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「どうして聞くことがあろうか」ものみの塔 1966 | 6月1日
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と信仰を守りました。主キリスト・イエスにならったパウロは,今日まことのクリスチャンがならうべき勇気と信仰の手本を残しました。
パウロの手本にならう
25-27 (イ)宣教に対するパウロの見方を述べ,それを今日の新世社会の人々のわざとくらべなさい。(ロ)つづく記事の中でどんな質問の答えが得られますか。
25 「主〔エホバ〕の御名を呼び求める者は,すべて救われる」と,パウロは述べました。しかしパウロ自身が論じているように,エホバに信仰をもたなければそのみ名を呼ぶことはなく,エホバについて聞かなければエホバを信ずることもありません。また救いの神エホバについて人々が聞くためには,伝道者,奉仕者が必要です。
26 古い世の社会で聖職者が不足している今の困難な時代に,エホバの証人の新世社会は著しい対照をなしています。さらに多くの働き人が求められてはいますが,これらの勤勉で熱心な神の奉仕者の働きにより,あらゆるところで人々は御国の音信を聞いています。それは救われるため,そして生命に至る道を学ぶためです。宣教に対する彼らの考え方は,パウロの次のことばに示されています。「わたしが福音を宣べ伝えても,それは誇にはならない。なぜなら,わたしは,そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわいである。進んでそれをすれば,報酬を受けるであろう。しかし,進んでしないとしても,それは,わたしにゆだねられた務なのである……わたしは,すべての人に対して自由であるが,できるだけ多くの人を得るために,自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には,ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には,わたし自身は律法の下にはないが,律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には ― わたしは神の律法の外にあるのではなく,キリストの律法の中にあるのだが ― 律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである」― コリント第一 9:16-22。
27 パウロは何を成し遂げようとしていましたか。それは,神の事物の新しい制度の下で生命を得る道を人々が学ぶために,御国の福音を首尾よく宣べ伝えることでした。今日のエホバの証人は,それとまったく同じわざをしています。それは人々を益し,向上させるわざです。このわざをするには大きな勇気,道徳的な強さ,決意が必要です。このわざのもたらす益と祝福,またどうすれば各人がそれにあずかることができるか,これらの点を論ずることは次の記事にゆずります。
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「盗んではならない」と説教する人自身が盗みをしていませんかものみの塔 1966 | 6月1日
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「盗んではならない」と説教する人自身が盗みをしていませんか
盗みの悪を説いた教会がその翌日に「半強制的に寄付」を集めるために財産や物品を盗み,再びその所有主に売りつけるとしたら,その説教にどれほど効果があると思われますか。ニカラグアのマナグア近郊の一カトリック教会が,「聖なる週」中に,宗教のいかんを問わず,近隣のすべての人に教会への寄付をさせるために考え出したのがこの方法です。「聖なる盗人」が手をつけたものはすべて教会に持ち運ばれ,寄付をしないとそれを取り戻すことができません。もちろんこのことは多くの「あまり清くない盗人」に物を持ち去る機会を与えました。
カトリック教会が盗みに対して防御力となり得ないのはもっともなことです。使徒パウロも次のように言いました。「神の御名は,あなたがたのゆえに,異邦人の間で汚されている」― ローマ 2:21-24。
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