその契約を結ぼう。あなた方は私の御国で食卓について飲み食いし,また位に座してイスラエルの十二の支族をさばくであろう。』その御国の契約に加えて新しい契約もありました。イエスは,ぶどう酒の杯を使徒たちに回したとき,この契約のことを彼らに告げて,こう言われたのです,『この杯はあなた方のために流す私の血によつて立てられる新しい契約を意味する。』(ルカ 22:19-30,新世)この犯罪者は,11人の忠実な使徒たちとはちがい,イエスが試練を受けた際に彼と共に耐え忍んでいません。それですから,犯罪者がイエスをかばう言葉を話し,イエスが王になつた後自分のことをおぼえてもらいたいと尋ねたにしても,イエスは彼を御国の契約に入れるとは告げませんでした。

      18 復活を受けたイエスが先がけとして神の天的な聖所に入つたとき,なぜその犯罪者は,友なる先がけとしてイエスと共々に入らなかつたのですか。

      18 ヘブル書 6章19,20節の告げるところによると,神の大祭司なるイエスは,自分の肉体を犠牲にして,霊者として復活された後に,先がけとして神の天的な聖所つまり『幕の内』に入りました。その犯罪者はイエスと共に先がけになることができません。なぜなら,むかしのイスラエルのときには,大祭司は神の至聖所にひとりで入つたからです。(ヘブル 9:6-8)イエスが復活を受けた日に,犯罪者は復活の体を頂かなかつたのです。彼は記憶の墓の中にいる者たちに復活の与えられる時まで待たねばなりません。そのときに,彼は体を与えられるでしよう。イエスが復活を受けた後に,使徒はクリスチャン兄弟たちに宛ててこう書きました,『私たちはイエスの血によつて,はばかることなく聖所にはいることができ,彼の肉体なる幕をとおり,私たちのために開いて下さつた新しい生きた道をとおつて,はいつて行くことができるのであり,さらに,神の家を治める大なる祭司がある。』― ヘブル 10:19-21,新口。

      19 なぜその犯罪者は,クリスチャン会衆の基礎ではありませんでしたか。なぜ彼はバプテスマのヨハネよりも大きな者になりませんでしたか。

      19 その犯罪者はクリスチャン会衆の基礎ではありません。彼はその成員でもないのです。『小羊の十二使徒』は,クリスチャン会衆の副の基礎になりました。このクリスチャン会衆は,大いなる岩イエス・キリストという主要な基礎の上に建てられたものです。(黙示 21:14)五旬節の日のとき,その犯罪者は,丁度洗礼者のヨハネが聖霊を受けなかつたのと同じく,聖霊を注がれなかつたのです。彼はヨハネよりも偉大な者になりませんでした。イエスは,天的な御国に入る者たちについて次のように言われています,『女の産んだ者の中で,バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかつた。しかし,天国で最も小さい者も彼よりは大きい。バプテスマのヨハネの時から今にいたるまで,天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取つている。』(マタイ 11:11,12,新口)この世にうち勝つ14万4000人のクリスチャン会衆に対するすべての要求,およびすべての準備について,その犯罪者が例外になつたということはありません。―黙示 7:4-8; 14:1-5。

      20 その犯罪者が苦しみの杭の上にかかつていたとき,なぜ彼は神の霊で産み出されず,また油をそそがれませんでしたか。

      20 杭の上にかかつていた犯罪者は,神の霊によつて生み出され,そして神の霊によつて油を注がれたわけではありません。イエスが神の聖霊を御自分の忠実な弟子たちに注がれたのは過越の日でもなく,また苦しみの杭の上にかかつていた時でもありません。イエスが聖霊を注がれたのは,五旬節の祝いの日であつて,神の大祭司なる彼が天で神の右におられた時です。(ヨハネ 7:39)そのとき生存していた弟子たちは,はじめて神の霊的な子になり,新しい契約に入れられて,御霊により油を注がれ,イエス・キリストの共同相続者として御国契約に入りました。

      21 それで,なぜ犯罪者に述べられたパラダイスは,天の御国と同じものではありませんか。なぜ彼は天的な御座でイエスと共に座りませんでしたか。

      21 それでイエスが犯罪者に語つたパラダイスは天の御国と同じものではありません。犯罪者はイエスと共に御国にいるなどと,イエスは約束しませんでした。犯罪者はイエスとともに御国の中にいるようにとか,または御国の一部になるようにとは願いませんでした。ダビデの王系に属していない犯罪者は,御国の下にあつて王が彼を認めるよう,もしくは記憶するように願い,そして死人の中から御国の領域に復活させて頂きたいと願つたに過ぎません。パラダイスは御国の下にあります。それですから,パラダイスは御国が設立された後に初めて設立されます。イエスの御国は,彼が死んだ過越の日に地上で設立されたのではありません。すべての聖書の預言と,関係を持つ事実は,御国が(西暦)1914年に天で設立されたと証明しています。イエスが復活を受けてから40日後に天にのぼられたとき,彼は1914年まで,そしてその時に御国の始まるまで神の右に座して待つていました。友情心にあふれた犯罪者は,神の御座の内におられたイエスと共に座しませんでした。それは,この世に霊的にうち勝つイエスの会衆の者に与えられると,イエスは語つておられました。―黙示 3:21。ヘブル 10:12-14。

      22 なぜイエスはパラダイスから復活したのではありませんか。そして,その犯罪者や記憶の墓の中にいる人類は,何の中に復活を受けますか。

      22 このすべてのことからも,その犯罪者がイエスと共々に苦しみの杭の上で死んだ日に,パラダイスでイエスといつしよにいることは不可能となります。イエスは,死んで3日目にパラダイスから復活し,その犯罪者を死人と共にそこに残したということはありません。もしそうなら,イエスは彼と共に3日の或る部分だけパラダイスにいて,そして彼をそこに残したことになります。イエスは犯罪者といつしよになるためパラダイスに降つて戻るということをしませんでした。彼は天的な御父といつしよになるため天にのぼりました。3日目にその犯罪者は,イエスと共々にパラダイスから復活を受けたのではありません。死人が真のパラダイスから復活をうけるということはありません。なぜなら,その犯罪者や記憶の墓にいる人類は,この地上のパラダイスに入る復活があるでしよう。その犯罪者は,楽園に入る最初の者でなく,又その犯罪者の以前にパラダイス内に死人がいたというわけではありません。パラダイスは,死人の場所ではなく,生きている者の場所です!

      エデンの園

      23,24 (イ)パラダイスの内にいた最初の人間は誰でしたか。そしてなぜ?(ロ)なぜパラダイスという名前は,エデンの園に正しく適用されますか。

      23 パラダイスの内にいた最初の人間は,神の子アダムでした。アダムはそのとき生きていました。そのとき,ショールもなければハーデスもなかつたのです。死んだ人間とか,地的な墓の中に葬られた人間はいなかつたからです。「アメリカナ百科辞典」(第21巻)はパラダイスについての記事の中で,次のような言葉で始めています,『エデンの園。この言葉は最初ペルシャ語であり,公園を指す。それは,エデンの園に対する名前として現代の言葉に導入された…この故に幸福の住居である。』

      24 その名前をエデンの園に適用することはきわめて適当です。アダムはそのエデンの園の内で創造され,そこに置かれました。『園』という聖書のヘブル語は,取りかこまれた所または垣でかこまれた所という意味です。その中に取りかこまれたものは,快いもの美しいものでした。このことは,パーデスすなわちパラダイスについてのペルシャ人の考えとも一致します,『ひろい,開放された公園で,危害を防ぐため取りかこまれている。しかし,その自然の美はそこなわれていない。堂々とした森林の樹木があり,その多くは実をむすび,清らかな川から水気を取る。その川の堤には,かもしかや鹿の大きな群れがさまよつていた。―ギリシャ人の旅行家はこの光景とパラデイソスという言葉を連結した。しかし,このパラデイソスという言葉に対するギリシャ語の正確な同義語はなかつた。』或るギリシャの著者によると,その言葉は次のことを意味するために用いられました,『広大な地,丈夫なへい又は石垣で取りかこまれ,樹木や,かん木や,植物や,手入れの行きとどいた庭園でいつぱいになつており,その中にはいちばん良い動物が,束縛された状態または自由の状態といういろいろな方法で飼われていた。それは動物が兇暴か平和のものかに従つてなされたのである。このわけで,英語の公園という言葉に極めて近い意味であるが,更に庭園,野獣園そして鳥舎という意味も加わる。c』

      25,26 (イ)パラダイスという言葉は,どのようにエデンの園に適用されるようになりましたか。(ロ)なぜ聖書のローマ・カトリック・ドーエイ訳は,『エデンの園』という表現を用いませんか。

      25 それで,クリスチャン時代前の第3世紀に神の霊感を受けた聖なるヘブル語聖書をギリシャ語に訳し始めたヘブル人たちは,ヘブル語のガンを訳す際にギリシャ語のパラディソスすなわちパラダイスを用いました。聖書をラテン語に訳した人々は,ラテン語のパラディサスを用いました。このわけで,聖書のローマ・カトリック,ドーエイ訳は次のように記しているのです。(創世 2:7-15)

      26 『そして主なる神は地のちりから人間をつくり,生命の息をその顔に吹きいれた。そして人間は生ける魂になつた。主なる神は楽しみのパラダイスを最初から設けられ,つくつた人をその中に置いた。そして,主なる神は見るにうるわしく,食べるに好ましいあらゆる種類の木を地から生ぜしめた。生命の木と,善悪を知るの木はパラダイスの中央にあつた。そして,パラダイスをうるおすために一つの川は楽しみの場所から流れ出て,それから四つの支流に分れている。…そして主なる神は人間を取つて,楽しみのパラダイス内に置き,それの手入れをさせて,保たせた。』

      27 ヘブル語聖書は,何度それに相当する言葉パーデスを用いていますか。ソロモンの雅歌の羊飼なる恋人は,この言葉の意味をどのように説明していますか。

      27 ヘブル語聖書の後の部分でも,パーデスという言葉は3度用いられています。(ネヘミヤ 2:8。伝道之書 2:5。雅歌 4:13)パーデスすなわちパラダイスの美しい愛らしさは,ソロモンの雅歌 4章13節のところ,羊飼なる恋人がその愛する娘に告げる言葉の中に表現されています,『わが妹,わが花嫁は閉じた園,閉じた園,封じた泉のようだ。あなたの皮膚は,もろもろの良き実,ヘンナとナルドをもつざくろのパラダイスである。ナルド,さふらん,しようぶ,肉桂さまざの乳香の木,没薬,ろかい,およびすべての最上等の香料である。あなたは園の泉,生ける水の井,またレバノンから流れ出る川である。』― 雅歌 4:12-15,新世。ドーエイ訳,ヤング訳,ロザハム訳,ダービイ訳。

      28 エデンの園の楽しみを最も多くつけ加えたのは何でしたか。園が取りかこまれていたことは,罪の入つた後に生じた事柄によりどのように示されましたか。

      28 しかし,最初の男アダムと彼の完全な妻エバにとつて,エデンの楽園をさらにいつそう美しくするものがありました。それはそのよろこびと楽しみをいちばん多くつけ加えました。これは彼らの創造主でもあり,愛のみこころを持たれる天的な御父,ヱホバ神の臨在でした。ヱホバ神は,すばらしい仕方でその園の中を歩き,御自分の津法とみちびきを人間に与えました。ヱホバ神の臨在は,そのエデンの園なるパラダイスをきよめ,それを神聖な生活の場所にしました。(創世 2:19-25; 3:8,9)アダムとエバが,自分たちの創造主にして父なる神に対して罪を犯し,そして,神聖さを破つたときに,両人が地的なパラダイスから追い出され,外部の呪われた地上で罪人として死なねばならなかつたことは全く当然でした。エデンの園またはエデンのパラダイスが,すくなくとも目に見えぬ御使の見張りによつて,取りかこまれていた所または垣でめぐらされていたところという事実は,創世記 3章23,24節(ドーエイ訳)の言葉の中に示されています,『そして,主なる神は,地をたがやすために,楽しみのパラダイスから彼を追放した。彼は地から取られた者である。神はアダムを追い出して,楽しみのパラダイスの前にケルビムと,どの方向にもまわる燃える剣を置いて,生命の木に達する道を守らせた。』

      29 アダムが死んだとき,彼がパラダイスに戻つたかどうかについては何が言えますか,アベルが殺されたとき,彼がパラダイスに行つたかどうかについては何と言えますか。

      29 エデンの外でアダムは930歳まで生きました。アダムが死んだとき,パラダイスはまだ存在していましたが,それは,宗教牧師の教えるようにこの地球の中心には存在せず,地球の表面に存在していたのです。しかし,アダムは,そのパラダイスに戻りませんでした。アダムは,自分の体がもともと取られた地に戻りました。彼の魂はショール又はハーデスに棄ておかれない,と述べる詩篇 16篇10節は,最初のアダムなる彼について,預言したのでなく,『最後のアダム』なるイエス・キリストについて預言しました。生ける魂であるアダムは,罪を犯し,パラダイスの創造主なる神に反逆した罰として死にました。(エゼキエル 18:4,20。創世 2:7)アダムの敬虔な息子アベルが,しつとの心を持つたその兄カインに殺されたとき,アベルはパラダイスに入りませんでした。しかし,彼の血はエデンのパラダイスの外の地から神に叫び求めました。―創世 4:1-11。

      30 パラダイスと,死を見ぬために移されたエノクについては何と言えますか。

      30 アダムは,エノクの誕生を見ました。彼はアダムから7代目の人にあたります。神聖な生活をしたエノクは『神と共に歩み』その予定の時に神はエノクを取られました。エノクは,死を見ぬように取られたとき,そのときまだ存在していたパラダイスに入りませんでした。ヘブル書 11章5節によると,『彼は見えなくなつた。』彼の神の奇跡により平和な仕方の中に死にました。そして,臨終の苦しみを味わなかつたのです。彼は神をよくよろこばしたので,神の記憶の中に大切にとどめられています。神の予定の時にエノクは,義者の復活に参加するでしよう。(使行 24:15。ヨハネ 5:28,29)エデンの最初の園は,ノアの日の洪水で消滅したため,いまはもはやありません。エノクは,死人からよみがえされるとき,この地上に復興するパラダイスの中に復活されるでしよう。

  • 私たちの霊的なパラダイスを保つ
    ものみの塔 1959 | 5月15日
    • 私たちの霊的なパラダイスを保つ

      1 何時パラダイスは,この地に復興しますか。そして,誰がその中でイエスと共にいますか。

      ハルマゲドンの戦いの後に,勝利を得る神の御国は地上にパラダイスを復興するでしよう。そのわけでイエスが神の御国の忠実な証者として死んだ日,そして同情心を持つた犯罪者が,御国に入るとき彼のことをおぼえていてもらいたいとイエスに頼んだ日に,イエスは『あなたはパラダイスで私といつしよにいるであろう。』と言つて神の取りきめに一致した言葉を語つたのです。王であるイエス・キリストは,その天的な力によつて,復興されるパラダイス内に目に見えぬ状で臨在するでしよう。アベル,エノク,そして(西暦)33年の五旬節以前の時の他の忠実な人々は,死人の中からよみがえされてその地的なパラダイス内の『生命の復活』を受けます。彼らはこのようにしてパラダイス内でイエスと共になります。後に,悪事をした犯罪者が『裁きの復活』に対する王の召に答えるとき,彼は地的なパラダイス内に入り,自分といつしよに杭につけられたイエスが『新しい地』の王として支配していることを学ぶでしよう。その犯罪者は,『あなたはパラダイスで私といつしよにいるであろう』との希望を与えたイエスの言葉を思い起すでしよう。彼はつねに従順であるなら,イエスと共に永久にとどまることができます。―ヨハネ 5:28,29。

      2,3 (イ)イエスがその犯罪者に語つたとき,パラダイスは存在していましたか。(ロ)なぜパウロの引き上げられた霊的なパラダイスさえも,そのとき存在していませんでしたか。

      2 1900年のむかし,イエスがその言葉を述べた時には,地的なパラダイスは存在していませんでした。また,パウロが後日に引き上げられた霊的なパラダイスも存在していませんでした。パウロはそこに引き上げられ,口に言い表わせない,人間が語つてはならない言葉を聞いたのです。―コリント後 12:4。

      3 イエスが苦しみの杭の上で犯罪を犯した奴隷のように死んだとき,彼の使徒や他の弟子たちは散らされました。そして,地的なものも霊的なものも,パラダイスの美を持つているものは何一つないように見えました。『巨大な竜,すなわち悪魔とか,サタンとか呼ばれ…年を経たへび』の世界制度は,神の女のすえのくびすを砕いてその勝利に繁栄しているように見えました。(黙示 12:9。創世 3:15)ゲッセマネの庭でイエスを捕えた敵共にむかい,イエスが言われた通りになりました,『今はあなた方の時,また,やみの支配の時である。』(ルカ 22:53,新口)そのやみの時にヱホバの預言的な言葉は成就しました,『万軍の主は言われる,「つるぎよ,立ち上つてわが牧者を攻めよ。私の次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て,その羊は散る。私は手をかえして,小さい者どもを攻める。」』(ゼカリヤ 13:7,新口。マタイ 26:31)そのときイエスの弟子たちは,イエスの言つた通りの行いをしました,『あなた方は泣きかなしむが,この世は喜ぶであろう。あなた方は憂えている…あなた方は散らされて,それぞれ自分の家に帰り,私をひとりだけ残す時が来るであろう。』(ヨハネ 16:20,32,新口)イエスの復活の日になつてさえも,神の御国の希望はすつかりなくなつたように見えました。その日,彼の二人の弟子は落胆した調子

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