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  • テアテラの使いへ
    『その時,神の秘義は終了する』
    • 特権を,彼と分かち合います。彼と共にその仲間の征服者はとこしえに輝き,エホバに栄光をもたらすのです。―ダニエル 12:3。マタイ 13:43。

      31 「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」,とイエスが言われるのはなぜですか。

      31 このような壮大な約束を考慮すると,神のみ子がテアテラの会衆の使いに対する音信を次の知恵の言葉で閉じたのは,非常に適切なことであるといわねばなりません。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 2:29。

  • サルデスの使いへ
    『その時,神の秘義は終了する』
    • 第12章

      サルデスの使いへ

      1 サルデスはどこにありましたか。そこではどんな宗教が信奉されていましたか。

      テアテラ市から南に約50㌔,パトモス島の北東約185㌔の地点に,一時は繁栄を誇った,ルデアの首都サルデスがありました。ルデアはフリギアおよびミシアと共に,偽りの神ゼウスつまりユピテルの母とされる,自然の女神キュベレー崇拝の初期中心地の一つであり,その異教崇拝は放らつな性格を帯びていました。西暦1世紀末ごろまでには,サルデスにあったクリスチャン会衆の霊的状態は悪化しており,それゆえ,パトモス島に流刑に処せられていた使徒ヨハネは,星にも似た,サルデス会衆の監督に次の音信を書き送るよう命じられました。

      2 サルデス会衆に対するイエスの言葉から判断すると,その会衆はどんな状態にありましたか。

      2 「また,サルデスにある会衆の使いにこう書き送りなさい。神の七つの霊と,七つの星を持つ者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは生きているとの名を持ってはいるが,実際には死んでいるのである。油断なく見張っていなさい。いまにも死ぬ状態にあった残りのものを強めなさい。わたしは,あなたの行ないがわたしの神の前で十分になされたのを見ていないからである。それゆえ,あなたがどのように受けてきたか,またどのように聞いたかを思いにとどめ,それを守りつづけ,そして悔い改めなさい。あなたが目ざめないなら,必ずわたしは盗人のごとくに来る。そしてあなたは,わたしがどの時刻にあなたのもとに来るかを全く知らないであろう。

      3 会衆の霊的状態は悪いものでしたが,イエス・キリストはどんな励ましの言葉を与えましたか。

      3 「『とはいえ,サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである。征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:1-6。

      4 イエス・キリストは,「神の七つの霊と,七つの星を持つ者」としてご自分をサルデス会衆に示されましたが,それはなぜですか。

      4 サルデスの会衆に対し,栄光を受けたイエス・キリストは,ご自分が「神の七つの霊と,七つの星を持つ者」であることを明らかにされました。彼はそうした者として,「七つの星」によって象徴される使いのような監督すべてを,ご自分の右手で管理しておられたのです。それで,サルデス会衆の「使い」に語りかけ,会衆の名ばかりの状態ではなく,その実状に留意するよう,彼の注意を促す権利と責務を持っておられました。栄光を受けたイエス・キリストは,実態を識別することができたのです。「神の七つの霊」を持っておられたからです。七つの霊は,最初,神のみ座の前にあると述べられており,そこでは『み座の前で燃えている火のともしび七つ』によって表わされています。(啓示 1:4; 4:5)それらは光を照らすものであり,啓発を与え,隠された物事に光を放つ力を持っています。例えば,「神がご自分を愛する者たちのために備えられた事がら」に関し,使徒パウロはこう書き記しました。「神はそれを,ご自分の霊によって,このわたしたちに啓示されたのであり,霊がすべての事,神の奥深い事がらまでも究めるのです」― コリント第一 2:9,10。

      5 象徴的な子羊の持つ「七つの目」には,どんな象徴的な意味がありますか。

      5 しかし後に,「神の七つの霊」は,目によって表わし示されています。すなわち,神のみ座に近づき,神の右手から秘義の巻き物を受け取る時の主イエス・キリスト,つまり象徴的な子羊の「七つの目」によって表わされています。使徒ヨハネはその「七つの目」の意味について,「その目は,全地に送り出された神の七つの霊を表わしている」と述べています。(啓示 5:1-7)したがって「七つの霊」は,栄光を受けた神の子羊が今持っておられる,観察し,識別し,探知する完全な力を表わしており,「全地」の何物もその注視を逃れることはできません。19世紀前,「使い」が落ち込むに任せたサルデス会衆の霊的状態を,彼は完全に見ることができたのです。

      6 サルデス会衆および使いにも似たその監督は,なぜ深刻な事態に陥っていましたか。

      6 そうです,サルデス会衆は,その実状とは違う何かであるとの名を得ていました。その成員の中には,主イエス・キリストによく知られた名,誉れをもって述べることのできる「少数の名」がありましたが,他の成員の各は,「命の書から」名を塗り消される危険にありました。その名は,キリストが天において,ご自分の父の前とみ使いたちの前で認めるに値しないものになりつつあったのです。サルデス会衆とその使いにも似た監督は,そのために深刻な事態に陥っていました。父なる神との間に良い名を持つことは非常に重大だからです。

      7 神に好意を持っていただける名にはどんな価値がありますか。クリスチャンはいつそのような名を得るべきですか。

      7 箴言 10章7節によると,『義者の名は讚られ 悪者の名は腐り』,不快な悪臭となり,祝福に値しません。神に好意を持っていただける名は,非常に貴重です。「嘉名は大なる富にまさり恩寵は銀また金よりも佳し」。(箴言 22:1)クリスチャンは生きている間に,命の与え主であるエホバ神との関係において,自分のために良い名を得ることができます。また,そうすべきです。伝道の書 7章1節は正しい助言を与えています。「名は美膏に愈り 死る日は生るゝ日に愈る」。

      8 サルデス会衆の成員が生きているかどうかに関し,主要なことは何でしたか。

      8 サルデス会衆の成員は無論,人間としては生きていました。しかし,真のクリスチャンという点ではどうでしたか。彼らがこの世の物事に富む人間として生きており,また,会衆の集会を開くりっぱな場所を持っているということは主要な問題ではなく,霊的にどんな状態にあるか,霊的には生きているか,ということが問題でした。

      9 サルデスの会衆が持っていたのはどんな業でしたか。しかしキリストは,彼らがどんな業を持つことを望まれましたか。

      9 彼らの行ないや業は,「死んだ業」つまり,霊的な命に貢献しない業だったに違いありません。それは,サルデスのクリスチャンでない人びとには訴える業であったかもしれませんが,「真理について証しする」ために世に生まれて来たキリストの追随者として,クリスチャンがなすべき特別の業ではありませんでした。(ヘブライ 9:14。ヨハネ 18:37)イエス・キリストは,サルデス会衆の行ないが「わたしの神の前で十分になされるのを」見いだしませんでした。サルデスのこの世的な人びとに対しては,「使い」とその使いによって代表される会衆は,生きているとの名を持っていたかもしれませんが,神の七つの霊を持つイエス・キリストは,彼らが霊的な意味で,つまり,真のクリスチャンとしては死んでいるのを見,かつその状態を知っておられたのです。

      10 (イ)サルデス会衆内の「いまにも死ぬ状態にあった残りのもの」は,何であったかもしれませんか。(ロ)サルデスの監督に対するイエスの言葉によると,彼は何をしなければなりませんでしたか。

      10 サルデス会衆は,「少数の名」を除き,実際には霊的に死んでおり,ともされた黄金の燭台のように輝いてはいませんでした。それら「少数の名」とは,「いまにも死ぬ状態にあった残りのもの」かもしれません。彼らは,会衆の大多数が陥っている霊的な死の状態により,致命的な影響を受ける危険にありました。その観点から,彼らは「いまにも死ぬ状態に」あったわけです。会衆を代表する監督つまり「使い」は,クリスチャンの責任に関する限り眠っていました。彼は,目覚め,実状を見,そして『油断なく見張り』,会衆の眠っている者たちを目覚めさせ,『油断なく見張る』よう彼らを助けねばなりません。「使い」は,霊的に死ぬ危険にあった者たちを『強める』必要があり,それからその者たちを用い,また彼らと協力して,他のすべての者が真のクリスチャンとして生き,行動し,奉仕するよう強めるべきなのです。そのために彼は『悔い改める』必要がありました。

      悔い改める必要があるのはなぜか

      11 サルデス会衆が『思いにとどめつづける』べき,彼らの「聞いた」事柄とは何ですか。

      11 誠実な悔い改めに至るため,使いは何かをしなければならず,また,他の者たちに何かをすべきことを思い起こさせねばなりません。それは何でしたか。『あなたがどのように受けてきたか,またどのように聞いたかを思いにとどめつづけなさい』。(啓示 3:3)彼らは,神が,ご自分の宇宙主権を地に回復し,人類のあらゆる事態を全き秩序をもって治めるために用いる,神の王国に関する音信を聞いていました。また,神のみ子イエス・キリストの贖いを通してもたらされる,永遠の救いに関する音信,さらに,天の王国において共同相続者としてみ子イエス・キリストに加わらせるため,神が人類のあらゆる国民の中からどのように「み名のための民」を取り出しておられるかについても聞いていました。

      12 サルデス会衆の者たちが緊急に思いに留めるべき,その『受けた』事柄とは何ですか。

      12 彼らはまた,それまでに聖書のほとんど全巻を手にしており,書き足される部分は,霊感を受けた使徒ヨハネによる最後の著作だけでした。彼らは,エホバ神に自分を全く献身したことを象徴する水のバプテスマを受けており,また,仲介者イエス・キリストを通して神との「新しい契約」に入れられ,その結果,「み名のための民」の一員となっていました。それはまた,彼らが神の霊的な子として養子にされ,さらに,キリストの弟子を作る目的で,あらゆる国民に神のみことばを宣べ伝える者として神の霊により油そそがれたことを意味していました。彼らは,生きている者と死んでいる者とを含め全人類の世に祝福となるべく,死人からの霊的,また天的復活を受け,キリストと共に王また祭司とされるという驚くべき希望を与えられていたのです。―使徒 15:14。ヘブライ 8:6-13。コリント第二 1:21,22。

      13 会衆はどのように「悔い改める」べきでしたか。それは彼らを何に導きますか。

      13 彼らはなんと貴重な事柄を,またなんと多くの事柄を受け,かつ聞いていたのでしょう。ところが今や,霊的な死にひんしており,それらの事柄を永久に失う危険にあったのです。そのため,それらの事柄を再び思いにとどめ,そうした貴重な事柄を「守りつづけ」る必要がありました。彼らは思いを変化させねばなりません。イエス・キリストが彼らの「使い」である監督に言われたように,悔い改めねばなりません。そうするなら,これ程多くの恵みを与え,これ程多くの真理を聞かせてくださった神に対し,これ程までに感謝と認識を欠いてしまったことを深く悲しむはずです。悔い改めることにより,彼らは再び霊的に活発になり。生きている,つまり,クリスチャンの人格をつけて真に生きているとの名にふさわしい生活を送るでしょう。霊的な死から目覚め,再び正しいクリスチャンの業に参加し,神の前にそれらの業を十分に行なうことでしょう。―エフェソス 5:14。

      14 (イ)後日,サルデス会衆は警告以上の何を経験しますか。(ロ)イエス・キリストは,前もって知らされていなかった時に来ることにより,会衆に対し何を成し遂げられますか。

      14 当面イエス・キリストは,サルデス会衆の「使い」である監督に警告を与えられました。しかし,だれも知らない将来のある時に突然,イエス・キリストは主要な検査官として,最終的な検分のためにサルデス会衆を訪れ,当然なすべき行動を取られます。その時には,悔い改めていない,霊的に死んだクリスチャンが,悔い改め,失う危険にあったものを取り戻そうとしても遅すぎます。検査官のイエス・キリストはこう言われました。「あなたが目ざめないなら,必ずわたしは盗人のごとくに来る。そしてあなたは,わたしがどの時刻にあなたのもとに来るかを全く知らないであろう」。(啓示 3:3)このだれも知らない,また知らされていない時に最終的な検分のために来ることにより,イエス・キリストは,彼らが真のクリスチャンとして,すなわち,「目先だけの奉仕をするのではなく,誠実な心で,エホバを恐れつつ」生きているかどうかを見いだされます。(コロサイ 3:22)「あなたがたの誠実な心のうちに恐れとおののきをいだき,キリストに対するように……。人を喜ばせようとする者のように目先だけの奉仕をするのではなく,キリストの奴隷として,神のご意志を,魂をこめて行ないなさい」。(エフェソス 6:5,6)彼らは,偽善的な,名ばかりの見せかけのクリスチャンであってはならず,真のクリスチャンでなければなりません。偽善的なクリスチャンは退けられるからです。

      15 (イ)1918年は,クリスチャンであるととなえる人すべてに対し,イエス・キリストから警告の出される非常に切迫した時でした。なぜですか。(ロ)キリストがご自分の霊的神殿に来られた時,キリスト教世界は自分が死んだものであることをどのように証明していましたか。

      15 20世紀の今日,キリスト教世界は宗教的偽善者で満ちています。第一次世界大戦が1918年11月11日午前11時に終わった時,キリスト教世界は,自称キリスト教制度としての自分に関し,悪い記録を作り上げていました。当時,キリスト教はその史上最も困難な時期に入ろうとしていました。キリスト教は存続できるでしょうか。それは,神の霊的な神殿におられるイエス・キリストから,クリスチャンととなえるすべての人に警告の与えられる,非常に切迫した時だったのです。平和の君であるイエス・キリストに追随すると主張するキリスト教世界は,第一次世界大戦を阻むこともとどめることもできませんでした。それは実際にはキリスト教世界の戦争であり,その戦争に参加した二十八の国々は,四か国を除きすべてがキリスト教世界の成員国でした。真のキリスト教を促進させる力としては,同世界は死んだものであることを証明したのです。事実,第一次世界大戦中,キリスト教世界は,その流血に加わらずに神の王国を宣べ伝えた真のクリスチャンを迫害するものとして自分を明らかにしました。神の王国の代わりに,キリスト教世界は国際連盟を世界の平和と安全のために提唱し,戦後最初の年である1919年,それを制定する票を投じました。

      16 キリストが1918年ご自分の神殿に現われた時,献身したクリスチャンの油そそがれた残りの者たちはどんな状態にありましたか。

      16 献身したクリスチャンの油そそがれた残りの者たちはどうでしたか。1914-1918年の危機的な戦争の間,マタイ 24章7-12節の預言の中でキリストが予告された迫害を経験しました。幾つかの参戦国で,彼らの文書つまり,ものみの塔聖書冊子協会の出版した文書の多く,または全部が禁書にされました。アメリカ合衆国では,ものみの塔協会の会長と会計秘書まで,また本部職員の他の成員たちも,戦争による興奮状態のさなかに投獄されました。世の政治権威に対する恐れが,迫害下にある,霊で油そそがれたクリスチャンの残りの者の公の活動を多分に拘束しました。キリスト教世界は,彼らを異端で非国教主義的宗教グループとして,永遠に沈黙させたものと思い,またそう信じました。しかしその希望と期待はかなえられましたか。

      17 (イ)第一次世界大戦終了時,サルデス会衆に対するイエス・キリストの警告の音信は,神の油そそがれた残りの者にとってたいへん時宜にかなったものでした。なぜですか。(ロ)彼らはどんな行動を取る危険にありましたか。

      17 1918年11月11日の第一次世界大戦終了時,サルデス会衆に対するイエス・キリストの警告の音信は,極めて時宜にかなったものでした。終了したばかりの世界的闘争の期間,油そそがれた残りの者たちによる『行ないは,[キリストの]神の前で十分になされていな』かったのです。真のキリスト教のどんな特徴が彼らのもとに残っていたにせよ,彼らは強められない限り,それは「いまにも死ぬ状態に」ありました。残りの者たちは,地上における自分たちの業は終わったと考えるでしょうか。聖書の理解は極限に達したと考え,閉鎖的な宗派を形成するでしょうか。神の王国をそれ以上宣べ伝えることを一切やめ,排他的となり,やがてその成員は死に絶えてしまうのでしょうか。または,さして重要でもない,単なる小宗派として生きているとの名を持つだけとなり,戦後のその時に開かれようとしていた世界的な王国の業に関しては,実際には霊的に死んだものになろうとしていたのでしょうか。こうした危険が現実に存在していました。したがって,サルデス会衆に対する警告は,その決定的な時期における油そそがれた残りの者にとって,極めて適切なものだったのです。―啓示 3:1,2。

      18 (イ)残りの者が思いにとどめるべき,受けた事柄,聞いた事柄の幾つかを述べなさい。(ロ)彼らは何を悔い改めるべきでしたか。そうしないなら,何が彼らに臨みますか。

      18 彼らは特に,宗教誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」が1879年7月に初めて出版されて以来,自分たちが受けた事柄,聞いた事柄を是非とも思いにとどめる必要がありました。ルカ 21章2節(欽定)でキリストが予告され,また「ものみの塔」誌が強調した「異邦人の時」は,画期的な年であった1914年の初秋に実際に終了しました。その時,天のメシアによる王国における,イエス・キリストの見えない臨在が始まったのです。油そそがれた残りの者たちは,「地上における神の王国の政治的表現」としての,キリスト教世界の国際連盟ではなく,1914年の異邦人の時の終わりに天で樹立されたメシアによる神の王国を宣べ伝える使命を,そうです,それを全世界にふれ告げる使命を神から受けました。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)それは油そそがれた残りの者にとって,数年来の失敗や,死んだような状態に陥る傾向を悔い改め,目覚め,その時取るべきことになっていた行動を起こす,緊急な時だったのです。そうしないなら,統治しておられる王イエス・キリストが,将来のある知らされていない時に到来し,彼らを本当の死に渡されます。―啓示 3:3。

      白い外衣を着て歩く

      19 その当時の油そそがれた残りの者たちの間に,「自分の外衣を汚さなかった少数の名」があったというのはどういうわけですか。

      19 当時の油そそがれた残りの者たちの場合,その全成員が霊的に死んでいたわけではありません。サルデス会衆の場合も同様でした。イエス・キリストはそれを知っておられました。それで彼は,サルデス会衆の「使い」に次のように言っておられるのです。「とはいえ。サルデスのあなたのところには,自分の外衣を汚さなかった少数の名があるにはある。彼らは白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである」。(啓示 3:4)それら「少数の名」つまり人間は,クリスチャンの人格の点で自分を醜い者とはせず,自分たちが公に宣言している,イエス・キリストに見倣う者としてふさわしい生活をしていました。彼らの「外衣」は,外部に対する宣言,宗教的な主張を象徴します。物質主義と偶像礼拝に染まったサルデスの,人を汚す異教のもろもろの影響にもかかわらず,彼らは清く,非の打ちどころのないクリスチャンとしての外見を保ちました。クリスチャンを宣言する「外衣」を汚すことも,よごすこともしませんでした。こうして彼らは,サルデス会衆になんら恥も非難ももたらすことなく,キリスト教を真に実践したのです。

      20 汚れのないその少数の者たちは,「ふさわしい者」であるゆえに,白い外衣を着て自分と歩むであろう,と言われるイエスの約束は何を意味していましたか。

      20 汚れのない生活をしているそれらクリスチャンを慰め,力づけるため,イエス・キリストは,彼らが最後には,「白い外衣を着てわたしとともに歩くであろう。それにふさわしい者だからである」と言われました。これはイエス・キリストが,メシアによる王国の樹立後,墓の眠りから,天における自分と共なる,清く,汚れのない命へと,彼らを復活させられることを意味します。その時彼らは,光り輝く義を着せられ,そして,啓示の幻の中で「足まで届く衣をまとい,胸に黄金の帯を締めて」おられるイエス・キリストの下で奉仕する,従属の祭司としての職を与えられます。(啓示 1:13)これと一致して啓示 6章9-11節は,魂が祭壇の下にあると表わし示されている,殉教したクリスチャンに,『白い衣』が報いとして与えられたと述べています。このふさわしい「少数の名」は,サルデス会衆の他の者,すなわち,異教サルデスの世俗的な要素によって外衣を汚し,それゆえ悔い改め,クリスチャンを宣言する「外衣」を清める必要のある者たちに対する模範でした。第一次大戦後,それと同じことが,戦争を生き残った油そそがれた残りの者についても当てはまりました。

      21 イエスはサルデス会衆の「使い」に対する結びの言葉で,「外衣」の重要性をどのように強調されましたか。

      21 サルデス会衆の「使い」に対する音信の結びにある励ましの言葉は,適切にも,クリスチャンを宣言する「外衣」の重要さを強調しています。この「使い」に向かって,「神の七つの霊と,七つの星を持つ」,栄光に輝くかたはこう言われます。「征服する者はこのようにして白い外衣で身を装うのである。そしてわたしは彼の名を命の書から決して塗り消さず,わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:5,6。

      22 (イ)1世紀および今日における,「征服する者」とはだれですか。(ロ)不完全なクリスチャンはどのように,この世で生活しながら,なおも象徴的な外衣を清く保つことができますか。

      22 1世紀のサルデス会衆の成員,および20世紀の油そそがれた残りの者の成員にとって,「征服する者」とは,主イエス・キリストの追随者を表明する象徴的な外衣を,よごすことも汚すこともしなかった油そそがれたクリスチャンを意味します。その者は,サルデスがかつてその一部であった,この人類の世の中にいようと,イエス・キリストご自身が人間として地上におられた時,この世のものとならなかったように,自分もこの世のものとはなりません。(ヨハネ 15:19; 17:14-16)自分を「世から汚点のない」状態に保ち,世も「世にあるものをも」愛さないことにより,純粋で,汚れないキリスト教を実践します。(ヤコブ 1:27。ヨハネ第一 2:15-17)持って生まれた罪の状態と弱さのゆえに,それと知らずに,あるいは不本意に罪を犯してしまうかもしれませんが,罪を犯したことに気づくと,悔い改め,神のゆるしを請い,「み子イエスの血」を通して罪を清めてもらうのです。(ヨハネ第一 1:7から2:2。啓示 1:5)こうして,自分の外衣を汚さないように保ちます。

      23 (イ)「征服する者」という表現は,他のどんな意味で適用されますか。(ロ)マタイ 10章32,33節のイエスの言葉は,征服することに関するこの面をどのように強調していますか。

      23 「征服する者」という表現はまた,敵の手による残酷な死の危険に面しても,恥じることなくイエス・キリストを自分の贖い主,主また主人として認める,油そそがれたクリスチャンを意味します。キリストを認めていることと調和し,またその証拠として,征服者は,地上の政治・宗教・軍事上の人間の奴隷になることを拒みます。パウロはこう述べています。「自由な人の時に召された者はキリストの奴隷です。あなたがたは代価をもって買われたのです。もう人間の奴隷となってはなりません」。(コリント第一 7:22,23)征服者は,次のイエスの言葉をも真剣に受け取ります。「それゆえ,人の前でわたしとの結びつきを言い表わす者はみな,わたしも天におられるわたしの父の前でその者との結びつきを言い表わします。しかし,人の前でわたしのことを否認する者がだれでも,わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」。(マタイ 10:32,33。マルコ 8:38。ルカ 9:26)征服者は栄光を受けたキリストにより,天の父の前またみ使いたちの前で認められるのですから,それは,彼が地上でキリストを認めることにより征服を遂げるからに違いありません。

      24 (イ)人はどのようにして,自分の名が「命の書」に試験的に書かれるようにしますか。(ロ)その人はどのようにして,自分の名が「命の書」に確かにとどめられるようにしますか。それを達成することは何を意味しますか。

      24 そうした征服者すべては,とこしえに保護されるでしょう。キリストの足跡に従い,狭い門を通って,命に至る狭められた道を歩んできたので,試験的にではありますが,すでに自分の名を「命の書」に書かれています。(マタイ 7:13,14)征服者は,その狭められた道を歩み続け,クリスチャンの信仰と忠実さを通してこの世を征服することにより,自分の名をその「命の書」に確かにとどめてもらうことになります。主イエス・キリストは次の保証を与えておられます。「わたしは彼の名を命の書から決して塗り消さない」。その者の天の相続財産である命は,不滅性ですから,彼は限りなくとこしえに,王イエス・キリストのふさわしい共同者として,「白い外衣を着て」歩くことができます。これは,霊が諸会衆に述べることとして,「耳のある者」が聞くに価する知らせです。

  • フィラデルフィアの使いへ
    『その時,神の秘義は終了する』
    • 第13章

      フィラデルフィアの使いへ

      1 (イ)フィラデルフィア市はどこにありましたか。同市およびそこで信奉されていた宗教に関し,顕著な点を幾つか述べなさい。(ロ)同市のユダヤ人はクリスチャン会衆に対し,「フィラデルフィア」という名にふさわしい行動をしていましたか。

      栄光を受けたイエス・キリストは今度は,サルデスの会衆からフィラデルフィアの会衆に注意を向けます。フィラデルフィアは,サルデスの南東50㌔,また,使徒ヨハネが同市の会衆に対する特別の音信を与えられたパトモス島から約200㌔離れた所にありました。今日,そこはアラセヒル(丘陵から後方部にかけて“赤味がかった都市”)と呼ばれています。その地方には何度か地震があり,ヨハネの時代のフィラデルフィアは,西暦17年の地震後,ローマ皇帝ティベリウス・カエサルが再建した都市で,ローマ硬貨に新カエサレアとして刻まれたこともあります。そこはぶどう酒の生産地にあったため,偽りの神バッカスつまりディオニュソスがその主神となっていました。それは,「エホバに逆らう強力な狩人」,後にタンムズとして崇拝者がそのために泣いたニムロデに相当します。(創世 10:8-10,新。エゼキエル 8:13,14)古代都市フィラデルフィア,つまり「兄弟の愛情」の都市には,クリスチャン会衆の外にユダヤ人が住んでいましたが,記録によると,割礼を受けた生来のユダヤ人は,クリスチャン会衆に対してほとんど兄弟の愛情を示しませんでした。

      2,3 キリスト・イエスはフィラデルフィアの会衆に関しどんな見解を示されましたか。

      2 西暦1世紀の終わり近く,フィラデルフィア会衆に対し,人間の観点からではなく,キリストの観点から,どんな見解が示されたでしょうか。それは,会衆の地的監督に送るよう使徒ヨハネに告げられた音信の中で,次のように述べられています。

      3 「また,フィラデルフィアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。聖なる者,真実なる者,ダビデの鍵を持つ者,開けてだれも閉じぬように,閉じてだれも開けぬようにする者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている ― 見よ,わたしはあなたの前に開かれた戸を置いた。それはだれも閉じることができない ― すなわち,あなたは少しの力があり,わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった。見よ,わたしは,ユダヤ人であると言いながらそうでなく,偽りを語る,サタンの会堂の者たちを与える ― 見よ,わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ,わたしがあなたを愛したことを悟らせる。あなたがわたしの忍耐に関することばを守ったので,わたしもあなたを,地に住む者たちを試すため人の住む地全体に臨もうとしている試みの時から守る。わたしは速やかに来る。自分が持っているものをしっかり守りつづけ,あなたの冠をだれにも取られないようにしなさい。

      4 フィラデルフィア会衆に対する最後の言葉で,キリストは征服する者に何を約束されましたか。

      4 「『征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:7-13。

      5 (イ)キリストがご自分を「聖なる者,真実なる者」と言われることにはどんな意義がありますか。(ロ)神聖さを守り通したことにより,彼はご自分の父からどんな職務を与えられましたか。

      5 この音信を油そそがれたクリスチャンに送る,栄光に輝く天の者は,信頼に値します。そのかたは「聖なる者,真実なる者」だからです。他のユダヤ人が,信仰の欠如のゆえに,その「聖なる」かたイエス・キリストから離れて行こうとした重大な時に,ユダヤ人の使徒ペテロは彼にこう言いました。『わたしたちは,あなたが神の聖なるかたであることを信じかつ知るようになりました』。(ヨハネ 6:69)後日,イエス・キリストが天で栄光を受けた後の迫害の期間,エルサレムのクリスチャン会衆全員は,宣べ伝える特権をさらに願い,エホバ神に祈りをささげましたが,そのとき彼のことを聖なる者として語りました。「また,いやしのためにみ手を伸ばしてくださり,あなたの聖なるしもべイエスの名によってしるしや異兆が起きますように」。(使徒 4:23-30)その神聖さゆえに,彼は神の大祭司つまり,『忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられ……わたしたちの必要にかなった』者とされたのです。―ヘブライ 7:26。

      6,7 (イ)キリストが「ダビデの鍵を持つ者」であるとはどういうことか説明しなさい。(ロ)王の家の鍵を持つ者にはどんな権威が与えられましたか。(ハ)ローマの司教,あるいは地上でキリストを代表すると自称する者のうち,「ダビデの鍵」を所有したり使ったりしたことのある人がいますか。

      6 栄光を受けたイエス・キリストは,聖なる者でありながら同時に,悪魔のように不実かつ偽り者ではあり得ません。それで,彼はフィラデルフィア会衆にご自分を明らかにするさい,自分がだれか,また何かについて真実を語られます。ご自分を「ダビデの鍵を持つ者,開けてだれも閉じぬようにし,閉じてだれも開けぬようにする者」,と言い得る聖書的な根拠は十分にあります。(啓示 3:7)ヨハネへのこの啓示の中でここで初めて出て来るダビデとは,栄光を受けたイエスのことを「ダビデの根」,さらに「ダビデの根また子孫」と述べている聖句に記されている,そのダビデのことです。(啓示 5:5; 22:16)つまり,エホバ神が永遠の王国に関して契約を結ばれたエルサレムの王,昔のダビデのことです。(サムエル後 7:4-29)イエスは,ダビデ王家の処女マリアから人間として生まれることにより,ダビデの王統の子孫となりました。(マタイ 1:1-25。ルカ 1:26-38; 2:1-21; 3:21-31。ローマ 1:1-4)そして,殉教の死に至るまで神に忠実であることにより,イエス・キリストは永遠の王国に関してダビデの永久相続者となりました。それゆえに,ダビデ王が持っていた,またそのダビデが忠実なしもべに託す「鍵」を持っておられるのです。

      7 したがって,イエス・キリストがイザヤ書 22章22節の言葉を引用されたのは当を得たことでした。その個所でエホバ神は,エルサレムの王の信任を得ていたしもべエリアキムに触れ,こう言われました。『我またダビデのいへの鍵をその肩におかん 彼あくればとづるものなく彼とづればあくるものなし』。つまり,鍵を持つこのしもべは,ダビデ王の家に対して大いなる権限と権威の備わった重大な責任を担っていたのです。王は彼に開ける権威と閉じる権威を与えました。ここで注意すべき点は,この啓示がヨハネに与えられた時,栄光を受けたイエス・キリストは,「ダビデの鍵」が,マタイ 16章18,19節の言葉の語られた,使徒シモン・ペテロの使徒職継承者としての,異教都市ローマの司教のだれかの手中にあるとは言われなかったことです。開けまたしっかりと閉じる「鍵」によって象徴される権威を備えた「ダビデの鍵」の所有者は,地上でキリストを代表すると自称する者たちではなく,天のイエス・キリストご自身なのです。

      8 (イ)フィラデルフィア会衆の前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのはだれですか。(ロ)1919年,だれが忠実な残りの者の前に「開かれた戸」を置きましたか。ローマの教皇はそれに関してどんなむなしい試みをしましたか。

      8 フィラデルフィア会衆の前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのは,使徒のシモン・ペテロでも,異教ローマのいわゆる,ペテロの使徒継承者でも,または使徒ヨハネでさえもありません。それは,「ダビデの根また子孫」である,栄光を受けたイエス・キリストであり,彼はフィラデルフィア会衆の監督に次のように語られました。「わたしはあなたの行ないを知っている ― 見よ,わたしはあなたの前に開かれた戸を置いた。それはだれも閉じることができない ― すなわち,あなたには少しの力があり,わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった」。(啓示 3:8)同様に,戦後の1919年,油そそがれたクリスチャンの忠実な残りの者たちの前に,『だれも閉じることのできない開かれた戸』を置いたのは,ローマの教皇ベネディクトゥス十五世(西暦1914-1922年)などではありません。事実,ローマとバチカン市の教皇は,その「開かれた戸」を閉じることができないでいます。なぜなら,その象徴的な「戸」は実際には,教皇や,他の単なる人間によってではなく,主イエス・キリストによって開かれたからです。

      9 (イ)その「開かれた戸」は,フィラデルフィア会衆をどんな特権と機会に招き入れましたか。(ロ)『あなたには少しの力がある』というキリストの言葉は,どんな意味を持っていましたか。

      9 1世紀当時,その「開かれた戸」がフィラデルフィア会衆をどんな特権と機会に招き入れたかは,今日正確には分かりません。しかし,それが象徴的な黄金の燭台としてのさらに多くのクリスチャン活動へ通ずるものであったことは明らかです。なぜなら,栄光を受けたイエス・キリストは,「戸」について話すに先立ち,会衆の監督に,「わたしはあなたの行ないを知っている」と言っておられるからです。彼は,会衆が「開かれた戸」を通り,新しく開かれた特権と機会を捕らえることができるのを知っておられました。なぜなら,フィラデルフィア会衆に語られたように,「あなたには少しの力」があるからです。政治的な力ですか。いいえ。恐らくそれは,フィラデルフィアの人びとに対する影響力のことでしょう。そして間違いなく,忠実なクリスチャンとしてすでに耐え忍んできたことに加え,なおも前進し続けようとするクリスチャンの献身と勇気また能力という力を指しているものと思われます。

      10 終戦直後の1919年当時,この世に対する政治的な力に関し,忠実な油そそがれた残りの者はどんな立場にありましたか。

      10 第一次世界大戦の終了した1918年,そして戦後の始まった1919年当時,イエス・キリストに追随する,油そそがれた忠実な残りの者は,政治的な力も,政治家,判事,軍人またキリスト教世界の僧職者との“手づる”もありませんでした。国際的な流血行為に直接加わる代わりに,キリストによる神の王国を宣べ伝えようと誠実な努力をするために迫害される,宗教的少数団体でした。「事物の体制の終結」に関するイエス・キリストの預言どおり,彼らはまさしく,「わたしの名のゆえにあらゆる国民の憎しみの的」とされました。(マタイ 24:3,9)ものみの塔聖書冊子協会により出版された彼らの聖書文書は,いろいろな国で全部またはその一部が禁書にされ,彼らの多くは,軍の収容所や強制収容所また刑務所に拘禁されました。ものみの塔協会の会長,会計秘書それに他の六人の著名な代表者は,後に法廷で破棄されることになった,戦時の偽りの告訴に基づき,アメリカ,ジョージア州アトランタの連邦刑務所に,1919年3月25日に至るまで拘禁されました。

      11 フィラデルフィア会衆の持っていた「少しの力」とは何ですか。彼らはどのようにそれを使いましたか。

      11 古代フィラデルフィアの会衆とその「使い」が,「開かれた戸」を与えられた時に持っていた「少しの力」とは,イエス・キリストの次の言葉どおりに行動する力だったのです。あなたは「わたしのことばを守って,わたしの名に不実な者とはならなかった」。彼らは,キリストの言葉,またキリストによって与えられた教えと命令を守り,それに付き従いました。クリスチャンであることを,言葉によっても,生き方によっても否定しなかったのです。クリスチャンが話し,考え,行ない,また宣べ伝えるべき方法に反する行動を取って,キリストの名に不実な者とはなりませんでした。したがって,今や「開かれた戸」を通って入った後においても,彼らはそうした態度を保ち続けるものと期待されました。

      「開かれた戸」

      12 油そそがれた残りの者たちは,第一次世界大戦後の時期が始まったとき「少しの力」を持っていましたが,それは大戦の期間中およびその直後に彼らが何をしたためですか。

      12 第一次世界大戦の迫害と困難な状況を生き残った,試練を受け試された,油そそがれたクリスチャンの残りの者に関しても同様なことが言えます。本になった「終了した秘義」(英文)とその雑誌版(1918年3月1日特別号の「ものみの塔」),および「聖書研究者月刊」として知られていた一連の小冊子の配布は,1918年3月以降中断されていましたが,油そそがれた残りの者たちは,月二回刊行される彼らの公式雑誌「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」を,一号も欠かさずに出版し続けました。1919年4月13日,日曜日の夜,彼らは主イエス・キリストの命令に従い,全人類に対する贖いの犠牲としての彼の死を記念して主の夕食を祝いました。彼らは,理解できる範囲においてキリストの言葉を守ろうと努めたのです。自分たちのことを人間の指導者に追随する一宗派であるとする敵の非難を否定はしても,キリストの名を否定したり,キリストを否認したり,その名に故意に不実な者となったりしたことは一度もありません。彼らは,天の王国においてキリストと早く結ばれたいという希望をしっかり抱き続けました。その結果,戦後の時期が始まったとき,「少しの力」を持っていたのです。

      13 (イ)第一次世界大戦後,「開かれた戸」は特にどんな事件とともに,油そそがれた残りの者の前に置かれましたか。(ロ)残りの者は開かれたその機会に関して何をしましたか。

      13 「開かれた戸」は1919年,「ダビデの鍵」を持つ,栄光を受けたイエス・キリストにより,油そそがれた残りの者たちの前に確かに置かれました。この開くことは,特に,ニューヨーク,ブルックリンにおける,1919年3月26日,水曜日の意義深い出来事つまり,ものみの塔協会の会長,会計秘書および他の六人の特別な代表者たちの連邦収容所からの保釈とともに生じました。a 戦後の期間に対する特権と機会が,油そそがれた残りの者たちすべてに開かれたのです。そして,その特権と機会はすでに半世紀の間(本書〔英文〕の出版された1969年に至るまで)存続し,しかも拡大しています。1919年に持っていた「少しの力」を用いて,油そそがれた残りの者たちは前途の業が続く限りそれに備えようと,エホバの献身した民を直ちに再組織する仕事に取り掛かりました。

      14,15 (イ)使徒パウロのために,また西暦1919年には,油そそがれた残りの者たちのために同じように「戸」が開かれました。このことに関してだれに誉れが帰せられるべきですか。(ロ)その「戸」が「だれも閉じることができない」ものであることはどのように証明されましたか。

      14 使徒パウロは,自分のために開かれた「戸」に関し,ギリシャのコリントにいたクリスチャンに(西暦55年ごろ)次のように書き送りました。『活動に通ずる大きな戸口がわたしのために開かれています。しかし,反対者も多くいます』。(コリント第一 16:9)後日,彼らにこうも記しました。「主にあってわたしのために戸が開かれた時,わたしは……霊に安らぎを得られず……マケドニアに向かいました」。(コリント第二 2:12,13)使徒パウロのためにの戸を開いたのは,「ダビデの鍵を持つ」主イエス・キリストです。同じく,1919年の春,霊的イスラエル人の油そそがれた残りの者たちのために活動へ通ずる戸を開いたのは,地上の人間のだれでもなく,主イエス・キリストご自身です。その「戸」は,1919年当時多くの反対者がいたものの,『だれも閉じることのできない』戸であることがめいりょうになりました。ロシア共産主義,イタリアのファシズム,教皇の指導するカトリック信徒運動,ドイツのナチズム,そのいずれもこの戸を閉じることはできませんでした。第二次世界大戦中の軍国主義といえども,この戸を閉じることはできなかったのです。第二次世界大戦のぼっ発した1939年,全世界で7万1,509人のエホバの証人が活動を報告していましたが,戦争の終わった1945年には,14万1,606人が野外における証言活動を報告していました。

      15 今日,油そそがれた残りの者たちと積極的に交わる人が多くいるため,世界各地で王国の良いたよりを定期的に宣べ伝えているエホバの証人の数は飛躍的に増加しており,1975年の初めには200万人を優に超えることになりました。これは疑いなく,「ダビデの鍵」の所有者が古代フィラデルフィアの会衆に与えた約束の成就に関係があります。「見よ,わたしは,ユダヤ人であると言いながらそうではなく,偽りを語る,サタンの会堂の者たちを与える ― 見よ,わたしは彼らを来させてあなたの足もとに敬意をささげさせ,わたしがあなたを愛したことを悟らせる」― 啓示 3:9。

      「サタンの会堂」

      16 フィラデルフィアにいた不信者のユダヤ人は,自分たちが「サタンの会堂の者」であることをどのように証明しましたか。

      16 古代フィラデルフィア会衆およびその「使い」つまり監督と,当時の,割礼を受けた生来のユダヤ人との間には,明らかに接触がありました。ユダヤ人たちは,フィラデルフィア会衆の中にいる,キリストの十二使徒のように生まれはユダヤ人でありながら,クリスチャン信者となり,それゆえに霊的ユダヤ人つまり霊的イスラエル人となった者を,自分たちの方に引き戻そうとしたのかもしれません。あるいは,それらユダヤ人のクリスチャン信者が,肉の割礼や週ごとの安息日などといった,昔のモーセの律法にある特定の事柄を守り続けるか,または再び行なうよう説得しようとしたのかもしれません。いずれにせよ,そのようなユダヤ人の不信者は,フィラデルフィア会衆に反対し,それを腐敗させようとしました。彼らは,アブラハム,イサクまたヤコブ,そしてモーセの神の会堂の者であると主張しましたが,霊的イスラエル人の会衆に敵対する努力をしていたため,「サタンの会堂の者」であることを自ら証明することになりました。生来の,肉的な意味ではユダヤ人でしたが,霊的な意味でのユダヤ人ではなく,したがって,キリストの使徒のように,真のユダヤ人であると呼ばれるに値しなかったのです。彼らは自分ではユダヤ人であると言いましたが,主イエス・キリストは,『そうではない,彼らは偽りを語る』と言われました。キリストは当然,彼らの実体を知っておられるはずです。

      17 (イ)イエスがフィラデルフィア会衆に対して述べた言葉は,今日,慎重に行動するよう生来のユダヤ人を警告するものとなっています。どのようにですか。(ロ)しかし,今日自分が「サタンの会堂の者」であることを示している主要な者たちはだれですか。

      17 主イエス・キリストがどのように,それら偽りを語る自称ユダヤ人を来させ,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげさせたか,この点の消息を伝える歴史の記録はありません。1969年の「世界暦」(英文,224ページ)によると,世界には1,353万7,000人のユダヤ人がいます。「ダビデの鍵」を持つ,栄光を受けたイエス・キリストがフィラデルフィア会衆に言われたことと照らし,そうした生来のユダヤ人は,霊的ユダヤ人つまりイスラエル人の油そそがれたクリスチャンの残りの者に対しどんな態度を取るか,慎重に考慮すべきです。しかし,油そそがれた残りの者の面する主要な困難は,霊的ユダヤ人つまり「内面のユダヤ人」であると自称する,キリスト教世界の者たちからもたらされます。(ローマ 2:28,29)油そそがれた残りの者に反対し,彼らを迫害しているのは,主に,霊的ユダヤ人であると主張しているそうした宗教家,特にその僧職者たちなのです。それら宗教上の反対者は次のように論じ,かつ言い触らします。油そそがれた残りの者たちは,割礼を施された心を持つ霊的ユダヤ人ではない。いや,自分たちこそ,至高の神の会堂の本物の霊的ユダヤ人である,と。しかしその行動は,彼らが偽り者で,「サタンの会堂の者」であることを示しています。

      18 真の,「内面のユダヤ人」はだれかという問いに関し,キリスト教世界の宗教家たちは何を見,何をすることを余儀なくされていますか。

      18 真のユダヤ人,霊的な意味での「内面のユダヤ人」であるということに関し,現代20世紀の歴史の事実は,キリスト教世界の宗教家たちを不利な立場に立たせます。彼らは,真のクリスチャン,真の霊的ユダヤ人であるということに関する限り,エホバの崇拝者である油そそがれた残りの者たちこそ,狂暴な反対,迫害,独裁主義,軍国主義,国家主義的政策,物質主義,はなはだしい無法状態に面しながら,真のクリスチャンの忠誠を守ってきた者であることを見てきましたし,またそう認めざるを得ない立場にあります。油そそがれた者たちに敬意を示してもらう代わりに。自分たちがエホバの証人の油そそがれた残りの者を認め,身をかがめねばならなかったのです。もちろん不承不承にではありますが,事実を前にしては,それを回避することはできませんでした。エホバの記されたみことばにおののく油そそがれた残りの者については,イザヤ書 66章5節に予告された預言のとおりになりました。

      19,20 (イ)フィラデルフィア会衆に対するキリストの預言とイザヤ書 66章5節を考え合わせると,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげた者たちはどんな祝福を受けましたか。(ロ)同様に,油そそがれた残りの者に関し,西暦1919年以来どんな事態が起きていますか。

      19 『なんぢらエホバの言をおそれおのゝく者よエホバの言をきけ なんぢらの兄弟なんぢらを憎みなんぢらをわが名のために逐出していふ 願くはエホバその栄光をあらはして我等になんぢらの歓喜を見せしめよと 然どかれらは恥をうけん』。―イザヤ 60:14もごらんください。

      20 こうして来て,フィラデルフィア会衆の足もとに敬意をささげ,イエス・キリストがこの会衆を愛しておられることを知るなら,彼らは何に導かれますか。もしそうした人のある者たちが,クリスチャンとなって会衆の成員になるなら,フィラデルフィア会衆の成員の数が増加することになります。そうした事態は,西暦1919年以来,霊的イスラエル人つまりユダヤ人の油そそがれた残りの者たちに関し,確かに生じています。付け加えられた大多数の成員は,キリスト教世界の様々な宗派から出て来ているからです。

      21 (イ)それら霊的兄弟たちの外に,だれが残りの者に加わって神を崇拝しますか。(ロ)それらの者たちが残りの者の前で『敬意をささげる』ということは,それにより彼らがエホバ神にのみささげられるべき崇拝からそれるという意味ですか。

      21 さらに,画期的な年であった西暦1935年以降,百万以上の人びとが,大いなるバビロンつまり,偽りのバビロン的宗教の世界帝国から出て来ました。そして,油そそがれた残りの者の隊列に加わり,エホバ神を唯一の生けるまことの神として崇拝し,そのみ名とメシアによる王国とを広く告げ知らせています。これは,栄光を受けたイエス・キリストが忠実な油そそがれた残りの者を愛しておられる,否認することのできない証拠であり,1935年以来加えられている百万人以上の仲間の崇拝者は,そのことを知っています。彼らは,油そそがれた残りの者が神の業において示している指導の能力を認め,敬意をささげます。しかしそれは,エホバ神にのみささげられるべき崇拝からそれる,ということではありません。

      「試みの時」

      22 油そそがれた残りの者たちは,第一次世界大戦以後どのように耐え忍ぶことができましたか。

      22 油そそがれた残りの者たちは,1918年11月11日の第一次世界大戦終了後に始まった苦難の時にもかかわらず,すでに半世紀以上ものあいだ忍耐を示してきています。悪化する世界状勢や世界の出来事は,クリスチャンの信仰と忠誠を厳しく試みており,その結果,偽善的なクリスチャンと真のクリスチャンの相違は判然としてきています。しかしそうした事態も,残りの者を犠牲にすることはできません。彼らが耐え忍んだことは明白です。といっても,それは自分の力によってではなく,上からの助けによってです。これは,主イエス・キリストがフィラデルフィア会衆の「使い」に語った次の言葉の成就でした。「あなたがわたしの忍耐に関することばを守ったので,わたしもあなたを,地に住む者たちを試すため人の住む地全体に臨もうとしている試みの時から守る」― 啓示 3:10。

      23 (イ)1918年以後の試みにはどんな事柄が含まれていますか。その目的は何ですか。(ロ)キリストは残りの者を「試みの時」から守ってこられましたが。それは彼らが特にどの命令に従ったからですか。

      23 1918年の第一次世界大戦終了以来,油そそがれた残りの者をも含め,地に住むすべての人がこの試みを受けています。人間および目に見えない悪霊に源を発する圧力は,物質主義,信仰の欠如,反抗,革命,国家主義の方向へすさまじい勢いでのしかかっています。その試みは,人が,悪魔サタンの,目に見えない支配下にあるこの事物の体制の者か,あるいは,神のメシアによる王国を支持し,その関心事を求める者かを,神の前で決定するものとなってきました。人を世の圧力と魅力に屈服させ,この事物の体制の一部にならせようとする強い誘惑が存在しているのです。しかし20世紀における50年余の歴史は,油そそがれた残りの者たちがこの試みに耐えてきたことを証明しています。1919年,キリスト教世界が,世界の平和と安全のために政治的な国際連盟を唱道し支持する方向を打ち出した時,油そそがれた残りの者たちは,キリストによる神の王国の側に公の立場を取ることを再確認しました。イエスがマタイ 24章14節で予告されたとおり,彼らは,かつてない勢いで神の王国を宣べ伝え始めました。それゆえに,イエスは「試みの時」から彼らを守ってこられたのです。

      24 忠実な油そそがれた残りの者たちは,現在まで耐え忍んできたとはいえ,啓示 3章11節のキリストの警告に注意を払う必要があります。なぜですか。

      24 しかし,『一時』のような比較的短い期間におけるこの世界的な試みは,まだ終了したわけではなく,忠実な油そそがれた残りの者は,決して自己過信に陥ったりはしません。試みの続く中で,今までのところ,霊的な災難の犠牲になったことはありませんが,試みの最高潮はこれからなのです。その時には,栄光を受けたイエス・キリストは最終的な検分のために到来し,油そそがれた残りの者が最後まで耐え忍んだかどうかをごらんになります。ですから,彼らはフィラデルフィア会衆の「使い」に与えられた警告に注意を払う必要があります。「わたしは速やかに来る。自分が持っているものをしっかり守りつづけ,あなたの冠をだれにも取られないようにしなさい」― 啓示 3:11。

      25 (イ)油そそがれた残りの者たちは,「わたし[キリスト]の忍耐に関することば」をどのように守ってきましたか。(ロ)油そそがれた残りの者は,どのようにして「自分が持っているものをしっかり守りつづけ」ねばなりませんか。

      25 油そそがれた残りの者は,「わたし[キリスト]の忍耐に関することば」を持っています。それを守り行ない,それが述べる忍耐,すなわち,キリストが地上にいた時に神への従順の試みの下で示された忍耐の模範に倣おうとすることにより,その言葉を守ってきました。彼の名に不実な者とならず,国家主義や,国家唯一の指導者として総統<フューラー>,首領<デューチェ>を自任する全体主義的独裁者の存在にもかかわらず,キリストを自分たちの指導者,また,神に油そそがれた王である,と言い表わしてきました。彼らは,「ダビデの鍵」を持つキリストによって自分たちの前に置かれた,「開かれた戸」を通って入ったのです。そしてこの「戸」によって開かれた,神のメシアによる王国を支持するクリスチャン活動を,この世のあらゆる反対や迫害にもかかわらず,決して断念しようとはしませんでした。しかし,キリストの到来が今や間近とはいえ,その時までなおこの王国の奉仕を固く守り続けねばなりません。彼らは,クリスチャンの忍耐と奉仕に関する良い記録を神に対して持っており,キリストと共に天で支配するという正当な希望を抱いています。こうした事柄を彼らはしっかり守る必要があるのです。そうすれば,他のだれにも冠を取られることはありません。

      26,27 (イ)油そそがれたクリスチャンのある者が地上の試みに失敗するなら何が起こりますか。(ロ)王国相続者が天の冠に対する資格を確かなものにするよう,キリストはどんな励ましを与えますか。

      26 キリストと共になる天の王国において,王冠の数は限られており,14万4,000の王冠があるのみです。天の冠の各は,最後には,忠実なふさわしいクリスチャンが着けることになります。天の冠に対する希望を神から与えられた,油そそがれ,霊によって生み出されたクリスチャンが,地上の試みに失敗し,約束の冠に値しない者となり,その結果,他の人が王国に召され,終わりまで忠実を実証するその者に冠が取って置かれねばならないというような事態になるなら,最初の人は失望を味わうことでしょう。それで,王国相続者が自分の持っているものを固く守り,天の冠に対する資格を確かなものにするよう励ますため,イエス・キリストは神の霊により次の音信を全会衆に送ります。

      27 「征服する者 ― わたしはその者をわたしの神の神殿の中の柱とし,彼はもはやそこから決して出ないであろう。そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:12,13。

      28 (イ)キリストはこの音信の中で,「わたしの神」という表現を四回使っておられますが,それはどんな意義がありますか。(ロ)神殿が神のものであるのに,キリストはなぜご自分が「わたしの神の神殿の中の柱」の各を立てると言い得るのですか。

      28 「征服する者」に対するこの音信の中で,主イエス・キリストが「わたしの神」という表現を四回使っている点に注目してください。彼はご自分が,三「者」の各が同等かつ永遠に共存する三位一体の「第二位の者」であると主張したのではなく,天の父を,ご自分の崇拝し,仕え,従う神であること,また,霊的「神殿」がご自分の神のものであることを認めたのです。彼は,その霊的神殿に霊により住まわれるその所有者たる神により,「土台の隅石」として据えられたかたです。(エフェソス 2:20-22)しかしイエス・キリストは,神によりその霊的神殿の共同建築者として用いられるので,ご自分が「わたしの神の神殿の中の柱」の各を立てる,ということができるのです。

      神の神殿における永久的立場

      29 征服を遂げるクリスチャンが神の神殿の中の柱とされることは何を意味しますか。

      29 征服者となるクリスチャンがその神殿で柱とされることは,当人がその霊的建造物の中で固定した立場を与えられることを意味しています。代理の建築者イエス・キリストが,そうした霊的な柱に関し,「彼はもはやそこから決して出ないであろう」と断言されたのはそのためです。昔のフィラデルフィアの地域を揺るがす地震のようなものは何も,神の神殿のその者の立場から霊的な柱を取り除くことはできません。彼はあらゆる出来事や状況の中にあってとこしえに,神の真理および,全宇宙における唯一の生けるまことの神の崇拝を擁護する柱として奉仕するという,祝福された特権を享受するのです。(テモテ第一 3:15,16。ペテロ第一 2:4-6)これは征服者たちにとって,なんと高貴な奉仕,神とのなんと貴重な親密さを意味するのでしょう。

      30 (イ)イエスは地上におられた時,ご自分の父の名の正確な発音をご存じでした。どうしてそれが分かりますか。(ロ)征服を遂げるクリスチャンの体のどこに,イエスは「エホバ」という名を記されますか。それは何を意味しますか。

      30 征服者に対するこの約束の中でイエス・キリストは,ご自分の神が固有の名を持っておられることを証ししています。神のみ子は,イエスという,固有の名を持っておられ,それに「キリスト」という称号が付されています。同様に,神もご自身の名を持っておられます。イエスはご自分の神のみ名を知っており,「征服する」ご自分の追随者おのおのの上にその名を記されるのです。イエス・キリストは地上におられた時,霊感を受けたヘブライ語聖書を読み,その中に神のみ名が幾千回も出てくることを知っておられました。そこには神のみ名が,JHVHまたはYHWHに相当する,ヘブライ語のアルファベットの四文字でつづられています。イエス・キリストはその名の正確な発音をご存じでした。今日それはエホバ,最近ではヤハウェと発音されています。主イエス・キリストはこの名を,征服を遂げるクリスチャンおのおのの上に記すと約束しておられます。疑いなく,見る人すべてがはっきり目にすることのできる,額に相当する部分にそれを記されるのでしょう。古代の聖書時代,人びとは,額に主人の名の焼印を押された奴隷を見ると,それにより,当の奴隷が記された名の主人に属する者であることを知りました。同様に,イエス・キリストが征服者に記す「わたしの神の名」も,その征服者がイエスの神であるエホバに属することを印するものとなります。

      31 (イ)主イエス・キリストは,他のどんな誉れある名を征服者の上に記されますか。(ロ)その名にはどんな意義がありますか。その名はどれほど重要ですか。

      31 征服者は,恥ずべき必要のない,別の誉れある名をもしるしとして受けます。主イエスはこう付け加えておられるからです。「わたしは……わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名……をその者の上に書く」。昔の地上のエルサレムが,イスラエル連合王国の政府所在地また首都であったのと同じく,「天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレム」は,天と地における神の全創造物の首都,また首都組織となります。啓示の幻の中で使徒ヨハネは後に,この象徴的な都市である新しいエルサレムが,全人類を完全な政府をもって支配し祝福するため,天から,神のもとから下って来るのを見ました。(啓示 21:2-4)エルサレムという名それ自体は,「平和の所有」を意味します。征服を遂げるクリスチャンが,「ダビデの鍵」を持つかたにより,新しいエルサレムの名をしるしとして付けられる時,その者はその象徴的な都市に属す者,その一部,その市民となるのです。フィリピ 3章20節によると,その「市民権は天にあり」ます。彼は神の首都組織の成員なのです。それはなんと高貴な職ではありませんか。―詩篇 87篇5,6節と比較してください。

      32 イエスが「征服する者」の上に書かれる「わたしの新しい名」とは何ですか。この「新しい名」はついにはだれの知るところとなりますか。

      32 神の首都組織の中で最も重要なかたは,み子イエス・キリストです。であれば,み子が,「征服する者」に対するご自分の約束に,次の結びの言葉を付け加えられるのは極めて適切なことといえます。「わたしは……わたしの新しい名をその者の上に書く」。(啓示 3:12)後に,啓示 14章1-3節で,14万4,000人の征服者たちは,子羊イエス・キリストと共に天のシオンの山に立ち,「彼の名と彼の父の名をその額に書かれて」いると示されています。しかしその個所では,彼らの上に彼の新しい名が書かれているとは述べられていません。彼の「新しい名」が何かは,「彼には記された名があるが,彼自身のほかはだれもそれを知らない」と書かれている,啓示 19章12節においてさえ啓示されていません。それは,征服を遂げるクリスチャンに与えられる「白い小石」の上の名のように,他の被造物に対しては秘されているのです。「その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれている」,とあるとおりです。(啓示 2:17)キリストの天における「新しい名」は,彼が14万4,000人の弟子たちの上にそれを書く時,いうまでもなく,彼らの知るところとなります。

      33 (イ)イエス・キリストの「新しい名」の創始者また与え主はだれですか。(ロ)キリストの「新しい名」を書かれることは,14万4,000人にとって何を意味しますか。(ハ)彼らは征服者となるがゆえに,どんな三重の方法で報われますか。

      33 当然,神エホバは,キリストの天的な「新しい名」をご存じです。それを彼に与えたのは神だからです。イエス・キリストは定めの時に,この「新しい名」を14万4,000人の共同相続者の上にいわば書くことにより,彼らとそれを分け合います。その「新しい名」を自分の上に書かれることは,彼の共同者とみなされ,神との新しい天的関係におけるイエス・キリストに属する者である,という意味です。天と地の他のいかなる被造物も,イエス・キリストが神エホバと持たれる極めて個人的かつ親密なこの新しい関係を分け合う特権にはあずかりません。このように名を記される14万4,000人のクリスチャン征服者は,天的な父である神の名,み子イエス・キリストの名,天の都である新しいエルサレムの名を帯びます。このようにして彼らは,霊が諸会衆に述べたことに注意を払う征服者となった報いとして,三重の仕方で,この上ない誉れを与えられるのです。

      [脚注]

      a 1919年4月15日号の「ものみの塔」誌(英文),118ページ,2節,さらに「光」と題する本(英文)の第一巻,249ページ,2節をごらんください。

  • ラオデキアの使いへ
    『その時,神の秘義は終了する』
    • 第14章

      ラオデキアの使いへ

      1 ラオデキア市はいつ創建されましたか。その名は何に由来していますか。

      ラオデキア市は,セレウコス・ニカトル将軍の孫で,セオスつまり「神」と呼ばれるようになった,セレウコス王朝の支配者アンティオコス二世の妻の名を取って命名されました。彼は西暦前3世紀に同市を創建し,その名をラオデキアと呼びました。a

      2 (イ)ラオデキアはどこに位置していましたか。そこは何で有名でしたか。(ロ)いつごろからラオデキアには会衆がありましたか。

      2 ラオデキア市は小アジアの西方に位置しており,地の利を得ていたので,富んでいました。製造都市,また金融の中心地でもあり,同市で金融業に携わる人びとは,全ローマ帝国と取り引きをしていました。医術の神アスクレピオスの崇拝でも有名で,それにふさわしく医術の学校があり,さらに,フリギア粉として知られる有名な目薬の製造が行なわれていました。しかし同市には永久的な水の供給源がなく,かなり遠くにある温泉から管で水を送らねばならず,そのため市の境界に届くころには,水は生ぬるくなっていたことと思われます。ラオデキアは道路によって,「アジア地区にある七つの会衆」の二つの所在地であるエフェソスとペルガモンに通じていました。(啓示 1:4,11,20; 2:1,12)使徒パウロがコロサイのクリスチャンに手紙を書き送った西暦60-61年ごろには,ラオデキアに会衆が存在していました。―コロサイ 2:1; 4:13-16。

      3-5 (イ)ラオデキアの会衆はその存在中に使徒の手紙を受け取ったことがありますか。(ロ)ラオデキアの「使い」に対するキリストの音信は,ラオデキア会衆の状態について何を明らかにしていますか。

      3 創設以来数十年を経る間に,物質的に繁栄していたラオデキア市の会衆は,霊的にはなはだしい衰退を経験しました。使徒ヨハネがその会衆の「使い」つまり監督に送るよう指示された手紙は,「ラオデキアの人たちの会衆」が使徒パウロから受け取った手紙とは,大変異なったものであったに違いありません。(コロサイ 4:16)西暦96年ごろに「アジア地区にある七つの会衆」に口述筆記された手紙の七番目にあたる,この最後の手紙には,ラオデキアの「使い」をほめることばは少しも見当たりません。使徒ヨハネは次のように告げられました。

      4 「また,ラオデキアにある会衆の使いにこう書き送りなさい。アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う。『わたしはあなたの行ないを知っている。あなたは冷たくも熱くもない。わたしは,あなたが冷たいか熱いかのどちらかであってくれればと思う。このように,あなたがなまぬるく,熱くも冷たくもないので,わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは,「わたしは富んでおり,富を作ったのだから,何一つ必要なものはない」と言いながら,自分が惨めで,衰れで,貧しく,盲目で,裸であることを知らない。だから,わたしはあなたが,富んだ者となるために火で精錬された金を,また,身にまとってあなたの裸の恥が現われないようにするために白い外衣を,そして見えるようになるため自分の目に塗る目薬をわたしから買うように勧める。

      5 「『すべてわたしが愛情をいだく者を,わたしは戒め,また懲らしめる。それゆえ,熱心になり,そして悔い改めなさい。見よ,わたしは戸口に立ってたたいている。わたしの声を聞いて戸を開けるなら,わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう。征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである。耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい』」― 啓示 3:14-22。

      6 (イ)スミルナの会衆と比較して,ラオデキア会衆は物質的にどんな状態にありましたか。(ロ)ラオデキア会衆は何を必要としていましたか。

      6 物質的には貧しくても,霊的に富んでいたスミルナ(北西約180㌔)の会衆とは極めて対照的に,ラオデキア会衆は物質的には富んでいたものの,霊的には貧しい状態にありました。ラオデキアの金融業者の扱う文字どおりの金,土地の衣服商の製造する光沢のある黒い羊毛の衣,土地の医者が作る肉眼のための錠剤また粉薬,近くにあるヒエラポリスの温泉から出る薬効のある熱湯,といったものの代わりに,ラオデキア会衆はそれらに類したものを霊的な意味で必要としていたのです。人格を富ませる真のクリスチャンの金,非の打ちどころのないクリスチャンとしての外見を与える白い外衣,つまり,裸のように恥ずべき点,クリスチャンとして不適当な点の全くない外衣を必要としていました。また,聖書の真理とクリスチャンの責任に対する盲目状態を取り去るため,霊的な目薬を塗ってもらう必要がありました。会衆はそうしたものを,戸をたたいておられるかたを暖かく迎え入れてもてなすなら,そのかたから買うことができるのです。会衆は,快い刺激を与えるように熱いか,気分をさわやかにさせるように冷たいかのどちらかであるべきであり,生ぬるい状態にとどまっていてはなりませんでした。

      7 (イ)第一次世界大戦後,キリスト教世界は物質的にどんな状態にありましたか。(ロ)キリストに属しているとの主張ゆえに,キリスト教世界はどんな問いに直面しましたか。

      7 戦後の西暦1919年における,キリストの会衆の油そそがれた残りの者たちの場合も同様でした。当時,献身し,バプテスマを受けたクリスチャンの油そそがれた残りの者たちと,分派主義的キリスト教世界の単なる自称クリスチャンとが,真のキリスト教に関係ある事柄を正しく評価することは緊急に必要でした。四年以上に及んだ第一次世界大戦にもかかわらず,キリスト教世界は物質的に依然富んでおり,戦後も引き続き金銭,土地,財産,政治権力の面で富を増やそうとしていました。しかし,真のクリスチャンの霊的な富に関して富んでいたでしょうか。今度はそうした富を求めるでしょうか。キリスト教世界は,血なまぐさい第一次世界大戦に対して責任を負っており,それを支持することにより宗教上の外見を著しく汚していました。使徒的な聖書の教え,規準また原則に合うよう,宗教上の外見を清めるでしょうか。この世的なやり方を悔い改めるでしょうか。人間の作り出した伝統と聖書の真理との相違が見えるよう,また,今成就している聖書預言とその意味,そして神がクリスチャンに地上で何をすることを望んでおられるかが分かるよう,霊的な「目薬」を塗ってもらおうとするでしょうか。

      8 (イ)真の油そそがれた残りの者たちは,この時どんな立場にありましたか。(ロ)彼らは何を望み,何を必要としていましたか。

      8 キリスト教世界から離れており,別の存在であるとはいえ,油そそがれた残りの者も,この「終わりの時」における同じ問題に直面しなければなりませんでした。(ダニエル 12:1-4,新)第一次世界大戦当時の迫害や試練また危険な事態のために生じたかもしれない霊的な生ぬるさを,彼らは即刻取り除かねばなりません。キリストは,キリスト教世界を我慢できないものとして,口から吐き出されるかもしれません。が,それはそれとして,油そそがれた残りの者たち自身は,神のご意志と業,また,この「終わりの時」に神が啓示される真理に対して生ぬるくなり,それゆえにキリストから吐き出されることがないようにと望みました。彼らは,第一次世界大戦によってひどく傷めつけられた現在の事物の体制の再建に世界が取り掛かったさい,時を同じくして始まった物質主義的な時代に,決して屈するようなことはありませんでした。油そそがれた残りの者の成員がその時までに持っていたかもしれない,いくばくかの物質的な富は,立派なクリスチャンに必要とされるすべてであるかのように頼みとすべきものではありません。彼らは霊的に貧しかったでしょうか。キリストの忠告を聞き入れ,彼から真の富すなわち,前途の火のような厳しい時にも耐え得る「火で精錬された」,クリスチャンの「金」を買うことを必要としていたでしょうか。そうするのは安全なことでした。

      9 (イ)その時キリストの霊的兄弟たちは,どのように「裸の恥」を幾らか現わしていましたか。(ロ)彼らはどのような方法で白い外衣を「買う」べきでしたか。

      9 さらに,クリスチャンの主張と実体に関する,残りの者の外面の衣はどうでしたか。それは第一次世界大戦中の妥協や失敗により幾分汚れていました。古代ラオデキア会衆またその「使い」と同じく,「裸の恥」が幾らか現われており,彼らは神の前でそれを悔い改めねばなりませんでした。そうした裸の状態を除くために,残りの者は栄光を受けたイエス・キリストから,とがめられるところのないクリスチャンであることを表示し,明らかにする霊的な「白い外衣」を買う必要がありました。どのようにしてそうした白い外衣を「買う」ことができますか。物質の金によってではなく,キリストの模範に対する献身を再び燃え立たせることにより,また,世の政治および軍事上の闘争のさなかにあって,真のクリスチャンの中立を守り通す決意をすることによってです。歴史が示すとおり,彼らはそうした行動を取りました。20年後に始まった第二次世界大戦の期間中,またその後の闘争においても,彼らは「白い外衣」を汚しませんでした。

      「忠実で真実な証人」からの「目薬」

      10 (イ)西暦1919年当時,キリストは油そそがれた残りの者たちに関しどこに立っておられましたか。(ロ)残りの者の目は何に対してすでに開かれていましたか。しかし,なおもキリストから「目薬」を買う必要があったのはなぜですか。

      10 油そそがれた残りの者たちは,霊的な目薬を買う必要があったのでしょうか。そのとおりです。とはいっても,政治的また宗教的に分裂したキリスト教世界からではなく,現に統治しておられるイエス・キリストからです。彼は神の霊的神殿に来ており,いわば,残りの者の戸口に立ってたたいておられました。ご自分の会衆としての残りの者の中に暖かく迎え入れられるためでした。キリスト教世界および異教世界の哲学や人間の伝統を捨てることにより,彼らの目は,聖書の多くの真理を見分け,神の目的,神の組織,今の時代に対する神の業を識別できる程度に,すでに開かれていました。しかし,記された神のみことば,および,神のご意志と目的,また,西暦1914年に始まった「終わりの時」におけるキリストの真の追随者に対する業に関し,なお多くの点で盲目でした。今や聖書の多くの真理が啓示されようとしていたのです。また,聖書預言が成就しようとしており,それに付随して正しい理解が得られる時となっていました。彼らは,神が神権組織を持っておられることを見,それに基づいて行動を取ることが必要でした。この「終わりの時」に神が残りの者に意図された漸進的な業を見分け,それを行なう必要があったのです。―ダニエル 12:4-10,新。

      11,12 (イ)残りの者はこの霊的目薬をどのように『買い』ましたか。それにより彼らの目は何に対して開けられましたか。(ロ)彼らはどのようにして,自分たちの指導者イエス・キリストの模範と言葉に倣っていましたか。

      11 疑う余地なく,残りの者は,目に見えない様で臨在しておられるイエス・キリストから霊的目薬を買い,それを霊的識別の目に塗る必要がありました。そのためには,かつてないほど聖書を直接研究し,キリストを通して神の聖霊を祈り求めねばなりませんでした。それが導きを与え,自分たちの目を開かせ,自分たちの決定と行動を導くようにと祈るのです。過去半世紀の歴史の記録は,残りの者がそうすることにより,驚くほど霊的視力を向上させたことを示しています。やがて彼らは,キリスト教世界から区別される必要を認め,聖書に基づく名称を採用しました。すなわち1931年,全世界で採択された決議により,エホバの証人という,重大な責任を伴う名前を採用したのです。(イザヤ 43:10-12; 44:8)このようにして彼らは,指導者イエス・キリストが「ラオデキアにある会衆の使い」にあてた言葉の始めの部分でご自身を指して呼ばれた者,その者に自分たちもなることにより彼に倣おうとしました。啓示 3章14節によると,彼は次のように言われました。

      12 「アーメンなる者,忠実で真実な証人,神による創造の初めである者がこう言う」。「忠実で真実な証人」という言葉に注意してください。イエス・キリストはだれの,また何の証人なのですか。(啓示 1:5)ご自身の言葉によると,彼は,天の父,全能のエホバ神の証人です。さらにまた,神の王国,つまりそれが,神のみ名を神聖にし,ご意志を天におけると同じように地にも成さしめる神の手段であることを証しするかたです。(ヨハネ 18:36,37。テモテ第一 6:13)彼は弟子たちを「証人」として遣わされました。(使徒 1:6-8)また,弟子たちにこう予告されました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)イエス・キリストは他の全ての被造物にまさって,「忠実で真実な証人」という称号にふさわしいかたであり,またそれをご自分に当てはめられました。

      「アーメンなる者」かつ最初の「創造」

      13,14 (イ)「アーメン」という語の意味は何ですか。(ロ)使徒パウロおよびイエス・キリストは,イエス・キリストご自身が擬人化された「アーメン」であることをどのように示しましたか。

      13 彼はご自分を「アーメンなる者」とも語られました。どのように擬人化された「アーメン」なのですか。イエス・キリストの名によりエホバ神に祈りをささげるさい,その終わりに適切な言葉である,アーメン! が加えられることは周知のとおりです。(コリント第一 14:16)それは,「そのとおりです」,また「そうなりますように」との意味があります。ヘブライ語のマソレート本文によると,イザヤ書 65章16節でエホバは「アーメンの神」と呼ばれており,これを「真理の神」,「忠実性の神」,「まことの神」などと訳している聖書翻訳があります。(改標,ユ,ロ,リ,新)これは,アーメン! という語が,何かが真実である,あるいは,必ず成就,実現することの確証または保証であることを示しています。神は,みことばの中で約束された事柄すべてに対する「アーメン」として,忠実なみ子を遣わされました。コリント第二 1章20節はこう述べています。「神の約束がどんなに多くても,それは彼によって,はい,となったからです。それゆえにも,わたしたちを通しての栄光のため,彼を通して,神に『アーメン』が唱えられるのです」。したがって,イエス・キリストを通さずにささげられる神への祈りはこたえられません。イエスは使徒たちに次のように言われたからです。

      14 「あなたがたがわたしの名において父に何を求めても,父がそれをあなたがたに与えてくださ[います]」。「あなたがたが父に何かを求めるなら,父はそれをわたしの名において与えてくださるのです。今この時まで,あなたがたは何一つわたしの名において求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちるためです」。「また,あなたがたがわたしの名において求めるものがなんであっても,わたしはそれを行ないます。父が子との関連において栄光をお受けになるためです。あなたがたがわたしの名において何か求めるなら,わたしはそれを行ないます」。―ヨハネ 15:16; 16:23,24; 14:13,14。

      15 イエス・キリストが「アーメンなる者」であるということは,啓示の書全体に関する何の保証ですか。

      15 それで,使徒ヨハネは啓示の書を次の適切な言葉で結びました。「『アーメン! 来たりませ,主イエスよ』。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちとともにありますように」。(啓示 22:20,21)これと相応して,啓示の冒頭は,それが「イエス・キリストによる啓示」であり,「ほどなくして必ず起きる事がらをご自分の奴隷たちに示すため,神が彼に与えたものである」ことに注意を引いています。(啓示 1:1)イエス・キリストは「アーメンなる者」ですから,それは,啓示の中で彼の奴隷であるクリスチャンに示されている事柄がすべて,必ず,しかも「ほどなく」起きることの保証です。この啓示の中の,まだ起きていないことは,「ほどなくして」起きます。

      16 「神の創造の初め」であると語ったイエスは,ご自分が『開始者』また『創始者』であると言っておられたのではありません。その点をどのように証明できますか。

      16 しかし,ラオデキアの会衆の「使い」に対する音信の中で,栄光を受けたイエス・キリストは,本当に自分が「神の創造の初め」であると言われたのでしょうか。(啓示 3:14,欽定,ア標,英改,ド,ロ)使徒ヨハネに話した時に使った言語によると,彼は,神の創造の『開始者』ではなく,「初め」であると本当に言われたのでしょうか。ヨハネが啓示を書くのに用いたギリシャ語によれば,その語はアルケーです。この語は欽定訳つまりジェームズ王聖書のギリシャ語本文中に58回出てきますが,『開始者』(‘beginner’)とか『創始者』(‘originator’)と訳されていることは一度もありません。使徒ヨハネは,聖書中の自分の著述全体を通じて(福音書一巻,手紙三通,啓示),ギリシャ語アルケーを23回使いましたが,いつも「はじめ」の意味においてです。啓示の中だけで,ヨハネはこのギリシャ語を4回使っており,3度は(啓示 1:8; 21:6; 22:13,欽定)「終わり」と対比させています。したがって,啓示 3章14節で使徒ヨハネがアルケーの意味を「はじめ」から『開始者』または『創始者』に変えているとするのは,一貫した考え方ではありません。

      17 (イ)イエスが神によって創造された最初の者であり,それゆえに神から命を受けるということを,他の聖句を使ってどのように証明できますか。(ロ)イエスは「あらゆる創造物の中の初子」また「死人の中からの初子」である,と述べられている個所のアルケーは,ともに同じ意味で使われています。どのようにですか。

      17 聖書は,ヨハネの著述bまた聖書中の他の書においても,イエス・キリストが「はじめ」つまり,神による全創造物の「初めの者」であることを証明しています。イエスはご自分のことを常に神の子として話されました。ということは,ご自分の天の父としての神から命を受け,それゆえに神の「独り子」としてその命に初めがあったことを証明しています。(ヨハネ 10:36; 3:16; 5:26)また,コロサイ 1章15,18節(欽定)には,彼が,「目に見えない神の像,あらゆる創造物の中の初子である。そして彼は体つまり教会の頭であり,初め[アルケー],かつ,死人の中からの初子である。それはすべての事において彼が卓越した地位を占めるためである」と書かれています。「死人の中からの初子」であるなら,彼ご自身一度死んだという意味であり,「あらゆる創造物の中の初子」であるなら,彼ご自身天の父によって創造されたという意味です。―啓示 1:5,17,18。使徒 2:22-32。

      18 (イ)聖句を使ってだれが創造者であるかを示しなさい。(ロ)神のみ子は創造に関連して,ご自分の父にどのように用いられましたか。(ハ)イエス・キリストを神の被造物の中の最年長者と呼ぶことができるのはなぜですか。

      18 使徒ペテロはペテロ第一 4章19節で,「創造者」という称号を,イエス・キリストにではなく,神に当てはめています。天の被造物が次の言葉を語りかけるのは,天のみ座についておられるこの全能の神に対してです。「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな,昔在し,今在し,後来りたまふ主たる全能の神」。『我らの主なる神よ,栄光と尊崇と能力とを受け給ふは宜なり,汝は万物を造りたまひ,万物は御意によりて存し,かつ造られたり』。(啓示 4:8-11,文,改標)神の子羊イエス・キリストは,天のみ座についておられるかたの右手から秘義の巻き物を受け取るため,実にこの全能の神のもとに来るのです。(啓示 5:1-10)啓示 10章5,6節によると,み使いは創造者なるこの全能の神によって誓います。これらの事柄すべてを考慮すると,聖書そのものから次のことが明らかになります。すなわち,神のみ子イエス・キリストは創造者ではなく,創造者なる全能の神が,他のすべての被造物つまり創造物を創造するさい,この独り子をその手段としてお用いになった,ということです。(ヨハネ 1:1-3。エフェソス 2:10,15; 3:9。コロサイ 1:16,17。啓示 19:13)イエス・キリストは神の創造物の中の最年長者であり,それは,神の創造の初めだからです。

      19 (イ)キリストはどんな資格でラオデキア会衆の使いに語り,戒めを与えましたか。(ロ)同様に,キリストから戒めと懲らしめを受けた時,残りの者たちはどんな行動を取りましたか。なぜですか。

      19 彼は,霊によって生み出された,油そそがれた追随者たちを,ご自分の「兄弟」と呼ぶことを恥とされません。(ヘブライ 2:11)最年長の仲間の被造物また最年長の霊的兄弟として,ラオデキア会衆の「使い」にこう言っておられます。「すべてわたしが愛情をいだく者を,わたしは戒め,また懲らしめる。それゆえ,熱心になり,そして悔い改めなさい」。(啓示 3:19)西暦1919年,第一次世界大戦を生き残った油そそがれた残りの者は,自分たちに関し不十分な点として啓示された幾つかの事柄を悔い改める必要がありました。しかし彼らは,悔い改めることに熱心さを示し,イエス・キリストを通してゆるしを得ました。彼らは,幾つかの事柄に関して戒めと矯正を,また特に,神権組織について懲らしめを受ける必要がありました。しかし,最年長の兄弟からの戒めと懲らしめを喜んで受けました。それらすべてが,自分たちに対するイエス・キリストのいつくしみ,また愛情の表われであることを知っていたからです。彼らは,神の懲らしめに関しヘブライ 12章2-11節に記されていることを覚えていました。イエスと同じく,残りの者も懲らしめを受けたのです。

      戸をたたく者が約束すること

      20 主イエス・キリストはなぜまたどうして,ご自分が戸口に立ってたたいていると言うことができたのですか。

      20 悔い改め,懲らしめを受けることにより,多くの霊的特権への道が開かれました。そのことは,彼らの最年長の兄弟のすぐ次の言葉から明らかです。「見よ,わたしは戸口に立ってたたいている。わたしの声を聞いて戸を開けるなら,わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう」。(啓示 3:20)最年長の霊的兄弟以上に彼らのもてなしを受けるにふさわしいかたがいるでしょうか。1918年の春,検分と浄めの業を行なうため,天の父に従って霊的神殿に来た彼は,1918年11月11日の第一次世界大戦終了時,霊的な助けをこの上なく必要としていた油そそがれた残りの者の歓迎の戸口に,見えない様で実際に立っておられたのです。―マラキ 3:1-5。

      21 (イ)油そそがれた残りの者はどのようにこたえ応じましたか。(ロ)ここでイエスが「晩さん」について語っておられることにはどんな意義がありますか。

      21 油そそがれた残りの者は,二度目の,しかし見えない様で臨在しておられるキリストを暖かく迎え,自分たちの組織の「家」に招き入れました。それにより,多くの祝福を受ける立場に自分たちを置くことになりました。西暦1914年に天で即位された,統治する王として彼を迎えたからです。彼は,「晩さん」つまり夕食の時に戸をたたかれました。使徒ヨハネの時代,主な食事は夕食でした。それは,一日の労働が終わって家族が集まり合う時でした。(ルカ 17:7-9)日没とともに,労働のなされた古い一日が終わりを告げ,新しい一日が始まります。それに相応して,油そそがれた残りの者の業の一面が終わり,戦後の時期の始まりとともに,彼らの地上における業の新しい面,樹立された神のメシアによる王国に関係のある業が開始されようとしていました。そのために彼らは指示と励ましを必要としていました。そして,晩さんつまり夕食の客が,それを与えてくださるかただったのです。

      22 (イ)人間として地上におられたイエスが食事に招待された時,同席していた他の人たちには何が起こりましたか。(ロ)イエス・キリストが残りの者の戸をたたいた時は,どのようにそうした場合と似ていましたか。

      22 イエスが人間として地上におられた時,共に食事をするために彼を招待した人たちは,夕食に関連してイエスから与えられる霊的な指示や励ましにより,いつもさらに優れたものをお返しとして受けました。(ヨハネ 12:1-11)ある時,パリサイ人の指導者が自分の家にイエスを招き,食事のもてなしをしたさい,ある仲間の客がイエスの話に感動して,「神の王国でパンを食べる者は幸いです」と叫びました。すると,イエスは直ちに,多くの者が招かれる「盛大な晩さん」の例えを話されました。(ルカ 14:1-24)目に見えない様で臨在しておられるイエス・キリストが,油そそがれた残りの者の戸をたたいた時は,そのような場合に似ていました。彼は,その時理解されることになっていた世界状勢,および彼らの業に関する聖書預言を説き明かすことにより,戸をたたかれたのです。残りの者はそれに応じ,彼を迎えるために戸を開けました。その結果,彼らのもてなしはすばらしい祝福となって返ってきました。それに続く霊的な夕食は,天の客が彼らに指示と励ましを与えてくださる特別の時期を意味しました。彼が残りの者と夕食を共にするというよりは,残りの者が彼と夕食を共にしていたのです。

      23 油そそがれた者たちと晩さんを共にすると語ったイエスは,単に霊的な宴以上の何を考えておられたかもしれませんか。

      23 「わたしはその者の家にはいって彼と,そして彼はわたしと晩さんを共にするであろう」(啓示 3:20),と言われた栄光のイエス・キリストは,もてなしの精神に満ちた残りの者が1919年に享受し始めた,地上の霊的宴以上のものを指しておられたのかもしれません。また,マタイ 25章1-12節の賢い処女と愚かな処女の例えに描かれている,明かりのついたともしびを持った五人の処女が入るのを許される,天の「婚宴」に彼らが行くことをも考えておられたのかもしれません。あるいは,「子羊の結婚の晩さんに招かれた者たちは幸いである」,と啓示 19章9節に述べられている,天の幸いについて触れられたのかもしれません。または,死者から霊の天における不滅の命への復活を通して『神の王国のパン』を食べること,いわば,即位し,統治しておられる王イエス・キリストと共に天でパンを食べることを言っておられたのかもしれません。とにかく,こたえ応じる残りの者は,1919年,戸をたたく彼の音と声を聞き,それから戸を開けました。彼らはそれにより,非常に祝福された天の「夕食」に導かれているのです。

      24,25 (イ)霊的な「晩さん」はどんな事柄と関係がありましたか。(ロ)したがって,イエスが次にご自分と共に座にすわることに関して述べたのは,なぜ適切さを欠いた表現ではありませんか。(ハ)彼はいつ征服者が自分と共に座にすわることを許されますか。

      24 時間と状況からすると,1919年に始まった「晩さん」は,王国の事柄に関係を持っていました。であれば,栄光を受けたイエス・キリストが,「晩さん」について語った後,次の約束をされたのは適切なことといえます。「征服する者には,わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」。(啓示 3:21)ラオデキア会衆に音信が与えられた西暦約96年当時,イエス・キリストは天の父と共に,その右にすでに座しておられました。(使徒 2:32-36; 7:55,56。ペテロ第一 3:22)しかし,西暦1914年の異邦人の時の終わり以来,そして詩篇 110篇1-6節の成就として,敵のただ中で統治を行なう王に就任して以来,彼は,征服を遂げる追随者に,統治する王であるご自分と共に天の座にすわることを許されます。彼らを死人からよみがえらせ,共同相続者としてご自分と共にならせることによりそうされるのです。彼は西暦1918年の春に神の霊的神殿に来たのですから,その時から肉体的な死を遂げる油そそがれた残りの者たちは,死の眠りに就いて彼の再来を待つ必要はありません。霊の被造物として直ちに復活を受け,彼のおられる天に行くのです。―啓示 14:13。コリント第一 15:50-54。

      25 そのような栄光ある事柄に関する約束は,聴くに値します。また,ぜひとも自分のものにするよう努力する価値があります。ゆえに,ラオデキア会衆の「使い」すなわち監督に対する言葉は,次のように結ばれています。「耳のある者は霊が諸会衆に述べることを聞きなさい」― 啓示 3:22。

      26,27 神の霊が征服者に報いとして約束した事柄を要約しなさい。

      26 「アジア地区にある七つの会衆」すべてに対する特別の音信が,その「使いたち」に送られた今日,征服者に約束された報いとして神の霊が諸会衆に語った事柄すべてを考慮するのは,特に地上の油そそがれた残りの者にとっては圧倒されんばかりの経験です。霊によって生み出された,油そそがれたクリスチャンから成るそれら会衆内の各征服者は,「神のパラダイスにある命の木から食べること」を許されます。(啓示 2:7)「命の冠」を与えられ,『決して第二の死に損われることがありません』。(啓示 2:10,11)「隠されているマナの幾らか」,さらに,「白い小石」を与えられます。『その小石には,それを受ける者以外にはだれも知らない新しい名が書かれています』。(啓示 2:17)また,「諸国民に対する権威を与え」られ,「その者は鉄の杖で民を牧し,彼らは粘土の器のように打ち砕かれる」のです。さらに,「明けの星を与え」られます。―啓示 2:26-28。

      27 ふさわしい征服者は各,栄光を受けたキリストと共に,「白い」,そうです,『白い外衣で身を装って』歩くことになり,『彼の名を命の書から塗り消す』処置は取られません。「わたしの父の前またその使いたちの前で彼の名を認める」,とキリストは語っておられます。(啓示 3:4,5)各征服者は,キリストの言われるように,「わたしの神の神殿の中の柱と」され,「そしてわたしは,わたしの神の名と,わたしの神の都市,すなわち天からわたしの神のもとから下る新しいエルサレムの名と,わたしの新しい名をその者の上に書く」のです。(啓示 3:12)征服者各人に,栄光を受けたキリストは次の約束をもしておられます。「わたしとともにわたしの座にすわることを許そう。わたしが征服して,わたしの父とともにその座にすわったようにである」― 啓示 3:21。

      28 復習として,さらに次の点を簡潔に述べなさい。(イ)何人が征服者としてふさわしいことを実証しますか。(ロ)彼らはどんな天的な国民を構成しますか。(ハ)彼らに証印を押す業はいつ始まりましたか。(ニ)証印を押す業はどんな時以前に終了しなければなりませんか。

      28 霊によって生み出された14万4,000人の油そそがれたクリスチャンだけが,ふさわしい征服者であることを実証し,キリストを介しての神の意志と力により,こうした壮大な報いすべてにあずかります。彼らは,いわば,十二の等しい部族による天の霊的イスラエルを構成します。西暦33年のペンテコステの祭りの日以来,過去19世紀にわたり,彼らの霊的な額に神の霊をもって証印を押す業が行なわれており,彼らは霊的イスラエルの神の特別の所有物として公にしるしをつけられています。あらしのような「地の四方の風」が,近づく「全能者なる神の大いなる日」に吹き荒れることを許される前に,14万4,000の霊的イスラエル人の最終的な全数を満たすのになお必要な残りの者すべてが,キリストと共なる将来の天的相続財産の印としての,神の霊によって証印を押されねばなりません。―啓示 7:1-8; 16:14。

      29 証印を押す業が終了した後にどんな事柄が起きますか。

      29 この証印を押す業は終わりに近づいています。それが終わると,地上で人間が経験したいかなる災難をもしのぐ患難が,人類の世すべてに臨みます。その後,悪魔サタンと悪霊たちが閉じ込められ,続いて,本当に喜ばしいことに,イエス・キリストとその王国相続者たちによる千年統治が到来するのです。それは神の栄光となり,パラダイスの地における命をもって人類を祝福します。―マタイ 24:21,22,31。啓示 19:11から20:6。ルカ 23:43。

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