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  • 『悪鬼の食卓』対『ヱホバの食卓』
    ものみの塔 1956 | 2月1日
    • をうけ,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず……杭にかかつて,私たちの罪を御自分の体に負われた。』(ペテロ前 4:1; 2:21,22,24,新世)彼は自分の弟子のために,その人間としての生存,肉体としての生存を断念しました。そのようにして,彼らが天に行く道を開きました。『私たちは,イエスの血によつて,はばかることなく,聖所にはいることができ,彼の肉体なる幕をとおり,私たちのために開いて下さつた新しい生きた道をとおつて,入つて行くことができる。』― ヘブル 10:19,20,新口。

      20 イエスの血は,何を成し遂げますか? 夕食のときに,イエスはどのようにこのことを指摘しましたか?

      20 イエスは,血の無い化肉または形態現出のような肉体を持つたのではありません。イエスは,血と肉を持つ人間の子らを贖うために来ました。聖書には,こう書かれています。『このように,子たちは血と肉とに共にあずかつているので,イエスもまた同様に,それらをそなえておられる。それは,死の力を持つ者,すなわち悪魔を御自分の死によつて亡すためである。』(ヘブル 2:14,新口)それで,弟子たちがイエスの記念に祝うこの夕食を始めるにあたつて,イエスは自分の血の成し遂げる事に注意を向けさせました。彼は,『葡萄の実から造られたもの』で充ちている杯を取り,『感謝を捧げてから,彼らに与え,「あなた方は,みなこの杯から飲みなさい。これは,罪の赦しを得させようと,多くの人のために注がれる『契約の血』を意味する」と言われた。』(マタイ 26:27,28,新世。マルコ 14:23,24)『この杯は,あなた方のために流す私の血によつて立てられる新しい契約を意味する。』(ルカ 22:20,新世)このようにして,イエスは御自分の血の為す特別な用法を述べました。つまり,多くの弟子の罪をゆるす新しい契約を実施することでした。それで,血と肉を彼らに与えられたのです。

      21 イエスは,なぜご自身の血を過越の羊の血になぞらえていませんか? しかし,イエスは誰の言葉を引用しましたか?

      21 そのような言葉を言われたイエスは,御自分の血を,過越の羊の血になぞらえていないことに,注意して下さい。過越の羊が,『神の小羊』であるイエスを予表したことは真実です。昔のエジプトの地で,過越しの羊の血が,イスラエル人の家の入口の柱と,かもいに塗られたことは真実です。そうすることによつて,ヱホバの亡びの御使は,その血を見ることができ,家の内にいる長子や,家畜のういごを,殺さずに過ぎ越しました。それと同じように,神の小羊の弟子たちは,『心はすすがれて良心のとがめを去』らねばならず,公やけにイエスの血を告白しなければなりません。(出エジプト 12:7; 21:23。ヘブル 10:19,20,22; 9:14,新口)それで,彼らは『きずも,しみもない小羊のようなキリストの尊い血によつて』贖われています。(ペテロ前 1:19,新口)しかし,予言者モーセを仲立ちとする律法契約を実施させたのは,過越しの羊の血ではありません。モーセが『是すなわちヱホバがこのすべての言葉につきて汝と結び給える契約の血なり』と言いながら,契約の律法の書と民の上にふりかけた血は,過越の羊の血ではありません。(出エジプト 24:7,8)それは,別の動物の血でした。それで,イエスが,ヱホバ神と自分の弟子たちとのあいだに新しい契約をつくると指し示したとき,彼は『契約の血』というモーセの言葉を引用し,その言葉を御自身の血に適用しました。

      22 使徒パウロの言葉によると,シナイ山で『前の契約』が成立したとき,どんな動物が殺されましたか?

      22 シナイ山で『前の契約』が成立したときに,どんな動物が殺されましたか。それについて使徒パウロはこう書いています『契約は,死んだ犠牲のあるときに有効となる。人間の契約者が生きているあいだは,その契約は有効でない。それで,前の契約も血なしで成立したのではない。実に,律法によるどのいましめも,モーセによつてすべての民に語られたとき,モーセは,水と緋色の毛とヒソプと一緒に,子牛と山羊の血をとつて契約書と民全体にふりかけ,「これは,神があなた方に立てられた契約の血である」と言つた。』(ヘブル 9:17-20,新世)子牛と山羊が殺されて,その血が用いられました。

      23,24 (イ)モーセによると,古い律法契約を成立させるために,どんな種類の犠牲が捧げられましたか?(ロ)肉と血に,何が為されましたか? それは誰の血を予表しましたか?

      23 さて,過越後の第3番目の月に,古い律法契約を成立させるため,イスラエル人の捧げた犠牲の種類に注意して下さい。『しかして(モーセ),イスラエルの子孫の中の少き人たちを遣して,ヱホバに燔祭を献げしめ,牛をもて酬恩祭を供えしむ。モーセ,時にその血の半ばをとりて,鉢に入れ,又その血の半を壇(ヱホバの祭壇)の上に灌げり。しかして,契約の書をとりて民に誦きかせたるに,彼ら応えて言う。ヱホバの宣うところは,みなわれらこれを為てしたがうべしと。モーセ,すなわちその血をとりて民に灌ぎて言う。是すなわちヱホバがこのすべての言葉につきて,汝と結びたまえる契約の血なり。』― 出エジプト 24:5-8。

      24 燔祭だけでなく,酬恩祭もあつたことに,注意して下さい。酬恩祭には,たいていの場合,羊とか山羊のような小さな家畜が用いられました。そして,パウロは,酬恩祭に山羊も含まれていたと,示しています。それで,ヱホバが酬恩祭の犠牲の脂を得られただけでなく,祭司たちも犠牲の右の足と肩を得ました。そして,この時に,もし祭司たちが,酬恩祭の犠牲の残り全部を取らないならば,イスラエルの代表者たち,すなわち『イスラエルの七十人の長老』たちは,酬恩祭の犠牲の残りの部分を食べました。このようにして,古い律法契約が成立したときに,イスラエル全部は,祭司たちと代表者たちによつて,ヱホバ神と交りを結びました。シナイ山で殺された子牛と山羊の血は,ヱホバの新しい契約の仲立者,イエス・キリストの血を予表しました。それらの動物の血は,椀の中で交ぜられて,それから律法の書と民の上に濯がれたからです。聖書には,イエスについてこう書かれています。『山羊と子牛との血を携えず,御自身の血を携えて,一度だけ聖所にはいられ,それによつて永遠のあがないを全うされたのである。』(ヘブル 9:12,新世)イエスは,自分の血を与えるために,犠牲の死をとげました。

      25 ヱホバは,エレミヤ記 31章31-34節で,何を備えると,約束されましたか? その基礎としてなぜ血が必要でしたか?

      25 ヱホバは,モーセよりも大いなる予言者によつて,古い律法契約を廃止し,新しい契約を始めると,約束され,エレミヤ記 31章31-34節で,そのことを述べられました。ヱホバは,新しい契約内の御自分の立場について,『我彼らの不義をゆるし,その罪をまた思わざるべし。』と言われました。さて,不義がゆるされ,罪を全く取りのぞくために,この新しい契約の基礎として,あるものが必要でした。それは何ですか? 流された血です。前の契約成立についての記録のすぐ後に書かれているヘブル書 9章22節は,こう述べています。『こうして,ほとんどすべての物が,律法に従い,血によつてきよめられたのである。血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』― 新口。

      26 それで,主の夕食のときに,イエスはどんな言葉を正しく言うことができましたか? それで誰が正しく杯から飲みますか?

      26 それで,罪と過ちの処罰から私たちを救うためには,完全な人間の犠牲であるイエスの血が,是非とも注がれねばならなかつたのです。前の律法契約下にあつた動物の犠牲では,私たちはその処罰から救われません。(ヘブル 9:15)新しい契約によつて,神は私たちの罪をゆるす,ということが約束され,また杯の中の葡萄酒は,その新しい契約に必要なイエスの清くして完全な生命の血を表示していました。このことから,『これは罪のゆるしを得させようと,多くの人のために注がれる「契約の血」を意味する』と言われたイエスの言葉は正しいものです。(マタイ 26:27,28,新世)新しい契約に入れられて,霊的なイスラエル人になるクリスチャン達だけが,主の夕食の杯から飲む正しい資格を持つています。

      彼の血を飲む

      27 その杯から飲むことによつて,彼らはどんな契約にいることを示しますか? また,どのような影響を受けている,と示しますか?

      27 霊的なイスラエルであるクリスチャンは,その杯から飲むことによつて,新しい契約にいることを示し,かつ新しい契約の恩恵をうけていることを表示します。すなわち,イエスの血を通して,神より罪が許されることです。彼らは,その杯から飲むことにより,イエスの血を飲む,ということを表示します。その杯から飲むことにより,彼らは恩恵をうけている者であつて,処罰をうけている者ではないということを表示します。その象徴的な仕方でイエスの血を飲むことにより,彼らは,自分自身になされる処罰を飲んでいるのではなく,生命の恩恵を飲んでいます。その血の中には生命があるからです。信仰によつて,イエスの血を象徴的に飲むからといつて,彼らは死に処罰されたのではありません。丁度,信仰によつて,イエスの肉の体を象徴的に食べるからといつて,禁ぜられた食物を食べたわけではなく,また,死に処罰されないのと,同じです。むしろ,彼らは永遠の生命という恩恵をうけるのです。

      28 イエスは,その見地に立つて,ヨハネ伝 6章でどのように論ぜられましたか?

      28 イエスが,ユダヤ人たちに次の言葉を語られたとき,その見地に立つて論ぜられたのでした。それを聞いた多くのユダヤ人は,全くおどろきました。『よくよくあなた方に言つておく。信じる者には永遠の生命がある。私は生命のパンである。あなた方の先祖は,荒野でマナを食べたが,死んでしまつた。しかし,天から下つてきたパンを食べる人は,決して死ぬことはない。私は天から下つてきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう,私が与えるパンは世の生命のために与える私の肉である。……人の子の肉を食べず,また,その血を飲まなければ,あなた方の内に生命はない。私の肉を食べ,私の血を飲む者には,永遠の生命があり,私はその人を終りの日によみがえらせるであろう。私の肉はまことの食物,私の血は,(不法な飲み物,死をもたらす飲み物ではなく)まことの飲み物である。私の肉を食べ,私の血を飲む者は,私におり,私もまたその人におる。生ける父が私をつかわされ,また私が父によつて生きているように,私を食べる者も私によつて生きるであろう。天から下つてきたパンは,先祖たちが食べたが死んでしまつたようなものではない。このパンを食べる者は,いつまでも生きるであろう。』シモン,ペテロは,これらの言葉は,『永遠の生命の言葉』である,と言いました。―ヨハネ 6:47-58,68,新口。

      29 弟子たちの生命のために,イエスは二つのどんな必要なものを与えましたか? 杯の意味するものから考えると,パンは何を意味しますか?

      29 イエスは,弟子たちの生命のために,御自分の肉と血を与えられました。イエスは,御自分の備えた夕食のときに,パンと葡萄酒の杯を用いることにより,永遠の生命を得るのに是非必要な肉と血を象徴されました。葡萄酒の杯は,新しい契約を有効にするのに必要な実際の血を表示すると,イエスは言われました。それと同じように,イエスがさいて与えたパンは,実際の人間としての価値を持つているにちがいありません。そのパンは,新しい世に入る人々の生命のために与えるイエスの肉の体を意味するにちがいありません。

      30 イエスの血を飲むことは,何を意味しますか? しかし,イエスの血を飲むという考えにびつくりしたユダヤ人たちは,何をしましたか?

      30 イエスの血を飲むからといつて,イエスを死なせたという責任を負うものではありません。それは,信仰によつて,感謝の気持からその血をうけ入れ,犠牲として注がれたイエスの生命の血の恩恵を取り入れる,ということです。イエスを刑柱にかけて殺せ,と要求した人々は,イエスの血を飲むという考えにびつくりし,その血を,信仰をもつて飲もうとはしなかつたのです。総督ポンテオ・ピラトが『この人の血について,私には責任がない。』と言つた後に,それらの人々は,イエスの死に対する責任を取つたのです。彼らは,『その血の責任は,われわれと,われわれの子孫の上にかかつてもよい。』と言いました。(マタイ 27:24,25,新世)後日,ユダヤの最高法廷は使徒たちに反対して『あなた方は確かに,あの人の血の責任を私たちに負わせようと,たくらんでいるのだ。』と言いましたが,実は,彼らはイエスの血を象徴的に飲もうとはせず,そして自分の潔白なることを示そうとはしなかつたのです。―使行 5:27,28,新口。

      31 飲むことを拒絶したユダヤの祭司たちにつき,パウロは何と言つていますか? それで,主の夕食のときに,イエスの血を象徴的に飲む資格を持つ人は誰ですか?

      31 信仰を持たないそれらのユダヤ人は,イエスの血を飲もうとはしなかつたため,新しい契約に入ることもできず,また生命と救にいたらす『まことの飲み物』を飲もうとはしなかつたのです。その多くは祭司たちでした。それで,イエスの犠牲を拒絶し,かつ,エルサレムのヘロデの宮にある手で作られた祭壇で神に仕えたそれらの祭司たちにつき,使徒は次のように言つています。『私たちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは,その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら,(ユダヤ人の)大祭司によつて,罪のためにささげられる(贖罪日の)けものの血は,聖所のなかに携えて行かれるが,そのからだは,(イスラエルの)営所の外で焼かれてしまうからである。だから,イエスもまた,ご自分の血で民をきよめるために,(エルサレムの)門の外で苦難をうけられたのである。したがつて,私たちも,彼のはずかしめを身に負い,営所の外に出て,みもとに行こうではないか。』(ヘブル 13:10-13,新口)現在の古い組織制度の外に出て,みもとに行く人々は,信仰により,イエスの血を象徴的に飲みます。それらの人は,『主の夕食』の杯から血を象徴的に飲む資格を持つています。各人は,みな『自分がきよめられた契約の血』を十二分に尊重します。(ヘブル 10:29,新口)彼らは『この(神の)御旨にもとづき,ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,私たちはきよめられたのである。』と言うことができるため,その象徴的なパンを正しく食べることができます。―ヘブル 10:10,新口。

      悪鬼にあずからず,ヱホバにあずかる人々

      32,33 (イ)酬恩祭の犠牲を食べたため,イスラエル人は誰と交わりを持ちましたか? なぜ,そうですか?(ロ)偶像崇拝者は,どのように悪鬼とあずかりますか? どのように悪鬼の杯を飲みましたか?

      32 前の諸節で,論ぜられている事柄は,コリント前書 10章16-21節に述べられている使徒パウロの言葉と一致いたしますか? かならず一致すべきです。一致しますか。この聖句のところで,パウロは,悪鬼に供えられた犠牲と,ヱホバ神に供えられた犠牲について,語つています。この犠牲の種類は,酬恩祭の犠牲であつて,その犠牲の供えられる祭壇は,犠牲の食物がその上に供えられるため「食卓」になぞえられています。ヱホバ神御自身も,御自分に供えられる犠牲の置かれるところを,『ヱホバの食卓』と呼ばれました。(マラキ 1:7,12,ア標)酬恩祭の犠牲がヱホバに供えられたとき,灌祭として葡萄酒をも供え,それを祭壇の上に注ぐようにと,ヱホバは命じました。(民数紀略 15:8-16。出エジプト 29:40; 30:9)崇拝者たちが,酬恩祭の犠牲の割り当てられた部分を食べるとき,彼らは『「ヱホバの食卓」にあずかり』,そして『感謝しつつあずかつて』いました。犠牲の脂は,祭壇の上で焼かれ,そしてその血は祭壇の上にふりかけられ,また彼らは,その犠牲を食べることによつて,『祭壇』にあずかつていました。その祭壇は,ヱホバ神のものであつて,その食卓の上で,ヱホバの食物は供えられました。それで,彼らは,ヱホバと犠牲にあずかることにより,実際にはヱホバとあずかつていました。彼らは,ヱホバと交りを持ち,共に食物を楽しみました。

      33 同じように,偶像崇拝者が悪鬼に犠牲を供えて,その犠牲を食べる時,彼らは『悪鬼の食卓に……あずかつている』ことになります。それで,彼らは『悪鬼にあずかる』者たちです。彼らは,悪鬼と交り,悪鬼の仲間になり,連絡を持ちます。そして,悪鬼と共に食物を楽しみます。悪鬼を崇める御馳走のときに,彼らがもし葡萄酒の杯から飲むなら,彼らは『悪鬼の杯を……飲んでいる』ことになります。このことによつて,もし人が主の夕食にあずかるなら,どんな事が生ずるかが分ります。

      34 この比較をすることにより,主の夕食はどのように見なされますか? それで,パンと葡萄酒の杯は,何を意味すると,認めるべきですか?

      34 前述の比較をすることにより,主の夕食を犠牲の食事と見なすべきである,と使徒パウロは示しています。それでは,『私たちのさくパン』と『私たちが祝福する祝福の杯』とは,何を意味しますか? パン種のないパンとは,『キリストの体』と認めるべきです。イエスは,世の生命のために,御自身の『真の食物』である罪無き肉の体を,神に捧げました。イエスが感謝を捧げた葡萄酒の杯は,『キリストの血』と認めるべきです。その『まことの飲物』である,御自分の血によつて,イエスは新しい契約を有効にならしめました。このキリストの全き犠牲は,契約を成立させる時の酬恩祭の犠牲のように見なされています。その犠牲の脂は,ヱホバの祭壇の上で焼かれ,その血は分けられて半分は神の祭壇の上に灌がれ,他の半分は,まず神の律法の書に灌がれ,それから契約に入れられた民の上に灌がれました。使徒パウロは,キリストの犠牲の供えられる大きな祭壇のごとき取極を『ヱホバの食卓』と呼んでいます。そして,新しい契約に入つているクリスチャンたちは,この『食卓』にあずかります。ヱホバは大きな祭壇の取極と,そしてヱホバの新しい契約の象徴的な書に灌がれるキリストの血の杯は,『ヱホバの杯』です。それは,主の夕食の葡萄酒の杯で象徴されます。

      35 パンと杯にあずかることにより,クリスチャンたちは,大きなどんな事柄にあずかつていますか? 彼らは地上の誰たちと,目に見える状であずかつていますか?

      35 新しい契約に入つているクリスチャンたちは,その杯から葡萄酒を飲み,また種入れぬパンを食べます。そうすることにより,キリストの人間としての犠性,つまりその血と肉の両方にあずかることになります。そして,『祭壇にあずかる者』として,『ヱホバの杯を飲み』『ヱホバの食卓にあずかる』ということを表示いたします。また,キリストの血と肉の犠牲を通して,罪のゆるしの恩恵と救の恩恵にあずかつていることをも表示いたします。それで,大きな問題とはこうです。信仰によつては,このことを毎日行いそして象徴的には主の夕食の時に毎年1回行うとき,彼らはいつたい誰とあずかりますか。つまり,誰と交りを持ち,交際をし,そして誰の仲間になることですか。『私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかる(ギリシャ語でコイノニア)ことではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかる(コイノニア)ことではないか。』しかし,いつたい誰と共に,これらの事柄にあずかるのですか。もちろん,『神の会衆』のすべてとあずかることです。彼らは,みな『キリスト・イエスにあつてきよめられ,聖徒として召されたかたがた』です。(コリント前 1:2,新口)すなわち,新しい契約の中に入つている霊的なイスラエルの全員,ということです。

      36 しかし,おもに誰と交わつていますか? しかし又,神よりの啓発に関して,このことはどのように真実ですか?

      36 しかし,それで全部なのでしようか。使徒パウロの論は,それまでのことなのでしようか。そうではありません。私たちはまたヱホバともあずかつているからです。そうです,主に,ヱホバとあずかつているからです。崇拝の気持を抱きながら,偶像に供えられた犠牲にあずかるなら,『悪鬼にあずかる者』となります。それと同じように,ヱホバに供えられた一つの大きな犠牲,すなわち只一度だけ捧げられたキリストの犠牲にあずかるなら,ヱホバにあずかり,ヱホバと交りを持つようになります。私たちのための犠牲として,私たちは,ヱホバに捧げられたキリストの犠牲をうけ入れます。もちろん,ヱホバは主の夕食のときに,種入れぬ実際のパンにあずかるわけではなく,また実際の葡萄酒の杯にあずかるわけではありません。しかし,ヱホバは,そのパンと杯の表徴する実際の肉と血にあずかります。神に供えられるこの唯一つの正しい犠牲を共にあずかることにより,ヱホバはその恩恵を私たちに適用されます。私たちとヱホバは,共に新しい一つの契約に入つています。私たちは,神よりの啓発の事柄をするとき,たしかにヱホバとあずかつており,交つており,そしてヱホバと共になつています。それについて,聖書にはこう書かれています『私たちが見たもの,聞いたものを,あなた方にも告げ知らせる。それは,あなた方も,私たちの交わり(コイノニカ)にあずかるようになるためである。私たちの交わり(コイノニカ)とは父,ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。神と交わり(コイノニカ)をしていると言いながら,もしやみの中を歩いているなら,私たちは偽つているのであつて,真理を行つているのではない。しかし,神が光の中にいますように,私たちも光の中を歩くならば,私たちはたがいに交わり(コイノニカ)をもち,そして御子イエスの血が,すべての罪から私たちをきよめるのである。―ヨハネ第一書 1:3,6,7,新口。

      37 それで,主の夕食を食べる人は,みな誰に仕えねばなりませんか? なぜそうですか?

      37 それで,ヱホバ神を選ぶか,又は悪鬼を選ばねばなりません。妥協することも,生温い態度を取ることも,許されません。また,あつちへついたりこつちへついたりすることも,決して許されません。唯一つの真の神ヱホバに全き専心の崇拝を捧げるか,又は偽りの悪鬼の神々に崇拝を捧げるか,そのどちらかです。新しい契約に入つているクリスチャンたちが,イエスを記念して『主の夕食』を食べるために共に集り,そして表象であるパンと葡萄酒の杯にあずかるなら,それは『ヱホバの食卓』にあずかり,ヱホバの『祭壇にあずかる者』ということを表示しています。この理由からも,彼らはみなヱホバに仕えます。その崇拝と奉仕を他のものに分けることはできません。(キリスト教国をも含む)この世の諸国家は,現代いろいろの種類の多くの偶像に犠牲を供えていますが,彼らはまたその犠牲にもあずかることができません。

      38 主の夕食の表象物にあずかることが,偽りの行になることがあり得ますか? それはヱホバに何を起させますか? どんな結果が生じますか?

      38 主の夕食を祝うあなた方は『ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪鬼の食卓とに同時にあずかることはできない。』と使徒パウロは言つています。『不信者と,つり合わないくびきを共にするな。……光とやみとなんの交わり(コイノニカ)があるか。……神の宮とな偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。』(コリント後 6:14-16,新口)あなたの愛,献身,崇拝,そして奉仕をヱホバ神に捧げきらずに,その幾らかを悪鬼にも捧げ,しかも主の夕食に出席して,その表象にあずかるなら,それは偽の行であります。あなたは,光の神と交りを持ち,神とあずかる振をしながら,実際にはそうしていません。あなたは,自分自身を誑しています。あなたは偽善的に行つています。あなたは『やみの中を歩いている……偽つているのであつて,真理を行つているのではない。』『ヱホバは専心の献身を求める神』である故,あなたは『ヱホバにねたみを起させ』ています。ヱホバは専心の愛のみうけ入れます。(出エジプト 34:14,新世)ヱホバの怒りを招くとき,重大な結果が生じます。なぜ? なぜなら,パウロの言うように,『私たちは,主よりも強いのだろうか。』(コリント前 10:22,新口)私たちは,強くありません。ヱホバにねたみを起させたことに対して,ヱホバは亡びをもたらしますが,私たちには,とうていその亡びに堪えるだけの力はありません。―詩 78:58-64。

  • いただく者の『ひとつの体』
    ものみの塔 1956 | 2月1日
    • いただく者の『ひとつの体』

      1 主の夕食を食する人は,どのようにヱホバに崇拝し,奉仕を捧げるべきですか? このことを論じたパウロは,どんな『ひとつのからだ』を意味していますか?

      新しい契約にいるそれら霊的イスラエル人のクリスチャンたちは,個人としても又は会衆としても,ヱホバへの崇拝と奉仕に専念しなければなりません。それで,主の夕食の杯とパンについて語つた後に,使徒はそのような者にむかい,こう述べているのです。『パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく(食する)からである。』(コリント前 10:17,新口)ここで,『ひとつのからだ』と言つたパウロは,何を意味していますか。それは,種の入らないパンで象徴されるイエスの人間としての肉の体ではありません。それは,イエス・キリストを霊的な首とする霊的イスラエル人の会衆全部を意味しています。イエス・キリストの支配下にあるこの会衆は,同じパウロの手紙の後の部分で,キリストの体と言われています。『あなたがた

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