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    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • 『讃美のいけにえを神に捧げよ』

      『我らは唇をもて牛のごとくに汝に捧げん。』― ホセア 14:2

      1 ユダヤ人の祭司たちは,ヱホバの食卓が卑しいものである,とどのように言つていましたか。ヱホバの反応はどのようでしたか。

      ヱホバは,キリスト前5世紀のユダヤ人の祭司たちを責め,彼らはヱホバの御名をあなどると共に『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言つていた,と非難しました。(マラキ 1:6,7,ア標)それらの宗教指導者たちは,たいへん驚いた振をなし,どの事柄でそのようなことをしたのでしようか,と尋ねました。ヱホバはこう答えています,『なんじら盲目なる者を犠牲に捧ぐるは悪にあらずや。また跛足るものと,病めるものを捧ぐるは悪しきにあらずや。いまこれを汝の司に捧げよ。されば彼なんじを悦ぶや。』律法契約によると動物の犠牲が必要であつて,祭司たちは動物の犠牲を捧げていました。しかし,律法契約はまた健全で疵のない動物を捧げることを要求しましたが,祭司たちはそうしなかつたのです。彼らは劣等のもの病気のもの,跛足のもの,盲のものを選んで,ヱホバの祭壇なる食卓の上に捧げました。このようにして彼らは神の御名をあなどり,神の食卓を卑しめました。彼らが人間の司をよろこばして,その恩恵を得ようとするとき,人間の司にそのような病気のものを捧げよう,などということは一瞬といえども考えなかつたのです。ところが,最高の神の恩恵をお願いするときには,疵のない動物を捧げようとはせず,劣等なものだけを選んで捧げたのです。そのような犠牲をするための費用は,まつたく僅かか,又は無であつて,事実上では価値のないものでした。そのようなことをして,良い結果が得られますか。良い結果は得られない,とヱホバは言われました,『これらはすべて汝らの手になれり彼なんじらを納んや。』彼らは,詐偽者と呪われました。なぜなら,彼らは誓を立てて,しかもその誓を果すことができたのに,利己的な気持から誓を果さなかつたからです。『群の中に牡あるに,誓を立て疵あるものをヱホバに捧ぐる詐偽者は呪わるべし。』― マラキ 1:8,9,14。

      2,3 今日のクリスチャンたちは,動物の犠牲になぞらえられるどんな犠牲を捧げますか。

      2 ヱホバの民と主張する国民が,そのようなことをするとは,まつたく罪深い僭越な行でありました。国民が病気の犠牲を携えてきたり,祭司たちがそれらの犠牲をヱホバの食卓に捧げたりするなどということは,全能の神に対するはなはだしい侮蔑でありました。そして,全能の神を人間の支配者よりもずつと低い地位につけることです。なぜなら,人間の支配者に対しては,それ程までに見すぼらしい,無礼な仕方で取扱うなどと,彼らは夢にも思わなかつたからです。仮に,あたがその当時に生活していたとするなら,ヱホバの食卓にたいしてそのような侮蔑は決して示さなかつたことでしよう。或は示したでしようか。あなたは現在示しますか。実に多くの人々は示しているのです。しかし,動物の犠牲がもはや祭壇に捧げられていないのに,どうして示すことができるか,とお尋ねになることでしよう。いま神に捧げるものは,当時の動物の犠牲になぞらえられており,今の捧げものは,昔の動物の犠牲に要求されたのと同じく潔くて健全であり,疵があつてはならないのです。現代のこれらの犠牲とは何ですか。あなたはその犠牲を捧げていますか。あなたの犠牲は,病気のものですか,それとも健康のものでか。跛のものですか,それとも健全のものですか。盲のものですか,それとも目の明いているものですか。

      3 ホセア書 14章2節はこう述べています,『汝ら言葉をたずさえ来り,ヱホバに帰りて言え,もろもろの不義は赦して善ところを受納れ給えかくて我らは唇をもて牛のごとくに汝にささげん。』私たちがヱホバの恵から離れているなら,悔改めを述べて赦しを求める言葉をたずさえ,ヱホバに帰らなければなりません。そして,これらの言葉を犠牲の牛のごとくに捧げなければならないのです。また,悔改めを述べるだけでなく,ヱホバの御名と讃美を公やに宣伝えることも,神に捧げる言葉です。丁度モーセの律法下にあつて,収穫の実を捧げたことと同じです。『私たちはイエスによつて讃美のいけにえ,すなわち彼の御名をたたえるくちびるの実を,たえず神にささげようではないか。』それで,牛であり,唇の実なるもの,すなわち言葉は,讃美の犠牲として今日ヱホバに捧げられねばなりません。クリスチャンは,真理と健全な教理の言葉,そしてヱホバとその目的を崇める言葉を捧げねばなりません。特に,今は神の新しい正義の世の良いたよりについて正しい言葉を捧げねばならないのです。―ヘブル 13:15,新口。

      4 犠牲ということがらにおいて,キリスト教国は非難を受けたユダヤ人の祭司たちとどのように似ていますか。

      4 クリスチャンはキリストの足跡に従うと称える者です。すると,キリストの為したごとく,言葉の実と牛を捧げる誓ということも含まれているのです。群の中には神に嘉納されるような動物を持つていたイスラエル人の場合と同じく,クリスチャンと称える幾百万という人々は,神に嘉納されるような言葉を持つているのです。幾百という言語で広く配布されている聖書は,これらの言葉でいつぱいです。唇からそれらの言葉を捧げるために,クリチャンはそれらの言葉を思と心に入れるのに必要な時間と努力を払いさえすれば良いのです。しかし,キリスト教国の幾百万人という大多数の人々は,そうするのはたいへんなことで,とうていできない,と考えています。ちようど,不忠実なイスラエル人が疵のない動物を捧げるのは勿体な過ぎる,と考えて,悪いものを選んで捧げ,残りものを捧げた,のと同じようです。イスラエル人たちは,恩恵を得るために,最上の動物を人間の司に与えました。キリスト教国の幾百万という人々は,国家の支配者やこの世の傭主に仕えるために時間や努力の面で最善のものを捧げます。そして,恩恵,名声,報酬,肉的な慰めを得ようとするのです。イエスは,『カイザルのものはカイザルに神のものは神に返しなさい。』と言いました。現代の風潮は,神に属するものをも含めてありとあらゆるものをこの世と,その肉の業に返してしまうことです。そして,その時間と努力のごく僅かな残りのものだけをヱホバに捧げようと考えます。そのような残りものの中から,ほんのすこしの努力を捧げて,信心している振をするのです。―ルカ 20:25,新口。

      5 クリスチャンと称する多くの人々は,どのようにヱホバの食卓を卑しめますか。

      5 これはどういうことになりますか。すなわち,『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言うことです。ヱホバの食卓には,屑と残りものしかない,と言うことです。ヱホバの食卓の上に犠牲として捧げられる言葉は,滋養のある霊的な食物でなければなりません。しかし,クリスチャンとしてのあなたの言葉が,神の言葉を無にするとイエスの言われた空覚えの信条や宗教的な言伝えを鸚鵡返しに繰り返して言うなら,あなたは間ちがいなくヱホバの食卓をいやしめています。(マタイ 15:6)あなたの唇によつて牛のごとくに捧げられるものが,次のような異教の教理を教える言葉ならそれは病気のもの,足跛のもの,盲のものです,そして,そのようなものを食べる人は,みな霊的に病気になり,不具者となり,啓発を受けることがないでしよう。その異教の教理とは,すなわち『罪を犯せる魂は死べし』という聖書の言葉に反する魂の不滅という教理,『罪の払う価は死なり』という聖書の言葉に反する罪人の永遠苦悩という教理,そして,『父は我よりも大なる』というイエスの言葉に反する三位一体の教理などです。(エゼキエル 18:4。ロマ 6:23。ヨハネ 14:28)自分はクリスチャンである,と考える幾百万人という人々は,正しい理解を持たずに言葉を繰り返して述べ,そして宗教的な形式や式典や儀式を行います。ちようど,昔のユダヤ人たちが疵のある動物を献げることによつて,犠牲という形式を行つたのと同じようです。そのような人々は,口先だけでヱホバに近より,唇でヱホバを尊びますが,彼らの心はヱホバからはるかに遠いのです。それで,彼らについてヱホバはこう述べています,『彼らの宗教は偽善にして,空に覚んだ言伝えに過ぎない。』― イザヤ 29:13,モハット訳。

      6 ヱホバの真のクリスチャン証者は,熱心に何をいたしますか。

      6 真実のヱホバのクリスチャン証者は,ヱホバの食卓に対して,侮蔑の行をいたしません。彼らの最重要な関心は,聖書の最善の言葉を取つて,それを唇の実や牛のごとくに献げることです。この終の日に,神より遠ざかる大多数の人々は『健全な教えに耐えられ』なくても,ヱホバのクリスチャン証者は健全で啓発を与える言葉,そして霊的な健康を増進させる言葉を用います。(テモテ後 4:3,新口)しかし,現在でも霊的な必要物を意識している幾万人という少数の人々がいます。それらの人々が,昔の異教の教えや現代の哲学,そして科学的な思惑で汚されている正統派宗教の教理から耳を背けて,ヱホバの証者の給する聖書の真理を求めるとき,彼らは霊的に養われ,満足を覚えます。それですから,私たちはヱホバとその言葉および目的を崇める正しい答,力のある言葉,そして明白な説明を得るよう是非とも学ばねばなりません。それらは,曖昧なものとか,病気のもの,弱いものであつてはなりません。聞く者の心から偽りの言葉を追い出す程に強力なものでなければなりません。必要な言葉は聖書の中にあります。私たちは,讃美の犠牲として,それを取出して用いねばならないのです。

      聖書を読むこと

      7 聖書から健全な知恵を得るために,わたしたちは何をしなければなりませんか。

      7 私たちの言葉の犠牲が,聖書から得た良いものでないなら,また私たちの気持が怠けていて,一番良いものを出そうとしないなら,ヱホバの食卓にのせる霊的な食物は適当なものでなく,他の者には卑しいものに見えるでしよう。そして,それらの人々の反対の信仰や論議にうち勝つことができません。前もつて研究することによつてのみ,私たちは効果的に答えることができます,『義者の心は答うべきことを考える。』鉱夫が貴金属を得るために骨折つて働くように,私たちもこれらの真理を得るために聖書を詳しく調べることが必要です,『我が子よ,もし我が言葉をうけ,我がいましめを汝のこころに収め,かくて汝の耳を知恵に傾け,汝の心をさとりにむけ,もし知識を呼求め,悟りを得んと,汝の声をあげ銀のごとくこれを探り,秘れたる宝のごとくこれを尋ねば,汝ヱホバを畏るることを悟り,神を知ることを得べし,そは,ヱホバは知恵をあたえ,知識と悟りとその御口より出づればなり,彼は義人のために聰明を貯え,直く行む者の盾となる。』ヱホバは,私たちの為に健全な知恵を聖書の中に録されました。私たちがその知恵を熱心に求めるなら,それを見出すであろうとヱホバは約束しておられます。―シンゲン 15:28; 2:1-7。

      8 聖書を定期的に読むことについて,どんな前例がありますか。

      8 私たちは,聖書を定期的に読むべきです。イスラエルの王は,『この律法をひとつの書に書写し』そして『世に生存うる日の間つねにこれを己の許におきて誦め』と命ぜられました。当時には,聖書の写本は極く僅かであつて,自分個人の写本を持つている人は,極く少数でした。それですから,皆の前で公やけに読むことが命ぜられていたのです,『なんじイスラエルのすべての人の前にこの律法を誦てこれに聞すべし。』イスラエルがカナンに入つてすぐ後の特別な時に,『モーセの命じたるすべての言葉の中にヨシュアがイスラエルの全会衆および女子供ならびにイスラエルの中における他国の人の前にて誦ざるは無りき。』それから幾世紀も後になつてヨシア王は『ヱホバの家に見あたりし契約の書の言葉をことごとく彼らの耳に読みきかせ』たため,その結果イスラエルの国民全部は悪鬼崇拝を廃絶したのです。それから,幾世紀も経つた後でも,聖書は皆の前で規則的に読まれていました,『古い時代から,どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて,安息日ごとにそれを朗読するならわしである。』― 申命 17:18,19; 31:11。ヨシュア 8:35。列王紀略下 23:2。使行 15:21,新口。

      9 聖書を読むだけでは,なぜ十分ではないのですか。どんな附加的な援助を得ることができますか。

      9 今日の私たちは,ずつと幸福です。輪転機は,聖書を幾百万部も印刷しているからです。乾きを感じている人は,誰でも聖書を所有して読むことにより,生命の水を容易に飲むことができます。しかし,読むだけでは十分でないことがあります。理解を助ける援助が必要になるでしよう。丁度,イザヤ書を読んでいたエチオピヤ人の場合と同じようです。それを見た福音伝道者ピリピは,『あなたは,読んでいることが,おわかりですか』と尋ねました,彼は『だれかが,手引をしてくれなければ,どうして分りましよう。』と答えました。ピリピが良く導いたため,その人は正しく理解することができました。(使行 8:26-38,新口)今日,聖書を読むことを補足する教は,『忠実にして慧き奴隷』制度を通してヱホバより備えられます。この制度は,『正しい時に霊的な食物』を供給するであろう,とヱホバが約束しておられたものです。この援助の多くは,印刷した聖書研究の手引を配布することによりなされています。この手引を用いる人は,聖書を読むときに広い理解を得ることができます。一つの主題についての聖句は,聖書の中の諸々方々に出ていますが,これらの手引の文書の二,三頁の中だけにも,その聖句が皆収められています。それで,聖書を学ぶ人は時間を節約することもでき,また十分の理解を得るのに必要な聖句は,ひとつも見落すことがないでしよう。新しく学ぶ人は,このような印刷した手引を持つていても,往々にして別の人からの援助を必要とします。イエスは,たとえ二人の者でも互に学ぶために集まるときには,援助すると約束しました,『ふたりは又は三人が,私の名によつて集まつている所には,私もその中にいるのである。』― マタイ 24:45; 18:20,新世。

      10 聖書を朗読することには,説明が含まれていた,とどんな例が示していますか。

      10 自分一人で読んでいる時も援助を必要とすることでしよう。それですから,朗読を聞く人々は,朗読と共になされる説明を聞いて益を受けます。ヨシャパテ王は,その治世中に君たち,レビ人,そして祭司たちを遣わして『ユダの邑々にて教えをなさしめ』ました。『彼らはヱホバの律法の書を携え,ユダにおいて教えをなし,ユダの邑々をことごとく行きめぐりて民を教えたり。』この聖書教育の計画の中には,律法を読むこと以上の事がなされたに違いありません。律法を説明したり,その適用法を述べたり,また従順がすすめられたにちがいないでしよう。囚れから解放されて後,総督ネヘミヤは夜明けの時から昼まで律法を朗読させ,人々はその言葉に注意深く聴きいりました。しかし,すべての人が確かに理解するため,書かれた言葉の外に別の言葉がつけ加えられたのです。『彼らその書につきて,(真)の神の律法を朗らかに誦み,かつその意を解き明してその誦む所をこれに了らしむ。』イエスは,ナザレの会堂で朗読し,読み終つたときに,『この聖句は,あなた方が耳にしたこの日に成就した。』と説明しました。多分,イエスは,簡潔に記録されているこの言葉以上を語られたことでしよう。使徒パウロは,会堂における朗読を聴いていましたが,それの終つた後に,会堂司のすすめにしたがい,しばらくのあいだ話をしました。人々は,その話に深い感銘をうけ,次の安息日にも話して頂きたいとパウロに願いました。そして,『次の安息日には,ほとんど全市をあげて,ヱホバの言葉を聞きに集まつてきた。』パウロは,若いテモテに,朗読すること,すすめること,教えることをしなさい,と命じました,『聖書を朗読することと,勧めをすることと,教えることとに心を用いなさい。』― 歴代志略下 17:7-9。ネヘミヤ 8:38。ルカ 4:16-21。使行 13:15-44。テモテ前 4:13,新世。

      集会に出席すること

      11 今日,会衆の集会に出席することは,なぜ重要なのですか。

      11 自分一人で聖書を読んだり,または公やけに聖書を読み,そして印刷されたものや口の言葉を用いながら論じ合つたり説明を聞いたりするなら,牛のごとき是認の言葉を捧げるのに必要な言葉を聖書から得ることができます。しかし,ヱホバは今日,御自分の見える制度を通して,会衆の集会を取極めることにより附加的な援助をさしのべられています。これらの集会において,ヱホバは私たちの為に霊的な食卓をひろげられているのです。集会から遠ざかることは,この食卓が卑しいものと言うことであり,価値がすこしもない,と言うことです。しかし,個人としても,またクリスチャンの会衆としても,集会は霊的な滋養と力を与える,という点で私たちにとつて極めて大切なものです。集会の際に,註解を述べることによつて他の人の前に私たちの希望を述べます。また,他の人の註解を聞く事によつて,その人々の希望を聞きます。私たちは,註解することによつて他の人々を励ますことができ,そして他の人々の註解を聞いて私たち自身が励ましを受けます。現在の終の時において,このことは特に大切なのです,『約束をして下さつたのは忠実なかたであるから,私たちの告白する望みを,動くことなくしつかりと持ち続け,愛と善行とを励むように互に努め,或る人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか。』― ヘブル 10:23-25,新口。

      12 会衆はどんな集会を開いていますか。

      12 ヱホバの証者の会衆は,1週間に数回集まります。一つの集会は,特に新しく興味を感じた人々の為の公開講演です。しかし,会衆の人は全部出席しなければなりません。かくして,すべての人は何かを学ぶことができるでしよう。もし会衆の人が出席しないなら,誰が一般の人々を歓迎しますか。もしあなたが会衆と共に交つているなら,公開集会に出席して,新しい人々を歓迎し,人々の質問に答えねばなりません。『ものみの塔』研究は,絶対に大切なものです。会衆内のすべての人は,勉強の箇所を研究し,出席してみなさんの註解を聞き,また自分でも註解し,そしてすべての人,特に新しい人々に親しい態度を示さねばなりません。神権宣教学校は,宣教の奉仕の際に,他の人々に何を言い,どのような言葉で述べるか,またどのように伝えるか,ということについて会衆を訓練します。統一のとれた聖書朗読は,研究課程の一部になつています。奉仕会も訓練を施す集会であつて,その特色は家から実の証言,戸口で聖書の話を述べること,そして家庭内で聖書研究を司会することについて教を与えるものです。疵のない牛と唇の実を捧げることに強い関心を持つ人は,必らず奉仕会に出席します。会衆の開くもう一つの集会は,会衆の区域内の要所にある個人の家で行われる書籍研究です。これらの小さな研究の群では,聖書研究の手引が用いられています。そして,群が小さいので,みなさんは容易に親しむようになり,註解を述べたり,お互を援助して神に汚れのない讃美の犠牲を捧げることができるのです。

      13 会衆の集会は,クリスチャンである私たちをどのように進歩改善せしめますか。

      13 任命された僕たちや,計画された集会を持つ会衆は,私たちをして円熟したクリスチャンに生長せしめ,かつ私たちの壊滅を図るサタンの無神論の波に対しても,打ち克つことのできるために,組織されています。いまは,使徒の時代と丁度同じようです,『彼はある者を使徒,ある者を予言者,ある者を宣教者,ある者を牧者,および教師とし,宣教の業のために,聖徒たちの訓練を目的とされた。それはキリストの体を建てて私たちが一つの信仰を持ち,神の御子の正確な知識を得るためである。かくして,私たちは全く成長した人,キリストの全きに達するのである。それは私たちがもはや幼児ではなく,人間の悪企みによるいろいろな教の風に吹きまわされたり,もてあそばされたりすることのないためである。』集会に出席したり,註解を述べることにより,『あなた方は信仰を持つているのかどうか,いつたいどういう者であるのかを調べ吟味し』つづけることができます。もし,あなたの註解が本筋から離れるなら,『もつと円熟している別の人は,あなたを正しい考えに引戻すことができます。このことをしないなら,『みな語ることを一つにし,』『同じ心,同じ思になつて,堅く結び合つていてほしい。』という神の要求を,会衆としてあなた方はとうてい充すことができないでしよう。―エペソ 4:11-14。コリント後 13:5。コリント前 1:10,新世。

      14,15 会衆の集会でたがいに交ることは,ヱホバの証者にとつてなぜ重要ですか。

      14 会衆の集会に出席するときの価値は,学んだり心を一つにしたり,またヱホバに捧げる讃美の犠牲を改善することだけで,終つてしまうのではありません。たがいに交るということ自体だけにも価値があるのです。そこには,ヱホバの御霊が集中しているように見えます。それで,私たちの精神は神権的なものに向上します。私たちの中の大部分の人々は,この世で多くの時間を費し,堕落した人々と肩をならべ,人々の無意味で汚れた話を聞き,そして下劣な行を見ております。それですから,会衆の集会に出席することは,都会の貧民窟を通り抜けて爽快な山のところに行くようなものです。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』しかし,良いまじわりは悪い習慣を消し去り,悪い習慣の代りに良い習慣をつくります。(コリント前 15:33,新口)ヱホバから離れているこの人類の海の中に散らばつている私たちは,小さな島々のようです。そして,後から後から果てしなく押し寄せる波によつて,海面の高さまでけずり落される危険にいつも面しています。しかし,私たちが互に集まるとき,お互に力を受けて,襲いかかる海にもビクともしない強い土地のようになります。私たちは新しく勇気と大胆不敵さを得ます。そして力を新にしてこの世に反抗することができます。しかし,私たちを集会から遠ざける巧妙な罠にかかるなら,私たちは間もなくしてたゆむようになるでしよう。『私たちは,善を行うことにうみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。』― ガラテヤ 6:9,新口。

      15 私たちがひとりだけでいて,この世から打ち叩かれるなら,私たちは勇気を失い勝ちです。そして,忠実を守つているのは私たちだけであり,必らず負かされてしまうだろう,と考えます,ずつと以前の昔,予言者エリヤはヱホバの為に熱心でした。しかし,自分になされた恐ろしい脅迫の執行を避けて生命を守るため逃げてしまつたのです。エリヤは洞穴の中に一人だけで閉じこもつていましたが,ヱホバは彼にこう尋ねました,『エリヤよ,汝ここにて何をなすや』予言者はこう答えました,『イスラエルの子孫,汝の契約を棄て,汝の壇をこぼち,刀をもて汝の予言者を殺したればなり。ただ我一人存れるに彼らわが生命を取んことを求むと,』エリヤは,自分一人だけが生残つてヱホバの義に関心を持つている者だ,と感じましたが,そうではなかつたのです。『我イスラエルの中に七千人を遺さん。みなその膝をバアルにかがめず,その口をこれに接ざる者なり。』(列王紀略上 19:13,14,18)集会に定期的に出席するならば,他の兄弟たちとも接触を保つて私たちは力をうけることができます。

      16 クリスチャンが孤立して,ひとりだけになろうとするのは,なぜ愚かなことですか。

      16 サタンは群を分裂せしめて打ち負かし,そして群を散らして,迷い出た人々を餌食にしたいと望んでいます。会衆は相互の援助をなすために互に結集しなければなりません。私たちが独りであるなら,倒れるときに誰が私たちを助けますか。私たちが独りであるなら,ヱホバへの熱心を熱く保つのはずつと難しいものです。いつしよになるとき,私たちは無活動の人々の冷えた気持を暖めることができます。この原則は,伝道之書 4章9-12節にこう示されています,『二人は一人にまさる。そは,その労苦の為に善き報を得ればなり。すなわち,その倒るる時には,一人の人その伴侶を扶けおこすべし。されど,孤身にして倒るる者は憐なるかな。これを扶け起す者なきなり。又二人ともに寝ぬれば暖かなり。一人ならば,いかで暖かならんや。人もし其一人を攻め撃たば二人してこれに当るべし。三根の繩は容易く断れざるなり。』私たちが倒れるなら,私たちの熱心が冷えるなら,そしてサタンの攻撃をうけて屈服するなら,私たちはヱホバに讃美の犠牲を公やけに捧げることができなくなります。この災を避けるために,私たちは互に集まるのを忘れてはなりません。ひとりだけの羊になつてはなりません。群から離れ出た羊は,失われた羊だからです。忠実な僕である会衆の羊飼は,熱心に努力して失われた羊を新しい世の社会に連れ戻そうと努めます。(マタイ 18:12-14)それですから,自分の霊的な力を過大に評価して,一人だけになつて利己的な事柄を追求し,かつ互に集まれという健全な原則をないがしろにしても大丈夫,だなどと考えてはなりません。『己を人と異にする者は,おのれの欲するところのみを求めて,すべての善き考えにもとる。』― シンゲン 18:1。

      17 私たちはヱホバからの教を,どのように受けねばなりませんか。

      17 疵のない牛のごとき,神の是認をうける唇の実を持とうとするためには,私たちはヱホバからの教を受けねばなりません。聖書を読むことによつて,ヱホバからの教を受けなさい。秩序だつた研究をすることにより,教をうけなさい。会衆の集会で教を受けなさい。ヱホバは特に会衆の集会において,その食卓に霊的な食事をひろげておられるのです。来て食べなさい! みなさんは,寝床で食事を取りますか。みなさんは食事の価値を知つている故に,食卓のところで食事をします。それであるなら,実際の食事よりももつと大切な霊的な食事も食卓のところで頂くべきでしよう。ヱホバは霊的な食事を寝床で給したり,又は会衆の集会所からは離れている家庭で給したりするようなことをして,怠惰な気持をゆるすようなことをしません。食卓である御国会館に行きなさい! これらの必要なことを全部しないなら,健全で全く,しかも解明を与える讃美の犠牲として必要な言葉を熱心に得ていないことになります。恥ずかしいことには,次の神よりのさとしに沿つていないことになります,『あなたは真理の言葉を正しく教え恥じるところのない錬達した働き人になつて,神に自分をささげるように努めはげみなさい。』― テモテ後 2:15,新口。

  • あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • あなたの讃美の犠牲を正しくささげよ

      『いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかるであらう。』― コロサイ 4:6 新口。

      1 塩によつて何が象徴されていますか。

      モーセの律法は,犠牲には塩で味つけることを要求しました,『なんじ素祭をささぐるにはすべて塩をしてこれに味つくべし,汝の神の契約の塩を汝の素祭に欠ことなかれ,なんじ礼物をなすには,すべて塩をそなうべし。』なぜですか。塩は防腐剤であり,腐敗を防ぎます。醗酵したものを捧げることは,禁ぜられていました。それで,犠牲に塩をつけるならば,醗酵するのを防いだのです。塩は,腐敗による変化を妨げる故に,永久性を保証しました。そして,契約に関連しては,塩は契約の不変性,永続性を示す為に用いられました。昔の人々のあいだでは,塩をいつしよに食べることは友情のしるしであり,永久の信義と忠節を表わし示しました。ヱホバの祭壇に酬恩祭の犠牲を捧げる者は,ヱホバと共に与る者と考えられました。それで,犠牲とともに塩を用いることは,ヱホバと共に塩を食べることを表わしました。それは,永遠の忠節を象徴したものです。―レビ 2:13。

      2 クリスチャンが,塩でもつて言葉の犠牲に塩をつける,とはどういう意味ですか。

      2 イエスの真の弟子たちは,その手本や伝道によつて,腐敗や道徳の堕落を防ぐ影響となるでしよう。それで,イエスは自分の弟子たちを『地の塩』と呼びました。塩という言葉は,伝道の言葉に関連して述べられています,『いつも,塩で味つけられた,やさしい言葉を使いなさい。そうすれば,ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかるであろう。』(マタイ 5:13。コロサイ 4:6,新口)イスラエルの国民はヱホバに穀物や肉の犠牲を捧げましたが,クリスチャンはそういたしません。しかし,クリスチャンは,唇の言葉によつて讃美の犠牲を必らず捧げます。その言葉は,牛や実になぞらえられているのです。イスラエルの物質の犠牲に塩を添えたと同じく,唇の象徴的な牛なるクリスチャンの言葉にも塩で味つけねばなりません。それは,こういうことを意味します。すなわち,クリスチャンの言葉は,清い真理であり,語る者と聞く者の両方に防腐の効果を及ぼし,そしてヱホバに忠節と忠実を保ち,そしてヱホバの御名を汚すとか,ヱホバの食卓を卑しいものに見せてはならない,ということです。捧げられる言葉は,正義愛好者の食欲をそそるものでなければなりません。人間と動物の食物に塩を入れると塩は食欲を増す薬味です,『淡きもの,あに塩なくして食われんや。』『地をたがえす牛と驢馬とは……塩を加えたる飼料をくらわん。』(ヨブ 6:6。イザヤ 30:24)それで,クリスチャンの言葉の犠牲にも,霊的な塩で味をつけねばなりません。そうすれば,それは味の無い,まずい,腐敗したものでなくなり,食欲をそそる,親しみに溢れた,忠実なものとなり,しかも保全の力を持つでしよう。

      戸口における聖書の話

      3 戸口における聖書の話について前もつて考え,かつ準備をなすことはなぜ必要ですか。

      3 塩で味つけられたやさしい言葉を使い,どのように答えるべきか,またどのように霊的な犠牲を捧げるべきか,あなたは知つていますか。キリストやその使徒および初期の弟子たちの時代と同じように,今日も言葉の犠牲が一番多く,しかも最も効果的に捧げられるところは人々の戸口や家庭なのです。戸口でお会いする『ひとりびとりに対してどう答えるべきか,わかる』ために,あなたの戸口における聖書の話については前もつて考えてそして準備をしますか。最初の訪問のときには明白で単純,かつ気持良いもので議論めかない言葉を用いることが,特別に重要です,『伝道者は務めて美しき言葉を求めたり。その書記したるものは,正しくして真の言葉なり。』もし,議論が起るようなことがあるなら,『あなた方のうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,やさしく,慎み深く,明らかな良心をもつて,弁明しなさい。』『主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔改めの心を与えて,真理を知らせるであろう。』― 伝道之書 12:10。ペテロ前 3:15。テモテ後 2:24,25,新口。

      4,5 聖書の話を述べることと,私たちの態度についてどんな助言が与えられていますか。なぜそれは重要ですか。

      4 私たちの態度は,遠慮勝ちであつてもならず,又弁解がましいものであつてもなりません。私たちは宇宙の創造者を代表しており,その支持をうけていることを記憶して下さい。あなたは,真理を語つていると確信していますか。それでは,話の中にその確信を示しなさい。あなたは誠実ですか。その誠実を輝かしなさい。あなたは真理について熱心ですか。声の調子や顔の表情でもつて,その熱心を表わし示しなさい。人々のところに行くとき,あなたは友人として行きます。それで,暖かい親しみのある態度で行きなさい。会話的に,しかも直接的にしなさい。家の人に質問を発して,答を述べさせるようにしむけ,家の人も話をするようにしなさい。どの家の人も,羊であり,友人であると考えながら,戸口に行きなさい。そして,家の人に対するあなたの関心と興味を示しなさい。どの家の人にもこの積極的な態度を持ちなさい。家の人は,あなたが以前に考えていた人とは違うと,考える前に,家の人がその相違を証明するようにしなさい。前の戸口で山羊に会つたからとて,次の戸口に行くときに消極的な態度を取つてはなりません。どの家にも,あなたは最善をつくすべきです。たとえ,家が難しい区域の真中にあろうとも,あなたは最善のことをしなければなりません。

      5 一つの節を読んでいて,目は一字も抜かさずに文字を見ていながら,終りに来ると読んだものをひとつも憶えていない,というような経験をしたことがありますか。あなたの心は別のことを考えていたのです。講演の言葉を聞いていながら,心があらぬところに行つていたため,講演者が10分間話していたことを何一つ記憶していないのに,突然気づいた,というような経験がありますか。同じように,家の人が戸口に来るとき,あなたの言葉を聞いているように見える場合があります。しかし,家の人の心は,言訳の言葉を考えるのに忙しいか,あなたの衣服に気をとられているか,またはあなたの個性のことを考えるのに忙しいのです。耳にひびくあなたの言葉は心に入らずに,家の人はあなたについての印象をつくりあげているかもしれません。あなたの読んでいる筋が興味深くて良く書けているなら,あなたの心はその節に集中するでしよう。また,話をしている講演者が誠実と熱意をこめて,良い考えを述べるならあなたの心はそれに惹きつけられます。それと同じように,あなたの聖書の話が思慮深いもので,はつきりしており,かつ知識を与えるものなら,そして暖みのある誠実と深い確信をもつて述べるなら,家の人はあなたの聖書の話に留意するでしよう。家の人は印象や決定をつくりますが,それは私たちが何を言うかによるだけでなく,どのように私たちが言うか,またそれを言うときに私たちがどう見えるかによつても決定されるのです。

      6,7 聖書の話の内容については,どんな参考意見が述べられていますか。

      6 私たちはきらびやかな衣服を着ず,こざつぱりした衣服を着ており,それから自分の利害を考えずに親しい関心,誠意,確信,そして熱意を家の人に示す,と仮定しましよう。すると,聖書の話の内容に注意を向けることが必要です。他の人に私たちの熱意を伝えたいならば,その聖書の話は私たちの目から見ても良いものでなければならず,かつその要点は私たちをして熱意に充たしめねばなりません。その話が私たちを冷くするなら,他の人を暖くするようなことは決してないでしよう。それで,人に伝えるためには,自分自身がいちばん興味を感じる聖書の話を得なさい。他の人々から考えを得るかもしれませんが,しかしそれを用いてもあなたが熱意で充ちないなら,その考えを用いてはなりません。生気のない仕方でその話を述べることになり,家の人も同じ仕方でその話を聞くでしよう。一つの主題を取りなさい。そしてこの一つの目標にあなたの要点を向けなさい。家の人にとつて実際的なものとなし,個人的に適用するものにしなさい。どの人も自分のことには関心を持つています。他人のことに深い関心を持つている人は多くいません。あなたは,世界の状態 ― 戦争,飢饉,疫病,災難 ― のことを語ることができます。しかし,これらの事柄が家の人にとつて個人的にピンと来ないなら,または危険を感じないなら,家の人は程なくして興味を失います。人々は大規模な災害,群衆の苦難にたいしては無感覚になりました。しかし,人々自身や自分の家族の者が,これらの災害から苦しみを受けるとなると,個人的な興味を感じます。それですから,世界の苦難について語るなら,家の人にとつて個人的に興味あるものにして語りなさい。例えば,広範囲にひろまつている青少年犯罪について語るとき,家の人に身近かに感ずるように語りなさい。つまり,家の人の子供をその犯罪から守る道を示すのです。御国はあらゆる問題を解決するものです。しかし,御国は大きな世界的な苦難だけでなく,家の人の個人的な小さな問題をも解決する,と示しなさい。多くの場合,大きな世界的な苦難と言えば,あまりに大き過ぎるもの,規模の大きいものである故に理解することができません。

      7 イエスは,山上の教の中で,何を食べ何を飲み,何を着ようかと,人々の悩んでいた毎日の心配事や懸念を採上げました。ヱホバは,人間がこれらのものを必要としていることを知つておられます。そして,ヱホバは鳥や植物を養うように,必要なものを人間にも与えます。イエスは,こう言われました,『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう。』こうするならば,個人的な心配は消えてなくなり,その代りに『人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安』を持つことができます。それで,イエスの為したように,私たちも個人的な心配や人々の懸念というものに注意を向け,それらを私たちの聖書の話の中にとり入れることが必要です。これらの聖書の話は,パウロの話と同じように,聞く人々の心や態度にぴつたり当てはまるものでなければなりません,『すべての人に対しては,すべての人のようになつた。なんとかして幾人かを救うためである。』― マタイ 6:33。ピリピ 4:7。コリント前 9:22,新口。

      8 聖書の話を準備して後に,戸口での提供をするためその話をどう銘記すべきですか。

      8 もし聖書の話を覚えこむなら,それは柔軟性と適合性に欠けます。聖書の話を戸口におけるいろいろな違つた状態に対して適宜に変化させ,しかもぴつたり適合させるためには,簡単な筋書を覚えるだけに止めるべきです。良く知つている聖句なら,書いたものを見なくても,2,3分間は論ずることができます。そのような聖句は,たくさんあるでしよう。容易にしかも確信をもつて,それらの聖句についてすらすらと語ります。それですから,良く知つている聖句を三つから四つぐらい採りあげ,そして聖書の何処にあるかだけを記憶しなさい。それから,戸口のところでそれらの聖句を順序良く用い,一つ一つの聖句を読みながら,簡単に説明しなさい。機械的に聞える覚えこんだ言葉というものに制束されませんから,丁度毎日の会話の時のように,あなたは必要な言葉を臨機に述べながらも,いろいろと考えをめぐらして行くことができます。そうする時にのみ,あなたの誠意と熱心は表わし示されるのです。そうするときにのみ,あなたの自然の個性と暖かさ,そして親しさは輝くのです。違つた状況に応じて用いるいろいろの聖句を用意することができます。野外奉仕に用いる聖書のうしろの頁に,聖句の群をいくつか記しておくこともできます。それぞれの群には,聖書の話をするための覚え書が入つているのです。

      聖書の話を始める

      9 ありふれた口実に打ち克つため,どんな参考意見が述べられていますか。

      9 多くの人々はいろいろの目的で家から家に行きます。それで,ベルが鳴ると,家の人は妨害をうけたことに一寸不快を感じ,早く追払おうという気持でもつて戸口のところに来ます。家の人はいくつかの口実を持つていますが,しかし,たいていの場合あなたのことをチラッと見て,話を聞き,そして結論をつくりあげてから初めて,どの口実を言おうかと決定します。それから,その口実を言つて断ります。みなさんは,そのような口実をしばしば聞いていますから,その口実に対しては全く論理的に反論することができるでしよう。しかし,一度その口実を言つてしまうと,家の人は,誇りを傷つけたくないために,その口実を固執するものです。もし,その口実がどんなもであるかを前もつて見こし,家の人が言う前に反論するなら,家の人の誇りは傷つけられず,あなたの言葉をみな聞くかもしれません。簡単に自己紹介をしてから,家の人がありふれた口実の一つを選ぶ前に,出し抜けにこう言うことができます,『私たちがお家を訪問すると,或る人々はすぐに……と言います』こうして,口実の一つを言います。それは,家の人がいま使おうとしていた口実でないかも知れません。しかし,恐らくはしばしば用いていたものでしよう。それですから,あなたがその口実を言うとき,ちよつとのあいだ虚をつかれた形になります。家の人は,自分が時々使うこの口実に関するあなたの次の言葉はどんなものか,とすこし好奇心を持つかもしれません。家の人に興味を感ぜしめるために,次の言葉を良いもの,注意をひきつけるものにしなさい。そうすれば,家の人はあなたの話を終までずつと聞くかもしれません。

      10 『今日は間に合つています。』という言葉に対してはどのように対処しますか。

      10 訪問の目的を簡単に近べてから,このように言うこともできます,『私たちがこのような訪問をしますと,ある人々は「今日は間に合つています。」と言います。しかし,間に合つているという人々について述べているイエスの言葉に耳を傾けて下さい,「あなたは,自分は富んでいる,豊かになつた,なんの不自由もないと言つているが,実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸な者であることに気がついていない。」明白に分るように,イエスはこのことを文字通り実際のもの,と意味したのではありません。霊的な面で彼らがこのような貧しい状態である,とイエスは意味したのです。』口実に打克つための聖句,黙示録 3章17節(新口)を用いて後に,二つか三つの別の聖句を用いて,聖書の話を完結することができます。アモス書 8章11節を用いて,霊的な飢饉がひろがつていること,そして多くの教会があつて,多くの人々は霊的に養われている,と考えているが実際にはそうでない,と示すことができます。マタイ伝 5章3節を読んで,霊的な必要物を意識している者は,充されるということを示しなさい。このときに,文書を提供することができます。そして,これらの出版物は霊的な食物を供給するものである,と言うことができます。それから,特別に面白い箇所のある節を選んで読み,霊的な食物であることを証明しなさい。

      11,12 『忙しい』という言訳をどのように聖書の話に採り入れ,かつ反論することができますか。

      11 別の例はこうです,『みなさんのお宅を訪問しますと人々は忙しいんです,と良く言います。神は怠け者を憎みますから,忙しいのはけつこうなことです。しかし,小さな事柄に忙し過ぎて,より重要な事柄に関しての時間が無い,などというようなことがあつてはなりません。或る時,イエスは二人の姉妹の家にいました。マリヤは神の真理を説明するイエスの言葉に聞き入つていましたが,マルタはマリヤが家事を手伝つてくれないことに不平を言いました。聖書にこう書かれています,「マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし,イエスのところに来て言つた,『主よ,妹が私だけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におつしやつてください。』主は答えて言われた,『マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである。』ヱホバとイエスは,聖書を通して私たちに語つておられます。もし,私たちがその言葉を聞かないなら苦しい時に神の助けを願い求めても,神が私たちの叫びを聞かれる,などということはあり得ないでしよう。』― ルカ 10:40-42,新口。

      12 あるいは次のように言うこともできます,『あるお宅の方は,とても忙しい,と言います。でも,仮に私が100ドルの金をあげる,と言うなら,家の人はとても忙しくてその金を受け取れない,などとは言いません。しかし,聖書の言葉に耳を傾けてごらんなさい,『知恵を求め得る人,および聰明をうる人は幸福なり。そは知恵を得るは,銀を得るに勝り,その利は精金よりも善ければなり。知恵は真珠よりも貴し,なんじのすべての宝もこれと比ぶるに足らず,その右の手には長き生命あり,その左の手には富と尊貴とあり。その途は楽しき途なり。その径すじはことごとく平康し。これは執る者には生命の樹なり。これを持つ者は幸福なり。」どんなに忙しくてもお金を受け取ることができるなら,どれ程忙しい場合でも永遠の生命に通ずる知識を受け取ることができるはずです。』― シンゲン 3:13-18。

      13 『興味がない』という言訳にたいしては,どのように反論することができますか。

      13 私たちの訪問している目的を知ろうとする前に,多くの人々は興味がない,と告げると言つてから,次のように言葉を続けることができます,『しかし,事柄を聞く前に答をする人について聖書は何と述べているか,御存知ですか。こう述べられています,「いまだ事を聞かざる先に応うる者は,愚にして辱をこうぶる。」』家の人が,興味がない,と言つてから後では,この聖句を使わないで下さい。それはあまりに露骨です。その家の人を愚か者,辱をこうぶる者と呼んでいるのと同じようです。しかし,最初にこの点をとり上げるなら,前述の聖句シンゲン 18章13節を用いることができます。なぜなら,他の人々にその聖句を適用していることになり,あなたと今話している人に適用しているわけでないからです。同じことは,次の例にも言えます。

      14 物の十分にあるところでは,しばしばどういう言葉が言われますか。それには,どのように対処しますか。

      14 物質主義的な国々で,物が十分にあるところでは,人々は充ち足りている,と言つてピシャリと断ります。『或る人々は聞くことを拒絶し,「私のところでは万事具合良く行つているし,充ち足りています」と言います。しかし,神は充ち足りている人々に関心を持つていないのです。神は充ち足りていない人々に関心を持つておられるのです。ずつと昔,神は或る者たちに印をつけて,救いましたが,そのときこう言われました,「邑の中エルサレムの中を巡れ。しかして邑の中に行わるるところのもろもろの憎むべき事のために歎き悲しむ人々の額にしるしをつけよ。』今日ヱホバは,正義を愛する人々に関心を持つておられます。そのような人々は,今日の地上で行われている腐敗した悪しき状態に決して満足していません。真面目な人で,このような腐敗した状態に満足している人はひとりもないでしよう。真面目な人々は,清い政府を欲しており,不道徳や偽善を終らせたいと思つているのです。そして,自分自身や自分の家族にたいし,また正義を愛するすべての人にも健康と生命を望んでいるのです。現在の悪しき状態を見て,それらの人々は歎き悲しみ,より良い事柄を願い求めます。』このエゼキエル書 9章4節の聖句を用いた後に,マタイ伝 5章4節を使用することができます。この聖句の示すところによると,歎き悲しむ者は慰められ,霊的な食物を求める願は神によりかなえられ,そして正義の新しい世ではそれらの人々の願はことごとくヱホバにより充たされるでしよう。これらの点を証明する為に詩篇 145篇16節と黙示録 21章4節を用いることができます。

      15 さらにどんな提案が与えられていますか。

      15 また,時には普通一般になされる宗教的な反撥を取上げることもできます。たとえば次のようなものです,『時折,みなさんは,こう言います,「誠実でありさえすれば,神は私を救うと信じます。私の考えで良いと思うことをするだけが,神の要求せられている全部のことです。」しかし,聖書はそう述べていません。「人の自ら見て正しとする道にしてその終はついに死にいたる道となるものあり。」』この後に,ガラテヤ書 1章8節とヨハネ伝 17章3節のような聖句を用いて,私たちが真理に従わねばならぬこと,そして人間的な考えから判断して正しいと思うものに従つてはならぬ,と示すことができます。誠実であれば良い,という口実を反論する為に,シンゲン 14章12節が用いられました。同じくヨハネ伝 16章2節,使徒行伝 26章9節またはロマ書 10章2,3節の聖句を用いるのも,きわめて適当なことです。聖書の話をいろいろの変化に富ますことができます。人々の用いる口実や,普通一般になさる宗教的な反対や,または興味をひきつけるものを考えなさい。それからできるなら聖句を用いて,早く答弁しなさい。そうするなら,聖書の話をすぐ始めることができます。前述の例は,そのようにできる,という可能性を示すのであつて,みなさんが用いねばならぬ,というものではありません。明瞭な近づき方を行い,自分に適している点また自分をよろこばす点を聖書を用いつつ話して行きなさい。そうすれば,あなたは熱心に溢れ,個人的な熱意と確信をもつて聖書の話をすることができます。戸口における聖書の話について述べられたことは,再訪問の聖書の話にも適用するものです。ただ違う点は,一つか二つ多い聖句を用いて,聖書の話をすこし長くするだけです。戸口における聖書の話を述べることと,頭の中に筋書をつくることについての同じ助言は,家の中にいてする長い再訪問の話にも適用いたします。

      16 私たちはいま何を為すべきですか。

      16 最善をつくしてヱホバ神の御旨にかなう奉仕者になろう,とつとめましよう。ヱホバ神の言葉を熱心に研究し,そして,疵のない牛や唇の実,すなわちヱホバ神の神に嘉納される讃美の犠牲を神に捧げましよう。ヱホバ真理を深く考え,心の中で繰り返し思い,そして公やけの人々に宣伝えることのできるものにしなさい。また散らされている他の羊の気持をひきつけ,さらに山羊からの反対にも覆えされないような一番良いものにしなさい。恵みをもつてそれを宣伝えなさい。また柔和と巧みさのうちに,そして私たちの霊的な讃美の犠牲にともなわねばならぬ象徴的な塩をつけてそれを宣伝えなさい。そのとき,それらの言葉は,ヱホバに忠節を保つ真実で真の言葉となります。また,永久性のある言葉であり,かつその言葉を聞いてうけ入れ,そして従う人人には保全の力となる言葉です。そのような犠牲の言葉を言うとき,私たちはヱホバの食卓を卑しめる,などの罪を決して持ちません。私たちはその食卓から,あらゆる国にいる善意者のすべての人に対して肥えたるもので一杯となつているヱホバの御馳走を与えることができます。

      [39ページの囲み記事]

      『日ごとに彼の救の良いたよりを宣べ伝えよ。』― 詩 96:2,新世

  • 聖書中の手
    ものみの塔 1957 | 1月15日
    • 聖書中の手

      すばらしい仕方で人間の役に立つ手は,創造主の愛と智をたしかに表わし示します。手は全く有益なものであり,かつたくさんの技術をすることができます。それですから,聖書は手について多くの注意を向け,実際的にもせよ,又は象徴的にもせよ,2000回ぐらい手について言及しているのも不思議ではありません。

      実際の手は,ものを測るために用いられました。手幅といえば,3インチであり,手の平一杯と言えば,9インチ,すなわち1キュビトの半分でした。

      宗教的な絵は,しばしば祈りをするときの手をいつも握りしめているものに表わしています。しかし,聖書の何処を見ても,そのようなことは書かれていません。かえつて,聖書が繰り返し述べている言葉によると,祈をする人々は掌をひろげた,つまり,手を天に向つて上げていました。

      ヱホバの御名によつて誓がなされるときには右の手が上げられました。アブラムは,甥のロトを救い出したとき,ソドム王のものを一つも取らないと誓つてそういたしました。

      握手は約束を確めるために用いられました。或るイスラエル人たちが外国人なる妻を出す,とエズラに約束したとき,そういたしました。(エズラ 10:19)パウロとバルナバが諸国民への伝道に遣わされたとき,初期の教会の柱として重んじられていた人々は,二人に『交わりの手をさし伸べた。』― ガラテヤ 2:9,新口。

      担保を与えるつまり質物を与えることは,証人たちの面前で手を叩くことによつて示されました。

      権威を持つ人々は,人に手を置いて特定な職務に任命しました。モーセがヨシユアに手を置いて任命した場合がそうです。同じように,使徒たちは7人の上に手を置きました。かくしてその7人は食物の配分という宣教上の助けをするようになつたのです。また,使徒たちが特定な者に手を置くとき,聖霊が注がれました。アロンとその子たちが祭司職に聖別されたとき,彼らの手は実際の献げものでいつぱいであり,象徴的には「力で充ちて」いました。それが,『聖別する』『即ける』『任職する』といろいろに訳されているヘブル語の意味なのです。そして,罪にたいする贖がつくられたとき,手は動物の犠牲の上に置かれました。―レビ 8:32。

      聖書はまた,罪人の手には血痕がついていて,血で一杯であり罪人は信仰と悔改め,そして正しい業によつて手を洗わねばならぬ,と強くすすめています。有罪を感じたピラトは,イエスの死に対する責任を逃れるための象徴として実際に手を洗いました。

      聖書は,しばしば神の手について語つています。神の右手は,恩恵の象徴です。クリスチャンは,神の力すなわち大能の手の下に謙遜であれ,と告げられています。ヱホバの手からその力は行使されます。そして人各自の働きに応じて,神は善や祝福や,保護を与えるか,又は罰や亡びを与えます。

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