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現代はなぜ“不安定な時代”なのか目ざめよ! 1979 | 3月8日
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入れれば,労働力としての人間の要素がどうなるかは目に見えています。
様々な解決策が提出されてきました。早期の定年退職,週中労働日の短縮,毎年の休暇の増加と長期化,そして必然的なこととして学校を卒業する年齢の上昇などがそれです。しかし,そのいずれもまたそのすべてをもってしても,問題を解決することはできません。そして,根本にある,雇用の不安定という問題は依然残るのです。
正常な状況下では,聖書の言うように,「働こうとしない者は食べてはならない」と言うのは正当なことですが,働くことを切に願っていながら,その機会を与えられない人の場合はどうですか。(テサロニケ第二 3:10)悲しいことに,今日,その部類に入る人は少なくないうえ,社会保障制度のない国では,果てしなく続く不安定な状態の下で細々と生計を立ててゆくしかないのです。
非行
「労働は,退屈と悪徳と貧困という三大悪を放逐する」。これは,18世紀のフランスの著述家,ボルテールが哲学的に言い表わした言葉です。訓練を受けた男女が能力があるのに,正直な労働の一日を送れないのだから,犯罪生活を送るようになる人が今日少なくないのも不思議ではありません。欲求不満にははけ口があります。それは,犯罪発生件数全体の38%が失業者によるものとされている英国諸島の例からも分かります。
もっと危急なことは,世界中に見られる,それと関連した暴力テロ行為です。イタリアでの騒動は,不安定で疎外された若い世代(イタリアの大学卒業生の20%は,修得した資格を実際に活用できる勤め口を見いだせないでいる)によって扇動されたもので,ヨーロッパ諸国の不幸な事態を反映しています。しかし,力と威嚇で“体制”を変えようとすることは,自らの不安を生み出すに過ぎません。
犯罪の波を抑えるために,より大規模で強力な警察力やより厳しい法律に頼る政府当局は少なくありません。確かに,そのような規制措置は犯罪活動を抑制する上で効果があるかもしれませんが,その結果,当然のことながら善良な社会人は自分たちの安全のために重い負担を抱えることになります。法律による重荷は税金の面で負わねばならないばかりか,様々な規制によって社会全体の自由がある程度制約されることになります。待望される安全を回復するのに,正直と忠誠心に代わるものはありません。
国際的な緊張
国際問題は制し切れないものになりますか。こうした恐れは,生活の計画を立てたいと願っている若い世代の人々にも影響を及ぼします。若い世代の人々は,自分たちの父親や祖父が,戦争によって生じた不安な事態を切り抜けてきたことを知っています。それでもなお,世界の指導者たちが依然として互いの間で合意に達しようとせず,国際的な策略や陰謀によって相変わらず平和が脅かされているのを見ています。
軍備競争は衰えることなく,学生たちは科学者全体の四分の一が攻撃用の兵器の開発に自分たちの時間を費やしていることを百も承知しています。平均的な労働者が毎年,自分の賃金の二週間分を軍備競争のために支払っている,という事実は余り知られていないかもしれません。今日の世代の人々は,“愛し合おう ― 戦争はごめんだ”と言うかもしれませんが,国際安全保障というような世界的な重大問題になると,自分たちで自らの運命を左右できないことを悟っています。
退職の問題
短い人生の終わりを迎えようとしている人々にとって,不安はいつまでも付きまといます。自分たちの蓄えが継続的なインフレのために目減りしてゆくのを見て,どれほど多くのお年寄りは気に病んでいることでしょう。節約と貯蓄は,もはや賞賛に値する美徳ではなくなっているようです。一広告業者は,借金をし,ローンを利用するよう読者に勧めた中で,簡明にこう述べています。「最近のような物価高では,自分の欲しい物を買うために貯蓄をしていたのでは割に合わない」。
こうした人生哲学は若い世代には当てはまるかもしれませんが,退職後の収入が限られていて,自分の蓄えに頼ろうとする人々はどうなるのでしょうか。国家の援助が容易に受けられる国でも,失意が原因でお年寄りの間から依然として犠牲者が出ています。米国では,自殺四件のうち一件は65歳以上の人によるものです。
ありとあらゆる問題や不安を抱えたこの時代に住んでいながら,果たして安定感を見いだせるでしょうか。何が安心感をもたらしますか。次の点を自問しながら,証拠を検討してみるようお勧めいたします。
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今日,安心感を得られるのはだれですか目ざめよ! 1979 | 3月8日
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今日,安心感を得られるのはだれですか
衣食住は生活の基本的な必要物です。これらのものがなければ命そのものもおぼつかなくなってしまいます。
こうした必要物すべてを十分な量提供してくれるという人がいたなら,きっと,「どんな条件で?」とお尋ねになるでしょう。その代価が高すぎれば,そうした約束はとても贈り物などとは言えません。しかし,受け入れられる条件で提供されるなら,それは実にすばらしい祝福になるでしょう。
正当な評価
有名な山上の垂訓の中で,イエス・キリストは,生活の物質上の必要物を評価する点で非常に現実的でした。しかし,イエスが強調しておられたのは,そうした物を確保するために『決して思い煩ってはならない』という点でした。どうしてですか。それにはもっともな理由があります。あなたは,ご自分で,聖書のマタイ 6章31節から33節,あるいはそれと平行するルカ 12章29節から31節の記述を調べてみたいと思われることでしょう。
イエスがその中で認めておられるとおり,大多数の人はその諭しに注意を払わないことにわたしたちは気付きます。むしろ,人々は物質の所有物を追い求め,『心配して気をもみ』ます。そのような人々にとって,そうした財産そのものが究極の目標になってしまうのです。しかし,これまでに見てきたとおり,そうした物は一体どれほどの安心感を与えてくれるでしょうか。
その同じ文脈の中で,イエスは,『蛾とさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗む』所に宝を蓄えることについて語っておられます。(マタイ 6:19,20)今日,入手可能なありとあらゆる優れた財産をもってしても,過去にそれを持った人よりも大きな安心感を享受できるわけではありません。もっと重大な事として,そうした人々の例に倣うなら,より優れた種類の富をないがしろにすることになります。イエスはそのような短期的な人生観を戒めて,こう語られました。「たとえ自分の必要以上に持っているとしても,人の命はその所有している物によって安全にされるのではありません」― ルカ 12:15,エルサレム聖書。
では,真の安らぎはどこに見いだせるでしょうか。単に,天の父がわたしたちの必要を十分知っておられるということを認めるだけでなく,天の父がそのすべてをわたしたちに供給することをご自分の義務とされた,という点を認めることに安らぎを見いだせます。それには,どんな条件がありますか。その条件は,わたしたちが,ただ『神の王国と神の義を第一に求める』ということだけ
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