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  • ハルマゲドンに生き残るための要求はなにか?
    ものみの塔 1963 | 5月15日
    • するための道を歩まねばならないからです。ですからエホバを求める人は,イエス・キリストを知り,その教えを学び,その命令に従わなければなりません。またイエスが教えられたとおり,「天にいますわれらの父よ,御名があがめられますように,御国がきますように」と祈らねばなりません。それから,エホバを熱心に求める者は,御国のために祈るだけでなく,イエスが言われたように「御国を求め」なければなりません。またエホバという神の御名を清める必要のあることをいつも忘れることはできません。―マタイ 6:9。ルカ 12:31。

      神の御名を清めるには,それを人に知らせることが必要です。もし人が神の御名を知らないなら,どうしてそれを呼び求めることができるでしょうか。それで使徒パウロは,ローマのクリスチャンたちにこう書いています。「『エホバの御名を呼び求める者はみな救われるであろう』。しかし,信じていない者をどうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者をどうして信ずることがあろうか。伝道する者がいなくては,どうして聞くことがあろうか」。(ロマ 10:13,14,新世)これは,エホバを求める人々が,利己的な気持をもたずに,自分から進んで神の御名を他の人々に知らさなければならないことを示しています。そうする時彼らもまた,「エホバの大なる畏るべき日の来らん前に」神の御名を呼び求めることができます。―ヨエル 2:31。

      「エホバの大なる畏るべき日」の来ることについて述べたすぐあと,預言者ヨエルは,「すべてエホバの名をよぶ者は救はるべし,そはエホバの宣ひし如くシオンの山とエルサレムとに救はれし者あるべければなり,そののこれる者の中にエホバの召し給へるものあらん」と述べています。(ヨエル 2:32)神が,ご自分の御名を呼び求めることによって救われると述べておきながら,そのあと人間からその御名をおかくしになるようなことはありえません。ですからイエスと使徒の時代に神は,ご自分の御名を伝道によって,しかも家から家に知らせるようになさいました。それで今日でも神は,この地のへりくだった者たちが,イエス・キリストをとおして神の御名を呼び求めることができるように,全世界でご自分の御名を宣明させておられます。これは孤立して呼び求めることではなく,一致して呼び求めることです。なぜならヨエルは,すべての「救はれし者」たちが,神の御国の象徴であるシオンの山とエルサレムに来ること,しかも「その残れる者」たちは一致してそこに行くことを預言しているからです。それで今日エホバを求めるには人は,神の御国を中心に集まって,他のすべての御国の証者と共にエホバを求めなければなりません。

      では,ゼパニヤが,エホバを求める必要を強調しているものは,何を示すものでしょうか。それは,そうすることによってのみ人はハルマゲドンの間にかくされる,ということです。また,清い生活をすること,「黄金律」に従って生活することだけでは十分でないことも示しています。良心的な生活だけでは,生き残るための第一の要求 ― エホバを求める ― を満たすことはできません。

      義を求める

      といっても,正しい生活をすることが要求されていないというのではありません。それは要求されています。しかしまず第一にエホバを求める生活でなければならないということです。ゼパニヤは「公義を求めよ」と言いました。エホバの真の崇拝者はそのことを行ない,神の義の標準に一致した生活をしなければなりません。自分の考えに照らして正しいと思う事柄を行ないつづけることはもはやできません。「人のみづから見て正しとする途にしてその終はつひに死にいたる途となるもの」があるからです。(箴言 16:25)それで,自分の考えによる正しい生活をしようとするなら,ちょうど,使徒パウロが述べているユダヤ人の場合のように,災に陥り,エホバから離れ去ることがあります。「なぜなら,彼らは神の義を知らないで,自分の義を立てようと努め,神の義に従わなかったからである」。―ロマ 10:3,新口。

      そういうわけで,私たちが求めなければならないのは神の義です。イエス・キリストも,「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われました。(マタイ 6:33,新口)ということは,いつもエホバの義を無視しながら,エホバとその御国だけを求めることはできないということです。私たちは,私たちのすべての活動や行為をそれによって判断するように,エホバが私たちに与えて下さった標準,すなわち聖書を熟知しなければなりません。「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である」から,私たちは聖書をよく知らなければなりません。そして,聖書を通し神によって神の義に導かれるようにしなければなりません。―テモテ後 3:16。

      けんそんを求める

      ゼパニヤは,けんそんを求める必要を,3番目にあげていますが,それはこれが重要でないからではありません。それどころか,ごく必要な性質であるからこそゼパニヤは,このこととエホバを求めることを結びつけて述べているのです。「この地のへりくだる者よ汝等エホバを求め…よ」。同預言者は再びそれを取り上げて「けんそんを求めよ」と述べ,けんそんの必要を強調していますが,この事実は,私たちが絶えずけんそんということに注意を払わねばならないことを示すものです。もしけんそんを求めるなら,私たちは正しい心的態度を持ち,柔和で,進んで神に導かれ,ハルマゲドンに生き残るための要求を進んで他の人々に伝えるでしょう。

      それで人は今日,自からけんそんの手本を示された主イエス・キリストの追随者となることによって,けんそんを示します。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。(マタイ 11:29,新口)イエスをあなたの模範として下さい。イエスは,エホバを求め,義を求め,けんそんを求めることにおいて,完全な模範を残されましたから,すべての事柄においてイエスに習いましょう。イエスは自から,けんそんな態度で神より与えられたわざを行ない,エホバのさばきを人々に知らされました。それで,イエスの模範に従う地のへりくだった者たちは,神がハルマゲドンで,王なるイエス・キリストをとおし,さばきを行なわれることを他の人々に警告します。

      もし私たちがこれらのことを行い,知識と信仰と愛を通して真にエホバを求め,イエス・キリストをとおしてエホバの御名を呼び求めるなら,そしてもし,神の御国と義を心から求め,しかしへりくだった気持ちでそれを求めるなら,「エホバのいかりの日にあるひはかくさるることあらん」とゼパニヤは述べています。―ゼパニヤ 2:3。

      ハルマゲドンはこの世代の上に臨むことになってはいますが,ある人々は,年とか病気のために,その時が来る前に死ぬかも知れません。しかしそれでも彼らは,神の恵みのうちに死ぬことによって隠されるでしょう。「エホバの聖徒の死はそのみまへにて貴し」。(詩 116:15)そのような忠実な人々は,必ず復活させられるでしょう。また,エホバの恐るべき日が臨む時に生きているこの世代のすべての人々には,もし彼らが,ゼパニヤによって明確に示された生き残るための要求に心から従っていたなら,神によって隠される可能性が十分にあります。「可能性」は神にではなく私たちにあるのです。エホバは忠実であられますが,私たちはどうでしょうか。人の心を探られる神は,私たちが心から神を求め,義を求め,けんそんであるか知っておられます。神に対して忠実を証明すれば,神もまた,間もなくやってくる世界をゆるがす災の時にあなたをかくして,ご自身の忠実を証明されるでしょう。

  • 「信仰をなくした」
    ものみの塔 1963 | 5月15日
    • 「信仰をなくした」

      ◇ ザ・チャーチヘラルド誌は言う。「新教主義はその信仰を失ってしまった。―もちろんすべての新教徒がと言うわけではないが,ガソリンタンクに半分水を入れたような人が実に多い。それでは車は走らない。教会もそれでは走れない」。―リーダース・ダイジェスト,1962年9月号(英文),50頁。

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