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「互いを迎え入れなさい」ものみの塔 1981 | 9月15日
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「互いを迎え入れなさい」
「ですから,キリストがあなたがたを迎え入れてくださったように,神の栄光のため,互いを迎え入れなさい」― ローマ 15:7,改訂標準訳。リビングバイブル。
1 (イ)国際連合機構の成員国として,幾つの国に歓迎の言葉が語られましたか。(ロ)同機構は何を生み出すことができませんでしたか。そしていつも何に対する恐れがありますか。
国際連合機構への加入を歓迎する言葉は,これまで154の国々に対して語られてきました。その成員国は,皆が皆同じ政治イデオロギーを持っているわけではありません。それらの国々は敵対的な態度さえ抱いていますが,国際連合の中では“仲のよい敵”であろうと努めています。詩人でジャーナリストの一米国人が述べた,「連合すれば我々は立ち,分裂すれば我々は倒れる」という言葉の真実性を,これらの国々はよく理解しているように思われます。国際連合は世界の平和と安全のための機構であると主張します。それでも,第二次世界大戦が終結した1945年から今に至るまで,米国の政治家ウェンデル・ウィルキーが「一つの世界,一つの政府」という言葉で言い表わしたものは生み出されていません。ですから,核兵器による第三次世界大戦が勃発するのではないかという恐れが次第に高まっています。
2 一つの国の内部にさえ,仲間の住民に迎え入れてもらう点でどんな事が妨げになる場合がありますか。
2 国際連合に加盟している国の内部にさえ,自分たちの社会的グループに他の仲間の住民すべてを迎え入れることはしない人がいるかもしれません。偏見が物事を支配しています。富んだ人は貧しい人を迎え入れません。ある宗教の会員は他の宗教の人を迎え入れません。ある政党の支持者は対立する政党の人々を迎え入れようとはしません。高い教育を受けた人々は,教育のない,あるいは教育のほとんどない人を卑しむべき人とみなします。他の人と皮膚の色が違う人々はそのことによって不利な影響を受けるかもしれません。どんな血筋の人種であるかということも重大な影響をもたらす場合があります。大きな人間家族の仲間の一員であるという根拠に基づいて,全体が一致してある人を迎え入れる,というようなことはありません。ですから,人がどんな所に出入りできるかは,個人的反感や敵意によって決められてしまいます。
3 (イ)キリスト教世界は,前述の事がらに関し例外とはなりません。なぜですか。(ロ)国際連合は,キリストによる神の王国の表現という点で,国際連盟より優れていることを示しましたか。
3 キリスト教世界はキリスト教の国から成る社会であるとされていますが,同世界にはこうした事がらすべてがあてはまります。彼らは名前だけのクリスチャンであるため,イザヤ書 2章4節(新)に預言されている事がらに幾度となく背いてきました。そこにはこう記されています。「彼らはその剣を鋤の刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。キリスト教世界に住む名前だけのクリスチャンは国家主義的になり,たとえ自分が命を失うことになろうと,あるいは敵の命を奪うことになろうと,祖国への愛ゆえに戦うでしょう。1918年の12月にアメリカ・キリスト教会連邦協議会は,その時提唱された国際連盟を「地上における神の王国の政治的表現」と呼びましたが,キリスト教世界の人々は国際連合組織について喜ぶべき確かな理由を見いだせないでいます。確かに,国際連合組織はキリストによる神の王国の表現とはなっていません。
4 イザヤの預言から引用したパウロは,「以前に書かれた事がら」について何と述べましたか。
4 しかし,先に引用した,国民が国民に向かって剣を上げず,もはや戦いを学ばないという言葉は,イエス・キリストに真実に見倣う人々の中で成就しています。平和愛好者であられたこの神のみ子は,以前に書き記されたイザヤの預言を何度も引用されました。ご自分の追随者たちを教えるためにそうされたのです。そうした追随者の一人である使徒パウロは,西暦1世紀にローマにいたキリストの弟子たちに手紙を書き,次の事を思い出させました。「以前に書かれた事がらはみなわたしたちの教えのために書かれたのであり,それは,わたしたちが忍耐と聖書からの慰めとによって希望を持つためです」― ローマ 15:4。
5 忍耐に関して,パウロや仲間のクリスチャンたちへの最も優れた模範を備えたのはだれですか。
5 聖書の中に前もって書かれた事がらの成就として,イエス・キリストは政治犯のように,刑柱上での侮辱的な死に至るまで,非難と迫害を耐え忍ばれました。そのように極限まで忍耐されたことによって,イエスは弟子たちに対する完全な模範となられました。その模範は,最後まで忠実に耐え忍ぶよう弟子たちを力付けるものとなります。
6 (イ)イエスが刑柱上でご自分の希望を保持されたことを何が示していますか。イエスは耐え忍ぶためにどのように強められましたか。(ロ)イエスの場合と同じように,その追随者たちの希望と忍耐についてもどんな事は真実ですか。
6 イエスはご自分の地上での歩みの最後に至るまでじっと忍耐されたので,神から与えられた希望を保持されました。そのためイエスは,自分の傍らの刑柱に付けられた同情心に富む泥棒に向かって,「きょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言うことができました。(ルカ 23:43)苦しみの刑柱上でのこうした困難な時に,イエスは自分に関係した「以前に書かれた」事がらを思い起こすことによって多くの慰めを味わい,そのようにして非常に強められました。エホバ神とイエス・キリストの上に幾度も浴びせられてきた非難を身に受ける献身した追随者たちも,それに劣らず,聖書中に霊感を受けて記された将来に対する希望をしっかりと保ち続けます。彼らもまた,「以前に書かれた」聖書によって,言い尽くせぬほどの慰めを得ています。彼らの希望は,最も信頼できる聖書に基づいており,「失望に至ることはありません」。―ローマ 5:5。
7 会衆全体は,だれが持っていた精神態度を持つべきですか。これは彼らが神の栄光をたたえることにどんな影響を及ぼしますか。
7 わたしたちが行なうべき事は,イエス・キリストが自分に敵する世の中で味わった苦しみの間じゅう持っておられた心構えを持つことです。この点と一致して,使徒パウロは次のような祈りを記しています。「それで,忍耐と慰めを与えてくださる神が,キリスト・イエスと同じ精神態度をあなたがた互いの間に持たせてくださるように。それは,あなたがたが同じ思いになり,口をそろえて,わたしたちの主イエス・キリストの神また父の栄光をたたえるためです」。(ローマ 15:5,6)わたしたちの模範であられるイエス・キリストに倣うこのような精神態度を培うことによって,わたしたちはその弟子たちの会衆として一致を保つのです。集団として同じ精神態度を抱いているなら,当然同じような事がらを語るようになります。こうして,『ひとつの口』が会衆全体を代表し,より力強く,より深い感銘を与える形で語っているかの観を呈するのです。これは極めてふさわしいことです。神であられ,わたしたちの主イエス・キリストのみ父であられる方の栄光を一致してたたえることは,いくら強調しても強調し過ぎることはありません。栄光を受けるべき方に関して,わたしたちの声はよく混じり合わなければなりません。そうしなけれは,聞く人々は伝えられる音信について戸惑いを覚えるでしょう。
キリストに似た,迎え入れる態度
8 パウロが手紙を書き送ったローマの会衆の一致に影響を及ぼしかねないどんな事情がありましたか。
8 現在の事物の体制の多くの組織や団体の内部には,大部分の人々が国家的あるいは人種的な偏見のゆえに,新しく来た人々を受け入れようとしないという傾向が見られるかもしれません。教育程度の相違が絡んでいるとか,宗教が違うなどということがあるかもしれません。西暦1世紀の古代ローマの時代にも,このような分裂を起こしかねない幾つかの原因がありました。
9 当時のローマの会衆はどんな人々から成っていましたか。また個人の交わりの好みについて不一致をもたらしかねないどんな事情がありましたか。
9 使徒パウロは,その国際都市ローマにはまだ到着していませんでしたが,間もなくそこに行くことを願い,同地の会衆に宛てて霊感を受けた手紙を書き送りました。完全な模範としてのイエス・キリストの近付きやすさに注意を喚起してから,パウロは次のように述べました。「それゆえ,神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,あなたがたも互いを迎え入れなさい」。(ローマ 15:7)「聖なる者となるために召され,神に愛される者としてローマにいるすべての人たち」には,例えば,割礼を受けた生来のユダヤ人と無割礼の異邦人つまり非ユダヤ人,自由人,奴隷が含まれていました。(ローマ 1:7; 3:1-6。フィリピ 4:22)ですから,これらローマのクリスチャンたちの中には,宗教的な背景や社会的な立場の相違があり,そうした事が相まって見解や良心の働きの面で多様性を生み出していました。そうした状況ゆえに,交わりをえり好みする傾向も生じかねない状態でした。
10 わたしたちが互いを迎え入れる仕方について,イエスはどのように模範を残されましたか。イエスは何を目ざしつつそのように行なわれましたか。
10 パウロはこうしたものすべてを払いのけ,「互いを迎え入れ(る)」よう,そして仲間のクリスチャン,仲間の信者に対する真実の感謝のうちに,温かく,真心をこめ,誠実にそのことを行なうよう彼らすべてに勧めました。「キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように」そうすることをパウロは述べているのですから,この点に関して従うべき完全な模範があったことになります。イエスは地上におられた時,「わたしのもとに来る者を,わたしは決して追いやったりはしません」と言われたのではありませんか。(ヨハネ 6:37)その通りです。イエスは完全な人間であられたので,わたしたちの不完全さと罪深さゆえにわたしたちを近付けずにおくこともおできになりましたがそうはなさいませんでした。なぜでしょうか。パウロは,「神の栄光となることを目ざしつつ」という言葉を添え,その理由を説明しています。キリストはご自分に信仰を持つあらゆる人々を迎え入れ,神に栄光をもたらされました。それは神の寛大さと,み子イエス・キリストの贖いの犠牲を通して全人類が救われるようにとの神の願いを際立たせることだったからです。そのことは,イエスご自身の次の言葉にもよく表わされています。「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(ました)」― ヨハネ 3:16。
11 新しく来た人を温かく歓迎することは,なぜ神の栄光をたたえることにつながりますか。そして復活したイエスは,ガリラヤでご自分の弟子たちに何を行なうように告げられましたか。
11 同様に,わたしたちが真理を求める人すべてを,人種,皮膚の色,以前に属していた宗教,社会的な立場,世俗的な教育などにかかわりなく会衆の中に迎え入れるなら,神の栄光をたたえることになります。このようにして迎え入れられた人々は,そのことによってエホバ神に対する正しい見方を持つようになります。ご自分が霊的な頭となっておられる会衆に真の信者すべてを喜んで迎え入れるということを示すものとして,復活したイエスは,「諸国民のガリラヤ」で,ご自分の弟子たちに,行なうべき事を次のように告げられました。「行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」。―イザヤ 9:1,新。マタイ 28:16-20。
12 (イ)他の人々を迎え入れる際に神の栄光となることを目ざすなら,わたしたちにとってどんな益がありますか。(ロ)わたしたちが家から家に行くなら,流血の罪を神に負わせることは全くできなくなります。なぜですか。
12 わたしたちが来る人すべてを差別することなく迎え入れる際,「神の栄光となることを目ざしつつ」そうしていることを思い起こすのは大きな励みとなります。迎え入れられる人々は,それによって心温まる神の寛大さを認識し,自分から神の栄光をたたえるようになります。集会場から外へ出て,会う人ごとに神の王国の良いたよりを告げ知らせるべく家から家へと行くとき,わたしたちは「神の栄光となることを目ざしつつ,キリストがわたしたちを迎え入れてくださったように,……互いを迎え入れ(ている)」ことを表わしているのです。わたしたちの訪問する人が王国の音信に感謝するか否かにかかわりなく,こうした歩み方は結果として,わたしたちが証人となっている神の栄光をたたえることになります。この王国の音信を受け入れる人々は,やがては,自分たちの所に王国の使者を遣わしてくださった神の栄光をたたえる業に共に加わるようになります。神から与えられた救いの音信を受け入れない人々は,エホバ神が自分たちのことを考えておられたこと,自分たちの所に忠実な証人たちを遣わされたこと,それゆえ自分たちには,神を責めるべき理由が全くないことを将来のいつか悟るようになるでしょう。(エゼキエル 33:33)こうして神は,彼らの血に関して潔白の状態を保たれるのです。
大工から「奉仕者」へ
13 神が,当時の世界の他の国民と比べて人数の少ない国民に最初の機会を与えたことで神を不公平だとして責めることができないのはなぜですか。
13 ところで,神の備えの益にあずかる機会は,最初だれに開かれたでしょうか。それは聖書をわたしたちに伝えてくれた国民でした。彼らは生来のユダヤ人です。そうすると神は不公平な態度を示しておられたのではないでしょうか。とりわけ1,900年前でさえ非ユダヤ人の方が割礼を受けたユダヤ人より多かったことを考えてみるとそうした疑問が生じます。表面的にはそう見えるかもしれません。しかし神は手始めにだれかを選ばなければなりませんでした。神が最初にお選びになったのは割礼を受けたユダヤ人でした。神は彼らの先祖を通して特別な約束を交わしておられました。しかし神がこうした道を選ばれた結果及ぶ益は,厳密に言って生来のユダヤ人すなわちヘブライ人だけに限られているわけではありません。ではそのことについて不平を述べる正当な根拠があるでしょうか。全くありません!
14 そのため,天からの神のみ子はどんな種族の人間になる必要がありましたか。そして自分と同じ種族の人々から,み子はどのような扱いを受けましたか。
14 神がそれ相当のふさわしい人々と,その人々の生来の子孫つまりユダヤ人に関して破れることのない約束を交わされたということを決して忘れてはなりません。したがって,神のみ子は天のみ父のこれらの約束を果たすために天から下って来なければなりませんでした。そのためみ子は,多くの国々から憎まれていた人種,神が国家的な契約を結ばれた民の一員として生まれる必要がありました。それでも,ユダヤ人としてさえ,神のみ子は仲間のユダヤ人の大多数からは受け入れられませんでした。その点について,神のみ子の地上での生涯に関して書き記したある人は,「彼は自分のところに来たのに,その民は彼を迎え入れなかった」と的確に記しました。―ヨハネ 1:11。
15 イエスはナザレでどんな種類の仕事をしましたか。そうすることにより,イエスは「割礼を受けた者たちの奉仕者」として仕えていたのですか。
15 それで,生来のユダヤ人だけで構成されていたわけではないローマの会衆のクリスチャンに対し,ユダヤ人の使徒パウロはこのように書きました。「わたしは言いますが,キリストは実に,神の真実さのために,割礼を受けた者たちの奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の真実さを証拠だて,諸国民がそのあわれみのゆえに神の栄光をたたえるようにされたからです」。(ローマ 15:8,9前半)発育期にあったイエスはガリラヤのナザレで,養父つまり割礼を受けたユダヤ人ヨセフの家で大工の仕事を学ばれました。ユダの部族に生まれたので,イエスは祭司の家系,つまり神殿のレビ人の部族に属していたわけではありません。血筋から言うと,イエスはエルサレムの神殿の僕たちの立場を得ることはできませんでした。しかし神のみ子イエスは,単に大工として仕え,死ぬために地上に来られたのでしょうか。そうではありません。ですから,イエスが「割礼を受けた者たちの奉仕者」となられることには,養父ヨセフと同じ大工になること以上の意味があります。
16 大工としてナザレの町の人々に仕える以上のことをするため,イエスは何を行ない始められましたか。
16 もしイエスがその生涯中に,ナザレでの大工の仕事以上のことを行なわれなかったとしたら,予告されていた奉仕の務めを実践できなかったに違いありません。そのため,天のみ父であられるエホバ神は,イエスがナザレの町の人だけではなくその国民全体の「割礼を受けた者たちの奉仕者」となるよう,新しい事をイエスに行なわせられました。そういうわけで30歳の時を最後に,イエスは大工の職を離れました。
17 バプテスマを受けて油そそがれたあとのイエスの業と,神殿のユダヤ人大祭司の奉仕とを比べてみるとどんな事が分かりますか。
17 イエスは,レビ人であるバプテスマを施す人ヨハネから水のバプテスマを受け,神の聖霊によってバプテスマを受けたあと,どんな種類の業を開始されましたか。それは,エルサレムにおける真の神の「奉仕者」であった神殿の祭司やレビ人の仕事よりも劣るものでしたか。事実に通じている人であれば,イエスは単なる宗教的職業ではなく公の奉仕,つまり「奉仕の務め」を始められたことを認めるでしょう。聖書の英国改正訳は適切にも,そのことを次のように表現しています。「キリストは,神の真理のため,割礼の奉仕者とされた。それは父祖たちに与えられた約束を確証するためである」。(ローマ 15:8。ジェームズ王欽定訳もご覧ください。)間違いなくイエスは,国家的な奉仕を行なっておられたのであり,人間ではなく宇宙の主権者であられる神の任命によって,聖職者といえる職務に携わっておられたのです。イエスが地上での仕事を替えたあとに行なわれた事は,エルサレムのユダヤ人大祭司の宗教的な奉仕よりもはるかに重要なものでした。
18 地上のどの国からも「奉仕者」としては認められなかったとはいえ,イエスが「奉仕者」として仕えたのは「割礼を受けた者たち」であったと言えるのはなぜですか。
18 イエス・キリストはエルサレムの神殿で何らかの宗教的な奉仕を行なって,そこの祭司やレビ人たちと競い合ったりすることはできませんでしたが,同じように,ローマやアテネなどにあった非ユダヤ人の国民の神殿で宗教的な奉仕を行なうことももちろんできませんでした。またそうしようともされませんでした。それでもイエス・キリストは,神の真実さのために「割礼を受けた者たちの奉仕者」となる務めを負っておられました。なぜそう言えますか。「神が彼らの父祖[異邦人ではなくヘブライ人]になさった約束の真実さを証拠だて」なければならなかったからです。例えば,彼らの「父祖」であるアブラハムは3人の女性によって多くの息子たちをもうけましたが,神はアブラハムとの約束を受け継ぐ人として,アブラハムの最初の妻サラから生まれたひとり息子,すなわちイサクを選ばれました。次にイサクは双子の息子をもうけましたが,神はそのうち年下のヤコブ,のちにイスラエルとなった者を選び,地上のすべての国の人々が祝福を受ける基となる「胤」に関するアブラハムの約束を受け継がせました。やがてヤコブの12人の息子たちはイスラエルの12部族を生み出し,神はモーセを仲介者として,一国民としての彼らと国家的な契約を結ばれました。
19 イエスがレビ族の一員として生まれなかったのはなぜですか。イエスが地上に来ることをだれが,またどこで迎え入れましたか。
19 その後,イスラエル国民がエホバの目に見える代表者として人間の王を持つことを選んでから,神はユダ族のダビデ王に対し王に関する約束をなさいました。そのため,約束のメシアつまりキリストはダビデの家系に生まれなければなりません。そういうわけで,イエスはダビデの故郷ベツレヘムで,ユダヤ人の処女マリアから,ダビデの後継者として生まれたのです。天のみ使いたちはイエスを地上に迎え入れました。こうして天からの神のみ子はどうしてもユダヤ人として生まれなければならなくなりました。み父である神の破れることのない約束は確証される,つまりその正しさが証明されなければなりませんでした。神はご自身が偽り者として証明されることをお許しになりませんでした。
20 イエスは「割礼を受けた者たち」の一人となられましたが,非ユダヤ人の国民にどんな事が起こることになっていましたか。なぜですか。
20 イエスは心から喜んで天のみ父と協力されました。こうしてイエスは「実に……割礼を受けた者たちの奉仕者とな(られ)」ました。彼らと同じように割礼を施されたのです。イエスが死んで復活されたあとの3年半の期間は,割礼を受けたユダヤ人に特別な恵みが示されました。それでも,無割礼の異邦人,つまり非ユダヤ人がエホバの神権組織に迎え入れられる時が来ようとしていました。これは,人間に対するエホバの破れることのない,約束の確かさを裏付けるものとなるはずでした。
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「諸国民よ,彼の民とともに喜べ」ものみの塔 1981 | 9月15日
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「諸国民よ,彼の民とともに喜べ」
1 今なおモーセの律法を守っているユダヤ人たちはなぜ,諸国民が,「彼の民とともに喜べ」,と求められているその「彼の民」ではないのですか。
諸国民すべてが,「彼の民とともに喜べ」,と求められているその「彼の民」とは一体だれでしょうか。(ローマ 15:10)それはユダヤ人の民ではありませんでした。今なおモーセの律法を守ろうとする生来のユダヤ人は,西暦70年以来1,900年にわたって憎まれ,迫害されてきました。西暦70年と言えば,古代エルサレムが,ローマのティツス将軍の率いる軍隊によって滅ぼされた年です。奇妙なことに生来のユダヤ人自身でさえ,「彼の民」つまりエホバの民とともに喜んではいません。西暦前1473年に歌われた,霊感による歌の最後を,ユダヤ人の預言者モーセは次のように結んでいます。「諸国民よ,彼の民とともに喜べ。その僕たちの血のために復しゅうなさるからである。その敵対者たちに復しゅうをし,その民の土地のためにまさに贖罪をされるのである」― 申命 32:43,新。
2 イエスの追随者たちが「やみの権威から……ご自分の愛するみ子の王国へ」移されるようになったのはいつからですか。
2 パウロがモーセのこの言葉を引用し,また適用した西暦56年ごろ,イエスはそれよりかなり前の西暦33年にすでに死んで復活し,天に上っておられました。したがって同年のペンテコステ以後,「彼の民」すなわちエホバの民は,霊によって生み出された,イエス・キリストの献身しバプテスマを受けた弟子たちでした。それから幾年かたった西暦60-61年ごろに,パウロはコロサイのエホバの「民」の成員に手紙を書き,こう述べました。「あなたがたを光にある聖なる者たちの相続財産にあずかるにふさわしい者としてくださった父[エホバ]に感謝をささげ(ま)す。神はわたしたちをやみの権威から救い出し,ご自分の愛するみ子の王国へと移してくださいました」。(コロサイ 1:12,13)このように移し始められたのは,イエスが天に戻られたあと,西暦33年のユダヤ人のペンテコステの日(シワン6日)のことでした。
3 神の愛するみ子の霊的な王国にこのように移されることによって,彼らは王のための何になりましたか。
3 その日,天の父は栄光を受けた王であるみ子イエス・キリストを通して,エルサレムで待機していた約120人の弟子たちにまず最初に聖霊を注がれました。こうして彼らは,この世のやみの権威の下から神の愛されるみ子イエス・キリスト,つまり「世の光」の霊的な王国へと移されたのです。(ヨハネ 8:12)その霊的な王国はエホバ神によって設立されました。霊的な王イエス・キリストは,その王国内でエホバの国務大臣<ミニスター>として仕えました。この職務<ミニストリー>を果たすに際して,イエス・キリストは地上にいる霊によって生み出されたご自分の弟子たちを,「キリストの代理をする大使」として用いられます。(コリント第二 5:20)英国改正訳によれば彼らは,「それゆえに,キリストのための大使」です。こうした「大使」には確かに職務,つまり公務があります。
4 (イ)したがって,諸国民がともに「喜ぶ」べき神の民は,どんな人々で構成されていますか。(ロ)異邦諸国民は,何に関して神の栄光をたたえますか。
4 霊的イスラエルの構成員ではない諸国民すべてはそのような大使とともに「喜ぶ」べきです。何に関して喜ぶのですか。クリスチャン奉仕者として大使の務めを持っていたパウロは,ローマの会衆に手紙を書き送った際に次のように述べ,それに答えています。「キリストは実に,神の真実さのために,割礼を受けた者たち[生来のユダヤ人]の奉仕者となり,こうして,神が彼らの父祖になさった約束の真実さを証拠だて,諸国民がそのあわれみのゆえに神の栄光をたたえるようにされた(の)です」。(ローマ 15:8,9前半)異邦「諸国民」に対する神のあわれみとはどんなものでしたか。
5 (イ)無割礼の異邦人に対する神の「あわれみ」とはどのようなものでしたか。(ロ)いつまただれに関して,「あわれみ」が示されるようになりましたか。その人々はどこに入ることが許されましたか。
5 西暦1世紀当時,神の「あわれみ」は次のように示されました。エホバ神は,無割礼の異邦人(つまり諸国の民)が,ご自分と割礼を受けたユダヤ人の父祖たちとの間で交わされた「約束」の下に来ることをお許しになったのです。無割礼の非ユダヤ人の場合,それは西暦36年に始まりましたが,この年に,カエサレアに住んでいたローマの百人隊長コルネリオとその家族およびその友人たちが,使徒ペテロの職務を受け入れ,神の聖霊によって油そそがれてバプテスマを受けました。(使徒 10章)コルネリオとその家族がローマの会衆の成員になるためにカエサレアを離れ,イタリアに戻ったかどうか,それは定かではありません。ローマの会衆は当時,割礼を受けたユダヤ人の信者と,恐らくユダヤ教への「改宗者」によって構成されていたものと思われます。(使徒 2:1-10)しかしその時以降,神は信仰を持つバプテスマを受けた異邦人たちに「あわれみ」をお示しになり,無割礼であるにもかかわらず,彼らがご自分の愛するみ子の霊的な「王国」に入るのをお許しになりました。
6 (イ)パウロの時代に,神の「あわれみ」は諸国民が何の成員になることにおいて示されましたか。(ロ)神の「あわれみ」にあずかるこれらの人々が,世の政府の職務に荷担できないのはなぜですか。
6 こうして,割礼を受けたサマリア人や割礼を受けたエジプト人であろうと,無割礼の非ユダヤ人であろうと,「諸国民」は「アブラハムの胤」の成員になるという恵みを受けました。その胤によって地の全家族は必ず自らを祝福します。(創世 12:3; 22:15-18。ガラテア 3:3-29)今のところこれらの人々は,神の愛するみ子の霊的王国にいますが,地上での死に至るまで忠実を証明する人々は皆,復活して神の天の王国に入ります。そこで彼らはキリストと共に1,000年間統治し,地の全家族を祝福します。(啓示 20:4-6)一方,肉の体で地上にいる間,彼らには「キリストの代理をする大使」として課せられる「奉仕の務め」があり,キリストによるエホバの王国に関する「みことばの奉仕」に携わります。こうした理由で,彼らは悪魔が支配するこの世の政治上の政府の奉仕者には,とてもなれません。―使徒 6:4。
諸国民の中で公に認める
7 これらの「大使」はこの世の闘争に対しどんな立場を取りますか。彼らが喜びを失わず,この喜びにともにあずかるよう他の人々を招くのはなぜですか。
7 王国の「大使」は,世の闘争に関しては厳正中立の立場を取ります。彼らは,「異邦人の時」すなわち「諸国民の定められた時」が第一次世界大戦が始まって3か月目,西暦1914年の初秋に終わったことを知っています。(ルカ 21:24。欽定訳と比較してください。)その時点で,異邦諸国民が世を支配する定められた期間は尽きました。キリスト教世界の諸国民を含む世の諸国民は,かたくなにこの事実を受け入れようとはしません。ですからこの事実に注意を促すエホバのクリスチャン証人に反対し,迫害するのです。こうした迫害のすべては,正に聖書預言の中に予告されていたことでした。こうしたことすべてをものともせず,設立された神の王国の「大使」は喜びを失いませんでした。彼らは,自分たちとともに喜び,神がイエス・キリストの肩に置かれた王国を告げ知らせることに加わるようにとの招待を諸国民すべてに差し伸べます。
8 (イ)いつから,あらゆる国籍の人から成る「大群衆」が,設立された神の王国の側に集められていますか。(ロ)彼らは何をはっきり認めていますか。そしてあわれみ深さを味わえるどんな経験をしたいと願っていますか。
8 1935年の春(5月)から,すべての国の民で成る「大群衆」が,エホバの霊によって油そそがれた天の王国の相続者である「民」とともに喜ぶようになりました。あらゆる国籍の人々から成る「大群衆」を構成する喜びを抱く人々は,キリストによる神の千年王国の地上の臣民となることに鋭い関心を抱いています。(啓示 7:9-17; 22:17)そして,1914年に異邦人の時が終わって,「世の王国はわたしたちの主[エホバ]とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう」ということをはっきり認めています。(啓示 11:15)自分たちが,滅びに定められたこの世の政府から,神のメシアつまりキリストの千年王国へと移行する過渡期に住んでいることを認識しています。彼らはこの転換期を生き残り,死ぬことなく,メシアの王国の下での地上の新秩序に入ることを切望してやみません。これは,彼らに対するエホバ神の大いなる「あわれみ」となるでしょう。
9 (イ)国際的な「大群衆」を構成する人々は,どんな招待に基づいて行動しましたか。彼らはこのことの象徴として何を行ないましたか。(ロ)彼らは羊のような者として,この事物の体制の終結の時にキリストの霊的「兄弟たち」にどのように善を行ないましたか。
9 そうです,「この王国の良いたより」が「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられ」てきたことや,それが首尾よく行なわれてきたということは,エホバの格別な「あわれみ」の表われでした。(マタイ 24:14)1935年の春から,「大群衆」を構成する人々は,神の「あわれみ」を無にせず,キリストを通してエホバ神に献身するようにとの招待にこたえ応じ,自らの献身の象徴として水のバプテスマを受けてきました。マタイ 25章31-46節に記されている羊とやぎに関するイエスのたとえ話は,今のこの「事物の体制の終結」の時に,選ばれた者たち,イエスの霊的な兄弟たちに彼らが善を行なわなければならないことを示しています。(マタイ 24:3,31)その中には,今まで一度も起こったことがないような来たるべき「大患難」の時まで,「王国のこの良いたより」を宣べ伝える点で霊的「兄弟たち」を助けることも含まれます。(マタイ 24:14-22)「キリストの代理をする大使」である残りの者と協力することにより,彼らは新しい身分を得ます。
10 「大群衆」はどんな新しい身分を得ましたか。そして彼らは,「キリストの代理をする大使」とともにどんな奉仕を行なってきましたか。
10 是認された状態を意味するキリストの右側に集められる羊のような人々の「大群衆」は,キリストの王国に関する神聖な奉仕において,キリストの公使の資格で仕えます。王の治める政府,つまり「天の王国」の関心事のために仕える「奉仕の務め」が彼らの上に置かれています。王国の「大使」とともに行なうこの壮大な奉仕によって,彼らはエホバ神への感謝を表わします。
予告されていた諸国民の喜び
11 ダビデは,ある方のみ名に向かって調べを奏でると述べていますが,その方とはだれですか。ダビデはどのようにこの方について描写していますか。
11 使徒パウロは諸国民がどのように「そのあわれみのゆえに神の栄光をたたえる」ようになるかを述べながら,詩篇作者ダビデ王の言葉を引用し,こう述べます。「『それゆえにわたしは諸国民の中であなたを公に認め,あなたのみ名に向かって調べを奏でる』と書かれているとおりです」。(詩 18:49。サムエル後 22:50。ローマ 15:9後半)霊感を受けた詩篇作者は,その結びのところで,「ご自分の王のために救いの大いなる働きを行ない,愛ある親切をその油そそがれた者に,ダビデとその胤とに定めのない時までも表わす方」という言葉を加え,あなたのみ名に向かって調べを奏でる,という表現のあなたがだれを意味するかを示しました。―サムエル後 22:51,新。
12 (イ)地上の人間であられたときのイエスは,諸国民の間でどのようにエホバを「公に認め」ましたか。(ロ)復活したイエスはどんな地域で,「大使」として行なうべき事がらを弟子たちにお告げになりましたか。
12 大いなるダビデであるイエス・キリストは,完全な人間としてこの地上におられた時には,異邦諸国民の間でエホバ神を賛美したり,エホバ神に感謝を言い表わしたりすることは余りありませんでした。確かにイエスは,サマリア人の中で,またスロフェニキア人の一婦人にある程度王国を宣べ伝え,その婦人の娘を悪霊から解放されました。そして宣べ伝える業の多くは,イザヤ書 9章1節(新)が「諸国民のガリラヤ」と呼ぶ場所で行なわれました。イエスはそのガリラヤの海辺にあるカペルナウムを,王国を宣べ伝える業の本拠地とされました。(マタイ 4:12-15)死人の中から復活させられたあと,イエスが「キリストの代理をする大使」であるご自分の弟子たちに,「行って,すべての国の人びとを弟子とし,父と子と聖霊との名において彼らにバプテスマを施し,わたしがあなたがたに命令した事がらすべてを守り行なうように教えなさい」と言われたのは,この「諸国民のガリラヤ」でのことでした。―マタイ 28:19,20。
13 (イ)エルサレムで待機していた弟子たちはいつ,またどのように大使としての職務に任命されましたか。(ロ)彼らは諸国民の間でエホバを公に「認め」始めましたが,それはどこにおいてでしたか。
13 復活後のイエスがバプテスマを受けたご自分の弟子たちにこうした使命をお与えになってから何日かがたち,西暦33年のペンテコステの日が巡って来ました。その日の早朝,栄光を受けたイエスはエホバ神の聖霊をエルサレムにいた120人の弟子たちに送られました。その日に彼らが宣べ伝えた結果,約3,000人のユダヤ人とユダヤ教への改宗者たちが王国のおとずれを受け入れ,水のバプテスマを受けました。その後これら聖霊を受けた人たちはキリストの代理をする大使としての業に加わりました。エルサレムで迫害が起こってから,ある人はサマリア人の間で,のちにはローマの国籍を持った無割礼の人など,異邦人の間でエホバを「公に認める」ようになりました。どんな国籍の人であろうと,自分たちの間でエホバが公に認められ,賛美されているのを耳にするとき,彼らはあわれみ深い救いにあずかるためにキリストを通して神のみ名を呼び求めることができました。
14 使徒パウロは次に,申命記 32章43節からどんな言葉を引用しましたか。そしてエホバの民に属する人々は,そのために何をしなければなりませんでしたか。
14 使徒パウロは自分の論議を裏付けるために別の預言を引用し,「諸国民よ,彼の民とともに喜べ」と述べています。(ローマ 15:10。申命 32:43,新)しかし,もしエホバについて聞くことがなければ,すべての国の民はどのようにエホバの「民」とともに喜ぶことができるでしょうか。ですから「彼の民」に属する人々は,彼らにメシアの王国を宣べ伝えなければなりませんでした。―ローマ 10:13-15。
15 諸国民がこたえ応ずるようになるためにはパウロが詩篇 117篇1節から引用した言葉を,だれが,どんな行動によって実践する必要がありますか。
15 使徒パウロは,エホバが霊感を与えた代弁者によって語られたことを述べ,より強力な聖書的な根拠を提出します。このように記されています。「またこうあります。『諸国民すべてよ,エホバを賛美せよ。もろもろの民はみな彼を賛美せよ』」。(ローマ 15:11。詩 117:1)確かにこう言うのはたやすいことですが,もしわたしたちがエホバについて告げ知らせ,どのようにエホバを賛美すべきかを説明しなければ,すべての国民,民,氏族がどうしてそれを行なえるでしょうか。ですから当然,キリストによる神の王国について国際的に宣べ伝える業が行なわれなければなりません。これが,王国の相続者とその仲間の働き人である「大群衆」に割り当てられた「奉仕の務め」です。―啓示 7:9-17。
16 パウロがイザヤ書 11章10節から引用した「エッサイの根」に関する言葉はどのように成就しますか。
16 使徒パウロは自分の論議を裏付けるための4番目の証拠を引用してこう述べます。「そしてまたイザヤは言います,『エッサイの根があり,諸国民を支配するために起こる者がいる。諸国民は彼に希望をおくであろう』」。(ローマ 15:12。イザヤ 11:10)ベツレヘムのエッサイはダビデの父親でしたが,神はこのダビデに油を注いでイスラエル12部族の王とならせました。ダビデ自身は,実の父親の命の「根」ではあり得ませんでした。したがって真実の「エッサイの根」は,イエス・キリストでなければなりません。イエス・キリストはベツレヘムで,エッサイ自身の部族であるユダ族の王統に生まれました。イエスはエッサイとその子ダビデを千年統治期間中に復活させることにより,ご自分の地的な父祖たちに命を与える「根」となられるでしょう。―啓示 22:16。
17 では,諸国民が希望を置くことのできる「エッサイの根」とはだれですか。
17 もちろんダビデは,約束の地に残っていた非ユダヤ人の諸国民を制圧したあと,「諸国民を支配」しました。しかしダビデは西暦前1037年に死んでいます。ですからそれらの諸国の民がダビデに希望を置くことなど,とうていできるはずがありません。幸いなことに,現在統治しておられる大いなるダビデであるイエス・キリスト,つまり「ダビデの根また子孫」である方には希望を置くことができます。(啓示 22:16)対型的なダビデに希望を置いても,むなしく終わったり,あとでその誤りが分かったりするようなことはありません。
18 諸国民すべてのうちどんな人が,約束された支配者にすでに希望を置いていますか。この方はすでにだれを支配していますか。
18 1935年以来,すべての国民と部族と民と国語の中から来る幾十幾百万という「大群衆」の人々が,決して失望させられることのない支配者に希望を置いています。彼らはその点を,「王国のこの良いたより(を),あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」宣べ伝えるように,というその支配者の命令に従うことにより,証明しています。(マタイ 24:14)死をもたらす罪が人類の中に入り込んで以来死に続けてきた諸国民すべてにとって,その希望は今や天で支配しておられる王イエス・キリストにかかっています。異邦人の時が終わって王座に就けられた1914年以来,この方はすでに諸国民のうちの信仰と希望を持つ人々を支配しておられます。この方は,人類の贖われた人々すべてを復活させたあとで,それ以上に多くの人々を支配されます。
19 それでは,あらゆる国籍の信者が,時の経過とともに信仰に満ちあふれ,喜ぶべき理由がありますか。
19 では,諸国民すべてが,エホバの「民」である霊的イスラエルとともに『喜ぶ』べき理由はあるのでしょうか。大いにあります。ここでパウロが預言からの引用の結びとして用いている麗しい祝福の言葉は実に適切なものです。パウロはこう述べているのです。「希望を与えてくださる神が,その信ずることによって,あなたがたをあらゆる喜びと平和で満たしてくださり,こうしてあなたがたが,聖霊の力をもって希望に満ちあふれますように」。(ローマ 15:13)霊感を受けたこの祈りが,地のあらゆる地域に住むエホバのクリスチャン証人の上に成就していることをだれも否定できません。聖書預言が成就していることは,この上ない栄光に輝く希望の実現が近付いていることを示すものです。ですから『喜んでください』!
「物事に洞察力を示している者は善を見いだす。エホバにより頼んでいる者は幸いである」― 箴 16:20,新。
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