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  • だれが死人の中から復活するか
    ものみの塔 1965 | 6月15日
    • 昔の町の住人をあげ,その将来についてある事柄を示しました。彼はツロ,シドン,ソドムの町々について次のように語りました。

      3 「それからイエスは,数々の力あるわざがなされたのに,悔い改めることをしなかった町々を,責めはじめられた。『わざわいだ,コラジンよ。わざわいだ,ベッサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが,もしツロとシドンでなされたなら,彼らはとうの昔に,荒布をまとい灰をかぶって,悔い改めたであろう。しかし,おまえたちに言っておく。さばきの日には,ツロとシドンの方がおまえたちよりも,耐えやすいであろう。ああ,カペナウムよ,おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが,もしソドムでなされたなら,その町は今日までも残っていたであろう。しかし,あなたがたに言う。さばきの日には,ソドムの地の方がおまえよりも耐えやすいであろう」― マタイ 11:20-24。ルカ 10:11-15。

      4,5 (イ)イエスのこの言葉は,異教の町ツロやシドンの人々には復活がないことを論じたものですか。(ロ)エゼキエル書 32章21節から30節は,ツロとシドンの人々に関して何を示していますか。

      4 ここで次の疑問が生じます。これら昔の町の人々は死人の中から復活しますか。異教徒であるというだけの理由で異教の町ツロとシドンの人々はさばきの日に耐えることなく,従って復活しないという意味に,イエスの言葉を理解すべきですか。しかし仮にツロとシドンの人々が復活するものとし,さばきの日にはユダヤ人のコラジンやベッサイダよりも耐えやすいとしてごらんなさい。さばきの日にもっと不利な立場に立つコラジンやベッサイダのユダヤ人は,全然望みがなく,従って復活しないという事になるのですか。

      5 言葉をかえて言えば,コラジンやベッサイダのユダヤ人は,異教のツロやシドンの人々と同様,復活することがないという意味に,イエスの言葉を理解すべきですか。そうではありません。それとは反対にエゼキエル書 32章21節から30節は,異教の町シドンの人々がゲヘナではなく,シェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)にいることを明白に述べています。従ってさばきの日に死と黄泉がその中の死人を出すとき,その人々は復活すると言えます。(黙示 20:11-15)ツロはシドンの植民地でした。死んだツロの町の人々も黄泉にいます。

      6 ツロとシドンの人々が生命によみがえることは,なぜ理にかなっていますか。

      6 ツロとシドンの人々がシェオール(陰府)すなわちヘーデース(黄泉)におり,従って復活を受けて生命に戻ることは当然に期待されます。なぜですか。宗教的に言ってこれらの人々は,悔い改めと,神の義に立ち帰ることが不可能な状態に立ち至っていないからです。イエスはその事を明白に示しました。彼らはエホバ神と救いの御国について,まだ十分な証言を聞いていません。コラジンやベッサイダの町のようにその機会に恵まれたならば,「彼らはとうの昔に,荒布をまとい灰をかぶって,悔い改めた」ことでしょう。「ふたたび悔い改めにたち帰ることは不可能である」とヘブル書 6章4節から6節にしるされた宗教的状態に,彼らは立ち至っていません。

      7 昔のツロやシドンの人々は,復活によってどんな機会を与えられますか。

      7 さばきの日によみがえることによって,シドンとツロの人々はイエス・キリストの治める神の国の下で余すところなく証言を聞く機会に恵まれます。そのとき彼らは,いわば「荒布をまとい灰をかぶって」真実に悔い改めるおりを得るでしょう。その希望は天の神の国における生命ではなく,至るところ楽園となった地における永遠の生命です。

      8 ソドムは何時まで存続しましたか。ソドムは復活せず,従ってカペナウムにも復活がないと論ずることはなぜできませんか。

      8 では昔のソドムの町の人々については何が言えますか。ソドムは,神が天から火と硫黄を降らせたとき,近くの町ゴモラと共に滅びました。さばきの日にソドムは耐えることができず,従ってソドムよりも罪の重いカペナウムはさばきの日にとうてい耐えることなく,ソドムと同様に復活しないと言えますか。そうではありません。なぜですか。イエスはソドムをツロおよびシドンと同列に置いているからです。

      9 (イ)ソドムの人々が悔い改めの不可能な霊的状態に立ち至っていなかった事は,どうしてわかりますか。(ロ)エゼキエル書 16章46節から61節はソドムに関してどのように述べていますか。

      9 ツロとシドンの場合と同じく,イエスはソドムが悪いにしても,悔い改めの不可能な状態には立ち至っていないことを示しました。それゆえにイエスは,カペナウムで行なわれたイエスの力あるわざがソドムで行なわれたならば,ソドムはイエスの時代にまで「残っていたであろう」と言われたのです。またその事に関連して,イエスは霊的な意味で天にまで高められていたカペナウムが,ゲヘナではなく黄泉にまで低くされると語りました。天は高いことを表わし,黄泉また陰府は低いことを表わします。天と黄泉を対照させたイエスは,カペナウムが最も低くいやしめられることを示したのです。イエスの好んだ町であったにもかかわらず,カペナウムはソドムと同様,今日もはや存在していません。しかしソドムがカペナウムと同じ機会に恵まれたならば,ソドムには10人あるいはそれ以上の義人がいて,1900年余り後のイエス時代,更にのちのちまでも町はつづいたことでしょう。ゆえに死んだソドムの人々が霊的に回復する望みは皆無ではありません。(創世 18:22-32)エゼキエル書 16章46節から61節は,望みのある人々を昔のソドムの人にくらべています。

      10 弟子たちを伝道に遣わしたとき,イエスはソドムとゴモラに関して何を述べましたか。なぜそのように述べたのですか。

      10 「イスラエルの家の失われた羊」に神の国を宣べ伝えさせるために弟子たちを遣わしたイエスは,次のことを言われました。「もしあなたがたを迎えもせず,またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば,その家や町を立ち去る時に,足のちりを払い落しなさい。あなたがたによく言っておく。さばきの日には,ソドム,ゴモラの地の方が,その町よりは耐えやすいであろう」。(マタイ 10:14,15。ルカ 10:10-12)なぜそうですか。ソドムとゴモラは神の国に関するこのような証言を聞いていないからです。

      11 とくにカペナウムと比較して,ソドムにはどの程度まで証言を聞く機会がありましたか。

      11 たしかにアブラハムのおいロトはソドムに住みましたが,御国の音信を知っていたわけではなく,従ってソドムの人にそれを伝えることもできませんでした。ロトは2人の娘をソドムの男たちと結婚させようとさえしています。エホバ神の天使2人もたしかにソドムの町をおとずれましたが,それは一晩留まって町を直接にしらべるためであり,神の国をソドムに伝道するためではありません。その晩天使たちの身に起きた出来事は,ソドムの男たちが如何に堕落していたかを物語っています。しかし悔改めと改心と永遠の救いの音信はソドムに伝えられませんでした。ただロトの義理の息子になるはずの者たちは,町に臨もうとしていた滅びを警告されました。彼らは,イエスと使徒の時代にカペナウムで行なわれたような御国の証言を全く知りませんでした。―創世 13:12,13; 19:1-29。

      預言的な型

      12,13 (イ)ソドムの人々はもともとどんな不利な立場におかれていましたか。しかし霊的にいってソドムより悪いどんな町がありましたか。(ロ)ペテロ後書 2章6節から10節の言葉に照らして,ソドムの滅びに関するどんな疑問が起きますか。

      12 エホバの天使は,正しい女は言うに及ばず,たとえ10人でも正しい男をソドムに見出せませんでした。ソドムの人々はカナン人であり,従ってその先祖カナンが族長ノアから受けたのろいの下におかれていました。(創世 9:20-25; 10:19)しかし比較して言えば,イエス時代のカペナウムの町は霊的な意味でソドムより悪い状態にあり,ソドムより重い罪があったのです。では天から降った火と硫黄によって,ソドムの住民は永遠に滅びましたか。あるいはその滅びは,ソドムの人々と同様に道を踏みはずし,しかも更に罪深い人々の受ける滅びを模型的に表わすものでしたか。これに関して,ペテロ後書 2章6節から10節の言葉に注目して下さい。

      13 「また,ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し,不信仰に走ろうとする人々の見せしめ〔鑑(文語)〕とし,ただ,非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。(この義人は,彼らの間に住み,彼らの不法の行いを日々見聞きして,その正しい心を痛めていたのである。)こういうわけで,〔エホバ〕は,信心深い者を試錬の中から救い出し,また,不義な者ども,特に,汚れた情欲におぼれて肉にしたがって歩み,また,権威ある者を軽んじる人々を罰して,さばきの日まで閉じ込めておくべきことを,よくご存じなのである。こういう人々は,大胆不敵なわがまま者であって,栄光ある者たちをそしってはばかるところがない」。―〔新世〕

      14 ロトの救いはどの程度までの救いでしたか。ソドムの滅びはどんな面で鑑となりましたか。

      14 ロトはソドムの滅びから救われましたが,神の国の下で享ける永遠の生命にまだ救われていません。そのためには復活が必要です。ペテロ後書 2章6節は,ソドムとゴモラの滅びが,敬虔なクリスチャンに教訓を与える「鑑」に過ぎないことを述べています。その事に注目して下さい。それはエホバ神に忠実を保つならばどうなるか,またソドム,ゴモラの人々の行いにならうとどうなるかを教えています。

      15 (イ)ペテロは,ソドムとゴモラの人々が永遠に滅びたと述べていますか。(ロ)ペテロ後書 2章12,13節において,ペテロはだれが永遠の滅びを受けると述べていますか。なぜですか。

      15 ソドムの人々は他のカナン人よりも堕落していましたか。レビ記 18章21節から28節によればそうではありません。またペテロはソドムとゴモラの人々が永遠に滅ぼされたとは述べていません。しかし献身したクリスチャンはソドム,ゴモラのおかれていた立場よりも責任の重い立場にあり,不信仰のカペナウムよりも重い責任を持っています。ゆえに献身してバプテスマを受けてのち堕落するクリスチャンは,永遠の滅びを受けるでしょう。ペテロ後書 2章12節はこのような人について次の事を述べています。「これらの者は,捕えられ,ほふられるために生れてきた,分別のない動物のようなもので,自分が知りもしないことをそしり,その不義の報いとして罰を受け,必ず滅ぼされてしまうのである」。彼らは動物と同じように滅びます。

      16,17 ソドムとゴモラに関するユダ書 7節の言葉は,ペテロ後書 2章6節に一致させてどう読むべきですか。

      16 ソドム,ゴモラは町としては永遠に滅びました。イエス時代にも,これらの町は存在していません。しかしこれらの町にいて滅びた人々については何が言えますか。次の言葉を読むとき,前述のクリスチャン使徒ペテロの述べた事柄を心に留めておかねばなりません。「ソドム,ゴモラも,まわりの町々も,同様であって,同じように淫行にふけり,不自然な肉欲に走ったので,永遠の火の刑罰を受け,人々の見せしめにされている」― ユダ 7。

      17 ゆえにソドム,ゴモラの住民は,「見せしめ」にされました。その町はイエス・キリストやペテロ,ユダその他の弟子たちの時代まで存続しなかったからです。ソドム,ゴモラの人々がゲヘナに定められ,「火と硫黄の燃えている池」に投げ入れられたというのではありません。その人々は「永遠の火」すなわち永遠の滅びという罰を受けることになる不忠実なクリスチャン(「不信仰に走ろうとする人々」)に対する警告の例とされたのです。―黙示 20:14,15; 21:8。ペテロ後 2:6。

      18 「不信仰に走」るクリスチャンは,ソドム,ゴモラの人々よりもどのように厳しい罰を受けますか。

      18 ソドムとゴモラの人々は神の天使の手で,硫黄の混じた火によって滅ぼされました。その影響は2000年後のイエス,ペテロ,ユダの時代にも及んでおり,そのためソドム,ゴモラの人々は,イエス時代のカペナウムのユダヤ人に与えられたような機会に恵まれませんでした。しかし献身したクリスチャンでありながら不忠実になり,ソドム,ゴモラの人々にならう者は,「重い刑罰」すなわち「永遠の火」の象徴する永遠の滅びを受けます。―ヘブル 10:29。

      19 (イ)ゆえにペテロとユダは,クリスチャンに何を警告しているのですか。(ロ)ヘブル書 6章1節から8節によれば,不忠実なクリスチャンは,どんな「キリストの教の初歩」に対する認識を失いますか。

      19 ペテロとユダがそれぞれクリスチャンに書き送った手紙は,「ゲヘナの刑罰」を受けて永遠の滅びに定められることのないようにとの警告を与えているのです。もしそのような事になれば,死んで後に復活の希望はありません。クリスチャンとなったヘブル人に宛てた手紙の筆者は,不忠実なクリスチャンが復活の希望のない滅びに定められる理由を更に明らかにしています。ヘブル書 6章1節から8節は,「完成を目ざして進」むことを拒むクリスチャンが,基本の教え,「死んだ行いの悔改めと神への信仰,洗いごとについての教と按手,死人の復活と永遠のさばき」などの「キリストの教の初歩」に関する認識さえも失うことを述べています。「完成を目ざして進」むべき重要な理由はそこにあるのです。なぜそうですか。

      20 ヘブル書 6章4節から8節によれば,クリスチャンはなぜ「完成を目ざして進」むべきですか。

      20 「いったん,光を受けて天よりの賜物を味わい,聖霊にあずかる者となり,また,神の良きみ言葉と,きたるべき世の力とを味わった者たちが,そののち堕落した場合には,またもや神の御子を,自ら〔杭〕につけて,さらしものにするわけであるから,ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。たとえば,土地が,その上にたびたび降る雨を吸い込んで,耕す人々に役立つ作物を育てるなら,神の祝福にあずかる。しかし,いばらやあざみをはえさせるなら,それは無用になり,やがてのろわれ,ついには焼かれてしまう」― ヘブル 6:4-8。

      21 あるクリスチャンは,遂にどんな罪をことさらに犯しますか。このような人がたとえ復活しても,なぜ無駄ですか。

      21 「聖霊にあずかる者」となったこのようなクリスチャンが堕落するならば,遂に聖霊に対して罪を犯すことになります。あえてそうする者は自分をかたくなにして,悔い改めることをしません。イエス・キリストに働いた神の聖霊の力を見ながら,それを悪しざまに言ったユダヤ人に対して,イエスは聖霊に対する罪のことを語りました。「だから,あなたがたに言っておく。人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は,ゆるされるであろう。しかし,聖霊に対して言い逆らう者は,この世でも,きたるべき世でも,ゆるされることはない」。(マタイ 12:31,32)ゆえに神の国の治める来たるべき事物の制度の下に,このような者が復活しても無意味であり,その復活の機会は無駄になります。

      22 ヘブル書 10章26節から31節によれば,クリスチャンはなぜ定期的に集まって互に建ておこすべきですか。

      22 真実のクリスチャンは「ゲヘナの刑罰」に定められるのを避けようとします。それで常に集まって励まし合い,霊的に強め合うことが必要です。なぜそう言えますか。ヘブル書 10章26節から31節はそれに答えています。「もしわたしたちが,真理の知識を受けたのちにもなお,ことさらに罪を犯しつづけるなら,罪のためのいけにえは,もはやあり得ない。ただ,さばきと,逆らう者たちを焼きつくす〔神の〕激しい火とを,恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が,あわれみを受けることなしに,二,三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば,神の子を踏みつけ,自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし,さらに恵みの御霊を侮る者は,どんなにか重い刑罰に価することであろう。『復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と言われ,また『〔エホバ〕はその民をさばかれる』と言われたかたを,わたしたちは知っている。生ける神のみ手のうちに落ちるのは,恐ろしいことである」。(新世)

      「どんなにか重い」

      23 不忠実なクリスチャンは,モーセの律法を無視したユダヤ人よりもどれだけ厳しい罰を受けますか。

      23 真理の正確な知識を得てクリスチャンとなってのち,あえて罪を犯す者のために,イエス・キリストが再び死なれることはありません。このような者は神の御子イエス・キリストご自身を否定し,イエスのあがないと清めの血,そしてイエスの契約の血を普通の人の血と同様に見なします。そこでイエスの完全な人間の生命の犠牲を拒絶するとき,彼らのことさらの罪を除くため神にささげる犠牲がなお残されていますか。ひとつも残されていません。それゆえに彼らは死ぬ時,ゲヘナ,「火の池」すなわち「第二の死」に定められます。それで復活の可能なヘーデース(黄泉)すなわちシェオール(陰府)に行くのではありません。こうして彼らは,モーセの律法を破って「あわれみを受けることなしに」死刑に処せられたイスラエル人よりも「重い刑罰」を受けます。モーセは単に預言的にイエス・キリストを表わしていました。

      24 このようなクリスチャンは初めどんな復活を望んでいましたか。しかし死ぬとき,何を受けますか。

      24 ゆえにことさらに罪を犯すクリスチャンは復活を受けません。王なる祭司イエス・キリストの共同相続者として見えない天に生命を享ける14万4000人の弟子たちは,「第一の復活」にあずかります。しかし霊に生まれた神の子として,はじめ「第一の復活」を望んでいたにしても,許されることのない罪をことさらに犯すならば,栄光ある天の生命に復活する可能性は全く失われます。その人は死ぬとき,「生ける神のみ手」によって永遠の滅びを受けます。

      25,26 (イ)西暦33年五旬節の日に天の希望に生み出されなかったにしても,イスカリオテのユダはなぜこのような「重い」罰を受けましたか。(ロ)イスカリオテのユダは死んでどこに行きましたか。なぜですか。

      25 イスカリオテのユダは,生ける神のみ手に落ち,永遠の滅びという「重い」刑罰を受けたクリスチャンです。西暦33年の五旬節を迎えることなく死んだユダは聖霊によってバプテスマを受けず,父なる神によって天の希望に生み出されることもありませんでした。しかしユダはイエス・キリストの使徒に選ばれた者であり,他の11人の使徒と共に伝道に遣わされた時には聖霊による特別な力を授けられていました。(マタイ 10:1-8)それなのにユダは永遠の救いを得るためではなく,銀30枚を得るために,自分の救い主イエス・キリストを裏切り,イエスを殺そうとしていた敵の手に自分の主を渡したのです。

      26 改宗者を得てはおのれに倍するゲヘナの子とし,自分も「ゲヘナの刑罰」を受けるとイエスから言われた人々を相手に,イスカリオテのユダは取り引きをしました。(マタイ 23:15,33,文語)ユダは,犠牲となった「神の小羊」を拒絶しました。それでユダのことさらの罪のためにささげる犠牲はありません。当然の結果としてユダは「滅びの子」になりました。自殺したとき,彼はゲヘナに行きました。それで血肉の人として地上に復活することさえもありません。―ヨハネ 6:70,71; 17:12。

      27-29 (イ)パウロが述べた他の「滅びの子」とはだれですか。(ロ)この者について,パウロはテサロニケ後書 2章3節から12節に何を述べていますか。

      27 使徒パウロの言葉は,ユダのほかにも「滅びの子」がいることを示しています。これはイスカリオテのユダのような個人ではありません。それは西暦33年の五旬節以来,そしてとくにイエス・キリストの忠実な12使徒の死後,姿を現わしたグループで,自らクリスチャンと唱えています。「滅びの子」と呼ばれるこのグループは,聖書に教えられた真のキリスト教の教えを離れ,たとえ神のみ子イエス・キリストの追随者をよそおっていても,神の律法を破る者となった,自称キリスト教指導者から成り立っています。彼らは,今日大いなるバビロン(偽りの宗教の世界帝国)の主要な部分を成すキリスト教国の宗教教職者を組織しています。テサロニケ後書 2章3節から12節においてパウロは,この「滅びの子」のことを次のように警告しました。

      28 「だれがどんな事をしても,それにだまされてはならない。まず背教のことが起り,不法の者,すなわち,滅びの子が現れるにちがいない。彼は,すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり,自ら神の宮に座して,自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時,これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして,あなたがたが知っているとおり,彼が自分に定められた時になってから現れるように,いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が,すでに働いているのである。ただそれは,いま阻止しいている者が取り除かれる時までのことである。その時になると,不法の者が現れる。この者を,主イエスは口の息をもって殺し,来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは,サタンの働きによるのであって,あらゆる偽りの力と,しるしと,不思議と,また,あらゆる不義の惑わしとを,滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは,自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は,彼らが偽りを信じるように,迷わす力を送り,こうして,真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を,さばくのである」。

      30 この「滅びの子」の「不法」はどなた対する不法ですか。その事はどうして明らかですか。この者は何時まで阻止されましたか。

      30 集合的なこの「不法の者」あるいは「罪の者」(欽定訳,アメリカ標準訳,ドウエイ訳)の不法は,至上の神に対する不法です。それはこの不法の者が,およそ神として崇められるものの上に自分を高めようとしている事からも明らかです。この者は神の霊的な宮において,真の神の地位を得ようとさえします。この不法の者は崇拝と尊崇を自ら得ることを望み,神の聖書を押しやって,宗教上の伝統と異教の教えを大切にしています。この者は宗教的な欺きに満ち,偽りの父サタン悪魔の手先をつとめています。この不法の者は忠実な12使徒の死まで阻止されていました。しかしその後は容易に勢力をのばし,クリスチャンと唱えた人々の上に力をふるい始めました。

      31 (イ)この者にとって「滅びの子」という名はなぜ適当ですか。(ロ)キリスト教国の教職者が御国の音信に反対しても,なぜ不思議ではありませんか。

      31 しかし主イエスは天の御国に臨在するとき,この不法の者を除き,彼を無に帰せしめます。イエスはこの不法の者を完全に滅ぼします。その理由でこの者は「滅びの子」と呼ばれているのです。過去19世紀にわたってこの「不法の者」を構成した者たちは不利なさばきを受け,その各人は死の時にゲヘナに定められました。別の「滅びの子」すなわちイスカリオテのユダと同じく彼らは復活しません。彼らは救いに導く真理を愛しません。従って偽りを信じて,あくまでも誤びゅうをひろめます。キリスト教国の教職者が,メシヤによる神の国の音信に反対し,音信を宣べる者を迫害するのも不思議ではありません。大いなるバビロンが永遠に滅びるとき,この「不法の人」も「ゲヘナの刑罰」を受けて滅びるでしょう。

      「悪い僕」

      32 マタイ伝 24章45節から51節にあるしもべのたとえの中で,他のどんな自称クリスチャンのグループが滅びに定められていますか。

      32 クリスチャンと唱えていて,「不法の人」と同じ罰を受ける別のグループがあります。イエスはこのグループを預言的に指して「悪い僕」あるいは「あの悪いどれい」と言われました。(マタイ 24:48-51,新世。ルカ 12:45,46)これらは献身してバプテスマを受け,神の霊によって天の希望に生み出されたクリスチャンです。彼らは,イエスが「忠実な思慮深い僕」あるいは「忠実な思慮深いどれい」と呼んだ忠節なクリスチャン会衆と交わっていました。(マタイ 24:45-47,新世)しかし「悪い僕」を構成する者たちは反逆し,自分勝手に主の持ちものを運営し,肉欲をみたし,「忠実な思慮深い僕」を虐待します。

      33 (イ)「悪い僕」は主の家の外にいる偽善者よりも罪が重いとなぜ言えますか。(ロ)イエスのたとえ話にある他のどんなグループがこのしもべと同類ですか。

      33 主イエス・キリストは「悪い僕」が悪行にふけっているところを捕えて「厳罰」に処し,家の外に追い出して,宗教的偽善者と同じ目に会わせます。主の家にあって霊的に貴重なものを委ねられていたゆえに,クリスチャンの「悪い僕」は家の外の偽善者よりも罪が重いと言わなければなりません。またイスカリオテのユダが主イエス・キリストを裏切ったように,忠実なクリスチャンの兄弟を裏切った罪も負わねばなりません。彼らはユダと同じく復活を受けません。マタイ伝 25章15,16節,22節から30節のイエスのたとえ話で主人から1タラントを与えられた「悪い怠惰な僕」,およびルカ伝 19章13節,20節から27節のたとえ話の中で主人の1ミナを有利に用いなかった「悪い僕」も,前述の「悪い僕」と同類に入れられます。聖書から見るとき,これらの者が天の生命に復活する希望は皆無です。

  • その2
    ものみの塔 1965 | 6月15日
    • その2

      1,2 (イ)テモテ前書 1章18節から20節において,パウロはどんな不忠実なクリスチャンのことを述べましたか。(ロ)彼らはどんな機会を失いましたか。

      使徒パウロの時代の献身したクリスチャンの中に,霊的な復活を受けて主イエス・キリストと共に天の栄光と力にあずかる機会を台なしにした者がいました。使徒パウロはテモテに書き送った次の言葉の中で,それがどうして起きたかを示しています。

      2 「わたしの子テモテよ。以前あなたに対してなされた数々の預言の言葉に従って,この命令を与える。あなたは,これらの言葉に励まされて,信仰と正しい良心とを保ちながら,りっぱに戦いぬきなさい。ある人々は,正しい良心を捨てたため,信仰の破船に会った。その中に,ヒメナオとアレキサンデルとがいる。わたしは,神を汚さないことを学ばせるため,このふたりをサタンの手に渡したのである」― テモテ前 1:18-20。

      3,4 (イ)この2人が会衆に復帰することは,なぜ望めませんか。(ロ)これに関連して,こらしめられたのはだれですか。

      3 これはヒメナオとアレキサンデルが最後に非を悟って神を汚すのをやめ,会衆に復帰してサタンの手から救われたという意味ではありません。献身してバプテスマを受けたこれら2人のクリスチャンがクリスチャンの信仰と清い良心を捨て,信仰の破船にあって破滅の海に沈んだ以上,そのようなことはあり得ません。

      4 忠実なクリスチャン会衆から排斥されても,この2人は受けたこらしめによって改心することがありませんでした。しかし愛された忠実な会衆は,霊的に破船した2人を避け,2人とのかかわりを絶って彼らをサタンの手にまかせ,こうして教訓を得ました。パウロは使徒の権威をもって2人をサタンに渡してしまっていたのです。信仰と良心を捨てた2人を排斥することによって,忠節な会衆はこらしめを受けました。ヒメナオとアレキサンデルにならってクリスチャンとしての破滅をこうむり,排斥されてサタンに渡されることのないように,教訓を学んだのです。

      5,6 (イ)テモテ後書 2章16節から19節によれば,ヒメナオはどんな悪をしましたか。(ロ)会衆がヒメナオとピレトを否認しなければならなかったのはなぜですか。この2人は復活がどのように過去のものであると言い,また教えましたか。

      5 使徒パウロが後にテモテに書き送った次の言葉はヒメナオについて更に述べており,ヒメナオの悪がどこにあったかを明らかにしています。「俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は,ますます不信心に落ちていき,彼らの言葉は,がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ,復活はすでに済んでしまったと言い,そして,ある人々の信仰をくつがえしている。しかし,神のゆるがない土台はすえられていて,それに次の句が証印として,しるされている。『〔エホバ〕は自分の者たちを知る』。また『〔エホバ〕の名を呼ぶ者は,すべて不義から離れよ』」― テモテ後 2:16-19,〔新世〕。

      6 ヒメナオとピレトはもはやエホバに属する者ではなく,エホバのクリスチャン会衆を追われてサタンに渡されました。忠実なクリスチャンは「御名を負う民」としてエホバのみ名を負い,会衆の集会においても,外で伝道する時にも神のみ名を用いました。(使行 15:14-18)この理由で彼らは,ヒメナオやアレキサンデルのような不貞なクリスチャンを,不義にみちた者として排斥することが必要でした。この者たちは復活について勝手な考えを持ち,当時「復活はすでに済んでしまった」と教えました。復活は単に霊的なもの,象徴的な意味のものであり,献身したクリスチャンはすでに復活した,これが復活のすべてであって,メシヤによる神の国の下で将来に復活があることはないと,彼らは教えていたようです。

      7 死のとき,彼らには何が臨みましたか。なぜですか。

      7 ヒメナオとピレトは,このような復活の教えによって,会衆内にある人々の信仰をすでにくつがえしていました。これに関連して人間の魂の不滅という異教ギリシャの哲学を彼らが教えたかどうか,この点についてパウロは述べていません。しかしクリスチャンの信仰をくつがえしたこれらの者は良心を捨てた者であり,真理の正確な知識を得てのち,また使徒パウロとかかわりを持っていたにもかかわらず,ことさらに罪を犯していました。ゆえに彼らは死んだとき,ゲヘナの刑罰を受けました。彼らは復活しません。

      8,9 テモテ前書 6章9,10,20,21節において,パウロはどんな点を強調していますか。

      8 物質の富を築き,この世の知識あるいはいわゆる科学をきわめることに執心するクリスチャンは,復活の機会また来たるべき正義の秩序の下で生命を得る機会を危うくします。いわゆる科学や富ではなく,真実のクリスチャンの信仰によって,私たちは救われます。

      9 テモテに書き送った最初の手紙の結論において,使徒パウロはこの点を次のように強調しています。「富むことを願い求める者は,誘惑と,わなとに陥り,また,人を滅びと破壊とに沈ませる,無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは,すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため,信仰から迷い出て,多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして,〔ヒメナオとアレキサンデルの語ったような〕俗悪なむだ話と,偽りの『知識』による反対論とを避けなさい。ある人々はそれに熱中して,信仰からそれてしまったのである」― テモテ前 6:9,10,20,21。

      10 (イ)「偽りの知識」を誇る人は,どのように自分自身に害を受けますか。(ロ)従って私たちは何をすることを決意していますか。

      10 富を誇るクリスチャンは「人を滅びと破壊とに沈ませる」欲望に陥ります。不信仰な世の,いわゆる知識を追い求め,知識を誇り,それを用いて世の利得を求めるクリスチャンは信仰からそれます。神がイエス・キリストによってこのような人々を復活させるいわれはなくなります。彼らは死ぬとき,象徴的に言ってゲヘナに投げ込まれます。(マルコ 9:43-47)このような人々にならってはなりません。それは私たちの決意です。私たちはヘブル書 10章38,39節を心に留めています。「『わが義人は,信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら,わたしのたましいはこれを喜ばない』。しかしわたしたちは,信仰を捨てて滅びる者ではなく,信仰に立って,いのちを得る者である」

      信者の配偶者を持つ不信者

      11,12 (イ)献身して,霊に生まれたクリスチャンを配偶者に持つ不信者に関して,どんな疑問が生じますか。(ロ)パウロはこの関係につき,コリント前書 7章10節から16節において何を述べていますか。

      11 献身してバプテスマを受け,神のみ霊に生み出されて天国を相続するようになったクリスチャンと結ばれている人は,イエス・キリストの時代から多くいます。しかし信者の感化によって自分自身もこのようなクリスチャンになるまでには至らなかった人がいます。昔も今も,聖別されたクリスチャンの夫あるいは妻を持ち,また献身して霊に生み出された片親あるいは両親を持つ子供がいます。このような不信者は復活しますか。このような不信者について,パウロは次のことを書きました。

      12 「われ婚姻したる者に命ず……我いふ(主の言ひ給ふにあらず)もし或る兄弟に不信者なる妻ありて偕に居ることを可しとせば,之を去るな。また女に不信者なる夫ありて偕に居ることを可しとせば,夫を去るな。そは不信者なる夫は妻によりて潔くなり,不信者なる妻は夫によりて潔くなりたればなり。然なくば汝らの子供は潔からず,然れど今は潔き者なり。不信者みづから離れ去らば,その離るるに任せよ。かくのごとき事あらば,兄弟または姉妹,もはや繋がる所なし。神の汝らを召し給へるは平和を得させん為なり。妻よ,汝いかで夫を救ひ得るや否やを知らん。夫よ汝いかで妻を救ひ得るや否やを知らん」― コリント前 7:10-16,文語。

      13 このような助言と一致して,ペテロはペテロ前書 3章1節から4節に何と書いていますか。

      13 使徒ペテロもこれと一致して次のように書いています。「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによって,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りではなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである」― ペテロ前 3:1-4。

      14 このような不信者が死んだのちの事について,どんな疑問が生じますか。これについて他にどんな公平な質問をすべきですか。

      14 天の希望を持つ忠実なクリスチャンと結ばれている配偶者が不信者のままで死ぬならば,不信者は決して救われることがありませんか。不信者は死んで「ゲヘナの刑罰」を受け,従って復活せず,神の国の下で楽園の地において永遠の生命を得る機会を与えられずに終わるのですか。このような質問と共に次のことも当然に考慮しなければなりません。不信者は信者とどのくらい長く一緒に生活しましたか。また信者は,真のクリスチャンの信仰を証しする者としてどれほど忠実であり,また良い手本を示しましたか。

      15 経験と観察に照らして,不信者に関するどんな質問をすることは妥当ですか。

      15 経験と観察から言えることですが,良い印象を受けて自ら正しい道をとるまでに要する時間は人によって長短があり,ある種の背景を持つ人は他の人よりも長い時間を要するかも知れません。そこで不信者が信者と一緒に暮らした期間は,その人個人の場合に必要なだけの長さにわたっており,また信者と暮らした経験は十分なものでしたか。不信仰のままに二,三年を過ごして死んだ人の場合,かりにもっと長く信者と暮らしたとすれば,献身して信者になる可能性があったと言えませんか。信者の配偶者から離れた不信者は,救いを得る最善の機会を自ら捨ててしまったことになるのですか。

      16 このような道をとる不信者は,ペテロ後書 2章21,22節に述べられている道をとったことになりますか。

      16 たとえこのような道を選んだにしても,不信者はペテロ後書 2章21,22節に述べられているような極端にまで走ったのではありません。「義の道を心得ていながら,自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは,むしろ義の道を知らなかった方がよい。ことわざに,『犬は自分の吐いた物に帰り,豚は洗われても,また,どろの中にころがって行く』とあるが,彼らの身に起ったことは,そのとおりである」。それで信者から離れて行った不信者には,将来の生命の希望が全くないのですか。このような事情のとき,さばきを行なうのはだれですか。決定的なさばきを下すのはだれですか。

      17 (イ)配偶者に関する使徒たちの助言はだれに宛てて書かれましたか。(ロ)配偶者の救いついて述べたパウロは,どんな救いのことを考えていましたか。

      17 「神の教会」,「キリスト・イエスにあって,きよめられ,聖徒として召された」霊的なクリスチャンすなわち,「神は……イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ,それにより,わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ,あなたがたのために天にたくわえてある,朽ちず汚れず,しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さった」と述べられている人々に対して,これらの使徒は前述の事を書きました。そのことに留意しなければなりません。(コリント前 1:1,2。ペテロ前 1:3,4)これらの書簡は1世紀に書かれました。そのとき神は,み名を負う民を異邦人の中からとり出していました。それは天国においてキリストの共同相続者となる14万4000人の,クリスチャンの証人の会衆です。(使行 15:14)従って「妻よ,あなたが夫を救いうるかどうか,どうしてわかるか。また,夫よ,あなたも妻を救いうるかどうか,どうしてわかるか」と述べたパウロの言葉は,イエス・キリストと共に天の生命を得る救いのことを述べていたに違いありません。

      18 (イ)このようなクリスチャンの配偶者として死んだ不信者にとって,他の救いが可能ですか。(ロ)良い羊飼は,何時から「他の羊」を呼び集めていますか。

      18 天の神の国によって至るところ楽園となったこの地上で完全な人間としての生命を得るのも一つの救いですが,パウロがこのような救いのことを述べているのでない事は明らかです。それですぐ心に浮かぶのは次のような質問です。信者の配偶者を持つ不信者が,当時における唯一の救い,すなわち神が諸国民を召していた救いに与らなかった場合,その人は神の国の下で人類一般に及ぶ救い,つまり地上の生命に救われる機会もなくすのですか。もしそうとすれば,何が言えますか。私たちは,天の召しに答えずに死んだ不信者をさばいて,神の国の下に復活するに値しない者とし,地上の生命の機会を得るに値しない者としている事になります。しかし良い羊飼イエス・キリストが,地上の永遠の生命を望む「他の羊」を呼び集め始めたのは,最近のことに過ぎません。―ヨハネ 10:16。

      19 (イ)「他の羊」のために設けられた救いは,霊に生まれながら不忠実となったクリスチャンを救い上げる網のようなものですか。(ロ)「他の羊」の救いは何によって可能となりましたか。

      19 霊感の聖書の示すところによれば,神は「他の羊」を集めるご自身の時を明確に定めています。神は愛するみ子の治める楽園の地において「他の羊」に永遠の救いを施します。このような「他の羊」に対する神のご準備は,天国を相続するように神から召された人で,しかも死に至るまで忠実なクリスチャンの道を歩まなかった人を救いあげる網のようなものではあります。天国を継ぐように召されたクリスチャンは,天国にはいるにふさわしい事を証明するか,あるいはふさわしくない者となるかのいずれかです。たとえ落伍しても,天国以外の場所で別の種類の永遠の生命が得られるという事はありません。キリストを通して「他の羊」のために設けられた神のご準備は,人類の大多数のために神が特別にもくろまれたものです。キリストの共同相続者14万4000人が天国に召されることと同じく,それはイエス・キリストの死と復活に基づいています。

      20 歴史から見て,「他の羊」の「大ぜいの群衆」を集めることは何時始められましたか。

      20 歴史の事実から見て,他の羊の「大ぜいの群衆」を集めることは,西暦1931年以前には行なわれず,それが始まったのはとくに西暦1935年以降です。―エゼキエル 9:4。黙示 7:9-17。1934年8月15日号「ものみの塔」249,250頁31-34節,および1935年2月1日号47頁上段。(いずれも英文)

      21 これらの事実は,考慮中のどんな問題と関係がありますか。

      21 コリント前書 7章10節から16節にあるパウロの助言に関連して起きた先の問題をとりあげるに際しては,これらの事実を考慮しなければなりません。そこにおいてパウロは,信者の配偶者を持つ不信者および片親または両親が信者であったため,成人しないうちは「潔き」者とされたにしても,自ら信者とはならなかったかも知れない子供たちに関して述べています。人を選んで一つの希望を与え,あるいは他の希望を与えるのは神であり,この場合にもさばきは神によらねばなりません。―ロマ 9:14-16。

      今の世代はどうか

      22 西暦1914年にどんな時が始まりましたか。その初めは預言を成就するどんな出来事によってしるしづけられましたか。

      22 聖書にしるされた時の定めによれば,現存する事物の制度の「終わりの時」は51年前の1914年に始まりました。エホバ神が前以て定めたその時をしるしづけたのは,第一次世界大戦の勃発です。西暦33年にイエス・キリストの預言した出来事すなわち食糧不足,疫病,地震がそれにつづきました。これらの出来事は,人類の世に臨んだ産みの苦しみの初めです。(ダニエル 11:35; 12:4。マタイ 24:3,7,8。ルカ 21:10,11)1918年と1919年に世界的に流行したスペイン風邪で2000万人が死にました。これは4年間にわたる第一次世界大戦の死者何百万人を上回る数です。

      23 即位した王,世界大戦,ききんは,黙示録 6章1節から6節にどのように描かれていますか。

      23 栄光を受けたイエス・キリストは,西暦1914年以来の「終りの時」をしるしづける出来事を,黙示録 6章1節から8節において預言的に示しました。即位した王イエス・キリストは,使徒ヨハネに与えられたこの幻の中で,弓を手に持ち,冠をいただき,白い馬に乗り,勝利にむかって進む者として描かれています。世界大戦は,大きなつるぎを持ち,赤い馬に乗って地上から平和を奪う者として描かれ,ききんまた食糧不足は,食物をはかり出すためのはかりを手に持ち,黒い馬に乗る者にたとえられています。

      24 黙示録 6章7,8節は,致命的な疫病をどのように描いていますか。

      24 次に疫病の描かれているさまに注目して下さい。「そこで見ていると,見よ,青白い馬が出てきた。そして,それに乗っている者の名は『死』と言い,それに黄泉が従っていた。彼らには,地の四分の一を支配する権威,および,つるぎと,ききんと,死と,地の獣らとによって人を殺す権威とが,与えられた」― 黙示 6:7,8。

      25 (イ)これによれば,「終りの時」の初めに死ぬ人はどこに行きますか。(ロ)このような人の復活に関する質問の答えは,どこにありますか。

      25 さて次の疑問が生じます。大いなるバビロンの滅びとハルマゲドンの戦いに先立つ,この「終りの時」に死ぬ人々は,キリストを通して働く神の力によってやがて復活しますか。これに正しく答える手がかりは,ヨハネに与えられた幻そのものの中にあります。第四の馬に乗り,死(「第二の死」ではない)と名づけられた者に従っているのはゲヘナではなくて黄泉です。そのことに注目して下さい。これは「終りの時」の初めにこれらの災にあって死ぬ人々が黄泉に行くことを物語っています。黄泉は,死んで塵に戻る人間一般の墓です。海で死んだ人も大ぜいありますが,どちらかと言えば付随的なこの事柄は,預言的な幻の中に述べられていません。この「終りの時」に死ぬ人が復活するかどうかの問題は,黙示録 20章13節に明確に述べられています。それは天の神の国を相続する14万4000人以外の人々について,次のことを述べています。「海はその中にいる死人を出し,死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおのそのしわざに応じて,さばきを受けた」。

      26 この「終りの時」に死んだ人々の一部を成すどんな霊的なグループは,黙示録 20章13節の言葉に含まれていませんか。

      26 1914年以降の「終りの時」に死んだ人の中には,天国に招かれてのちに不忠実となり,天国を相続できなくなったクリスチャンも少なからずいます。海と死と黄泉の出す死人の中に,これらの人々は含まれていません。(黙示 20:13)マタイ伝 24章48節から51節,25章18節,24節から30節に預言されていた「悪い僕」および1タラントを活用しなかった「悪い怠惰な僕」は,献身してバプテスマを受け,天国に招かれてのちに不忠実となったこれらのクリスチャンを表わしています。イエス・キリストの弟子でありながら不忠実なこれらの者は,死んで象徴的なゲヘナに行きます。全能の神はゲヘナにおいてからだと魂の両方を滅ぼします。(マタイ 10:28)それで神の国の下において海と死と黄泉が地に死人を出すときも,これらの人々は復活しません。

      神のさばきが執行されるとき

      27 大いなるバビロンは何時,どのように滅ぼされますか。その時,共に滅びる人々にはどんな将来がありますか。

      27 しかし「終りの時」の終結に際し,エホバ神は白い馬に乗る者を用いて国々と諸国民に対し,不利なさばきの執行を開始します。大いなるバビロンが滅ぼされ,ついで「全能の神の大なる日の戦闘」が行なわれます。(黙示 16:13-16,文語。17:1-6,14)エホバ神は,地の政治権力が大いなるバビロンすなわち偽りの宗教の世界帝国

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