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復活は地獄にいる死者すべてにどのように益となりますかものみの塔 1973 | 4月15日
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「地獄」で永久に滅ぼされるのではない
27,28 (イ)「地獄」へ行く人が永久に滅ぼされてしまうかどうかは,だれの特別の経験からわかりますか。(ロ)詩篇 16篇10節の中でダビデは自分のことを述べていましたか。ペテロは五旬節の日にこのことについてなんと述べましたか。
27 それでは,「地獄」に,つまり「ヘーデース」あるいは「シェオール」に行く人たちは,そこで永遠に滅ぼされるのでも,将来永久にそこにとどまるのでもない,ということですか。もし聖書が,「地獄」(インフェルヌス,ヘーデース,シェオール)からだれかが永久に出たことを示しているならば,そうであるにちがいありません。詩篇作者ダビデが何と書いていたか思い出してみましょう。『そは汝わがたましいを〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス]にすておきたまわず なんじの聖者を墓のなかに朽しめたまわざるべければなり』。(詩 16:10,〔ドウェー訳,15:10〕)ダビデはここで自分自身のことを言っていたのでしょうか。クリスチャンの使徒ペテロは,それを否定しています。西暦33年の五旬節の日に彼はダビデのこの詩篇を引用して,正しいかたに適用しました。ペテロは次のように言いました。
28 『「汝わがたましいを〔地獄〕[ラテン語インフェルヌス]にすて置かず,汝の聖者の朽ち果つることを許し給わざればなり。汝は生命の道を我に示し給えり,御顔の前にて我に歓喜を満たし給わん」。兄弟たちよ,先祖ダビデにつきて,我はばからず汝らに言うを得べし,彼は死にて葬られ,その墓は今日に至るまで我らの中にあり。すなはち彼は預言者にして,己の身より出づる者をおのれの座位に坐せしむることを,誓をもて神の約し給いしを知り,先見して,キリストの復活につきて語り,その〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス]にすて置かれず,その肉体の朽ち果てぬことを言えるなり。神はこのイエスをよみがえらせ給えり,我らはみなその証人なり』― 使行 2:27-32,〔ドウェー訳〕。
29 教会へ行く人たちが唱える「使徒信条」は,「地獄」が火による永遠の責苦の場所であるかどうかを,どのように示していますか。
29 教会員だった人の多くは,次のような「使徒信条」と呼ばれるものをみんなでいっしょに唱えたのを思い出すでしょう。「我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は…十字架につけられ,死にて葬られ,陰府[地獄。ラテン語,インフェルナ]にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天に昇り,全能の父なる神の右に座したまえり」。したがって,この信条を唱えた人たちは,イエス・キリストが「陰府[地獄]にくだった」のを信じていることを表明しました。彼らは,イエスが,人類に代わって永遠の責苦を受けるために,地下の火といおうの中にくだった,という意味でそのことばを唱えたでしょうか。そういう意味ではなかったはずです。というのは,そのことばのすぐあとで,「三日目に死人のうちよりよみがえり」と言ったからです。したがって,使徒ペテロはもちろん,その人たち自身も,イエス・キリストの場合,「地獄」(インフェルヌス)は,死んだ人間がいったんそこへはいったら,もはや絶対に出てこられないというような場所でないことを告白しています。イエスはそこで責苦を感じませんでした。
30,31 (イ)伝道の書 9章5,10節によると,キリストは「地獄」でどんな経験をしましたか。それでイエスはあたかも何をしていたかのようでしたか。(ロ)イエス・キリストは「地獄」にいる死者の「初穂」と呼ばれています。それは「地獄」にいる残りの者たちにとって何を意味しますか。
30 イエス・キリストは「地獄」(ヘーデースもしくはシェオール)に足かけ三日(西暦33年のニサンの14日から16日まで)おられました。伝道の書 9章5,10節にあるとおり,そこにいる間イエスは無意識でした。そこには,働きも,理性も,知恵も,知識もありませんでした。イエスは実際に死んでいたのですが,ちょうど眠っているかのように,無活動で,何事も知りませんでした。ですから,クリスチャン使徒パウロは,キリストが死人の中から復活されたことについて,『されど正しくキリストは死人の中よりよみがえり,眠りたる者の初穂となり給えり』,としるしているのです。(コリント前 15:20)では復活は,死んで「地獄」(ヘーデースもしくはシェオール)にいたイエス・キリストにとってほんとうに益となりました。またそういうわけで,全能の神は,「地獄」にいるあとの死者すべての益のために復活を意図されています。イエス・キリストは,死んでそこに眠っている人びとの「初穂」であったにすぎません。神の定めの時がくれば,死者は一人残らず目覚めさせられ,連れもどされます。これが,霊感を受けた使徒パウロのことばの要点です。
31 『それ人に由りて死のきたりしごとく,死人の復活もまた人に由りてきたれり。すべての人アダムに由りて死ぬるごとく,すべての人,キリストに由りて生くべし』― コリント前 15:21,22。
32 「地獄」が解放のある場所であることは,黙示録 1章17,18節のイエスのどのことばからわかりますか。
32 すべての死者が復活によってそこから解放されるところ,それが「地獄」(ヘーデースもしくはシェオール)であることは,復活されたイエス・キリストのことばが確証しています。西暦96年ごろ,つまり皇帝ネロがローマを焼いてから32年後,復活したイエスは幻のうちに使徒ヨハネに現われました。この幻は,黙示録と呼ばれる,聖書の巻末の書にしるされていますが,イエスはその中で使徒ヨハネに次のように言われました。『我は最先なり,最後なり,活ける者なり,われかつて死にたりしが,みよ,世々限りなく生く。また死と〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス]とのかぎを有てり』― 黙示 1:17,18,〔ドウェー訳〕。
33,34 (イ)イエス・キリストが,かぎを用いて,死と地獄にいる者たちを解放する前に,親族や友人にお金を払わせるかどうかは何が示していますか。(ロ)キリスト自身何から解放されましたか。なぜ神はそのかぎをイエスに託されましたか。
33 『死と〔地獄〕とのかぎ』を持っているので,復活したイエス・キリストの目的は,死んで地獄にいる者たちを永久にそこに閉じ込めておくことでしょうか。それとも,そのかぎを使って,死と地獄にいる者たちを出す前に,死者の親族や友人にお金を払わせるのでしょうか。『死と〔地獄〕のかぎ』を所有する立場をそのように利用するとすれば,イエスはなんと利己的で営利主義なのでしょう。
34 イエスはそのような考えを完全に退けて,使徒たちに言われました。「人の子のきたれるもつかえらるるためにあらず,かえってつかうることをなし,またおおくの人のあがないとして己が生命を与えんためなり」。(マタイ 20:28)イエス・キリストは,人間として地上におられた時,命をよみがえらせてやった死者たちに対し,よみがえらせた料金としてデナリ銀貨1個さえ要求されたことはありません。復活されたイエス・キリストが,『死と〔地獄〕のかぎ』を用いる目的は,死者を永久に閉じ込めておくことにではなく,愛をこめて彼らを惜しみなく解放することにあります。「地獄」からみ子イエス・キリストを復活させた神ご自身が,まさにその目的のために,それらの「かぎ」をみ子に託されたのです。
35 (イ)「地獄」のかぎを使うイエスの喜びの時について,イエスはなんと言われましたか。(ロ)なぜあるいはどのように,復活の目的は有益なものですか。
35 イエス・キリストは,ご自分にとって喜びのその時を予期して,ユダヤ人たちに言われました。『父みずから生命を有ち給うごとく,子にも自ら生命を有つことを得させ,また人の子たるによりて審判する権を与え給いしなり。汝らこれを怪しむな,墓にある者みな神の子の声をききて出づる時きたらん。善をなしし者は生命によみがえり,悪を行ないし者は審判によみがえるべし』。(ヨハネ 5:26-29)死んで「地獄」にいる人すべてに復活が与えられるのは,明らかに,その人たちを益するためです。その復活が,永遠の滅びを宣告される裁きに終わるのは,「地獄」から復活させられた人が,意識的に再び悪にもどる時だけです。ですから,復活の目的は,死者の永遠の利益を考えに入れたよいものです。それは,神の新秩序において永遠の命を享受する機会を彼らに開きます。
36,37 「地獄」がなくなる時の幻はだれに与えられましたか。その人はその光景をどのように描きましたか。
36 使徒ヨハネに与えたその同じ黙示の中で,復活されたイエス・キリストは,「地獄」がなくなる時の状態を描いておられます。それは,この古い,この世的な事物の体制が滅ぼされ,神が新しい天と新しい地,つまり新しい天的政府と新しい地的人間社会とを創造されたのちに出現します。ヨハネは,そのすばらしい情景を描写し,次のように書きしるしました。
37 『我また大いなる白き御座およびこれに坐し給うものを見たり。天も地もその御顔の前をのがれて跡だに見えずなりき。我また死にたる者の大なるも小なるも御座の前に立てるを見たり。しかして数々の書展かれ,他にまた一つの書ありて展かる,すなわち生命の書なり,死人はこれらの書にしるされたるところの,その行為にしたがいて審かれたり。海はその中にある死人をいだし,死も〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス]もその中にある死人をいだした』― 黙示 20:11-13,〔ドウェー訳〕。
38 (イ)それで「地獄」はどのように滅ぼされますか。黙示録はこれをどのように示していますか。(ロ)死と悪はどのようにしてなくされますか。
38 そうです,「地獄」(ヘーデースもしくはシェオール)がその中の最後の死人を出した時,イエス・キリストがあがないとしてご自分の人間の命を与えた死者は全部復活し,地獄はもはや存在しなくなるでしょう。住民は,地球上のどこにも,墓地ひとつ,墓標ひとつ見ることはなくなるでしょう。人類の共通の墓は,永久に消え去るのです。ですから黙示録 20章14,15節はつづけて述べます。「かくて死も〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス]も火の池に投げ入れられたり,この火の池は第二の死なり。すべて生命の書にしるされぬ者は,みな火の池に投げ入れられたり」。それはなんと輝かしい審判の日となることでしょう。「地獄」は致命的な打撃を受けます。全人類が罪人アダムとエバから受け継いだ死は滅ぼされ,存在しなくなります。なぜなら,従順な人間の命はみな,回復された楽しみの園の中で完全にされるからです。意識的に悪くなる人はみな滅ぼされ,第二の死の罰を受けなければならないので,悪行はそれによってくい止められます。
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「地獄」からの復活の受益者たちものみの塔 1973 | 4月15日
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「地獄」からの復活の受益者たち
1,2 (イ)ヘブル人のどの族長は「地獄」へ行くことを予期していると言いましたか。(ロ)復活の教理を擁護したとき,イエスはヤコブがそれから益を受けることをどのように保証されましたか。
現在死んでいて「地獄」におり,将来死から復活して益を受ける人たちの中には,どんな人がいますか。わたしたちは,族長ヤコブが「地獄」もしくはシェオールに行くのを予期していたことをおぼえています。(創世 37:35)彼は受益者の中にはいっているでしょうか。はいっています。わたしたちはイエス・キリストのことばをおぼえています。イエスは,四日間死んだ状態にあった友だちのラザロをよみがえらせる前に,姉妹のマルタに言われました。「我は復活なり,生命なり,我を信ずる者は死ぬとも生きん」。(ヨハネ 11:25)それから何週間かたって,イエスは,信仰のないユダヤ人,つまりサドカイ人の前で復活の教えを擁護しなければなりませんでした。そのさいにイエスはヤコブに言及されました。サドカイ人が出した,かまのある質問に対して,イエスは次のように答えました。
2 『死にたるもののよみがえることは,モーセも柴の条に,主を「アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神」と呼びてこれを示せり。神は死にたる者の神にあらず,生ける者の神なり。それ神の前にはみな生けるなり』― ルカ 20:37,38。
3 (イ)だれの見地からすれば,アブラハム,イサク,ヤコブは今も生きていますか。なぜですか。(ロ)エホバはどんな人びとの神ですか。
3 ですから,神の見地からすれば,アブラハム,イサク,ヤコブはその時生きていたのです。神の定めの時にこれらの忠実な族長たちが復活するのは確実なことであったので,当時彼らは死んでいて意識もなく,「地獄」,ヘーデース,もしくはシェオールにいたのですが,神はその3人のことを,生きている者として語られたのです。もし彼らが永久に死んだままで,「地獄」(ヘーデースもしくはシェオール)から決して出ることがないのであれば,エホバはシナイの荒野の燃える柴のところで,預言者モーセに,アブラハム,イサク,ヤコブの神として語ることはされなかったでしょう。ですからイエスは,神のこの宣言は,アブラハム,イサク,ヤコブ,そしてもちろん,彼らとともに「地獄」にいるすべての者に復活があることの証明である,と言われたのです。エホバは,過去の人びとの過去の神ではなく,将来死から復活して生きる忠実な崇拝者たちの神です。
4 アブラハムが,むすこイサクの復活を信じていたことを,ヘブル書 11章17-19節はどのように証明していますか。
4 族長アブラハムは,むすこのイサクが復活することを信じていました。そのことを証明しているのは,ヘブル書 11章17節から19節の霊感によることばです。「信仰によって,アブラハムは,試されたときに,イザアクをささげた。かれは約束を受け,その独り子で,「イザアクの名において,あなたに子孫が起される」といわれたその子をささげた。〔アブラハムがそうしたのは,〕神には死者もよみがえらせることができる,と考えたからである。そのために彼は子を取り戻した。これは前表に[比ゆに,エルサレム聖書。ひとつの型に,カトリック・コンフラタニティ聖書]にもなる」,バルバロ訳。
5 ヘブル書 11章は,アブラハム,イサク,ヤコブ以前の人びと,そしてそれ以後の信仰の人びとが,「地獄」からの復活を信じていたことをどのように示していますか。
5 アブラハム,イサク,ヤコブなどの時代以前にも,アベルとかエノク,ノアなどの信仰の人びとが,死者の「地獄」からの復活を信じていたことは明らかです。というのは,彼らも,ヘブル書 11章に名前をしるされている「おおぜいの雲のような証人たち」の中に列挙されているからです。(ヘブル 11:1から12:1まで)霊感を受けた記述者は,預言者エリヤがザレパテのやもめのむすこをよみがえらせ,また預言者エリシャが,人を親切にもてなすシュネムの女のむすこをよみがえらせたことにふれたとき,次のように述べています。『女は死にたる者の復活を得,ある人はさらに勝りたる復活を得んために,免さるることを願わずして極刑を甘んじたり。…彼らはみな信仰によりてあかしせられたれども約束のものを得ざりき。これ神は我らのために勝りたるものを備え給いし故に,彼らも我らとともならざれば,全うせらるる事なりき』。(ヘブル 11:35-40)このようにわたしたちには,イエス・キリストがこられる以前にも,全能の神エホバを信じていた男や女が,「地獄」つまりシェオールからの死者の復活を期待していたことを示す霊感による証拠があります。
6 ベタニヤのマルタと,サムエルの母ハンナは,「地獄」からの復活に対する信仰をどのように表現しましたか。
6 それを期待していたからこそ,ベタニヤのマルタという女は,イエスが彼女の兄弟ラザロをよみがえらせる前に,「かれも,おわりの日,復活のときに,よみがえることを知っています」とイエスに言ったのです。(ヨハネ 11:24,バルバロ訳)またそれを期待していたからこそ,さらに1,000年以上昔に住んでいたハンナという女も,自分のむすこサムエルをイスラエルの大祭司にささげた時,『エホバは殺しまた生かしたまい〔地獄〕[ラテン語,インフェリ。ヘブル語,シェオール]に下しまた上らしめたまう』と言ったのです。―サムエル前〔ドウェー訳では列王紀略1〕2:6。
真の教会も「地獄」からもどる
7,8 (イ)「地獄の門」はなぜキリストの真の会衆に勝てませんか。(ロ)黙示録 2章10節は,イエスが地獄の門に勝つことをどのように要求していますか。
7 イエス・キリストは,ご自身地獄へ行ってまたもどられただけでなく,真の教会,すなわち真のクリスチャン会衆も,この点で必ずキリストにならうであろう,と使徒たちに言われました。他の使徒たちの聞いているところで使徒ペテロに話されたとき,イエスは次のように言われました。「あなたはペトロ[ギリシア語,ペトロス]である。私はこの岩[ギリシア語,ペトラ]の上に,私の教会をたてよう。地獄[ギリシア語,ヘーデース。ラテン語,インフェルヌス]の門もこれに勝てないだろう」。(マタイ 16:18,ドウェー訳)真のクリスチャン会衆の成員は死によってその門を通り「地獄」へはいります。(イザヤ 38:10,18,ドウェー訳)しかし,「地獄の門」は,会衆を永久に閉じ込めることによって,クリスチャン会衆に勝つことはできません。なぜでしょうか。それは『死と〔地獄〕のかぎ』を持つ,復活されたイエス・キリストが,そのかぎを用いてそれらの門を開き,復活によってご自分の会衆をそこから連れ出されるからです。
8 したがって,「地獄の門」はキリストの会衆に勝てませんが,キリストは,ご自分の会衆のために「地獄の門」に勝たれます。キリストが会衆に対して,「死ぬまであなたが忠実であれば,私はあなたに命の冠を与えよう」と言われたわけが,これでわかります。―黙示 2:10; 1:17,18,バルバロ訳。
9 このクリスチャン会衆は何人で成り立ちますか。彼らのために『神が備え給いし』『勝りたるもの』とは何ですか。
9 ちょうど144,000人の忠実な成員からなるこの真の会衆は,「地獄」(ヘーデースもしくはインフェルヌス)から呼びもどされ,天的,霊的復活を与えられます。そのようにして彼らは,「小羊の妻である花よめ」になります。(黙示 21:9から22:17まで,バルバロ訳)彼らは忠実な妻のように,天の花むこイエス・キリストと永久の婚姻を結びます。彼らの復活については,「血気の体にてまかれ,霊の体によみがえらせられん」と書きしるされています。(コリント前 15:42-44)天におけるこの霊的状態こそ,神がみ子イエス・キリストの忠実な追随者とイエスにならう者の会衆のために『備え給いし』『勝りたるもの』です。―ヘブル 11:39,40。
あがなわれた人類も「地獄」から出る
10 (イ)イエスは,そのほかだれのために,地獄の門に勝たれますか。どのようにして?(ロ)使徒ヨハネが幻の中で見たできごとで,他の人びとも将来現実に見るできごととは何でしたか。
10 復活されたイエス・キリストは,ご自分の花嫁である会衆のために「地獄の門」に勝つだけにとどまらず,それ以上のことをされます。つまり,罪のあがないとしてご自分の命を与えた全人類のためにも,それらの「門」に勝たれます。(マタイ 20:28)「死と〔地獄〕のかぎ」を用いてそれら象徴的な「門」を開き,ご自身とその霊的花嫁の天の王国の支配下にある地上に復活させることによって,その人類全部をそこから連れ出されるのです。海で死んで水を墓とした人は,陸上でよみがえらされるでしょう。地中に,個々の墓に,あるいは墓地に埋葬された人びとも同様に,新政府,すなわち神のみ子イエス・キリストによる神の天の政府の支配する地上に復活させられます。今日生きている何百万もの人びとは,きたるべき「大いなる患難」を生き残り,使徒ヨハネが天から示された幻の中だけで見た事柄を実際に見るでしょう。ヨハネはそれを次のように描写しています。『我また死にたる者の大なるも小なるも御座の前に立てるを見たり。…海はその中にある死人を出し,死も〔地獄〕[ラテン語,インフェルヌス。ギリシア語,ヘーデース]もその中にある死人を出した』― 黙示 20:12,13; 7:14。
11 ヨハネ第一の書 2章2節およびテモテ前書 2章5,6節によると,これには西暦33年のペンテコスト以前に「地獄」に行ったどんな人たち,そしてそれ以後「地獄」に行ったどんな人たちが含まれますか。
11 これには,アベル,エノク,ノア,アブラハム,イサク,ヤコブ,ヨブ,モーセなど,「地獄」にいる死者すべて,使徒ペテロが,イエス・キリストの「地獄」(死んだ人間の共通の墓)よりの復活について何千人ものユダヤ人に語った西暦33年のペンテコストの日のクリスチャン会衆設立以前にそこへ行った人びと全部が含まれます。また,そのペンテコストの日以後「地獄」へ行った人びとで,イエス・キリストの花嫁の会衆の成員にならなかった人たち全部が含まれます。その人びとはだれも,「天に録されたる長子どもの教会」に属していません。(ヘブル 12:23)イエス・キリストはこれらの人びとすべてのために,あがないの犠牲として死なれたのです。クリスチャン使徒ヨハネが会衆に書き送っているとおりです。『彼は我らの罪のためになだめの供物たり,ただに我らのためのみならず,また全世界のためなり』。(ヨハネ第一 2:2)これと一致して,クリスチャン使徒パウロはテモテに次のように書き送りました。『それ神は唯一なり,また神と人との間の中保も唯一にして,人なるキリスト・イエスこれなり。彼は己を与えてすべての人のあがないとなり給えり』― テモテ前 2:5,6。
12 ある人びとは,「地獄」からすべての人がもどるというと心配するかもしれません。なぜでしょうか。
12 しかし,なかにはこのことを考えて心配する人たちがいるかもしれません。そして,『そうなったら幾十億という悪人が地にあふれて,この地は以前にもまして多くの悪と暴力で満たされるのではないか。使徒パウロは,「義者と不義者との復活あるべし」と述べてはいないか』と言うかもしれません。(使行 24:15)たしかに,「地獄」からの復活においては,義者よりも不義者の数のほうがはるかに多いでしょう。普通の人間の支配者たちにとっては,これは深刻な問題をつくり出すでしょう。
13,14 (イ)「地獄」の門が開かれても,どんな勢力が,地の住民の上に解き放たれることはありませんか。なぜですか。(ロ)その時の不完全な人間の政府と,最後にそれらの政府を支持していると認められる者たちについてはどうですか。
13 「地獄の門」が開かれても,それは地の住民の上に,無数の悪霊や彼らの君サタン悪魔を解き放つことにはなりません。彼らは地獄にいたことは一度もなく,したがってイエス・キリストが,かぎを用いて「地獄」の門を開くのを待ってもいないからです。
14 人類にとってさいわいなことに,「地獄」がからになる時には,サタンとその配下の悪霊の天使たちはくさりでしばられ,使徒ヨハネが「底なき坑」または「底知れぬ坑」と呼んでいる所に隔離され,監禁されているでしょう。(黙示 20:1-3,ドウェー訳。エルサレム聖書)そういうわけで,人類を悪へかりたててきた霊の勢力はなくなっているでしょう。全地は,そして復活してきた人すべては,正義の天的政府をいただくでしょう。そのうえに,地を支配してきた不完全な人間の諸政府も,もはやないでしょう。それらの政府は,彼らの目に見えない支配者サタン悪魔が縛られ,底知れぬ坑に投げ込まれる直前の,『全能の神の大いなる戦闘の日』に,粉砕されてしまっているでしょう。(黙示 16:13-16; 19:11-21; 20:1-3)キリストによる神の王国でなくて,それらの人間の政府を支持していると認められた人びとはすべて,その宇宙的規模の『大いなる日の戦闘』で,それらの政府とともに滅ぼされてしまい,生き残ることはないでしょう。
15 (イ)大洪水後のノアとその家族によって前もって示されたように,人間社会はどんな出発を与えられますか。(ロ)ペテロが期待していた新しい天とは何ですか。それはこの地に何を施行しますか。
15 西暦前2370年から2369年までの世界的大洪水のあと,人間社会がノアとその家族をもって正しい再出発をしたのと同じく,人類は再び,ハルマゲドンの宇宙戦争を生き残った神を恐れる人びとをもって,正義のうちに新しい出発を行なうでしょう。そしてこのたびは,サタン悪魔とその配下の悪霊たちは,依然解き放たれたままで,目に見えない超人的位置から地を支配するという状態にはありません。(マタイ 24:37-39。創世 8:15から9:17まで)使徒ペテロさえ,その輝かしい時が人類にのぞむのを期待していました。ローマの皇帝ネロが,クリスチャン会衆に対して残虐な迫害を加えはじめる少し前,ペテロは次のように書きました。「しかし,私たちは,神の約束によって,正義の住んでいる新しい天と新しい地とを待っている」。(ペテロ後 3:13,バルバロ訳)「新しい天」,すなわち天と地において必要な権をすべて与えられているイエス・キリストの手中にある神の天の王国は,地において,全き正義をだれの抵抗をも許さずに施行するでしょう。(マタイ 28:18)ですから,誠実なクリスチャンたちが,「天にまします私たちの父よ,み名が聖とせられますように。み国が来ますように。み旨が天に行なわれると同じく,地にも行なわれますように」と祈っているのは,むだなことではないのです。―マタイ 6:9,10,バルバロ訳。
16 「地獄」からの復活はどのように進行しますか。人間の事柄の管理は地上のだれの手にゆだねられますか。
16 次のことを心に留めておきましょう。それは地獄は一時に,1日24時間のうちに,全部の死者を吐き出して爆発的に人口を増加させ,比較的に少数の,神を恐れる,宇宙戦争ハルマゲドンの生存者を困らせるのではないということです。「地獄」からの死者の解放は,キリストの支配下にある神の王国によって天から賢明に管理されるでしょう。(コリント前 15:23)過去の政治家や滅ぼされたこの世的な政府はいずれも,再び権力の座にすえられることはありません。人間に関する事柄の管理は,過去幾千年もの間神の王国を待ち望んできた,エホバ神を愛する人びと,アベルから今日に至るまでの,エホバ神を恐れる人びとの手にゆだねられます。
17 なぜある人びとは,「命の書」に名前をしるしてもらえないでしょうか。彼らはどうされますか。
17 「地獄」から解放され,適当な試験の期間を経たのちもなおかたくなに義を学ぼうとせず,王国に服従しようとしない人はすべて処刑されるでしょう。その人たちの名前は,永遠の命にふさわしい者として「命の書」にしるされることはありません。いいえ,彼らは「地獄」にもどって,永遠にそこにとどまるのではありません。ヨハネは次のように述べています。『かくて死も〔地獄〕も火の池に投げ入れられたり,この火の池は第二の死なり。すべて生命の書にしるされぬ者は,みな火の池に投げ入れられたり』― 黙示 20:14,15,〔ドウェー訳〕。
18 (イ)「火の池」は何を象徴しますか。したがって彼らはどうなりますか。(ロ)そのような,名前をしるされていない人たちが『第二の死』を遂げるので,地上にはどんな種類の人たちが残りますか。最高の審判者は彼らを何にふさわしいものとしますか。
18 『第二の死』を象徴するこの『火の池』は,イエスが地上におられたときにゲヘナと呼ばれたものに相当します。ですからこれは永遠の滅び,つまり復活のない死を象徴します。アダムとエバから受け継いだ死および「地獄」が永久に消滅するように,神の王国の地上のきょう正不可能な臣民は消滅し,あたかも全く存在しなかったかのようになります。そのために地上には,心をつくして義を愛し,全能の神エホバの神権政府へのゆるがない忠誠を証明する者たちだけが残ります。「命の書」にしるされ,最高の審判者エホバから,その時地に回復される楽しみの園で,平和と幸福のうちに永遠に生きてよいとされる人びとはその人たちです。
19,20 (イ)決して「地獄」に行かない人とはだれですか。なぜゆかないのですか。(ロ)どうすれば彼らに加わることができますか。
19 しかし,考えてみてください。今日,この汚染され,戦争におびやかされている地上には,決して「地獄」に行かない人びとが住んでいるのです。彼らは「地獄」から連れもどされる必要はありません。それはどういう人たちでしょうか。わたしたちはだれでもその人たちに加わることができますか。
20 その人たちは,神の愛するみ子イエス・キリストの天の王国を心をつくして支持し,それに仕え,この世の政治に手を出さない,羊のような,神を恐れる人びとです。(マタイ 25:31-46)宇宙的戦争ハルマゲドン前の現在,彼らは心から,天のみくらに座し給うエホバ神と,小羊のようなみ子イエス・キリストをほめたたえています。エホバのクリスチャン証人のこの級は,現在の世界の事物の体制が激しい終わりをつげる時に保護されて,義の住む神の新秩序に入れられます。(黙示 7:9-17)そこでは,アダムとエバから受け継いだ,そしてすでに幾十億の人びとを「地獄」に入れている死は一掃されますから,それら生存者たちは「地獄」を恐れる必要がなくなります。義の道と,キリストによる神の王国への献身の道を歩みつづけることによって彼らは生きつづけ,海と「地獄」がその中の死者を出すのを見るでしょう。そうです,現在正しいことを行なえば,あなたもその祝福された生存者の中にはいることができるのです。
[241ページの図版]
「地獄」からの復活の受益者たちには,全世界を治めるひとつの政府の支配下の楽しい庭園のような地上で,完全に健康な状態で幸福に生きる機会がある
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からだの訓練,それとも敬虔の生活 ― そのどちらを選びますかものみの塔 1973 | 4月15日
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からだの訓練,それとも敬虔の生活 ― そのどちらを選びますか
エドリアン・トムソンの経験
ラグビーはわたしの父にとって人生の重要な関心事でした。ですから,やっと歩けるようになったころから,わたしは父とともに月曜日の夜には体育館に,また土曜日の午後にはラグビー場に行きました。わたしが物心ついて以来,毎年誕生日の朝,目を覚ますと,まくらもとには新しいラグビーのボールが置かれていたものでした。ラグビーのシーズン中は,たいていおそく帰宅して夕食を取り,それ以後はあまり暗くてボールが見えないので,しかたなく家にとどまりました。
わたしの父は聖書よりもスポーツに関心がありましたが,母は神の真理のみことば聖書に深い関心を持っていました。わたしがまだ4歳のとき,わたしたちは,当時ニュージーランドのウェリントン市を訪れていた,ものみの塔協会の代表者,A・ホウレットによって行なわれた「現存する万民は死することあらじ」と題する聖書講演を聞きに行きました。母はその講演の中で述べられた音信が真理であることを認めたのです。
こうして,わたしは,時々雨がひどくて外に出られない時などソファーに腰をおろして,「創造の写真-劇のシナリオ」と題する本を読んだのを今でも思い起こします。それは聖書の実話を説明文と写真を用いて描写した本でした。その後,日曜日には,わたしは家族といっしょにクリスチャン会衆の集会に行き,いろいろの人が神に仕えるために自分の時間をどのように用いているかについて述べるのを聞きました。
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