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神の目的とエホバの証者(その13)ものみの塔 1961 | 3月1日
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神の目的とエホバの証者(その13)
「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳
偏見のない観察
パストー・ラッセルについてのその見解は,キリスト教国の人々の同意をうけませんでした。彼の敵のある者たちは死んだ彼に対しても,生きていた時と同じくらいの憎しみを持ちました。彼らの攻撃は,非常にはげしいものであったため,ラッセルの名前に対する偏見は,いまでものこっています。しかし,それにもかかわらず,事実は明白に示しています。彼の死後40年以上経った後でも,次のような偏見のない言葉が述べられています。
実におどろくべきことであるが,ピッツバーグの歴史上,チャールス・ティズ・ラッセルの名前ほど多く出ているものはすくない。ラッセルの影響は,この都市に今まで生活した人のうちでいちばん広範囲におよぶものであった。アンドリュー・カーネギもラッセルにはおよばない……
ラッセルは過去100年のうちに一つの大宗教運動をピッツバーグに設立した。この運動は,全世界的な規模に達し,いまでも多くの世紀中いちばん早く進歩している宗教制度のひとつである。……
パストー・ラッセル……の名前は,アメリカの歴史における他の名前と同じく,誠実な心から愛されるとともに,ひどく憎まれている。
その名前を中心に,ひじょうに激しい論争が行なわれて,クリスチャンの世界は分裂する結果になった。そして,彼の名前はいまは議論の中に多く出てこないが,その論争はいまでもつづいている。……
彼は,その一生を通して,神のみちびきをうけている仲間の人間という以上に彼のことを尊崇しないようにと,弟子たちに告げた。彼はこのことを良く教えたので,彼のわざはほとんど一瞬もとまらずに他の者たちの手に渡った。そして,彼が設立した出版所は,パストー・ラッセルの伝記を出版したことは一度もない。
ロイス: 多分,彼の名前がこの世によって無視されたという事実は,彼にとって有利なことかも知れません。むかしの神の僕たちは,みなこの世の目から軽んぜられていたように見えますね。しかし,彼らのわざはつづいています。パストー・ラッセルの生涯も,同じような型ですね。でも,あなたがたがパストー・ラッセルの伝記を一度も出版しなかったのはほんとうですか。
ジョン: その通りです。エホバの証者は,彼が人間として持っていた性質に感服しています。しかし,パストー・ラッセルに誉と功を与えるなら,そのわざと成功は彼のものであると言うことになります。しかし,神の民をみちびいて指示するものは,神の御霊であるとエホバの証者は信じています。
ある人々は,その点でつまずきました。彼の持っていたそれらの性質は,当時の制度内の多数の人々から尊敬されていたのです。ところが,それらの性質は実際には人々を試験するものになり,ある者は忍耐を保つことに失敗して,ものみの塔協会の次の会長であるラッセルの後継者ジェー・エフ・ルサフォードおよび協会そのものに対して反対するようになりました。
第11章 管理の変更は神のしもべたちをためす
トム: ジェイ・エフ・ルサフォードは,すぐにパストー・ラッセルの後をついで協会の会長になりましたか。
ジョン: いいえ,1916年の11月と12月の2ヵ月間,わざをつづけて行くために,協会は,副会長リッチー,会計秘書バン・アンバーグ,そして法律顧間ルサフォードの3人から成る執行委員により,臨時に管理されました。
その時のエホバの証者の統治体を構成する人々の心のうちに不安があったことが示されました。また,いよいよ始まった危機の年月の先ぶれとも言えました。そして,制度内には利己的な反対が表われまた神によるさばきそしてきよめが行なわれました。サタンはいつでも神の民の制度を崩壊させて,御国の良いたよりの伝道を妨害しようとつとめています。そして,サタンはただちにブルックリンの制度本部にいた人々の心のうちに反逆の精神を植えはじめました。これはみなかなしみと非難の危険な時を示すもので,制度そのものの存在があぶないものになりました。エホバの証者は,苦難の時が前途にあると知っていました。しかし,めぐみ深いエホバは,神の家にさばきが行なわれるこの危険な期間中に耐えしのばねばならぬこと全部を彼らに見させなかったのです。
年一度の恒例の法人の会合は,1917年1月に予定され,シー・ティー・ラッセルにかわる会長選出という大切な事項が決定されることになりました。1月6日のこの集会には,600人が出席し,約15万の票が投ぜられました。それは,その会合に出席した人が投じたものと代理によって投じたものの合計です。
トム: ジョンさん,法人内の票は,どのように得ることができましたか。
ジョン: 当時には協会に3600円を寄付した人は,1票を投ずることができました。この会合以前には,パストー・ラッセルは法人の多くの会合のとき2万5000票を投じていました。彼はその生涯中に約9000万円を寄付していました。彼が死んだとき,もちろん法律にしたがって,彼の票は効力を持たなくなりました。それで,1917年の会合で投ぜられたこれらの15万票は伝道のわざのために協会に5億4000万円が寄付されていたことを示します。この投票方法は1944年に修正され,このようにして票を獲取する方法は廃止されました。いまでは,各メンバーは1票だけを投じます。
この歴史的な法人会合のときに,ジイエ・エフ・ルサフォードは満場一致で会長に選出されました。ダブリュー・イー・バンアンバーグは会計-秘書,そしてコネチカット州のエイ・エヌ・ピアーソンは副会長に選ばれました。翌日の日曜日,新しく選ばれた会長は,会長の資格で講演を,ピッツバーグの大会に出席した1500人にむかってしました。このように,ルサフォードは協会の管理を始め,以来25年間その仕事をつづけました。
トム: ここのところで,ルサフォード個人についてすこし話してくれませんか。
ジェイ・エフ・ルサフォードの背景
ジョン: よろこんでしましょう。ジョセフ・フランクリン・ルサフォードは,ミズーリ州,モーガン郡の農家で,1869年11月8日に生まれました。彼の両親は,バプテスト派に属していました。彼が16歳のとき,父親は彼が法律を研究するために大学に行くことをゆるしました。しかし,父親は農夫であって,援助することができないから,彼は独力で学費をまかなうことが必要でした。また,農場で彼の代りに働く人の賃銀を払うことも彼に要求されました。こんなことは青年にはとうてい不可能であって,けっきょくのところ農場にとどまり,農業を学ぶだろう,と父親は考えたのです。しかし,ルサフォードの決意はつよく,口約束だけで金を借りることができました。かくして,彼は大学に行って法律を学んだだけでなく,農場で彼の代りに働くやとい人の賃銀を払うこともできました。
このようにしてルサフォードは独力で学費を得て,学校を卒業しました。彼は速記を学びましたが,死ぬ日まで速記の名人でした。後になって,「ものみの塔」の資料として彼の胸中にうかんだ多くの考えは,最初速記ではやく書かれ,後に清書されました。在学中,彼は法廷の速記者になりました。この仕事をすることによって,彼は学校に行くための借金を返済することができました。また裁判の手続きを知ることによって実地の経験を積み,同時に法律の研究をすることができました。
大学の教育を終了してから2年間,彼は判事イー・エル・エドワーズの指導をうけました。そして20歳のとき,彼はミズーリ州,第14法廷巡回区の公式報道者になりました。22歳のとき,彼はミズーリ弁護士会に加入が許され,ミズーリ州,ブーンビルで弁護士の仕事を始めました。このところで彼はドラフェンとライト会社の法廷専問弁護士になったのです。後日,彼はブーンビルの検事として4年間奉仕し,後にはミズーリ州第14法廷巡回区の特別判事になりました。この資格を持つ彼は,もし正規の判事が病気になって裁判することができないと,代理の判事になりました。彼はその仕事を数多くしたのです。
ジャッジ・ルサフォードは,15年間ミズーリ州で弁護士の仕事をつづけました。彼の仕事は成功を収め,後日にはワシントン・D・Cにあるアメリカ合衆国の最高裁判所で裁判をあつかう特別な弁護士と認められました。1894年,彼はものみの塔協会の代表者と会いました。
ロイス: 〔さえぎる〕そうでしたね。おぼえていますわ。マリアさんは,ルサフォードが協会に書きおくった手紙を読んでくれましたね。
ジョン: そのとうりです。それから12年後の1906年,彼はエホバ神に献身して,弁護士であるとともに任命されたクリスチャン奉仕者になりました。
1907年,ルサフォードはピッツバーグ本部でものみの塔協会の法律顧問になり,その裁判関係の問題を処理しました。同時に協会の巡礼<ピルグリム>代表者のひとりとして,彼は公開講演をするために派遣されました。1909年,協会が本部をニューヨークに移したとき,ジャッジ・ルサフォードはそのことの交渉係に命じられました。その仕事をするために彼はニューヨーク州の弁護士会に申請し,ニューヨーク州の認下された弁護士になりました。同じくこの年の5月24日,ルサフォードはアメリカ合衆国の最高裁判所で弁護士のわざをすることがゆるされました。
新しい会長はわざを続行する
トム: ルサフォードが協会の会長になったとき,わざをつづけるようにしましたか。
ジョン: もちろんです。ルサフォードは仕事を完遂させる人でした。そして,証者たちはいそがしく働かねばならず,伝道のわざはクリスチャン活動の主要な部分であるというラッセルの見解と完全に一致調和していました。このため,彼はブルックリンのものみの塔協会の本部事務所をすでに再組織しはじめました。またくだり坂にあった野外奉仕のわざに活気をつけました。
しかし,彼の行なった変更や計画は,実際にはラッセルが生前に始めていたものでした。「巡礼<ピルグリム>」と呼ばれる協会の旅行代表者たちは69名から93名に増加しました。彼らの責任は当時に存在していた1000以上のエホバの証者の会衆を訪問して,会衆を強化することでした。このことは,大きな試験に面していたその当時に,特に必要でした。それは兄弟たちを援助して,楽観的な見方と将来の奉仕の機会に対する彼らの認識を保たせるためでした。さらに,協会の無料の冊子を日曜日に教会の前で配布したり,戸別訪問で配布するようにすすめられ兄弟たちはいっそうの激励をうけました。1917年だけでも,4頁の無料の「聖書研究生月刊」(英文)は2866万5000部も配布されました。
パストー・ラッセルの死ぬ前に始められていた別の活動は,「牧羊のわざ」と呼ばれていましたが,そのわざも一段と強化されました。ラッセルのとき,このわざは,ラッセルを牧者パストーとして自発的に選出していた約500の会衆だけに制限されていました。彼はこれらの群れに手紙を書いて,このわざが「公開集会,劇<ドラマ>の上演,聖書文書販売者<コルポター>の表,その他から得る住所とむすびつきを持つ重要な再訪問のわざ」と述べていました。
このわざは次のような仕方でなされました。このわざをすることに興味を持っている会衆内の全部の姉妹は,その群れのひとりを指導者として奉仕するよう,そして別のひとりを会計秘書として奉仕するよう民主的に選出しました。都市は各区域に分けられて,このわざをする姉妹たちは,それぞれの区域に出かけ,興味を持つと示されている人々のところを訪問しました。この訪問の目的は,書籍を貸すことでした。善意者は,本を読んで研究することができます。また,別の方法によっても真理についての知識を深めさせるようにしました。どこに興味が示されたか,またその人が「表の話」に出席するかどうか,その他についての注意深い報告がなされました。その姉妹たちを援助するために家を訪問する仕方についていろいろの提案が教えられました。また,偏見に打ち勝つことや,音信に興味を感ずる他の人々の名前を得る仕方についてもいろいろの提案がなされました。訪問の終りに,「神の計画」についての表の話は,間もない中にその地方でなされると家の人に告げられました。興味を示す人々にこの話に出席するようすすめ,そして出席した人々にはみな再訪問して,「聖書研究」第1巻の研究を始める努力がなされました。
トム: 話をすすめる前に,その「表の話」とは何のことですか。ちょっと教えてください。お話しの中に二,三度出てきましたね。
ジョン: それは協会が準備した表を説明するための公開講演でした。それは,神の「計画」すなわち人類に対する目的が発展して行く際の特定な年代表的な出来ごとと意味深い期間あるいは「年代」を説明するためにつくられた表です。これらの年代は半円形で示され,そしてそれぞれの群れがエホバの御前で占めた相対的な関係は,いろいろのレベルにある水平線で表わされました。その表は聴衆の前に置かれ,講演者は教鞭をつかいながらいろいろの点を説明しました。その資料は深いもので専門的なものでしたが,大多数の兄弟たちはこの話をするのに巧みになり,時たつ中に啓示されたエホバの大きな目的について多くの興味がひきおこされました。
さて,おはなししましたように,ラッセルの死後この牧羊のわざは急速にすすめられました。そして,いまでは全会衆はこの活動塔に参加するようはげまされました。さらにカルポター奉仕すなわち開拓者奉仕は拡大され,その合計数は373名から461名に増加しました。これらの開拓者の奉仕を援助するために,協会は1917年に奉仕の指示を本部から月一度出して,彼らの利益をはかりました。これらの指示は,「ブルティン<掲示>」紙に掲載されました。回復更新運動の一部として数多くの大会が各地で開催されましたが,兄弟たちはわざを続行して善行に飽きないようにとはげまされました。
トム: 彼は健全な計画を持っていたようですね。1914年前にラッセルが強調した公開講演の計画はどうなりましたか。
ジョン: ルサフォードは,このことが制度内でぜひ必要なものであると認め,資格のある講演者をして協会の代表者にならせ,演壇で講演することを取りきめました。これは・ブィー・ディー・エムの取りきめを通してなされたのです。この頭言葉は神の奉仕者という意味のブェルビ・ディー・ミニスターを表わしていました。a
その取りきめによると,会衆に交わっている男子全部に質問用紙をくばって,彼らをはげまし援助しました。また,神の目的の正確な知識により,彼らが資格を持つように研究し,訓練をつむようにはげましたのです。これらの質問に85点かそれ以上の良い成績を取る者はいろいろな事柄について講演できる資格のある講演者と考えられ,認められました。この標準にしたがって試験を通過する者たちは,協会を代表する公演者のひとりと認可され,会衆と共働して表の話をしたり,または公開の講演をしました。
これら22の厳密な聖書の質問は,「神の最初の創造のみわざからはじまって,あがないを中心にし,そして千年統治の終りにおけるキリストの全きわざで終了しています。それはそのとき啓示されていた教理全部を総括していたものでした。また,各人の改宗献身,水の洗礼,協会の文書を用いての聖書研究の程度など,各人の背景も扱かわれていました。
[脚注]
a (イ)1916年の「ものみの塔」(英文)330頁。1917年の「ものみの塔」(英文)167頁。1918年の「ものみの塔」(英文)69頁。
[157ページの図版]
1906年のチャールズ・ティ・ラッセル
[157ページの図版]
1915年のジェイ・エフ・ルサフォード
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読者よりの質問ものみの塔 1961 | 3月1日
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読者よりの質問
● 親の片方だけがエホバの証者の献身したクリスチャンであるばあい,その家庭で子供を訓練するにあたりどんな聖書的な原則はその導きになりますか。―受けた多くの質問より
聖書によれば,夫そして父親は家のかしらです。もし彼がエホバの証者の献身したクリスチャンであるなら,自分の家族を物質的並びに霊的に扶養する責任があります。(テモテ前 5:8)彼の妻が不信者であっても,子供たちが家庭と御国会館の両方で適当なクリスチャンの教育と訓練を受けるように取り計らわねばなりませんし,彼の妻が神の御言葉の真理を理解するように全力をあげて援助しなくてはなりません。同時に妻が彼女なりに神を崇拝する自由を許すべきです。時には彼女が崇拝を行なっている所へ子供たちをつれて行くと主張するかもしれません。彼女に崇拝の自由を許すという事は,シーズンともなれば家の一室にクリスマスツリーを飾らせるという事にもなります。そのばあい信者の夫は,家のほかの部屋,あるいは家の外側を飾らせるというような事をさせません。このように崇拝の自由を彼の妻にもさしのべることにより,彼は自分を愛するように妻をも愛しているということを示します。―エペソ 5:28,29。
同様に家のかしらである父親が,不信者のばあい,子供たちに宗教をおしつけるかもしれません。しかし父親がいない時,母親が子供の行為に責任があるとうことからみて,母親は子供に正しい原則を教え込まなくてはなりません。そして機会があれば子供たちに証言すべきです。夫がひどく反対していて,子供が奉仕や集会に行くのを禁ずるばあい,母親は子供をつれて行く事ができないかもしれません。でも,いろいろな手段をこうじて子供に聖書の原則や真理を教えることができます。子供が質問をするばあい,母親はそれに答える権利があります。
このような父親が国旗敬礼のことを問題にしたばあいはどうでしょうか。神の言葉によるとクリスチャンはすべて,その信じていることあるいはその行動を弁明するようにといわれています。それで献身した母親は家族の全部の者が彼女の立場つまりクリスチャンの原則に忠実だという事を理解するように,子供ではなく夫にも弁明しまた説明する権利があります。(ペテロ前 3:15)このばあい父親は,子供が母の言う事をきいて国旗敬礼に関して聖書的な立場をとることに反対しているわけですから,母親がこの事がらについて聖書が何を言っているかということを子供に説明することはできても,この点に関して子供が聖書の原則に従うようにと主張する権利は母親にはないのです。なぜなら夫は家のかしらとして,子供がその式に参加するよう要求しているからです。子供は父親の意向を考慮しなくてはならないでしょう。そして,母親は,学校でその式が行なわれる時に,自分の子供が式に参加しないでもすむようにと先生に手紙をかいて,子供の参加をさまたげたりしないでしょう。しかし,もし子供が母親の立場を学び,それが聖書的であり,ゆえに神の御こころであると知り,自分の良心から学校やその他の場所で自分の立場をとって,式に参加するのを拒絶するなら,もちろん,このような行動は母親が強要したからというのではなく,子供自身の意向であり,夫は妻を非難することはできないでしょう。つまり良心に従って自分の立場をとるのは子供の責任なのです。そしてもし父親が,愛国的な儀式に参加しなかったという理由で子供を罰するなら,子供は義のために苦しむことになります。―ペテロ前 2:19,20。
ペテロ前書 3章1-6節にある助言と一致して,不信者を夫に持つ献身したクリスチャンの妻は,行いを模範的なものにし,夫に対しては深い尊敬を示し,子供にもそうするよう教えます。しかしながら,真の崇拝には活発に参与します。そして忠実な行為と話す事がらによって,夫と子供に強い影響を及ぼし,彼らも救われるようにします。―コリント前 7:14,16。
信者の方の親から学んだ聖書の真理に認識を示す子供のばあい,クリスチャンの原則はやはりその子供のとるコースを支配いたします。不信者の方の親は子供が教会に出席すべきだと主張するかもしれません。そして小さい子供は,当然親のもとにいるので,出席せざるをえないかもしれません。しかし教会において偶像崇拝の儀式にあずかるということは,良心的にできないでしょう。それで討論の時間に機会が与えられたら,天の御父の言葉を弁明致します。不信者の親によってエホバ神の律法を直接にやぶるようなことをするようにといわれたとき,子供は聖書の助言に従って導びかれることになります,「人間に従うよりは,神に従うべきである」。「わたしよりも父または母を愛する者は,わたしにふさわしくない」。「子たる者よ。主にあって両親に従いなさい」。―使行 5:29。マタイ 10:37。エペソ 6:1,新口。
このようにしてすべての状態のもとで,分裂した家庭にいる献身した各人は,その状況に應じて適当な評価をいたします。第一の責任は神に対するものであると認め,このことからして神の与えた助言,つまり家族の中でのかしらを認めるという助言に従い,その者に対してふさわしい愛と深い尊敬を示します。
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