ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • クリスチャンは尊称をうけますか?
    ものみの塔 1955 | 8月1日
    • で忌み嫌うべきものです。ある人が尊称をつけてイエスを呼ぼうとしたとき,何が起きたか御存知ですか? 聖書を読んでみましよう。『ひとりの支配者は,イエスに質問し,「善い先生,何をすれば永遠の生命が得られますか」と聞いた。イエスは答えた「なぜ善いと言うのか。神おひとりのほかに善い者はいない。」』(ルカ 18:18,19,新世)イエスは確かに先生であり,間ちがいなく善い方であるのに,『善い先生』と呼びかけた人をなぜ叱りましたか? その人の心の中では,イエスを善い先生と信ぜず,ただ形式的に『善い先生』という称号を用いたからでした。そうでなければ,イエスの教を聞いて従つたはずでしよう。しかし,彼はイエスの助言を拒絶し,叱りをうけるのは当然でした。そのことから,尊称はクリスチャンにふさわしくないことを明白に示しました。

      『神父』の称号

      クリスチャンが『神父』という尊称で他の人を呼びかけている箇所は,聖書にありますか? 注意深く探してごらんなさい。しかし,使徒でさえ『神父』という称号を持たなかつたことが分ります。クリスチャンに『神父』という称号を用いる権威は,聖書に与えられていません。実際に,その称号は明白に禁ぜられています。誰が禁じていますか? キリスト御自身です! 当時の称号を愛した牧師たちに,イエスはこう言われました『彼らは,夕食の時には最も目立つ場所,会堂では上座,そして市場の中であいさつされ,人々より「ラビ」(『偉大なる者,秀でている者』脚註)と呼ばれることを好む。しかし,あなた方は「ラビ」と呼ばれてはならない。先生は一人であり,あなた方はみな兄弟である。それに,地上のものを父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり,すなわち天におられる父である。』― マタイ 23:6-9,新世。

      イエスは本気に言われましたか? 全くそうです! イエスは無意味な言葉を語りません。よくよく考えて見なければ,イエスの命令が分りませんか? イエスは,譬話を言われなかつたのですから,特別な解釈は必要でありません。人を崇める称号について明白な教を言われたのです。『地上のものを父と呼んではならない。』

      ローマ,カトリックの牧師は,イエスの言葉を文字通りに取ることはできない,もしそうならば父親を『父』とは呼べないと言つて,イエスの命令を無視しています。その考え方は正しいですか? 正しくありません! 前後の文脈を読んでごらんなさい。明白に分るごとく,イエスは父親を『父』と呼ぶのを禁じていません。彼自身,父親を『父』と多く述べていました。(マタイ 15:4-6; 19:5; 21:31)禁じたのは,その尊称でした。

      カトリックの牧師は,『神父』の使用を弁護して,人に洗礼を施すとき牧師は霊的の父になると主張します。そして,イエスの明白な命令を無視する権威として,一つの特別な聖句を指摘します。それは,コリント人に宛てたパウロの言葉です。『汝らにはキリストにおける守役一万ありとも,父は多くあることなし。そはキリスト・イエスに在りて福音により汝らを生みたるは,我なればなり。』(コリント前 4:15)パウロを『神父パウロ』と呼びなさいと,彼はコリント人のクリスチャンたちに述べていますか? そうでないことは,明白です。聖書の何処を見ても,『神父パウロ』とは呼ばれていません。ペテロは,彼を『我らの愛する兄弟パウロ』と呼びました。(ペテロ後 3:15)パウロはカトリックの牧師とはちがい,人に洗礼を施すという理由で,霊的の父になるなどと主張したことがありません。彼の言葉どおり,パウロは殆ど洗礼を施さなかつたのです。(コリント前 1:13-16)コリント人に神の御言葉の真理を教えた最初の人は,パウロであつたため,彼は福音によつて彼らを生んだのです。

      パウロは,コリント会衆に対する自分の立場をはつきり示すため,人間家族内の地的な関係を用いていました。パウロが『父』という言葉を用いているにしても,それはイエスの命令に違反してはいません。パウロを『神父』と呼んだ者は,ひとりもおらず,それに彼は称号にその言葉を用いたのではなく,ただ説明するために用いました。

      また,アール,エー,ノックスによるローマ・カトリックの聖書翻訳のコリント前書 4章15節の言葉に注意してみることは,理解を広めるものです。『あなた方には,キリストにおける先生が一万人いようと,父はただひとりだけである。福音を伝道したとき,イエス・キリストにあつてあなた方を生んだのは私であつた。』現在,カトリックには『ひとりの父』以上います。実際のところ,『一万人』以上の神父がいます。はじめて宗教をもたらしたか否かには関係なく,どの牧師も『神父』と呼ばれるからです。牧師を『神父』と呼ぶことは,イエスの命令と全く違反するものであり,コリント人へのパウロの説明の話からも支持をうけていません。

      さて,法王に言われる『聖なる神父』について,どう考えますか? 私たちはキリスト・イエスと同じように考えます。すなわち,それは全く全然の間ちがいです。聖なる人は,ひとりもいないからです。『すべての人は罪を犯し,神の栄光をうけることができない。』(ロマ 3:23,新世)たしかに,キリスト・イエスは『聖なる父』という言葉を用いましたが,それを人間に用いたのではありません。イエスはヱホバ神おひとりだけ,その名にふさわしい方であると知つていました。『聖なる父よ,御自身の御名のため彼らを守つてください。』(ヨハネ 17:11,新世)今日のキリスト教国で行われているごとく,『神父』や『聖なる神父』の尊称をうけたり,用いたりすることは,ヱホバ神の目から見て憎むべきものです。

      司教,執事,長老

      『司教』という称号は,今日広く一般のものです。この言葉は,いくらかの聖書の翻訳,特に二,三百年前ギリシャ語から翻訳された聖書の中に表われています。しかし,この言葉は聖書の原文には出ていません。『司教』は,ギリシャ語の『エピスコポス』の誤訳であつて,尊称には決してならないからです。それは,神の制度内における奉仕の特権を示すために用いられました。その言葉の真の意味は,『監督』です。それでは,なぜ翻訳者たちは『エピスコポス』を『司教』と翻訳しましたか? いわゆる『司教』を持つている宗教制度に属する人々が,翻訳したからです。翻訳者たちが,教会の職階制度を支持するため,司教という言葉を聖書の英語訳に入れたのは当然です。正確な現在の翻訳は,『司教』という言葉を用いていません。

      同じく,『執事』という称号は,ギリシャ語『ディアコノス』の誤訳です。その真の意味は『奉仕の僕』です。パウロはピリピ人に,こう書きました。『ピリピにいてキリスト・イエスにあるすべての聖徒たちへ,そして監督と奉仕の僕たちへ』(ピリピ 1:1,新世)諂いの称号でないことは,まつたく明白です。

      『長老』という称号については,どうですか? 欽定訳で『長老』と訳されているギリシャ語は,プレスビテロスです。その文字通りの意味は,『年上の者』または『年齢の進んだ者』ということです。それで,実際には称号でありません。パウロは『町々に年上の人(『長老』欽定訳)の任命をしなさい』と言いました。(テトス 1:5,新世)奉仕の特別な特権に任命された人は,年上者になるよう任命されたのではなく,年上者であつたために任命されたことに,良く注意してください。規則はこうです。神の群の監督(エピスコポス)に任命される人は,『年上の者』でなければなりません。すなわち,その言葉,教理,そして行動の実からみて,霊的な面では『年上の人』または円熟した者ということです。聖書は『長老』『司教』そして『執事』という尊称を用いる権威を与えていません。

      神の御言葉は尊称を禁じているため,クリスチャンが王を『王』,裁判官を『閣下』,と呼ぶことは間ちがいですか? 間ちがいではありません。クリスチャンが支配者や裁判官によびかけるとき,それは民政上の僕とみなして呼びかけるのであり,崇拝をするとか,または霊的な指導者と見なして呼びかけるのではありません。使徒パウロは,アグリッパ王の前に立ち,こう言いました。『アグリッパ王よ,ユダヤ人の訴えるすべての事に関して,』ネロの時代のユダヤの総督フェストの前で,パウロは『フェスト閣下よ,私は気が狂つていません。』と言いました。パウロは民政上の僕に公式な尊敬を払いましたが,クリスチャンでも非クリスチャンでも霊的な指導者を特別な称号で呼びかけたことは一度もありません。―使行 26:2,25,新世。

      このすべてのことは,何を意味しますか? 神の述べられる方法に従つて,神に仕えたいと欲する人は,『師』とか『神父』という称号で牧師を呼びかけるのを止めるべきです。真のクリスチャンは,どんな種類の尊称も用いません。さらに,尊称を用いることは,偽りの宗教のしるしです。そのような偽りの宗教を棄てなさい。ヱホバの証者の新世社会と交わることにより,真の宗教を行いなさい。これら真のクリスチャンの中に階級差別はありません。すべてのものは兄弟たちです。みな神の書かれた言葉の原則に従います。その中には,神の予言者がヨブ記 32章21,22節(ア標)で述べている原則も含まれています。『かならず我は人に偏らず,人に諂の称号を与えじ。我は諂の称号を与えることを知らず,もし諂わば,我の造化主ただちに我を絶ちたもうべし。』

  • イタリーで,
    ものみの塔 1955 | 8月1日
    • イタリーで,

      人里離れたところに住む75歳の老人は,真理のことを聞き,開拓者に訪問して頂きたいとお願いしました。開拓者がそのところに行つてみると,30人の人々が待つていました。話しを聞いてから,みなさんは書物を求めました。幾人かの人は翌朝も来て,多くの質問をし,真理に対する飢餓を癒しました。75歳の老人は,幸福な叫びを発して,こう言いました。『わしは40年のあいだ聖書を持つていたが,しかしこの長い年月をかけても,2時間で学べるものを到底学ぶことができなかつた。』(1955年度のヱホバの証者の年鑑より)

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする