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    ものみの塔 1954 | 5月1日
    • 神の記憶

      『これを怪しむな。記憶の墓にいる者が,みな彼の声を聞いて,出てくるときがある。』― ヨハネ 5:28,29,新世。

      1 人間についての神の最後の目的は何ですか? それはどのように実現されますか,しかし何に依りますか?

      完全な人は,栄光ある創り主の完全な反映です。地上で人間の生命が始まつた時は,そのような状態でした。そして,『聖なる都,新らしきエルサレム』の統治の下に,神が人類と再び住まわれる時に,再びそのような状態となるでありましよう。そして,すべてのものは新しくされ,各人の命の型のあらゆる不完全を取り除かれ直されるでありましよう。その時に,この新しくされた地上に住む人は誰でもその造り主の像を完全に反映します。丁度清いしずかな水の池が,夕空や,また周囲の岩と木の葉のこまかいところまできれいに反映するようです。その時を今幻しに思いうかべ,待ち望むことは価値ある良いことです。しかし,それは他のことにもまさつて神の記憶に依るのです。黙示 21:2-5; 22:1-3。

      2 いまは裁きの日であると悟ることは,どのように私たちに影響しますか?

      2 あなたはこのようなことを考えてはなりません「ああ,だがその日まではまだまだ長い。そして現在の悪い組織制度と腐敗した影響に私は束縛されているように感ずる。』この記事の目的は,あなたを助けて現在が裁きの日であり,また新しいの社会の成員として,新しい天と新しい地にあなたの生活の型を一致させることはできることであり,そしてそうするのは現在においてひじように大切なことであるとあなたに認識させることなのです。現在は神の義しい聖なるみ意と目的を支持するか,あるいは反対するかということの決定の時であります。前にのべました栄光ある幻しを見たすぐ後に,ヨハネは次のように言いました『定められた時は近づいている。不正を行う者は,なお不正をさせておけ,そして汚い者はなお汚いままにさせておけ。しかし義しい者にはなお義しいことを行わせ,聖なる者はなお聖であれ。』― 黙示 22:10,11,新世。

      3 私たちの研究についての基礎はどこにありますか?『生命の型』という言い表わし方は,どのように理解されますか?

      3 それでも,いろいろの事は反対していると,あなたは言いますか? そして,そのすべてのことは神の記憶に依ると述べられたことにあなたは驚いていますか? 答えをするために,そしてまたこの教えと関係するすべての問題を正しく理解するために,ヘブル書 11章に書かれている使徒の論議を用い,彼の見地に基いて研究をいたしましよう。この章はすばらしい定義をのべているものであり,また信仰の記録でありますので,多くの読者は良くご存知でありましよう。しかし,それだけにかぎらず,その章の中には,神の記憶についての,この題のもつとも大切なことと,また私たちの命の型の事柄についての大切なことも組み込まれています。「命の型」という言い表わし方は,あなたの現在の性格とあなたの生活しているその生活の種類を意味するものです。あなたの生活は,あなたを導くある原則によつて支配されるか,あるいは今日の多くの人に見られるように,なんの原則も持たず,ただ世間一般の流れとともにおし流されてゆくかでありましよう。

      4 (イ)私たちは誰に信仰を持ちますか?(ロ)ヘブル書 11章にはどんな報いが書かれていますか?

      4 ヘブル書 11章で,使徒はひとりひとりの名前の前に,『信仰によつて……』という言い表わしかたで紹介をしているということに,お気づきでしよう。それから,使徒は各人の強い信仰を証明する記録された証拠を続けて書いています。しかし,その信仰とは誰にたいするものであり,何にたいするものですか? これは,いま私たちが関心を払う質問です,そしてパウロは次のように言つて答えています『神に近づく者は,神が存在されるということと,彼を熱心に求める者には,報いを与える方であるということを信じなければならない。』(ヘブル 11:6,新世)このことは,神が存在されるという事実を認めるだけではなく,神は永久に存在される永遠自存の方であるという事実を認めることをも意味します。それとともに,神を熱心に求める者には,報いが与えられるという約束にも人は信じなければなりません。そして,神は永久に存在されるのですから,神に認められうけいれられる人は,その報いを永久に楽しむということは,まつたく理のかなつたことです。それでは,その報いとは何ですか? 使徒パウロは,このことについては,同じ章の少し後のところで良く説明をしています。信仰を持つていたすべての人はどのように『より良い場所,すなわち天に属する場所を待ち望んでいた』か,そしてまた神は『彼らのために都を用意されている。』とパウロは語つています。同じ手紙の後の方で,その都は『生きている(自存している)神の都,すなわち天的エルサレム』であるとはつきり表し示しています。(ヘブル 11:16; 12:22,新世。黙示 21:2をも見なさい)このことによつて,聖なる型が最後的に完成されるのを私たちの心は見ることができます。同時に私たちは古い過去にも結びつけられています。なぜならば,アベルは真の信仰を表わした者の初めの者であるとパウロは書いているからです。古い過去と遠い将来をこのように結びつけることに,記憶と型がひつようになるのです。これらの二つの言葉,記憶と型はひじように関係しあつている言葉ですので,この点をかんたんに論議してみましよう。

      5,6 (イ)記憶はどのように不思議な能力のように見えますか?(ロ)それはどのように貴重な賜物ですか?

      5 記憶とは何ですか? 記憶とは精神の能力であつて,それによつて以前の考えとか印象を心に保ち,思い起すことができます。記憶がどのように人間の頭脳の中で作用するかということに強い関心をはらう必要はありません。実際に,科学的な答えもはたしてどの程度まで,確かなものかどうか疑わしいものです。良く知つている人なのですが,その人の名前が思い出せないとか,あるいはまちがつた名前を言うような時,私たちは多く記憶の不完全と不十分なことを悲しみなげきますが,それでもこの記憶という特別の能力の非常な力と可能性に驚かざるをえません。私たちは不完全ですが,それでも記憶ということについて人間の心は何をすることができるかと考える時,全く驚くほどです。例をあげるならば,才能ある音楽家は他の能力とともに彼の心を用います,そして何時間もピアノの所に坐り演奏しますが,最もこみいつた音楽を正確に思いだし,發表するのです。しかもその音楽はすばらしい調和を保つものなのです。よく考えてみると人間が完全な状態にもどる時には,人間の欲するもの,そして記憶しようと決定するものはすべて完全に記憶することができる能力を人間は制限なしに楽しむでありましよう。これと反対に,心からなくしてしまおうと欲するものをすべて,人間は考えて忘れることができるでしよう。完全な人間は,『ああ,記憶できればなあ!』とも『忘れることができればなあ!』など言う必要はありません。そしてその日がすぐきてもらいたいというのが,私たちすべてのものの願いです。

      6 記憶はすばらしい賜ものですが,そればかりではなく,記憶はまた非常に貴重な賜物です。しかし,それにはもちろん,貴重なものを私たちは持つていて記憶するということが条件です。今の状態の下であつても,私たちは記憶の助けをうけて,ある特別の幸福な経験を思いおこし,回想する時に,非常なたのしみとよろこびを得ます。ある人と会つて,真の友情がもたらす非常なよろこびをその人と,初めて経験したのは。たぶん昔しの記憶でありましよう。また読者の多くは,ヱホバのすばらしい目的とご親切なご準備についての正確な理解をまつたく認識した時を良く記憶しているでしよう。そうです,そのような記憶は強く,そしてやさしく私たちの心と気持の奥底までゆすぶるほどに強く訴えるものです。そのような記憶は,私たちの唇の上に幸福なほほえみをもたらすか,或は思わず目に涙をうかばせるようなものでありましよう。ご親切な創造主がくださつたこの愛ある賜ものを是非とも十分に感謝いたしましよう,そして賢く用いましよう。

      7 神の目的についての最も良い導きはどこにありますか? その導きは私たちに何を見させますか?

      7 しかし,神の記憶についてはどうでしようか? 創造主の心がどのように働き,その機能と能力がなんであるかなどと人間が論議するのは,僭越なことです。創造主ご自身がよろこんで人間に与え,知らせられているものだけを人間は論議することができます。彼は人間に与え,知らせていますか? まちがいなく,彼はそうされています。創造されたものの目に見える業でさえも,果てしない創造主の能力と智慧と心を雄弁に証明しています。使徒はこのように申しています『神の見ることのできない性質,すなわち永遠の力と神なることとは,世の創造の時以来,造られたものによつて理解することができ,明らかに見られる。』(ロマ 1:20,新世)しかし,人間家族についての神の目的をより多く十分に神が示されているものは,彼の書かれた言葉の中にあり,そしてその言葉によるものです。またそれと兼ねてその言葉によつて,私たちは神の心がどのように働くかを知ることができます。始めに,人間を創造した記録に,神はこう言われました『私たちの様子にしたがつて,私たちの像のように,人間を造ろう。』(創世 1:26,新世)それは精神能力において,そして考えることと,記憶という点において,その様子が似ているということを確かに意味するものです。じつさいに,聖書に書かれている最初の会話は,記憶の試験にも関係がありました。蛇はエバに言いました『神が……を言つたのは全くその通りであるか?』 そして,エバは答えて神の言つたことを彼女は記憶し,理解し,完全にくり返して言うことができると示しました。―創世 3:1-3,新世。

      8 その目的に関係する神の記憶について聖書は何を示していますか?

      8 さて,神の記憶についてのこの問題をヘブル書 11章で論議されていることがらの見地から研究いたしましよう。その章で,パウロは信仰をもつた男と女の長い表を書き,そしてそれらの者たちが共に信仰をもつた報いのことを語つているのを,私たちは記憶しています。この報いは,天てきな都を中心としていました。しかし,信仰を持つた最初の人アベルに,都のことについて何か言われましたか? いいえ,言われませんでした。しかし,アベルの時代に,神は彼の最初の約束をすでに与えられていました。その約束とは,都の約束ではなくて,最後には蛇の頭を砕く女の裔についての約束でした。(創世 3:15。ロマ 16:20)聖書に書かれてあるこの主題を研究いたしますと,神はその最初の約束をつねに心にとめられているという事実は一番はつきりと示されています。そればかりではなく,その約束が最後にはどのように成しとげられるかということを,神ははつきりと知つており,決心していました。彼は自らこう語られています『私はヱホバである,私は終りのことを初めから語り,私のような者は一人もいない。……私の意見はなしとげられ,私のすべの喜びをする。』(イザヤ 46:9,10ア標)このすばらしい神の言葉は,神の記憶はけつして偶然な仕方で働かないということを示します。私たちの場合ではしばしば,ある事柄が私たちの記憶を早めるなどいたしますが,それはある密接に関連したことがらに私たちが注意をむけるからです。しかし,神の記憶はそのようなものではありません。神は終りのことを初めから知つており決心しておられると言う時,神はそのことをいつも気にとめておかれそのことについて常に考えられ,記憶されているということを意味します。それはまた,他のあることをも意味します。すなわち,彼は目的を立てられ,そして企画をされる神ということを意味します。ここで,私たちが興味を持つている他の言葉,すなわち『型』という言葉が必要となります。

      型

      9 『型』という言葉は聖書でどのように用いられていますか? それは何という他の言葉と関係がありますか?

      9 型は,写してある導きとして,または雛型として役立つよう形造られているか,設計されているものです。型という言葉は,『模型』という言葉とその意味は似ています。『模型』という言葉は,将来にくるあるものの形または代表物を示します。『型』という言葉は,聖書の中に二,三度表われています。その使用についての良い例は,ヘブル書 8章に見出されます。その章で使徒はイスラエル人の祭司たちと幕屋の制度のことを話し,こう言つています『人々は,天にあることの模型の代表と影にあつて,聖なる奉仕をささげている。というのは,モーセが完全な幕屋を作ろうとした時に,神から次のように命ぜられたからである「お前に山で示した型(欄外,模型)に従つてすべてのものをつくるようになさい。」』(ヘブル 8:5)それから,パウロはひき続いてその型,または模型の成就について説明を続けています。彼は型とその成就との間の密接な調和を示していますが,同時に成就は型よりもより良く,より大きいことを示しています。じつさいに,ヘブル人への手紙の全部は,この論議の形式にもとづいています。

      10 (イ)型はいつも何を含みますか?(ロ)これは,私たちの研究の題にどのようにあてはまりますか?

      10 一つの型,または模型ということを話す時には,いつもそれには特別の目的または企画が結びつけられているということを注意してください。最初に,型そのものは偶然にまかされて作られているのではなく,ある目的にしたがつて作られているということです。それから,その希望した目標を全く達成しようと強く期待しながら,行うあらゆる順序と,関係するあらゆる仕方は,原の型と全く一致調和していなければなりません。つけ加えられたり,又大きくもされましようが,しかしすべてのものは最初の型と,それに結びついている目的とに調和していなければなりません。このことは,私たちがいま論議していることについて,なんと真であるかを見てごらんなさい。この場合,最初の型はある目に見える物質のものではなくて,エデンで与えられた裔についての約束の言葉でした。アベルの時にそれだけの約束しかありませんでしたが,彼はそれを信仰の基いとして持ちました。そして,それは十分でした。その時よりこのかた,神はいろいろと約束をつけ加えて与えられましたが,すべては最初の約束と調和しており,最初の約束の発展でありました。それから,パウロはヘブル書 11章で,永遠に存在される唯一人の真の神に同じ信仰を持ち,そして原の約束が全く成就される時に与えると神の約束されたすばらしい報いに同じ信仰を持つた人々を記しましたが,パウロはそれらの人々を一つの連続せる鎖に正当に結び合わせることができました。『都』という主題は,つけ加えられた主題であつて,時がたつにつれて型として用いられたことは真です。しかし,調和はたやすく見ることができます,なぜならばその都は神の支配する制度と政府を象徴していますが,その都の王は,ほかの者ではない約束された『裔』,すなわち神の女が産むところの神の子,王イエス・キリストであるからです。

      11 ヘブル書 11章に録されている者たちとクリスチャンたちはどのように密接に結ばれていますか?

      11 また,その連続せる鎖は,キリストのくる前に生活して死んだ信仰の人で終つていないことに注意してください。その鎖は,キリストに従う者たちおも結びつけているのです。そしてキリストは証者のすべての群の中心であり,要点であります。前に述べてありますが,この点において,この研究は,現在の決定の時に生活している私たちを助けて,正しい手本に私たちの生活を従わせる必要を認識させるものです。その鎖りの中に書かれている人と『私たちを取りかこんでいる雲のような証者』から得るすべてのはげましと,忠告のほかに,『私たちは,信仰の指導者であり,完成者であるイエスをしつかりと見つめる。』(ヘブル 12:1,2,新世)そうです,彼等と同じ信仰を私たちは持ち,同じようにその信仰を表わし同じ都を期待して頼らねばなりません。アブラハム,イサク,ヤコブのように,現在の悪い組織制度とその腐敗している影響の中にあつて,私たちは『他国人,一時的に住まう人』であると自らを証明しなければなりません。『なぜならば,ここには永続する都を私たちは持つていない。私たちは将来にくる都を熱心に求めているのである。』― ヘブル 11:13; 13:14,新世。

      12,13 (イ)その目的についての神の記憶と型は,彼の御名と言葉にどのように関係がありますか?(ロ)パウロの言うことは,ただ一つの面だけで信仰を強めますか?

      12 それですから,信仰の問題についてのパウロの論議は,神の確かな記憶と,そして神がいつも心に留めておられる神の目的の調和せる型について明白に説明し表わしているものです。実は,神の御自身の御名そのものがこれと同じことを強く強調しています。神の御名であるヱホバという名は,神の与えた型が完成するということに正しく信仰を持つことに対して,最初の基いを与えるものです。彼は自ら次のように語られています『ヱホバである私は変ることはない。』ヱホバはいつも彼の契約を心に留めておられます。彼の言葉もまた,一人の造物主を表わし示しています。その造物主は,糸をどのようにたぐり,主題を順次にどのように取りあつかうかを知つています,そして栄光に輝く,調和のある型を織りだします。その概略は簡単でありますが,その中に織りこまれた詳細においては複雑なものです。―マラキ 3:6。創世 9:15,16。レビ 26:42,45。エゼキエル 16:6。

      13 しかしパウロの論議は,神の目的についての神の記憶に信仰を持つよう私たちを大きくはげまし,支持するばかりではありません。それ以外の他のものに信仰を持つ強い基いを与えるものです。それは何ですか?

      復活に信仰を持つ

      14 (イ)復活を信ずることは,真の信仰を必要とするとイエスは示しましたか?(ロ)キリスト教国の教えは,どのようにこの教理に違反していますか?

      14 『記憶の墓にいるものが,皆彼の声を聞いて出てくるであろう。』というすばらしい発表をイエスがした時,『これを怪しむな』という言葉を前につけたのは,理由のないことではありませんでした。(ヨハネ 5:28,29,新世)聖書に教えられている復活を信ずることは,信仰についてもつとも厳しい試験の一つであるとイエスは良く理解していました。もちろん,キリスト教国が一般に復活の教義を説明している仕方によれば,真の信仰を持たなくても良いものです。それですから,一般大衆は聖書の真理よりもキリスト教国の教えの方をうけ入れるのです。普通一般の教えによると,人間は不滅の魂であるところの真の自我を持つているのであつて,死は生命からの中止または切断を意味するのではなくして,むしろより全き生命に導く戸口を意味するというのです。しかし,そのような教えをうけ入れるならば,復活の意味は単に体と魂の再結合にすぎないということになりましよう。この復活という問題について,キリスト教国の偽りの教えと論争するために,聖書からの証明を書いて述べるのは,この研究における私たちの目標ではありません。その種の問題は,この雑誌の以前の号や,ものみの塔協会の他の出版物の中に十分研究されています。神の記憶についてのより良い理解と認識を得ることによつて,復活に対する信仰を強めること,そしてこのことは私たちの生活の型をどれ程強く影響するかを見るのが私たちの目的です

      15 ヨハネ伝 5章28,29節の前後の文の関係から何が示されますか? 記憶の墓とゲヘナとの対照は何ですか?

      15 イエス自身が,復活に対して非常に大きな信仰を持つていたことは疑いありません。復活ということは,イエス自身の考えと思いから生じたのではありません。死から甦えるという権威と力を含めて,すべてのほまれは彼の天的父にささげられるべきであるとイエスは認めました。死から甦えるとは,再び生命に立ちまたは起きることであつて,それこそ『復活』(ギリシヤ語でアナスタスイス)という言葉の本当の意味です。ヨハネ伝 5章19-27節を読む時に,このことは明白に判ります。28節と29節で最高潮がきます。特に『記憶の墓』と言われていることに注意しなさい。これは,他の場所である『ゲヘナ』とは全く対照をなすものです。ゲヘナでは,刑を執行された罪人の死体が投げこまれました,なぜならば彼等は死から復活をうけるにはあまりに卑しいと考えられましたので,鄭重な埋葬もされず,記憶の墓も持つていませんでした。

      16 (イ)イエスは,伝道之書 9章5,10節と一致しているとどのように言いましたか?(ロ)ヨハネ伝 11章25節でイエスの述べたことはどのように正しいと判明しましたか?

      16 イエスは『記憶の墓』という言葉を用いましたが,このことは伝道之書 9章5,10節(ア標)に書かれてある霊感の記事とイエスは全く同意していることを示すものです。こう書かれています『生きている者は,死ぬことを知る,しかし死んでいる者は何も知らない,……お前が行くシォール(墓)には,働きも,考えも,知識も,知慧もない。』そうです,シォールは人類の共通な墓であつて,その地上の生涯が終る時に人間が行くところです。彼の選ばれた多くの者たちをその記憶の中に留めることができる天的父の力と能力とにイエスは全き確信を持つていましたので,その当時一般に使われていた『記憶の墓』という表現をイエスは用いました。イエスは『私は復活であり生命である』と言いましたが,それは正しいことでした,というのは後になつてイエスは神の力によつて『すでに四日間記憶の墓にいた』ラザロを死から甦えらすという疑うことのできない証拠によつて,そのことを証明しました。イエスの友であるラザロが死ぬ前,イエスはそこに居らず彼の病気を治しませんでしたが,イエスはそのことを非常によろこびました。そのイエスのよろこばれた二つの理由にどうぞ注意してください。最初の理由は,『神の栄光のためであり,それによつて神の子が崇められるためである。』第二番目の理由は,『あなたがたが信ずるため』でありました。確かに,私たちは復活に強い信仰を持つべきであり,疑う理由は全くありません。―ヨハネ 11:4,15,17,25,新世。

      17 ヨブは何を述べることによつて,復活への信仰を表わしましたか?

      17 死んだ者たちをその記憶の中に留められる神の能力に,そのような信仰を持つことは,なにもイエスの時代に新しいものではありません。そのことはヨブについての昔の記録からはつきり示されます。ヨブの言葉は,ヨブ記 14章13節(ア標)に記録されていますが,信仰を表わすなんという立派な言葉なのでしよう『あなたの怒りが過ぎ去るまで,私をシォールに隠し,私を隠しておいてください。そして私に定めた時を指定し,それから私を思い起してください!』

      18 死んだ者すべてが神の記憶の中に留められているかどうかということについて,聖書的な答えは何ですか?

      18 すでに申しましたように,死んだ者すべてを,一人残らず彼の記憶の中に留めようとは神はいたしません。神はその御心を用いてある者を記憶しますが,また御自分の意志でもつて,他の者を忘れることができ,そして忘れるのであります。そのことをどのように決定するかについて,神御自身の言葉はこのように語つています『義しき者の記憶は祝福せらる。しかし,悪い者の名前はくさる。』― シンゲン 10:7,ア標。

      19 復活への信仰についてパウロは特にヘブル書 11章でどのように論じましたか?

      19 また使徒パウロも死んだ者の復活に強い大きな信仰を持つていたことも,同じように疑いありません。パウロも又,この復活という教理は信仰についての厳しい試験であるということを知つていました。そのことは,例えば,アテネに於ける彼の経験からも判ります。(使行 17:31,32)パウロの書いたものの中で,この復活という題は,非常に目立つているものです。例えば,よく知られているコリント前書 15章には,あの力強い論議が書かれています。またロマ書 4章16-25節(新世)で,パウロは父アブラハムの信仰について論議していますが,そこで『死んだ者を生かし,無いものをあたかも在るように呼ばれる』神に信仰を持つことはいかに大切であるかと示しています。しかし,使徒がヘブル書 11章で取り扱われている信仰の主題と,復活についての信仰の関係に,私たちは特別に関心を持つています。この章でもまた,パウロはアブラハムとサラの例を引用して,先ず約束された裔を産み出す神の力にたいする彼らの信仰について語つています。子供を産むということについて,一般常識で考えるならば,彼らは両方とも死んだも同様でしたが,しかし神の力に信仰を持ちました。それから,このヘブル書 11章に述べられているすべての人を含めて,パウロはこう言つています『信仰をもつて,これらすべての者は死んだ。』そして最後に,こう説明しています『彼らは約束の成就をうけなかつた,なぜならば神は,私たち(クリスチャンたち)のためにより良きものを先見せられて,そして彼らは私たちと離れては完成されないからである。』(ヘブル 11:12,13,39,40,新世)それですから,結論は疑いもなくこういうことになります,すなわち約束され,そして彼らのために用意されているその都で彼らを待つているものの成就を彼らが楽しむためには,是非とも死からの復活が必要です。

      20 死んだ者の復活について,私たちは何故あやしむべきではありませんか?

      20 あなたはこれを怪しみますか? そのようなことが起るということについては,全くなにも不合理のものはありませんし,不自然のものはありません。かなりの年輩になつた人が,おそらく学校の時以来聞かなかつたような人の名前が言われるのを聞くというのは,けつしてめずらしいことではありません。すぐにその人のことを想いだします,そしていわば,その人を心の目に再創造します。たとえば,その人がどんな風に衣服を身につけていたか,その人の顔つき,おおくの特徴やでき事などを想い出します。また,音楽家のことをも考えてください。音楽家は,楽符のついている一曲の音楽だけでなく,多くのしかも変化している音楽を何曲も正確に記憶し再現することができるのです。人間は多くの制限をうけており,また不完全ですが,その記憶という点については,すばらしい能力を持つているということを異議なく私たちは認めます。それでは,人間の心を造り,その心がどのように働くかを正しく知つておられる全能,無限の創造者に,その記憶に留められている者すべてを,記憶の墓より呼び戻し,再生する力がないなどと私たちは考えるべきではありません。そうです,各個人を形成するすべての特質と心の印象のすべてを神は記憶されているのです。パウロは適切にこう言いました『神は死人を甦えされるということが,どうしてあなた方にとつて信ぜられないと判断されるのか?』 ただ一つの答えしかありません。『これを怪しむな。』― 使行 26:8。ヨハネ 5:28,新世。

  • ヱホバの『記憶の本』
    ものみの塔 1954 | 5月1日
    • ヱホバの『記憶の本』

      1 何に基いて各個人の裁きは遂に決定されますか? このことはどんな疑問に導きますか?

      ヱホバは完全な型です。サタンは悪と不正な型の創始者であるという汚名を持つています。すでに始まつている裁きの期間の間に,各個人の生命の型は,一つの種類のものであるか,または他の種類のものであるか必らず裁かれるでありましよう。神の子供として,神に認められるすべての者に用意されている永遠の祝福を相続するに価値あるものとされるか,あるいは『第二の死を意味する火と硫黄の燃える池に』入れられる人々の中に加えられるでしよう。(黙示 21:7,8,新世)どちらの種類の型をあなたは形造つていますか? 人間の生命の型を変えることはできますか? もしできるならば,ヱホバに認められるような生命の型を築き上げるにあなたはどのように助けられますか? これらの質問にたいして,私たちは十分慎重に考えねばなりません。

      2 今は裁きの日であることについて,マラキの予言はどのように示していますか?

      2 マラキ書 3章にあるマラキの予言は,『あなたがたの求める主が突如として彼の宮殿に来る』時に,裁きの期間は始まると告げています。そして,誠実をもつて主を求め,『義の捧げものを主に捧げよう』と欲しているすべての者を,主は清め,また完全な型に回復されるとその予言は告げています。同時に,その予言はこのように告げています。すなわち,マラキの時代にレビの子孫たちで構成されていた祭司級は,腐敗した型に従い続けましたが,それと同じように自分自身の腐敗した型に従い続ける者に『対して,主は速かに証者』となりましよう。(マラキ 3:1,3,5,ア標)他の聖句と結び合わせて,考えてみますと,西暦1918年の春に,主が彼の宮殿に来たことの成就は見られました。すなわち,それは1914年の後期に,御国が誕生してから3年と半年後のことでした。このことについては,この雑誌の欄で多く示されています。(1953年,8月15日号のものみの塔290頁を見なさい)それですから,前述の質問を正直な心をもつて直面することは非常に必要なことです。

      3 マラキの予言のどの部分が生命の型の疑問に光りを投げかけますか?

      3 マラキの予言の多くの部分は,初まりの言葉が言うように,本当に『重荷』です,しかし簡単な部分ではありますが,輝く希望と約束を鮮明に示しているところがあります。それは私たちをほつとさせ,大きな慰めと励ましを与えるものです。二つの種類の型がはつきり表わされる時を明白に語つている箇所がありますが,いまその点に注意してみましよう。こう書かれています『それから,ヱホバを恐れていた彼らは,互いに語つた。ヱホバは聞かれた,そして彼を恐れ,彼の名前を考えた者たちのために,記憶の本がヱホバの前で書かれた。万軍のヱホバは言われる,私の造る日に彼らは私のもの,私の所有となるであろう。人間は,自分に奉仕する子供をあわれむが,それと同じように私も彼らをあわれもう。それから,あなたがたは戻り,美しき者と悪しき者の間,神に奉仕する者と神に奉仕しない者とを見分ける(違いを見る,ロザハム訳)であろう。』― マラキ 3:16-18,ア標。

      4 ヱホバの『記憶の本』と言うと,どんな質問が生じますか?

      4 この中に,ヱホバの『記憶の本』と言われていますが,これについて私たちの心は質問で一杯になります。この本は何ですか? これはたんに言葉の形容ですか,それともヱホバは彼の記憶をよび起すのにある種類の本か記録が必要なのですか? その目的は何ですか? その本には何が書かれていますか? それは黙示録に言われている『生命の本』と同じですか?(黙示 3:5,その他。)

      5,6 (イ)聖書の表現を研究する時,何を私たちは記憶すべきですか?(ロ)マラキ書 3章16節と似た表現は何処にあつて,どのように私たちを助けますか?

      5 これらの質問に対して,神の本,すなわち書かれた言葉に記されていることがらから,私たちは答えることができます。最初に,私たちはこのことを記憶しなければなりません。すなわち,神は御自身のことと霊界にあることを語られる時に,私たちの限りある心でよく認識することができる表現と説明を用いられるということです。用いられている文字通りの言葉や説明にたいして私たちは好奇心を持ちすぎて,伝えようとされている考えまたは真理の大切なことがらから注意を外らしてはなりません。例えばイエスは『あなたがたの髪の毛はみな数えられている』と言いましたが,この事の文字通りの面について,なんと人々は無駄に論議していることでしよう。(マタイ 10:20,新世)前のところで,ある程度論議いたしましたが,ヱホバの記憶に欠点があるとか,少しの程度であれ彼の記憶を呼び起されねばならぬということは全くありません。エステル書 6章1-3節には,類似のことがらが記されていますが,それは私たちをよく助けるものです。その箇所は,こう書かれています,ある晩に王は眠ることができず,『記録の書』を読ませました。実は以前に,王の福祉を守つて,モルデカイは献身の忠義なふるまいをしたのでしたが,それについて王は,それからこう尋ねました『何のほまれと位をモルデカイに与えたか?』 それですから,この書かれた記録は,『記憶の本』として役立つたということが判ります。そしてこの場合に,王は恵みを与え,その忠実な僕モルデカイに適当な報いが与えられたという結果になりました。

      6 全くこれと同じように,マラキ書 3章16-18節によると,ヱホバの忠実な献身した僕たちは,この裁きの日においてヱホバより恵みと報いをうけるという強い確信を持つています。(詩 62:12。黙示 22:12)その裁きの時に,それらの僕たちの一人といえども見のがされることは全くありません。その裁きの時とは,現在の今であつて,『私が宝石(特別な宝)を造る日に』誰が神に属するかをヱホバが決定している時です。―マラキ 3:17,欄外。

      生命の型,良いですか,悪いですか?

      7,8 ヱホバを完全な型として語ることは正しいですか? この点について,アダムとエバは何と言われますか?

      7 これから,生命の型について聖なる記録の中に表わされているある事柄に戻り,それらをたどつて研究いたしましよう。そうすれば,すでに述べられているそれらの質問に十分満足な答えを得ることができます。

      8 ヱホバは完全な型であると語るのは正しいことです。そのことは,次のモーセの歌からも判ることです『彼の活動は完全であり,彼の道はみな公正である。誠実の神であられて,不正のない方であられる。彼は正義であり,正しい方であられる。』(申命 32:4,新世)『彼の活動は完全である』とそれは言つていますが,そのことは私たちの最初の両親であるアダムとエバの創造をも間違いなく含んでいるのです。そして彼等は最初に完全な生命の型を持つていたことを意味します。その自由な意志を用い,そしてその意志で決定して,彼らはその完全な型を悪くしました。愛ある献身の精神のうちに,沈黙の従順を捧げて彼らの創造者を敬う代りに,彼らは利己的になり,彼らの目を開いて絶対の自由,すなわち神から独立する自由を得させるものと思われたことを彼らはいたしました。それは神の命令を無視した行いでした。

      9 カインとアベルの間にどんな対照が見られますか? そのことはどんな教訓を教えますか?

      9 さて,彼らの直ぐの子供たちカインとアベルに少しの間,注意いたしましよう。その生命の型において,それはなんという対照なのでしよう! 二人とも同じ両親から生まれ,同じ両親の影響の下にいたのでした。カインは,ヨハネの言つたように,『悪い者(サタン)から出てきた』のであつて,悪い業のその悪い型に従うことを選びました。カインはしつとの精神と憎しみの精神をもつていましたので,その当然の悲劇の最後,すなわち殺人をすることになりました。しかしアベルは信仰を持つことを選びました。そしてその信仰を正しい行動によつて証明いたしましたので,アベルの名前は最初に神の記録に書かれたようです。私たちは一人一人自分自身の生命の型に責任を持つということを,これは表わしています。私たちの両親とか,その他の者を非難して,言い訳をすることのないようにしましよう。―ヨハネ第一 3:12。ヘブル 11:4,新世。出埃 32:32。

      10 人間の生命の型を変えることはできると聖書は示しますか?

      10 創世記の後の方においても,この問題について別のことが示めされています。そしてそれは心の変化を経験することは可能であり,その結果生命の型に変化が来るということを示す例です。それはヨセフの兄弟たちについてです。彼らは始め,しつとと悪意の心を持ち,残酷で叛逆であることを示しましたが,しかし後になつて最もつらい厳しい状況下にあつても,ベニヤミンのために弁護し願う程になりました。ユダは私たちの心を深くゆすぶる願いの言葉を言いましたが,心の変化を示すこれ以上の確かな証拠を想像することはできないでしよう。(創世 44:16-34)パウロはエペソのクリスチャンたちに次のように書きました『あなた方は,以前の行動に従う古い人格を脱ぎ去るべきです。……そして,真の義と愛のうちに神の御意に従つて創造される新しい人格を着るべきである。』(エペソ 4:22-24,新世)確かに生命の型を変化することは可能です,そして古い悪い組織制度の腐敗を逃れ,新しい世の社会に入ろうと思う者は誰でも,生命の型を変化しなくてはなりません。

      11 モーセがヱホバの『本』について語ることは何故合理的ですか?

      11 聖書の次の本である出埃及記に,初めてヱホバの『本』という言葉が出ています。(出埃 32:32,33)モーセはそれを,認められた事実として話しています,そしてヱホバはそれに反対せず,それを確証しています。モーセがどのようにその事を知るようになつたか,はつきりした言葉は述べられていませんが,それは二つの理由からであつて驚くにはあたりません。最初にそしてもつとも大切なことは,アベルの時以来,信仰を持つて死んだすべての者はヱホバが彼らのすべてをその記憶の中に留められる,すなわち人間の言葉で言うならば,本のようにして彼らについての永久の記録を保存されるということに強い確信を持つていました。第二に,書くという技術は洪水以前の時代にまでさかのぼるという証拠が示めされているということを考える時,モーセがヱホバの記憶についての彼の信仰を表わすのに,その著者によつて書かれ,保存されている本という直喩を用いても不思議なことではありません。ヱホバはよく考えられてから記憶することもできれば,忘れることもできると前に述べましたが,そのことを確証するものとしてヱホバ自身の言葉はこう言われています『私に罪を犯す者を,私は私の本からふき消すであろう。(単に線を引いて消すのではありません)』― 出埃 32:33。

      12 『小羊の生命の巻物』について言うことは,どのように適当でありましようか?

      12 それですから,出埃及記から黙示録にいたるまで,ヱホバに認められ,ヱホバの前にあつて義の地位をとる者の名前を記してある本ということについて多く述べられているのです。ただ父が『すべての裁きを子に任された』時から『小羊の生命の巻物』と読むことは適当なことになるのです。―ヨハネ 5:22。黙示 21:27,新世。

      13 ダビデの記録の中に,そして神とダビデとの交りにおいて,何かきわだつてはつきり表わされていますか?

      13 次にはダビデです。批評家たちはダビデを嘲笑して,ダビデの生命の型は,非常に欠点のある種類の型であると指摘し勝ちです。ダビデは欠点を持つていて,時には非常な罪過をするようになつたことは本当です。しかし,私たちは注意してヱホバの認めるものを非難するようなことをしてはなりません。ダビデは,いつも神の真の崇拝に身を捧げ,神の奉仕にいつも献身しました。ダビデについて神はこのように言われました『私の心に適う者であり,私の目的とするすべての事をするであろう。』(使行 13:22,新世)ダビデの過失について,記録は隠そうとせずまた飾りつくろつてはいませんが,非常にはつきり表われている大切なことがらは,その僕に対する神の大きな恵みであります。批評家たちがより大きな恵みを必要としても,その時はもう遅すぎてしまうかもしれません。そういうことの前にダビデを非難する批評家たちはダビデに対する神の大きな恵みを良く心に留めておいたほうが良いでありましよう。実際に,裁きが恵みでもつて和らげられているということは,私たちの研究に関係を持つものであり,聖書の中にはつきり目立つものですから,私たちは特別の注意を払わねばなりません。

      裁きは恵みで和らげらる

      14 神の裁きと恵みについて,マラキ書 3章17,18節は何を示しますか?

      14 『人間は,自分に奉仕する子供をあわれむが,それと同じように私も彼らをあわれもう。』(マラキ 3:17,ア標)ここに述べられている条件に注意してください。ただ子供だからという理由だけでは,ヱホバはあわれみません。子供であつても,奉仕をすることによつて示される証拠に,強調がおかれています。さらに引きつづいて予言が示すように,ヱホバはこの裁きの日にあつて,正義であると彼が考えられる者(しかし彼らは多くの恵みを必要とする)と,悪い者と裁かれ,そして彼の本から取り消される者とを明らかに示し区別されます。かんたんではありますが,厳しい験しに注意してごらんなさい『それから,あなたがたは……義しき者と悪しき者の間,神に奉仕する者と神に奉仕しない者とを見分けるであろう。』私たちは,いま裁きの日にいることをどうぞ記憶してください。―マラキ 3:18,ア標。

      15 詩篇 103篇は,ヱホバの恵みと記憶をどのように密接に結びつけていますか?

      15 そうです,しかし神の奉仕に固くつき従うそれらの子供たちを神はどのようにあわれむでしようか? 詩篇 103篇を読んでみましよう,そして神の記憶と彼のめぐみとの間の密接な結合を見てみましよう。最初に,第2節には私たち自身の記憶を保つよう呼びかけられています。『そのすべての恩恵をわするるなかれ。』それから第8節から後には,ヱホバのめぐみと御親切について輝くばかりに明日に述べられています。そのことについて,次のような事実は証拠となります『そのわれらより罪過を遠ざけたもうことは,東の西より遠きが如し。』(詩 103:12。またイザヤ 12:1を見よ)彼は本当にゆるし,本当に忘れるということをそれは意味しています。人間は彼自身の子供をあわれむとマラキは言つていますが,そのことに良く似た表現をこの詩篇は用いています,そしてヱホバは常に次のことを心に留められていると語り,私たちを慰めています『ヱホバの己をおそるる者をあわれみ給うことは,父がその子をあわれむが如し。ヱホバは我らのつくられし状をしり,われらの塵なることを念いたればなり。』人間の生命は短く,すぐに死に絶えてしまいますが,それとは非常な対照をなすものはヱホバの恵みとあわれみです。それは『永遠から永遠まで』であつてマラキの述べている同じ条件を守る者たちに示されます。すなわちそのような者とは,『ヱホバをおそるる者……その契約をまもり,その訓諭を心にとめて行う者』であります。―詩 103:13,14,17,18。

      16 さらに深いどんな問題が起りますか? そして私たちはそれをどのように見るべきですか?

      16 しかし,これと関係して,さらに深い問題が時に起ることがあります。というのは,ある悪い習慣が,自分で思つていること以上に私たちの以前の生命の型に深く食い入つており,それらの悪い習慣に私たちが幾度もつまづき,失敗する時に生ずる問題なのです。そういう時には,私たちは非常にがつかりして,もうこれ以上貴重な御国の福祉をひろめる業に従事することには全く価値のない者であり,真理の清い音信を語るにふさわしくない者であると感じるかもしれません。あなたがそのような不幸な気持でいる時,何をすべきですか? 絶望してはいけません。許されることのできない罪を犯したなどと結論してはなりません。あなたがそんな風に考えるならば,それこそサタンの思う壺です。あなた自身がかなしんで気にしているという事実は,あなたが行き過ぎていないという証拠です。謙遜な心をもつて,熱心に神に願うということに倦んではなりません。そしてつねに神のゆるしと,清めとそして援助を求めなさい。同じ弱さのために幾度となく度かさなる場合でも,困つた時の子供がその父親のところに行くように,あなたもヱホバのところに行きなさい。そうすれば,非常な御親切を持たれているヱホバはあわれみの心であなたに授助を与えるでしよう。そしてもしあなたが真面目で熱心ならば,ヱホバの助けにより,あなたは清められた良心というものを認識するでしよう。問題はこうです,ヱホバはどのようにして私たちを助けられるかということです。そのヱホバの助けによつて,もつと忠実に全くきよめられた道を維持するには何が重要な要求であるかを私たちは見ることができます。

      身を捧げることと献身

      17 クリスチャンに適用するものとして,身を捧げることと献身にはどんな意味がありますか? それらにはどんな区別がありますか?

      17 『身を捧げること』と『献身』は互いに密接な関係を持つており,多く同意味を持つ言葉のように使われています。しかし,これらの言葉には区別があります,そしてその区別は聖書からも支持されるものです。その区別は私たちが考えて研究していることを助けます。身を捧げるということは,気持と関係のあることがらです,そしてクリスチャンにとつて,それはヱホバへの熱烈な愛,強い愛着,そして熱心な忠義を意味します。これに反して,献身はより鋭い言葉であつて意志の力を用いて,決定し決心をする事柄についての心に関係するものであります。定義されていますように,私たち自身をヱホバに献身するということは,聖い生命のみを私たちが行い,この世的な目的に触れて汚れることもまた用いられてもならないことを意味します。私たちは清い汚れない宗教を実行しなければならないことを意味します。

      18,19 (イ)イエスについて,この区別はどのようですか?(ロ)クリスチャンの夫と妻について,その区別はどのようですか?

      18 完全な手本であるイエスを考えてみましよう。彼が地上にいた時,その幼い子供の時から天にいる父にたいして,イエスが心から完全に身を捧げられたということについては疑いがありません。しかし,イエスが家庭に居た間には,彼の決心または決定を必要とするような特別の問題に直面しませんでした。彼は完全でありましたから,イエスは『智慧も身の力も増し加わり,神と人々とに愛された。』自分の生命の型どおりに働くことは容易であり,当然であつたと言えましよう。(ルカ 2:52,新世)しかし,30歳に近づくにつれて,彼の父はイエスのために全く異つた生命の型を考えられていたということを神の言葉からイエスははつきりと悟りました。そのことは,ヘブル書 10章5-7節で使徒が詩篇 40章6-8節を適用していることからも示されます。イエスはその状況とそれに関連するすべてのことを十分良く判断してから,完全ではありましたが自分自身の意志を捨てることを決定したとそれらの聖句は示しています。その代りに,聖書に示されている神の御意を行わうとイエスは決定しました。そしてその決定を最後までなしとげようと決心しました。神の御意のみに没頭しようとするその決定と決心は,つまり献身ということです。イエスはそれをいやいやにしたのではありませんでした。または義務の気持からしたのでもありません。しかしこのように言いました『わが神よ,我は御意にしたがうことを楽しむ。』(詩 40:8)別の言葉で言うならば,イエスは愛の気持から身を捧げ自らを献身しました。彼自身の説明を用いるならば,彼の父は非常に甘いものと非常ににがい分とを含んでいる盃をイエスに与えました。こうイエスは言いました『私はよろこんでその盃をうけいれよう,そして飲み尽くそう。』― ヨハネ 18:11。

      19 別の例を取りましよう。それは夫と妻との関係であつて,エペソ書 5章21-33節に説明されています。クリスチャンの夫はその妻に身を捧げており,妻を心から愛します。クリスチャンの妻も同じくその夫に身を捧げています。しかしクリスチャンの妻の場合にそれ以外のことが要求されています。結婚をする時に,夫が『あらゆることに』頭であることをクリスチャンの妻は認め,『丁度会衆がキリストに従うように』夫に従わなければなりません。(エペソ 5:24,新世)それですから,結婚生活に関する限り,クリスチャンの妻の関係は身を捧げるということだけではなく,献身ということがらをも含んでいるのです。彼女は夫を愛するということだけではなく,頭として夫を深く尊敬します。もちろん,毎日その結婚の誓いを果たし,夫に待ち頼むという時に,時折り辛い時もありましようが,クリスチャンの妻は心から夫を愛し,彼女の頭として夫を尊敬することによろこんでいます。

      20 ヱホバへの私たちの大切な義務について,マラキの予言はどのように強調していますか?

      20 心から身を捧げて献身の生活を送るということについて学んできたこれらの教訓は,ヱホバにうけ入れられる道を正しく守るための大切な要求を良く概略してはいませんか? その正しい道を守ることは,彼の『記憶の本』の中に書き留められるという保証をうけるものです。どんな時でも,何時もヱホバを恐れましよう。そして彼の御名を考えましよう。どのようにして彼の御名をもつとあがめ,他の者たちとこれらの大切な事柄を多く語り,互いに励まし合い,助け合うということを考えましよう。そうです,『什一をすべて倉に』たずさえましよう。私たちの価値ある持物である時間も,努力も,能力もみなたずさえましよう。そしてヱホバが『天の窓をひらきて容べきところなきまでに恵みを汝らにそそぐや否かを』見ましよう。―マラキ 3:10,16。

      シオンに映る生命の型

      21 ヱホバは,御自分の民を一つの密接な一致にどのように素晴らしく結合されていますか?

      21 少年が壊れた鏡みの破片を手に持つていて,上手に扱う時光りがあなたの目に入つてきたというようなことをあなたは経験したことがありますか? 丁度まるで太陽の一かけらが少年の手にあるようです。ああ,そうです,その説明からよく自分のことが判ります,私はやぶれた人類の残りからこわれてできたガラスの一かけらのように,真理を少しばかり映そうと努力しているようだとあなたは言うでありましよう。そうです,個人的な見方から見るときにその説明は正しく合つているようです。しかし,やぶれたガラスの裂片ほど鋭い点とものを切る端を持つているものは他のものにないということを忘れないでください。でもこの裁きの日にあつてそれはヱホバの民の正しい見方ですか? なんとすばらしいことをヱホバがなされたかを見てごらんなさい。ヱホバはそれらすべてのやぶれた破片を清い,水晶のように透明な,そして表面の滑らかな一つのものに結び合わせました。それでそれの破片は忠実に『ヱホバの栄光を鏡のように映す』ことができるのです。(コリント後 3:18,新世)このことはどのようになされていますか? それは,ヱホバがその献身した民を彼の制度であるシオンに導き入れることによつてです。シオンでは,ヱホバの霊がその民の上にあり,また彼の言葉(御国の音信)は彼らの口に置かれていますので,彼らは一つの結合した民として力を持ち,世界のいたるところで一つの調和ある型に堅く結び合つています。そして,次の召しに答えています『起きよ,ひかりを発て,なんじの光きたり,ヱホバの栄光なんじの上に照り出でたればなり。』さらにつけ加えて,ヱホバの『記憶の本』は彼の制度と固く結ばれていることを知ります。何故ならば次のように約束がされているからです。『シオンに残れるもの,エルサレムにとどまれる者,すべてこれらのエルサレムに存うる者のなかに録されたる者は聖ととなえられん。』― イザヤ 60:1; 4:3

      22 なぜ,そして何に基いていまは非常に大きなよろこびの日でありますか?

      22 私たちの研究はなんという幸福な終りなのでしよう! この世界にあつては,もつとも輝しい幸福な記憶であつても,多くの場合かなしみがつけ加えられます。そして若い時に楽しんだ昔のことは決して繰り返えされることはないということを知つています。しかし,一度ヱホバの制度に導かれて,新しい世の社会の一員となる特権を持つてからは,その見方は全く変化します。現在であつても,新しい世の活動は常に満足をもたらしており,私たちの生活はそんなにも満ち満ちて幸福でありますので,次の栄光ある予言の成就を認識し始めています『みよ,われ新しき天とあたらしき地とを創造す。人さきのものを記念することなくこれをその心におもいずることなし。されどなんじらわが創造する者によりて永遠にたのしみよろこべ。みよわれらはエルサレムをつくりてよろこびとし,その民を快楽とす。われエルサレムをよろこびわが民をたのしまん。しかして泣く声とさけぶ声とは再びその中にきこえざるべし。』― イザヤ 65:17-19

  • ブラジルからの報告
    ものみの塔 1954 | 5月1日
    • ブラジルからの報告

      (1954年のヱホバの証者の年鑑より)

      伝道者 1942 327 1947 786 1952 5706 1953 6429

      ブラジルは,アラスカをのぞいたアメリカ合衆国の48州よりも大きな領土を持つています。しかし,多くの人口は,大部分海岸沿いか大河に沿つたところです。6000名より少し多い伝道者しかおりませんので,非常に大きな仕事が将来にあります。毎年毎年つねに増加していることが判ります。ブラジルは強いカトリックの国ですが,伝道者は心の落着きを失いません,なぜならば人々は真理と正義を求めているからです。ブラジルは,全く長いあいだ暗やみの中に生活して来ました。支部の僕は,ブラジルの人々に音信を伝えることや,その進歩について次のように語つています。

      アマゾンの大河は,ここ6ヶ月の間すべての人に多くの災害とくるしみを与えました。河は増水して,農場や,家畜や,路や村や,すべてのものを流し去りました。兄弟たちは医料の助けを必要としましたので,ブラジルの他の兄弟たちはそれらの医料品を供給しました。衣服とか食物などがさらに必要になるならばそのような面でも兄弟たちを援助しようと準備は整えられています。

      しかし,アマゾン河の南東では,今年は殆ど雨が降りませんでした。埃の凹所がつくられ,風はなんでも吹きとばしました。人々も吹きとんだと言えるかもしません,というのは,みな南に逃げなければならなかつたからです。南の方の地区には未だ音信が深く伝えられていません,それで,もう少し南,丁度南アメリカの凸起部分に,いま音信を伝えています。ここは『荒つぽい』ところで,合衆国の昔しの『未開の西部』のようです。この地区に,会衆が少数あり,また孤立している興味ある人が働いています。その地区では,国の法律とは別に,人々自身の法律があります。リモエイラの都市で,巡回の僕が宣伝をしておいた講演をしましたが,僕は銃をつきつけられ,市から追い出されました。それは笑いごとではありませんでした。ヱホバのすべての証者は,強制されて町を去らねばなりませんでした。もし去らなかつたならば,皆殺されてしまつたでしよう。弁護士は,無駄なことだから訴えないようにと忠告しました。法律の力が及ばないように見えました。しかし,市は先月そのギヤングの支配者達に反抗して,彼らを追放したという良いニユースが伝わりました。いまでは,兄弟たちは御国会館や家庭に帰り,伝道を続けています。

      野外奉仕は増大していますので,支部の後ろのところに2階建の建物を建てることが必要となりました。工場は1階で,事務所と倉庫は2階にあります。ベテルの家族は今までのきゆうくつな働くところと住むところの状態から解放されてホツトしています。

      1月と2月に,三つの地区大会が開催され,出席者の全合計は8214名でした。462人の人が洗礼をうけました。サウ・パウロとリオでの二つの大きな大会は,バスケツトボールの試合場で開催され,サルバドルでの小さな大会は,立派な市立劇場で行われました。これらの大会の間,ニユーヨークでの新世社会の大会は宣伝され,その結果75名の兄弟たちはブラジルから出席しました。ニユーヨークの大会から帰つて来て,その大会の一日だけでも,6000マイル以上を旅行するのに費した金と時間を償うのに価値あるものであつたと皆言つています。またポルトガル語の新しい本『御国は近づけり』と進化論の冊子の発表によろこんでいるのは言うまでもありません。

      火事でもつて多くの本を失つたためと,多くの本を輪入することが困難なために,平常以上に『ものみの塔』雑誌を出すよう努力しました。1953年度中,ポルトガル語の雑誌は毎号1万6500冊から2万3000冊という最高数に増加しました。それですから,本年の6ヶ月間に引き延した運動は良かつたということが判ります。

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