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  • 生来の不滅性,それとも復活 ― どちらですか
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 生来の不滅性,それとも復活 ― どちらですか

      このページに始まる一連の四つの記事を注意深くお調べになってください。死に際して魂がどうなるかについての聖書の見解,また復活,神の裁きの日,最後の患難に関する聖書の見解が,神の言葉の主題である王国に関連して紹介されています。

      毎年3月か4月に,世界人口の4分の1余りの人々は,「キリストの復活祭」と呼ばれるイースターを祝います。復活祭の日にキリストの復活を祝うそれら十数億の人は,死後やがてよみがえらされるという希望を表明していることになります。しかし,妙なことですが,それらの人の多くは,死後の命は復活に依存しているのでなく自分の「不滅の魂」の存続に依存していると信じています。

      イースターの祝いをしない他の幾十億の人も,死後の命の希望が復活にではなく,自分の「魂」の存続に懸かっていると信じています。キリスト教世界の内外を問わず,これらの人々がいずれも地上での短い生涯の後に何かがあるに違いないと感じていることは明らかです。生を受け,死んでゆくという点では動物と何ら変わらないというのはその人たちにとって無念なことなのでしょう。その後の命を願うのはごく自然なことです。読者もそのような願いを抱いておられるかもしれません。では,死後の命はどのようにして可能になるのでしょうか。

      死後の命 ― どのように?

      様々な宗教の「聖典」を見ると,この問題には大体二つの答えが出されています。幾つかの「聖典」は,死者の「魂」もしくは「霊」はそのまま生き続けると述べています。一方,聖書は,死者が復活によって生き返らされることを教えています。―ヘブライ 11:17-19。ルカ 20:37,38。ヨハネ 5:28,29; 11:24。

      東洋の諸宗教が「魂」もしくは「霊」はそのまま生き続けると教えても驚くには当たりません。信頼できる歴史によれば,そうした信仰は東洋に起源があるからです。古代バビロニア人は,死者の魂がたくさんいる,よみの国があって,そこは男神ネルガルと女神エレッシュキガルによって治められていると信じていました。古代エジプト人も魂の不滅性を信じ,独自の「よみの国」の概念を持っていました。エジプト人は「死者の神」としてオシリスを崇拝しました。エジプト人と同様古代のペルシャ人も死後に「魂が計られる」ことを信じていました。古代ギリシャの哲学者の多くは不滅の魂というこの東洋の概念を取り入れ,西暦前4世紀にプラトンが最終的にその意味を明確にしました。

      ユダヤ教とキリスト教世界の諸宗派が,将来の命の希望は不滅の魂を持っていることに依存するという考えを受け入れたのは驚くべきことです。それは明らかに聖書が教えていることではありません。簡約ユダヤ百科事典(1980年版)も次の点を明らかにしています。「聖書は魂の不滅性の教理を述べていないし,この教理は初期の[ユダヤ人の]ラビ文学にも明確に現われていない。……やがて,人間の人格には永遠かつ不滅な部分があるという考えがラビの信条の一部となり,後代のユダヤ教ではほぼ普遍的に受け入れられた」。

      キリスト教世界の神学者たちはユダヤ教のラビに見倣い,バビロニア人,エジプト人,ペルシャ人およびギリシャ人が抱いていた,人間には不滅の魂があるという概念を取り入れました。しかし,キリスト教世界の諸教会は聖書を信じると唱えているため,キリスト教のものでないこの教えを取り入れることによって自らジレンマに陥りました。そのジレンマとは,復活という聖書の教えを固守しながら,人は不滅の魂によって死後も生き続けると教えることがどうしてできるか,というものです。

      キリスト教世界の諸教会はこのジレンマをどのように切り抜けているでしょうか。その点を,カトリック百科事典は次のように述べています。「第4回ラテラノ公会議は次のことを教えている。すなわち,神に選ばれた者であれ,神に見放されて救いにあずからない者であれ,人間はだれでも,『現在付けている自分の肉体を付けて再び起き上がる』と教える。信経と信仰告白の語法によれば,この命への復帰は肉体の復活と呼ばれる」。(下線は本誌)言い換えれば,死者の復活とは単に,不死の魂が再び肉の体を付けるということです。しかし,それは聖書が教えていることではありません。

      真の意味での復活の希望

      生来の不滅性や「肉体の復活」が聖書で教えられていないことを認める聖書学者は少なくありません。フランスのカトリックの聖書学の教授,ジョルジュ・オズは次のように書いています。「『肉体』から離れた,純粋に霊的で非物質的な実在を意味する『魂』という概念は,……聖書の中に存在しない」。「新約聖書は『肉体の復活』に一度も言及しておらず,むしろ『死者の復活』について述べている」。

      フランスのプロテスタントの教授オスカー・クルマンも,自著「霊魂の不滅か死者の復活か」の中で同様にこう述べています。「死者の復活に対するクリスチャンの期待と霊魂の不滅に対するギリシャ人の信仰との間には根本的な相違がある。……キリスト教は後になってこの二つの考えを結び付け,今日一般のクリスチャンは両者を全く混同しているが,私を含め学者の大多数が真理とみなす事柄を隠す理由は何もないと思う。……新約聖書の真髄と思想は,復活に対する信仰に全面的に支配されている。……神の新たな創造の業により,実際に死んでいる人の全存在が生き返るのである」。―(原文仏語。)

      このように,聖書に述べられている将来の命の真の希望は不滅の魂が死後生き続けるということにではなく,復活,すなわち「死者が生き返ること」に基づいているのです。聖書は極めて明確に「義者と不義者との復活がある」と述べています。(使徒 24:15)死後の事柄に関しこれほどの宗教的混乱が一体どうして生じたのか次の記事で考慮しましょう。

  • 復活,裁きの日,そして背教
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 復活,裁きの日,そして背教

      ローマ・カトリック,東方正教会およびプロテスタントの諸教会は,死者の状態や死後の命に対する希望についての聖書の明快な真理に背を向け,不滅の魂という古代の非聖書的な教えの方を取っています。すでに考慮した通り,その教義はバビロニアで生まれ,西暦前4世紀にギリシャの哲学者プラトンによって形の整ったものになりました。

      キリスト教世界の神学者たちは,男女子供を問わず生を受けたすべての人にはその人が死んだ時肉体を離れる魂が宿っていると唱えます。そして,この教えを取り入れるために,リンボや煉獄や火の燃える地獄といった場所を考え出しました。肉体から離れた魂で,天にあるとされている「パラダイス」にはふさわしくない魂はそこへ行くとされています。

      教会はまた,死者は実際には死んでいるのではない,その魂は生き続けているのだと唱えます。ですから,「命に戻る」と定義される復活という聖書の教理を正しく教えることができません。それで,神学者たちは,いわゆる肉体の復活なるものを考え出しました。そして,義者と邪悪な者の肉体は裁きの日にそれぞれの魂と再結合して,天の至福か,地獄の火の罰を受けると言います。また,そうした「魂」は裁きの日を待たずして,「天国」や「地獄」に行くことが定められたり,「リンボ」や「煉獄」などの“待合室”に行くよう定められたりすると信じるので,二つの裁きがあるという教えを考え出しました。その一つは私審判と呼ばれ,人が死んでその「魂」が肉体を離れる時に行なわれるとされており,もう一つは,総審判と呼ばれ,肉体が「復活」して,裁きの日に「魂」と再結合する時行なわれるとされる審判です。

      復活と背教

      前述のすべての神学上の考案も,カトリック教会および,幾つかの基本的な点でそれに倣う東方正教会とプロテスタントの諸教会が,復活とそれに関連のある死,また人間の魂,最終的な裁きといった問題について聖書の明確な教えにつき従わなかったために生じたものです。

      この種の背教は,キリスト教の歴史のごく初期に始まりました。キリストの死と復活からわずか20数年後,エフェソスにいた使徒パウロは,ギリシャのコリントの,組織されて間もないクリスチャン会衆に宛てて次のように書きました。「ところが,キリストは死人の中からよみがえらされたと宣べ伝えられているのに,あなたがた[油そそがれたクリスチャン]のうちのある者たちが,死人の復活などはないと言っているのはどうしてですか」― コリント第一 15:12。

      パウロが手紙を書き送ったコリントのクリスチャンの中には,依然としてギリシャ哲学の影響を受けていた人がいたのかもしれません。それより数年前,パウロはアテネでギリシャの哲学者たちに「イエスおよび復活の良いたより」を宣明したことがありましたが,『死人の復活について聞くと,ある者たちはあざけるようになり』ました。(使徒 17:18,32)魂が死後どうなるかについて,エピクロス派とストア派の学者たちはそれぞれ独自の説を持っていました。ソクラテスやプラトンの説を奉じるほかのギリシャ哲学者たちは,魂の不滅性を信じていました。いずれにしても,聖書に教えられている復活を信じていた者はいませんでした。

      コリントのクリスチャンの中には,パウロが10年後に非とした,復活に関する背教的な見方をすでに持つ者がいたとも考えられます。エフェソスにいたと思われるテモテに宛てて書いた手紙の中で,パウロが次のように警告したことを思い出しましょう。「聖なる事がらを汚すむだ話から遠ざかりなさい。そうした者たちはいっそうの不敬虔へと進み,そのことばは脱疽のように広がるからです。ヒメナオとフィレトがその中にいます。この者たちは真理からそれ,復活はすでに起きたのだと言っています。こうして彼らは,ある者たちの信仰を覆しているのです」― テモテ第二 2:16-18。

      それら背教者たちは,死亡したクリスチャンがすでに死の状態からよみがえらされているという意味で,「復活はすでに起きた」と言っていたのではありません。彼らは,生きているクリスチャンはすでに復活しており,復活は象徴的,霊的なものにすぎないと考えていたようです。そして,死者が将来復活するということを全く否定しました。こうした考えはある者たちの「信仰を覆して」いました。それで,使徒パウロはそれら背教した教師に注意するよう強く警告したのです。

      背教が「脱疽のように広がる」

      そのヒメナオという人物はパウロがテモテに宛てた最初の手紙の中で触れているヒメナオと同一人物であるに違いありません。この人物はアレクサンデルなる人物と共に,「自分の信仰に関して破船を経験し」たゆえにクリスチャン会衆から排斥されていました。パウロはテモテに,そうした背教者たちと「りっぱに戦ってゆく」よう勧めました。―テモテ第一 1:18-20。

      使徒たちは,生きている間,背教と闘う点で手本を示しました。しかし,『抑制力となる』使徒たちがいなくなるや,パウロの恐れていた事柄が現実のものとなり,背教者たちの「ことば」が『脱疽のように広がり』ました。―テサロニケ第二 2:3-12。使徒 20:29,30。

      エフェソスのヒメナオとフィレトが教えたような,あくまで象徴的な復活という考えを後に発展させたのはグノーシス派の人々でした。西暦2世紀から3世紀の初頭にかけて,グノーシス派(「知識」を意味するギリシャ語のグノーシスを語原とする)は,背教したキリスト教とギリシャ哲学および東洋の神秘主義とを結び付けました。そして,物質はすべて悪であると唱え,救いはキリストを贖い主と信ずることによってではなく神秘的な「知識」を通してもたらされると主張しました。

      しかし,グノーシス主義だけが『脱疽のように広がった』背教の唯一の形態だったわけではありませんでした。キリストとその忠実な使徒たちや弟子たちによって教えられた真のキリスト教は,4世紀までに,「真理からそれ」た他の者たちの手で腐敗させられていました。学術的な「新約聖書神学新国際辞典」は次の点を認めています。すなわち,「教会史の歩み[の中で],聖書以外からの論題や描写や考えが,パラダイスという概念に吸収されていった」という点です。またこの聖書辞典はさらに,「霊魂不滅の教理が入り込み,死者の復活の希望を含む新約[聖書]の終末論[人類と世界の最終的な運命に関する研究]に取って代わった」と述べています。

      前の記事からここまで見てきたように,カトリック教会と東方正教会は,死の現実を否定し,不滅の魂がそのまま生き続けるという異教の考えを取り入れることにより,復活と裁きに関する聖書の明快な教えからいよいよ遠く離れてしまいました。また,地獄の火や煉獄といった神の名折れとなるような教理や,肉体がよみがえらされて天で飛び回り,「地獄」で永遠の責め苦に遭うといった愚にもつかない考えを抱くに至りました。

      「脱疽」はそこで止まりませんでした。後代になって,プロテスタントの改革者たちは死,復活,最終的な裁きに関する非聖書的な独自の理論を付け加えました。それら改革者たちは,魂の生来の不滅性に関するカトリックの教理をほぼ踏襲しました。したがって,「肉体の復活」の教理をも受け入れざるを得ませんでした。プロテスタントの教会の多くは地獄の火をも教えています。とはいえ,プロテスタントの神学者たちも独創性のあるところを見せ,聖書にない教理をほかにも作り上げました。例えば,カルバン派の改革教会の中には,神はある魂が救われ別の魂が永遠の罰を受けることを予定しておられると教える教会があります。ほかにも,万人の救い,すなわち邪悪な者の魂を含むすべての魂が最終的には救われるということを信じるプロテスタント信者もいます。

      聖書の真理を堅く守る

      復活に関するヒメナオとフィレトの背教を警告した後,パウロはこう付け加えています。「しかしながら,神の堅固な土台は不動であり,それにはこの証印がついています。すなわち,『エホバはご自分に属する者たちを知っておられる』」― テモテ第二 2:19。

      魂,死,復活および最終的な裁きに関する,背教者の見解の歴史的な発展を詳しく調べ,これら肝要な事柄に対する信仰が今日混乱しているのを見て,読者はどうされるでしょうか。誠実なクリスチャンであれば,これらの事柄に関し,神のみ言葉聖書にはっきりと書かれている「神の堅固な土台」を堅く守る必要があることをこれまで以上に確信するでしょう。

      しかし,人間の魂,死,復活についての聖書の明快な教えを受け入れはするものの,最終的な裁きに関しては感情的な見方に陥り,エホバの愛ある親切をたたえるように見えながらも実際にはエホバの公正さや邪悪な者たちを滅ぼすその権利に疑いを投げ掛けるような考え方をしている人が中にはいるかも知れません。そうした疑問を解くため,次の二つの記事では,聖書に述べられている本当の意味での復活の希望を,神の王国および神の裁きの日と関連付けながら調べます。ぜひお読みになるようお勧めいたします。

      [17ページの囲み記事]

      魂,死,復活および最終的な裁きに関して聖書が述べている事柄

      人間は魂を持っているのではない。人間そのものが魂である。―コリント第一 15:45。

      魂すなわち人の全体は死ぬ。―エゼキエル 18:4。

      死は敵であって友ではない。―コリント第一 15:26。

      死後の命は復活を通してのみもたらされる。―ヨハネ 5:28,29。

      忠実さの報いは永遠の命。―ヨハネ 10:27,28。

      故意の罪に対する裁きは永劫の責め苦ではなく,永遠の死。―ローマ 6:23。

      [18ページの囲み記事]

      キリスト教世界の諸教会の公式教義

      ローマ・カトリック,英国国教会および他のプロテスタント諸教会が公式に受け入れているアタナシウス信経はこう述べています。「かの方[イエス]は天に昇られ,全能の神なる御父の右に座される。そこより生者と死者の裁きのために来られる。彼が来られると,人はすべて各々の肉体を付けてよみがえり,それぞれの業の申し開きをする。そして,善を行なった者は永遠の命に入り,悪を行なった者は永遠の火に入る」。

      [19ページの囲み記事]

      復活に関する教会の見解

      全人類の復活を論理的に証明することはまず難しいが,その適合性[それが目的にかなっていること]を示すことはできよう。(イ)魂は肉体と結び付こうとするものなので,魂がいつまでも肉体と分離していることは不自然であるように思える。(ロ)肉体は魂の犯した罪にあずかり,共に美徳を行なった故に神の公正からして肉体が魂と共に罰や報いを受けるのは当然であろう。(ハ)肉体から離れた魂は言うまでもなく不完全であるので,魂があらゆる良いものを得て幸福の極みに達するには,肉体の復活が必要であろう」― カトリック百科事典(下線は本誌)。

  • 王国と復活の希望
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 王国と復活の希望

      「神のみまえ,また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみまえにあって,またその顕現と王国とによって厳粛に命じます」― テモテ第二 4:1。

      1 これまでに生を受けた人の数を考えると,復活の希望はなぜ非常に重要なものとなりますか。しかしどんな質問が頭に浮かびますか。

      今まで何人位の人が地上で生活してきたかに関しては,140億ないし200億と,意見の幅があります。正確な数がどうあろうと,確かなことが二つあります。つまり,(1)エホバ神は,これまでに生を受けた人々の正確な人数をご存じであり,ご自分がお選びになるどんな人をも生き返らせる力を備えておられます。そして,(2)約44億人という空前の現在の世界人口は,明らかに,これまでに生を受けた人間の総数のわずかな一部に過ぎません。それで必然的に次のような結論に到達します。つまり死者の数は現在の世界人口をはるかに上回っており,その将来のどんな命の見込みも復活にかかっているということです。しかし彼らはなぜ死んだのでしょうか。彼らがもう一度生きるどんな見込みがありますか。

      2 ペテロはキリストの復活,および復活の希望とキリストの関係について何と述べましたか。

      2 西暦36年に使徒ペテロはこう述べました。「わたしは,神が不公平なかたではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人は神に受け入れられるのだということがはっきりわかります。……神は三日めにこのかた[イエス・キリスト]をよみがえらせ,さらに,彼が人びとに明らかになることをお許しになりました。民のすべてに対してではなく,あらかじめ神の任命を受けた証人たちに,このわたしたちに対してです。わたしたちは,その死人の中からのよみがえりののち,彼と飲食をともにしたのです。また彼は,民に宣べ伝えるように,そして,これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと,わたしたちにお命じになりました。彼についてはすべての預言者が証しをしています。彼に信仰を持つ者はみな,その名によって罪のゆるしを得るとです」― 使徒 10:34-43。

      3 (イ)幾十億幾百億という大勢の人々が死んだのはなぜですか。(ロ)キリストの死と復活がどのように復活の希望の根拠となっているか,説明してください。

      3 幾十億幾百億という死人が墓の中に集められている原因となっているのは,最初の人間アダムから受け継いだ罪です。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が……すべての人に広がった。……ひとりの人の罪過により,……死が王として支配した」のです。(ローマ 5:12,17)しかしキリストは死に,「霊において生かされ」ました。(ペテロ第一 3:18)イエスが流された血に対する信仰によって,「生きている者と死んでいる者」が「みな」,「罪のゆるし」を得,死という王の圧制的な支配から解放されるのです。そのために人類の大多数は復活を必要とします。そのためパウロは「死が人[アダム]を通してであるので,死人の復活もまた人[イエス]を通してなのです」と書いています。(コリント第一 15:21)キリストはマルタに対し,「わたしは復活であり,命です。わたしに信仰を働かせる者は,たとえ死んでも,生きかえるのです」と述べ,この点を確証されました。(ヨハネ 11:25)キリストの死と復活は,復活の希望の根拠となっています。

      「第一の復活」

      4,5 (イ)ヨハネは,「第一の復活」について何と書きましたか。この復活にあずかる人々には,どんな力と職務が与えられますか。(ロ)イエスは,11人の忠実な使徒たちに,彼らの将来の職務について何と言われましたか。

      4 聖書の示すところによれば,キリストは単独で「生きている者と死んでいる者」を裁かれるのではありません。使徒ヨハネは霊感による幻を書き記した際,このように書きました。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣[サタンの政治組織]もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」― 啓示 20:4,6。

      5 イエスまたその父エホバの忠実な証人として死に,将来王また審判者となる見込みを持っていた最初の人々の中に,忠節な11人の使徒たちがいました。ルカ 22章28-30節で,イエスはこれらの人々が王国において自分と共に座に着き,「イスラエルの十二部族[祭司職に携わらない部族で,人類の残りの部分を表わす]を裁く」と述べておられます。

      6 キリストが生きている者と死んでいる者を裁く時,何人の仲間の審判者がキリストを助けますか。彼らは復活させられる時,どんな変化を経験しますか。

      6 他の聖句によると,キリストの王国でその仲間の王また審判者になるというたぐいまれなこの特権は,「地から買い取られ」,「人類の中から買い取られた」14万4,000人の忠実なクリスチャンの「小さな群れ」だけのものです。(ルカ 12:32。啓示 14:1-4)これらの人々は,『彼[キリスト]の復活と同じ様になって彼と結ばれる』ため,地上で永遠に生きるという普通の,また自然な希望を断念します。(ローマ 6:5)このような人々に関してパウロは次のようにも書きました。「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。……物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。……肉と血は神の王国を受け継ぐことができず……死すべきものは不滅性を着けねばならないのです」― コリント第一 15:42-53。

      7 ある辞典は,不滅性について何と述べていますか。パウロとペテロは天的な希望に関し何と書きましたか。

      7 興味深いことに,「新約聖書神学新国際辞典」は,どんな人にも不滅の魂があるという非聖書的な考えが偽りであることを明らかにし,こう述べています。「不滅性はすべての人の現在の所有物ではなく,クリスチャンが将来に獲得するものである。コリント第一 15章42節,52節以下によると,信者は復活という変化を遂げて初めて不滅性という衣を『着ける』のである……先に復活がなければ,不滅性はあり得ない」。事実,不滅性という賞は,すべてのクリスチャンにではなく,「死人の中からの早い復活」にあずかる人だけに与えられます。その人たちのために,『朽ちず,汚れなく,あせることのない相続財産が天に取って置かれている』のです。―ローマ 8:20-22; フィリピ 3:10,11; ペテロ第一 1:3,4をご覧ください。

      「第一の復活」の時期

      8 (イ)聖書によると,「第一の復活」はいつ生じることになっていましたか。(ロ)テサロニケ第一 4章14-17節,およびコリント第一 15章51,52節の意味を説明してください。

      8 聖書はこの「第一の復活」をキリストの「臨在[ギリシャ語,パルーシア]」と結び付けています。(コリント第一 15:23)使徒パウロはこのように記しています。「主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパとともに天から下ると,キリストと結ばれて[西暦1世紀から,1918年にキリストが霊的神殿に来られるまで]死んでいる者たちが最初によみがえる(の)です」。それからパウロは,「主の臨在[パルーシア]の時まで生き残る」,そしてその後パルーシアの期間中に死ぬ油そそがれたクリスチャンたちが,直ちに復活し,「雲のうちに取り去られて空中で主に会(う)」と述べています。(テサロニケ第一 4:14-17)彼らは復活を待って墓の中で「眠る」必要はありません。死に際して彼らは『一瞬に,またたくまに変えられる』のです。―コリント第一 15:51,52,改訂標準訳。

      9 (イ)目に見えない,キリストの臨在が始まったのはいつですか。(ロ)その臨在の期間中どんなことが起こることになっていましたか。キリストの臨在の期間中に死ぬ油そそがれたクリスチャンが,「幸い」であるとされるのはなぜですか。

      9 聖書預言の成就となっている事柄が示すところによると,キリストの臨在つまりパルーシアは,非常に重要な年1914年に始まりました。(マタイ 24:3,7-14)その時,『世の王国はわたしたちの主[エホバ]とそのキリストの王国となりました』。世界を揺るがすこの出来事の後,『死んだ者たちを裁く定めの時』が到来しました。それら然るべき人々に裁きを行ない,また報いを与えるこのことは,キリストが神殿に来られた時以降,「第一の復活」にあずかる人々をもって始まりました。(啓示 11:15-18)神の王国が立てられた後に忠実のうちに死ぬ油そそがれたクリスチャンたちは「幸い」であるとされています。なぜでしょうか。彼らの復活はたちどころに生じ,直ちに天のキリスト・イエスと共になって新しい任務に就くことになるからです。―啓示 14:13。

      10 どんな理由で,14万4,000人の復活は「第一の復活」と呼ばれますか。

      10 天でキリストと共に統治すべく召しを受けた油そそがれた14万4,000人のクリスチャン全体の復活が,「第一の復活」と呼ばれるのは適切なことです。14万4,000人は「神と子羊に対する初穂」となり,その復活は時間の面で人類一般の地上の命への復活に先んじるものだからです。(啓示 14:1,4。ヤコブ 1:18)このため彼らは重要な地位にすえられます。他の人々は,これら14万4,000人の祭司・王・審判者たちを『別にして完全にされる』ことはないからです。(ヘブライ 11:40後半。啓示 22:1,2)加えて,それは地的などんな復活よりも優れています。14万4,000人の人々は,『彼の[キリストの]復活と同じ様になって』,神の霊の子たちとしての不朽,また不滅の命へとよみがえらされるからです。―ローマ 6:5。

      地的な復活

      11 啓示 20章には,どんな別の復活のことが述べられていますか。

      11 「第一の復活」があるのであれば,当然その後に続く復活もあるに違いありません。使徒ヨハネは次のように書き,その同じ章の前のところで述べた1,000年間の裁きの日に生じる事柄を描写しました。

      「そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた」― 啓示 20:12。

      12,13 (イ)残りの死人が,千年期が終わるまで復活させられないというのは,なぜ非論理的ですか。(ロ)では,啓示 20章5節で用いられている『生き返る』という表現にはどんな意味がありますか。(ハ)「命の巻き物」に最終的に名前が記される人々は,どのように決められますか。

      12 これらの「死んだ者たち」とは,同じ章の5節に言及されている「残りの死人」および「千年が終わるまで生き返らなかった」と言われている人々と同じです。これは,彼らが千年の裁きの日が終わるまで復活させられないという意味ではあり得ません。なぜなら,「第一の復活」にあずかる人々は,「裁きをする力」を与えられ,キリストと共に「千年のあいだ」「祭司」となり,『王として支配する』からです。(啓示 20:4-6)「残りの死人」が千年期の終わりまで復活させられないとしたら,彼らはだれを裁き,だれを支配し,まただれのために祭司として行動するのでしょうか。

      13 したがって,『生き返る』という表現は,1,000年間にわたる裁きの日の終わりにおける状況を指しているに違いありません。これらの人々は,最終的に人間としての完全性を得るという意味において『生き返る』ことになるのです。彼らは,エデンの園のアダムとエバの場合と同じ完全な状態に置かれます。その時エホバは,「命の巻き物」つまり「命の書」にだれの名前を書き記すべきかをどのようにして決められるのでしょうか。それは,人類に課される最終的な試みによります。(啓示 20:7-10,12,15)最終的な試みの期間中神への忠実を証明する人々は,エホバご自身から『義と宣せられ』,地上の「神の子どもの栄光ある自由」に入ります。(ローマ 8:21,33)試みに遭って失敗し,神が遣わされたケルブたちにより「命の木」に近付けないよう締め出されたアダムとは異なり,彼らは永遠の命に関する神の保証を得るのです。―創世記 2:9; 3:22-24,新。

      14 どんな点で千年期の地上の人々の復活はより勝った機会への復活となりますか。

      14 このように,キリストの1,000年の統治期間中に復活させられる「残りの死人」すべてに対し,エホバの「命の巻き物」に自分たちの名前を永久的に書き込んでもらい,神の王国の下で永遠に生きるにふさわしいことを証明する機会が開かれているので,その復活は聖書時代に復活したものの再び死んだ少数の人々の場合より勝った機会への復活です。(列王紀略上 17:17-24。列王紀略下 4:17-37; 13:20,21。マタイ 9:18,23-26。ルカ 7:11-15。ヨハネ 11:38-44。使徒 9:36-41; 20:7-12)古代の男女が死に至るまでエホバに忠実を保ったのは,メシアの王国つまり「都市」の下で「さらに勝った復活」を得るためでした。―ヘブライ 11:10,13,14,35。

      復活と裁き

      15,16 (イ)裁きの日は恐れるべきものですか。説明してください。(ロ)裁きを行なうのはだれですか。どんな事柄に基づいて裁きますか。

      15 「残りの死人」が千年期に復活させられるのは,その時「その行ないにしたがって裁かれ(る)」ためであることが分かりました。(啓示 20:12)いわゆる最後の審判の日に,かつて生きていた人々がみな過去の罪について言い開きをしなければならないという身の毛もよだつような考えは,聖書に基づくものではありません。文脈が示すところによると,神の「数々の巻き物」つまり律法の書が開かれ,よみがえらされた死人は「それらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって」,つまり神からのこうした指示に従順であるか不従順であるかによって裁かれます。

      16 だれが裁きを行ないますか。使徒パウロは,キリスト・イエスが「生きている者と死んだ者とを裁くよう定められている」ことについて書き,同時にキリストの「顕現と王国」に関して語っています。(テモテ第二 4:1)キリストと共にその千年王国の期間中「座」にすわるのは,14万4,000人の仲間の審判者たちです。(ルカ 22:28-30。啓示 20:4,6)パウロは,「あなたがたは,聖なる者たちが世を裁くことを知らないのですか」と記しています。―コリント第一 6:2。

      17,18 (イ)ヨハネ 5章29節と啓示 20章12節にはどこか矛盾したところがありますか。説明してください。(ロ)どんな意味で,ある人々は「裁きの復活へと出て来る」のですか。

      17 イエスは,1,000年間の裁きの日ともなるご自分の千年統治中に生じる事柄に言及し,こう言われました。「父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。……このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです」― ヨハネ 5:22-29。

      18 このことは,千年期まで『開かれる』ことのない「それらの巻き物に書かれている事がらにより」死者が「裁かれ(る)」と述べる啓示 20章12節と矛盾するでしょうか。全く矛盾しません。ヨハネ 5章のイエスの言葉は,後にヨハネに与えられた啓示に照らして理解しなければなりません。(啓示 1:1)「良いことを行なった者」も「いとうべきことをならわしにした者」も,その復活後に行なう「それぞれ自分の行ないにしたがって裁かれ(る)」「死者」の一部なのです。(啓示 20:13)イエスは「命の復活」と「裁きの復活[ギリシャ語,アナスタシス クリセオス]」とを対照させた際,これらの復活の最終的な結末に言及されたのです。「セアの希英辞典」はアナスタシス クリセオスを,「有罪宣告が後に続く」復活と定義しています。人は,自動的に有罪宣告を受けるために復活するのではなく,「それらの巻き物に書かれている事がら」に従うことを拒み,そうすることによって「命の書に[自分の名前を]書いて」もらえない場合には有罪宣告の裁きがその復活に続くということです。そうなれば,その人には将来に復活の見込みはなく,「第二の死」を遂げることになります。―啓示 20:14,15; 21:8。

      19 と脚注(イ)フランス語のある聖書翻訳は,ヨハネ 5章29節をどのように訳出していますか。復活が「命の」復活だったか「裁きの」復活だったかが初めて明らかになるのはいつですか。(ロ)使徒 24章15節に出てくる「義者」と「不義者」はそれぞれ「命の復活」および「裁きの復活」に相当するものですか。説明してください。

      19 フランス語のエキュメニカル訳(カトリックおよびプロテスタントの学者のグループによって出版された)がヨハネ 5章29節を,「良いことを行なった者は,命に導く復活に出て来る。悪事を習わしにした者は,裁きに導く復活に」と訳しているのは興味深いことです。人の復活の最終的な結末が明らかになって初めて,その復活が「命の復活」であったか「裁きの復活」であったかが分かるのです。a

      20 (イ)「命の水」を飲む必要があるのはだれですか。なぜですか。(ロ)次の記事ではどんな質問を検討しますか。

      20 復活させられた死者も,間近に迫っている「大患難」に生き残る「大群衆」も,「命の水」を飲む必要があります。つまりキリストの贖いの犠牲と,人類を罪と死から解放するためにエホバが設けておられるそのほかの様々な備えすべてを感謝して受け入れる必要があります。(啓示 7:9,10,14,17; 22:1,2)これらの備えは,千年王国の期間中,キリストおよびその14万4,000人の仲間の祭司である審判者たちによって適用されます。しかし,近付いている「大患難」の犠牲者を含め,死者のすべてが戻って来て裁きを受けるのでしょうか。次の記事はその点を論じています。

      [脚注]

      a 「命の復活」あるいは「裁きの復活」によみがえらされる人々を,パウロが使徒 24章15節で述べている「義者」および「不義者」と同じであると考えてはなりません。パウロは,人々が復活させられる時点の,彼らの生前の振舞いに基づく立場について語っているのです。「義者」は,「数々の巻き物」に記されている事柄に従順を示し,義にかなった行動を続けなければなりません。さもないとその復活は,「裁きの」復活になってしまいます。逆に,どんな「不義者」でも悔い改めてキリストの贖いの犠牲を受け入れ,「数々の巻き物」に記されている事柄に従うなら,彼らの復活は「命の」復活となり得ます。

      復習の質問

      □ キリストはどんな点で『復活であり,命である』と言えますか

      □ 「第一の復活」にあずかるのはだれですか。彼らはどんな活動において,王イエス・キリストを助けますか

      □ 「第一の復活」という語はなぜふさわしい用語と言えますか

      □ 千年期の後,「残りの死人」はどのような意味で『生き返り』ますか。彼らの復活はどのような意味で,聖書時代に地上の命によみがえらされた人々の復活より優れていますか

      □ 復活させられた死者はどんな事柄に基づいて裁かれますか。彼らは罪と死から解放されるため何を必要としますか

      [21ページの拡大文]

      「不滅性はすべての人の現在の所有物ではなく,クリスチャンが将来に獲得するものである……先に復活がなければ,不滅性はあり得ない」―「新約聖書神学新国際辞典」

      [23ページの図版]

      聖書は,多くの人々が地上で命へと復活させられることを示している

  • 「大患難」において生き残るか,それとも滅びるか
    ものみの塔 1982 | 7月1日
    • 「大患難」において生き残るか,それとも滅びるか

      「これらの者は去って永遠の切断にはいり,義なる者たちは永遠の命にはいります」― マタイ 25:46。

      1,2 一部の人はどんな意見を表明していますか。その意見が危険なもの,避けるべきものであるのはなぜですか。

      特定の人々が永遠の滅びを被るという考えに,ある人々は眉をひそめます。最後にはどんな人も救われると信じる万人救済派の人々の場合がそうです。西暦3世紀の昔に,宗教関係の著述家であるオリゲネスは万人のための究極的な救いという考えをもてあそびました。そこまではいかないまでも,今日クリスチャンであると唱える人々の中には,将来「大患難」で犠牲者になる人々を含め,すべての人が復活するのではないだろうかという意見を表明する人がいます。―マタイ 24:21,22。

      2 この考えを抱く人々は知らず知らず“全人類の復活”というキリスト教世界の教理に危険なほど近付きつつあるのです。主流をなす諸教会では,すべての故人の死体がよみがえらされて,天国あるいは“地獄”にある各々の魂と合体すると教えられています。しかし聖書は,キリスト教世界が考えているようなそうした“全人類の復活”や,悪人をも含めたすべての死者が復活させられて生き返らされることを教えていません。

      すべての死者が復活させられるのではない

      3 イエスはすべての人が復活させられるわけではないことをどのように示されましたか。

      3 イエスは,あらゆる人が復活させられるわけではないことを示されました。復活させられる人などいないと信じていたサドカイ人から投げ掛けられた狡猾な質問にお答えになった時のことですが,イエスは,「かの事物の体制と死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた者たち」について語られました。(ルカ 20:35)この言葉は,神が約束しておられる新しい事物の体制において,すべての人が復活させられるにふさわしい者となっているわけではないことを示しています。

      4 啓示 20章によると,死者はどこから出てきますか。しかしどんな象徴的な場所は,その死人を出すことはありませんか。

      4 啓示 20章は「第一の復活」にあずからない「残りの死人」の復活のことを扱っている章ですが,聖書はそこで「海」と「ハデス」がその中にある死人を出すと述べています。「火の湖」つまり他の箇所では「ゲヘナ」(ヘブライ語,ゲーヒンノム)と呼ばれている「第二の死」から死人が出てくるとは述べていません。(ルカ 12:5)ちょうど「海」という語が,海の深みで死に,地に埋葬するための死体が収容されなかった人々の集合的な水の墓を指すのと同じように,ギリシャ語のハデスは,個々の墓ではなく,人類の地の共通の墓のことを指しています。それはヘブライ語聖書中に見られる「シェオル」という語に対応します。イエスはこう述べておられます。「わたしは死んだが,見よ,かぎりなく永久に生きており,死とハデスの鍵を持っている」。(啓示 1:18)イエスはその千年統治の期間中これらの「鍵」を用い,「かの事物の体制と死人の中からの復活をかち得るにふさわしいとみなされた」人々を死から解放します。

      5 「ゲヘナ」は何の象徴ですか。

      5 一方,キリストがゲヘナの鍵を持っていると述べている箇所は聖書の中には全くありません。イエスはゲヘナについて語り,「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかた[エホバ]を恐れなさい」と言われました。(マタイ 10:28)オスカー・クルマン教授は,自著「霊魂の不滅か死者の復活か」(原文仏語)と題する書物の中でこの聖句について注解し,こう書いています。「このプシュケー[魂]はギリシャ人の魂という概念を意味しているのではなく,むしろ“命”と訳されるべきものである。……W・G・キュンメル……も次のように書いているが,それには正当な理由がある。マタイ 10章28節は『魂の不滅を強調しようとしたものではなく,地的な命に加え天的な命をも滅ぼすことができるのは神だけであるという事実を強調するものである』」。そうです,ゲヘナは,復活が不可能な完全な滅びを意味するのです。「新聖書注釈」(第2版,786ページ)は,ゲヘナを定義して,「“第二の死”を表わす」と述べています。―啓示 21:8。

      6 1,000年にわたる裁きの日の前にゲヘナに行き,そのために復活の見込みがない人がいることを聖書から示してください。

      6 さて聖書は,1,000年間にわたる裁きの日が始まる前に象徴的なゲヘナに行くという結末を迎える人々がいることを明確に示しています。イエスは悔い改めない書士とパリサイ人に対して,彼らと彼らの改宗者の異邦人が「ゲヘナに行くべき者」であること,つまり文字通りには“ゲヘナの子ら”であると語られました。(マタイ 23:15,33-35。ヨハネ 9:39-41; 15:22-24もご覧ください。)パリサイ人の改宗者でさえ『彼らに倍して』ゲヘナに行くべき者となるのなら,神のみ子を裏切るために彼らと憎むべき取引きをしたユダ・イスカリオテに至ってはその何倍になることでしょう! イエスがユダを「滅びの子」と呼ばれたとき,イエスはそのような意味を込められたのです。(ヨハネ 17:12)同様に,悔い改めない背教者たちは,死に際してシェオルつまりハデスにではなく,ゲヘナに行くのです。(ヘブライ 6:4-8。ペテロ第二 2:1)故意に罪を行ない続ける献身したクリスチャンや「しりごみする」人々の場合も同じです。(ヘブライ 10:26-31,38,39)これらは,「この事物の体制」においてさえ,一部の人々が「来たるべき」事物の体制においても許しを与えられることのない罪を犯してきたことを示す,わずかな例に過ぎません。(マタイ 12:31,32。ヨハネ第一 5:16と比較してください。)ですから彼らは復活させられません。

      エホバの裁きの終局性

      7 現在の事物の体制の期間中でさえ,エホバがある人々に最終的な裁きを宣言されることを,何がさらに示していますか。

      7 「霊に対する冒とく」は「この事物の体制においても,また来たるべき体制においても」許さ

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