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神聖な奉仕の宝を認識するものみの塔 1977 | 1月15日
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神聖な奉仕の宝を認識する
「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない」― マタイ 4:10。
1-4 (イ)多くの人はどんな事柄のために自己犠牲を払うことを誉れとみなしてきましたか。世の人々はそういう人たちをどのように見てきましたか。(ロ)それにもかかわらず,人類は依然としてどんな状態に直面していますか。
どの時代にも,多くの人間男女は,何か価値ある目的,自らが崇高とみなす事柄のために身をていして仕えることを,大きな誉れとみなしてきました。
2 自分が住む政治上の国家に対する奉仕を最重要の事柄とした人々は無数にいます。国のために戦争で死んだ人々は,「至高の犠牲」を遂げたとも言われてきました。
3 国の境界の外に目を向け,国家や人種の別を離れて全人類への奉仕に身をささげる人々もいます。人類のために何かの善,例えば,病気の治療法を発見し,貧しい人や抑圧された人々に救いをもたらすために,自分の才能や資産を用い,体力や健康をさえ犠牲にする人々です。そうした人々は,「人道主義者」とか,「博愛主義者」として称賛されてきました。そうした人たちのうち特に際立った人物については,その業績や犠牲の行為を記憶するために記念碑が建てられ,公共建築物や道路にその人にちなむ名が付けられたりもします。
4 しかし,こうしたすべての奉仕があるにもかかわらず,今日の地上で深刻な問題をかかえていない国家は存在しません。犯罪や腐敗のために傷だらけになっている国は多く,大抵の国においてその諸制度は全般的な危機に立たされています。人類全体は依然病み,遥れ動き,滅びの際から出ていません。―マタイ 9:36。ローマ 8:22。
5 イエス・キリストの真の弟子たちはどんな奉仕に関心を持っていますか。彼らは何を全く確信することができますか。
5 真のクリスチャンはもちろん奉仕に深い関心を持っているはずです。奉仕はキリスト教の真髄だからです。しかしながら,エホバの証人としてのわたしたちに関係のある奉仕は,誉れの点でも価値の点でも,人の携わり得る他のどんな奉仕よりもはるかに勝っています。確かにそれは,わたしたちに多くのものを求める場合があります。時間,努力,自己犠牲,そうです,わたしたちの命をさえ犠牲にしなければならない場合もあります。それによって世から称賛が与えられるわけではありません。記念碑が建てられ,わたしたちの栄誉をたたえて街路に名が付けられるわけでもありません。しかし,そうしたすべての面があっても,わたしたちは知っています。すなわち,それにはそれだけの価値があると。そうです,わたしたちは,自分が,最も崇高で,最も優れた奉仕,最大かつ最も永続的な益,普遍的な益をもたらす奉仕に携わり得ることを知っています。その奉仕とは,わたしたちの偉大な創造者,エホバ神に対する奉仕,まさしく神聖な奉仕です。それは,『キリストの顔による神の栄光ある知識』のように,すばらしい宝です。―コリント第二 4:6-10,16-18。
なぜ勝っているか
6 そのような「神聖な奉仕」が,わたしたちの携わり得る他のどんな奉仕にも勝っている理由の一つは何ですか。
6 なぜわたしたちはこの「神聖な奉仕」を,わたしたちが携わる他のどんな奉仕にも勝るものとして大切にすべきですか。一つの点として,それは,人類が全歴史にわたって望み見てきながら達成し得なかったもの,平和な世界,また飢え,貧困,病気,抑圧からの解放,それが実現するのを見るようにあらゆる人種・国民の人々を助けるものであるからです。しかし,それをはるかに上回る点として,この奉仕は,多くの人がただ希望することすらためらったもの,まさに死からの解放について,あらゆる人が悟るように助けるものでもあるのです。―ローマ 8:18-21。ヘブライ 2:15。
7-9 (イ)神のみ子は,この世の奉仕に比べてそういう「神聖な奉仕」を高く評価していることをどのように示されましたか。(ロ)このことは,この奉仕を他のすべてに勝って大切にすべき最も強力な理由を,どのように強調していますか。
7 人間によるどんな支配,また博愛もしくは人道主義に基づくどんな努力も,こうしたものをもたらすことはできません。これは,神とその目的を離れては,決して到来し得ないものなのです。神の子イエス・キリストが,人道的な方法で計り知れない善をなすイエスの力を知った熱狂的群衆の手で郷土の王とされることを拒んだのもそのためでした。(ヨハネ 6:15,25-27)また,この地のすべての政府を支配する権限を与えるとの申し出をイエスが退けたのも同じ理由によりました。その申し出をしていた者は神を度外視して事を行なおうとしていたからです。事実,それを受け入れるための代価は一つの崇拝の行為,しかし神に対する崇拝ではなく,その申し出をした者に対する崇拝行為だったのです。イエスの答えはこうです。「サタンよ,離れ去れ!『あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,彼だけに神聖な奉仕をささげなければならない』と書いてある」― マタイ 4:8-10。
8 ここに,この神聖な奉仕を重要なものとすべきさらに大切な理由が示されています。すなわち,それをだれに対してささげるか,という点です。君主国に住む人々は,ある特定の地位に任ぜられて,「わたしは陛下のご用に仕えている」と誇らかに言い得ることを,崇高で栄誉のある事とみなしています。しかし,「わたしは,天と地の創造者,至上の方,全宇宙の主権者のご用に仕えている」と言い得るほうが,はるかに崇高で,栄誉のあることではありませんか。
9 そうです,わたしたちの「神聖な奉仕」が人類にどれほど益になるかを知るのは満足な事ですが,それを上回る事として,その奉仕は至高の神のみ名に誉れをもたらすのだ,というより大きな満足があるのです。神がこれまでに行なってくださり,またこれから行なおうとしておられるすべての愛の行為について思い見るとき,この神こそわたしたちの献身的また感謝に基づく奉仕に価する方である,と言わねばなりません。わたしたちは命また自分の享受するすべてのものをこの神に負っているのです。―詩 104:1,14,15,24。
10 どんなすばらしい報いが,その「神聖な奉仕」において前進することをわたしたちに促しますか。
10 わたしたちの奉仕を認めてくださる神は,その報いとして,やがては朽ち果てる記念碑ではなく,命を約束してくださっています。平和と健康と幸福のみなぎる義の新秩序での命です。あらゆる民と国民の中から来る,数え尽くすことのできない大群衆に対しては,今急速に近づいている大患難を生きて通過し,その後,ご自分の作る新秩序に入らせることを約束しておられます。使徒ヨハネは,その生き残る人々の様子を預言的な幻の中で見る特権を与えられ,啓示 7章14,15節でこう書いています。「これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」。
11,12 (イ)今日だれが「神聖な奉仕」をささげている,と主張していますか。(ロ)どんな状況がその主張を疑わしいものにしていますか。
11 わたしたちは,自分が,神の是認を受ける真に「神聖な奉仕」を確かにささげている,ということを,どうしたら知ることができるでしょうか。今日,ほとんど十億を数える人々がキリスト教世界諸教会の会員となっています。彼らは,自分たちは聖書の神に仕えている,と考えています。また,幾百万を数える,割礼を受けた生来のユダヤ人がいます。彼らは自分たちの会堂とラビたちを支持し,神への崇拝の点で正しい道を取っているとみなしています。世界の他の幾十億の人々は,キリスト教以外の諸宗教の神々に仕えています。
12 これが事実にしても,今日の宗教的な状態,また国から国へと広がる道徳の状態を見るとき,わたしたちは,彼らの見解が誤っているのではないかと問わざるを得ません。彼らが「子羊の血」に対する信仰によって身を清め,その信仰に当然伴って弟子となっている証拠がどこに見られるでしょうか。彼らは世のものとならないようにし,性の不道徳・偽り事・盗みなどによって身に汚点を付けないようにしてきましたか。彼ら自身は,他の人々が神の言葉を理解するように助け,新しい弟子たちが全能の神エホバに「神聖な奉仕」をささげるように援助していますか。―ヨハネ 15:27–16:3。使徒 24:13,14。
13,14 何が真の「神聖な奉仕」で,何がそうでないかを知ることが非常に大切なのはなぜですか。
13 わたしたちすべてはこの点で正しい答えが必要です。もしそれらの宗教的な人々が誤っているのであれば,その歩みの結末は衝撃的な失望となるにすぎないからです。が,現実の証拠は,そうした結末がやがて明らかになることを示しています。
14 やがて来る苦難の時,イエス・キリストは,だれにせよイエスが述べたとおりに神への真に「神聖な奉仕」をささげていない者に保護と恵みを差し伸べることはしません。イエスはこう述べました。「その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」。(マタイ 7:22,23)誤った奉仕は決して「神聖な奉仕」ではなく,神の義の新秩序の到来に先立って近づき来る大患難を生き残る道とはなりません。
「神聖な奉仕」の意味
15,16 『神聖な奉仕をささげる』に相当するギリシャ語(ラトレウオー)と,『奉仕する』に相当する語(ディアコネオー)はどのように異なりますか。
15 神からの是認と保護をもたらす「神聖な奉仕」とは何か,聖書はこの点を確かめる手だてを与えます。イエスが誘惑を退けたことに関する記録の中で用いられているギリシャ語は,動詞「ラトレウオー」です。(マタイ 4:10)この語は,多くの翻訳の中で「仕える(もしくは,奉仕する)」と訳されている「ディアコネオー」とは多少意味を異にします。その違いはどこにありますか。
16 これら二つはいずれも奉仕を指す語ですが,「ディアコネオー」はいつも,人が他の人に対してなす個人的な性質の奉仕に関して用いられます。(ルカ 12:37)一方,「ラトレウオー」は,聖書中の用法では,神に対する奉仕という意味に全く限定されています。幾つかの場合には,神とされる者,つまり偽りの神々に対する奉仕に関して用いられています。―使徒 7:42。ローマ 1:25。
17,18 (イ)キリスト以前に行なわれた「神聖な奉仕」に,使徒パウロはどのように言及していますか。(ロ)クリスチャンの「神聖な奉仕」は,特定の場所または会衆内の特別の級に限定されていますか。
17 真の神に対する地上での「神聖な奉仕」は,キリスト・イエスから,そしてキリスト教の礎が置かれた時から始まったのではありません。聖書はその点を明らかにしています。使徒パウロは,ヘブライ 8章5節でイスラエル人の祭司たちについて記した際にその事を示しました。それら祭司たちは,幕屋で仕え,神への犠牲をささげた時,「天にあるものの模式的な表現また影として神聖な奉仕をささげてい(た)」のであるとしています。―ヘブライ 9:1,6; 10:2; 13:10。
18 では,クリスチャンのささげる「神聖な奉仕」はどこか特別の場所でなされるものに限られ,古代イスラエルの祭司職のように特定の人々に限定されるのでしょうか。そうではありません。イスラエル人の間においてさえ,神聖な奉仕に携わっているとみなされたのは,幕屋で奉仕するべく任命された人々だけではなかったからです。それはイスラエル国民全体の特権また務めであったのです。―出エジプト 3:12。使徒 7:6,7。ローマ 9:4。
19,20 なぜ使徒パウロは,彼の時代に,イスラエルの12部族が,「[神に対し]神聖な奉仕を夜昼熱烈にささげて」いる,と言うことができましたか。
19 アグリッパ王の前で審問を受けた時,使徒パウロは,まさにその当時にも,アロン系の祭司職と結び付いたレビの部族だけでなく,肉のイスラエルの「十二部族」すべてが,父祖たちになされた神の約束の実現にあずかろうとの希望を抱いている,と述べました。彼らはその希望をどのように表明していましたか。使徒 26章7節のパウロの言葉によると,彼らは,「[神に対し]神聖な奉仕を夜昼熱烈にささげて」それを表明していました。彼らはそれをどのような形で行なっていましたか。
20 女預言者のアンナはそうした人の一人でした。ルカ 2章37節によると,この女は「[どこから?]神殿から離れたことがなく,[どんな方法で?]断食と祈願とをもって夜昼神聖な奉仕をささげて」いました。彼女は神殿におけるすべての公の奉仕の際いつもそこにいました。すべてのユダヤ人がエルサレムに住んでいたわけではありませんから,みんながそれほどひんぱんに神殿に来られたわけではありません。しかし,律法契約とそれに伴う法令に対する熱心を表わし,神殿における奉仕のために自分の産物の十分の一を納め,定めの犠牲をささげ,朝夕の祈りをし,また神の言葉が論じられる会堂に常に集うことによって,全イスラエルのユダヤ人が『日夜奉仕をささげる』ことができ,パウロの述べるとおり,多くの者が事実そのようにしていました。a
21,22 今日の「神聖な奉仕」が,律法契約とその犠牲を中心としていないのはなぜですか。
21 今日,神に対する「神聖な奉仕」は,そのような律法契約とそれに伴う種々の犠牲を中心にしていますか。そうではありません。パウロの述べたとおり,それらのすべては,後に来るより偉大な事柄の「模式的な表現また影」にすぎなかったからです。(ヘブライ 8:5)そして,ヘブライ 9章9,10節でパウロの述べるとおり,幕屋におけるそれらの犠牲は「肉に関する法的な要求であって,物事を正すための定めの時まで課せられ」たものでした。―フィリピ 3:3と比較してください。
22 「物事を正すための定めの時」はキリスト・イエスと共に到来しました。イエスは律法に含まれた「影」を成就しました。(ヘブライ 10:1-4)彼は,神の子羊として「きずのないすがたで自分を神にささげ」,自らの命を完全な犠牲,二度と繰り返される必要のないものとしてささげました。そして,使徒がさらにヘブライ 9章14節で述べるとおり,キリストのその流された血が,わたしたちの信仰に基づいて,「わたしたちの良心を死んだ業から清め,生ける神に神聖な奉仕をささげられるように」したのです。
クリスチャンのささげる神聖な奉仕の手本
23 多くのユダヤ人の昼夜にわたる「神聖な奉仕」も,エルサレムの陥落の時に神の保護をもたらさなかったのはなぜですか。
23 パウロ時代の非常に多くのユダヤ人が夜昼ささげていた奉仕は,一世紀のエルサレムに臨んだ激烈な患難,神のみ子が予告した患難の際,それらの人々に神からの保護を得させ,生き残らせるものとはなりませんでした。これはなぜでしたか。パウロはその人々について,『彼らは神に対する熱心さをいだいている。しかしそれは正確な知識によるものではない』と述べています。(ローマ 10:2)彼らは,キリスト・イエスの中に聖書の預言が成就していることを見落とし,このイエスによって神が今やそれ以後のすべての神聖な奉仕の規準を設けておられたことを悟りませんでした。人の心こそ神を喜ばせるための鍵ですが,彼らはそのことを見失い,自分の心を神の指示と導きに対して応答のないものとしました。(申命 10:12-14,16。マタイ 15:8)こうして彼らに及んだ重大な結果が自分に臨むことを避けたいのであれば,わたしたちは,神のみ子について学び得る限りのことを今学ばねばなりません。神に対するわたしたちの奉仕が受け入れられるものとなるためです。
24,25 (イ)キリスト・イエスは,どんな異なった方法で,「神聖な奉仕」の規準を設けられましたか。(ロ)どんな仕方で人々に対する同情心を示されましたか。
24 イエス・キリストは自分が地に来たことについて,「真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来(た)」と語りました。(ヨハネ 18:37)彼は真理を大胆に語ることによってその証しを行ないました。彼の生涯の最後の三年半は,神の王国の良いたよりをイスラエルの全土に宣明することに用いられました。しかし,彼にとっては,真理について話すだけでは十分でありませんでした。それに従って生きねばならなかったのです。神の言葉が自分について予告したすべての事柄をそのとおり行ない,人々がみ父とその道またその定めておられる規準を知るような生き方をして,神の言葉の真実さを実証しなければなりませんでした。(ヨハネ 1:14,18)彼は自分のすべての歩み方を見守って,神のみ名にそしりを招くことのないようにしました。彼は常に,何事にもまさって神のみ名を神聖なものとしました。―マタイ 6:9。
25 み父と同じように,イエスも,その当時の人々に対して深い,心からの同情心を抱きました。「群衆を見て哀れみをお感じになった。彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていたからである」と聖書は記しています。(マタイ 9:36)イエスは王国の良いたよりをもって彼らの心を慰めました。イエスはただ話したり講演したりするだけではすまさない人でした。人々のために,人間味のこもった親切を,実際の行為でも示しました。自分の話を聞きに来た大勢の人々に話し終えた後,こう言われました。「わたしは群衆に哀れみを覚えます。わたしの近くにとどまってすでに三日になるのに,食べる者を何も持っていないのです。そして,何も食べないままで家に帰らせたりすれば,路上で力がつきてしまうでしょう」。そうしてイエスは彼らに,奇跡によって食物を与えました。(マルコ 8:2,3)また,一人のらい病人が信仰を示して,『ただそう望むだけで』イエスは自分をいやせる,と言った時,イエスは,「わたしはそう望むのです」と言って,彼をすぐにいやしました。―マルコ 1:40,41。
26 イエスがそうした人道的な行為をされた第一の動機は何でしたか。
26 イエスがこれらの事を行なって人々の苦しみを解いたのはなぜでしたか。単に人道主義者,また博愛家であったためですか。そうではありません。彼がこれらの肉体的また物質的善を行なったのは,その伝えた良いたよりがまさしく神からのものであるという信仰のしっかりした根拠を民に与えるためでした。彼は自分の言葉だけでなく,自分の業をも指摘して,自分が真に神の代理者である証拠としたのです。イエスは人々に神を知らせようとしていましたが,その神の属性を付与されている証拠を自分の業で示さなければ,人々はどうして彼をメシアとして受け入れたでしょうか。―ヨハネ 10:37,38。
27 もしわたしたちがこの「神聖な奉仕」の特権を大切にするなら,今どんな決意をすることが必要ですか。
27 神に対する自分の奉仕が受け入れられるものとなることを願うなら,わたしたちもイエスの手本に倣わねばなりません。願わくはわたしたちが,自分の命をこのように用いることから極めて良い結果が生まれることを認めて確固たる態度を保ち,どんな形の困難や反対が生じようとも,神がわたしたちの後ろだてであることを,それらを通して知ることができますように。願わくは,ゼカリヤと同じわたしたちの祈りを神が聞かれて,「敵の手から救い出されたのち,いつの日もそのみまえで忠節と義とをもって恐れなく神聖な奉仕をささげる特権をわたしたちに得させ」てくださいますように。―ルカ 1:74,75。
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夜も昼も神聖な奉仕をささげるものみの塔 1977 | 1月15日
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夜も昼も神聖な奉仕をささげる
「み子についての良いたよりに関連してわたしが自分の霊をこめて神聖な奉仕をささげている神」― ローマ 1:9。
1,2 神に対するわたしたちの「神聖な奉仕」に関係した犠牲があることを,聖書はどのように示していますか。
今日の神のしもべたちは,律法契約に基づく種々の犠牲をささげることは求められていません。キリスト・イエスはその契約を全うし,そのゆえに神はそれを除かれたのです。しかしそれでも,わたしたちの神聖な奉仕において肝要な地位を占める犠牲があります。それは何ですか。
2 キリスト・イエスの使徒パウロは,ヘブライ 13章15,16節でそれをわたしたちに示しています。幕屋でイスラエルの祭司によってなされた神聖な奉仕について述べ,それがイエスにおいてどのように全うされたかを論じた後,パウロはこう述べます。「彼を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。
3 ヘブライ 13章15節にある,霊感によるパウロの言葉はわたしたちに何を要求していますか。
3 この事はわたしたちに何を意味するでしょうか。エホバ神に関する真理,またその王国の良いたよりを語り告げるように,という意味です。そしてこの事は,折々,時たま,週末や集会の晩だけでなく,使徒が述べるとおり,「常に」,すなわち毎日,夜も昼も行ない,これを行なう機会に絶えず目ざめているべきなのです。
4 わたしたちの「神聖な奉仕」は,くちびるで行なうだけですか。(ヨハネ第一 3:18)
4 これは,わたしたちの「神聖な奉仕」がただ語ることだけである,という意味ですか。そうではありません。「賛美の犠牲」について述べた後,使徒は,神がわたしたちに望まれる別の犠牲についてさらに述べているからです。16節でこう述べます。「さらに,善を行なうこと,そして,他の人と分かち合うことを忘れてはなりません。神はそのような犠牲を大いに喜ばれるのです」。そうです,わたしたちのささげる「神聖な奉仕」は平衡の取れたものであるべきです。神を賛美する言葉と行ない,『善を行なうことや他の人と分かち合う』こととつり合いの取れたものであるべきです。
5 (イ)どうすれば,わたしたちの生活全体が良いたよりを証しするものとなりますか。(ロ)これは,わたしたちの住む地域社会の中の他の人々に,どんな影響を与えますか。
5 ですから,イエスと同じように,わたしたちは,自分の全生活が真理に対する証しとなることを願います。人々を助ける面でイエスのような奇跡を行ない得ないことは確かです。それでも,わたしたちの立派な行状,正直さ,誠実さ,できる時に自分に可能なすべての方法で人々を助けようとすること,これらによっても受け入れられるのです。ガラテア 6章10節の勧めのとおりに行なえます。「ですから,時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。こうした歩み方によって,人々が真理に対して耳を開くようその下地を作ることになります。その上でわたしたちは,すべての人に良いたよりを宣明することを控えてはなりません。憶することなく,大胆に,『心に満ちあふれるものから』語るのです。でなければ,わたしたちの良い業,立派な生き方を見る人々はどうして真の助けを受けられるでしょうか。わたしたちにその立派な業を行なわせているのは神からの良いたよりである,ということを,人々に知らせるべきなのです。(マタイ 5:16; 12:34,35)そうすることによって人々は,同じようにその良いたよりを学ぶなら,自分もこのわたしたちと同じようになれる,ということを知るのです。自らの良い行状に添えて他の人々の役に立とうとする親切な業,および,『賛美の犠牲,すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実』,この両者を示しているのでない限り,神に対して神聖な奉仕を十分にささげているとは言えません。―ヘブライ 13:15。
6 わたしたちの「神聖な奉仕」が完全であるためには,何が要求されますか。
6 したがって,イエスの手本,また使徒たちの手本から明瞭な点として,わたしたちの「神聖な奉仕」とは,わたしたちの人格を改めて親切を行なうことだけではありません。これはわたしたちの奉仕の一部,その基であり,その上にわたしたちは賛美の犠牲を加えるのです。(詩 106:12)良いたよりに即して生きかつそれを宣明するのでなければ,わたしたちの「神聖な奉仕」は完全とは言えません。
7 わたしたちの「神聖な奉仕」を成す種々の犠牲をささげることに,どれほどの時間を費やすかは,だれが決めますか。
7 今日のわたしたちすべては,自分が,神に対して夜昼『神聖な奉仕』をささげている人々の中に入っていることを示せます。エホバ神は,わたしたちが賛美の犠牲をささげることにどれほどの時間を費やすべきか,また神を大いに喜ばせる他方の犠牲にどれほどの時間を当てるべきかについて,(「常に」と言う以外は)何も規定を設けておられません。わたしたちは自分でこの両者の間に平衝を保たねばなりません。それでも,これらのすべての犠牲,すなわち,神のみ名を公に宣明するくちびるの実と,善を行なって他の人々と分かち合うこと,このすべてがそこにあって,日中も晩の時間もわたしたちの生活の中でその場所を占めているべきなのです。―使徒 26:7と比較してください。
8 イエスは,「夜も昼も」仕えるどんな模範を示されましたか。(マルコ 1:35。ルカ 6:12)
8 イエスは良いたよりを自分の心の中に収めていました。それについて深く思いめぐらし,その音信を人々に理解させるためにどうしたらよいかを考えました。彼は良いたよりを語るために常に,「夜も昼も」備えをし,非常に疲れていた時にさえそれをためらいませんでした。彼は真理を告げる点で常に熱心でした。(ヨハネ 2:17)あるサマリア人の女に語り掛けた時のことを思い出してください。ユダヤ人はそのような者を,神聖な物事を解し得ない者とみなしていたのです。(ヨハネ 4:7-26)しかしイエスは,その女の不道徳な生活について知りながらも,彼女を裁きませんでした。その女に対するイエスの証しは,神のみ名とお目的を広範囲にふれ告げるすばらしい結果となりました。―ヨハネ 4:39-42。
わたしたちの全生活が「神聖な奉仕」
9 「神聖な奉仕」は本質的に何を包含しますか。霊感によって書かれたパウロの文書は,これをどのように示していますか。(コロサイ 3:17)
9 ですから,「神聖な奉仕」はわたしたちの生活のただ一部をなすものではありません。それはただ一つの活動,もしくはある幾つかの活動に限られるものではなく,わたしたちの日常生活のあらゆる分野を包含するのです。それは次の言葉によって要約できます。『食べるにも,飲むにも,他のどんな事をするにも,すべての事を神の栄光のためにしなさい』。(コリント第一 10:31)この奉仕にまさにすべての面が含まれるべきことを示して,パウロはローマ 12章1,2節でこう述べます。「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です。そして,自分をこの事物の体制に合わせてはなりません」。a
10 (イ)何にせよ,特定の活動がわたしたちの「神聖な奉仕」の一部であるかどうかを決めるのは何ですか。(ロ)神の言葉は,親にどんな奉仕を「夜昼」することを要求していますか。親はこれをどう見るべきですか。
10 多くの事が関係しています。しかし,あなたの目ざすところ,目標,また心の動機が,あなたの行なう事柄がまさしく「神聖な奉仕」であるかどうかを決定する要素となります。例えば,わたしたちの中には,親である人が多くいます。神に対するその人の「神聖な奉仕」の一部,事実大きな部分は子供のことであるはずです。詩篇 127篇3節は,子供は「エホバのあたへたまふゆずり」であると述べています。あなたはそのゆずり与えられたものを,神の前にあって,また神の栄光のために育てておられますか。これもあなたの奉仕の「夜昼」なされるべき面です。親は神の定めた優れた原則を,起きた時から寝る時まで自分の子供に教え諭すべきである,と神の言葉は指摘しているからです。(申命 6:4-9)これを行なうための基本は,子供と聖書を勉強することです。しかし,親は,『わたしは,他の人々とするように,自分の子供とも毎週一度ずつ聖書研究をしている。だから,善悪を知って聖書の原則に従ってゆくのにそれで十分のはずだ』と考えるべきではありません。それは正しくありません。信仰のある親の子供は神によって「聖なる」もしくは神聖なるものとみなされています。この点を思い出してください。(コリント第一 7:14)神にとって神聖な物事を自分の手に委ねられた場合,あなたはそれをどのように扱うでしょうか。それを毎日,昼も夜も極めて慎重に守ってゆくのではありませんか。
11 なぜ親はこの面の「神聖な奉仕」を怠ることはできませんか。
11 子供たちを教え,しつけるためにあなたが今行なうこと,それは子供たちを救うものとなるのです。一方,あなたがこの点で今放漫であるなら,自分の子供たちを失う結果になります。つまり,子供たちへのあなたの言葉が全く相手にされなくなる時が,あなたの知らないうちに,突如訪れることになります。この世が子供たちに対してあなた以上の影響力を持つようになるのです。その時,神聖な財産に対するあなたの扱いを,神はどのようにご覧になるでしょうか。
12,13 (イ)親は申命記 6章4-9節の勧めをどのように賢明かつ効果的に実行できますか。(ロ)クリスチャンの親が,この世的な見地から見たただの「良い子」以上のものを望むのはなぜですか。(箴 3:1-4)
12 子供に神の言葉をひねもす教え諭すというのは,終始子供に説教をするという意味ではありません。あなたの毎日の生活と話す事とによって,神の真理がどういうものかを実際に示すことが求められるのです。あらゆる場合に,子供たちに対するあなたの優しい親密な関係,親しく身近に接して物事を共に行ない,自由に語り合うことなどによって,子供がエホバ神とその知恵,その愛,その道の正しさなどを認識するように助けることができます。その話すことに耳を傾け,筋道を立てて話し合ってください。子供に指示を与え,仕事を割り当て,また懲らしめを施す際には,その理由を示し,親に従い,そのゆえに,すべてのものの頭である神に従うことの良い結果について説明してください。
13 世に言う普通の意味での“良い子”を持とうとするのは正しくありません。もとより,自分の子供が,行儀が良く,敬意を持ち,正直で,思いやり深い子供となることを望まれるでしょう。しかし,そのように望むのは,何よりも,その子供がエホバ神を知りかつ愛するようになったためであるはずです。子供に対するあなたの訓育が世の若者の場合と異なり,それが真の意味で神聖な奉仕となるために,子供の心と思いはエホバに向けられ,こうしてその子供もエホバの賛美者とならねばならないのです。―詩 148:12,13。
14 夫と妻は結婚の取り決めを通してどのように「神聖な奉仕」をささげることができますか。
14 夫と妻は自分たちの結婚関係を成功させ,結婚の取り決めを始められた神の誉れとなるようにすることによっても神聖な奉仕をささげることができます。男にしても女にしても,他の人に対して非常に親切に,気持ちよく接し,辛抱強く人の過ちをこらえ,仕返しの気持ちなど持たずに辱めや危害をさえ忍ぶ場合もあります。ところが,配偶者のことになると,夫にしても妻にしても,すぐに怒ったり,言葉の裏の意味を読もうとしたり,挑発的であったり,あら捜しを試みたりする場合があります。互いに意思を通わせなくなってしまう夫婦もあります。結婚した人がほかのどんな事をするとしても,神聖な結婚の契約を無視しているのであれば,その人は受け入れられる神聖な奉仕を神に十分にささげていることにはなりません。―エフェソス 5:22-25,29。
15 妻は,彼女の住む地域社会の中で良いたよりを広めるのにどんな強力な貢献をすることができますか。
15 家庭の主婦である人たちには受け入れられる神聖な奉仕を神にささげる良い機会があります。他の人の見る主婦の立派な業の中には,もちろん,家を清潔できちんとさせ,家族の食事や衣服の世話を見ることも含まれます。他の人の前に展示されているものとして家以上のものがあるでしょうか。妻が人をよくもてなすこと,隣人を進んで助けようとすること,とりわけ,どんな事にせよ会衆内の他の姉妹たちを援助するために骨身惜しまず働く態度,これらは神が大いに喜ばれる犠牲です。彼女のこうした点について人々が知る時,彼女が会衆の区域内で良いたよりを宣明することにはより強い影響力が伴うことになります。―使徒 9:36-41。テトス 2:4,5。
16 子供たちや若い人々はどのようにして毎日神に「神聖な奉仕」をささげ,良い結果を得ることができますか。
16 家族内の子供たちがエホバに「神聖な奉仕」をささげることに関心を抱いているのであれば,そうした子供たちは,自分の父親を敬い,家を清潔に整えることに協力して神に誉れをもたらす面で母親を助けることができます。そして,親が真理にいない場合でも,子供たちは親に神を知らせるためこうした点で多くの事を行なえます。学友たちの前での行状,先生たちに対する敬意,機会の開けた時に良いたよりについて話すこと,王国会館でなされる事柄に関して会衆とよく協力すること,野外奉仕に携わること,これらは確かに神がその子供に対して「神聖な奉仕」とみなしてくださる事柄です。(箴 20:11。テトス 2:6-8)あなたのなす奉仕が真の意味で「神聖な奉仕」であるか否かを試みるのに良い点として,次のことを自問してみてください。『自分は野外奉仕に出て,聖書文書を他の人々のところへ携えて行くだろうか』。それは称賛に値します。しかしこのようにも自問してみてください。『学校その他の場所での自分の行状はどうか。世の若者たちが行なうのと同じ事を行なっているだろうか。それとも,エホバに対して夜昼「神聖な奉仕」をささげるべきことを銘記しているだろうか』。あなたも,他の人々と同じように,日常の振舞いや立派な態度により,人々の関心を良いたよりに向けさせることに,大いにあずかることができます。
17 長老たちはどんな特定の奉仕を行なうべく召されていますか。
17 クリスチャンの長老たちも夜昼仕えることを求められています。その人たちの「神聖な奉仕」の中には,兄弟たちのための奉仕,その霊的な必要を顧みることが含まれます。エフェソス会衆の長老たちに対して使徒パウロは次のように言うことができました。「ですから,目ざめていなさい。そして,三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい」。(使徒 20:31)第一世紀のエフェソスの兄弟たちはパウロの働きを必要としていましたが,今日のあなたの兄弟たちも同じようにあなたからの助けを必要としています。
18-21 (イ)昼夜にわたるパウロの「神聖な奉仕」はどんなものでしたか。(ロ)パウロが行なった世俗の仕事が,神に対する神聖な奉仕の一部であったと言えるのはなぜですか。ここにはわたしたちが学ぶべきどんな教訓がありますか。
18 あなたは,パウロが行なったと同じようにして夜昼仕えることができますか。パウロの言葉は,必ずしも一分残らず語ることや宣べ伝えることに用いたという意味ではありません。使徒 20章34節の中で,パウロは,自分自身および自分と共に労する者たちの必要に仕えるため世俗の仕事に手ずから携わったことを述べています。事実,テサロニケの人々に対して書き送った時,彼はこうも述べました。「兄弟たち,あなたがたは,わたしの労と刻苦とを覚えているはずです。わたしたちは神の良いたよりをあなたがたに宣べ伝えましたが,それは,あなたがたのだれにも費用の面で重荷を負わせないようにと,夜昼働きながらのことであったのです」― テサロニケ第一 2:9。
19 そうです,パウロは,天幕を造るなどの世俗の仕事に,昼間だけでなく,時には晩にも携わりました。しかし,大切なのは,なんのためにそれを行なったか,という点です。それは物質主義的な理由のためでしたか。ぜいたくのためでしたか。そうではありません。彼自ら述べるとおり,自分の兄弟たちに「費用の面で重荷を負わせない」ためでした。彼はこの面で手本を示し,自分が良いたよりを分かち与えている人々からの経済的支持によって安逸の生活を送っている,とはだれからも言われることのないようにしました。彼の動機また目ざすところは,真理を推し進め,自分が仕えた人々の思いの中からいかなるつまずきのもとをも除き去ることでした。そのゆえに彼は,そうした世俗の仕事の時間にさえ神への奉仕に携わっていると言い得たのです。しかし,仮に彼の動機が利己的なものであり,すべての事をエホバに対するように,王国関心事の推進のために行なっていたのでなかったとすればどうでしょうか。もしそうであれば,彼の働きは他のどんな世俗の仕事とも異ならず,「神聖な奉仕」であるとは言えませんでした。
20 しかしパウロは,自分の世俗の仕事に関して清い良心と正しい動機を有していましたから,非常な大胆さと熱心とをもって良いたよりをふれ告げることにより,神に対する自分の「神聖な奉仕」のこの部分を,神から与えられた使命と調和させることができました。そうした「神聖な奉仕」は神から大いに祝福されたのです。「み子についての良いたよりに関連してわたしが自分の霊をこめて神聖な奉仕をささげている神」と,パウロが主題の聖句の中で述べているとおりです」。(ローマ 1:9)神に「神聖な奉仕」をささげようとしたパウロの忠実な努力の広範な影響に,わたしたちすべては驚嘆を覚えているではありませんか。
21 したがって,わたしたち各自は次の点を自問すべきです。自分の仕事に対して自分はどんな見方をしているだろうか。自分は一体何を目ざしているのだろうか。これに対し,道理にかなった唯一の答えは,パウロが青年テモテに与えた次の助言の中に見いだせます。「敬神の専念を目ざして自分を訓練してゆきなさい。……敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」― テモテ第一 4:7,8。ヨハネ 6:27。
22 わたしたちは敬神の専念を通してどんな二重の目的を達成しますか。
22 そうです,わたしたちが敬神の専念を追い求める主要な目的は,エホバに「神聖な奉仕」をささげてそのみ名に誉れをもたらし,こうして他の人々を助けてエホバがどのような神かを認識させ,エホバとの緊密な関係に至らせることです。しかし,こうすることによって,わたしたちは今この時により幸福な生活を送ることにもなります。またそれは「きたるべき命」をも意味します。わたしたちに対してだけでなく,わたしたちの家族,またわたしたちの行状と良いたよりの宣明によって影響を受けるすべての人々に対してもです。
23,24 自分の「神聖な奉仕」の純粋さを絶えず試すようわたしたちを励ますものは何ですか。
23 「きたるべき命」,さらにそれ以上のもの,すなわち,今からとこしえにわたりとぎれることのない命を持つことに関しては,生き残る大群衆に関する使徒ヨハネの幻が,「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試し」,「神聖な奉仕」を真に,十分にささげているかどうかを絶えず吟味してゆくための大きな励みとなります。(コリント第二 13:5)そうです,神はわたしたちに,無上の希望として,その数え切れない大群衆の中に入る見込みを差し伸べておられます。神はその人々を来たるべき大患難の際に生き長らえさせ,ご自分の義の新秩序に招じ入れるのです。
24 正しい事,当然の事,そして最も楽しみある事を行なうことに対して,わたしたちの前にはまことにすばらしい見込みが置かれているではありませんか。まもなく,地上に住むすべての者が神に「神聖な奉仕」をささげる時が来ます。それこそ地がパラダイスとなる時ではありませんか。―啓示 22:1-3。
25 近づく大患難を生き残るためには,今も何をしているべきですか。
25 大患難の際に滅びを免れる人々の中に入ることを願うなら,その患難の後に大群衆が行なっているのをヨハネが見たその事を,今この時にも行なっていなければなりません。彼らは「大声で」,「救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊とによ(る)」と叫んでいました。(啓示 7:10)ためらいながらではなく,あやふやな気持ちからでもなく,いわば「大声で」,確信と専心の愛,また魂を込めた献身に基づいて,そうです,このようにしてわたしたちはエホバのみ名について公の宣明をし,そのみ名が象徴するすべての壮大な事柄,またそのみ名に裏付けられたすべての栄光ある約束に関してふれ告げてゆきたいのです。わたしたちはエホバとそのみ子を「常に」賛美していたいと思います。家庭の互いの間で,集会の際に,また同じ地域社会で耳を傾けるすべての人に,あるいは他のどのような所にいる場合でも。わたしたちがこのようにするなら,『[キリスト]の父のみ顔を常に見守っている』天の軍勢すべても,わたしたちを最大限に支援し,神への誠実なる「神聖な奉仕」の一環としてわたしたちの行なう良いたよりの宣明に対して「アーメン」の声を添えてくれるでしょう。―マタイ 18:10。啓示 7:12。
26 今日,エホバを求めるよう世界中の多数の人々の心を動かすものは何ですか。これはどんな喜びをもたらしますか。
26 今日幾千幾万の人々をエホバのもとに引き寄せているのは,エホバの民の行なう「神聖な奉仕」です。それらの人々は,エホバの証人の愛の態度,進んで助けようとする態度,清潔さ,真実の忠誠,平和的態度,宣べ伝える業に対する献身を見ています。そうして,神のしもべたちが熱心に宣明する良いたよりを耳にし,それに耳を傾けようとの衝動を持つのです。こうしてエホバ神は現在栄光を受け,今後全地にわたってその栄光は一層たたえられ,大患難を生き残った感謝にあふれる人々によって力強く賛美されることになります。このすべては,神に対して真に神聖な奉仕を日夜ささげることの,立派な,喜ばしい結果となるのです。
[脚注]
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祈りによって神に近づくものみの塔 1977 | 1月15日
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祈りによって神に近づく
エホバ神は,「耳を植えた者は聞くことをしないだろうか」と述べておられます。(詩 94:9,口)身分の上下を問わず,心から誠実な態度で神に祈る人は,神がその請願に関心を示してくださるという全き確信を抱くことができます。聖書はこう述べています。「ユダヤ人とギリシャ人の間に差別はないからです。すべての者の上に同じ主がおられ,このかたは自分を呼び求めるすべての者に対して豊かなのです」― ローマ 10:12。
しかしわたしたちは,正しい態度,つまり深い敬意のこもった態度で,また神と自分たちの関係を理解した上で,神に近づかねばなりません。神は,宇宙の主であり,わたしたちの全能の創造者です。
したがって,人が礼儀作法を一切わきまえず,前触れもなしに地上の王の前にまかり出ることがないのと同様,神に祈りを聞いていただきたいと誠実に願う人は,ふさわしい精神と礼儀をもって神に近づきます。しかしそれだからと言って,神が冷淡で近づき難い神,遠く離れた存在になるわけではありません。それは,使徒パウロがアテネの一群の男女に対して,神はご自分を人間が捜し求めるよう取り計らわれたと述べ,さらに次のように語っていることから分かります。「実際のところ神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在し…『…われらはまたその子孫(なのです)』」― 使徒 17:26-28。
神は,わたしたちがどうすれば必ず祈りを聞いていただけるか,という点を親切にも教えてくださいました。人は「わたしたちの主イエス・キリストの名により」神に近づかねばならないということを,神は極めて明確に示されました。(エフェソス 5:20)イエスは使徒たちに,ご自分が復活
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