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あなたは死者についてどんな考えをお持ちですか目ざめよ! 1979 | 2月8日
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を三つ考慮してみましょう。その最初のものについて聖書はこう述べています。
「イエスはナインという都市に旅行されたが,弟子たちおよび大ぜいの群衆がいっしょに旅行していった。彼がその都市の門に近づくと,なんと,見よ,死人が運び出されて来るところであった。それは,その母のひとり息子であった。そのうえ,彼女はやもめだったのである。その都市の相当数の群衆も彼女といっしょにいた。彼女をご覧になると,主は哀れに思い,『泣かないでもよい』と言われた。そうして,近づいて棺台にお触りになった。それで,担いでいた者たちは立ち止まった。それからイエスは言われた,「若者よ,あなたに言います。起き上がりなさい!」すると,死人は起き上がって座り,ものを言いだしたのである。ついでイエスは彼をその母にお渡しになった。ここにおいて,すべての者は恐れに打たれ,神の栄光をたたえつつ,『偉大な預言者がわたしたちの間に起こされた』,そして,『神はご自分の民に注意を向けてくださったのだ』と言いだした。こうして彼に関するこのたよりは全ユダヤと周囲の全地方に広まったのである」― ルカ 7:11-17。
イエスが死者を復活させた,記録に残る二番目の例は,ガリラヤの会堂の主宰役員ヤイロの娘に関するものでした。少女が死にそうになっていたとき,ヤイロはイエスに,私の家に入って娘を治してください,と懇願しました。(ルカ 8:40-42)聖書には次のように記述されています。
「イエスがまだ話しておられるうちに,会堂の主宰役員の代理者が来て,『あなたの娘は亡くなりました。もう師を煩わせてはなりません』と言った。これを聞いて,イエスは彼にお答えになった。『恐れてはなりません。ただ信仰を示しなさい。そうすれば,彼女は救われます』。その家に着くと,イエスは,ペテロ,ヨハネ,ヤコブおよび少女の父と母のほかは,だれもいっしょに中にはいることをお許しにならなかった。しかし,人びとはみな泣き,彼女のことで身を打ちたたいて悲しんでいた。それでイエスは言われた,『泣かなくてもよい。彼女は死んだのではない,眠っているのです』。すると,人びとは彼のことをあざ笑いだした。彼女がすでに死んだことを知っていたからである。しかしイエスは彼女の手を取って呼びかけ,「少女よ,起きなさい!」と言われた。すると,彼女の霊は戻り,彼女はたちどころに起き上がったのである。それからイエスは,何か食べ物を与えるようにとお命じになった。そこで,彼女の親たちは我を忘れるほどになっていた」― ルカ 8:49-56。
イエスはこの二人を死んでまだ間がないときに復活させましたが,エルサレムに近いベタニヤに住んでいたラザロというイエスの友人の場合はそうではありませんでした。ラザロは死後四日たっており,記念の墓の中に入れられていました。ヨハネによる福音書はこう述べています。
「イエスは,自分の中で再びうめきを発せられたのち,記念の墓に来られた。これは実際のところどうくつであり,石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた,『石を取りのけなさい』。故人の姉妹であるマルタが言った,『主よ,もう臭くなっているに違いありません。四日になりますから』。イエスは彼女に言われた,『信じるなら神の栄光を見るでしょうと,わたしは言いませんでしたか』。そこで彼らは石を取りのけた。それからイエスは目を天のほうに向けて,こう言われた。『父よ,わたしの願いを聞いてくださったことに感謝いたします。もっとも,常に聞いてくださることを知っておりました。でも,まわりに立つ群衆のゆえにわたしは言いました。あなたがわたしをお遣わしになったことを彼らが信じるようにです』。そして,これらのことを言い終えると,イエスは大声で叫ばれた,『ラザロよ,さあ,出て来なさい!』死んでいた人が,両足と両手に巻き布を巻かれたまま出て来たのである。そして,その顔も布でぐるっと巻かれていた。イエスは彼らに言われた,『彼を解いて,行かせなさい』」― ヨハネ 11:38-44。
したがって聖書的に言えば,死者は単に無意識の状態にあると考えるべきです。死者は喜びも苦しみも経験しないのです。しかし,地上におられたときにイエスが死者を復活させたことは,次の励みあるイエスの言葉を信じる上で確かな根拠となります。
「わたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず,終わりの日にそれを復活させること,これがわたしを遣わしたかたのご意志なのです。というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからであり,わたしはその者を終わりの日に復活させるのです」― ヨハネ 6:39,40。
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心霊宗教 ― なぜ多くの人の興味を引きますか。それはあなたの益になりますか目ざめよ! 1979 | 2月8日
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心霊宗教 ― なぜ多くの人の興味を引きますか。それはあなたの益になりますか
リベリアの「目ざめよ!」通信員
大聖堂の中は薄暗くガランとしていますが,裏町の小さな教会からは,歌声や律動的な手拍子,タンバリンの音などが聞こえ,「主をたたえよ!」という叫びが夜の空気をつんざきます。時折,その騒音にも負けない,興奮した調子の熱狂的な説教が聞こえてきます。そのうちに突然,腕を打ち振り忘我の境にあるリーダーが,わけの分からない言葉を口走り始めます。だれかがそれに応答すると,聴衆は超自然力との連絡がついたことに感づき,奇跡的いやしと預言が行なわれることを期待します。
「信仰治療」を行なうアフリカの一教会で見られるこの光景は,程度の差こそあれ,多くの国でよく見られる光景です。これを,広範に広がった,特殊能力による運動で,人間の霊的必要の増大を証明するものである,と解する向きもあります。多数の人は,超自然信仰や「超自然の現実」を好んで,決まりきった方法と儀式だけの,型にはまった宗教を捨てました。
そのような生々しい感情的経験は,人の霊的必要を満たすでしょうか。それとも危険な影響を受けさせるものとなるでしょうか。わたしたちの時代は苦悩の多い時であるために,神から明確な答えを得ようとする人が少なくありません。「信仰治療」を行なう教会を探す人もあれば,昔のサウル王のように,霊媒を通して霊者と連絡を取り,はっきりした答えを得ようとする人々もいます。―サムエル前 28:4-8。
しかし,心霊宗教は人を誤まらせる危険なものです。なぜかというと,それは真の神と連絡を取るのではなくて,「人の住む全地を惑わしている者」悪魔サタンの支配下にある,悪意を持つ霊者と連絡を取るものだからです。(啓示 12:9)心霊宗教は神が罪としておられる心霊術です。(申命 18:10-12)そして,クリスチャンではなかった古代の異教徒たちも“霊”を受けて,いやしを行なったり,未知の言語で話したり,“預言”したりしていたということを忘れてはなりません。聴衆をこうこつ状態に,つまりヒステリー状態になるまで刺激することによって,神に近づいているように見せかける教会は,その異教徒を模倣しているのです。そのやり方を少し調べてみましょう。
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