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ペテロはローマをおとずれましたかものみの塔 1966 | 6月1日
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はパウロであったことを示しています。もちろんパウロはそれらの国にいたユダヤ人にも伝道しました。しかし,ローマに会衆を設立したのは,「異邦人への使徒」パウロではなく,ましてペテロではありません。小アジアのエペソにいた時,パウロはエルサレムに上る計画について述べたあと,「わたしは,そこに行ったのち,ぜひローマをも見なければならない」と語りました。(使行 19:21)パウロはローマの会衆に送った手紙をラテン語ではなく,ギリシャ語で書きました。そして次のように述べています。「こういうわけで,わたしはあなたがたの所に行くことを,たびたび妨げられてきた。しかし今では,この地方にはもはや働く余地がなく,かつイスパニヤに赴く場合,あなたがたの所に行くことを,多年,熱望していたので,― その途中あなたがたに会い,まず幾分でもわたしの願いがあなたがたによって満たされたら,あなたがたに送られてそこへ行くことを望んでいるのである」― ローマ 15:22-24。
9 (イ)パウロがローマの会衆を設立したのではないこと,しかし主がパウロをそこで用いるのを望まれたことは,主ご自身のことばにどのように示されていますか。(ロ)ローマの会衆を設立したのはだれですか。
9 エレサレムで逮捕され,そこのユダヤ人宗教指導者に悩まされてのち,パウロは,カイザルに上訴しました。そしてキリストはそのことを是認しました。次のことが記録されています。「主がパウロに臨んで言われた,『しっかりせよ。あなたは,エルサレムでわたしのことをあかししたように,ローマでもあかしをしなくてはならない」。(使行 23:1-11)これらの事実からみて,ローマの会衆はパウロによってではなく,西暦33年の記念すべき五旬節の日,ローマからエルサレムに来ていて改宗したユダヤ人によって設立されたに違いありません。これらのユダヤ人はローマにもどってのち,御国の福音をそこで伝道しました。―使行 2:1-10。
10 パウロのローマへの旅およびローマでの監禁の記録,またローマ人への手紙の中で,何が注目されますか。
10 多くの難儀をかさねてのち,パウロはローマに着きました。使徒行伝 28章14節から16節は次のように述べています。「そこ〔ポテオリ〕で兄弟たちに会い,勧められるまま,彼らのところに七日間も滞在した。それからわたしたちは,ついにローマに到着した。ところが,兄弟たちは,わたしたちのことを聞いて,アピオ・ポロおよびトレス・タベルネまで出迎えてくれた。パウロは彼らに会って,神に感謝し勇み立った。わたしたちがローマに着いた後,パウロは,ひとりの番兵をつけられ,ひとりで住むことを許された」。ローマから来てパウロを出迎えた人の中にペテロがいたとは述べられていません。またのちの記録をみても,最高僧院長であったネロ皇帝の前に出るまでローマに監禁されていたパウロが,ペテロの訪問を受けたことはありません。またローマ人にあてた長い手紙の中でパウロは多くの人にあいさつを送っていますが,その中にペテロの名前はあげられていません。―ローマ 16:3-23。
東方の諸会衆に対するペテロの宣教
11 ペテロは当然のこととして,どこで伝道していましたか。
11 一方ペテロはどこで宣教のわざを行なっていましたか。ペテロは,割礼のある者への使徒として割り当てられた務めを行なっていました。(ガラテヤ 2:8)そこでペテロは四散したユダヤ人(ダイアスポラ)a にもっぱら宣べ伝えたのです。バビロンは,東方に散ったユダヤ人にとって重要な中心地でした。そのことについて次のように書かれています。
12 当時のバビロンにユダヤ人が住んでいたことについて,歴史は何を述べていますか。
12 キリスト時代にヨセハスは,「おびただしい数」のユダヤ人がバビロニアにいたことを述べている。(古代史XI V2)彼はまた,アンチオカスがバビロンおよびメソポタミアからフィルギアとシリアに2000のユダヤ人家族を移したことを述べている……バビロニアは何世紀もの間,東方におけるユダヤ教の中心地であった。その地のラビの学校における審議によって,西暦5世紀にエルサレム・タルマッドが,そして1世紀後にバビロン・タルマッドが完成された。メソポタミアにおけるユダヤ教の二大中心地はユフラテ河畔の町ネハーディアと,ミグドニアス河畔のニシビスであった。これらの町はシリアにおけるキリスト教の中心地でもあった。―国際スタンダード聖書百科,1955年版第2巻856頁a。
13 区域の割り当てについてガラテヤ人への手紙 2章9節にしるされたとりきめが守られていたことは,ヤコブ,ヨハネ,ペテロの書いたものにどのように示されていますか。
13 パウロは西方のヨーロッパへ行きました。一方ヤコブ,ケパとヨハネは,ガラテヤ人への手紙 2章9節に述べられているとりきめにしたがって東方の世界に行ったのです。ヤコブはそのことと一致しており,その手紙の冒頭に次のように書いています。「神と主イエス・キリストとの僕ヤコブから,離散している十二部族の人々へ,あいさつをおくる」。(ヤコブ 1:1)聖書巻末の本を書いた使徒ヨハネは,東方の諸会衆にあて,「ヨハネからアジヤにある七つの教会へ」と書きました。ヨハネに幻を与えた復活後のキリストは,「あなたが見ていることを書きものにして,それをエペソ,スミルナ,ペルガモ,テアテラ,サルデス,ヒラデルヒヤ,ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」と命じました。(黙示 1:4,11)ところでペテロはだれに手紙を書き送りましたか。ペテロの第一の手紙は次のように書き出されています。「イエス・キリストの使徒ペテロから,ポント,ガラテヤ,カパドキヤ,アジヤおよびビテニヤに離散し寄留している人たち(ヘ)」。(ペテロ第一 1:1)これらの地名の中にヨーロッパの地名はひとつもありません。
バビロンはローマの神秘的な名称ではない
14 (イ)ペテロは聖書に収められたその第一の手紙を,どこで書いたと述べていますか。しかし手紙の発信地がローマであると言う人は,そのことをどう説明しますか。(ロ)ギボンズ枢機卿認可の出版物またカトリックの考え方によれば,ペテロの第一の手紙が書かれたのはいつですか。(ハ)ノックス訳の脚注は,ペテロの第一の手紙 5章13節についてなんと述べていますか。
14 ペテロはその手紙の中でローマにふれていないばかりか,ペテロの第一の手紙 5章13節において手紙の発信地がバビロンであることを明白に示しています。「あなたたちとともに選ばれたバビロンにある教会と,私の子マルコからよろしくといっている」。(バルバロ訳)しかしペテロがローマから手紙を書いたという説を主張する人々は,バビロンがローマの象徴であり,バビロンの名でローマを偽装しているのだと言います。たとえば,ジョン・マーフィー社出版,ギボンズ枢機卿認可のペテロ前書の前書きは一部このように述べています。
彼は主の昇天のおよそ15年後にローマでこの手紙を書いた。彼はローマのことを比喩的にバビロンと呼んでいる。
またペテロ前書の中でバビロンに関する脚注には,「比喩的にローマをさす」とあり,R・A・ノックス師訳の新約聖書(1944年)の脚注には,「バビロンがローマを意味することはまず疑いない。黙示録 17章5節と比較せよ」とあります。
15 前述のカトリック出版物によるカトリックの考え方に従って言えば,ペテロの第一の手紙は,おそくともいつまでに書れたことになりますか。
15 ペテロが,イエスの昇天のおよそ15年後に最初の手紙を書いたとすれば,つまりカトリックのこの考えによれば,ペテロの手紙はいくらおそくても西暦48年に書かれたことになります。しかしカトリック百科辞典(1911年版)第11巻753頁bには,次のことが出ています。
16 ペテロの第一の手紙の日付について,カトリック百科事典は何を述べていますか。
16 63年あるいは64年初めとみるのが最も妥当な説である。聖ペトロは64年(67年?)にローマで殉教した。ゆえに手紙が書かれたのはそれ以前でなければならぬ。そのうえ,64年の末頃始まったネロの迫害は,まだ起きていなかったものと思われる……この手紙が63年以前のものではあり得ない。
17 前述のカトリック百科辞典のことばに照らしてみると,ペテロがバビロンの名でローマを偽装する必要は,なぜありませんか。
17 そこでカトリックの説によれば,ペテロの手紙はローマがクリスチャン会衆の迫害を始める前に書かれました。ローマがクリスチャンを迫害していないのに,ローマの名を偽装する,つまりローマのかわりに比喩的にバビロンの名を使う目的あるいは理由があるでしょうか。これについて,マクリントック,ストロングの百科事典第8巻18頁に次のようにしるされています。
18 バビロンをローマの神秘的な名前とする説に反対するどんな論議が,マクリントック,ストロングの百科事典に出ていますか。
18 手紙の発信地としてしるされた地名に神秘的な意味を付する理由があろうか。そのような理由はない。1〔章〕,1〔節〕にある地名に象徴的な意味が認められないのと,それは同じである。読者は,バビロンにおけるη συνεχλεχτη〔ヘ・シネクレクテ: とともに選ばれた教会〕がローマの教会を意味するなどと,どうして解することができようか。また,黙示録(18:21)におけるごとく,バビロンが霊的な敵対勢力を意味するとすれば,カトリック批評家全体がこのような意味をここで採用し,彼らの宗教の大本山にそのような性格を暗に持たせるのは不可解なことである。エジンバラのブラウン博士はやや似た例をあげている ―「われわれの市はその占める場所および教育の中心地であることから,特にアテネと呼ばれる。しかしアテネ発としるされている手紙がエジンバラからのものだと主張することはできない」(「ペテロ前書解説講義」i, 548)。
19 ペテロの手紙に含まれる他のどんな点は,それがメソポタミアのバビロンで書かれたことを示していますか。
19 …バビロンがそのまま有名な古都バビロンをさすと解釈するのが自然である。ペテロの晩年のことは新約聖書にほとんどしるされておらず,ペテロがカルデヤに伝道旅行をした記録はない。しかし多くの ― ヨセハスによればου γαρ ολιγοι μυριαδεζ〔オウ ガー オリゴイ ミリアデス: 少なからざる,無数の〕― ユダヤ人がバビロンに住んでいたことは確かである。かなりの程度までユダヤ人の植民地であったこのような都市は,割礼の使徒がおとずれるのに適した土地ではなかろうか……パルテヤ帝国〔バビロンは当時その支配下にあった〕がみずからの政府を持っていたことを考慮したうえで,ペテロはローマ帝国の支配下にある諸州の人々に書き送り,至上者としての皇帝および地方行政を司らせるために皇帝のつかわす,さまざまの支配者に従うことを命じているのである。そのうえしばしば指摘されているように,手紙(1:1)の中で語りかけられている人々の国名は,バビロンにいて書いている人にきわめて自然な順序で,つまり1番近いところからはじめて順次,西および南の遠方に及ぼす順序で列挙されている。バビロンの名称を文字通りのバビロンと解する説は,エラスムス,カルビン,ベザ,ライトフット,ウィーズラー,メイヤーホッフ,ベンゲル,デ・ウット,ブリークそして現代の批評家のおそらく大多数によって支持されている。
20,21 (イ)ペテロがバビロンから手紙を書くことの道理は,ある批評的な注釈書にどのように説明されていますか。(ロ)ペテロがローマで殉教したという伝説は,どうして生まれましたか。(注)ペテロがローマで書いたという説は,実際にはクレメントによって裏づけられていないことを説明しなさい。
20 英国のR・ジャミソン,A・R・ファウセット,D・ブラウン博士の著作「旧新約聖書注解,批評,解説」は,前述のことがらを支持しており,1873年版第2部514頁b「バビロン」の項には次のことがでています。
21 ユフラテ河畔,カルデヤのバビロン。この手紙の書かれた場所およびカトリック教徒の言うごとくローマをさしていない証拠については緒論を見よ。ライトフットの説話と比較せよ。預言(ヨハネ黙示録 17:5)に出てくる神秘的な名称を,親しいあいさつの中に用いることはまずない。バビロンは,アジア方面に散ったユダヤ人つまりペテロが語りかけている人々の中心地であった。フィローのレガティオ・アド・ケイム第36およびヨセハスの古代史15,2・2,23:12によれば,使徒時代のバビロンには大ぜいのユダヤ人がいた。(一方ローマのユダヤ人は比較的に少数であり,ヨセハス 17・11によれば8000人ほどであった)。ゆえに割礼の使徒は当然バビロンをおとずれたであろう。それは五旬節の時にペテロが首尾よく語りかけた人々の根拠地であった。使徒行伝 2:9にユダヤ人の「パルテヤ人……メソポタミヤに住む者」とある。(メソポタミアのバビロンの当時の支配者はパルテヤ人であった)。ペテロはこれらの人々に親しく奉仕したのである。彼のことばを聞いた他の人々すなわち「カパドキヤ,ポントとアジヤ,フルギヤとパンフリヤに住む」ユダヤ人に対して,ペテロは手紙を書いて奉仕した。ペテロがローマで殉教したことを最も早く述べた権威者は,2世紀後半のコリントの司教デオニシウスである。ふたりの著名な使徒ペテロとパウロをローマ教会の設立者にすることを望んだ結果,ペテロのローマ殉教の伝説が生まれたらしい。ローマのクレメントはこの説を裏づけるためによく引用される(コリント人への第一の書簡第4,5部)が,実際は彼はこの説を裏づけていない。彼はパウロとペテロを一緒に述べているが,東洋と西洋の両方で伝道したという点でパウロの場合を顕著なものとしている。これはペテロが西方に行ったことがないことを暗示する。b
22 ペテロの第二の手紙 1章14節のことばは,ペテロがローマをおとずれていないという論をどのように裏づけますか。(注)デオニシウスはどういう人ですか。エピハニウスはローマのクリスチャンの司教について,何を述べていますか。
22 ペテロの第二の手紙 1章14節において,ペテロは「幕屋を脱ぎ去る時が間近である」ことを述べており,殉教の時の近いことを暗に示しているが,それでもローマについて何もふれず,ローマに行く意図をも述べていない。c
言い伝えではなく,真理は自由を得させる
23 (イ)ペテロと矛盾する一部の宗教文書の筆者のことばよりも,わたしたちがペテロのことばを受け入れるのはなぜですか。(ロ)ローマをさして象徴的にバビロンと言ったとすれば,ペテロはなぜまちがっていたことになりますか。
23 聖書の一部ではない宗教文書の筆者が,バビロンはローマのことであり,経外典におけるローマの別の名であると言うならば,どうですか。彼らは,霊感によって聖書を書いた神のしもべとは異なり,霊感されていません。(ペテロ第二 1:21)ほんとうはローマを意味するつもりでバビロンと言ったとすれば,ペテロを霊感した神の霊はまちがったことになります。そのような事はあり得ません。のちにこの連載記事の中で示されるように,バビロンはローマではなく,ローマを表わしているのではないのです。神は常に真実であり,神によって霊感された筆者は真実を書きました。ゆえにペテロの第一の手紙 5章13節にあるペテロのことばは,ローマを意味するのではなく,メソポタミアのバビロンの町を文字どおりに意味しています。
24 「バビロンにいる彼女」がそこの会衆をさすとすれば,「彼女」はバビロンを滅亡から救うことができましたか。なぜですか。
24 当時バビロンが存在していたことについて言えば,ライト,フィルソン編ウエストミンスター聖書歴史地図1956年改訂版(89頁「イエス誕生の時のローマ世界」)は,バビロンが都市として当時,存在していたことを示しています。ペテロの第一の手紙 5章13節(新世訳)にある「バビロンにいる彼女」という句は,バビロンにある会衆を意味するのかもしれません。しかし「彼女」は,バビロンが預言されていたとおりの廃墟になるのを妨げることはできませんでした。
25 (イ)地上の特定の都市あるいは特定の人がそこをおとずれたという事実は,クリスチャンにとってとくに重要なことですか。(ロ)バビロンの正体について,何を知ることが大切ですか。なぜですか。(ハ)大いなるバビロンに関する必要な知識をどこに求めなければなりませんか。なぜですか。
25 今日,クリスチャンはクリスチャン会衆の基としてキリスト・イエスを仰ぎます。またかしらであり,主であるキリストに用いられ,基の上に建てられた忠実な人々として使徒をみます。彼らは信仰の中心とされる地上の都市を持たず,また神の目から見て,他の都市よりも重要な特定の都市があるとは考えていません。たとえそれがイエス・キリストの使徒であっても,ある人が特定の都市をおとずれたかどうかは,ここで重要な問題ではありません。しかしバビロンと述べたペテロのことばがローマを意味していないことを知るのは重要です。もしバビロンがローマの神秘的な名前であるとすれば,大いなるバビロンはローマであることになるからです。しかし聖書に示されているように,大いなるバビロンははるかに重要なものであり,かつてのローマあるいはローマを本山とする現在の宗教よりも,はるかに大きな影響を及ぼしています。大いなるバビロンは偽りの宗教の世界帝国であって,キリスト教国のみならず異教国の宗教を含むのです。大いなるバビロンから離れ去ることを命じた聖書のことばは,ローマにいる人だけにあてはまるのではありません。地球上のどこにいても,大いなるバビロンの影響の下に霊的にとらわれている人がいます。人はそのとらわれからのがれなければなりません。大いなるバビロンからのがれて生命を救うためには,大いなるバビロンの正体をはっきり見きわめることが必要です。そのためには,バビロンについて聖書の述べることをはっきり理解しなければなりません。ゆえに,先入観念による意見を支持する,霊感されていない人々の言い伝えよりも,霊感による神のことばを信頼しましょう。人を自由にするものは,真理以外にはないからです。―ヨハネ 8:32。
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「私たちの神の家をなおざりにしない」ものみの塔 1966 | 6月1日
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「私たちの神の家をなおざりにしない」
エホバの証人が困難な状況下で熱心に働く国々
― 1966年度のエホバの証人の年鑑から ―
伝道者最高数: 103,546
人口: 422,163,000
比率: 4,077人に1人
これから述べる11ヵ国におけるエホバの証人の活動を,年鑑のはじめの方に載せられている報告表の中に国毎に発表するのがわたしたちの願いです。しかしこれらの国々で働いている兄弟姉妹を守るためには,11ヵ国を全部まとめて報告する以外にはありません。これらの国々のすべての政府は,エホバの証人がそこで働いていることを知っています。エホバの証人が何事かを行なっているという事は知っているものの,これらの政府は,それぞれの国で何人のエホバの証人が働いているかを協会の出版するいかなる報告によっても確かめることはできません。もしそれが知れるなら,彼らはわたしたちの仲間であるこれらのしもべたちにいっそう圧迫を加え,迫害と反対を強化して,遂にはすべての者を探し出すようにさえなりかねないことをわたしたちは知っているからです。しかし,これらの国々から寄せられた経験をここにかかげて,その地の兄弟たちのことを少しでもおしらせできるのは大きな喜びです。彼らが,大きなわざを行ない続けているのはほんとうにうれしいことです。しかしクリスチャンがエホバ
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