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自分のために安全を確保するものみの塔 1968 | 5月15日
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さしつかえないが,それは主にある者とに限る」といましめています。(コリント第二 6:14。コリント第一 7:39)自分と同じく神に従う人と結婚することは,結婚生活の安全と幸福の見込みを非常に大きくします。事実それは結婚生活において最大の幸福を得る道です。世の中には破壊された家庭がふえていますが,神のことばに従って家庭を築くエホバの証人の間にそのような問題はありません。
また心から信頼できる真実の友,まさかの時に力となり,最善の福祉を心にかけてくれる友を持つことも,安全を増し加えます。神に従う人にはこのような友がいます。正直,道徳,誠実に関する神の律法を守るゆえに,彼らは盗みや不道徳な行為をせず,また困っている友人を見捨てません。また真実の愛を持ち,利己的な利害によって動かされません。エホバの証人は,関心を持つ新しい人が彼らと交わる時,神の民の間では不敬虔な行ないが許されないことを理解するようにその人々を助けます。新しい人は,聖書の原則と一致した生活をするように忍耐強く助けられます。こうして個人のふるまいに関する神の高い標準が維持されるのです。神を支配者として神に従う人々の中にいることから,なんと大きな安心感が得られるのでしょう。
前途にはもっと大きな安全
近い将来にもっと大きな安全が得られます。暴力と悪とに満ちた事物の制度をも含め,個人の安全をおびやかすものはまもなく除かれるでしょう。神は,わたしたちの世代のうちにこれらを終わらせることを保証されています。(マタイ 24:34)病気,老衰,アダムから受け継がれた死そして悪は過ぎ去るでしょう。神に従う人々は,新しい事物の制度の下に生きるのです。その新しい事物の制度の下で,神は「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや,死もなく,悲しみも,叫びも,痛みもない。先のものが,すでに過ぎ去ったからである」と聖書に約束されています。(黙示 21:3,4)こうして安全をおびやかすものがすべて除かれ,神に従う人々は,永遠につづく正義の新秩序の下で全き安全を享受できるでしょう。
今の安全そして来たるべき神の新秩序における,いっそう大きな安全を,あなたのものにすることができます。神の要求される事柄を学んで行なう時に,それは実現されるのです。そうする人に対して神は次のように約束されました。「わたしに聞き従う者は安らかに住まい,災に会う恐れもなく,安全である」― 箴言 1:33。
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マリヤは神の母ではないものみの塔 1968 | 5月15日
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マリヤは神の母ではない
全世界におよそ5億9000万人を数えるローマ・カトリック教徒にとって,これは驚くべきことばに違いありません。しかしこれは聖書から確証される事です。聖書からの証拠を検討することを恐れる必要はありません。神の霊感によって書かれた聖書は真理であり,真理が人を惑わすことはないからです。
マリヤが神の母であることを示す句は,聖書のどこにもありません。では,なぜ多くの人がそれを信じているのですか。なぜならそれが自分たちの教会の教えだからです。この教えの背後にある考えは,ローマ・カトリック教の公式の出版物である公教要理(1949年版英文)の61頁に次のように出ています。「キリストの受胎と誕生は奇跡的なものですが,彼はマリヤを母とし,他の人と同じく赤子として世に来られました。キリストの誕生は祝福された処女を母胎とするゆえに,マリヤはイエス・キリストの母であります。そしてイエス・キリストは神であるゆえに,マリヤは真実に神の母であります」。
一見それは正しいようですが,まちがった仮定に基づいているゆえに結論もまちがっています。それでこの結論には聖書の裏づけがないのです。まちがいは,イエス・キリストを神としている点にあります。イエスがご自分を神とされたことは一度もありません。イエスの弟子たちも同様です。このことは聖書から容易に認められます。
キリストは神に従属する
イエスがご自分をどう見られたかについて,聖書の述べる事柄に注目してください。聖句の引用は,特にことわらないかぎりカトリックのバルバロ訳からです。イエスは,敵対する当時の宗教指導者にむかって次のように言われました。「父が聖別して世におくられた人が“私は神の子だ”といったからといって,あなたたちは“ぼうとくをいう”というのか」。(ヨハネ 10:36)イエスはご自分が神であるとは言わず,神の子であると言われていることに注目してください。イエスは,ご自分が天の父よりも低く,また天の父に従属する者であることを常に認めていられました。ヨハネの聖福音書 14章28節の句は,そのことを示しています。「父は,私よりも偉大なお方だからである」。またご自分の意志を行なうために世に来られたのではないというイエスのことばも,それを示しています。イエスが神であったとすれば,ご自分の意志を行なっていたはずです。ヨハネの聖福音書 6章38節に記録されているとおり,「私は,自分の考えではなくて,私をつかわされたお方のみ旨をはたすために天からくだった」とイエスは言われました。また別の時,次のようにも言われました。「もし神があなたたちの父なら,あなたたちは,私を愛するはずである。私は,神から出てきたものだからである。私は,自分で来たのではなく,神からつかわされた」。(ヨハネ 8:42)イエスが神であったとすれば,ご自分で来られたはずです。
ゆえに,イエスがご自分を神とは見なさず,また神と等しくなろうともされなかったことは,イエスご自身のことばから明らかです。ご自身が神の子であるとくり返し言われたイエスのことばは,イエスが天使たち,またアダムと同じく神の創造による者であることを示しています。そのすべては神の子と呼ばれています。―ヨブ 1:6。ルカ 3:38,ノックス訳。
イエスが神を父として認められたことは,神がイエスを生み出し,こうしてイエスが初めて存在するようになったことを示しています。死から復活してのち,イエス・キリストは,使徒ヨハネへの黙示の中でそのことを確証されました。「アメンである者,忠実な真実な証人,神の創造の本源であるお方は,こう言われる」。(黙示 3:14)これがイエス・キリストのことばであることは,黙示録 1章5節から明らかです。
ある時イエスは御父がご自分の神であると言われました。もしイエスが実際に神であるとすれば,それは不可能なことです。マグダラのマリアにむかってイエスは言われました。「私をそんなにとめてはいけない,私はまだ,父のもとにのぼっていないからだ。兄弟たちのところに行って,“私の父,またあなたたちの父,私の神,またあなたたちの神のもとに私はのぼる”といいなさい」。(ヨハネ 20:17)イエスは,ご自分の神すなわちイエスをつかわされたかたのもとに上ろうとされていました。ですからイエスの母マリヤが神の母であるはずはありません。
イエスの弟子たちの証言
しかし霊感によってイエス・キリストのことを書いたイエスの弟子たちについてはどうですか。使徒パウロは,復活後のイエス・キリストが天において御父よりも低い地位を占めていることをあかしすることばを,コリント人への前の手紙 11章3節に霊感の下に書きました。「さて私は,あなたたちに,次のことを知ってもらいたい。すべての男の頭はキリストである,女の頭は男である,キリストの頭は神である」。イエス・キリストが神であるなら,そして特に天にもどられてのちは,ご自分の上にかしらを持たないはずです。
コリント人への前の手紙 15章28節は,昇天後のキリストが神に従属することをさらに示しています。「すべてのものがかれの下に置かれるとき,子みずからも,すべてのものをご自分の下に置いたお方に服従するであろう。それは,神がすべてにおいてすべとなるためである。」
しかし「みことばは神であった」と述べるヨハネによる聖福音書 1章1節のことばについてはどうかと,問う人がいるかもしれません。ことばの上でみると,イエス・キリストは神であるように思われます。しかしいまカトリックの聖書から検討したように,それは他の聖句と調和しないゆえに,まちがった結論と見なければなりません。困難はこの句をギリシャ語から英語にほん訳する時に生じます。1808年に出た改訳新約聖書(英文)は,イエス・キリストについて聖書の他の句が述べる事柄と調和するようにこの句を訳しています。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばはひとりの神であった」。これは,ことばは「神とともに」あったという次の節の表現とも一致しています。
イエス・キリストが神であるというまちがった仮定をすることから,イエス・キリストの母マリヤは神の母であるという結論が出ます。しかし聖書があかしするところによれば,イエス・キリストは全能の神ではなく,神の御子また御父の創造の初めであるゆえに,前述の結論は正しくありません。マリヤを崇める何百万の人は,それに惑わされてきました。そしてローマ人への手紙 1章25節に述べられているような人になったのです。「かれらは,神の真理をいつわりに変え,創造主の代りに被造物を拝み,それをとうとんだ。神は世世に賛美されますように」。
被造物の崇拝に人を誤導する宗教組織は,その主張するように,地上において真に神を代表するものではありません。それは聖書の中で「大バビロン」と呼ばれる偽りの宗教の世界帝国の一部です。大バビロンに惑わされた人であっても,神の目に正しいことをしようとする人に対して,黙示録 18章4節はこう呼びかけています。「私の民よ,町を出て,その罪にあずからず,それを打つ災難を受けないようにせよ」。
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忠実を守る子供ものみの塔 1968 | 5月15日
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忠実を守る子供
● 太平洋のポナペ島では,動物を殺して食卓に備える一般の方法が神の律法に反するため,エホバの証人の家族は,肉を食べるのに,家で家畜を殺すか,あるいは他のクリスチャン兄弟から分けてもらった肉を料理する以外に道がありません。あるとき,エホバの証人の一婦人の肉身の兄が,その妹の5歳になる娘に,村の祭りに行って持ち帰ったブタ肉を食べさせようと誘惑しました。しかし,その幼い娘は,「おとうさんと,おかあさんに,いけないと言われていますから,食べません。それに,そのブタ肉には血があるわ!」と,きっぱり断わりました。その家を訪れていた祖母は,その様子を見て,むすこにこう語りました。「この子は親から神の律法にしたがって訓練されているのでお前はこの子に,それを食べるよう納得させることはできないのだよ」。
― エホバの証人の1968年度年鑑より
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