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すばらしい希望目ざめよ! 1976 | 4月8日
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何が復活するか
人々を死からよみがえらせるということは,確かに驚嘆すべき奇跡です。人としての人間の本質は,その肉体と密接不可分の関係にあるように思われるので,多くの人は,復活がどうして可能なのか,理解しにくく思います。ほとんどの場合,死者の肉体は何も残りません。遺体は焼かれるか,または鳥や魚や野獣に食べられてしまうこともあるでしょう。ですから復活した人が,どうして死んだ人と本当に同じであり得るのか,というわけです。
アダムの創造は次のことを明らかにしています。つまり,アダムを人にしたのは,神が行なわれた事である,ということです。アダムを造る材料となった元素には個性はありません。しかし,地面の諸元素から成る命のない体にエホバ神が精力をお与えになったとき,アダムは独特な個性を持つ人となりました。生命のない体に精力を与えるとき神がその体にお入れになった命の霊を所有することにより,アダムは生きた魂となりました。―「魂」に関しては,創世記 1章21,24節を参照してください。
アダムの子孫を,個性ある彼らたらしめているのは,彼らの肉体を構成している要素ではなく,その要素の中に受け継がれている遺伝的遺産,すなわちその所有者を,人として他の人々と異なるものにしている特性,特徴,能力などで成る遺産です。さらに,人体は生きているときでも絶えず変化しています。現在,人の体を構成している分子は,七年ほど前にその人の体を構成していた分子と同じものではありません。しかし,分子に関してはその人の要素は異なっていても,その人はやはり同じ人物です。なぜでしょうか。なぜなら,分子が徐々に変わってゆくにもかかわらず,体の諸器官と種々の特徴はやはり存在するからです。指紋でさえ同じままです。
したがって,復活が同じ分子の保存に依存するものでないことは明らかです。事実,よみがえらされた人は,異なる構成要素の人であり得ます。それは天の霊の命によみがえらされた人の場合と同じです。天への復活について,使徒パウロはこう書いています。「あなたのまくものは,まず死ななければ,生きたものになりません。そして,あなたがまくものについて言えば,のちに出てくる体ではなく,ただの種粒をまくのであり,それは小麦,あるいはほかの何かでしょう。でも神は,ご自分の喜びとなるとおりにそれに体を与え,種の一つ一つにそれ自身の体を与えられます。……そして,天的な体と地的な体があります。しかし,天的な体の栄光は一つの種類であり,地的な体の栄光は別の種類です。……死人の復活についてもこれと同じです。朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊の体もあります」。(コリント第一 15:36-44)しかしながら,復活した人が同じ人物であるためには,以前の生き方を示すものを身に備えていなければなりません。
その無形のもの,すなわち有機物を独特の人とする特徴と特性を与えることは,神にかかっています。神はその同じ個性を,復活した体に入れることがおできになります。ですから,復活した人は単なる複製ではありません。生前,その人をその人たらしめていた,知的,感情的特徴をすべて備えた,全く同一の人物です。
これで,イエスが弟子たちになぜ次のように言われたのか,説明がつきます。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体もともにゲヘナで滅ぼすことのできるかたを恐れなさい」。(マタイ 10:28)確かに人間は命を取り去って肉体を命のないものにすることができます。しかし,人が神から与えられた,生きた魂となる権利を取り去ることはできません。死の眠りから目覚めさせるべく神が彼らのためにされた準備にあずかれないようまっ殺することは,だれに対してもできません。魂として再び生きる機会を解消できるのは神だけです。それを解消されたなら,その人は完全に滅びてしまいます。たとえその人を構成していた同一の分子を集めることができたとしても,神から与えられる,再び生きる権利を持っていなければ,それらは何の価値もありません。神だけが必要な生命力を与えることがおできになるのです。
したがって,神が存在されるからこそ,死者の復活も初めて可能になるのです。詳細を説明していないとはいえ,聖書は,人が復活に対して強固な信仰を抱く根拠とするに十分の情報を与えています。あなたは,現在もまた将来も,このすばらしい希望から個人的に益を受けることができます。ではどうすればその益を受けられるでしょうか。
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この希望からどのように益を得られますか目ざめよ! 1976 | 4月8日
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この希望からどのように益を得られますか
死はすべての事の終わりであるとみなす人と,死者が復活するという確信を抱く人とでは,どちらがより幸せであると言えますか。
希望のない人には頼るべきものが何もなく,せいぜい七十年か八十年の生涯を期待できるに過ぎません。死が不意に家族に臨む時,慰めを与えてくれるものは何もなく,死は永久の別れとなります。そうした人は,嘆き悲しんでいる他の人に同情を示すことはできても,励みとなる希望を与えることはできません。その人自身,死者には何の希望もないと思っているので,たとえ他の人に害が及んでも,自分が生き続けるためには,どんなことでもしようという気持ちに駆られるかもしれません。
その点,死に関する聖書の教えを信じ,そこに述べられている復活の希望に信仰を持つ人々には大きな相違が見られます。その人たちは,墓にいる者すべてが死の眠りから呼び起こされることを確信しています。また,こうした知識は死者に関する偽りの教えに基づく恐れから彼らを解放しました。神のみ言葉を信じる者は,死者は無意識で,記憶すらないことを知っているので,亡くなった愛する者が,一時的の,あるいは永久の責め苦の場所で苦しんでいるのではないかという恐れを持ちません。また,死者は助けを与えることも,害を加えることもできないことを理解しているので,死者に関するどんな恐れからも解放されています。
確かに,復活の希望を自分のものとして抱くなら,今でもそれから益を得られます。たとえ愛する友や親族を死により奪われても,死者が命によみがえらされるという確信があるので,そうした希望を持たない人々のように,悲嘆にくれるようなことはありません。また愛する者を亡くして悲しんでいる人々に,真の慰めを与えることもできます。
復活があるという確信を持つ人は,ただ現在のためにだけ生きるということはなくなります。「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」といった考え方に従って生きる代わりに,復活の希望は,神に喜ばれる生き方をするよう人を促すものとなります。―コリント第一 15:32。
死者をよみがえらせる神の力に信仰を持つ人は,暴力的手段によって命を絶たれることへの恐れからも解放されます。神のみ言葉は,「死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべて」を解放するのはイエス・キリストであることを示しています。(ヘブライ 2:15)権威者の命令に従わなければ処刑されるという恐れのために,幾世紀にもわたって,原則を犠牲にし,自ら悪いと認める事柄を行なってきた人は少なくありません。しかし,神の約束にゆるがぬ信仰を持つ
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