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よみがえりの奇蹟ものみの塔 1954 | 8月1日
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よみがえりの奇蹟
『しかし,いまやキリストは死んだ者からよみがえされ,死んで眠つている者たちの最初の実となつておられる。一人の人によつて死が来たように,死んだもののよみがえりも,また一人の人によつてくる。丁度アダムにいる者はみな死んでいるように,キリストにいるものはみな生かされるであろう。しかしめいめいはそれぞれの順序がある。キリストは最初の実であり,後にキリストの臨在されるあいだ,彼に従う者たちとなる。それから,全き終りが来る。その時にキリストはすべての政府とすべての権威とそして力を亡ぼして,御国を父なる神に渡される』― コリント前 15:20-24,新世。
1 よみがりの希望について,誰にほまれを与えるべきですか? よみがえりの希望は,最初にいつ示されましたか?
ヱホバ神だけが,よみがえりということを考え思いつくことができます。ヱホバ神の力だけが,そのような奇蹟の行いをすることができます。人間がよみがえりを発明したのではありません。ヱホバ御自身が話された一番最初の予言は,よみがえりの希望を与えました。神は蛇に話しをして,次のように言いました。『私は,お前と女のあいだ,またお前の裔と女の裔のあいだに敵意を置く。彼はお前の頭を打ち砕き,お前は彼の踵を打ち砕くであろう』(創世 3:15,新世)ここでヱホバ神はすばらしい約束を言われましたが,その約束は後になつて真であると証明されました。すなわち,蛇は『裔』を打ち砕いて殺しても,その『裔』はふたたび生きて,蛇をほろぼすということです。このためには,『裔』のよみがえりが必要です。
2 悪魔とその偽りの宗教は,よみがえりの希望をどのように無効にしようとしていますか? そしてどんな結果をもたらしていますか?
2 蛇である悪魔は,人間は不滅であるという偽りの希望をエバの心に植えつけました。それ以来,悪魔の嘘は,よみがえりを全く否定するか,またはよみがえりの教理を混乱させて,結局によみがえりを無効なものにする基盤として用いられています。それで,よみがえりが与える慰めと希望をなくし取り去つているのです。愛する者の葬式の時に,死んだ者は実際には死んでいるのではなく,祝福された状態か,または火の燃える地獄の中にあつて,どこか暗い世界に生きているのですと,牧師,僧侶が偽りの話しをする時,いつたいその話しから誰が真の慰めを得ますか? その者が死んでいるということは,私たちの感覚によつても分ることです。しかし,もし死んだ者が,生きていると信ずるならば,次のように考えるでしよう。『あの人はくるしみをうけているでしよう。』または,『もしあの人が天にいるならば,なぜ神は,はじめにあの人を地上においたのだろうか? それは一体どういう目的だろうか?』 わけが分らなくなり,なにが何であるかはつきりせず,また矛盾し合つているので,気持ちはいらだつて落ちつきません。と同時にこの偽りの考えをもつとき,私たちは聖書の与える真のよみがえりの希望についての確かな知識と強いなぐさめを得ることができません。聖書を少し見るならば,愛する者はくるしみをうけているのではなく,新しい世で,今よりずつと良い状態のうちに,よみがえりをうけるのを待つているのだということを知ります。神に感謝を捧げましよう,というのは愛する者の運命は,牧師や僧侶が勝手にきめることのできないものであり,ただ神の恵みと裁きだけによるからです。
3 ヱホバの約束にくらべてみる時,人間の計画は,どこで不十分ですか?
3 よみがえりの希望なくして,全き幸いはありません。私たち各自にとつて,生命は非常に大事なものです。この世での生命だけに希望があると信ずるならば,どうして幸いであり得ますか? そのことについて,使徒パウロは次のように言いました。『キリストに希望を持つているのがこの世だけの生命ならば,私たちはすべての人の中で,もつともあわれむべき者となる。』(コリント前 15:19,新世)この世は,富やたのしみを与え,また,医学や科学の進歩によつて,人間の寿命を多分数年ぐらいは延ばせるかもしれません。しかし,人間を永遠に生かせることは到底できませんし,ましてや死んだ者たちに生命の希望を与えることはできません。この理由のために,私たちは,人間のつくつた国際連合制度よりも神の御国に信頼をおくべきです。人間が平和,良い生活水準,そして繁栄をもたらしたところでどうでしよう。良くてもせいぜい数年のもに過ぎません。御国は,その臣下に永遠の生命を与えますが,しかも人間の夢にも思わなかつた状態の下にあたえるのです。そして,すばらしいことに死んだ者たちも確かによみがえりを受け,そのような状態を永遠にたのしむのです。
よみがえりの必要は,どのようにして起りましたか
4 よみがえりの必要は,どのようにして起りましたか?
4 よみがえりの必要は,どのようにして起りましたか? よみがえりは,人間に対する神の最初の目的の一部ではありませんでした。なぜならば,人間が死ぬとは考えられなかつたからです。人間が死ぬのは不自然なことです。死は罪によつて入りましたが,よみがえりがつけ加えられたことにより,正義の人々はこの死という不能の力を克服することができます。アダムとエバは完全でした,そしてもし従順であつたならば,永遠に生きることができた筈でした。彼らの子供たちも,当然に彼らの完全さを相続し,神を愛する従順な人類で地をみたしたことでしよう。そして人間は,死ぬという恐れも持たず,病気もいたみも知らなかつたでしよう。しかし,悪魔サタンは最初の人間の夫婦を誘惑しましたので,彼らは創造者によつて定められた安全な自由の限界を踏み越しました。アダムとエバは,自分の意志で決定して不従順となり,明らかな反逆の道に従いましたので,人間の生命ある社会の両親となる機会を失い,その代り死が支配する人種を生み出すようになりました。それで,よみがえりの必要が生じましたが,それは反逆の両親がとつた道とは反対に生命の道を取ろうと欲する者たちが,死という王を克服するためでした。―創世 3:4-6。ロマ 5:12,14,19。
5 よみがえりの奇蹟を真であると認め信じるのは,なぜ全く合理的なのですか?
5 たしかによみがえりは奇蹟です。人間の力では,そのようなことをなし遂げることもできませんし,理解することもできません。それだからといつて,よみがえりを信じ認めることができないという理由は,全くありません。生命それ自体が奇蹟であつて,人間には理解できませんが,しかし人間は生命を現実にあるものとして信じ認めています。また生れることの奇蹟,創造の奇蹟,そしてまたこの地球上だけに生命が存在して,地球の姉妹の遊星上には明らかに生命が存在していないという奇蹟的な事実があります。これらのすべての奇蹟的なことがらは,人間の力で支配することもできなければ,測り知ることもできませんが,私たちは認め信じます。すべてのものは,愛ある創造者が私たちの福利のために,与えられたものです。私たちに対する良い目的を全うするために,よみがえりは必要です。
証明され,信頼することのできる教理
6 イエスのよみがえりについての最も強い証拠は,どこにありますか?
6 よみがえりについて,なぜ私たちはそんなにも確信することができますか? 信仰は,信頼することのできる権威によつて証明された証拠に基づかねばなりません。よみがえりについては,そのような証拠があります。この証拠の主なものは,イエス,キリストの使徒たちや弟子たちのしている証言です。パウロは,キリストに最初はひどく反対し,キリストのよみがえりを信じませんでしたが,しかし彼は,よみがえりをうけ栄光をうけた神の子を少しの時の間見たと証言しました。そしてパウロはこのように言いました『さてキリストは死んだ者からよみがえされたと伝道されているのに,あなた方のなかで,死んだ者のよみがえりがないと言うのはどうしたことか? もし本当に死んだ者のよみがえりがないならば,キリストもよみがえされなかつたのである。…それに,私たちは神の偽りの証者となるのである。なぜならば神はキリストをよみがえされたと私たちは神に対して証言しているからである。しかし,死んだ者がよみがえりを本当にうけないならば,神はキリストをよみがえされなかつたであろう。…さらに,もしキリストがよみがえされねば,あなた方の信仰は無益のものであつて,あなた方は未だに罪の中にいる。しかしながら,いまやキリストは,死んだ者からよみがえされている。』(コリント前 15:12-20,新世)キリストはよみがえりをうけた後に,パウロに現われましたが,その奇蹟的なでき事を証言するパウロの記録については,使徒行伝 9:1-9,22:6-11; 26:12-18を見てください。
7,8 イエスのよみがえりを目撃した者たちは,共謀じた者たちでも,また幻覚を見たものではなかつたという証拠をいくらか述べなさい。
7 二人,三人の証者以上の多くの証者によつて,イエスのよみがえりは間違いないことと証明されています。実際に,十分に認められ信ぜられている他の歴史のでき事以上に多くの証者たちによつて証明されています。イエスを殺した敵たちは,それは,騙りの事であるとか,またはイエスの体は盗まれたのだとか,あるいはそれは空想の幻覚であり,共謀したものと主張しました。しかしそのような攻撃の非難を十分に打ち破るものとして次のような事実があります。よみがえりの証者たちは,権力や勢力を持つていた者ではありませんでしたから,イエスの墓のところに駐在していたローマの警備隊の者を打ち負かすこともできず,また賄賂をすることもできなかつたのです。そんなにも多くの証者たちがいたのですから,彼らが共謀したなどということは,先づありえません。特に,個人的な利益とならないようなことがらについて共謀したなどということは,殆どあり得ないでしよう。よみがえりについて彼らが証言したことは,利己的な動機からではありません。その証言をしたために,彼らはくるしみと死にさらされました。彼らは,もつともひどい敵のいるところで証言をしましたが,もしそれが「騙り」であつたならば,まちがいなく曝露されたことでしよう。しかも彼らは待たず,ユダヤ人たちの怒りが最絶頂の時に,証言をいたしました。それに,もしそれが単に幻像または想像のものでしたならば,それは予期していたものであつたでしよう。しかし,彼らが失望し落胆していた時に,よみがえりは全く驚きのものでした。それは予期していたものではありませんでした。本当に,よみがえりによつて彼らは勇気を得,もつともひどい迫害の下にあつても打ち破られない証言をすることができました。
8 四福音書に記録されているイエスのよみがえりについての記事を読む時,それらの記事の中にある調和をすぐに見ることができますが,共謀したということは,見当りません。多くの人たちが,そのよみがえりを目撃し,そしてその後すぐに,その地にいた多くの人たちが,よみがえりを信じ,認めました。そのことは聖書の証明するところであり,またヨセハスのような俗歴史の作者たちの認めるところでもあります。―使行 2:41; 4:4。
9 よみがりの教えは,真であるという,どんな他の証拠がありますか?
9 ラザロ,ヤイロの娘,そしてナインの寡婦の息子のよみがえりについてはどうでしようか?(ヨハネ 11:43,44。マルコ 5:41,42。ルカ 7:14,15)多くの人たちは,これらのよみがえりを見て,よみがえりについてのヱホバの力を証明しました。そうです,よみがえりについての神の力は,予言者エリヤやエリシヤの時代でも示されました。(列王紀略上 17:21,22。列王紀略下 4:32-35)アブラハムは,よみがえりを信じました。(ヘブル 11:19)ヘブル語聖書の中で,よみがえりは,繰り返し約束されました。ヱホバは奇蹟的なよみがえりの力を持つておられますが,その真理については非常に多くの証者たちがおります。―イザヤ 25:8; 53:10-12。ヨブ 14:13,14。ダニエル 12:13。出エジプト 3:15とルカ 20:37,38を比較しなさい。
よみがえりの目的
10,11 よみがえりによつて,どんな目的が果されますか?
10 ヱホバは,目的を立てられる大いなる方でありますので,彼はよみがえりにも目的を持つておられます。アダムが罪を犯した時,新しい人種をつくり出す力をヱホバは持つておられ,地を人間で充すことができました。しかし,よみがえりということは,ただにヱホバの無限の力ばかりでなく,彼の愛と恵みを示し,そしてヱホバは,彼に奉仕する者たちを保護される方であるということを証明しています。ヱホバは,よみがえりの力を持つておられますので,彼の僕たちは死にいたるまで,彼に忠実を保つであろうということを示すことができます。ヱホバはサタンに答えて,サタンに僕たちのある者を殺させることまでも許しております。サタンは,自分の偽りの主張を支持しようと,僕たちを殺すかもしれませんが,それは無駄な努力にすぎません。ヱホバの僕たちは,彼の奉仕にあつて,生命すらもよろこんで捨てようとすることは,彼らの奉仕が利己的な考えからではなく,愛のためであるということを証明しています。それはまた,次のことを証明します。すなわち,ヱホバは全能者であり,その僕たちをよみがえらすことができる方であり,最高の主権者であり,そして愛の神であると彼らは認めているということです。また,ヱホバには,すばらしい特質があるので,彼らは彼に献身しているということです。ヱホバの最高至上権と,そして愛による僕たちの献身の忠実について,サタンはヱホバに挑戦していますが,しかしいまやサタンはこの挑戦で偽り者であるということを全く間違いなしに証明されております。―ヨブ 1:9-11; 2:4,5。
11 エデンで裁きをされた時に,ヱホバは新しいことの目的を立てられました。その新しいことをなしとげるために,よみがえりは必要でしよう。これは新しい創造でした,そしてそれは,ヱホバの宇宙的制度の中心の部分として,14万4000人の王たちで成り立つ王国の神権制度でした。これらの王たちは,人間のあいだから選ばれ,死にいたるまでやぶれることのない忠実を証明する者たちです。それは一つの政府です。そしてその政府の成員たちに対して宇宙は全く依存することができます,というのは彼らは公正と正義を守り,ヱホバの命令と真理の原則に固くつきしたがうからです。ヱホバの独り子は,宇宙の中でヱホバにもつとも親密で,またヱホバの主たる行政執行者ですがヱホバは,よみがえりを与えることができますので,その独り子を最大のぎりぎりまでに験し,そして再び天によみがえらせました。このよみがえりによつて,独り子は不滅の生命をうけそしてその14万4000人の王なる兄弟たちの首となり,先ぶれとなりました。(ロマ 8:29。コロサイ 1:18。黙示 14:1)実際に,この独り子によつて,他の者にもよみがえりをうける道が開かれているのです。彼が死なれて,よみがえりをうけたことは,生命を願うすべての人が希望を持つ基いであります。それでこの点についてパウロは次のように言つているのです。『しかし,いまやキリストは死んだ者からよみがえされ,死んで眠つている者たちの最初の実となつておられる。一人の人によって死が来たように,死んだもののよみがえりも,また一人の人によつてくる。丁度アダムにいる者は,みな死人でいるように,キリストにいるものは,みな生かされるであろう。』― コリント前 15:20-22,新世。
第一のよみがえり
12 ヱホバの一番大きな奇跡は何でしたか?
12 聖書は,二つの種類のよみがえりを,明白に表わし示しています。最初のもので第一番目のものは,天的のものであり,第二番目のものは地的のものです。コリント前書 15章で,パウロは,おもに天的のよみがえりについて話しています。その天的のよみがえりで,キリストは第一によみがえりをうけたものでした。このよみがえりは,なんという奇蹟なのでしよう! それは時間から見ても第一であり,重要さから見ても第一でありますので,最初のよみがえりです。(黙示 20:6)ヱホバは多くの奇蹟をなされて,人間よりも大きな力を持つ天使たちを創造しました。ヱホバは一番最初に,彼の独り子を創造し,後に協同の創造者として用いましたが,その創造は,その時においてもつとも大きな創造の仕事でした。しかし,このことは,西暦33年ニサン16日に表わされた神の奇蹟的な力の仕事とは匹敵できないものです。その時にヱホバはイエス・キリストをよみがえされましたので,イエスは『死んだものから最初に生まれた者』となりました。すなわち,イエスは死からよみがえりをうけて,永遠の生命をうけるにいたつたのです。
13 イエスをよみがえされた時,ヱホバの力はなんとすばらしく表し示されたのでしよう?
13 イエスをよみがえらせて,不滅の生命を与えられたヱホバの最高の智慧と無限の力の相互作用を想像してごらんなさい。ヱホバはイエスに神のような構造組織を与えて,御自身の正しい代表者とされ,他のいかなる造られたものよりも高く,またイエスの以前の地位よりもはるかに高い地位にまでイエスを高められました。(ピリピ 2:9。ヘブル 1:3)さらに,よみがえされたイエスは,地上にいた時と同じ個性でした。ヱホバは宇宙で第二に偉大な個性を,再びつくり起されましたが,いまその事実をよく考えてみるとき,ヱホバの御力をもつと深く認識することができます。御子は人間となる前に,天で長い年のあいだヱホバに奉仕していましたが,そのあいだに何というすばらしい御霊の実を彼は結んだのでしよう! 彼の地上の奉仕は,このことをさらにどんなにかつけ加えたことでしよう! 地上にいた時,サタンの試験の下にありましたが,『苦しみを受けた事柄から彼は従順を学びました。』(ヘブル 5:8,新世)ヱホバはイエスをよみがえらせ,彼の個性を再創造されましたが,イエスの証明され,破れることのない忠実の性質は,全く失われませんでした。なんというすばらしい仕事の業なのでしよう!
14 この驚くべき奇蹟は,くり返えされますか? 説明しなさい。
14 さて,この大いなる奇蹟は14万4000回繰り返して行われ,キリスト共になる体の成員たちはよみがえりを受けて,不滅性を持ちます。(ペテロ前 1:4。ヨハネ第一ノ書 3:2)そうです。これらの体の成員たちは,こう言います『主なるイエス・キリストは,すべてのものを御自身に従わせられる力の働きによつて,私たちのいやしめられた体をつくり変え,彼の栄光ある体と同じようにされるであろう。』― ピリピ 3:20,21,新世。
15 (イ)キリストの体の成員のよみがえりは,何時起りましたか?(ロ)また今日地上にいる体の成員たちについては,どうですか?
15 彼らのよみがえりの時は,次の言葉で示されています。『キリストにあつて,すべての者は生かされるであろう。しかし,すべての人は順序がある。キリスト(イエス)は最初の実であり,その後に彼の臨在されるあいだキリストに属する者たちである。』(コリント前 15:22,23,新世)現在キリストは,統治している不滅の王として臨在されています。1918年以来,彼はこれらの体の成員に注意を向けられ,その死んだ者たちをよみがえされています。パウロは,そのことを予言し,次のように言いました。『なぜならば,主自ら号令の召しと,天使長の声,そして神のラッパと共に天から降つてくるであろう。そしてキリストとともに死んでいる者たちは,最初によみがえるであろう。』キリスト・イエスは,またサタンとその天使たちを天から追い落した後に,『天使長ミカエル』という称号を持つています。そして,これら死んだ者たちに注意を向けられ,設立された御国についての大きなラッパのような発表の時のあいだに,彼は彼らをよみがえされます。(ユダ 9。黙示 12:7,10)その時から以来,地上にいる体の成員で残れる者たちは,忠実を守つて死ぬ時,死の眠りにつき,よみがえりを待つことはありません。彼らは死ぬその瞬間に,よみがえりをうけ,不滅性を持つているキリストの仲間の共同相続者たちに参加します。このでき事の次第について,パウロは次のように説明しています『その後に,生き残つている私たちは,彼らと共に雲の中に取り去られ,空中で主と会うであろう。そして,私たちはいつも主とともにいるであろう。』『みなさい! 私はあなた方に聖なる秘密を告げる。私たちは,みな死んで眠りにつくのではない。私たちはみな,最後のラッパのあいだ一瞬のうちに,目のまたたくまに変化するであろう。実にラッパは鳴つて,死んだ者は不滅によみがえされ,私たちは変化をうけるであろう。』― テサロニケ前 4:16,17。コリント前 15:51,52,新世。
地的のよみがえり
16 どんな他の人たちに対して,よみがえりの希望があるとイエスは示しましたか?
16 よみがえりの希望が与えられる人は,また他にもおります。それらの人とは,よみがえの恩恵をうけるにふさわしい者であると,神が記憶にとどめられている人たちです。イエスは,次のように言つた時に,それらの者たちがいることを示しました。『これを怪しむな,記憶の墓にいる者が,みな彼の声を聞いて出て来る時が来る。善いことをなした者は生命によみがえり,悪いことをなした者は,裁きをうけるためによみがえるであろう。』― ヨハネ 5:28,29,新世。
17 誰が生命へのよみがえりをうけますか?
17 天的なよみがえりをうけて不滅性を持つ人々は,たしかに生命によみがえされる人々の中に入つて居ります。しかし,昔しに忠実なることを証明し,御国の下にあつてよみがえりをうけるために,サタンの世と妥協するのを拒絶した多くの人々がいます。このよみがえりは,メシヤによつて贖いが支払われる以前で,そして彼の御国が始まる以前の昔に行われたよみがえりよりも,より良いものでありましよう。(ヘブル 11:10,35)それから,キリストの御国が西暦1914年に設立されて以来,羊のような『大いなる群集』のある者は,忠実を保つて死んでおり,またハルマゲドンの戦争がサタンの組織制度を一掃する前に,死ぬことでしよう。(マタイ 25:34-40。黙示 7:9)『大いなる群』のある者は,いま『君』の立場で奉仕しています。すなわち,神の新しい世の社会にあつて責任ある僕たちとなつています。(イザヤ 32:1)同じように,昔の人もその約束が与えられました。(詩 45:16)それですから,当然に次のようなこととなるでしよう。すなわち,昔しの忠実な人々と,現在の他の羊で死ぬ者たちは,新しい世で初期のよみがえりをうけ,そしてハルマゲドン生存者たちに参加して,地を楽園とする仕事に加わるでしよう。彼らのよみがえりも,生命えのよみがえりですが,それは,彼らがすでに神に対して非常に従順な生活を過しましたので,良い出発を持つよみがえりをうけるという意味においてです。よみがえりをうける時に彼らは,疑いを持つようなことはありません。しかし,彼らはすぐにまた従順の道をとり,新しい世の仕方に一致するでしよう。パウロが使徒行伝 24章15節(新世)で言つていますように,これらの人々もまた『義しい』人たちです。
18 誰が裁きのよみがえりをうけますか?
18 しかし,『義しくない』者たち,または『悪いことをなした者たち』が『裁きのためによみがえりを』うけるとは,どういうことでしようか? これは,地的なよみがえりの一部であつて,ヱホバへの奉仕の方法を知らなかつたが,心は正しい原則を願い求めた者たちを含みましよう。キリストが話しかけた犯罪者は,そのような人たちについての一つの例です。(ルカ 23:39-43)彼らは,神をよろこばせ,生命に導くような事をしませんでしたが,正しい心の願いを持つており,正義を愛しましたので,神は記憶されるのです。昔しの時でしたが,あるものは神の僕たちに対して善意を示した程です。そのような者たちは,裁きのためによみがえりをうけるにちがいありません。そしてその裁きの結果は,神の新しい世を支配する神の律法に,彼らが従順であるかどうかで決められるのです。このよみがえりは,キリストが犯罪者に約束されたように,楽園のような状態が設立された後に,行われるでしよう。
『全き終り』
19 最後的にヱホバの言葉と名前を立証するのに,よみがえりはどのように役目を果しますか。
19 しかしながら,ヨハネ黙示録 20章5節も一致調和してのべているように,キリスト千年統治の終りまでは,地上にいる人は誰一人として永遠の生命を許し与えられません。千年の終りの時には,キリストは従順な人間を実際に完全な状態にまで引き上げ,向上させましたので,人間にたいする彼の祭司の仕事は終つたことになります。その時にはあらゆる不完全さが取り除かれますので,アダムによる死は,亡ぼされます。ヱホバの最初の目的の通りに,地は充され,美しくされます。その時に,キリストは身をしりぞかれ,完全な状態となつた人々各自自らをヱホバの前に立たせます。丁度,アダムがエデンでしたのと同じです。これは『全き終りであつて,…その時彼はすべての政府とすべての権威とすべての力を亡ぼされる。』(コリント前 15:24,新世)次に少しの間サタンはゆるされて,人々を試験しますが,ヱホバの神権政府の側に固く立つ者は,義しいものと宣明され,終りないその世にあつて永遠の場所を与えられます。その時に生命という十分な意味において『死んだ者ののこりは………生命をうける』のです。(黙示 20:5,新世)それから,ヱホバ神は真に『あらゆる者にすべてのもの』となります。なぜならば,地に住む各自が永遠に生きるのも,または亡びさるのも,その決定は全くヱホバ神にあるからです。よみがえりによつて,ヱホバの名前と目的は立証されます。よみがえりの恩恵をうける人々は,なんと幸福なのでしよう!
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よみがえりは力を与える希望ものみの塔 1954 | 8月1日
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よみがえりは力を与える希望
1 (イ)どんな手段によつて,この世は人々を亡びの道に導き保ちますか?(ロ)人々は,どのように死のおそれをなくすことができますか?
いまは忠実を保たねばならない戦いの時です。その戦にあつて,この古い世の仕方や考え方にさからつて行くことは,やさしいことではありません,その道は臆病者の道では決してありません。この世は,クリスチャンを脅かし,無理やりに亡びの道に捲きこもうとして,それは臆病者の道であると非難しますが,その非難はまつたくの偽りです。この世は,愛と理性の代りに,堕落した人間の弱まつた感情に訴えて行います。この世は,おそれ,または誇り,または利己主義の鞭を用います。地上の人で,これらのものに反抗することのできる人は,ごく僅かな人々です。これを用いて,独裁者たちは全国民を服従します。そして,人々は正義の大切な原則を守るのを恐れ,公やけに言い表わしたり,または明白な立場をとろうとはしません。自分自身の安全を考えて人々は語ろうとはしませんので,無言のうちに彼らの政府の不敬虔な全体主義的な仕方を認め支持します。それで,その悪い国家とともに,彼ら自ら共同の処罰をうけるようになります。自分らが死ぬのではないだろうか,または家族の者が死ぬのではないだろうかと,人々は非常に恐れています。聖書は悪魔を説明して大いなる牢獄の番人として言い,『死を恐れて,その生涯のあいだ奴隷の境遇に服するものたちすべて』を支配すると述べています。(ヘブル 2:15,新世)もし人々が,よみがえりについて真の知識を持つならば,そのような恐れから自由になるでしよう。それでこの知識を持つことは,生命かまたは死かというほどに必要なものなのです。そのような理解と信仰がないならば,クリスチャンたちは忠実を保つことはできません。
2 よみがえりについてこの知識は,イエスの忠実をどのように強めましたか?
2 イエスは,地上にいる時に,悪魔とその世から大きな圧迫をうけましたが,忠実を保ち続けました。彼にとつて,よみがえりの希望は,彼を支える力を与えるものでした。苦しみの杭で死なねばならない時であつても,彼はよみがえりのこの信仰と希望を持つていましたので,非常に力づけられ,彼の父にたいしての忠実を破らずに保ちました。イエスについて,こう書かれています。『さらに,私の肉は希望のうちに住むであろう。なぜならば,あなたは私の魂をハーデス(墓)に捨ておかれないから。』(使行 2:26,27,新世)神はイエスを忘れてしまつて,彼の存在すなわち彼の魂が墓場の中で消えてなくなるままにするようなことはしないと,イエスは知つていました。
3 どんな他の例はよみがえりの知識と,よみがえりへの信仰という必要を示しますか?
3 同様に,アブラハムは強められ,彼の子であるイサクを献げるという試験を通り抜けました。ヨブも強められ,非常なくるしみを堪え,生命以外のあらゆるものを失つても忍耐しました。そして,雲のように非常に多くの昔しの証者たちも強められ,『くるしみを受けることを』耐え忍びました『なぜならば,より良いよみがえりをうけるため,ある贖い代でもつて釈放されるのを願わなかつたからである。』(ヘブル 11:35,新世)イエスのよみがえりという事実と,それが与えた保証によつて,使徒たちは『生きている希望』で満され,また,それは彼らの伝道に力と熱心さを与えましたので,どんなに迫害が多かろうと,彼らを弱めることはできませんでした。それによつて,彼らは死にいたるまで耐え忍ぶことができ,彼らもよみがえりをうけると保証づけられました。―ピリピ 3:10,11。ペテロ前 1:3; 3:21。
魂,霊そして記憶の墓
4 よみがえりは,体を『非物質の魂』と再び結び合わせることではないことを示しなさい。
4 私たちは,よみがえりをうけるのに価値ある者であり,また神は私たちを記憶していて,私たちのためにこの力ある奇蹟をされるということを,はつきり確めておきたく願います。よみがえりがもとづいている原則を理解するならば,私たちは助けを受けます。『よみがえり』はギリシア語の言葉『アナスタシス』から翻訳されていて,その『アナスタシス』という言葉は,文字通りには,『ふたたび立つ』という意味です。よみがえりの時に,生命に再び立つものは何ですか? それは死んだ人,人柄,そして同じ人間です。体が生きかえされて天かまたは別のところに仕舞いこまれた『非物質の魂』をさし入れられるのではありません。生きて息をしており,感覚を持つ人間であるのは,たんに死んでしまう体ばかりでなく,人である魂であります。人が死ぬ時,魂は死にます。民数紀略 6章6,7節(新世)で,聖書はこのように言つています。『(ナザレ人はいかなる死んだ魂にも近づいてはならない。父,または母が死ぬ時であつても,その身を汚してはならない。』魂は体から分離して,そして天に行くものではありません。イエスについてさえも,こう言われています。『あなたは,私の魂をハーデス(墓)に捨ておかれない。』(使行 2:27,新世)イエスの魂は,天にもまたは『楽園』にもありませんでした。彼の魂は,ハーデス,すなわち墓にあつて,神がよみがえりを与えたのは,その場所からでありました。
5 伝道の書 12章7節の『霊はこれをさづけし神にかえるべし』とは,どういう意味ですか?
5 聖書は,『霊はこれをさづけし神にかえるべし』と言つていますが,それは真です。(伝道之書 12:7)しかし,これは霊であつて,魂ではないことに注意してください。神の言葉は,刺し貫いて『魂と霊を分け』ることができると語つた時,魂と霊との二つのあいだには区別があると使徒は示しています。(ヘブル 4:12,新世)この場合での『霊』は,生命の原則,すなわち生命の力を意味します。霊が神に戻るということは,その人間が再び生かされるか,どうかということと,生かさせる力は,全くただ神の御手の中にあるということを意味します。ちようどこみ入つた機械がこわれてしまい,修繕し大修理するのに,その発明者かまたは設計者に見て貰わねばならない時,その他の人にはその機械を修繕して大修理をし,そして再び仕事を始めさせるような知識もまた力をも持つていないのと同じことです。
6 どんな基礎にもとづいて,神は死んだ者たちがよみがえりをうける資格があるかないかを裁かれますか?
6 神は,どんな基礎に基いて,誰がよみがえりを受けるかを決定されるかをイエスは示し,次のように言いました。『記憶の墓にいる者が,みな彼の声を聞いて出てくる時がくる。』(ヨハネ 5:28,29,新世)神の記憶にいる者たち,また死ぬ前に正義と公正に心ひかれ,愛した者たち,そしてまた,家族の恩恵という神の準備のもとにいて合法的な権利を持つていた者たちは,よみがえりによつて神より生き返えされる者たちです。別にこのようにも説明できます。神は生命の型の記録または写本を持つていて,その写本は神の裁きをうけます。そしてその人,すなわちその個性に,よみがえりをうける権利を与えられます。人間各自がよみがえりを受ける資格を当然に持つているというのではありません。そうではなく,神はその恵みの気持から,また彼の子の贖いの犠牲という準備を通して,神はこれらの者たちを資格あるものと裁かれるのです。
私たちの生命の型
7 どんな要素は,献身したクリスチヤンとして私たちの生命の型を形づくりますか?
7 私たちをみなその幸福な立場にもたらすものは,何ですか? ヱホバ神と彼の子イエス・キリストの血に信仰を持ち,また自らをヱホバ神に献身したのですから,私たちはこの基礎に基いて正しい生命の型を形づくらねばなりません。どんな要素が,現在の私たちの個性または人格,すなわち私たちが示す生命の型をつくるかを考えてみましよう。私たちの生命の型は,4つの事柄で形造られます。(1)私たちが相続した特性。妊娠の時に,遺伝子の働きは殆ど無限の組み合わせをしますが,それを通して子供は,ある心の能力,特性,性癖,そして才能を相続します。たいていには両親のある性質をうけついで,良くはつきり認められる程です。この理由で,生まれた子供は,ある程度まで生命の型を持つているのです。母親の乳を吸うという,生きようとする自然の本能の習性の外に,子供の頭脳にはある『巡回要素』がはつきりと定まつてはいないが,すでに形づくられています。子供の中にあるこれらの組み合わせを神は知つておられますので,このところで,子供の傾向はどうなるであろうか,そしてその組み合わせは後の時代の環境に対抗するか,または従うであろうかということを知り得ます。(2)環境。これは,生涯のあいだにうける経験を含みます。(3)自由な道徳人としての私たち自身の意志,または選び。(4)神の聖霊と神の言葉と,そして制度の影響。
8,9 (イ)クリスチヤンに必らずよみがえりを保証する路を,簡単に説明しなさい。(ロ)そのような路の結果は何ですか?
8 このことから,人は生まれた時からある性癖を持つているということが分ります。人の初期の環境そして両親の訓練は,これらの性癖を強くすることもできれば,禁ずることもできます。それで子供にたいしては,正しい環境,訓練,そしてこらしめがぜひ必要なのです。それから,子供は自分自身の意志を用いて,良い行いか悪い行いかを選ぶ時が来ます。子供は,自分自身の力だけで,良い道を取ることができますか? いいえ,できません。というのは,子供は罪人アダムの不完全な子孫でありますので,次の規則は子供にあてはまります『人の心の傾向は,若い時から,悪いことである。』(創世 8:21,新世)そして,この古い世の環境は,その宣伝とか悪しきことで一杯であり,あらゆる側からも子供のまわりにひしひしと取り囲んでいます。それで,子供は神の言葉である聖書を導きとしなければなりません。子供は神の聖霊または活動力を得て,導かれねばなりません。神の聖霊は,聖書を霊感したものです。また,神の制度の助けも必要です。そして,聖書の命ずるのに一致し,また歩み続けなければなりません。こういうことがらをするならば,子供は環境に対して正しく反応し,大きな問題と面する時に正しい路を取ります。子供は,その持つている能力と良い性質を発展させ,神の奉仕の時に用いることができ,悪い傾向にうち勝つことができるようになります。子供の心はいれ変つて,古い世に従うということよりも,新しい世の仕方にしたがうようになります。―ロマ 12:2。
9 その結果は何でしょうか? 彼は新しい人格であつて,神の御意にしたがつて創造されたものです。(エペソ 4:24)彼は,神の御意と言葉と調和している生命の型を表し示します。彼がする事がらは,聖書に書かれてある事がらと適し一致します。工場の検査官は,仕上げられた製品を原型でもつて検査し,原型のようでないものをうち捨てますが,それと全く同様に,私たちが示す生命の型を,神は見て,私たちが正義の型に従つているかどうかを検査されます。献身したクリスチャンとして,よみがえりについての私たちの個人的な希望は,ここに依存するのです。神の言葉は,説明として,陶器師を用いています。陶器師は,器が希望した型に一致しているかどうかに従つて,粘土の器を選ぶか,またはうち捨てます。ロマ 9:19-24。
『人格発展』の考えは偽り
10 これは『人格発展』ですか? 説明しなさい。
10 これは,『人格発展』ではありません。いわゆる『人格発展』の考えによりますと,人は自分自身の義に依存し,生命をうけるのに価値あらせるような『良い』個性を作りあげるというのです。いいえ,クリスチャンは神の正義に待ちのぞみ,そして,忠実を保ちながらキリストの型に従おうと努める時,神の霊に依存します。その時であつても,彼ら自身の中に価値はありません。彼らは,いまだに不完全です,しかし,彼らは信仰と従順によつて,神の恵みを受けることを望んでいます。彼らは,神の恵みある御親切と正義をほめたたえますが,彼ら自身のものをほめません。この問題のために,ユダヤ人たちは失敗しました。『なぜならば,神の正義を知らず,彼ら自身の正義を建てようと努めたために,彼らは神の正義に従わなかつたのである。』― ロマ 10:3,新世。
11 (イ)意志で決定してから悪くなつた者たちは,どうなりますか?(ロ)死んだ者の『非物質の魂』または中間の意識状態があるかということについて,これは何を示しますか?
11 陶器師についての説明によると,自分の意志で決定して,悪くなつた者たちと,そして家族または共同社会の処罰の下に死んで行く人たちは,拒絶されます。彼らは,神によつて『忘れ』られ,彼の記憶から全くとり消されています。(シンゲン 10:7; 11:7。オバデヤ 16)神が記憶される者たちは,生きているものと神は考えられます。悪い者たちは,永久に死ぬ者として,神は忘れられます。(ルカ 20:38。ロマ 4:17。イザヤ 26:14)ついでですが,分離した『非物質の魂』もなければ,死んだ者の中間の意識状態もないということを,これはみな示しています。神はただ記録を持つておられ,死んだ者が価値の無い者であるならば,その者はふき消されて忘れられ,あたかも存在しなかつたようになります。
体のよみがえりではない
12 よみがえされた者たちの体について,パウロは何を示していますか?
12 体から分離して存在している『非物質の魂』はないのですから,よみがえりは,「魂と体を再び結び合わせること」ではありません。しかしながら,霊的であろうと地的であろうと,各個性は体または組織構造を持たねばなりません。なぜならば天的であろうと地的であろうと,すべての人は体を持つからです。聖書は,こう言つています『もし肉体の体があるならば,また霊の体もある。』しかし,その体は再び集められるのですか? または,死んだ時と全く同じようにつくられて,以前の体のイキ写しでしようか? いいえ,そうではありません。聖書は次のように答えています『しかしながら,ある者はこう言うであろう。「死んだ者は,どのようによみがえされるか? どんな体をもつて,彼らは生き返つてくるのか?」 何とあなた方は分別が無いのか? あなた方が播くものは,最初に死なねば生かされない。そして,あなた方の播くものについては,それは,小麦であろうと他のものであろうと,後にでき上る体ではなく,穀粒にすぎない。神は御意の思うままに体を与えられ,そして種子のそれぞれに,体を与える。』― コリント前 15:44,35-38,新世。
13,14 キリストの共同相続者は,よみがえりの時どんな種類の体を与えられますか?
13 パウロが言つていますように,よみがえりをうけるすべての人に同じ種類の体が与えられるのではありません。パウロは説明して,いまは違つた体があると言つています。すなわち,天にいる天使たちに属する霊の体と,地上にいる者たちの肉の体です。『そして,天の体があり,また地の体がある。しかし,天の体の栄光は,一つの種類であり,地の体の栄光は,違つた種類のものである。』(コリント前 15:40,新世)それから,キリストと共になる共同相続者は,天的のよみがえりをうけ,肉の体よりもはるかにすぐれている性質の体を与えられるとパウロは示しています。彼はこう説明しています。『死んだ者のよみがえりも,またそのようである。それは,朽ちる者に播かれて,朽ちない者によみがえされる。それは,不名誉のうちに播かれて,栄光のうちによみがえされる。それは,人間の体に播かれて,霊の体によみがえされる。もし人間の体があるならば,また霊の体もある。次のように書かれてある通りである。「最初の人であるアダムは,生きている魂となつた。」終りのアダムは,生命を与える霊となつた。……塵よりつくられている者たちは,塵よりつくられている一人の人と同じである。天の人々もまた,その天の一人の人と同じようである。私たちは,塵よりつくられている人の像を持つているように,天の人の像をも持つであろう。しかしながら,兄弟たちよ,私はこう言う,肉と血は神の御国を相続することができず,また朽ちるものは朽ちないものを相続することはできない。』― コリント前 15:42-50。新世。
14 『花嫁』の14万4000人は,地上での生命を見捨てて死にますので,完全で,神のような,不滅で,朽ちないものによみがえされます。(ペテロ前 1:4。ペテロ後 1:4)彼らの体は,栄光を持ち,光り輝くものです。実際に,そんなにも明るく光り輝きますので,人間は彼らを見て生きることはできません。彼らは,天使たちよりも高いものでありますので,彼らを害し,または妨害しようと天使たちがもたらすいかなる力も影響も,彼らには及びません。彼らは,ただ全能のヱホバだけに依存しています。ヱホバは彼らの神であつて,つねに彼らよりずつと高いものです。
15 (イ)よみがえされるのは,もとと同じ体ではないことを示しなさい。(ロ)地的のよみがえりの時に,体は死んだ時の体と全くいき写しのものですか?
15 ヱホバが地的のよみがえりを与える人々には,どんな体が与えられますか? それは全く同じ原子でつくられる同じ体ではあり得ません。もし人が死んで埋葬されるならば,彼の体は腐敗して行き,旧の化学的有機体にもどります。そして,たとえばリンゴの木は,その化学的有機体を吸収するでしよう。人々は,その木のリンゴを食べます。その原の人の要素である原子は,いまや多くの人々の中にあります。よみがえりの時に,同じ原子が原の人の中にあつて,そして同時にまた他の人の中にはあり得ないということは明らかです。また,それは,死んだ瞬間の時の体と全く同様なものではありません。もし死ぬ前に,体が不具ならば,その人は同じく不具のままでよみがえされますか? そうではありません。もし血が体から流出して死んだ人についてはどうでしよう。その人は,血がないままでよみがえされますか? いいえ,とあなたは答えるでしよう。聖書によると,人の生命(または魂)である血がなくては,人間は生きることができません。(創世 9:4)同じ考え方をするならば,もし心臓を刺し貫かれて死ぬならば,その人は,そのような状態でよみがえりを受けないでしよう。
16 地的なよみがえりをうける人々は,どんな種類の体を与えられますか?
16 生きている時,人間の体の大部分は,年月のあいだに変化します。人の外見とか,性格はそのままであつても,消耗した組織は,入れ変つて新しくされています。それならば,よみがえりの時に,なぜ人は同じ体をもつてか,または醜い不具の状で生き返る必要がありますか? ヱホバから許し与えられた奇蹟の力によつて,キリストは,よみがえされた者たちに全く健全な体をつくることができます。ラザロの体は,腐敗分解していました。イエスがラザロをよみがえした時,奇蹟によつて,そのこわれて朽ちた組織は新しく入れ変えられ,再び建て起されました。ラザロは,健康な人として生き返つてきました。よみがえりの時にも,そのようでありましよう。―ヨハネ 11:38-44。
17 地上によみがえされる人々は,よみがえりの時に完全な体を与えられますか?
17 それで,ヱホバは,よみがえされた者たちに適当な体をあたえます。その体は,完全な肉の体ですか? いいえ,そうではありません。体は十分に健全で健康のものでありましよう。しかし,千年統治のあいだに,キリストから訓練と教訓をうけ,そして正しい生活を学び,その体と心は,意志の上だけでなく,あらゆる考え,動きにおいても神と全く一致調和して,初めて完全となります。それで従順の道を歩み続ける時,彼らはキリストの贖いの癒しの力をうけます。そして死の過程を取り除き,ついには不完全のあらゆる跡はなくなつてしまい,彼らの体のあらゆる細胞組織には,元気があり力のあふれる生命の力でみたされるようになります。
18 よみがえりは,なぜにそのような驚くべき奇蹟ですか?
18 よみがえりの時に,力と智のなんというすばらしい,奇蹟的な表われを,ヱホバは示されるのでしよう。そのことをちよつと,深く考えてごらんなさい。一つの個性をつくり出すのに,ヱホバはある性質を混成して出すばかりでなく,その人の幾百万という習性や特質を一つのこらず全く間違いなしに再生されます。それらの習性や特質は,たんに両親から相続したものだけではなく,その人の生きていたあいだに及ぼされた無数の影響の結果です。たとえば,その人の読んだもの,学んだもの,見たもの,したこと,経験したもの等,生きていた時に結果として生じた合成の人柄です。ヱホバは,どんなに小さな詳細にわたろうと,これらすべてのものを,決して間違えることのない正確さをもつて,再びつくりあげられ,その人が住むようにと神が目的される場所にふさわしい体をあたえられるのです。一つの説明は,イエスの場合です。しかし,それは前の記事『よみがえりの奇蹟』の中で述べられています。(13節)
にせ科学の偽造
19 いわゆる『科学的』理論によつて,どんな偽造が持ち出されていますか?
19 通俗の雑誌の中に,馬鹿らしい論議が最近に発表されました。科学は,よみがえりの秘密を発見したというのです。それの述べる希望は次のようです。
『人の原の像と同じものをつくるために,必要なすべてのものは,瘢痕組織の一つの細胞であつて,丁度直り始めた僅かな傷から取られた顕微鏡的に小さなものである。この不死の種子は,不死の花壇,または不死の庭に植えられるであろう。その『土』には,適当な化学品や,または主なる彫刻家(瘢痕組織の再建の力)が,再生の瘢痕組織の要素的粘土から生きたものを形づくるのに必要な道具で備えられているものである。
『肉体不滅を得る最初の大切な段階は,非常に簡単なことがらである。必要とするすべてのものは,皮膚よりも深くない小さなかすり傷であつて,直すことを促進させるものである。瘢痕組織が形づくられ始められるならば,そのほんの少しだけを取って,組織培養でも,または強度の凍結法によつて保存する。不死の種子となるのは,この小さなものであって,それのとられた人間と全く同じものを将来につくることができるのである。
『これらの種子を,ずつと期限なく,完全な保存の状態で保つことができる。生命の輝きは,抑止されている状態であるが,しかしいつでもすぐに生命を始めるのである。
『実際に,ただ一人のアインミユタインまたはチャーチルを再生する代りに,同じ双児という仕方で彼らを数人つくり出すことができる。』(ルック,1953年3月24日)遠慮しながらも,おづおづと筆者は,次のことをつけ加えています。『(そのような体ができ上る)正しい条件とは何か? 我々は知らない,そしてなかなかに知ることはできそうもない。』そうです,科学であると主張しながらも,それは支持する真の証拠のない単なる理論に過ぎません。
20 自然の事物を支配している神の律法は,そのようなことを不可能にするということを説明しなさい。
20 真の生物学の研究は,次のことを示しています。すなわち,ごく初期の胎児の状態では,胎児のすべての細胞は同じく似ているものです。しかし少し後になつて,人間の理解できない発生の力は,これらの細胞を高度に分化せしめるので,ある細胞はただ筋肉だけをつくり,ある細胞は光りの感覚をうける目の部分だけとなり,ある細胞は皮膚その他になります。ある科学者は,こう説明しています『胎児の時代に,はつきりと定まらない若い細胞は,驚くべき広い可能性を持つていて,一つの型に必ずなるものである。その型からして,細胞は高度に分化された形と機能に狭くえり分けられるのである。たとえば長く伸ばされる筋肉,または光りの感覚をうける細胞,または腸の中にある水塩酸製造所となるのである。』それらの細胞の一つとして,もし別々に生長するならば,新しい一つの体をつくり出すことはないでしよう。同じ科学者は,こう言つています。『例えば,幼い人間は,最初の月の終りまでに,将来どのように進歩発展するか,詳しく定められ,知られるのである。』(科学アメリカン,1950年2月)体の細胞と共に,血は傷を直すということは真です。しかし人間の体が,切り取られた後で新しい腕や足を出すのを見た人はいるでしようか? 新しい腎蔵や肝蔵や,また目をつくり出すのを見た人がいるでしようか?
21 そのような理論が与える『希望』は,どのようによみがえりの希望に不十分ですか?
21 ルックに表われた前述の記事を読んだ人が,真理を求めるならば,その記事の『希望』と,よみがえりについての聖書の希望を比較したく欲するでしよう。その記事によると,『再び生長した』人は,彼の遺伝原質がもともとに彼に与えた性格だけを持つでしよう。彼の生涯の経験も,また記憶も,みな失われるでしよう。昔しに生存したものとは違つたものであつて,新しく生まれた幼児のようでしよう。年を取つて,そして無数に死なねばならないでしよう。そしてまた『無』から再び出発しなければなりません。他の人が彼の『不死の庭』を世話するのに失敗するか,または不注意であるならば,彼は『再び生まれる』ことはできません。それに又,すでに死んでいる者たちにたいしては,全然希望が与えられていません。神の真の希望の代りにしようとして,なんという偽りの見えすいた,いやな,そして正しくない偽造なのでしよう。
22 どんな場合でも,人間はよみがえりを行うことができますか?
22 よみがえりの非常な奇蹟は,ただヱホバだけすることができるのです。ヱホバだけ,このよみがえりの力をもともと持つておられ,そしてその力を子に与え任せられています。『父がご自分の中に生命の賜物を持つているように,父は子にもまた,生命の賜物を自分の中に持つようゆるされたのである。』(ヨハネ 5:26,新世)人間は,心蔵や呼吸が止まつた後に,人工呼吸とか,薬品とか,または電気でもつて人を復生させることができます。しかし,細胞,特に頭脳の細胞が壊敗して後は,人間は死んでいるというのは認められた事実です。酸素が数分足らないだけで,細胞は壊敗し,とうていに直ることはありません。もう人間には,その人を助けることはできません。ただ神のよみがえりの力によつて,その人は生命に戻ります。よみがえりによつて生命に戻らすといつても,神はおそい生長の過程で,する必要はありません。神はその果てしない力によつて,瞬間になされます。イエスは,地上にいる時,しなびた手や,盲らの目が除々に直されるようにはしませんでした。彼は,ただちに,そして奇蹟的に癒されました。―マルコ 3:15; 10:51,52。
よみがえりの希望は,神の奉仕への励ましを与える。
23 私たちが油注がれた者の成員であろうと,または他の羊のものであろうと,よみがえりの希望は私たちの忠実にたいして,どのように冑を与えますか?
23 それで,クリスチャンはすばらしい希望を持つているのであり,その希望は人間が夢にも願つているもの以上のものです。それで,パウロはこのように言つているのです『冑として,救いの希望を持とう。』(テサロニケ前 5:8,新世)その希望の一つの強いものは,よみがえりです。その希望があれば,敵の攻撃によつて私たちの『頭』は砕かれることはありません。もしこの希望がなければ,神に対する私たちの忠実は,砕かれてしまうでしよう。死という打撃をうけようと,私たちの忠実を打ち砕くことはできません,なぜならば,もし私たちが天の14万4000人に属する者であるならば,『目のまたたくまに』に不滅の栄光によみがえされるということを知つているからです。(コリント前 15:52)私たちがもし他の羊のものであるならば,それは1秒だけ眠りについて,次の秒のときに目を覚ますようなものです。長いあいだ,あわれな状態にいて待つているようなものではありません。なぜならば,死ねば生命も意識も全くなくなつてしまい,無になつてしまうからです。新しい世で目を覚ました時,おそらくその人の最初の考えは,彼が死んだ時に持つていた考えの終りのものでありましよう。エノクは一つの例です。彼が目を覚ます時に,彼は新しい世の幻を心に持つていることでしよう。(ヘブル 11:5)ヱホバの御意の定めるかぎり,すべてのヱホバの証者は生きて,伝道したく願いますが,彼らは死を恐れません。
24 このよみがえりの希望を考える時,クリスチヤンは死をどのように見るべきですか?
24 愛する者たちが死んだ時でも,クリスチャンは他の人たちのようではありません。彼らは,過度に悲しむことをしません。彼らは,死は敵であると認識しております。しかし,自然の愛情の限界を越してしまつて,悲しさのあまりに,ヱホバの奉仕にあつて忠実を守る路に影響を与えるようなことをいたしません。むしろ,彼らはより固くしつかりと奉仕を続けます,というのは忠実な奉仕をするならば,彼らは新しい世に入ることができ,愛する者たちがよみがえりをうけて生命に戻つた時,再び会うことができると知つているからです。
25 よみがえりの希望によつて,なぜいま私たちははげまされ,より大きな活動に従事すべきですか?
25 なんと愛のある,そして考え深い神に私たちは奉仕しているのでしよう。神のよみがえりの約束によつて,私たちは励みをうけ,いまより一層に大きな活動に従事すべきです。1918年からよみがえされている14万4000人の成員だけではなく,地上で生きる人々にとつても,よみがえりが現実,真のものとなる時は着実に近づいています。キリストと彼の天の共同相続者は,キリストの大いなる御国の安息のあいだに,愛の心からキリストの贖いの犠牲の価値を行使し,地上で何十億と死んでいる人を,死の坑から引き上げますが,その時の彼らのよろこびを考えてごらんなさい。(ルカ 14:5。ヨハネ 5:26; 6:53)ヱホバの他の羊は,楽園の地上にいますが,ヱホバがその制度にたいして,死んだものでよみがえつた者たちを迎えるよう準備せよとの通知をうけ取る時,その時の彼らのよろこびを考えてごらんなさい。その時,彼らは非常なよろこびのうちに,よみがえされた多くの者たちに食事を与え,住居を世話し,教育し,そして訓練するよう準備するでしよう。そして,新しい世の社会のうちにあつて,彼らはみなそれぞれの立場を持つようになります。それはなんというすばらしい確信なのでしよう。ショオール ― ハーデス,『墓』がよみがえりによつて亡ぼされ,そして最後には,千年の終りに人間の社会は神の前に完全なものとなり,そして試験を通過した後に,彼らはこの美しくされた地球で永久の生命をうけるのにふさわしいものであると,神から是認の許しをいただくその時を待ちのぞむのは,なんとすばらしく,また心からよろこびを感ぜしめるのでしよう。よみがえりの奇蹟は,幾十億と人々を増加させ,死に対する勝利のうちに神の目的を立派に成就するでしよう。そして永遠の将来の時代に,二度と繰りかえして行われる必要はないものです。
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フイリツピン諸島からの報告ものみの塔 1954 | 8月1日
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フイリツピン諸島からの報告
伝道者 1946 2,069 1947 2,902 1952 17,520 1953 20,120
ヱホバ神の設立された御国についての良いたよりは,いままでにない程におおくフィリッピン諸島で伝道されています。ヱホバの御名は,国のすみずみまでに知られています。正直な人々は,ヱホバの目に見える制度にたいして,尊敬の心のうちに関心と注意を払つています。というわけは,ヱホバの証者はその区域にあつて忠実に良いたよりを伝道しているからです。また,会衆のある区域だけに伝道を制限せず,御国の音信がまだ以前に一度も宣べられていない孤立した区域や場所で伝道をしているからです。支部の僕は,フィリッピン諸島での御国の業の進歩と拡大について,次のように語つてます。
制度に入つて来た幾千という新しい人を世話し,そして訓練するためには,巡回区や地域を再編成することは必要でした。二つの地域の中で,30の巡回区はつくられました。新しい僕たちは訓練されました。神についての正確な知識を各人は学び,それから定期的な家から家への宣教にこの知識を用いることに強調が置かれました。巡回の僕は,開拓者や,会衆や,地域の研究の群や,孤立した群と会見し,兄弟たちを訓練して宣教の奉仕に従事させる必要性を強くすすめました。その努力は,実を結びました。イロコス,ノルテにいる孤立した伝道者は1通の手紙を送りましたが,その抜き書きからの次の記事によつて努力が実を結んだということについての一つの例がわかります。
『毎土曜日に私たちは群の証言をしているとお知らせすることは本当にうれしく存じます。その群の証言は,私たち自身とまた他の伝道者を訓練して定期的な家から家への伝道者になるためであり,円熟に達する道でございます。……毎日曜日の午後には,また『ものみの塔』の研究があり,私たちは熱心に研究しています。開拓者の兄弟のおかげで,この研究があることを幸いに思つています。伝道者の数は増加しました,そして先月報告した合計の数は27でございました。』
会衆と開拓者たちは非常な,努力をはらい,6月7月,そして8月のあいだに,まだ割りあてられていない区域を証言しました。一人の会衆の僕は,23人の兄弟たちの経験を報告しました。その兄弟たちは,文書や食物や,夜営するための天幕や,他の持ちものを背中に負い,北ルソンの山道を3日間歩き,いままでに伝道されたことのない区域を証言しました。どの村でも気持よく,温く迎えられ,多くの文書を置きました。一人の姉妹の開拓者は,こう報告しました。ある孤立した町の市長は,警察に命令して,公共の講演会のために椅子を運ばせました。それから家に帰ろうと傍を通りかかつた学校の先生方や他の人々を招待し,ヱホバの証者たちの音信を聞きなさいとすすめました。すぐにその場所は一杯になりました。書籍研究と『ものみの塔』研究が行われました。その市長は非常によろこびまして,公共の講演壇をすぐ修繕するようにと命じ,次の日に証者たちが公開集会を開くようにとお願いしました。証者たちは公開集会を開き,400人の人が出席しました。
法律の分野でも,良いたよりを伝道する兄弟たちの権利を守るために,戦いが行われています。イロイロのドエナスで,1952年の9月16日に,怒つた家の人は一人の開拓者を切り殺しました。その家の人は,自己防衛をしたのであると裁判所で言い張りました。その人の防衛についての証言を注意深くくわしく調べてみましたところ,その人が加害者であり,殺された兄弟はそのひどい加害にたいして自分の身を守る機会がなかつたという事実が明るみに出されました。その殺人者は,有罪に処罰され,殺人罪についてのフィリッピンの法律によつてもつとも重い刑罰をあたえられました。
フィリッピンの最高裁判所は,禁止命令を出し,マラカンバ,カミリング,ターラックの学校当局がヱホバの証者の子供たちを学校から追い出すのを禁じ,また国旗にたいして偶像崇拝の敬礼をしないからという理由で学校に入学させないことを禁じました。
すばらしい奉仕年度の最高潮は,ヤンキー野球場でのヱホバの証者の新世社会の大会でした。フィリッピンから27名が出席しました。その大会で示された豊かな真理に,強く固められ,私たちは来るべきすばらしい奉仕の年にたいしてより良く準備をととのえています。それで,神の命令に従い,私たちは伝道の仕事を行いつづけます。―1954年度ヱホバの証者の年鑑より。
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