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  • イエスの宣教期間はどれほどでしたか
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • の終わりに当たる西暦29年に到来し,70週めの半ば,つまりその三年半後に犠牲として絶たれ,それによってモーセの律法による犠牲がもはや必要でないことが理解されます。こうして,神ご自身の預言の言葉から,イエスの宣教の期間を確定することができます。イエスは,メシアとなられてから死を遂げられるまでに,三年半を過ごされました。

      四回に及ぶ過ぎ越し

      イエスの生涯を記した福音書の記録,とりわけ使徒ヨハネの手による福音書の記録は,この預言と正しく調和しています。どうしてそう言えますか。同書は,イエスの宣教期間中に過ぎ越しが四回あったことを指摘しているからです。ヨハネの言及している最初の過ぎ越しは,イエスが初めて奇跡を行なって間もなくありました。こう書かれています。「さて,ユダヤ人の過ぎ越しが近かったので,イエスはエルサレムに上って行かれた」― ヨハネ 2:13。

      そして,ヨハネ 6章4節にも,「さて,ユダヤ人の祭りである過ぎ越しが近かった」と書かれています。モーセの律法の定めに従って,イエスは過ぎ越しの際にエルサレムに上るのが常でした。(申命 16:2)四人の福音書の記述者全員が記しているとおり,イエスは死なれる直前に,12使徒とともに最後の過ぎ越しを祝われました。―マタイ 26:17。マルコ 14:14。ルカ 22:11。ヨハネ 13:1。

      「しかし,ここで述べられている過ぎ越しは三回だけではないか。四番めの過ぎ越しはどうなったのか」と,あなたはお尋ねになるかもしれません。過ぎ越しと明示されてはいませんが,ヨハネ 5章1節で言及されている祭りが第四番めの過ぎ越しであることはほぼ確実です。そこにはこう書かれています。「こうした事ののち,ユダヤ人の祭りがあって,イエスはエルサレムに上って行かれた」。この祭りが過ぎ越しであることを見分ける上で助けとなるのは,ヨハネ 4章35節に記されているイエスの次の言葉です。「あなたがたは,収穫が来るまでにまだ四か月あると言うのではありませんか」。大麦の収穫は過ぎ越しの時期に始まりますし,この四か月の間でイエスがエルサレムに上らなければならないほど重要な祭りは過ぎ越し以外にありません。イエスがエルサレムに上らなければならなかった他の二つの年毎の祭りは,過ぎ越しよりも後に行なわれました。

      イエスは,ティルスやシドン(マタイ 15:21),あるいはヨルダンを越えたペレアの地方(マタイ 19:1)など,比較的遠くの場所で王国の良いたよりを宣べ伝えたこともありましたが,大半の時間は,故郷のガリラヤ州で宣べ伝え,教える業を行なうのに費やされました。このガリラヤで,イエスは,自分の言葉に喜んで耳を傾ける,農夫や漁師などの,正直で謙遜でそぼくな人々を見いだされました。イエスは特別な行事がなければ,エルサレムに上ることはなかったようです。確かに,献納の祭りやプリムの祭りはその四か月の期間中に訪れましたが,これらの祭りは,ユダヤ人が国外に散らされた後に制定されたものであるため,ユダヤ人が住んでいるところならどこででも祝うことができました。

      また,ヨハネ 5章1節に記されている祭りが過ぎ越しの祭りであると結論付ける別の理由もあります。それは何でしょうか。ガリラヤにおけるイエスの宣教を詳述している他の福音書の記録を調べてみると,ヨハネ 2章13節に記されている過ぎ越しから同6章4節で言及されている過ぎ越しまでの間にイエスが行なわれたすべてのことを成し遂げるには,優に一年を超える期間が必要であったと考えられる,という点です。

      他の証拠

      イエスの宣教の期間が三年半であったことを支持する証拠はほかにもあります。ヨハネ 19章31節から,イエスが金曜日に亡くなられたと結論することができます。というのは,その翌日が「大いなる」安息日であったと述べられているからです。一週間にわたる種入れぬパンの祭りの最初の日は安息日とされていましたが,週毎の安息日とその最初の日が重なったため,結局その日は「大いなる」安息日になったわけです。(レビ 23:6,7)このように,過ぎ越しの日,つまりニサン14日が金曜日と重なったのは,西暦31年でも32年でもなく,33年のことです。ですから,イエスが死んで,三年半に及ぶ宣教を終えたのは,西暦33年のニサンの14日に違いありません。

      このように,ダニエル 9章24-27節の預言,イエスの宣教期間中に過ぎ越しが四回祝われたこと,満月の日であるニサンの14日が金曜日に当たるのは西暦31年でも32年でもなく33年であったことなどの諸点を考慮することによって,イエスの宣教は一年や二年ではなく,三年半に及んだとの結論に達します。

  • 『わたしは血肉に助言を求めなかった』
    ものみの塔 1976 | 7月15日
    • 『わたしは血肉に助言を求めなかった』

      エミール・シュランツの語った経験

      長年にわたるエホバへの奉仕を振り返ってみて,一つの顕著な事実と言えるのは,『わたしは直ちに血肉と協議したりはしなかった』という点です。ガラテア 1章16節にある,クリスチャン使徒パウロのこの言葉は,わたしにも当てはまると思います。なぜでしょうか。クリスチャンとしての歩みを始める際,そしてこれまでに幾度も,『わたしは血肉にではなく』,神と神のみ言葉に助言を求めたからです。

      しかし,若いころのわたしは神についてほとんど知りませんでした。わたしはルクセンブルク大公国の北部,オースリングと呼ばれるところで育ちましたが,そこは迷信的な考えが染み込んだ土地でした。例えば,雌牛を病気から守るために“聖”アルビンに,そして事故や馬の病気を未然に防ぐために“聖”セルシウスに祈りがささげられました。豚を守ってもらうため,“聖人”に祈ったことさえありました。

      父は非常に信心深い人で,司祭になりたいという願いをわたしの心の中に育みました。わたしは既にミサの際に侍祭として仕えていましたが,第一次世界大戦後の出来事のため司祭に対する父の信頼感は揺らぎました。わたし自身についていえば,12歳になって初めて聖体拝領にあずかるときに,神はわたしに近づいてくださり,その日は人生で最良の日となるであろうと告げられていました。ところが十分な準備にもかかわらず,その日はむなしさを後に残したにすぎませんでした。堅振礼の際にも同様の幻滅を味わいました。わたしは,約束されていたこととはうらはらに,聖霊の表われなるものを全く感知しませんでした。司祭になりたいという希望はもはやなくなりました。

      年月の経過とともに,わたしは友人たちに惑わされ,大酒を飲むようになりました。しかし,1930年ごろになって,わたしは毎週日曜日に自分の兄弟の一人を訪ねるようになりました。わたしたちは,よく若いころの思い出話をし,神とそのお目的について無知であることがもたらす失意について語り合ったものです。そして,自分たちがまだ一度も見たことがなく,司祭だけが持っているように思える聖書について話しました。兄は幾度となくこう言いました。「もし神が,司祭の教える以上の事柄をわたしたちに告げようとしておられないのなら,神は存在していないと思う」。そして次のような言葉を付け加えたものでした。「本物の聖書を手にすることさえできたらなあ」。そのときまで,わたしは血肉に助言を求めることしかできませんでした。聖書を入手して,神からもたらされた言葉をじかに読めたら,どんなにかすばらしいでしょう。

      み言葉を通して神に助言を求める

      1933年のある日,そうした事柄を話し合ってから数日後,一人の男の人が兄の家を訪ねて来まし

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