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あなたは放縦ですか,それとも自己犠牲的ですかものみの塔 1978 | 11月1日
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ですか」という質問は,エホバの見地から見れば生死にかかわる問題である,という事実から逃れることはできません。もし命を愛し,神の新秩序の中で完全な生活を送ることを望むなら,エホバの意にかなった奉仕を今行なう,自己犠牲の精神が必要です。
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自己犠牲の精神を培うものみの塔 1978 | 11月1日
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自己犠牲の精神を培う
「兄弟たち,わたしは神の情けによってあなたがたに懇願します。あなたがたの体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげなさい。これがあなたがたの理性による神聖な奉仕です」― ローマ 12:1。
1 わたしたちはエホバのために犠牲を払いますが,なぜエホバはそれに値する方ですか。
人間が犠牲を払おうとする場合,その犠牲の対象となるものは,その犠牲に値する,大いに尊敬されている存在でなければなりません。エホバ神はあらゆる点で,確かにわたしたちが払うすべての犠牲に値する方です。エホバ神は畏怖すべき壮麗な宇宙の創造者であり,すべての生物の根源であられます。また人類の抱えている問題をすべて解決する義の新秩序の造り主でもあられます。聖書は適切にも,「エホバ,わたしたちの神よ,あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしいかたです。あなたはすべてのものを創造し,あなたのご意志によってすべてのものは存在し,創造されたからです」と述べています。(啓示 4:11)エホバは全くふさわしい方であるために,わたしたちは『自分の体を,神に受け入れられる,生きた,聖なる犠牲としてささげる』ように勧められています。―ローマ 12:1。
2 「犠牲」という語にはどんなことが含まれていますか。(ヘブライ 13:15,16をお読みください。)
2 エホバに対する生きた犠牲であることにはどんなことが関係しているでしょうか。「犠牲」という語の一つの定義は,「より高い要求権を持つと考えられているあるもののために,貴重なもの,または望ましいものを引き渡す」ことです。さらに「犠牲」には,「神に命をささげる」という意味もあります。エホバはわたしたちに,祭壇の上で実際に殺されることを要求してはおられませんから,わたしたちが命をささげるのは,エホバに対する奉仕においてです。この体制の来たるべき滅びについて述べたとき,使徒ペテロは,クリスチャンは「聖なる行状と敬神の専念」とによって目立つ人となるべきであると励ましました。(ペテロ第二 3:11)したがって,神に受け入れられる犠牲をささげることには,エホバが非とされる習慣,あるいはエホバに対するわたしたちの奉仕のさまたげとなる習慣を捨てることだけでなく,積極的な行動が関係しています。
3 エホバは崇拝に関係した犠牲をすべて是認されますか。
3 自己犠牲の道は,狂信者になること,常軌を逸した行ないをすることを神が人々に求めるという意味を持ちますか。例えば,ある人々は教会の神殿まで,長い道のりをひざをついて,血を流しながらはって行きます。そういう犠牲を神は喜ばれると考えているのです。わざわざ貧しい暮らしをしたり,物乞いをしたりする人々もいます。崇拝の一部としてある食物を断つ人もいます。しかしエホバはご自分のしもべたちに,わざわざ苦しみを背負い込むことを求めてはおられません。「自ら課した崇拝の方式と見せかけの謙遜,すなわち体を厳しく扱うことにおいて,知恵の外見を有」する,人間のつくった定めをエホバは是認されません。―コロサイ 2:23。
4 今日,エホバの関心事のために犠牲を払うとはどういう意味ですか。
4 エホバがお求めになる妥当な種類の自己犠牲は,わたしたちが一層十分にエホバの目的に仕える
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