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あなたは試練に首尾よく耐えることができますかものみの塔 1978 | 10月15日
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は使徒ペテロが述べた慰めとなる保証の言葉に,全き確信を置くことができます。「あなたがたがしばらくのあいだ苦しみに遭ったのち,キリストとの結びつきにおいてあなたがたをご自分の永遠の栄光に召された,あらゆる過分のご親切の神は,自らあなたがたの訓練を終え,あなたがたを確固とした者,強い者としてくださるでしょう」― ペテロ第一 5:10。ローマ 8:35-39。
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山上の垂訓 ―『あなたのあわれみの施しをひそかにするようにしなさい』ものみの塔 1978 | 10月15日
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山上の垂訓 ―『あなたのあわれみの施しをひそかにするようにしなさい』
隣人を正しく扱うことについて諭した後,イエスは,神の目に真に価値のある崇拝について助言されました。イエスは次のように述べて,山上の垂訓のこの部分を話し始められました。「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい」― マタイ 6:1前半。
この場合の「義」とは,何が正しいかに関する神の規準に従った行動を意味しています。(マタイ 5:6,20と比較してください。)神は,人々が生活のあらゆる面で義を示すことを望んでおられます。その中には,人が独りでいるときの行ないや,神や仲間の人間との関係も含まれるはずです。
イエスの言葉は,敬神の行ないを他の人々の前で決してしてはならないということを意味しているのではありません。もしそうなら,イエスの話を聞いていた人々に対する『自分たちの光を人びとの前に輝かせなさい』というイエスの以前の諭しに反することになるからです。(マタイ 5:14-16)しかし,その動機は,決して『人に注目されようとする』ことであってはなりません。人は,自分があたかも劇場の舞台の上にいるかのように,自らを人前にさらそうとすべきではありません。
イエスは,自分たちの徳を大げさに誇示する傾向のある人々すべてに向かってこう言われました。「天におられるあなたがたの父にあってあなたがたに報いはありません」。(マタイ 6:1後半)神との親密な関係や神の王国の支配が永遠にわたってもたらす祝福などを含むそうした『天からの報い』は,自分に注意を引こうという動機で神を崇拝する人々のためのものではありません。
西暦一世紀のユダヤ人にとって,崇拝の三つの主要な面とは,施し,祈り,断食でした。その最初のものに関してイエスはこう言われました。「あわれみの施しをするさいには,偽善者たちが人から栄光を受けようとして会堂や街路でするように,自分の前にラッパを吹いてはなりません」― マタイ 6:2前半。
「あわれみの施し」という表現は,貧しい人々を助けるための惜しみない寄付のことです。ヘブライ語聖書は,しばしば,困っている人々を援助することの重要性を
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