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  • あなたは自分の宗教に何を期待しますか
    目ざめよ! 1979 | 9月8日
    • あなたは自分の宗教に何を期待しますか

      だれであれ信心深い人には,それ相応の理由があるものです。自分に益となると思うものを,その宗教から得ているか,さもなくば得たいと思っているのです。

      初期のキリスト教は,神の言葉を徹底的に理解することや,神およびそのみ子イエス・キリストとの満足のゆく関係に入ることを可能にしました。当時所有していた聖書と霊感による使徒たちの手紙を研究することにより,クリスチャンは自分たちの日常の諸問題に対する解決策を見いだしました。聖書に関する知識は,それらクリスチャンの間に立派な精神を増進させました。同じ信仰を抱く他の人々との交わりからは幸福と満足が得られました。それらの仲間たちは,清潔で,法を守り,愛情深い人々だったからです。初期のクリスチャンは,その信仰に動かされて,自分たちの学んだ真理の知識を他の人々に分け与えました。

      考え方の変化

      宗教がどうあるべきで,また何を行なうべきかに関して,今日見解の大きな変化が見られます。この最近の傾向は,コプリー通信社の発表記事の中で取り上げられています。その記事によると,ローマ・カトリックの司祭,ロウレイ・マイヤーズは,説教の中で説教師がまず第一にすべきことは人々の注意を引くことであるが,聖書を引用するのはそれを行なう誤った方法である,と語りました。同司祭は次のように述べています。「司祭が聖句を引用して話を始めれば,大抵,それだけですでに多くの人を居眠りさせたことになる」。聖書の教えが実際に望まれているとは思えません。その記事は次いでこう述べているからです。「しゅうとめ,十代の若者,アル中の夫,家族の者の病気などの問題に対処するための解決策を求めて,人々が教会へ行くという考えは,今日,非常に一般的になっている」。

      本当に望ましい事柄

      しかし,物事は各個人や会衆の欲するところを中心にして動いているのでしょうか。それとも,人間が必要としていると神が思われる事柄を中心にして動いているのですか。神の述べておられる事柄を知るため聖書に導きを求め,そうすることによって聖書の精神を学ぶなら,配偶者,しゅうとめ,そして子供との関係にかかわる問題や,他の家族および個人的な問題に対処できるようになります。また,聖書が約束している通り,祈りを通して神の助けを期待できます。「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,いっさいの考えに勝る神の平和が,あなたがたの心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:6,7。

      それで,次の三つの極めて肝要な質問が生じます。自分は聖書に基づく宗教を望んでいるのだろうか,それとも社会的,哲学的な宗教を望んでいるのだろうか。また,聖書に基づく宗教を選ぶとすれば,そのうちのいずれが本当に聖書に付き従っているのだろうか。この現代の社会で直面する数多くの問題を抱える人々を助け,同時に霊的な益を与えてくれる面で満足のゆく宗教はどれだろうか。

      検討する

      もし宗教団体に属していて,正しい宗教を確かめたいと思うなら,当然のこととして,ご自分の宗教にまず目を向けられるでしょう。そして,次の三つの点について主に知りたいと思われるでしょう。(1)自分の属している宗教は聖書の理解を得るよう助けてくれるだろうか。その宗教は,研究,知識,神の言葉に対する個人的な信仰による資格のある教師を備え,定期的な,聖書研究を行なっているだろうか。(2)その教理のおかげで,会員の人格や習慣に著しい変化が見られ,その結果,人々は真にクリスチャンらしい生活をしているだろうか。また,会員の間には真の愛と一致が行き渡っているだろうか。(3)自分の属する教会は,クリスチャンの記述者ヤコブがヤコブ 1章27節で真の宗教の特質を描写している通り,『自らを世から汚点のない状態に保ち』,世の低い道徳水準や政治や利己的な闘争などで不純にされていないだろうか。

      この不安定な時代にあって,自分の宗教をもう一度調べなおす人は少なくありません。老若を問わず,今はそうするのに適した時期です。もしご自分の宗教について不安を感じておられるなら,できれば夫か妻,あるいは家族のだれかと一緒に,まず座って,少し聖書を朗読してみるとよいでしょう。聖書語句索引や聖書辞典を用いて,ご自分の教会の教えが聖書と調和しているかどうかを調べてみるのです。それから,ご自分の宗教が良い実を生み出しているかどうかを考慮します。会員となっている人々は,「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」などを表わしていますか。(ガラテア 5:22,23)他の人々に聖書の真理を教えようとする動機づけがありますか。その宗教は,自らを『世から汚点のない状態』に保っていますか。

      ご自分の宗教がこの点で欠けているのに気付いたなら,他の人々が聖書を理解するよう助けることに努めるクリスチャンを捜してみてください。それは,喜んで聖書研究や討議を司会してくれる人々です。それらの人々が,商業的あるいは利己的な動機からではなく,純粋の愛に動かされ,神のみ言葉の平和的な精神のうちにそうしているかどうかを確かめてみるとよいでしょう。それらの人々がキリストの初期の弟子たちの模範に従っているかどうか調べてみるのです。そして,聖書の助言に従って,『互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合っている』それらクリスチャンたちと交わってください。―ヘブライ 10:24,25。

      そうすれば,あなたが宗教に求めておられるものを得,その上,自分の心を本当に満ち足らせるものを得るようきっと神が助けてくださるでしょう。―マタイ 6:33,34。

  • イタリア人が見たカトリック教会
    目ざめよ! 1979 | 9月8日
    • イタリア人が見たカトリック教会

      バチカンにおける最近の事態の進展は,カトリック世界全体に混乱を引き起こしました。司祭や,カトリック教会の位階制と密接な関係を持つ人々は大いに動揺しました。では,イタリアの人々はどうでしたか。

      イタリアのカトリック教徒は,法王ヨハネ・パウロ一世(ルチアーニ)の死を嘆き悲しみました。1978年9月28日のその死に関するラジオやテレビの扱いは異例のものでした。しかし,世評の明らかにするところによれば,人々は概してそのニュースの宗教以外の面により一層関心を抱いていたようです。

      葬儀やコンクラーベ(ローマ法王選挙会)などに関するほとんど絶え間なく流れるニュース速報のために,劇映画やその他の人気番組が取消しになったことに不満を抱くイタリア人は少なくありませんでした。ヨハネ・パウロ一世の死に関して,レスプレッソ誌の10月8日号は,全国向けニュース番組のディレクターの次のような言葉を引用しています。「パウロ六世の死に際して行なったように量と質の両面で大衆を絶えずニュース責めにするなら,我々は大衆に対して確かに敬意を示していないことになる」。

      また,法王選挙に当たって,宗教的な資格よりも,政治的な資格のほうが大きな力をふるったという感があります。新聞報道は,ヨハネ・パウロ一世の後継者の選挙の背後にある「政治的策動」を大々的に取り上げました。10月3日付のイル・メッサジェロ紙は,その第一面に,「ルチアーニのような魂の牧者,それとも“政治志向の強い”法王」と問いかける見出しを掲げました。そして,10月7日付の,「ベネリの駆引き」に関する記事は,その有力な枢機卿の後継法王選挙における策動を取り上げていました。ルチアーニの選出の前でさえ,ラ・ナチョーネ紙は,8月27日付のその紙上で,こう述べていました。「ここ数日の間,様々な枢機卿とその政治的な立場,およびその出身地を分析することが重要視されすぎて,今日,カトリック教会の陥っている危機が忘れ去られている」。

      ヨハネ・パウロの死に関する疑惑

      政治的な陰謀に対する疑惑は,ヨハネ・パウロ一世の突然の死によって高まりました。「法王は殺害されたのだ」とか,「法王は政治的な理由で殺されたのだ」という意見が度々聞かれました。10月2日付のコリエレ・デラ・セラ紙に引用された,一社会学者の注解はこうです。「法王が毒殺されたといううわさ話が広まったのは,実に複雑怪奇である」。パノラマ誌の10月10日号(に掲載された,「法王は殺されたと人々が言うのはなぜか」と題する短い記事)は,こう述べています。「ローマでは,こうした疑惑がすぐに人々の心の中に広まった。あたかも時計が500年昔に引き戻され,法王アレクサンデル六世とその子供たちであるルクレツィアとチェーザレの誘発したボルジア家の陰謀の時代にまで戻ってしまったかのようである。タクシーの運転手も商店主も,ここ数日間,話の種と言えば,法王の死の背後には何らかのたくらみがあったに違いない,ということばかりであった」。

      しかし,疑念を抱いたのは一般大衆ばかりではありません。幾つかの新聞は,法王の死をなぞとし,捜査をするよう提案する見出しを掲げました。カトリック伝統主義者運動である,“チビルタ・クリスティアーナ”の書記はこう述べています。「教皇の死をめぐる特定の状況やその死因に関するうわさや困惑や疑念は数多く,多種多様である。その理由で,司法当局が議論の余地のない証拠を提出するのはふさわしいことだと思う」。この書記の所見を伝えたコリエレ・デラ・セラ紙は,“チビルタ・クリスティアーナ”が査問を求める要請状をバチカン当局に提出したことをも述べています。

      この問題に対する大衆の関心が高い一つの理由は,ヨハネ・パウロ一世がその素朴な言葉遣いで大いに大衆の好感を買っていたことにあります。ある人に言わせれば,その言葉遣いは,『田舎の教区司祭のよう』でした。多くの人は,同法王が,新法王の支配の始まりを印付ける就任式での三重冠の使用の廃止を決意したことを歓迎しました。また,当初,群衆から見えるように法王を乗せて運ぶ移動用の法王座の使用を廃止しようとしたことも好感を買いました。もっとも,同法王は考え直して,就任式に用いるこの後者の法王座のほうは受け入れました。

      法王冠の否定は意味のあることだったか

      F・マルジオッタ・ブローリオは,ラ・ナチョーネ紙(1978年9月3日)上で,ルチアーニが法王冠を否定したことには,確言されているよりも重大な意味があることを示唆しています。ブローリオはこう述べています。「ここで,法王の下したこの最初の決定を批判するつもりはないが,一度“主権の象徴”なしにやってゆくという決定が下されたなら,その決定の導く論理的な結論まで貫徹されるべきだった,という点を指摘したい。それは,王族の前同僚,儀式用のサーベル,ブルボン家の支配の名残りであるトソン・ドロなど,法王の支配と結び付いた他の“世俗的な”つまらないものの存在を拒否することになる。……勇気をもって霊的な現実に戻ることによってのみ,カトリック教会は法王モンティニ[パウロ六世]の新俗世主義の痕跡を一掃できる」。

      日刊紙ラ・レプブリカに投書した人は,さらに強い語調で語っています。虚飾,儀式,そして法王を取り巻く富を公然と非難し,結論としてこう述べています。「私は宝石で飾り立てられた教皇の崇拝者ではないし,アラビアン・ナイトから出てきたようなバチカンに魅せられているわけでもない。私がヨハネ・パウロに送りたいと思っているメッセージは,福音書の中に収められている。親愛なる教皇様,その本を開いて,それをよく読まれるとよい。そして,一貫してそれを実践し,それらの富すべてを捨て去って,他の人々に与え,最低限必要なものだけで生活されるとよい。玉座から下りて,一般大衆と話されることを望む」。

      新法王,ヨハネ・パウロ二世(ボイティワ)について言えば,同法王が教理や教会組織に著しい変化をもたらすかどうかはこれからの進展を見なければなりません。法王になる前に,同法王は自分がパウロ六世の回勅,ウマネー・ビテーの内容に全く同意していることを明らかにしました。その回勅の中には,避妊具や避妊薬,そして産児調節に反対する態度も含まれています。10月18日付のコリエレ・デラ・セラ紙は“聖母マリア”に対する法王の崇敬の念に言及し,現法王の制定した紋章の中にその頭文字である“M”が含まれていることを述べています。これら二つの事実は,これからの改革が表面的な性質のものに終わり,カトリック教会に何ら本質的な変化をもたらさないことを示唆していると受け取られています。

      カトリック教会の直面する諸問題

      イタリアの人々がカトリック教会に対してどう考えているかは,諸教区の状態を見れば明らかでしょう。9月29日付のイル・メッザジェロ紙は,司教区の僧職者の大会で,ローマのポレッティ枢機卿の行なった演説を引用しています。その演説の中で,同枢機卿はローマ司教区自体に存在する危機的な状態を描写してこう言明しています。

      「ローマには,教区の教会や建造物のない教区が68あり,それらの教区は住民にとっても司祭職にとっても霊的に惨めな状態にある仮の建物で運営されている」。

      ポレッティの説明によると,三万ないし八万の住民を抱える「途方もない規模」の教区が数多くあり,ただ秘跡を執り行なうだけで大仕事になり,その結果,「真の福音宣明」がないがしろにされている。また,同枢機卿によると,完成の暁には15万人以上を収容するようになる新住宅地区が数多くある。ところが,そのような地区に「仮の崇拝の場所を取り決めることさえできず」,市内のそうした地区は「放置され,大衆的な異教思想へと堕落するに任される ― 何という福音宣明なのだろう!」

      同じような影響を被っている地方はほかにもあります。例えば,パレルモは少なくとも20の新しい教区教会を必要としていると言われています。ジォルナーレ・ディ・シチリア誌の伝えるところによると,一スポークスマンは,「しかし,そうした教会を設立するための司祭と物質面の資産がない」と語っています。「教区教会についてどんなことが言えるだろうか」とこの雑誌は尋ね,こう述べています。「それらの教会は,人々が何かを必要とするときにだけ立ち寄る“ガソリンスタンド”のような所と化している。教会の組織がスムーズに運営されている所はなく,全く機能していない所さえある。司祭が祈ることはいよいよ少なくなっている。……若い司祭たちは,進歩とみなされるべき事柄について間違った概念を抱く場合がある一方,他の司祭たちは時代遅れの見解に凝り固まったままでいる。その結果,この対照が二つのカテゴリーの間でしばしば爆発し,教会の特定の活動をまひさせることになる」。

      混乱と不信

      これらの事柄すべては,司祭階級に質を低下させるような影響を及ぼし,それは当然のこととして,懐疑主義,無関心,そしてある場合にはカトリック教会に対する信頼と確信の欠如という形で一般の人々にも伝わりました。すでに1976年当時,一司祭はセミナーリという宗教雑誌の誌上で,次の事実を公然と非難しました。「若い司祭の中には,カトリック教会の不倶戴天の敵でさえ行なわないような仕方で,カトリック教会,教皇,そして司教について語る者がいる。それでも,彼らは司祭なのである」。

      ですから,イタリアのカトリック信徒の間には混乱が見られます。ミサの中のラテン語の廃止や金曜日に肉を食べないようにという戒律の廃止などの変化に不快な感情を抱いた人もいますが,そうした変化をささいなこととみなす人もいます。後者に属する人々は,もっと大々的な変化,つまり,人々の日常生活と関係する性質の変化を求めています。

      僧職者に対する敬意が薄れてきていることは,ジュゼッペ・ボーブ著の「聖職に関する探究」という本になって出版された調査の中で明らかにされています。この本は,司祭にしばしば向けられる批評を分析しています。調査の対象になった人々の69%は司祭の言動が一貫していないと言い,司祭は金を愛している(インタビューの対象になった人々の52%),一般の人々から離れすぎている(33%),この現代の世を理解していない(30%),童貞の誓いに忠実ではない(25%),政治に介入している(23%),役に立たない(21%),時代遅れ(15%)であると述べています。

      では,イタリアでのカトリック教会にはどんな将来があるのでしょうか。それは時がたってみないと分かりません。しかし,審判者としてのキリストが,ご自分に信仰を働かせ,神の任命による王また大祭司であるご自分に従うと称える機関すべて,またそのように称える人々すべてに裁きを行なわれることは確実です。その教理や教会機構が神のみ言葉の中に定められているキリスト教の要求に達しないなら,キリストから与えられるいかなる祝福も受けられなくなります。ですから,そのような機関や個人は,立つことができません。―ペテロ第一 4:17,18。ヘブライ 4:12。ナホム 1:6と比較してください。

  • イタリアで高まる聖書への関心
    目ざめよ! 1979 | 9月8日
    • イタリアで高まる聖書への関心

      イタリアの誠実な人々の多くは,生活上の諸問題に対する解決策を求めて神のみ言葉を調べています。そうした人々は,その解決策を見いだして喜び,神のしもべになり,またそのメシア王国の宣明者になっています。幾つかの典型的な,実際の経験談は,神についてもっと知ろうとするそうした人々の強い願いやそのためにそれらの人々の克服してきた障害を明らかにしています。

      名目上はクリスチャンであっても,多くの人にとって,聖書を見たり読んだりするのは初めて,という場合は珍しくありません。一人の誠実な人の場合がそうでした。その人はこう語っています。

      「私はカトリック教徒でしたが,余り勤勉に教会へ通っていたほうではありませんでした。しかし,教会へ行くときは,ある種の確信と真剣さをもって行きました。それでもむなしい気持ちが心の中にますます広まってゆき,神の崇拝者としてもっとふさわしい者になりたいと心から願うようになりました。私は聖書の知識がありませんでしたので,聖書を読んでみようかと考えるようになりました。兄はカトリックの司祭でしたので,聖書を一冊求めてほしいと頼みました。兄は私に一冊プレゼントしてくれ,『読んでみたまえ,それから話し合おう』と言いました。読み始めると,間もなく,聖書の教えとカトリック教会の教えのきわだった相違に気づくようになりました。そのころ,一人の友人が,トリノで出会ったエホバの証人について話しました。そこで私は彼らを尋ね当て,聖書研究をしてもらうよう取り決めました。兄は私を思いとどまらせようとあらゆることを行ない,一時はそれに成功しましたが,やがて私は研究を再開し,進歩して,1974年にバプテスマを受けました。

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