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  • チリの宗教はどこへ行く?
    目ざめよ! 1972 | 9月8日
    • 無償で私のところへ来てくれた』と。しかし,それは真のクリスチャンのすべきこととして,聖書が教えていることです。現在では私も真理を知り,自分が神のことばから学んだことを他の人々が理解するよう助けうる特権に感謝しています。」

      不行跡にあいそをつかす

      別の男の人の経験も,チリの多くの人が経験してきた事柄です。その人はバルパライソから次のように書いてきました。

      「私は洗礼を施され,カトリック教会のサクラメント(秘蹟)に積極的に与るように育てられ,カトリックのサン・ビンセンテ・デ・パウル大学で教育を受けました。また,13歳のとき私は,十二使徒教会で,イエズス会司祭養成所に送られる前の予備訓練を受けていた12人のグループの中で首席をとおしました。

      「しかし私はその訓練を一切放棄しました。なぜでしょうか。一つの理由は,そこで恥ずべき行為を目撃したからです。それはそこにいた者でなければわかりません。たとえば,ある司祭は若い人たちとチャペルの中でばか騒ぎをしました。別のイエズス会司祭は,『聖人』の像とひきかえに,子どもたちにみだらないたずらをしました。

      「また私が大きな罪を告白したときには告解を聞く司祭は,『子どもよ,心配することはありません』と言っておきながら,私がカトリックのトレス・アマット聖書を読んでいるところを偶然に発見したときには激怒し,私が聖書を読んでいたことを醜聞と見なしたので,私は幻滅を感じました。

      「一般民衆はとぼしい暮らしをしているのに,僧職者たちは,良い食物やぶどう酒やたばこをふんだんに持ち,かなりぜいたくに暮らしているのも私は毎日見てきました。

      「こうしたことや他の事柄から私は,指導者たちのそのような行為を黙許する宗教をついに捨てました。しかしそのために私は,聖書に教えられている真の宗教をずっと容易に受け入れることができました」。

      ある修道女の経験

      チリの教会における宗教生活を去った人々の中には修道女もいました。彼女はその体験を次のように語りました。

      「世間に偽善と偽りが満ちているのを知った私は修道院に霊的避難所を求めました。修道院では,偽善も偽りも経験せずに思いきり神に奉仕できると考えたからです。

      「そこで私は修道院にはいり,アルゼンチンに5年,チリに2年,合計7年そこですごしました。私は,愛,自己犠牲の精神,神の崇拝や同胞を助けることへの真の関心に満ちたふんいきをそこに発見したでしょうか。

      「新入者の修道女たちがどんなことを教えられたかお話ししましょう。一番強調された教えは『聖三位一体』でした。そのあと教えられたのが聖人と教会の上位者たちの崇拝です。上位者たちは絶対服従を要求しました。それは実際に偶像崇拝にも等しいものでした。なぜかというと,彼らによれば,彼らをその地位につけたのは神であるから,すべての者は彼らに無条件の服従をしなければならないのです。

      「彼らはこれをどのような方法でやらせたでしょうか。修道女に要求されていた誓いによってです。一つは服従の誓いで,それは上位者をたたえるものでした。彼らが要求した服従は,彼らの前で頭をさげ,決して質問してはならないという極端なものでした。

      「上位者たちは絶えず博愛や謙そんについて語りましたが,それはいつも他への助言で,他に要求することを自分では決して行ないませんでした。彼らのあいだには常にねたみの精神と,より高い地位に進み,より高い肩書を得たいという欲望が存在しました。そして昇進したあとは,その地位は神から与えられたものであるから,以前にもまして自分に服従しなければならないということを他の者たちに教え込むことに努めました。そのようにして彼らは強い権力を持つようになります。

      「私といっしょに働いた他の修道女たちはどうだったでしょうか。彼女たちはなぜ修道院にはいったでしょうか。神を信じ,神を愛していたからでしょうか。もちろんそういう動機の人もいましたが,大多数は物質上の必要から,つまり家や,衣服や,食物を得るために修道院にはいっていたのです。愛や協力の精神はなく,明らかに偽善とわかる態度で,他の人の心を傷つけるようなことをすることがしばしばありました。

      「では私は少なくとも聖書を理解することを学んだでしょうか,いいえ,なぜならミサを取り行なう者だけが聖書を持つことができ,あとのわたしたちが聖書を読むのは罪だと言われていたからです。霊的な事柄を論じたり,聖書の教えを生活に適用したりすることは,いっさい教えられませんでした。

      「そういう生活を7年つづけたのち,私は修道院を去りました。私はそこに不公平なことや偽りがあるのを見て,だまされたような気持ちになり,幻滅を感じました。それはおよそ霊的避難所ではありませんでした。しかし,教会や教会の代表者たちへの信仰を失ったとはいえ,神への信仰は失いませんでした。のちほどエホバの証人の助けを得て聖書そのものを読みはじめたとき,私はどんなに喜びを感じたことでしょう。それはいかにも合理的で,カトリックとはいかにも異なっており,いかにも真実でした。現在の私はもう偽善的な宗教組織の奴隷ではありません。その代わりに,愛に富みまた目的を持つ神エホバに奉仕することに,大きな満足を見いだしています」。

      こういう例がたくさんあることを考えてください。そうすれば,今日チリでどんなことが起きているか相像できるでしょう。二つの流れ,または傾向があります。キリスト教世界の宗教は苦悩し,衰退しています。一方,神のことばである聖書に示されている真の宗教はますます盛んになっています。しかしこれは,この邪悪な事物の体制が終わる前に生ずると,聖書が預言していたことなのです。―イザヤ 2:2,3。

  • 集いを楽しく,有益なものにする
    目ざめよ! 1972 | 9月8日
    • 集いを楽しく,有益なものにする

      客をもてなす人にとって,これはなんという挑戦でしょう。あなたもきっと経験なさったことでしょう。どう対処されましたか。たぶん,飲み物などは大した問題ではなかったことでしょう。しかし客をもてなす,そうです,みんなに楽しんでもらうことはいかがでしたか。集いを楽しく愉快なものにするために,何をなさいましたか。それは客にとって有益な集いでしたか。

      客をもてなす取り決めを設ける人は,客が自分のところにいる間その気分転換をはかってあげる責任を負うことになるのを忘れてはなりません。あなたに招待された客は,あなたや他の客たちと気持ち良く交わるために数時間気楽に過ごそうとしてやって来ます。集いのあり方については,あなたの指図を待っています。たいてい,なんらかのプログラムについての案を持っている主人が,招待した友だちを喜ばせ,有益な仕方でもてなすことに成功します。

      避けるべき落とし穴

      市販のゲームを買えば客をもてなすのに役だつと考える人がいますが,そうとも限らないようです。それに,落とし穴があります。気をつけて選ばないと,友だちの益になるどころか悪い影響を与えてしまうようなゲームをうっかり買って後悔することもあります。

      例えば,いろいろな偽装ゲームを宣伝

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