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信仰と希望によって保護されるものみの塔 1975 | 5月15日
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への関心の急激な高まりは確かに,キリスト教世界の宗教指導者たちの失敗を強調するものです。教育があるとされる人々までが,易者に相談したり,占星術に手を出したり,“幸運”のお守りを身につけたり,また世界のある所では,偽りの神々を呼び出す祈祷師に病気を直してもらおうとします。そのような人々のほとんどは,自分たちのしていることを聖書が罪としているということを知ると,非常に驚くでしょう。彼らは,神のことばが何と述べているかを教えられていないのです。彼らの牧師は,そうした点を彼らに教えず,彼らを悪霊の攻撃にさらしてきました。
死に対する恐れに負けないよう保護されている
19 ヘブライ 2章14,15節によると,サタンは人々を支配するためにどんな強力な手段を用いてきましたか。
19 悪霊につかれたり悩まされたりすることのほかに,サタンが人類を支配するために利用してきた別の強力な手だては,死に対する恐れです。ヘブライ 2章14,15節がこのことについて何と述べているかを考えてください。イエス・キリストはここで,「死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめる」立場にあるかたとして語られています。わたしたちはまた,イエスが,「死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放する」ことができることも教えられています。
20 人々を奴隷状態にしておくために,サタンは暴力による死に対する恐怖をどのように利用してきたか,例をあげて説明してください。
20 人間は一般に,暴力的な手段によって命を早く絶たれることを恐れます。これは疑問の余地のないところです。この聖句の中で言及されている死はこの種の死です。悪魔サタンは,そのような死に対する恐れを最大限に利用してきました。悪魔は,この恐れを利用して巧みに人間を操り,自分の命令を行なわせようとします。そのことは今世紀に起きた事件によく示されています。一例を挙げますと,ナチス・ドイツにおいては多くの人々が,上官の命令したことを行なわない場合の結果を恐れました。彼らは処刑されることを恐れました。そのために自分の良心の命令にさからい,人類に対する卑劣な犯罪を犯しました。
21,22 暴力によって命を取られることに対する過度の恐怖からエホバの献身したしもべたちを自由にするのは何ですか。
21 しかしながら,神から与えられたわたしたちの信仰と希望は,恐怖のあまり,正しいと自分が知っていることから身を引き,結果として自らの良心を損い,神の恵みを失うということのないよう,わたしたちを保護してくれます。わたしたちはむやみに恐れる必要はありません。なぜなら,エホバがわたしたちを愛してくださり,わたしたちの命を貴重なものと見てくださることを知っているからです。イエス・キリストの,慰めを与えることばに注意してください。「わたしの友たちよ,あなたがたに言いますが,体を殺しても,そののちもう何もできない者たちを恐れてはなりません。しかし,だれを恐れるべきかをあなたがたに示しましょう。殺したあとにゲヘナに投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうです,あなたがたに言いますが,このかたをこそ恐れなさい。すずめ五羽はわずかな価の硬貨二つで売っているではありませんか。それでも,その一羽といえども神のみまえで忘れられることはありません。ところが,あなたがたの髪の毛までがすべて数えられているのです。恐れてはなりません。あなたがたはたくさんのすずめよりも価値があるのです」― ルカ 12:4-7。
22 なるほど人間は体を殺すことができます。しかし,魂を永遠に滅ぼすことはできません。(マタイ 10:28)この場合の「魂」とは何でしょうか。それは人が所有するところの,神から与えられた,生きた者となる権利です。人間はその人を神の備えから除外して,再び生きることを不可能にすることはできません。ですから,死に対する恐怖に負けない人,そして忠誠を保つ人はみな,たとえ命を取られても,神の見地に従えば生きつづけているのです。エホバは彼らの命の権利を守られます。彼らに関する詳細な事柄を何一つお忘れになることはありません。彼らの性格,精神的な成長,生活の中で得た経験などを記憶しておられます。そしてエホバはそのような人々を復活させられます。―コリント第二 1:8,9。
23 死の危険に遭遇する時,信仰と希望はどのようにわたしたちを強めますか。
23 復活に関する神の約束への信仰は,たとえ死を意味することになろうとも正しいことを行なう力をわたしたちに与えてくれます。その信仰は,死からよみがえらされてから享受するとこしえの命のほうが,現在の幾年かの命よりもはるかに貴重であることを認識させてくれます。そしてその永遠の命を得る機会を危うくするようなことがないよう,わたしたちを守ってくれます。信仰は,古代の人々のためにもそのような働きをしました。彼らについては,聖書のヘブライ人への手紙が次のように述べています。「[彼ら]は,何かの贖い[正しいことを少し曲げること]による釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです」― ヘブライ 11:35。
24 信仰はイエス・キリストをして何に耐えさせましたか。
24 イエス・キリストに完全な忠誠を保たせたのも,復活させて報いを与えるエホバの能力に対する不動の信仰でした。イエスがどんなことに耐えられたかを考えてください。イエスは,ののしられ,平手でたたかれ,こぶしでなぐられ,つばをはきかけられ,むちで打たれ,最後には最悪の犯罪者でもあるかのごとくに刑柱にくぎ付けにされて死なれました。それでもイエス・キリストは決して動揺されませんでした。イエスは報いを見失われなかったのです。信仰を強めるなんとすばらしい模範をイエスはわたしたちのために残してくださったのでしょう。このことをヘブライ 12章2,3節は次のように述べています。「彼は,自分の前に置かれた喜びのために,恥をものとも思わず苦しみの杭に耐え,神のみ座の右にすわられたのです。そうです,罪人たちの,自らの益に反するそうした逆らいのことばを耐え忍んだかたのことを深く考えなさい。それは,あなたがたが疲れて,あなたがたの魂が弱り果ててしまうことのないためです」。
25 今ある命がすべてではないという真理に一致して生きることからどんな益が得られますか。
25 今ある命がすべてでないことは確かです。この事実に一致して生きるなら,わたしたちは物質中心の人々が送る空虚でむなしい生活を避けることになります。死ぬ恐れがある時でさえも,今生きている喜びを失って将来を悲観したり,不安に思ったりすることはありません。感謝すべきことに神は,心から真理を探し求める者たちがしっかりした希望と堅い信仰を持つことができるようにしてくださったのです。
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満足のいく生き方を追い求めるものみの塔 1975 | 5月15日
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満足のいく生き方を追い求める
1 今日非常に多くの人々が生活に真の満足を見いだしていないのはなぜですか。
地球上の住民の大半は,生活に真の満足を見いだしていません。多くの人は,死と死者に関する偽りの宗教の教えの故に奴隷状態にあります。さらに他の人々は絶望感に陥りつつあります。幾百幾千万という人々は,真に満足のいく生き方を追求し始めることができるよう解放を切に必要としています。次のことを考えてみましょう。
2-4 死者についての信仰は,非キリスト教宗教に属する人々にどのような影響を及ぼしていますか。
2 アジアの大部分,そしてアフリカの多くの地域では,非常に多くの人々が,死んだ先祖を終生供養しなければならないと信じています。彼らは故人となった親族の位はいの前で香をたき,祈り,花を供え,また食物をささげることさえします。なぜそのようなことをするのでしょうか。そうした崇敬の行為は,次の世での死者の生活を安楽にし,また死者がうらみを持つ霊になるのを防ぐことができると教えられているからです。
3 とりわけ喪と葬式に際しては,遺族は多くの費用をかけて死者を助けるための努力をします。
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