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証印を押される14万4,000人を生み出す会衆『その時,神の秘義は終了する』
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の象徴的な星は,使徒ヨハネが当時の「七つの星」に書き送ったことに注意し,それを現在に適用することが必要です。1世紀のアジアの会衆は,鎖の輪のように次々に存在したのではなく,みな同時に存在しました。ですから,七つの会衆に書き送られた状況は,西暦1914年以降の現代の「主の日」における,霊によって生み出され,油そそがれた会衆に同時に存在しているのです。
29 したがって,そうした会衆の全員が重大な影響を受けます。ゆえに,彼らは記されていることに真剣な注意を払わねばなりません。
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エフェソスの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第8章
エフェソスの使いへ
1,2 (イ)エフェソスはどんな都市で,どこにありましたか。(ロ)栄光を受けたイエス・キリストがその都市の監督に書くようヨハネに命令した音信は何でしたか。
エフェソスは,古代アジア州の主要都市で,ヨハネのいたパトモス島から約100㌔ほど離れた所にありました。このことに適合して,栄光を受けたイエス・キリストは,まずそこの会衆の人間の監督に書き送るよう指示を与えました。「エフェソスにある会衆の使いに書き送りなさい。右手に七つの星をしっかりと持つ者,七つの黄金の燭台の中央を歩く者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。また,あなたの労と忍耐を,そしてあなたが悪人たちに耐えることができず,使徒であると言いはするがそうでない者たちを試して,それが偽り者であるのを見いだしたことを知っている。またあなたがたは忍耐を示しており,わたしの名のために耐えてきた。そしてうみ疲れたことがない。とはいえ,わたしにはあなたを責めるべきことがある。それは,あなたが,最初にいだいていた愛を離れたことである。
2 「『それゆえ,自分が何から落ちたかを思い出し,悔い改めて以前の行ないをしなさい。もしそうしないなら,わたしはあなたのところに来て,あなたの燭台をその場所から取り除く。あなたが悔い改めないならばである。しかし,あなたにはこの点がある。すなわち,ニコラオ派の行ないを憎んでいることである。わたしもこれを憎む。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木[ギリシャ語,クシロン]から食べることを許そう』」― 啓示 2:1-7。
3 パウロはエフェソスの監督たちに何を警告しましたか。パウロの警告した事態が実際に生じた時,エフェソス会衆は何をしましたか。
3 啓示の与えられる何年も前,使徒パウロは,ギリシャ,コリントの会衆に偽使徒のいることを述べました。後に彼は,エフェソス市から来た監督たちに,アルテミス(ダイアナ)つまり,月の女神の有名な神殿のある彼らの都市にいるクリスチャンの間に,偽使徒が起こることを警告しました。(コリント第二 11:12-15。使徒 20:17-31)使徒ヨハネの死ぬ前に,その事態はすでに起きていました。しかし,エフェソス会衆はキリストの真の使徒たちに忠節を示し,使徒職に対するそれら偽りの主張をなす者を試し,聖書から彼らが偽り者であることを見いだしました。今日も同様のことがいえます。
4 1914年に「主の日」が到来した時,エフェソスにおけると同じような事態が見られましたか。献身した聖書研究者たちはそれにどう対処しましたか。
4 1914年,「主の日」が世に切って落とされた時,キリスト教世界の多くの宗教指導者は,キリストの使徒また「使徒の後継者」であると主張していました。事実,イタリアにあるバチカンのローマ・カトリック教会の法王は,「使徒の後継者; 権力を有するペトロ」,また「使徒的主かつ父の父」として歓呼を受けていました。しかし,「子羊の十二人の使徒」(啓示 21:14)に付き従う,全き献身をし,バプテスマを受けた聖書研究者たちは,エホバ神の記された言葉を研究し,使徒職に対するそれらの主張者が偽り者であるのを見いだし,彼らと一切かかわりを持とうとはしませんでした。これが理由の一つとなって,聖書研究者たちは,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの主要部分,つまりキリスト教世界から出てきたのです。(啓示 18:4; 17:1-5)そのような宗教的な偽り者が自分たちの中にいることを容認しなかったのです。
5 イエス・キリストがエフェソスの会衆に対して責むべきところがあるとされた,たった一つの点は何ですか。
5 栄光を受けたイエス・キリストが,1世紀の終わり近くに,エフェソスの会衆を責むべきところがあるとして指摘した一つの点は,それが最初の愛を離れたことです。『あなたは,最初にいだいていた愛を離れた』。(啓示 2:4)エフェソス人への使徒パウロの手紙に触れてあるような,また,使徒 19章1節から20章1節,17-38節に描写されているような,エホバ神に対して最初に抱いた,熱意のこもったクリスチャン愛を持っていなかったのです。
6,7 (イ)イスラエルの国はどのように,エフェソスの会衆に起きたことの例といえますか。(ロ)使徒ヨハネは,エフェソス会衆がもはや持っていないこの愛をどのように説明していますか。
6 これは,国として若かりしころ,うら若い花嫁が花婿に対して抱くような,熱烈な愛をその神に対して抱いていたイスラエルの国のことを思い出させます。『エホバ斯くいふ我汝につきて汝の若き時の懇切なんぢが契をなせしときの愛荒野なる種播ぬ地にて我に従ひしことを憶ゆと イスラエルはエホバの聖物にしてその初に結べる実なり』。(エレミヤ 2:2,3)同様に,エフェソスの会衆も最初は,自分たちに対するエホバの愛にこたえて燃えるような愛を示しました。使徒ヨハネ自身,認識から発する,このこたえ応ずる愛を次のように描写しています。
7 「愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」― ヨハネ第一 4:10,19。
8,9 (イ)献身した聖書研究者たちは1914年,1世紀のクリスチャン会衆を特徴づけた愛を離れていました。どのようにですか。(ロ)この状態は主に何に帰因していましたか。(ハ),その誤りはいつ正され始めましたか。
8 驚くべき類似点として,1914年の「主の日」の始めには,宗教的キリスト教世界から出て来た,献身し,バプテスマを受けた聖書研究者たちでさえ,1世紀のクリスチャン会衆を特徴づけた愛を離れていました。どのようにですか。エホバ神ご自身に対するよりも,神のみ子に対して多くの注意,また愛の表現を注いでいたのです。もちろん,その原因は多分に,聖書研究に用いられた聖書の翻訳にありました。それらの聖書の中で,キリスト教世界およびユダヤ教徒の翻訳者たちは,神の名エホバをほとんど,あるいは全く使いませんでした。
9 例えば,ジェームズ王訳つまり欽定訳聖書は,エホバという名を四回訳出しているだけです。また,ユダヤ教徒のアイザック・リーサーの翻訳による,24冊から成る聖書は,神の名前を全然用いず,代わりに「主」また「神」を使っています。しかし第一次世界大戦後,献身し,バプテスマを受けた聖書研究者たちは,これが不適当であることに気づき,それを是正するものとして,彼らの公式雑誌「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」,1926年1月1日号の主要記事(英文)に,「エホバを尊ぶのはだれか」という挑戦的な表題を掲げました。
10 (イ)その最初の愛に返る面での最高潮が訪れたのはいつですか。(ロ)その最初の愛に返ろうとするこの誠実な努力と一致して,エホバの証人の公式雑誌の表題はどのように変更されましたか。(ハ)そうすることにより彼らはキリストを無視していたのですか。説明しなさい。
10 年たつうちに,それらクリスチャンの聖書研究者たちは,神の名前を証しすることにいよいよ多くの注意を払い,その最高潮として,1931年7月26日の日曜日,アメリカ,オハイオ州のコロンバスにおける国際大会で,自分たちを明らかにする名称として,「エホバの証人」という名を選び,その名称によってキリスト教世界から区別されたいとの決議を採択しました。その後この名前は,各地の献身したクリスチャンの会衆により採用されました。1939年3月1日号をもって,彼らの公式雑誌の表題は,「ものみの塔,エホバの王国を告げ知らせる」と変えられました。彼らは,使徒ヨハネが,「忠実な証人」つまり,天の父エホバ神の証人と呼んだ,イエス・キリストのようでありたいと望んだのです。(啓示 1:5)それは実に,1世紀のクリスチャン会衆が「最初にいだいていた」愛,その最初の愛に返ろうとする誠実な努力でした。この愛は,今日の彼らを動かしています。彼らは,クリスチャンと自称する者たちがどこから落ちたか,それを思い出したことを実証してきました。宇宙の主権者エホバ神を見過ごしていたことに対する彼らの悔い改めは,純真なものでした。
11 (イ)彼らが「以前の行ない」に返った,というその行ないは何でしたか。(ロ)彼らが最も重要なこととして認識するようになったものは何ですか。彼らはそれについて何をしましたか。
11 こうして彼らは,「以前の行ない」つまり,至高の神の名前とメシアによる王国の証しをする義務に返りました。(イザヤ 43:10-12。使徒 1:8)エホバの宇宙主権をメシアの王国によって立証することが,エホバの主要な目的であり,また,聖書の主要な教えであると認識するようになったのです。イエス・キリストの贖いの犠牲による人類の救いは,エホバ神の総合的な目的の中で顕著かつ不可分の一部であるとはいえ,第二義的なものにすぎませんでした。この認識によって行動に駆り立てられた彼らは,エホバの宇宙主権とお名前を立証し,さらには人類を救う手段ともなる,エホバのメシアによる王国を全世界に宣べ伝える業に取りかかりました。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。
12 (イ)キリストは,エホバのクリスチャン証人の間から燭台を取り除くことにより,ご自分の警告を実行に移す必要はありませんでした。どのようにそれが分かりますか。(ロ)一方,キリスト教世界が「世の光」であるとの主張を実践してきたかどうかに関し,事実は何を示していますか。
12 「エフェソスにある会衆の使い」に対するキリストの指示の中で,それら霊的イスラエル人は,この「主の日」に「以前の行ない」をしないなら,「七つの黄金の燭台の中央を歩く者」により「燭台をその場所から」取り去られるであろう,と警告を受けていました。彼らの場合,天の燭台の管理者からそうされる必要はありませんでした。第一次世界大戦終了以来,「世の光」として輝くよう努めているからです。今までに,この象徴的な燭台の光は,200以上の国や群島に届いています。キリスト教世界は,自分のキリスト教の型に合った名ばかりの改宗者を,全地に9億7,738万3,000人以上も得たとして,「世の光」であると主張してきました。しかし,多くの人種や国籍からなるその幾百万人の成員は,1世紀の使徒時代の真のクリスチャンが抱いたような「最初の愛」を示しているでしょうか。(啓示 2:4,欽定)二つの世界大戦を行ない,ファシスト,ナチスまた共産主義の独裁者を支持し,諸国の政治革命や他の騒乱に参加したのは,キリスト教世界の幾百万人もの成員にほかなりません。
13 キリスト教世界は,マタイ 24章14節のイエスの預言を成就する代わりに何をしてきましたか。その結果,同世界は今日どんな事態に陥っていますか。
13 キリスト教世界は,この「主の日」に,「王国のこの良いたより」を諸国民に対する証しとして全地に宣べ伝えることにより,マタイ 24章14節のイエスの預言を成就しているでしょうか。いいえ。この世の王国を選び,国際連盟およびその後身である国際連合を設立することにより,全地で宣べ伝える業をエホバのクリスチャン証人に任せてしまっています。キリスト教世界が,その主張どおりに,神のキリスト教の取決めの中で,象徴的な燭台を持っているか,あるいはその燭台であったにせよ,栄光を受けたイエス・キリストは,その「燭台をその場所から」取り除かれました。西暦1914年以後の歴史の事実が明らかにするように,キリスト教世界は光を掲げる神の会衆(象徴的な燭台)でも,光を掲げる組織でもありません。その光は消えてしまい,地を覆う暗い陰,そして国家群を覆う暗黒のやみに自ら包まれています。悔い改めることができない程悪化してしまい,起き上がることも,輝くこともできないのです。―イザヤ 60:1,2。
分派主義を憎む
14 (イ)啓示 2章6節の賞賛の言葉はなぜキリスト教世界に当てはまりませんか。(ロ)「主の日」の始めに,真の聖書研究者たちの間に宗派を形成しようとする傾向が見られたのは,なぜ不思議ではありませんか。
14 キリスト教世界は,千以上の宗派に分かれており,教会併合や,1962-1965年の第二バチカン公会議で発布された教会一致運動によってその数を少なくしようとしています。エフェソス会衆に対するキリストの次の賞賛の言葉は,キリスト教世界には当てはまりません。「しかし,あなたにはこの点がある。すなわち,ニコラオ派の行ないを憎んでいることである。わたしもこれを憎む」。(啓示 2:6)1世紀に使徒パウロが明らかにしたように,真のクリスチャン会衆は,ニコラオ派のような宗派を形成する傾向と戦わねばなりませんでした。(コリント第一 1:12-15; 3:1-5)彼は,エフェソス会衆の監督たちに対してさえ,自分が去った後にその地の弟子たちの間に,ある人びとが起こり,「自分につかせようとして曲がった事がらを言う」であろうと警告しました。(使徒 20:29,30)そうであれば,「主の日」の始めに,今日エホバのクリスチャン証人として知られる人たちの間に,宗派を形成しようとする傾向が見られたのも不思議ではありません。
15 (イ)ものみの塔聖書冊子協会の初代会長は宗派を作ろうとしましたか。(ロ)1916年に彼が死んだ後,どんな努力がなされましたか。その努力を支持するため,どんな聖句が間違って適用されましたか。
15 1884年から1916年まで,ものみの塔聖書冊子協会の会長を務めたチャールズ・テイズ・ラッセルは,協会の成員および,その関連組織であった国際聖書研究者協会の成員の間に宗派を形成しようとしたのではありません。むしろ,1914年の「異邦人の時の終わり」ごろに,真のクリスチャン会衆の天の栄化を期待していたのです。(ルカ 21:24,欽定)しかし,第一次世界大戦のさなか,すなわち1916年10月31日に彼が死んだ後,その意図があったわけではないのに,彼の教えと組織を基にして宗派を作ろうとする傾向が生じました。1917年7月,「聖書研究」の第七巻「終了した秘義」が英文で出版されましたが,同書は発行者のページである2ページで,「パスター・ラッセルの遺著」と呼ばれました。その本は,C・T・ラッセルが,マタイ 24章45-47節(欽定)で予告されていた「忠実で聡い僕」である,また啓示の注釈の個所では,彼が「第七の使い」つまり,七番目また最後の会衆として記されている「ラオデキアの教会の使い」であるとしていました。(啓示 3:14,欽定)さらに,エゼキエルの預言に関する注釈においては,C・T・ラッセルが予告されていた,『麻布を着て筆記者の墨入れを脇に携えた者』である,と述べていました。(エゼキエル 9:4-11; 10:1-7,欽定)そうした解釈を受け入れた人たちは,当然のことながら,驚くような仕方でエホバ神に用いられたしもべに忠節の念を覚えました。「ラオデキア時期」と呼ばれた期間に,至高の神に用いられた地上の器として,彼に付き従うことを義務と感じたのです。
16 イエス・キリストはこの傾向をどうごらんになりましたか。その導きの下にどんな分離が生じましたか。
16 しかし,ご自分の忠実な追随者の間に見られる,宗派を作ろうとする傾向は,「右手に七つの星をしっかりと持つ者」には不快なことでした。その導きの下に,クリスチャンに反する分派主義を憎む者たちは,自分たちが出て来たキリスト教世界に見られるような宗派を作ろうとする傾向と戦いました。死人に従うことを選んだ者たちは離れて行き,聖書の真理の光がものみの塔聖書冊子協会の初代の会長の死とともに前進を止めることはないと信じた人たちは,神の見える組織に付き従い,明るさを増す光の中で聖書を調べ続けました。
17 1927年2月15日号の「ものみの塔」誌には,チャールズ・テイズ・ラッセルの周辺に宗派を作ろうとするあらゆる根拠を弱める,どんな論議が提出されましたか。
17 1927年,「ものみの塔」誌2月15日号(英文)は,欽定訳によるマタイ 24章45,46節の聖句を主題とする,「良き僕と悪しき僕」という主要記事を掲載しました。それは,忠実に,また勇気をもって,そこに述べられている「忠実で聡い僕」が特定の個人ではなく,一つの級,また,しもべの集合体,つまり,その時のキリストの忠実な霊的追随者の全会衆であるとの説明を述べました。それはエホバのしもべと呼ばれた古代イスラエルの国の場合と同じです。その国に対し,次のように語られています。「エホバの言われる言葉はこうです。『あなたがたはわたしの証人たち,すなわち,わたしの選んだしもべである』」。(イザヤ 43:10,新)一人の「しもべ」ですが,多くの「証人」です。同様に,マタイ 24章45-47節の場合も,一人の「しもべ」(または奴隷)ですが,大勢の構成員がみな共になって,主の財産つまり所有物の管理を託される,一つのしもべまたは奴隷の集合体を形成するのです。これにより,ラッセルの周辺に宗派を作ろうとするどんな基礎も弱められました。
18 チャールズ・T・ラッセルが「ラオデキアの教会の使い」であるという誤った考えは,どのように捨て去られましたか。
18 この方向をさらに推し進めるものとして,1930年9月,二巻から成る「光」(英文)と題する本が出版され,啓示の書全体の注解が与えられました。同書は,「七つの星」および,会衆の『七人の使い』について,「終了した秘義」に載せられたものとは異なる理解を示しました。つまり,チャールズ・T・ラッセルを「第七の使い」,また「ラオデキアの教会の使い」と同一視しなかったのです。(「光」,第一巻,13ページ,および“ラオデキア”の項の44-52ページをごらんください。)さらに,その何年も前から,「終了した秘義」は発行切れになったままでした。
19 象徴的な,『麻布を着て筆記者の墨入れを携えた者』の真の実体は,いつ,またどのように明らかにされましたか。
19 ついに1931年7月30日,「立証」(英文)と題する本の第一巻が出版されました。同書は,エゼキエル書 9章の預言の成就において「麻布を着て筆記者の墨入れを脇に携えた者」が個人ではないことを明らかにし,「筆記者の墨入れを携えた者」と題する副見出しの下に,99,100ページで次のように述べました。「したがって,『筆記者の墨入れを脇に携えた者』は明らかに,地上における,主の,油そそがれた『僕』級を表わしていました。その級は神の組織の一部です」。
20,21 クリスチャンの霊的イスラエル人は,分派主義を憎んでいることをさらにどのように示しましたか。
20 このように最後には,三つの根本的な論点に関し,チャールズ・T・ラッセルの周辺に宗派を築くための基礎は完全に取り去られました。それらクリスチャンの霊的イスラエル人は,キリスト教世界の僧職者たちから「ラッセル派」と呼ばれ,軽べつされましたが,1世紀のエフェソス会衆の人たちと同じく,分派主義を憎み,その卑しむべきあだ名を受け入れませんでした。それで,1931年7月26日,「立証」という本の第一巻が発表された,オハイオ州コロンバスにおけるその同じ国際大会で,彼らは「エホバの証人」という聖書的な名称を決議により採択しました。
21 栄光を受けた主イエス・キリストは,「ニコラオ派の行ない」に抵抗したエフェソスの会衆をほめましたが,分派主義に反対の立場を取った,今日のそれらエホバのクリスチャン証人を同じくほめることができました。
神のパラダイスにある命の木
22 古代エフェソスの会衆に対する音信は,どんな言葉で結ばれていますか。
22 古代エフェソスの会衆に対する音信の結びで,栄光を受けたイエス・キリストはこう言われました。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者に,わたしは,神のパラダイスにある命の木[ギリシャ語でクシロン]から食べることを許そう」― 啓示 2:7。
23,24 (イ)エフェソスの会衆に対する最後の言葉は,彼らにとってのみ益となりますか。説明しなさい。(ロ)『霊が述べることを聞きなさい』と全部で七回繰り返したキリストは,どの霊のことを指しておられましたか。
23 ここで,『アジア地区にある会衆』の七つすべてが警戒を促されています。「耳のある」霊的イスラエル各人は,耳をふさぐのではなく,耳をそばだてて,七つの全会衆に『霊が述べることを聞くよう』求められているのです。それは,霊の述べることが彼らすべてに当てはまるからです。「霊」といっても,何の霊ですか。使徒ヨハネが,七つの会衆に対するあいさつの所で,彼らがエホバ神のみ座の前にある「七つの霊からの」,過分の親切と平和を得られるようにと祈ったことが思い出されます。(啓示 1:4)その後,ヨハネの見た,天のみ座にすわっておられる神の驚くべき幻の中で,「神の七つの霊」が,『み座の前で燃えている火のともしび七つ』によって表わし示されています。(啓示 4:5)興味深いことに,アジアの七つの会衆に対する各音信の中で,耳あるものめいめいに,『霊が諸会衆に述べることを聞くよう』にとの招待が出されています。つまり,全部で七回招待が出されています。もっともこれは,「七つの霊」の特定の霊が一つの会衆へ,そして他の六つの霊がそれぞれ一つの会衆へと,各霊が自分の会衆に順を追って語りかけるという意味ではありません。
24 明らかに,「霊」は七回とも,栄光を受けた主イエス・キリストを通して語ります。それは,主イエス・キリストと共にある,神の霊,神の活動力です。これは,イエスがここで自分勝手に,また自分の権限で話しているのではないという意味です。彼がアジアの会衆に話されることは,七回とも,神の権限によるものです。したがって,耳ある者で聞く人はおのおの,イエスがここで話されることが,神の是認と支持を得ていること,そして必ず成就することを確信できます。
25 語られたことに基づいて判断すると,七つの音信の各はだれに当てはまりますか。
25 霊はその述べることを「諸会衆に」述べるのですから,それがエフェソスの会衆に述べることは,エフェソス会衆だけでなく,他のすべての会衆にも当てはまります。同様に,霊がアジアの他の会衆のいずれかに対する音信の中で述べたことは,七つの会衆すべてに当てはまります。したがって,イエスにある神の霊が七つの音信すべての中でなす栄光の約束は,そのすべての会衆に当てはまり,かつ彼らすべてが分け合うものなのです。―啓示 2:7,11,17,29; 3:6,13,22。
26 (イ)征服するようだれが励まされていますか。それにはどんな見込みが伴いますか。(ロ)征服を遂げることにおいて,わたしたちの主要な模範はだれですか。クリスチャンの中にある何が征服を遂げさせますか。
26 会衆の全成員は征服するよう励まされており,それには,エホバ神がみ子イエス・キリストを通して与えてくださる報いの約束が添えられています。イエス・キリストご自身,征服する,または打ち勝つ点での模範です。イエスは,ユダ・イスカリオテに裏切られる前,ご自分の十一人の忠実な使徒に対する話の中でこう言われました。「世にあってあなたがたには患難がありますが,勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」。(ヨハネ 16:33)イエス・キリストは,患難に耐えねばなりませんでしたが,エホバ神への信仰と忠実さにより世を征服しました。使徒ヨハネは,何年も後,啓示を与えられた後でさえ,次のように記しました。『神から生まれたものはすべて世を征服します。そして,わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです』。(ヨハネ第一 5:4)このように征服を遂げ,霊によって生み出されるクリスチャンに対し約束が与えられるのです。
27 (イ)イエスが啓示 2章7節で述べておられる「神のパラダイス」は,エデンの園を指していますか。なぜですか。(ロ)すると,それはキリストの統治の間に楽園に戻される地を指しているのですか。
27 最初に与えられた約束は,「神のパラダイス」を指し示しています。(啓示 2:7)もちろんこれは,アダムとエバが自分たちの創造者である神に背いた後に追い出された「エデンの園」,つまり「楽しみのパラダイス」ではありません。(創世 2:8; 3:24,新,ド)アブラハムの時代,ヨルダン川の地域は,地上のその元のパラダイスと比較して,「主のパラダイス」のようであると言われました。(創世 13:10,ド)エゼキエルの時代,古代ティルスの王は,その場所の美しさのために,「神のパラダイスの楽しさの中に」いると言われました。(エゼキエル 28:13,ド)その最初の「楽しみのパラダイス」はもう存在していません。ですから,啓示 2章7節はそれを指しているのではありません。また,キリストの千年統治の間に地に回復される楽園を指しているのでもありません。カルバリで杭に掛けられたイエス・キリストは,自分のそばの杭に掛けられていた同情的な悪行者に話した時,その地上のパラダイスのことを指しておられました。「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」― ルカ 23:39-43。
28 (イ)悪行者に約束されたパラダイスは,なぜ啓示 2章7節に述べられているパラダイスではありませんか。(ロ)悪行者が将来入るパラダイスと,啓示 2章7節の「神のパラダイス」にはどんな相違がありますか。
28 その悪行者は,神のパラダイスにある命の木から食べる資格を得られるよう,世を征服してはいませんでした。彼は,バプテスマを受けた,「神の会衆」の成員ではありませんでした。というのは,それは,西暦33年のペンテコステの日つまり,悪行者がイエスのそばで死んだ51日後に創設されたからです。(使徒 2:1-42)さらに,聖霊はそのペンテコステの日に初めてキリストの弟子たちに注ぎ出されたのですから,この悪行者は神の霊によって生み出されてはいませんでした。霊によって生み出されることは,神の天の王国を見,それに入ろうとする者に要求されている事柄の一つなのです。(ヨハネ 3:3,5; 7:39)この悪行者が死人からの復活によって入るパラダイスは,神の王国の下における,来たるべき地のパラダイスであるはずです。それは,啓示 2章7節に述べられている神のパラダイスとは違います。そこに述べられているのは,征服を遂げる教会つまり会衆に約束されている,天的また霊的なパラダイスです。
29 (イ)「神のパラダイスにある命の木」は何を象徴していますか。(ロ)その「命の木」から食べ続けることは何を意味しますか。(ハ)したがって,それは征服を遂げる霊的イスラエル人にどんな報いを提供しますか。
29 「神のパラダイスにある命の木」は,必ずしも命と不滅性の源であるエホバ神の象徴ではありません。むしろ,持続される命のための神の備えを象徴しています。征服者がその「命の木」にあずかるということは,ここで示されている特別な命のための神の備えにあずかることを意味しています。ヨハネがここで使ったギリシャ語は,クシロンで,字義どおりには「木材」を意味します。ですから,それは果樹園の場合のように,「樹木」を意味するのかもしれません。その「命の木」から食べ続けるということは,その木のある場所,つまり,「神のパラダイス」で生き続けることを意味します。まさにエホバ神のおられるところで,エホバ神と交わりを共にしながら,パラダイスのような状態の下で生き,かつ住むという意味です。それはなんと壮大な考えではありませんか。それには,復活の時,彼らが死人から天の,霊の被造物によみがえらされることが必要です。(コリント第一 15:43-50)征服を遂げることに対するなんと壮大な報いでしょう。今日,霊的な事柄を取り入れることのできる耳を持つ霊的なイスラエル人にとって,み子イエス・キリストにある神の霊が,霊によって生み出される者たちから成る会衆に述べる約束を聞くことは,本当に価値あることなのです。
[122ページの図版]
ベテル。ニューヨーク市ブルックリン コロンビア・ハイツ122-124番地
C・T・ラッセル
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スミルナの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第9章
スミルナの使いへ
1,2 (イ)スミルナはどこにありましたか。その都市はどんなことで有名でしたか。(ロ)スミルナの会衆に対するキリストの音信はどんな内容でしたか。
栄光を受けたイエス・キリストが語りかける第二の会衆は,古代ローマのアジア州にあるスミルナの会衆です。この都市は,エフェソスの北方約50㌔の地点にある,エーゲ海沿いの湾に位置しており,使徒ヨハネが当時囚人として送られていたパトモス島からさらに離れた所にありました。スミルナにはティベリウス・カエサルの神殿があり,皇帝崇拝が盛んに行なわれていました。また,割礼を受けた生来のユダヤ人が相当の人口を占めており,彼らは使徒のキリスト教に反対していました。このスミルナ会衆に対して,ヨハネは何を書くように命じられたのでしょうか。それを読んでみることにしましょう。
2 「また,スミルナにある会衆の使いにこう書き送りなさい。『最初であり,最後である者』,死んで,生き返った者がこう言う。『わたしはあなたの患難と貧しさを知っている ― しかしあなたは富んでいるのである ― また,自分がユダヤ人であると言いながら,実はそうではなく,むしろサタンの会堂に属する者たちによる冒とくを知っている。あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない。見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう。それは,あなたがたが十分に試されるため,また十日のあいだ患難に遭うためである。忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば,命の冠をあなたに与えよう。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損われることがない』」。
3 (イ)スミルナ会衆の物質的および霊的な状態はどうでしたか。(ロ)クリスチャンが物質的に貧しいからといって,なにも非難される理由にはなりません。なぜですか。
3 啓示 2章8-11節のこの言葉の中には,その「貧しさ」,つまり物質的な貧しさにもかかわらず,スミルナ会衆に対するとがめのことばは一言も出てきません。その物質的な貧しさは,霊的に富んだ状態によって相殺されていました。スミルナ会衆にとって,ラオデキア会衆のように,物質的には富んでいても霊的には貧しいという状態より,このほうが望ましいことだったのです。(啓示 3:17)人間として地上におられた時のイエスご自身,物質的には貧しい状態にありました。イエスの肉親であった異父兄弟のヤコブは,当時の霊的イスラエル人たちに次の矯正の助言を書き送りました。「わたしの愛する兄弟たち,よく聴きなさい。神は,世に関しては貧しい者を選んで信仰に富ませ,ご自分を愛する者たちに約束された王国の相続者としてくださったのではありませんか」。(ヤコブ 2:5)そのとおりです。そしてイエスの言葉によると,スミルナ会衆は,信仰と,神に対する良き業の面で富んでおり,それゆえに彼らは,引き続き神の天の王国の相続者だったのです。したがって,今日,キリスト教世界の僧職者たちが,エホバの証人の中にいる霊的イスラエルの残りの者たちが貧しいからといって非難するのは,当を得たことではありません。
4 (イ)スミルナの生来のユダヤ人は,実際には「サタンの会堂」の者であることをどのように証明しましたか。(ロ)今日,スミルナのそれらユダヤ人の例に倣っているのはだれですか。
4 スミルナにいた,割礼を受けた生来の,不信者のユダヤ人が,そこのクリスチャン会衆をどのように冒とくしたかは説明されていません。多分それは,ピシデアのアンティオキアやコリントで使徒パウロに浴びせかけられた冒とくと同じようなものだったのでしょう。(使徒 13:45; 18:6)それらの冒とく者は,生まれながらの,割礼によるユダヤ人であることを誇っていましたが,もはや真のユダヤ人ではありませんでした。なぜですか。なぜなら,内面のユダヤ人であること,心に割礼があることを証明しなかったからです。彼らは,スミルナ会衆のような霊的イスラエル人にはなりませんでした。そうした信じないユダヤ人は,地方の会堂に出席していましたが,エホバ神の会堂の者ではなく,「サタンの会堂」の者であり,彼らの冒とくがその事実を裏付けていました。彼らはエホバ神とそのメシア,イエスに逆らうことにより,サタンにくみする者となっていたのです。サタンという名は,「逆らう者」を意味するからです。彼らは,イエス・キリストがご自身の完全な人間の命を犠牲にすることにより仲介をされた,新しい契約には入っていませんでした。(エレミヤ 31:31-34。マタイ 26:27,28。ルカ 22:20。テモテ第一 2:5,6)同様に今日でも,霊的イスラエル人の残りの者は,単に霊的ユダヤ人と唱えるだけの僧職者たちから冒とくされても,意に介する必要はありません。
5 (イ)スミルナ会衆はどんな事柄をすでに経験していましたか。それは彼らの物質的状態に疑いなくどんな影響を及ぼしましたか。(ロ)彼らはどのように,またどんな目的で,さらに苦しみを味わうことになっていましたか。(ハ)彼らが患難に遭う「十日のあいだ」とは,どんな意味があると考えられますか。
5 1世紀の終わりまでに,古代スミルナの会衆は,疑いなく迫害の形を取った「患難」をひどく経験しており,そのため,物質的にいっそう貧しい状態に陥っていました。しかし,彼らはさらに患難を経ることになっていたのです。ですが,栄光を受けたイエスは,「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはならない」と言われました。どのようにいっそう苦しめられるのですか。「見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう」。こうして,彼らは十分に試されます。その目的が「十日のあいだ患難に遭う」ことなのですから,特にそう言えます。(啓示 2:10)文字どおりの十日間の患難また迫害は,集中的に襲うと非常に厳しいものとなり,明らかに,人の生涯においてそれで十分でしょう。しかし「十日」というのは,特に現代の適用においては,ひゆ的に理解すべきもののようです。「十」という数字は,啓示の他の七個所で,地的な総体性また完全性の象徴として用いられているので,「十日」というのは,地上における会衆の全日数を象徴していると考えられ,長くても,悪魔が縛られる時までの期間でしょう。
投獄
6 スミルナのクリスチャンはだれによって,またどんな理由で投獄されることになっていましたか。
6 スミルナ会衆は,悪魔の手による投獄の苦しみを引き続き受けるが,それを恐れてはならない,という使徒ヨハネを通しての勧めの言葉を十分に受け入れることができました。彼自身パトモス島から,囚人としてその勧めを書いていたからです。悪魔は当然,人間の手先を使って彼らを投獄させます。投獄と看守の仕事に彼が使う人間は,悪魔のしもべです。クリスチャンが投獄されるのは,道徳上また政治上の違法行為のためではなく,偽りの告訴のためです。彼らが偽りの告発を受けていることは,悪魔によって投獄される,という言葉によって示されています。悪魔という名は,「そしる者」,「偽りの告発者」という意味であり,したがって,スミルナ会衆の成員たちは,クリスチャンとして無実の罪で投獄されるのです。それゆえ,いろいろな場合に投獄された時の使徒たちすべてと同じく,彼らは清い良心を保つことができます。
7 霊的イスラエルの残りの者の成員が投獄された極めて顕著な例を述べなさい。
7 現代,エホバの証人の中にいる霊的イスラエル人の残りの者にとって,投獄は顕著な経験となってきました。霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者の多くの成員は,1914年から1918年に及んだ第一次世界大戦中,不当にも投獄されましたが,1919年それぞれの刑務所から出てきました。その中には,ものみの塔聖書冊子協会の当時の会長J・F・ラザフォード,同協会の会計秘書,編集委員の他の二人,および協会の責任ある成員の他の三人が含まれていました。その人たちはみな,聖書の二つの預言の書,啓示とエゼキエル書の宗教的注解である,有名な「終了した秘義」の準備と出版に関係しました。七人全員は,1918年6月21日,政治扇動罪およびアメリカの徴兵に対する妨害罪という偽りの告訴により,公訴の4つの各項につき二十年の投獄を言い渡され,保釈の権利を拒否されたまま,ついにジョージア州アトランタの連邦刑務所に拘禁されました。彼らと共に,協会のある著名な成員が八人目として,十年の刑を言い渡されました。
8 その投獄はどんな結果になりましたか。「終了した秘義」と題する本の禁止処分はどうなりましたか。
8 後ればせながら,1919年3月,上級裁判所へ再審理を求めるその上訴期間中,保釈が認められ,彼らは釈放されました。合衆国政府はこの件を再審理に付すことなく,ものみの塔聖書冊子協会のそれら八人の者は無罪となりました。また1920年には,「終了した秘義」の本は禁止処分を解かれ,アメリカとカナダで再び配布され始めました。
9 啓示 2章10節は残りの者に対してどのように成就しましたか。
9 しかし,1世紀のスミルナ会衆は,栄光を受けたイエス・キリストから次の警告を受けました。『見よ,悪魔はあなたがたのうちのある者たちを次々に投獄するであろう。それはあなたがたが十分に試されるためである』。(啓示 2:10)これと一致して,エホバの証人の中にいる,霊的イスラエル人の残りの者の成員に対する投獄は,1919年にその多くが釈放された後にも途絶えませんでした。むしろ,特にロシアの共産主義,ファシズム,カトリック信徒運動,ヒトラーのナチズム,そして国家主義の広がりと共に,投獄件数は大規模に増加して行きました。
10 1926年および1927年という早い時期において,この預言はドイツでどのように成就しましたか。
10 すでに1926年,ドイツでは,エホバの献身した民の活発な成員897人に対する訴訟が法廷に出され,その結果多くの者が罰金を課せられました。1927年の一年間,ドイツで逮捕されたエホバの崇拝者の数は1,169人に上り,処理された353件の訴訟のうち,40件が刑罰に処せられました。ものみの塔聖書冊子協会は,至高者に仕えるクリスチャン証人の逮捕が何百件と続くので,この法律事務一切を処理するため,ドイツ支部に独自の法律部門を設けねばなりませんでした。
11 (イ)ヒトラーの独裁下でエホバの証人はどんな苦しみを味わいましたか。(ロ)ナチスの支配が終わった後,それらエホバの証人の多くはどうなりましたか。
11 これは,1933年に始まったアドルフ・ヒトラー独裁の予備的段階にすぎませんでした。同年の春,ドイツの野外では1万9,268人のエホバのクリスチャン証人が活発に奉仕していました。彼らは,ナチスの独裁者を自分たちの総統,指導者としてそれに従うこと,また,政治的および軍事的侵略に少しでもかかわりを持つことを拒否しました。エホバ神と,キリストによる神の王国とに対するそうした絶対的,また,分かたれることのない専念のゆえに,彼らは何千人も投獄され,強制収容所に送られました。第二次世界大戦(1939-1945年)にもかかわらず,彼らはクリスチャンの中立を保ち,多くの人は死に至るまでもその立場を守りました。第二次世界大戦が終わった時までには,彼らのうちそれぞれの収容所で死んだ者の数は2,000人を数え,強制収容所から出てきた8,000人のうち2,000人は,働くことのできない体になっていました。多くの場合,エホバのそれら忠実な証人は,ナチスの強制収容所を出されて間もなく,今度は東ドイツの共産主義の刑務所や強制収容所に入れられました。
12 英国のエホバの証人には何が起こりましたか。それはどんな主要な問題に関してですか。
12 この時期,エホバのクリスチャン証人は他の国においても投獄されました。かつてない程の大胆さをもって,それらの証人たちは世界の政治上および軍事上の闘争に対して中立の立場を取りました。英国では,第二次世界大戦中,クリスチャンの中立を犯すことを拒否したため,1,593人の若い証人が投獄されました。英国では当時,若い男子に限らず女子にも徴兵が適用されたので,クリスチャンの中立の立場を守ったために投獄された者たちのうち,344人は女性でした。彼らの刑期を総計すると,実に六世紀以上もの長い期間にわたります。
13 この時期,ものみの塔協会の本部は迫害に対してどのような公式の反応を示しましたか。
13 次に,北アメリカの合衆国についてはどうですか。1930年代の初めに,エホバの証人に対する迫害は一段と激しくなりました。この事態に対し,ものみの塔聖書冊子協会の会長J・F・ラザフォードは,WBBRを主要放送局とする一連の放送網を通じて,「エホバの証人: なぜ迫害されるか」と題する話をしました。それは,1932年5月1日,日曜日のことです。それから少し後の,1932年5月22日,日曜日,組織されたエホバの証人の一団は,家から家へ王国を証しする業を行なうため,迫害の“過熱点”であるニュージャージー州のバーゲンフィールドにいわば侵入しました。彼らは,逮捕された時にはエホバの証人であることを告げるだけで,個人の名前は法廷で判事の前に出て尋ねられるまでは明かさないよう指示を受けていました。彼らは勇気をもってこの道を取りました。
14 合衆国では年々どのように迫害が増大しましたか。ものみの塔協会は何をすることが必要になりましたか。
14 最初,アメリカではどれ程の件数になるか予想がつかなかったため,逮捕および投獄件数は集計されませんでした。しかし,1934年に340件,1935年に478件,1936年には1,149件というように増加して行きました。ものみの塔協会はドイツにおけると同様,ついにブルックリン(ニューヨーク)本部にも法律部門を置くことが必要となりました。家から家に「王国のこの良いたより」を各週,日曜日を含む毎日宣べ伝えることから生じる,逮捕や投獄に関するすべての問題を取り扱うためでした。
15 1940年を初めとして今日に至るまで,合衆国のエホバの証人はどんな問題に直面してきましたか。それはどんな結果をもたらしていますか。
15 アメリカは,平時の徴兵制を1940年9月に制定しましたが,1941年12月7日,第二次世界大戦に巻き込まれることとなり,徴兵に取られるアメリカのエホバの証人は,絶対的なクリスチャンの中立の立場を守ることが必要になりました。忠実にその立場を守ったため,幾千人もの証人が各,数年の刑期を受けて投獄されました。アメリカの徴兵制は以来取り消されたことがなく,クリスチャンの中立の問題はいまだに論争となっています。今日に至るまで,幾百人ものエホバのクリスチャン証人は,好戦的なこの世の軍事闘争に関し,キリストと同じ中立の立場を保持しているため,刑務所で刑期に服しています。
16,17 (イ)特に1935年以降,だれが残りの者と共になって迫害に遭っていますか。彼らは迫害をどのように耐えていますか。(ロ)残りの者は,「大群衆」のそれら多くの成員の苦しみに関して,どう感じていますか。
16 それらエホバのクリスチャン証人の投獄に関する,第二次世界大戦前および大戦後の統計をここで示すこともできますが,栄光の主イエス・キリストが古代スミルナの会衆に述べられたこと,つまり,悪魔が彼らのうちのある者を次々と投獄し,その者たちが十日間患難を受けるということは,決して意味のないことではなかったのです。(啓示 2:10)特に1935年以降,神の霊的会衆の油そそがれた成員の現代の残りの者たちに,神に献身してバプテスマを受けた人たちの「大群衆」が加わり始めました。彼らの希望は天的なものではなく,ただ,神のメシアの王国の下に到来する,地上のパラダイスに永久に住むことを望んでいます。彼らすべても,この時代の論争に直面し,悪魔の手先による投獄の苦しみを受け,多大の患難を経験しています。ヘブライ 10章32-34節に述べられている見地からすると,油そそがれた残りの者たちは,「大群衆」のそれら投獄された者たちを思いやり,共に苦しみを味わっているのです。
17 「啓発を受けたのち数々の苦しみのもとで大きな闘いに耐えたさきの日々をいつも思い出しなさい。ある時には,非難にも患難にも,劇場にあるかのようにさらされ,またある時には,そうした経験をしている人びととともに分かち合う者ともなりました。あなたがたは,獄にある人びとに思いやりを示し,また自分の持ち物が略奪されても,喜んでそれに甘んじたのです。自分たちに,さらに勝った,永続する所有物のあることを知っているためでした」― ヘブライ 10:32-34。
命の冠
18 (イ)死に至るまで苦しみを経験することが必要であるとしても,そうした忠実さは「大群衆」に何を意味しますか。(ロ)現代において,イエスは啓示 2章10節の言葉をだれに対して語られますか。
18 そうした苦しみの下での忠実,必要なら死に至るまで忠実を守ることに対し,大いなる報いが与えられます。忠実な「大群衆」は地上でしかるべき報いを得ますが,王国の共同相続者である,油そそがれた残りの者たちを強めるため,主イエス・キリストは患難に直面しているスミルナ会衆にこう告げられました。「忠実であることを死に至るまでも示しなさい。そうすれば命の冠をあなたに与えよう」― 啓示 2:10。
19 (イ)油そそがれた残りの者の中には,迫害の下での残酷な死を経験しない者もいることでしょう。しかしそれでも何をしなければなりませんか。(ロ)「命の冠」は何を意味していますか。彼らが勝利を得る競争は何ですか。
19 油そそがれた残りの者の多くは,患難の下での残酷な死に至るまで,クリスチャンの原則に忠実であることを実証してきました。すべてがそうした残酷な死に遭うわけではありませんが,地上の生涯の終わりに至るまで忠実を保たねばなりません。そうすることにより,確かに「命の冠」を受けます。ここで使われている「冠」という言葉は,神性を備えた不滅性つまり,天的な命の最高形態を指すかのように,“最上級”を意味するのではなく,キリストのような忠実さに対する報いとしての賞を指しています。彼らはこの世に対して勝利を得る競争に加わっているのです。この激烈な競争において,悪魔の手先にかかって,たとえ地的な命を悲惨な仕方で失おうとも,悪魔のような敵は彼らの命を永久に消し去ることはできません。神は定めの時に,キリストを通して彼らに天の命を授けます。それゆえ,彼らが死を恐れる理由はありません。
20 忠実な油そそがれた者たちが報いとしてどんな命を得るかを,イエスはどのように示されましたか。
20 不死,不滅性が彼らの報いです。これは,栄光を受けたイエス・キリストが,スミルナ会衆にあてた結びの言葉から理解されます。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者は決して第二の死に損われることがない」― 啓示 2:11。
21 「第二の死」とは何ですか。
21 ヨハネに与えられた啓示にのみ,この「第二の死」という表現が使われています。それは,復活の可能性の全くない,とこしえの死を示しています。啓示 20章14,15節,21章8節で,それは次のように象徴されています。「そして,[罪人アダムから受け継がれた]死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。「しかし,憶病な者,信仰のない者,不潔で嫌悪すべき者,殺人をする者,淫行の者,心霊術を行なう者,偶像を礼拝する者,またすべての偽り者については,その分は火といおうで燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表わしている」。
22 命の書に書かれるということは何を意味しますか。他方,象徴的な火の湖に投げ込まれるということは何を意味しますか。
22 命の書に書かれるということは,その人にとって永遠の命を意味します。象徴的な火の湖に投げ込まれるということは,その人にとって永遠の死つまり「第二の死」を意味します。悪魔サタンは,永遠の死の刑罰を受けます。彼は第二の死を受け,「第二の死に損われる」からです。その使いの悪霊たちも同じです。―啓示 20:10。
23 「第二の死に損われる」ことのあり得ない者がだれかを聖書から示しなさい。
23 「第二の死に損われる」ことのあり得ない者たちは,間違えようのない仕方で示されています。啓示 20章1-3節における,悪魔サタンと悪霊たちが縛られ,底知れぬ深みに入れられる記述の後に,こう記されています。「これは第一の復活である。第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死はなんの権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」。(啓示 20:5,6)それゆえ,啓示 20章4節に描かれている者たちを,幸いな者,聖なる者と呼ぶことができます。彼らについて使徒ヨハネはこう記しているからです。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた。実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」。
24,25 (イ)油そそがれた忠実な征服者はどんな復活を受けますか。なぜですか。(ロ)使徒パウロの説明によると,それらの者はどんな体で復活させられますか。
24 それらのクリスチャン征服者は,死に至るまでも忠実であり,「第二の死に損われる」ことがないので,死人からの復活を受けます。キリストを通して行使される神の力により,彼らは,復活つまり,「第一の復活」によって生き返るのです。それは霊の被造物としての天の命への復活であり,それゆえに彼らは,神とキリストの天的祭司となることができ,キリストと共に千年間統治するのです。彼らの復活と,命によみがえらされる時の体については,次のように記されています。
25 「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちるさまでまかれ,朽ちないさまでよみがえらされます。不名誉のうちにまかれ,栄光のうちによみがえらされます。弱さのうちにまかれ,力のうちによみがえらされます。物質の体でまかれ,霊の体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊の体もあります。まさにそう書かれています。『最初の人アダムは生きた魂になった』。最後のアダム[すなわち,イエス・キリスト]は命を与える霊になったのです」― コリント第一 15:42-45。
26-28 (イ)霊の被造物である者は,第二の死に決して遭いませんか。例を示しなさい。(ロ)征服を遂げるクリスチャンは,聖句の示すとおり,霊の被造物としての復活以上の何を受けますか。
26 霊の被造物であるということ自体は,その者が永遠の滅びである「第二の死」を受けないという意味ではありません。悪魔サタンと悪霊たちは霊の被造物ですが,象徴的な「火の湖」に投げ込まれることにより,「第二の死」を経験します。(啓示 20:10。マタイ 25:41)つまり,征服を遂げるクリスチャンは,死者から霊の被造物に復活させられるだけでなく,復活のさい不朽と不滅性を付与されるのです。その証拠として,使徒パウロは彼らの復活についてこう描写を続けます。
27 「ラッパが鳴ると,死人は朽ちないものによみがえらされ,わたしたち[使徒パウロと仲間のクリスチャンたち]は変えられるからです。朽ちるものは不朽を着け,死すべきものは不滅性を着けねばならないのです。しかし,朽ちるものが不朽を着け,また死すべきものが不滅性を着けたその時,『死は永久にのみ込まれる』と書かれていることばがそのとおりになります」― コリント第一 15:52後半-54。
28 不朽と不滅性を付与されるので,彼らが「第二の死に損われる」ことは決してありません。
29 それでイエスは,征服を遂げるクリスチャンにどんな壮大な事柄を約束されましたか。
29 こうして,啓示 2章11節のすばらしい約束は,霊が諸会衆に述べることを聴く,征服を遂げるクリスチャンたちが,「第一の復活」つまり,起こる時,質そして重要さの点で「第一」の復活にあずかることを意味します。また彼らは,「神のパラダイスにある命の木から食べる」ことを許されるのですから,天的な,「神のパラダイス」において,とこしえに,「第二の死」を完全に免れるという特権を享受します。死に至るまでも忠実な征服者に対する,なんと壮大な報いではありませんか。
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ペルガモンの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第10章
ペルガモンの使いへ
1 (イ)ペルガモンはどこにありましたか。(ロ)その都市はどんなことで有名でしたか。
パトモス島の北北東約210㌔,スミルナの北約80㌔,ローマのアジア州の北方境界線近くに,ミシアの都市ペルガモンがありました。そこには,約300㍍の城砦(アクロポリス)と,医術の神アスクレピオスの神殿および医学の大学がありました。クリスチャンの使徒たちが使ったような羊皮紙(パーチメント)は,その名をペルガモン,すなわちカルタ・ペルガメナに由来します。(テモテ第二 4:13)ペルガモンは皇帝崇拝を支持し,同市にはローマ帝国の初代皇帝カエサル・アウグスツスを崇拝する神殿がありました。ペルガモンに設立されたクリスチャン会衆は,啓示の書き送られた七つの会衆の一つであり,使徒ヨハネは,この会衆にあてて次のように書くよう指示されました。
2,3 ペルガモンの会衆に対する音信を簡潔に要約しなさい。
2 「また,ペルガモンにある会衆の使いにこう書き送りなさい。鋭くて長いもろ刃の剣を持つ者がこう言う。『わたしはあなたが住んでいる所を知っている。それはサタンの座のある所である。それでもあなたはわたしの名をしっかり守りつづけており,あなたがたの傍ら,サタンの住むところで殺された,わたしの証人,また忠実な者であるアンテパスの日にも,わたしに対する信仰を否定しなかった。
3 「『とはいえ,わたしには,あなたを責めるべきことが幾つかある。すなわち,あなたのところにはバラムの教える堅く守っている者たちがいる。彼はバラクを教えて,つまずきのもとをイスラエルの子らの前に置かせ,偶像に犠牲としてささげられた物を食べさせ,また淫行を犯させた。あなたのところには,同じようにニコラオ派の教えを堅く守る者たちもいる。それゆえ悔い改めなさい。そうしないなら,わたしは速やかにあなたのところに行き,わたしの口の長い剣で彼らと戦うであろう。
4 ペルガモンに対する音信を結ぶさい,キリストは征服者に何を約束しておられますか。
4 「『耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者には,隠されているマナの幾らかを与えよう。また白い小石を与えよう。その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている』」― 啓示 2:12-17。
5 鋭いもろ刃の剣は,話しているかたがだれであることを示していますか。彼は何のためにその剣を使いますか。
5 ここで話をしているかたは,自分の口から鋭いもろ刃の剣が出ていると警告していますから,栄光を受けたイエス・キリストであることが分かります。(啓示 1:16)彼は,不敬な者たちがペルガモン会衆から除かれるか,悔い改めるかしないなら,その剣をもって彼らと戦うと迫っておられます。鋭い,もろ刃の長い剣のような,ご自分の口から出る司法上の決定をもって,彼はご自分の真の追随者から成る会衆を清く保ち,分派から守るために戦われるのです。
6 (イ)イエスがペルガモンに関して述べた事柄は,彼がその状態を知っておられたことをどのように示していますか。(ロ)「サタンの座」は何を表わしていますか。
6 栄光を受けたイエス・キリストは,油そそがれたご自分の追随者たちが,西暦1918年の第一次世界大戦終了以来陥っている試練の状態をご存じです。同様に,西暦1世紀,ペルガモン会衆が陥っていた困難な事態をも知っておられました。彼は,このクリスチャン会衆のあったペルガモンを,「サタンの座のある所」,「サタンの住む」所と呼ばれました。(啓示 2:13)「サタンの座」とは,彼が政治支配者また審判者として座する所です。(啓示 20:4およびマタイ 19:28; ルカ 22:30と比較してください。)その座する所は,彼が自分の支配権の基とするもの,支配と裁きを正当化し,支持するのに役立つものを象徴しています。では,どんな基礎の上に,彼は権力の座を据えるのですか。
7 サタンは何を基礎に自らを神に逆らう者としましたか。支配者としてのエホバに関し,彼はどんなことを主張しましたか。
7 その基礎は,彼の名そのもの,すなわち,「逆らう者,敵対者」を意味するサタンという名に示されています。アダムとエバが創造されて間もないエデンの園において,この強力な霊の被造物サタンは,宇宙の主権者つまり,天と地の主権者としてのエホバ神に反逆し始めました。彼は,神また支配者としてのエホバは,ご自分の臣民また崇拝者としての被造物から,愛ある,無私の忠節を得ていないし,得ることもできない,また,被造物はエホバに絶対的に依存しているのでもない,との見方をしました。サタンはこれを基礎に,自らをエホバに逆らう者とし,それら被造物すべてに支配を広げるべく,自分の座を設けたのです。その被造物たちは,エホバに真の忠節を尽くす,心からの崇拝者ではない,とサタンは主張しました。それらを自分の臣民としてとらえる能力を証明する権利,それが,エホバ神の王座に対抗する座を設けるためにサタンの置いた基礎です。エホバ神は専心の献身と絶対の服従を要求する神また支配者として自分を維持することはできない,とサタンは主張したのです。
8 サタンはペルガモンの会衆を試すことになる状況を,どのように特別に作り出しましたか。彼の目的は何でしたか。
8 彼は,この点に関してクリスチャン会衆を試す状況を,古代ペルガモンに特別に作り上げました。そこに,すべての異教の男神および女神の主神たるゼウス,つまりユピテルの神殿を据えさせました。また,ペルガモンのアクロポリスの岩から,ゼウスつまりユピテルの王座の祭壇を彫らせました。ゼウスつまりユピテルはこうしてたたえられはしましたが,自分に専心の献身がささげられるよう強要することはせず,他の神々や女神が,自分に従属するものとして崇拝されることを許しました。サタンは,エホバ神をゼウスつまりユピテルのような立場に,すなわち,専心の献身と宇宙主権に対する主張を断念しなければならないような立場に陥れることを望んだのです。
9 (イ)ローマ皇帝の崇拝が制定された真の目的は何でしたか。(ロ)ローマ皇帝は専心の崇拝を要求しましたか。説明しなさい。(ハ)ペルガモンが真に「サタンの座のある所」である,と言い得るのはどうしてですか。
9 また,サタンはここペルガモンに,西暦14年に死んだローマ皇帝,アウグスツスつまりオクタビアヌス・カエサルを崇拝する神殿を建てさせました。ローマ皇帝の崇拝を制定することは実際には政治手段であり,ローマ帝国の雑多な被征服民を彼らすべてに共通の神であるローマ皇帝の崇拝によって統合する意図がありました。ローマ皇帝はこの点,帝国の臣民から宗教上の専心の献身を要求することはしませんでした。彼らは依然,地方の,あるいは自国の神や女神を崇拝することができました。ただ,自分の崇拝に皇帝を含めることにより,共通の皇帝崇拝を行ない,共通の宗教的なきずなにより統合されねばならなかったのです。ローマ皇帝およびゼウスつまりユピテルに対する崇拝は,実際にはエホバ神の大反逆者を崇拝することであり,それゆえにペルガモンは,「サタンの座のある所」また「サタンの住むところ」と言うことができたのです。
10 (イ)油そそがれたクリスチャンの残りの者に,同様な試みが課せられていることを説明しなさい。(ロ)彼らはこの試みにどう応じてきましたか。
10 サタンの座と存在にこれ程近く接していたため,エホバ神に対するそのクリスチャン会衆の専心の献身は,19世紀前,厳しく試されました。今日,同様な試みが,天でキリストと共に統治することになっている,油そそがれた残りの者たちに課せられています。どのようにですか。1918年の第一次世界大戦終結以降,諸国民の間で自決の精神が称揚され,そのため国家主義が世界をふうびし,その結果多くの新しい国が誕生しています。それら政治国家のすべては,臣民から国のために命を犠牲にするほどの専心の献身を要求し,実際には政治国家を神の上に置いています。しかし,この決定的な試みにもかかわらず,今日の油そそがれた残りの者は,ペルガモンのクリスチャンと同じく,「わたしの[キリストの]名をしっかりと守りつづけて」います。彼らは,「イエスは主である」と公にふれ告げ続け,どんな圧力を受けようと,「イエスはのろわれている」,また,政治国家(「カエサル」)は主である,と言うことを拒みます。―コリント第一 12:3。
『わたしの証人,アンテパス』
11 アンテパスとはだれですか。彼はどのように忠実な者として死にましたか。
11 今日のこの油そそがれた残りの者たちに対し,栄光を受けたイエス・キリストは次のように言うことができました。あなたは,「あなたがたの傍ら,サタンの住むところで殺された,わたしの証人,また忠実な者であるアンテパスの日にも,わたしに対する信仰を否定しなかった」。(啓示 2:13)アンテパスは帝政の問題に関して殺されたに違いありません。ローマ帝国の神格化された元首,カエサルを神として崇拝することを拒絶し,エホバを生ける全宇宙の頭たる神,また唯一の生ける真の神として崇拝し続けることを選んだのです。彼は,エホバ神によって主つまりキュリオスに任命されたかたとしてのイエス・キリストに付き従い続けました。ですから,この点に関して,主イエス・キリストは,アンテパスを「わたしの証人,また忠実な者」と言うことができたのです。―マタイ 23:9,10。コリント第一 8:5,6。エフェソス 4:5,6。使徒 2:36。
12 (イ)油そそがれた残りの者は,イエス・キリストが王として即位させられた時以来,論争に関しどのように神の側を支持し,仕えてきましたか。(ロ)どんな機会に,論争に関する,より広い見解が神の民に明らかにされましたか。
12 19世紀後の今日,特に,エホバ神がみ子イエス・キリストを統治する王として天で即位させた西暦1920年以来,問題は本質的に同じです。殊に1920年以降,油そそがれた残りの者たちは,マタイ 24章14節に記録されたイエスの預言の成就として,樹立された神のメシアの王国を全世界にふれ告げています。そして西暦1941年8月6日,アメリカ,ミズーリ州セントルイスで開かれたエホバの証人の全国大会の第一日目,J・F・ラザフォードはものみの塔聖書冊子協会の会長として,この問題に関し,より広い見解を伝えました。彼は,「忠誠」と題する基調をなす話の中で,天と地の前に提出されている大論争は,神の側の「宇宙主権」に関するものであると発表し,こう述べました。
13,14 その時,ものみの塔協会の会長は,論争に関するエホバの証人の立場をどのように明確に説明しましたか。
13 「サタンの公然たる挑戦によって提出された主要な論争は,昔も今も宇宙支配」(つまり主権)「に関するものです」― 19節。
14 さらに,話の最後から三番目の節で,彼は大会に集まった6万4,000人の聴衆に向かって次のように述べました。
「わたしたちは,キリスト・イエスによる神権政府に対し,徹底的,全面的,絶対的かつ全き献身の立場を取るべきであり,実にそうするでしょう。わたしたちは,サタンの組織と何のかかわりも,何の共通点をも持ってはなりません。神権政府に対し全き不動の立場を取り,神の恩恵によりその立場を守り通すのです。わたしたちはこの政府が,エホバのみ名を立証し,そして,義を愛し,その義の政府の下でエホバに仕えるすべてのものに救出をもたらすことを知っています」。
15 エホバの証人のこの立場はどのように公にされましたか。彼らの取った立場のゆえに,どんな結果が生じていますか。
15 翌日の1941年8月7日,「忠誠」に関する基調をなす話を掲載した1941年8月15日号の「ものみの塔」誌が,その時セントルイス大会に集まっていた7万人の出席者に配布されました。宇宙主権という大論争に関しエホバ神に忠誠を保ったため,油そそがれた残りの者のある者たちは1919年以降,1世紀のクリスチャン殉教者アンテパスと同じく,サタンの世の政治,軍事および宗教上の権力者たちにより殺されてきました。
性の不道徳への誘惑
16 バラムは,ペルガモン会衆の忠誠を破らせようとするサタンの試みを予影するどんなことを,古代イスラエルに対して行ないましたか。
16 しかし,サタンは別の巧妙な手段によって,ペルガモン会衆の忠誠を弱めようとしていました。栄光を受けたイエス・キリストは,この点に関し次のように注意を促しました。「とはいえ,わたしには,あなたを責めるべきことが幾つかある。すなわち,あなたのところにはバラムの教えを堅く守っている者たちがいる。彼はバラクを教えて,つまずきのもとをイスラエルの子らの前に置かせ,偶像に犠牲としてささげられた物を食べさせ,また淫行を犯させた」。(啓示 2:14)つまり,偶像礼拝を犯させる誘いとして,性の不道徳を使うというものです。西暦前1473年,メソポタミアの予言者バラムは,イスラエルの子らにのろいを発するため,自らをモアブの王バラクに売りました。イスラエルの子らが,約束の地を所有するためヨルダン川を渡ろうと,モアブの平地に野営を張っていた時です。しかしイスラエルの神エホバは,バラムののろいをイスラエルの子らに対する祝福に変え,その陰謀をくじかれました。(民数 22:1から24:25)そこでバラムは,イスラエルを陥れる別の方法をバラク王に提案しました。それは何ですか。偶像礼拝を伴う,性です。
17 クリスチャン会衆の中で,『バラムの教えを堅く守る』者たちを容認することはできません。古代の情景を考え合わせると,それがどうして分かりますか。
17 偶像崇拝に関係していた女たちが,イスラエルの男子をエホバ神の崇拝から引き離し,異教の神々のみだらな崇拝,また神々に犠牲をささげる行為に引き寄せる手段として利用されました。この計略は,2万4,000人のイスラエル人に対しては効を奏しました。(民数 25:1-18。コリント第一 10:8)性の不道徳と偶像礼拝を混合するこの計略の犠牲となり,エホバ神への忠誠を保たなかった者たちは,ヨルダン川のすぐ向こう側にある約束の地に,決して入ることはできませんでした。したがって,ペルガモンのクリスチャン会衆の中で,「バラムの教えを堅く守っている者たち」を容認してはならなかったのです。
18 バラムの教えを堅く守る者たちは,自分たちの行状に対する口実として,どんなもっともらしい議論を用いたと思われますか。しかし彼らは実際には何をしていましたか。
18 明らかにその者たちは,神はあわれみ深く,キリストの血は非常な効力を有するのだから,時折また常習的に淫行を犯し,はてはそれと共に異教の偶像礼拝を行ない,自分の堕落した肉を楽しませたところで,クリスチャンは許しを得ることができ,その故意の罪も洗い流される,そして引き続きペルガモン会衆の成員としてとどまれる,と教えていました。そうしたバラムのような教師は,『不敬虔な者たちで,わたしたちの神の過分のご親切を不品行の口実に変え,わたしたちの唯一の所有者また主であるイエス・キリストに不実な者となっているのです』― ユダ 4,11。ペテロ第二 2:14,15。
19 そのような腐敗をもたらす者に対し,会衆はどんな行動を取るべきですか。
19 このようにクリスチャンの道徳と信仰を腐敗させる者を,ペルガモン会衆にとどめて置くことは許されませんでした。また,彼らが油そそがれた残りの者のクリスチャン会衆に自由に交わることも許されません。西暦1918年の春,エホバ神が契約の使者イエス・キリストを伴い,検分のため霊的神殿に来て清めの業を行なわれて以来,特にそうです。―マラキ 3:1-5。
20 道徳が危険にさらされることに加えて,他のどんな危険がペルガモン会衆を脅かしていましたか。
20 クリスチャン会衆の道徳が清く保たれねばならないばかりか,組織の一致も同様に守られねばなりませんでした。キリストの霊的な体の油そそがれた残りの者たちを分裂させる,どんな宗派主義も許されません。ご自分の油そそがれた会衆によって代表されるキリストは,分裂させられてはならず,会衆は分裂した家としては存在し得ません。(コリント第一 1:10-13)古代ペルガモンの会衆は,栄光を受けたイエス・キリストがエフェソス会衆に与えた次の称賛のことばを受けませんでした。『あなたはニコラオ派の行ないを憎んでいる。わたしもこれを憎む』。(啓示 2:6)かえって,彼がペルガモン会衆に責むべきところがあるとされた重大な事柄の一つは,次の言葉にあるとおり,宗派主義だったのです。「あなたのところには,同じようにニコラオ派の教えを堅く守る者たちもいる」。
21,22 宗派主義が会衆に存在していることが分かったらどうすべきですか。
21 宗派主義は当時,危険であり非とされました。それは今日でも同様です。油そそがれたクリスチャンから成る一般会衆のどの部分にそれが存在しようと,クリスチャンは宗派主義を悔い改め,続いて,それを根絶するよう一生懸命に努力すべきです。エホバの任命された検査官イエス・キリストは,次の警告を与えておられるからです。
22 「それゆえ悔い改めなさい。そうしないなら,わたしは速やかにあなたのところに行き,わたしの口の長い剣で彼らと戦うであろう」― 啓示 2:16,12; 1:16。
23 1918年に神殿に来て以来,イエス・キリストは分派主義に関してどんな行動を取ってこられましたか。
23 1918年,至高の審判者エホバ神と共に霊的神殿に来て以来,検査官イエス・キリストは,ご自分の口から出る長い象徴的な剣で戦っておられます。油そそがれた残りの者の一般会衆の中に,分派主義の傾向を持つ者がいれば,彼はその者と戦われます。彼はものみの塔聖書冊子協会の出版物を通して,すべての宗派主義,およびキリスト教世界のいかなる信仰合同運動をも,あからさまに非難してこられました。それは,エホバの証人の油そそがれた残りの者の間からは全くぬぐい去られました。
24 神の会衆に分派主義を助長する者に対し,どんな裁きが宣告されていますか。
24 主イエスの口から出る鋭くて長いもろ刃の剣のように,裁きの宣言は,「ニコラオ派」であろうが,あるいは他のどんな人間また宗教運動による分派であろうが,その助成者に敵して出されてきました。ご自分が再び来る時そのような「よこしまな奴隷」級を見いだすであろう,とイエスが預言されたとおりです。イエスは「最も厳しく彼を罰し,その受け分を偽善者たちといっしょにするでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです」。(マタイ 24:48-51)「よこしまな奴隷」が西暦1918年以来設けたどんな分派も,聖書にかなうものであるとは認められません。
25 イエス・キリストは,人間として地上にいた時にささげたどんな祈りを今や現実のものとされますか。
25 このように,栄光を受けたイエス・キリストは,肉の体で,使徒たちと共にいた最後の夜に神にささげた祈りを現実のものとされました。「わたしは,これらの者だけでなく,彼らのことばによってわたしに信仰を持つ者たちについてもお願いいたします。それは,彼らがみな一つになり,父よ,あなたがわたしと結びついておられ,わたしがあなたと結びついているように,彼らもまたわたしたちと結びついていて,あなたがわたしをお遣わしになったことを世が信じるためです。またわたしは,わたしに与えてくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです。わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです」。(ヨハネ 17:20-23)イエスは「長い剣」をもって今,この一致のために戦っておられます。
「隠されているマナ」と,名の書かれている「小石」
26 栄光を受けた主イエスは,ペルガモン会衆の忠実な者たちをどのように励まされますか。
26 会衆内のそうした悪い状態を克服し,この邪悪な世を征服する忠実で従順な者たちがいます。その者たちを励ますため,栄光を受けた主イエスは最後の言葉を与えます。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい: 征服する者には,隠されているマナの幾らかを与えよう。また白い小石を与えよう。その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている」― 啓示 2:17。
27 (イ)荒野におけるマナは何でしたか。それはどのようにイスラエル人のために備えられましたか。(ロ)マナの見本はどのように保存されましたか。
27 「マナですって」と尋ねるかたがあるかもしれません。「それは何ですか」。実は,西暦前1513年,シナイの荒野でマナを初めて見たイスラエル人は,それと同じ質問をしました。それは,預言者モーセに率いられた,漂泊中のイスラエル人に,エホバ神が奇跡的に備えられた食物です。夜,露が下ると,マナができ,翌朝イスラエル人は各,一日の必要量を集めました。神は六日目には,彼らが二倍の量を集めることができるように取り計らわれました。安息日には,それは下らず,マナはできなかったからです。安息日のために集めた分だけは,翌朝まで腐りませんでした。モーセは神のご意志に添って,後にイスラエルの大祭司となった自分の兄アロンにこう言いました。「壺を取てその中にマナ一オメルを盛てこれをエホバの前におき汝等の代々の子孫のためにたくはふべし」。その後程なくして,エホバの崇拝の幕屋のために契約の黄金の箱が造られた時,このマナの黄金のつぼは,十戒を記した石板と共に,その神聖な大箱の中に入れられました。―出エジプト 16:13-33。ヘブライ 9:4。
28 (イ)その一オメルのマナは,イスラエルの歴史においてどれほどの期間「隠されたマナ」でしたか。(ロ)イエス・キリストは「隠されたマナ」を何の象徴として用いられますか。
28 しかし,契約の黄金の箱が幕屋から,ソロモン王がそれのためにエルサレムに建てた壮大な神殿に移された時,マナの黄金のつぼは何らかの理由でそこにありませんでした。(列王上 8:9)しかし,マナがモーセによって契約の箱の中に入れられてから(西暦前1512年),ソロモン王が完成した神殿の献堂式を行なった時まで(西暦前1027年)の期間は,485年です。ですから,そのほとんどの期間,普通は一夜で腐るマナが,この一オメル分は朽ちず,不朽だったのです。それは文字どおり「隠されたマナ」であり,ペルガモン会衆への音信の中で,栄光を受けたイエス・キリストはそれを,朽ちない食物の供給の象徴,あるいは,そうした食物の供給の結果すなわち,終わることのない命の象徴として用いられました。油そそがれたクリスチャンの忠実な会衆の場合,この命は霊の領域における不滅性であり,肉の人類からは隠されています。(コリント第一 15:50-54)そのような報いを得る希望は,イエス・キリストご自身に倣う征服者となるよう,油そそがれたクリスチャンを鼓舞するのに十分といえます。
29 啓示 2章17節で「小石」と訳されているギリシャ語の用法を考えると,その表わす意味がどのように分かりますか。
29 「隠されたマナ」に加え,新しい名の書かれた白い小石が約束されています。この約束された「小石」は多くのことを象徴しています。ここで「小石」と日本語に訳されているギリシャ語の原語は,プセフォスです。カエサレアのアグリッパ王の前でクリスチャンとして弁明をした時,また,改宗する前にどのようにクリスチャンを迫害したかを述べた時,使徒パウロはそのギリシャ語を使い,こう述べました。わたしは「祭司長たちから権限を与えられていましたので,聖なる者たちを数多く獄に監禁しました。そして彼らが処刑されるさいには,彼らに敵対の票[プセフォス; 字義どおりには,投票用の小石]を投じました」。(使徒 26:10)これは,当時法廷で裁きを下したり,無罪か有罪かの意見を述べたりするさいに,小石が使われたことを明らかにするものです。白い小石は無罪を,黒い小石は有罪を宣告するのに用いられました。天のイエスが油そそがれた征服者たちに与える小石の白さは,イエスが彼らに対し,無罪,清廉,潔白であるとの裁きを下すことを意味しています。彼らは弟子としてイエスに是認されるのです。
30 白い小石に「それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている」ということは,何を表わしていますか。
30 しかし,この「白い小石」の上に名つまり,「それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている」ことに注意してください。昔,そのように名の書かれた石は,ある行事に用いる現代の切符のような役をなし,娯楽や見せ物の入場券として見せたり,預けたりしなければなりませんでした。したがって,象徴的な「白い小石」は,イエス・キリストとのある個人的な,親密な関係に入る特権を表わし示しています。
31 そうした「白い小石」は幾つありますか。イエス・キリストとの親密な関係に入れられる者たちはだれですか。
31 征服を遂げる14万4,000人の弟子だけが,彼と共同の天的な王の職および祭司職に入れられ,全人類の祝福のために千年間彼と共に統治するのではありませんか。(啓示 20:4-6。テモテ第二 2:11,12)征服を遂げる14万4,000人の弟子だけが,「貞潔な処女」級,霊的な「花嫁」,また「子羊の妻」なのではありませんか。使徒ヨハネは後に,天から次の声を聞いたのではありませんでしたか。「喜び,そして喜びにあふれよう。また,神の栄光をたたえよう。子羊の結婚が到来し,その妻は支度を整えたからである」。そのとおりです。ヨハネはさらにこう告げています。「そして彼はわたしに言う,『こう書きなさい。子羊の結婚の晩さんに招かれた者たちは幸いである』」。(コリント第二 11:2。ヨハネ 3:29。啓示 21:9-15; 19:7-9)それらすべての無比の特権を得る立場に入るためには,象徴的な「白い小石」をエホバ神に示すことが要求されるのかもしれません。そうした「白い小石」は丁度14万4,000あり,それを受ける者はこの上なく恵まれた者と言わねばなりません。
32 書かれている「新しい名」とは,14万4,000人の他の者がだれも知ることのできない,その人独自の,個人的な名ですか。それとも何ですか。
32 各の小石の上に『書かれている新しい名』は,14万4,000人のグループの他のだれも決して知ることのない,新しい個人的な名なのでしょうか。それは小石の所有者に,14万4,000人のグループの他のだれも享受しない,主イエス・キリストとの個人的な特別の関係を持たせるのでしょうか。そうではないようです。その「新しい名」は,彼らにとって新しい名であるとはいえ,彼らすべてに共通の名であり,天と地の他のいかなる被造物にも知られていない名を表わしているようです。ですから,「白い小石」の上に書かれている「新しい名」は,主イエス・キリストに新たに授けられた天の名を共に分け合うことを意味するのかもしれません。
33 啓示の書に述べられている他のどんな言葉は,イエスが啓示 2章17節で述べておられる「新しい名」と調和しますか。
33 これは,彼がフィラデルフィアの忠実な会衆に与えた次の音信と調和します。「征服する者……わたしの新しい名をその者の上に書く」。(啓示 3:12)また,第七の使いがラッパを吹き,幾つかの情景が現われた後,使徒ヨハネはこう述べています。「わたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた」。(啓示 11:15; 14:1)最後に,第七の使いが神の憤りの鉢を注ぎ出し,他の幾つかの情景がそれに続いた後,ヨハネは,天の主イエス・キリストがハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」に馬を進めるところを見たと述べ,彼に関する次の特徴に注意を引いています。「頭には多くの王冠がある。彼には記された名があるが,彼自身のほかはだれもそれを知らない」。―啓示 16:17; 19:11,12。
34 「新しい名」は何を意味しているかもしれませんか。その名に関してどんなことが確かですか。
34 さて,「新しい名」の書かれた「白い小石」を受ける14万4,000人の者たちは,キリストの共同相続者およびその「妻」となるのですから,象徴的な「白い小石」の「新しい名」は,彼らの天の花婿ご自身の名に関して,ある親密な特権を彼と分かち合うことを意味するのかもしれません。それが実際にそのどれであっても,「新しい名」は「良い名」であり,「豊かな富よりも選ばれるべき」もの,「良い油にまさる」ものであることに間違いありません。(箴言 22:1; 伝道 7:1,新)それは,油そそがれた14万4,000人の征服者すべてにとって,価値ある賞なのです。
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J・F・ラザフォード
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テアテラの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第11章
テアテラの使いへ
1 テアテラはどこにありましたか。そこではどんな形式の崇拝が行なわれていましたか。
ペルガモンと異なり,テアテラ市では皇帝崇拝は行なわれていませんでした。しかし同市は,ダイアナつまりアルテミスの兄弟である,男神アポロを主神としていただいていました。テアテラ市は,ペルガモンの東南約60㌔の所にあり,使徒ヨハネが囚人として送られていたパトモス島からさらに遠く隔たっていました。西暦1世紀,テアテラには真のクリスチャンの会衆が存在しており,ヨハネは,天的また霊的な光をもって星のように輝くその「使い」へ注意を向けるよう,次の指示を受けました。
2 主イエス・キリストはテアテラ会衆の使いに対しどんなことをほめましたか。
2 「また,テアテラにある会衆の使いにこう書き送りなさい。火の炎のような目を持ち,足は純良な銅のような者である,神の子がこう言う。『わたしは,あなたの行ない,また,あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を,そして,あなたの最近の行ないが以前のものより多いことを知っている。
3 イエス・キリストはテアテラ会衆に対しどんなことを非難しましたか。
3 「『とはいえ,わたしにはあなたを責めるべきことがある。あなたがかの女イゼベルを容認していることである。彼女は自ら女預言者と称え,わたしの奴隷たちを教えまた惑わして,淫行を犯させ,偶像に犠牲としてささげられた物を食べさせる。そして,わたしは悔い改めの時間を与えたが,彼女は自分の淫行を悔い改めようとはしない。見よ,わたしは彼女を病の床に投げ込む。また,彼女と姦淫を犯している者たちが彼女の行ないについて悔い改めないなら,その者たちを大患難に投げ込む。そして,彼女の子どもたちをわたしは死の災厄で殺す。それによってすべての会衆は,わたしが腎と心を探る者であることを知るであろう。そしてわたしは,あなたがたひとりひとりにその行ないにしたがって与えよう。
4 キリストはテアテラ会衆にどんな励ましの言葉を与えましたか。
4 「『しかしわたしは,テアテラにいるあなたがたのうちのほかの者,すなわち,この教えを持たない者すべて,彼らの言う「サタンの奥深い事がら」を知るようにならなかった者たちに言う: わたしはこれ以外の重荷をあなたがたに負わせない。それにしても,あなたがたが持っているものを,わたしが来るまでしっかり守りなさい。そして,征服する者,わたしの行ないを終わりまで守り通す者には,わたしは諸国民に対する権威を与え,その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれるであろう。それは,わたしが自分の父から受けたと同じようにであり,わたしはその者に明けの星を与える。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 2:18-29。
5 (イ)その音信の中で,主イエス・キリストはどのようにご自分を明らかにしておられますか。(ロ)この時のキリストの姿は,以前,復活後にヨハネに現われた時とどう違いますか。その火のような目,また,「純良な銅」のような足は,何を象徴していますか。
5 ヨハネを通してこの音信を送るかたは,ご自分が神の子であることを明らかにしており,この事実と一致して,神を「自分の父」と語っておられます。彼はその父から,征服を遂げる追随者である「わたしの奴隷たち」と分け合う何かを受けたのです。約二年後,使徒ヨハネはこの点が真実であること,つまり,『イエスが神の子キリストであること,そして,信じるゆえにあなたがたがその名によって命を持つこと』を証明するため,福音書を記すよう霊感を受けました。(ヨハネ 20:31)その63年程前,ヨハネは,復活したイエスが,この啓示の幻の場合とは異なり,弟子たちに見えるよう化肉した様で現われるのを見ました。しかしこの栄光の幻において,神の子は「火の炎のような目」を持って現われます。それは,彼が,人間の視力以上のものつまり,「腎と心」を探り,ご自分の弟子たちが内心では実際にはどんな者であるかを知る能力を持っておられることを,適切に象徴しています。さらに彼は,「純良な銅」,事実,『炉の中で白熱しているときの純良な銅に似た』足をもって現われます。(啓示 1:14,15)これは,神のみ前における彼の清い立場を,なんと輝かしく描写しているではありませんか。
6 (イ)会衆に対するキリストの音信は,なぜ軽々しく受け取ってはなりませんか。(ロ)会衆が愛,信仰,忍耐また立派な行ないを持っていても,何がエホバに対するその立場を汚しているかもしれませんか。
6 したがって,クリスチャンであると主張する会衆へ送られる,復活した,神のみ子からの音信は,軽々しく,また無関心な態度で受け取るべきではありません。星のような監督から,キリストの「奴隷」の最も小さい者に至るまで,会衆の何事も彼の目を逃れることはできません。テアテラの会衆の場合と同じく,栄光を受けた神のみ子は,今日の地上の油そそがれた,ご自分の追随者の残りの者たちから成る会衆の行ない,愛,信仰,奉仕また忍耐をよくご存じです。その会衆が西暦1919年までに明らかにしてきたそうした事柄を,ここで詳細に述べる必要はありません。しかし,会衆がその誉れとしてそうしたほむべき事柄すべてを持っており,その「最近の行ないが以前のものより多い」にしても,会衆および使いのようなその監督の立場は,全体としての会衆の中に何か清くないものが存在することにより,汚れているのかもしれません。その何かとは,性の不道徳,それに偽りの教え,また偶像礼拝かもしれません。しかし悲しいことに,それが捜し出されても清められてもおらず,すべて容認されているのです。
7 (イ)イエスはテアテラの不道徳な女をなぜ「かの女イゼベル」と呼ばれましたか。(ロ)この女は神の会衆の益に反するどんなことを行なっていましたか。
7 残念ながら1世紀テアテラの会衆は,そうした事態に陥っていました。聖書に親しんでいる人にとって,古代イスラエル王アハブの妻である,イゼベルの名ほど不快な響きを持つ名は少ないといえるでしょう。歴史上の人物イゼベルが,エズレルで窓から宦官により放り落とされ,野犬に食いつくされてから(西暦前905年)千年以上も後,テアテラ会衆にそれに匹敵する者がいたのです。炎のような目を持つ,栄光を受けたイエス・キリストが,彼女をその実の名ではなく,「かの女イゼベル」という非難の表現で呼んだのはそのためです。彼女は自分を「女預言者」と呼びましたが,はたしてそうだったでしょうか。せいぜい偽りの女預言者でしかなく,霊感を与える,エホバ神の霊に満たされた預言者ではありませんでした。「かの女イゼベル」は,会衆内の男子の地位を奪い,神のみ子の奴隷たちを教え,「淫行を犯させ,偶像に犠牲としてささげられた物を食べさせ」ていたのです。これは,崇拝されるべき唯一のふさわしいかたである神に仕える,真の女預言者の行動とはどうしてもいえませんでした。
8 (イ)古代のイゼベルとはだれですか。なぜ彼女はそれほど忌まわしい人物でしたか。(ロ)彼女に匹敵する1世紀の人物は,なぜ一層憎むべき存在でしたか。
8 キリスト時代以前のイゼベルは,異教フェニキアのシドンの王,エテバアルの娘でした。彼は,バアルの妻で偽りの女神アシュタルテに仕える祭司でもありました。(列王上 16:31)イゼベルは夫のアハブ王を唆し,北のイスラエル王国にバアル崇拝を持ち込み,その崇拝のために神殿を建立させました。彼女は,王宮の食卓で400人の偽りの預言者をもてなしていましたが,その外にも,バアルの預言者450人がアハブの王国で公式に認められていました。(列王上 18:19から19:2)王妃イゼベルはまた,イスラエル王国で淫行と魔術を行なうことで有名でした。(列王下 9:22-37)野心に燃えた,彼女の娘アタリヤは,殺害の手段を講じてユダ王国の王位を奪い,約7年間統治しました。(列王下 11:1-20)王妃イゼベルは,古代の背教したイスラエルにあって憎悪すべき存在でしたが,それに匹敵する1世紀のイゼベルすなわち,イエス・キリストが「かの女イゼベル」と呼ばれた者は,なお一層憎悪すべき存在でした。それは偽りの女預言者として,クリスチャン会衆の中で同様に不道徳かつ偶像礼拝的な役割を演じたからです。
「かの女イゼベル」の場合
9 栄光を受けたイエス・キリストが,あわれみをもって「かの女イゼベル」に悔い改めの時間を与えておられる間,彼女は自分のよこしまな行為を広めるためにどんな論議を用いていましたか。
9 「かの女イゼベル」が,「テアテラの会衆にある使い」によってさえ容認されていたので,栄光を受けたイエス・キリストは,彼女が性的魅力を用いて会衆内に邪悪な歩みを推し進める,その巧妙な手段を悔い改めるよう,時間を与えておられました。彼女は,キリストの「奴隷たち」のある者を次のように説き伏せていたものと思われます。つまり,会衆の最近の行ないは以前のものより多いのだから,自分と淫行を犯しても,あるいは,偶像に犠牲にされた物を食べることにより,間接的に偶像礼拝を行なっても構わない。キリスト教を広める努力の面で非常に良い奉仕の記録を持っているのだし,キリスト教を宣べ伝える活動における彼らの記録は,いかなる道徳上の違犯行為も偶像礼拝との妥協も相殺してしまう,と。不忠実な預言者バラムは,女の性的魅力を用いて,イスラエル人を淫行と偶像礼拝に陥れる方法をモアブのバラク王に教えましたが,それと同じく「かの女イゼベル」も,自分の性的魅力に偽りの教えと預言を結び付け,テアテラのクリスチャンを淫行と偶像礼拝に陥れようとしました。(啓示 2:14)彼女は,彼らの良心をなだめる方法を教えたのです。
10 現代における神の民の会衆に,「かの女イゼベル」に該当する者が現われたかどうかを示しなさい。
10 同様に,20世紀におけるキリストの油そそがれた残りの者の会衆内でも,悪魔サタンは女の性的魅力によりクリスチャンを堕落させようとしました。時には無害と見える女性をも用いました。今世紀,「かの女イゼベル」に特に該当するような個々の女は出ておりません。というのは,今日のわたしたちは,古代テアテラの会衆のような特定の会衆を扱っているのではないからです。しかし記録を調べて見ると,女の影響力を用いて真のクリスチャン会衆内に悪い結果をもたらすという面で,悪魔サタンは後れをとっていないことが分かります。この点サタンは,キリスト教世界でたいへん成功を収めているからです。不道徳や偶像礼拝にかかわる悪行を悔い改めなかった者たちには,悲惨な結果が臨んでいます。
11 (イ)イエス・キリストは,現代の会衆における「かの女イゼベル」に対しどんな行動を取られましたか。(ロ)この点に関し,使徒パウロのどんな助言が強調されましたか。
11 栄光を受けたキリストは,今日における「かの女イゼベル」のような者たちを,19世紀前のテアテラ会衆における,不道徳と偶像崇拝を行なった偽りの女預言者同様,嫌悪されます。「火の炎のような」彼の目は,そうした自称クリスチャンに敵対して燃えます。1918年春,ご自分の天の父と共に霊的神殿に来て以来,彼は,「巫術者にむかひ姦淫を行ふ者にむかひ偽の誓をなせる者にむかひ……速に證を」なすことにより,マラキ書 3章1-5節の預言の成就にあずかって来られました。彼は,ご自分の油そそがれた残りの者たちの会衆が,イゼベルのような自称クリスチャンの女性に気をつけるよう,注意を喚起しておられるのです。性的魅力により人をたぶらかし,不品行や種々の偶像礼拝に関して,誤った考えを男子に導入する女たちがひそかに入り込むのを警戒するよう,キリストは彼らの良心を非常に敏感にされました。また,彼らを保護するため,使徒パウロが霊感の下に述べた立場の正しさが,さらに重視されるよう取り計らわれました。「わたしは,[会衆内で]女が教えたり,男の上に権威をふるったりすることを許しません。むしろ,静かにしていなさい」― テモテ第一 2:12。
12 (イ)「信仰の家の者のための日々の天のマナ」と題する本はどんな本でしたか。(ロ)「マナ」の本の編集者による改訂の申し出はなぜ退けられましたか。その代わり,今日に至るまで何が出版されてきましたか。
12 この問題に関して,クリスチャンの良心が敏感にされて行く過程を示す一つの例があります。1905年a,「信仰の家の者のための日々の天のマナ」と題する本が,あるクリスチャン婦人によって出版されました。これはものみの塔聖書冊子協会により配布され,国際聖書研究者たちが朝の祈祷,また特に,水曜日の夜に行なわれた祈りと賛美とあかしの集いで何年も使用しました。その本は,誕生日を記録したり,仲間の聖書研究者のサインや住所を書くのに使われました。1926年ごろ,その本の編集者は,「マナ」の本を改訂して,内容を新しくすることを申し出ました。しかしその申し出は,テモテ第一 2章12節に照らして退けられました。その代わり,同年,日々の聖句と注解を載せた,国際聖書研究者協会の最初の「年鑑」が,ものみの塔聖書冊子協会の会長と協会の執筆陣によって用意され,1927年に用いるため世界各地の会衆に紹介されました。その翌年から毎年新しい「年鑑」が出版され,今日に至っています。
13 イエス・キリストは「かの女イゼベル」にどんな警告を与えましたか。
13 聖書にも教会史にも,テアテラ会衆の「かの女イゼベル」が悔い改めたことを示す記録はありません。実際に彼女が悔い改めなかったのであれば,栄光を受けた「神のみ子」が,彼女に警告した次の言葉をいつ,どのように実行に移されたか,わたしたちには分かりません。「彼女は自分の淫行を悔い改めようとはしない。見よ,わたしは彼女を病の床に投げ込む。また,彼女と姦淫を犯している者たちが彼女の行ないについて悔い改めないなら,その者たちを大患難に投げ込む。そして,彼女の子どもたちをわたしは死の災厄で殺す。それによってすべての会衆は,わたしが腎と心を探る者であることを知るであろう。そしてわたしは,あなたがたひとりひとりにその行ないにしたがって与えよう」。(啓示 2:21-23)これは決して単なる脅しではありませんでした。
14 キリスト・イエスは現代,イゼベルのようなタイプの女が「病の床」に投げ込まれるよう,どのように取り計らっておられますか。悔い改めないなら,彼らは最後にどうなりますか。
14 この警告は,わたしたちの時代に対し,また「ほどなくして必ず起きる事がら」に関し,預言としての意味を持っています。(啓示 1:1)19世紀前の諸会衆の場合と変わりなく,今日の「すべての会衆」も,1918年以来,霊的神殿におられる,栄光を受けた「神のみ子」が,『腎と心を探り』,あなたがたクリスチャン「ひとりひとりにその行ないにしたがって」与えるかたであることを知らねばなりません。イゼベルのようなタイプの自称クリスチャンの女たちは,神の天のみ子により,情欲をこうこつとさせる不倫な性交の床にではなく,悔い改めないため,「病の床」に投げ込まれています。今日までそれは,不道徳で偶像礼拝をするそうした女たちを真のクリスチャン会衆から排斥する,という処置によってなされています。その女たちが身を横たえるには,それは決して幸福な宗教上の床とはいえません。それは,排斥された状態で肉体が死ぬ時に到来する,全き消滅の前触れつまり,霊的死を意味するからです。それ以前に,宗教的な大いなるバビロンの滅び,または,「全能者なる神の大いなる日の戦争」に巻き込まれるなら,神の手にかかって永遠の刑の執行を受けるでしょう。
15 (イ)不道徳な女たちと関係を持った,悔い改めない自称クリスチャン男子の前途には,何が待ち受けていますか。(ロ)その者たちは,たとえ不道徳にいざなわれたのであっても,悔い改めないなら苦しみにあいますか。
15 「彼女と姦淫を犯し」,罪ある者となる自称クリスチャンの男たちは,「彼女の行ない」を悔い改めないため,当然「大患難」に投げ込まれます。不道徳で,偶像礼拝を行なう女たちと同様,その性的魅力と人をたぶらかす論法に屈した者たちも,会衆から取り除かれます。そうすることにより,会衆から非難と堕落の要素が除去されるのです。(コリント第一 5:1-13)霊的に言って,これは彼らに「大患難」を意味してきました。しかし,さらに悪い事態が直前に待ち受けているのです。ハルマゲドンにおける全能の神の戦争に突然襲われるなら,彼らは神の手によって処刑され滅びに行く事態を免れることはできません。(啓示 16:14-16)『世のはじめから今に至るまで起きたことがないような大患難』が突発する時,彼らは滅びに直面します。永久的に神に「選ばれた者」であることを証明しないからです。その選ばれた者たちのために,患難の日は短くされることになっています。(マタイ 24:21,22)イゼベルのような自称クリスチャンの女たちに唆され,この汚れた世と不道徳な関係を持つようになる者でさえ,遅くともハルマゲドンにおいて滅びを受けるでしょう。彼らはこの世の友であり,神の敵であるからです。―ヤコブ 4:4。
16 (イ)「彼女の子どもたち」はどのように「死の災厄」によって殺されますか。(ロ)これはひゆ的な意味ではどのように適用されますか。
16 彼女の淫行の子である,「彼女の子どもたち」は,「死の災厄」で殺されることになっているので,その命の見込みは貧弱なものといわねばなりません。(啓示 2:23)その災厄は,霊的な死をもたらす災厄かもしれません。文字どおりのそうした不倫な,クリスチャンに反する性関係から生まれた子どもたちの霊的遺産は確かに乏しく,また,とこしえの命の希望を持つ,真のクリスチャンとして養育される見込みも望み薄です。霊的に病んだ状態にとどまっているなら,そうした子どもたちは最後には霊的な死と永遠の滅びを受ける危険にあります。これは,「かの女イゼベル」である偽りの女預言者の宗教上の弟子となっている,「彼女の子どもたち」にとっても,なんら良いことの前兆とはなりません。淫行や姦淫を犯す女の道は,死と滅びに至ります。―箴言 7:6-27。
反イゼベル
17 忠実な者たちは,イゼベルの教えや「サタンの奥深い事がら」をどのように避けますか。
17 テアテラ会衆の時代と同じく,今日,『[かの女イゼベルの]この教えを持たない者……「サタンの奥深い事がら」を知るようにならなかった者たち』がいることは明らかです。油そそがれた残りの者の忠実な者たちは,良心を偽善的になだめ,自己欺まんへ導く悪魔的な推論を認めません。「サタンの奥深い事がら」を個人的な経験のために試そうとして,そうした事柄の知識を得ようとしたりはしません。むしろ,神が聖霊を通して自分たちに啓示してくださる,「神の奥深い事がら」に関心を抱くのです。―啓示 2:24。コリント第一 2:10-13。
18,19 (イ)「わたしはこれ以外の重荷をあなたがたに負わせない」,とのイエスの言葉にはどんな意味がありますか。(ロ)キリストの勧告は,西暦1世紀のクリスチャンにあてられた,エルサレムの統治体の手紙とどのように調和しますか。
18 1919年以降のそうした忠実な油そそがれた弟子たちに対し,栄光を受けた,神のみ子は,「わたしはこれ以外の重荷をあなたがたに負わせない」と言われます。それゆえ彼らは,キリストの教えを他の人に宣べ伝えるというような,クリスチャンの業を外面的に行なうことに関して立派な記録を示せさえすれば,献身したクリスチャンが時として性の不品行やある種の偶像礼拝にふけっても霊的な害はないとする,人を唆す,「かの女イゼベル」の論議に決してだまされません。そのような霊的な誘いに抵抗する「重荷」また義務が,忠実な者たちに課せられているのです。それは,1世紀のエルサレム会議の定めの中にある,異邦人のクリスチャンに与えられた指示の範囲に含まれています。それは(一部)次のとおりです。
19 『使徒や年長者の兄弟たちから……諸国民からの兄弟たちへ: あいさつを送ります。……聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めました。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行から身を避けていることです。これらのものから注意深く離れていれば,あなたがたは栄えるでしょう』― 使徒 15:23-29。
20 (イ)キリスト教世界の僧職者たちは,どのように「かの女イゼベル」と同じ不道徳な立場を取っていますか。(ロ)僧職者のそうした立場に対し,真のクリスチャンはどんな立場を取りますか。
20 今日わたしたちが,エルサレム会議の定めにめいりように述べられている事柄を無視する,キリスト教世界の僧職者たちに同調することができないのは,こうした重大な理由によるのです。それら僧職者は,自ら同意する成人同士の同性愛の生活には何か美しいものがあり得る,また,婚約者が結婚前に性関係をもったり,独身者が試験結婚をしたりするのは有益であり,道徳上不適当ではないと公言することにより,やはり神のみ子の警告の言葉を無視しています。そのような僧職者は,教派や宗派にかかわりなく,19世紀前のテアテラ会衆内の「かの女イゼベル」と同じ不道徳な立場を取っているのです。わたしたちは,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンに滅びが臨む時,「かの女イゼベル」のように神の裁きの執行を受けたいとは思いません。むしろ,神のみ子が,ご自分の忠実な追随者としてのわたしたちに課される「重荷」を負います。わたしたちは聞く耳をもって,霊が諸会衆に言うことを聞きたいと思います。キリストのような純粋さと義にかたく付き,イエスの言われた,「わたしが来るまで」,その態度を守るのです。
鉄の杖で民を牧す
21 (イ)栄光を受けた主イエス・キリストは,世に対して霊的勝利を得る者たちにどんな報いを差し伸べておられますか。(ロ)彼らがその前途の征服に携わることはなぜ可能ですか。
21 テアテラ会衆への特別な音信の中で,油そそがれた残りの者たちの成員すべては,征服者となるよう励まされています。「そして,征服する者,わたしの行ないを終わりまで守り通す者には,わたしは諸国民に対する権威を与え,その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれるであろう。それは,わたしが自分の父から受けたと同じようにであり,わたしはその者に明けの星を与える」。(啓示 2:26-28)忠実な油そそがれた者たちは,肉体で地上にいる間に,敵である世とその邪悪な事物の体制に対して霊的な征服を遂げます。しかし,そうした征服者の前途には,別の征服が待っているのです。それは,ハルマゲドンでの「全能者なる神の大いなる日の戦争」における,現在の事物の体制の文字どおりの滅びを意味します。(啓示 16:14,16)どのようにですか。戦争が始まる前に,死者からの復活があることによってです。
22 (イ)啓示 14章13節の聖句の助けを借りて,西暦1918年以降に死ぬ油そそがれた残りの者たちに何が起こるかを説明しなさい。(ロ)彼らは地的な労からは休みますが,『彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って行きます』。どのようにですか。
22 霊的神殿におけるキリストの目に見えない臨在が1918年春に始まって以来,忠実を証明して死んで行く,キリストの追随者の油そそがれた残りの者の成員たちは,死の眠りに就くことはありません。肉体で死ぬとその直後に即時,霊の復活を受け,神殿におられる,神の天のみ子に加わります。こうして彼らは,神殿における神のみ子の臨在以前に死んだ,忠実な油そそがれた弟子たちには該当しない意味で,「幸い」な者となります。後者の場合は,死の眠りに就き,死者から天の命へ生き返るよう命令する,神殿からのみ子の声を待たねばならなかったからです。(ヨハネ 5:28,29)地的な労からは休むとはいえ,「彼らの行なったことはそのまま彼らに伴って」天の領域へ行きます。(啓示 14:13)地的な労を通して,彼らは諸国民に「神の〔報復〕の日」をふれ告げましたが,復活させられて霊の状態にある今,その神の報復の執行にあずかるのです。(イザヤ 61:1,2〔新〕)神のみ子は,彼らに「諸国民に対する権威を与え」ます。彼らはその権威を地上で持ったことは一度もありませんでした。
23 (イ)神のみ子はどんな権限を父から与えられましたか。(ロ)啓示 2章26,27節のキリストの約束が成就すると,ハルマゲドン前に復活させられる油そそがれた者たちにとって,事態はどのように逆転しますか。
23 このように神のみ子は,彼らがご自分の権威に共にあずかることを許されます。彼はご自分の天の父から,詩篇 2篇7-9節の預言の言葉を成就させる特権を与えられました。「われ詔命をのべんエホバわれに宣まへり なんぢはわが子なり今日われなんぢを生りわれに求めよ さらば汝にもろもろの国を嗣業としてあたへ地の極をなんぢの有としてあたへん 汝くろがねの杖をもて彼等をうちやぶり陶工のうつはもののごとくに打砕かんと」。これと一致して使徒ヨハネは,新しく誕生した神の王国に関し,新しく誕生したその王国が「あらゆる国民を鉄の杖で牧する」と述べています。(啓示 12:5)この世の諸国民は野獣のように,キリストの羊の小さな群れ,つまりその王国の共同相続者たちをえじきにしてきました。しかし今度は,逆の事態が生じます。ハルマゲドンの戦争以前に復活させられる「小さな群れ」の各は,キリストと共に「鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれる」のです。諸国民を打ち砕くことは,ダニエル書 2章44節の王国に関する輝かしい預言の成就に寄与します。
24,25 (イ)ハルマゲドンを経て地上にとどまる油そそがれた残りの者たちは,諸国民を打ち砕く業に加わりますか。それともどうしますか。(ロ)油そそがれた残りの者がその時どんな立場を取るかを示す古代の例があります。どんな例ですか。
24 数少ない油そそがれた残りの者たちは,ハルマゲドンの間,地上で保護されますが,彼らは,地上における悪魔の,目に見える組織の崩壊を速めたり,増大させたりする目的で,なんらかの暴力行為に加わるようなことはしません。神のみ子と復活させられた忠実な追随者たちが,鉄の杖で民を牧し,彼らを陶器師の単なる粘土の器のように打ち砕き始めるまで,それら地上で保護される者たちは,神のメシアによる王国の地的な敵に臨む,差し迫った神の裁きの執行をたゆまずふれ告げるのです。そして,目に見えない天からの破壊の業が始まると,彼らは預言者モーセの次の言葉のとおりにします。彼は,エジプトの激しい追っ手の軍に迫られ,恐怖心に駆られて紅海を渡ろうとしていたイスラエル人にこう語りました。「汝ら懼るゝなかれ立てエホバが今日汝等のために為たまはんところの救を見よ」。(出エジプト 14:13)彼らは,忠実な王エホシャファトの時代にエルサレムが敵の連合軍に襲われた時,その場にいたご自分の崇拝者たちにエホバの預言者が語った言葉を心に留めます。それは歴代志略下 20章14-17節に記録されています。
25 『此大衆のために懼るゝ勿れ慄くなかれ汝らの戦に非ずエホバの戦なればなり……この戦争には汝ら戦ふにおよばず……汝ら惟進みいでて立ち汝らとともに在すエホバの救を見よ』。
26 それにもかかわらず,ハルマゲドンを地上で生き残る残りの者は,啓示 2章27節の約束が自分たちに成就したと感じます。どのようにですか。
26 ハルマゲドンで邪悪な諸国民を滅ぼすため,「鉄の杖」が天から振り下ろされるのを地上で安全に目撃するのは,保護される残りの者たちにとって,『鉄の杖で民を牧す』業に直接加わるのと同じことです。こうして彼らは,啓示 2章27節の約束が自分たちに成就したと感じ,満足し歓喜することでしょう。―詩篇 149:5-9。
明けの星の賜物
27,28 (イ)ハルマゲドン後まで地上に生き残る残りの者に対し,啓示 2章28節のイエスの約束はどのように成就しますか。(ロ)「輝く明けの星」が何かを明らかにする上で,聖書はどのように助けとなりますか。
27 器のような諸国民を打ち砕く事態を生き残り,保護される残りの者たちは,やがて地上の歩みを忠実に終え,それ以前に復活させられた王国の相続者たちすべてと共に,復活を受けた神のみ子が征服を遂げる追随者の各に与えられた次の約束の成就を享受します。「わたしはその者に明けの星を与える」。(啓示 2:28)彼らはその象徴的な「明けの星」が,栄光を受けた神のみ子ご自身であることを知っています。なぜなら,彼はこの驚くべき啓示の終わり近くで,使徒ヨハネにこう言われたからです。「わたしイエスは自分の使いを遣わし,諸会衆のためこれらのことについてあなたがたに証しした。わたしはダビデの根また子孫であり,輝く明けの星である」。(啓示 22:16)聖書預言は,神の選ばれた民の王たちを天の星になぞらえました。それは,使いにも似た,アジアの七つの会衆の監督たちが,神のみ子の右手にある七つの星になぞらえられたのと同じです。(啓示 1:16,20)それより15世紀前,王統「ダビデの子孫」としてのイエスに関し,次の預言がなされました。
28 『ヤコブより一箇の星いでんイスラエルより一篠の杖おこり……権をとる者ヤコブより出で遺れる者等を城より滅し絶ん』― 民数 24:17-19。
29 (イ)古代バビロンの王によって表象された悪魔サタンは,「輝く明けの星」の上にどのように自分の座を据えることを望みましたか。(ロ)西暦1914年以降,悪魔のこの野心に関して実際には何が起こりましたか。何が悪魔と悪霊を待ち受けていますか。
29 古代バビロンの王によって表象された悪魔サタンは,この「輝く明けの星」の上に,自分の天の座を定めることを望みました。彼は,バビロンの王が西暦前617-607年の間,星のような,エルサレムの王たちの上に自分の地的な座を定めたことを思い起こしました。バビロンの王はそうするにさいし,エルサレムの二人の王を流刑に処してバビロンに送り,彼らの王座のあった都エルサレムを滅ぼしました。これはすべて,明らかにされていた彼の決意を果たすものとなりました。『われ天にのぼり我くらいを神の星のうへにあげ 北の極なる[エルサレムの]集会の山にざすべし』。(イザヤ 14:4,13。列王下 24:10から25:21)西暦1914年以来,これと反対のことが悪魔サタンにすでに起こりました。というのは,彼は天から放逐され,地球の近辺に投げ落とされたからです。目に見える彼の地的組織がハルマゲドンで滅ぼされた後,サタンと悪魔は封印され,底知れぬ深みの中で鎖につながれます。彼らはその場所で,「輝く明けの星」が,解放された人類に対する千年間の統治を成功させた後にもたらす滅びを待つのです。(啓示 12:3-13; 20:1-10)その時,「明けの星」はなんと明るく輝きわたることでしょう。
30 栄光を受けた,神のみ子は,ご自分の会衆の忠実な征服者の各に,どのように「明けの星」を与えられますか。
30 これらのことすべてを考えると,栄光を受けた神のみ子は,ご自分の会衆の忠実な征服者の各に,どのように「明けの星」を与えられるのでしょうか。明らかに,ご自身を与えることにより,つまり,彼らをご自分との最も親密な関係に迎え入れることによってです。その結果,彼らは,天の被造物の他のだれも享受することのない,親密な関係を得るのです。このようにして彼らは,神のことば聖書の預言の中でこの「明けの星」に関して予告されていた多くの特権を,彼と分かち合います。彼と共にその仲間の征服者はとこしえに輝き,エホバに栄光をもたらすのです。―ダニエル 12:3。マタイ 13:43。
31 「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」,とイエスが言われるのはなぜですか。
31 このような壮大な約束を考慮すると,神のみ子がテアテラの会衆の使いに対する音信を次の知恵の言葉で閉じたのは,非常に適切なことであるといわねばなりません。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 2:29。
[脚注]
a 1905年11月15日号の「ものみの塔」誌(英文),346ページの発表をごらんください。
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サルデスの使いへ『その時,神の秘義は終了する』
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第12章
サルデスの使いへ
1 サルデスはどこにありましたか。そこではどんな宗教が信奉されていましたか。
テアテラ市から南に約50㌔,パトモス島の北東約185㌔の地点に,一時は繁栄を誇った,ルデアの首都サルデスがありました。ルデアはフリギアおよびミシアと共に,偽りの神ゼウスつまりユピテルの母とされる,自然の女神キュベレー崇拝の初期中心地の一つであり,その異教崇拝は放らつな性格を帯びていました。西暦1世紀末ごろまでには,サルデスにあったクリスチャン会衆の霊的状態は悪化しており,それゆえ,パトモス島に流刑に処せられていた使徒ヨハネは,星にも似た,サルデス会衆の監督に次の音信を書き送るよう命じられました。
2 サルデス会衆に対するイエスの言葉から判断すると,その会衆はどんな状態にありましたか。
2 「また,サルデスにある会衆の使いにこう書き送りなさい。神の七つの霊と,七つの星を持つ者がこう言う。『わたしはあなたの
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