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    ものみの塔 1965 | 5月15日
    • 復活を受ける死人

      「また,死人の復活については,神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく,生きている者の神である」― マタイ 22:31,32。

      1 復活のとき,よみがえった多くの人はなぜ驚きますか。

      死者が復活する希望を抱いた人は,むかしから大ぜいいました。しかし復活のことを知らず,そのような望みを持たなかった人も無数にいます。その人々の宗教は復活とは別のことを教えました。地を治める神の国の下で,全能の神の力によって死からよみがえらされる時,その人々は驚嘆しますか。

      2,3 (イ)昔からあるどんな本が,権威をもってそれに答えますか。その初めのほうと終わりのほうの章は,どのようにその事を示していますか。(ロ)復活に関して,その本の最後の記述は何を述べていますか。

      2 権威をもってこの質問に答える唯一の本は,昔からある宗教の本です。神の愛するみ子が王となって治め,全人類を祝福する神の国によって死人がよみがえらされる事を教えているのは,この本だけです。この特異な本は,完成後1900年を経た今日でも,宗教にかぎらずあらゆる本の中で第一の地位を占めている聖書です。聖書は最初の50章の中ですでに死人の復活のことを述べています。その最後の22の章は,(1)神の忠実なみ子イエス・キリストの復活(2)イエスの忠実な弟子たちの受ける「第一の復活」(3)人類一般の復活について述べています。(黙示 1:17,18,5; 2:10; 20:4-6; 12:14)復活に関する最後の記述の中で,聖書の最後の本を書いた人は次のことを述べました。

      3 「また見ていると,大きな白い御座があり,そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って,あとかたもなくなった。また,死んでいた者が,大いなる者も小さき者も共に,御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが,もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ,この書物に書かれていることに従って,さばかれた。海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおのそのしわざに応じて,さばきを受けた。それから,死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である」― 黙示 20:11-15。

      4 ヨハネはどんな人々がよみがえったのを見ましたか。少なくともその時に,人々は至上権に関して何を知りますか。

      4 右に引用した12節において,筆者のクリスチャン使徒ヨハネは,よみがえった者が善人と悪人のいずれであるとも述べていません。その事に注目して下さい。ヨハネは「死んでいた者が,善人も悪人も共に……見えた」とは言わず,「死んでいた者が,大いなる者も小さき者も共に……見えた」と書いています。つまりこれはあらゆる種類の人です。しかし大小にかかわりなくそのすべては,全創造のさばき主,至上者である全能の神の御座の前に来ました。そのとき彼らは,たとえ以前知らなかったとしても,詩篇 83篇18節(文語)が至上のさばき主なる神に述べた次のことを知るでしょう。「然ればかれらはエホバてふ名をもち給ふ汝のみ全地をしろしめす至上者なることを知るべし」。それで死者も,エホバの名をお持ちになる至上の神のさばきを逃れることはできません。

      5 黙示録 20章11節から14節を書いたとき,ユダヤ人のヨハネはなぜシェオールの語を使わなかったのですか。

      5 死とは死んでいる状態です。しかし黙示録 20章11節から14節に預言されている死人は,どこから出てきますか。13節には,「海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し(た)」と書かれています。海が何であるかは,だれでも知っています。また多くの人が海で死んだことも事実です。しかし黄泉とは何ですか。たいていの人は間違った,つまり聖書の教えとは違う説明を聞かされてきました。使徒ヨハネはヘブル人すなわちユダヤ人のクリスチャンでした。黙示録 20章11節から14節は,当時の国際語,通俗ギリシャ語で書かれ,ギリシャ語のヘーデース(黄泉)がそこに使われています。ヨハネがヘブライ語で黙示録を書いたならば,ヘブライ語のシェオール(陰府)を使ったに違いありません。事実,黙示録の現代ヘブライ語訳では,シェオールが使われ,中東で読まれたシリア語訳には類語のシウルが使われています。

      6 聖書全体の中でシェオールとヘーデースはどのように使われていますか。そこにいる者を知るならば,同時に何を知ることになりますか。

      6 つまり霊感のヘブライ語聖書とクリスチャン・ギリシャ語聖書から成る聖書全巻の中で,ヘーデース(黄泉)とシェオール(陰府)は同じものを指しているのです。ヘーデースあるいはシェオールは,死んで土の中に葬られた人間一般の墓です。事実,欽定訳すなわちジェームス王訳聖書には,ヘブライ語のシェオールを「墓」と訳したところが31箇所あります。そこで聖書をしらべ,シェオールあるいはヘーデースにいる人々を知るならば,海とは別にそこからよみがえるのがどんな人かを知ることになります。

      シェオール(ヘーデース)にいる人々

      7,8 (イ)紀元前18世紀の中東において,シェオールの語は何に関連して使われていましたか。(ロ)その後間もなくエジプトにおいて,シェオールの語は何に関連して用いられましたか。

      7 紀元前1700年以上のむかし,中東の人々は,陸で死んだ人の墓一般をシェオールと呼びました。それは海で死んだ人の墓ではありません。紀元前1750年のこと,ヨセフはさらわれてエジプトに売られましたが,責任者の兄弟たちはヨセフが殺されたと父に告げました。父のヤコブ(イスラエル)は他の子供たちの慰めを受けようとせず,「いや,わたしは嘆きながら陰府(シェオール)に下って,わが子のもとへ行こう」と言って悲しみました。(創世 37:35)22年後,ヤコブの9人の息子はききんに迫られてエジプトに食物を買いに行くことになりましたが,首尾よく食物を買って帰るため,いちばん下のベニヤミンを連れて行こうとしました。ヤコブははじめ拒絶して次のように語っています。「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に,ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば,あなたがたは,しらがのわたしを悲しんで陰府(シェオール)に下らせるであろう」。(創世 42:38)その後ベニヤミンが奴隷としてエジプトに留められそうになった時,ヤコブの4番目の息子ユダはその父の言葉をくり返しています。(創世 44:29)ユダは次のように述べました。

      8 「この子供がわれわれと一緒にいないのを見たら,父は死ぬでしょう。そうすればしもべらは,あなたのしもべであるしらがの父を悲しんで陰府(シェオール)に下らせることになるでしょう」― 創世 44:31。(ギリシャ語七十人訳はシェオールをヘーデースと訳しています)

      9 ヤコブは臨終の床で,自分がだれと共に横たわると述べましたか。

      9 どうなるかと思われたその時,ヤコブの愛した息子ヨセフはエジプトで生きていたばかりか,食糧の管理者となっていたことがわかったのです。それはヤコブの息子全部の幸福な再会となりました。年老いたヤコブはエジプトに呼ばれ,147歳の生涯の残りの時をそこで過ごすことになりました。死期の近づいたヤコブは,エジプトの総理大臣となった息子ヨセフを呼び,「わたしが先祖たちと共に眠るときには,わたしをエジプトから運び出して先祖たちの墓に葬って下さい」と告げました。(創世 47:30)ヨセフはこの言葉通りにすることを誓いました。

      10 (イ)死ぬ間際のヤコブは,息子たちにむかい,自分がだれのもとに集められると述べましたか。(ロ)死んで葬られたとき,ヤコブはどこに,まただれのもとに行きましたか。

      10 ヤコブは臨終の床で12人の息子を祝福し,更に次のことを告げています。「わたしはわが民に加えられようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に,わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。そのほら穴はカナンの地のマムレの東にあるマクペラの畑にあり,アブラハムがヘテびとエフロンから畑と共に買い取り,所有の墓地としたもので,そこにアブラハムと妻サラとが葬られ,イサクと妻リベカもそこに葬られたが,わたしはまたそこにレアを葬った」。(創世 49:29-31,33)ヤコブの臨終の願いは聞き届けられ,こうしてアブラハム,イサク,ヤコブの遺骸は同じ場所すなわち後にユダの領地となったマクペラのほら穴に葬られました。(創世 50:12-14)それで遂にヤコブは,息子ヨセフのところにではなく陰府(シェオール)の先祖のところに下りました。

      11 (イ)イエス・キリストが地上におられた時,アブラハムはどこにいましたか。(ロ)アブラハムに関連したルカ伝 16章22節から26節において,イエスがたとえを語っていることは,どうしてわかりますか。

      11 アブラハム,イサク,ヤコブがシェオール(陰府)にいることは,こうして聖書から証明されます。何世紀ものち地上にいたアブラハムの子孫イエス・キリストが,「ある金持」と「ラザロという貧乏人」について語った時,アブラハムはなおシェオールにいました。シェオールまたヘーデースに関する聖書の教えを知る私たちは,「金持」と「貧乏人」についてイエスの語った事柄がたとえ話であったに相違ないことを知っています。イエスは比喩を用いたのであって,アブラハムもたとえとして用いられているのです。この事を知るため,ルカ伝 16章22節から26節にあるイエスの話の言葉づかいに注目して下さい。

      12 イエスのこのたとえの中で,アブラハムと黄泉(ヘーデース)はどのように述べられていますか。

      12 「この貧乏人がついに死に,御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉〔ヘーデース〕〔ヘブライ語でシェオール,シリア語でシウル〕にいて苦しみながら,目をあげると,アブラハムとそのふところにいるラザロとが,はるかに見えた。そこで声をあげて言った,『父,アブラハムよ,わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって,その指先を水でぬらし,わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った,『子よ,思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け,ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは,彼は慰められ,あなたは苦しみもだえている。そればかりか,わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって,こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし,そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』」。

      13 イエスの言葉を文字通りにとるかどうかを考慮する際に,読む人は何を自問すべきですか。

      13 さて次のように自問してごらんなさい。イエスの言葉は,全身できものだらけのラザロの遺骸が天使の手でヘブロンの町の入口マクペラの洞穴にたずさえられ,アブラハムの死んだ妻サラを押しのけて,アブラハムのふところに入れられたという意味ですか。またアブラハム,イサク,ヤコブはみなヘーデース(黄泉)すなわちシェオール(陰府)にいます。ではイエスの言葉は,「金持」の葬られた場所すなわち黄泉あるいは陰府に火が燃えているという意味ですか。黄泉あるいは陰府にいる全部の人ではなく,一部の人だけが火の苦しみを受けるのですか。黄泉また陰府にいる人々は互に見,また「大きな淵」をへだてて話をできるのですか。また黄泉また陰府には指さきをぬらす水があるのですか。

      14 (イ)「金持」と「ラザロ」は,アブラハム,イサク,ヤコブの墓とされているところに今日葬られていますか。(ロ)イエスのたとえに関連して,聖書の教えによれば,文字通りの黄泉(ヘーデース)また陰府(シェオール)では何をすることがありませんか。

      14 聖書を信仰している人の多くがこの聖句を読むと,これはたとえ話ではなくて物事の実際の状態だと言います。もしそうとすれば,イエスの言葉はおかしなものになります。それはヘーデース(黄泉)またシェオール(陰府)について,聖書の他の部分に述べられている事柄と矛盾します。今日,中東の町ヘブロンの回教寺院をおとずれ,アブラハム,イサク,ヤコブの埋葬場所と言われる墓を見てごらんなさい。人々は,貧乏人のラザロと「ある金持」(いわゆるダイビーズ)もそこに葬られていると言いますか。そのような事はありません。そのうえ聖書によれば,黄泉また陰府は一部の死者にとって楽園,他の死者にとって火の責苦の場所という風に変化するものではありません。それはあらゆる点において沈黙と無活動の場所です。そこにいる死者は語ることをせず,神をほめることさえしません。黄泉また陰府には,知恵も知識もはかりごともないのです。―イザヤ 38:18。伝道の書 9:5,10。詩 6:5。

      15 イエスはたとえの中でアブラハムをどのように用いていますか。なぜそれは適切なことですか。

      15 正しい心を持つ聖書の読者ならば,ルカ伝 16章19節から31節にあるイエスの言葉がたとえ話であることを理解するに違いありません。そしてイエスのたとえの中で,アブラハムが天の父エホバ神を表わしていることを理解するでしょう。エホバ神はアブラハムに対し,そのすえすなわち子孫によって天下の民を祝福することを約束されました。アブラハムが神の言葉に従って息子イサクを犠牲としてささげたように,エホバ神はみ子イエス・キリストを犠牲にされました。イエス・キリストは天下のすべての民を祝福するとアブラハムに約束されたすえです。―創世 22:1-18。ヨハネ 3:16。

      16 従って金持ちとラザロはだれを表わしていますか。この説明は何に基づいていますか。

      16 従って「ある金持」と「ラザロという貧乏人」は,実際の人物ではありません。それぞれの人は単に二つの級に属する人々を表わしているのです。一つの級は大いなるアブラハム,エホバ神から恵まれた立場にあったのに,それを失ったという意味において死にました。そしてその後地上で宗教的に経験する事柄から苦しみを受けます。他の級は宗教的に恵まれない立場にはじめおかれ,そのような立場に関しては死にました。そして天使の力に導かれ,犠牲となったみ子イエス・キリストを通して大いなるアブラハム,エホバ神の恵みの中に入れられます。イエス時代,族長アブラハムの子孫であった人々の間には,宗教的に見て二つの級があり,それぞれが実際に経験した歴史上の事柄に照らして,イエスの預言的なたとえ話をこのように理解し,説明できます。a

      17 アブラハム,イサク,ヤコブはいま何を待っていますか。アブラハムはその事に対する信仰をどのように表わしましたか。

      17 陰府(シェオール)のアブラハム,イサク,ヤコブは,黙示録 20章12節から14節の成就を待っています。その成就する時,シェオールは死人を出し,彼らは死人の中からよみがえるでしょう。神から命ぜられた通り愛する息子を犠牲にしようとした昔のアブラハムは,死者の復活に信仰を表わしました。ヘブル書 11章17節から19節はその事を述べています。「信仰によって,アブラハムは,試練を受けたとき,イサクをささげた。すなわち,約束を受けていた彼が,そのひとり子をささげたのである。この子については,『イサクから出る者が,あなたの子孫と呼ばれるであろう』と言われていたのであった。彼は,神が死人の中から人をよみがえらせる力がある,と信じていたのである。だから彼は,いわば,イサクを生きかえして渡されたわけである」。

      18 アブラハムがイサクを受け戻した事は,何を表わしていましたか。それは詩篇のどの言葉の成就ですか。

      18 このようにアブラハムが祭壇の上から息子イサクを生きたまま渡されたことは,大いなるアブラハム,エホバ神がひとり子イエス・キリストを復活させて死から受け戻すことを表わしていました。このことは詩篇 16篇10節の成就です。「あなたはわたしを陰府(シェオール)に捨ておかれず,あなたの聖者に墓を見させられないからである」。

      19,20 (イ)復活に関してイエスの論じた事柄から,アブラハム,イサク,ヤコブが確かに復活することは,どのように証明されますか。(ロ)こうしてイエスは神のどんな目的を示しましたか。

      19 アブラハム,イサク,ヤコブがやがて復活することは確かです。イエス・キリストの言葉は,それをますます確かなものにしています。イエス時代に存在した一つの宗派サドカイ人は死者の復活を信ぜず,復活の不合理なことを証明しようとして,イエスにこうかつな質問をしました。彼らは7人の夫を持った女について尋ねました。

      20 彼らが問題にしていることは,復活の際,神にとって何の妨げにもならない事を示して,イエスは次のように言われました。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから,思い違いをしている。復活の時には,彼らはめとったり,とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。また,死人の復活については,神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく,生きている者の神である」。(マタイ 22:29-32)つまりこれら3人の族長が永久に死んだままになっているとすれば,神はアブラハム,イサ,ヤコブに関して「わたしは……神である」とは言われなかったに違いありません。むしろ「わたしは……神であった」と言われたことでしょう。しかしこれら3人の忠実な人を復活させ,再び「生きている者」にするご自身の目的を知る神は,「わたしは,(彼らの)神である」と言われました。―マルコ 12:24-27。

      21 どんな意味において,3人の族長は神の前で「生ける」者ですか。

      21 アブラハム,イサク,ヤコブが復活して再び生きることは定まっているため,モーセに告げられた神のことばは,すでに生きているかの如く,彼らを「生ける」者と呼んでいます。ルカ伝 20章37,38節によれば,イエスはこう言われました,「だが死人のよみがえることは,モーセでさえも,柴の話の中でエホバを『アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神』と呼んだとき,これを明らかにした」「神は死にたる者の神にあらず,生ける者の神なり。それ神の前には皆生けるなり」。(新世と文語)アラビアの荒野の燃える柴のところでエホバ神がモーセに語ったとき,アブラハム,イサク,ヤコブが生きていたという意味ではありません。モーセの時代に彼らが生きていたとすれば,シェオールまたヘーデースからよみがえる必要はなく,エホバの言葉は復活があることの証明にならなかったでしょう。しかし復活のあることは神のお目的であるゆえに,神はこれら3人の族長がすでに生きているかのように言われたのです。やがて復活があるという観点からすれば,彼らはみな神の前で「生ける」者でした。

      先祖たちはどうか

      22 (イ)アブラハムの先祖に関してどんな質問が起きますか。その答えはどのように得られますか。(ロ)アブラハムは死ぬ時だれのもとに行きますか。その事は何時おきましたか。

      22 しかしここでアブラハムの先祖たちについて考えなければなりません。何千年も前に死んだこれらの人々はどこにいますか。彼らも復活を受けますか。たしかな答えはどこから得られますか。文字に書かれた神のことばからです。創世記 15章15節によれば,エホバ神は約束の地にいたアブラハムに,「あなたは安らかに先祖のもとに行きます。そして高齢に達して葬られるでしょう」と告げました。この言葉は90年後に成就しました。「アブラハムは高齢に達し,老人となり,年が満ちて息絶え,死んでその民に加えられた。その子イサクとイシマエルは彼をヘテびとゾハルの子エフロンの畑にあるマクペラのほら穴に葬った。これはマムレの向かいにあり,アブラハムがヘテの人々から,買い取った畑であって,そこにアブラハムとその妻サラが葬られた」― 創世 25:8-10。

      23 アブラハムは死んでどの民に集められましたか。従ってその人々についても,何が真実ですか。

      23 このようにして,神が言われた通り,アブラハムは安らかに先祖のもとに行き,その民に加えられました。アブラハムの先祖とはだれであり,その民とはだれでしたか。アブラハムの父は,カルデヤ人の町ウルの人であったテラです。創世記 11章にしるされたアブラハムの先祖の系図は,9代さかのぼってノアの子セムにまで達しています。ノアはアブラハムの生まれる2年前に死んでいますが,セムはアブラハムの死ぬ25年前まで生きていました。死んだとき,アブラハムはその民であるこれらの人々に加えられ,その先祖であるこれらの人々のもとに安らかに行きました。従ってどういう事になりますか。アブラハムが死んでシェオールつまりヘーデース,すなわちその後イサク,ヤコブも最後に行ったその場所に行ったとすれば,ノアにまでさかのぼるアブラハムの先祖また民もシェオールつまりヘーデースにいるに違いありません。彼らはキリストによる神の国の下で死者の復活する時を待っています。

      24 アブラハムの息子イシマエルは,死んでだれのもとに集められましたか。その場所はどこですか。

      24 イサクの異母兄弟イシマエルは,アブラハムがエジプト人の仕え女ハガルによってもうけた子でした。イシマエルは137年の生涯を終え,創世記 25章17節にある通り,「息絶えて死に,その民に加えられ」ました。その民の中には,90年前イシマエルとイサクの葬ったアブラハムも含まれています。こうしてイシマエルもシェオールまたヘーデースすなわち死んで土の塵の中に横たわる人間一般の墓に加えられました。

      25 モーセの兄弟アロンは死んでだれのもとに集められましたか。それは何時のことですか。

      25 文字に書かれた神のことばは,死んで先祖に加えられた人々のことを他にも述べています。族長ヤコブがエジプトで死んで115年後に,ヤコブのひ孫の子アロンが生まれ,その3年後にはアロンの兄弟で預言者となったモーセが生まれました。アロンが123歳のとき,神は言われました,「アロンはその民に連ならなければならない。彼はわたしがイスラエル人に与えた地に,はいることができない」。それで神の大祭司アロンは,約束の地の東にあるホル山で死にました。(民数 20:23-29)同じ年の後日,エホバは預言者モーセに言われました。「あなたは……兄弟アロンのようにその民に加えられるであろう」― 民数 27:13。

      26 モーセはどこでその民に加えられましたか。彼はいまどこにいますか。

      26 この事の起こる前に,エホバはモーセに命じて,敵ミデアン人にあだを報いさせました。(民数 31:1,2)紀元前1473年,モーセの死の日にエホバは,ネボ山にのぼって約束の地を見渡すようにモーセに告げ,モーセがその民に加えられると言われました。(申命 32:48-52)モーセはこの言葉に従いました。モーセの死後に書かれた記録は次のように述べています。「かくの如くエホバの僕モーセはエホバの言のごとくモアブの地に死り エホバ ベテペオルに対するモアブの地の谷にこれを葬り給へり 今日までその墓を知る人なし」。(申命 34:5,6,文語)モーセの墓がどこにあるにしても,モーセはシェオールすなわちヘーデースに行きました。神は王キリストを用いてモーセやアロンを復活させ,そこから二人を救い出すことができます。

      27 ヨシュアと当時の人々は死んでだれのもとに集められましたか。そのとき彼らはどこに下りましたか。

      27 神の選民の見えるさばき人としてだれがモーセの後を継ぎましたか。それはヌンの子ヨシュアでした。ヨシュアはヨルダン河を渡って約束の地に選民を導き入れ,また死ぬまで神に忠実でした。ヨシュアまた当時の人々について,士師記 2章8節から10節に次のことが出ています。「エホバの僕ヌンの子ヨシュア百十歳にて死ねり ひとびとエフライムの山のテムナテヘレスにあるかれらの産業の地においてガアシ山の北にこれを葬れりかくてまたその時代のものことごとくその先祖のもとにあつめられ その後に至りて他の時代おこり(き)」。(文語)これらの人々が先祖に加えられたことは,みなシェオールすなわちヘーデースに下ったことを物語っています。

      28 (イ)ダビデ王は死んでだれと共に横たえられましたか。(ロ)西暦33年五旬節の日,使徒ペテロはダビデがどこにいると述べましたか。

      28 何世紀ものち,エルサレムのダビデはイスラエル12支族の王となりました。ダビデはエルサレムで治めた最初のユダヤ人の王です。多くの詩篇を書いたダビデは,その中でシェオールすなわちヘーデースからの救いについて何度も語っています。(詩 16:10; 18:5; 30:3; 86:13)ダビデは賢い子ソロモンが父の後を継いでエルサレムの王となるのを,生きて見ることができました。「ダビデはその先祖と共に眠って,ダビデの町に葬られた」。(列王上 2:10。使行 13:36)ダビデはシェオールすなわちヘーデースの先祖に加わりました。時は流れて西暦33年のシャブオス(五旬節)の祭の日に,ダビデはなおシェオールすなわちヘーデースにいると述べられています。その日クリスチャン使徒ペテロは,(ダビデの作った)詩篇 16篇が,約束されたダビデのすえイエス・キリストに成就したことを述べました。ペテロはダビデに関して次のように語っています,「彼は……キリストの復活をあらかじめ知って,『彼は黄泉(ヘーデース)に捨ておかれることがなく,またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。このイエスを,神はよみがえらせた。そして,わたしたちは皆その証人なのである……ダビデが天に上ったのではない」。(使行 2:1-34)ペテロの言葉によれば,ダビデの復活は将来のことです。

      29,30 (イ)女預言者ヒルダは,ヨシヤ王がだれのもとに集められると告げましたか。それは何時,成就しましたか。(ロ)ヨシヤ王以前の王すべてが,同じ場所に埋葬されましたか。

      29 ダビデの後,エルサレムの王位についた忠実な王の一人に紀元前7世紀の人ヨシヤがいます。ヨシヤは民をエホバ神の律法に立ち帰らせ,国に災が臨むのを防ぐために力をつくしました。国の前途に関し,預言者ヒルダを通して伺いを立てたヨシアは,神から次の約束を得ました。「わたしはあなたを先祖たちのもとに集める。あなたは安らかに墓に集められ,わたしがこの所に下すもろもろの災を目に見ることはないであろう」― 列王下 22:20。

      30 ヨシヤはメギドの戦いで負傷して死にました。それで後にエルサレムに臨んだ恐ろしい災いを見ることはなかったのです。ヨシヤが深い傷を負ったとき,「家来たちは彼を車から助け出し,王のもっていた第二の車に乗せてエルサレムにつれて行ったが,ついに死んだので,その先祖の墓にこれを葬った。そしてユダとエルサレムは皆ヨシヤのために悲しんだ」。(歴代下 35:22-24)ヨシヤの前に出たエルサレムの王すべてが,エルサレムにある「イスラエルの王たちの墓」に葬られたわけではありません。―歴代下 28:27; 21:20; 24:25; 32:33; 16:14。

      31,32 (イ)これら昔の人々がその民のもとに集められるとすれば,それぞれの墓について何が言えますか。(ロ)彼らはみなどこから復活しますか。どのように?

      31 これらの王たちや族長がその民に集められる,すなわち先祖のもとに行き,先祖と共に横たわるという事は,みな同じ墓に葬られるという意味ではありません。族長アブラハムが死んで「その民に加えられた」と言っても,父のテラと同じ墓に葬られているわけではありません。テラは北に遠く離れたメソポタミア渓谷のハランで死にました。またアブラハムはノアやセムと同じ墓に葬られていません。

      32 ホル山で死んだ大祭司アロンや,ネボ山で死んだモーセはその民に加えられました。しかし約束の地にあるヘブロン近くのマクペラのほら穴にその先祖アブラハム,イサク,ヤコブと共に葬られたのではありません。彼らはみなシェオールすなわちヘーデースに集められました。そのすべては死んでひとつのシェオールすなわちヘーデースに横たわっています。黙示録 20章13節によれば,死者はそこから復活するのです。

  • その2
    ものみの塔 1965 | 5月15日
    • その2

      1 (イ)ペリクス総督の前で,パウロはだれが復活すると述べましたか。(ロ)このような人々が復活することを,どのように確かめられますか。

      クリスチャン使徒パウロはかつて法廷に立ち,聖書も復活に関する聖書の教えも信じなかったローマ総督ペリクスの前に立ちました。パウロは次のように述べています。「わたしは……わたしたちの先祖の神に仕え,律法の教えるところ,また預言者の書に書いてあることを,ことごとく信じ,また,正しい者も正しくない者も,やがてよみがえるとの希望を,神を仰いでいだいているものです。この希望は,彼ら自身も持っているのです」。(使行 24:14,15)では神の国によって,すべての死人を出すシェオール(陰府)またヘーデース(黄泉)には正しくない者もいるのですか。この問いに対して確かな答えが得られます。どのようにしてですか。シェオール(ヘーデース)には,他にだれがおり,彼らの生前の立場や品行がどんなものだったかを,聖書から知ることによってです。

      正しくない者もシェオール(ヘーデース)にいる

      2 モーセは3人の反逆者とその家の者にさばきを下した時,民数紀の中で陰府(シェオール)の語をどのように使いましたか。

      2 ヘブライ語シェオール(陰府)〔ギリシヤ語七十人訳,ヘーデース(黄泉)〕は,預言者モーセの書いた聖書の最初の本創世記に4回出ています。次にこの言葉が出ているのは,やはりモーセの書いた聖書の4番目の本民数紀の中です。そこでは,イスラエル人コラ,ダタン,アビラムの家の者に関して,この言葉が2回使われています。この3人はエホバに反逆した人です。そこでエホバは預言者モーセを用いて,彼らの上にさばきを臨ませました。他のイスラエル人はこの3人の反逆者の天幕とその家の者から離れるようにまず命ぜられました。それからモーセは,さばきが神からのものであることを示して,次のように述べています。「然どエホバもし新しき事をなし給ひ 地その口を開きてこの人々と之に属する者を呑つくして生ながら陰府(シェオール)〔ヘーデース〕に下らしめなば この人々はエホバを瀆ししなりと汝ら知るべし」― 民数 16:20-30,文語。

      3 それでモーセは,罪に定められたこれらの人々の上にどんな罰が下ることを求めましたか。罰が臨んだとき,彼らはどこに行きましたか。

      3 預言者モーセは,この3家族が永遠の滅びに落ち込むことを求めず,また祈っていません。その事に注目して下さい。モーセの求めたことは,地が口を開いてこの人々を生きたまま呑み込み,彼らが視界から消え去って「陰府」(シェオール)に落ち込むことでした。この人々は陰府(シェオール)〔ヘーデース〕に行きましたか。あるいはもっと悪い所に陥りましたか。次の節(民数 16:31-33)がそれに答えています。「モーセが,これらのすべての言葉を述べ終ったとき,彼らの下の土地が裂け,地は口を開いて,彼らと,その家族,ならびにコラに属するすべての人々と,すべての所有物をのみつくした。すなわち,彼らと,彼らに属するものは,皆生きながら陰府(シェオール)〔七十人訳,ヘーデース〕に下り,地はその上を閉じふさいで,彼らは会衆のうちから,断ち滅ぼされた」。

      4,5 (イ)コラ自身はその時どのように処刑されましたか。(ロ)これらの家の者のうち,だれが罰を免れましたか。なぜですか。

      4 明らかに,張本人のコラは,このように生きながら陰府(シェオール)に落ち込んだ人々の中にいませんでした。レビ人のコラは,彼に組してモーセとアロンに反逆した250人のレビ人と共に崇拝の幕屋の庭にいました。「且またエホバの許より火いでてかの香をそなへたる者二百五十人を焼つくせり」― 民数 16:35,文語。

      5 こうして奇跡的に裂けた地と奇跡的な火によって,これら3人の反逆者とその家の者は,ほとんど同時にイスラエルの会衆から除かれました。彼らは陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)にいます。コラの息子たちは父親に組せず,従って火で滅ぼされませんでした。民数紀 26章9節から11節にあるように,「ただし,コラの子たちは死ななかった」のです。更にこれを裏づけるものとして,詩篇 42-49篇,84,85,87,88篇の表題をごらん下さい。

      6 申命記 32章22節によれば,神の表わす怒りはどこにまで及びますか。アモス書 9章2節はどのようにその事と一致していますか。

      6 聖書の5番目の本,申命記の中でモーセは陰府(シェオール)という言葉を使っています。イスラエル会衆に対するモーセの告別の歌は,偽りの崇拝によって神のねたみをひきおこす者に対して,火のような神の怒りが激しく表わされることを警告しています。エホバ神はモーセを通して次のような警告を与えました。「わたしの怒りによって,火は燃えいで,陰府(シェオール)の深みにまで燃え行き,地とその産物とを焼きつくし,山々の基を燃やすであろう」。(申命 32:22)この言葉は,エホバの火のような怒りが物事の根底にまで達するさまを描いて,私たちに警告を与えています。それは徹底的な滅びをもたらすゆえに,逃れようとした人々が陰府(シェオール)の深さにまで地を掘り下っても,エホバの怒りを逃れることはできません。滅びのさばきを執行するエホバの力の前に,人間は無力です。(アモス 9:2)エルサレムの町は山の上に建てられていましたが,神の怒りの表わされた時にそれは滅びました。

      7 コラ,ダタン,アビラムは直接にはだれに言い逆らいましたか。もしそうでなければ,もっと悪い結果になったのは,なぜですか。

      7 前述のイスラエル人コラ,ダタン,アビラムの例において,彼らはある人を予影した預言的な人物に反抗していたのです。その事に留意して下さい。預言者モーセと大祭司アロンは,同様なつとめを持つイエス・キリストを表わしていました。(申命 18:15-19。使行 3:20-23。ヘブル 3:1,2; 5:4-6; 9:23-26)地上におられた時のイエスは,言いさからう者にむかって次のことを言われました。「また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない」。(マタイ 12:32)コラ,ダタン,アビラムは,人の子イエス・キリストを予影した二人の人物モーセとアロンにさからいました。そうでなかったとすれば,家の者もろともシェオールまたヘーデースに落ち込む以上の悪い結果になったことでしょう。

      8 ベニヤミン人シメイに関してソロモンに語ったとき,ダビデ王はモーセの言葉と似た語法をどのように使いましたか。

      8 エルサレムで治めた最初のユダヤ人の王ダビデも,預言者モーセと同様な言葉を使っています。ダビデも,その王統に生まれたイエス・キリストを預言的に表わす人物でした。子のソロモンにエルサレムの王位を譲ったダビデは,ソロモンに与えた最後の教えの中で次のことを述べています。「視よ又バホリムのベニヤミン人ゲラの子シメイ汝とともに在り 彼れはわがマハナイムに往し時はげしき詛言をもて我を詛へり 然ども彼ヨルダンに下りて我を迎へたれば 我エホバを指て誓ひて 我剣をもて汝を殺さじといへり 然りといへども彼をつみなき者とする勿れ 汝は知恵ある人なれば彼になすべき事を知るなり血を流してその白髪を墓(シェオール)に下すべしと」。後にソロモンは父のこの命令を成し遂げました。―列王上 2:8,9,42-46。

      9 かつてダビデに仕えた将軍ヨアブについても,どのように同じ事が言えますか。

      9 年老いたダビデは,かつて自分に仕えた将軍ヨアブについて,後継者のソロモンに次のことを告げました。「またあなたはゼルヤの子ヨアブがわたしにした事,すなわち彼がイスラエルのふたりの軍の長ネルの子アブネルと,エテルの子アマサにした事を知っている。彼はこのふたりを殺して,戦争で流した血を太平の時に報い,罪のない者の血をわたしの腰のまわりの帯と,わたしの足のくつにつけた。それゆえ,あなたの知恵にしたがって事を行い,彼のしらがを安らかに陰府(シェオール)に下らせてはならない」。後になってソロモンは,国の平和と一致を守るため,軍人ベナヤをつかわし,エホバの祭壇に逃れようとしたヨアブを撃たせました。「そこでエホヤダの子ベナヤは上っていって,彼を撃ち殺した。彼は荒野にある自分の家に葬られた」。(列王上 2:5,6,28-34)それでヨアブの白髪が安らかに陰府に下ることはなかったのです。―創世記 42章38節とくらべて下さい。

      10 ダビデは陰府(シェオール)の用語法を理解していましたか。従ってヨアブとシメイをどこに下らせることをソロモンに告げましたか。

      10 ヨアブとシメイにつき,このような命令を子のソロモンに与えたダビデ王は,自分の意図を十分に理解していました。ダビデは自分の使った言葉の意味を正しく理解しており,陰府(シェオール)が何かを知っていました。ダビデが霊感によって書いた詩篇のうち,陰府(シェオール)という言葉は11の詩篇に出ており,正しい意味に使われています。a 詩篇16篇10節において,ダビデはイエス・キリストが陰府から復活することを預言しました。イエスの復活は,陰府(シェオール)にいる他のすべての人が復活するための基礎となりました。ダビデの子孫であり,メシヤであるイエスの治める神の国の下で,復活があります。それでヨアブとシメイを撃って陰府(シェオール)に下らせることをソロモンに命じたとき,ダビデは,これらの不従順な人から将来の生命の希望を奪って二人を永遠の滅びに陥れようとしたのではありません。ダビデはその事を知っていました。

      11 詩篇 31篇17,18節において,ダビデは悪しき者をどこで沈黙させることを願いましたか。なぜそこでなければなりませんか。

      11 シメイやヨアブのような人を下らせる場所について言えば,ダビデや他のイスラエル人の詩篇は,ダビデがソロモンに与えた命令と一致しています。詩篇 31篇17,18節において,ダビデは神にこう訴えています,「エホバよ,われにはぢを負はしめ給ふなかれ,そは我なんぢをよべばなり,願くは悪しき者に恥をうけしめ〔どこで?〕陰府(シェオール)にありて口につぐましめ給へたかぶりとあなどりをもて義しきものにむかひ みだりにののしるいつはりの口唇をつぐましめたまへ」。(文語)このダビデの祈りが,神の霊感によって書かれたことを忘れてはなりません。それで正しい用語法で正しい場所が示されています。

      12 詩篇 9篇17節から20節において,ダビデは神を忘れる国々がどうなることを神に願っていますか。

      12 霊感のダビデがしるした詩篇 9篇17節から20節は,神を無視してダビデとその民を攻める国々に関して,神に次のように願っています。「あしき人は陰府(シェオール)にかへるべし,神をわするるもろもろの国民もまたしからん 貧者はつねに忘れらるるにあらず 苦しむものの望はとこしへに滅るにあらず エホバよ起き給へ,ねがはくは勝を人にえしめたまふなかれ御前にてもろもろのくにびとに審判をうけしめたまへ エホバよ願くはかれらにおそれをおこさしめ給へ,もろもろの国民におのれただ人なることを知らしめたまへ」。(文語)

      13 ヨブ記 21章7節から14節において,ヨブはだれが陰府に下ったと述べていますか。

      13 悪人が死んでどこに行くかを述べたヨブの言葉は,ひん死の病人のうわ言ではありません。「なにゆえ悪しき人が生きながらえ,老齢に達し,かつ力強くなるのか……彼らは……その日をさいわいに過ごし,安らかに陰府(シェオール)にくだる。彼らは神に言う,『われわれを離れよ,われわれはあなたの道を知ることを好まない』」― ヨブ 21:7-14。

      14 ヨブ記 24章19,20節は,何が罪人を奪い去ると述べていますか。

      14 ヨブは罪人に関して更に次の言葉を加えています。「ひでりおよび炎熱は雪水をただちにほしからす,陰府(シェオール)が罪を犯せし者におけるも亦かくのごとし これを宿せし腹これを忘れ,うじこれを好みて食ふ,彼はもはや世におぼえらるること無く,その悪は樹の折るるが如くに折る」― ヨブ 24:19,20,文語。

      15,16 (イ)動物は死ぬとき,陰府また黄泉に行きますか。(ロ)たとえ高貴な人でも愚か者が羊のように陰府に定められているのはなぜですか。しかし正しい者はどの点で異なりますか。

      15 羊のような動物も,陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)に行きますか。たとえその死体が人間の遺骸と共に埋められても,あるいは動物の像が,動物と人間の魂の不滅を信ずる人々の墓に入れられても,そのようなことはありません。しかし多くの羊が殺されるように,人間も地位の上下,貧富を問わず,大ぜい殺されて,土の塵の中に死んでいる人間一般の墓に下りました。(詩 44:22。ロマ 8:36)コラの子たちであるレビ人は,詩篇 49篇12節から15節にこの事実を歌っています。

      16 「されど人は誉のなかに永くとどまらず亡びうする獣のごとし斯くの如きは愚なるものの途なり,然はあれどのちの人はその言をよしとせん,かれらは羊のむれのごとくに陰府(シェオール)のものと定めらる,〔殺された羊,死に牧される群れのように〕死これが牧者とならん 直きもの〔正しい者が救われる日の〕朝にかれらををさめん,そのうるはしきは陰府にほろぼされて宿るところなかるべし されど神われをうけたまふべければわが魂をあがないて陰府のちからよりまぬかれしめたまはん」。(文語)

      17 アヒトペルの助言はどのように評価されていましたか。しかし彼はだれに反逆しましたか。

      17 ダビデ王の宮廷に王の相談役として誉の高い人アヒトペルがいました。「そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。アヒトペルの計りごと皆ダビデにもアブサロムにも共にそのように思われた」。(サムエル後 16:23)しかしアヒトペルはダビデ王に反逆し,ダビデの子アブサロムの謀叛に加担しました。

      18 (イ)アヒトペルはどんな最後を遂げましたか。そしてだれと共に葬られましたか。(ロ)詩篇 55篇13節から16節において,ダビデは反逆者にどんな罰が下ることを祈っていますか。

      18 アブサロムは助言者たちを呼んではかりごとをめぐらしましたが,神はアヒトペルの授けた策略が破れるようにしたので,アヒトペルは首をつって自殺し,「その父の墓に葬られ」ました。(サムエル後 17:23)ダビデ王が詩篇 55篇に述べている裏切り者は,アヒトペルのことだと言われています。この裏切りの友について,ダビデは霊感の下にこう書きました,「されどこれ汝なり,われとおなじきもの,わが友 われと親しきものなり われら互ひにしたしき語らひをなし,また会衆のなかに在りてともに神の家にのぼりたりき 死は勿然かれらにのぞみ,その生けるままにて陰府(シェオール)にくだらんことを,そは悪事その住みかにありその中にあればなり されど我はただ神をよばん エホバわれを救ひ給ふべし」― 詩 55:13-16,文語。

      19 (イ)この点において,ダビデはだれを表わしていますか。(ロ)アヒトペルはだれを表わしていますか。この者が復活を受けないのはなぜですか。

      19 ダビデ王は,その子孫から出た最も偉大な人,御国の永遠の相続者であるイエス・キリストを預言的に表わしていました。アヒトペルはメシヤすなわちキリスト自身に対してではなく,メシヤを表わした人物に反逆したに過ぎません。それゆえアヒトペルのような反逆者が,モーセ時代のコラ,ダタン,アビラムの家の者と同じく生きながら陰府(シェオール)に下ることを,ダビデは祈ったのです。しかしアヒトペルは,真のキリストを銀30枚で敵の手に渡したイスカリオテのユダを表わしていました。従ってユダの罪はアヒトペルの罪よりもはるかに重大であり,イエスはユダを陰府の子とは呼ばず,「滅びの子」と呼びました。b イエスはまたユダを「悪魔」とも呼んでいます。(ヨハネ 17:12; 6:70,71)ユダは滅び,復活を受けません。

      20 箴言 5章5,6節および7章27節にある通り,多くの人はなぜ早く陰府また黄泉に下りましたか。

      20 イスラエル人の中にさえ,神の律法に少しも注意を払わない者がいました。そこで神は,そのような人々が他の人の手にかかって普通よりも早く陰府(シェオール)に下るようにされました。死んだ人間一般の墓に人を早く下らせる手だてとして用いられた者の中に娼婦があります。これに関して箴言 5章5,6節は次のように警告しています。「その足は死に下り,その歩みは陰府(シェオール)の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず,その道は人を迷わすが,彼女はそれを知らない」。それでみだらな女とたわむれる者は死すなわち陰府に落ち込みます。ゆえに売春の家またその地域に近づいてはなりません。「その家は陰府(シェオール)へ行く道であって,死のへやへ下って行く」。(箴言 7:27)このため多くの人が不品行を行なって陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)に行きました。

      21 箴言 9章13節から18節によれば,娼婦の甘言に乗る愚か者は,だれの仲間になっていますか。

      21 性の不品行に人を誘う娼婦の言葉に耳を傾ける愚か者であってはなりません。「彼女は……知恵のない人に向かってこれに言う,『盗んだ水は甘く,ひそかに食べるパンはうまい』と。しかしその人は,死の影がそこにあることを知らず,彼女の客は陰府(シェオール)の深みにおることを知らない」。(箴言 9:13-18)娼婦が異教の寺院と関係していても,事態は変わりません。このような宮で崇拝される偽りの神は,たとえ宗教の名の下に行なわれた不品行にしてもそのもたらす破滅から崇拝者を救うことができません。

      22 とくに娼婦に関しては,何から離れるのが「生命の道」ですか。

      22 生命の道は,娼婦が住んでその商売を行なうところとは別の方角にむかっています。「知恵ある人の道は上って命に至る,こうしてその人は下にある陰府(シェオール)を離れる」。(箴言 15:24)情欲を不法に満たす娼婦の道は,早死にする道です。

      異邦人はどうか

      23 ヨブ,アブラハムおよびアブラハムの子孫についておもに検討してのち,他の人々に関してどんな質問が起きますか。

      23 この問題について聖書から今までおもに調べたのは,契約あるいは清い崇拝によってエホバと関係を持った人の場合でした。それでヨブ,アブラハム,アブラハムの子孫イスラエル人すなわちユダヤ人あるいはヘブル人の例がとりあげられました。しかしユダヤ人が異邦人また異教徒と呼んだ人々はどうですか。死んでどこに行きますか。神のことばは何と述べていますか。その人々も陰府(シェオール)からの復活を与える神のご準備に与りますか。

      24,25 (イ)偶像崇拝者のエジプト人に対して,エホバはどんな態度をとることをご自身の民に命じましたか。(ロ)エゼキエル書 31章1節から18節において,預言者はエジプトのパロとその群衆にして何を告げましたか。

      24 偶像を崇拝したエジプト人は異教徒でした。紀元前16,7世紀に,エジプト人はイスラエル人を虐待しました。それでも預言者モーセを通してイスラエル人に与えられた神の律法は,次のように命じています。「エジプトを悪むべからず 汝も之が国に客たりしこと有ればなり 彼等の生たる子等三代に及ばばエホバの会にいることを得べし」。(申命 23:7,8,文語)預言者エゼキエルを通して「エジプトの王パロとその群衆」に告げられた言葉の中で,エジプトの王はひときわ高い木にたとえられています。またエホバ神は次のように言われました。

      25 「主エホバかく言たまふ 彼が下の国(シェオール)に下れる日に我かなしみあらしめ 之がために大水をおほひ……我かれを陰府(シェオール)に投くだして墓に下る者と共ならしむる時に国々をしてそのおつる響にふるへしめたり 又エデンのもろもろの樹レバノンのすぐれたる最美しき者凡て水にうるほふ者皆下の国において慰を得たり,彼等も彼と共に陰府(シェオール)に下り剣に刺れたる者の処にいたる 是すなはちその助者となりてその陰に座し万国民の中にをりし者なり……パロとその群衆はかくのごとし主エホバこれを言ふ」― エゼキエル 31:1,2,15-18。

      26-29 エゼキエル書 32章18節から31節によれば,陰府にはパロとその群衆のほかにだれがいますか。

      26 しかし下の陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)にいる異邦人また異教徒は,エジプトの王パロとその群衆だけではありません。エホバ神の前にあってシェオールまたヘーデースははだかです。そしてエホバ神は死んだエジプト人のほかにも多くの異邦人がそこにいる事を明らかにされています。古代エジプトに関する預言の言葉をつづけて,エホバ神は預言者エゼキエルに次のことを告げられました。

      27 「人の子よ,エジプトの民衆のために嘆き,これと大いなる国々の娘らとを,下の国に投げ下し,穴に下った者のところに至らせよ」。古代エジプト人には割礼の習慣がありましたが,無念にも彼らは死んで横たわり,割礼のない異邦人と一緒になるのです。

      28 「勇士の首領はその助け手と共に,陰府(シェオール)の中から彼らに言う,『割礼を受けない者,つるぎに殺された者は下って伏している』と。アツスリヤとその仲間とはその所におり……その所にエラムがおり,その民衆は皆,その墓の周囲におる。彼らはみな殺された者,つるぎに倒れた者,割礼を受けないで,下の国に下った者,生ける者の地に,恐れを起した者で,穴に下る者と共に,恥を負うのである……

      29 「その所にメセクとトバル,およびすべての民衆がおる。その墓はこれを囲む……彼らは昔の倒れた勇士と共に伏さない。これらの勇士は,武具を持って,〔どこに?〕陰府(シェオール)に下り……その所に北の君たち,およびシドンびとが皆おる。彼らは……殺された者と共に……下って行った者である……パロは彼らを見る時,そのすべての民衆について慰められる。パロとそのすべての軍勢とは,つるぎで殺されると主なる神(エホバ)は言われる」― エゼキエル 32:18-31。

      30 (イ)エゼキエルのあげた以外の異邦人が陰府にいますか。その事はどこに示されていますか。(ロ)イザヤの言葉によれば,バビロンの王朝の滅びはどのように耳目を驚かす大事件ですか。

      30 ここでエジプト,アッシリア,エラム,メセク,トバル,エドム,シドンなどの異邦が名をつらね,その民は陰府(シェオール)すなわち黄泉(ヘーデース)にいます。その事に注目して下さい。しかしこのほかの異邦の死者も陰府にいることは,エホバの預言者イザヤがバビロンの王に告げた言葉の中に示されています。イザヤは,ユダヤ人を70年余り捕えていたバビロンの王朝の没落を預言しました。この滅びは耳目を驚かせる大事件であるため,人類一般の墓に死んでいる者も動かされ,死の眠りからさめて驚きの言葉を出すと述べられています。

      31 イザヤ書 14章の中で,「バビロンの王」は何にたとえられていますか。

      31 エホバの預言者イザヤは,どんな木こりも歯が立たなかったのに遂に切り倒された大木に,「バビロンの王」をたとえています。このバビロンの王朝についてイザヤは次のことを述べました。

      32,33 (イ)バビロン王のくるのを見て,何が動きますか。そこにいるだれが王に語りかけますか。(ロ)「バビロンの王」は,いやしめられたどんな状態で陰府にひきおろされますか。

      32 「下の陰府(シェオール)はあなたのために動いて,あなたの来るのを迎え,地のもろもろの指導者たちの亡霊をあなたのために起し,国々のもろもろの王を〔彼らと共に埋葬された〕その王座から立ちあがらせる。彼らは皆あなたに告げて言う,『あなたもまたわれわれのように弱くなった,あなたもわれわれと同じようになった』。あなたの栄華とあなたの琴の音は陰府(シェオール)に落ちてしまった。うじはあなたの下に敷かれ,みみずはあなたをおおっている」。

      33 「黎明の子,明けの明星よ,あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ,あなたは切られて地に倒れてしまった……あなたは陰府(シェオール)に落され,穴の奥底に入れられる……もろもろの国の王たちは皆尊いさまで,自分の墓に眠る。しかしあなたは忌みきらわれる月足らぬ子のように墓のそとに捨てられ,つるぎで刺し殺された者でおおわれ,踏みつけられる死体のように穴の石に下る。あなたは自分の国を滅ぼし,自分の民を殺したために,彼らと共に葬られることはない」― イザヤ 14:4,9-20。

      34,35 (イ)このようにイザヤの預言は,陰府にいる者について何を明らかにしていますか。(ロ)この問題はどこで更に論議されますか。

      34 このようにバビロンの「王」すなわち王朝は陰府に下りました。しかし地の王や支配者たちのように尊いさまで葬られたのではありません。しかしその事を別にしても,イザヤの預言は,「地のもろもろの指導者たち」と「もろもろの王」が陰府(シェオール)また黄泉(ヘーデース)にいる事を示しています。黙示録 20章11節から13節にあるように「死も黄泉(ヘーデース)〔シェオール〕もその中にいる死人を出すとき,大きな白い御座の前に立ってさばかれる「大いなる者」とは,このような人々のことです。

      35 しかしこの問題は,この後に出る「ものみの塔」の紙上で更に論議されます。

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