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聖年の新しい聖人はあなたを助けることができますか目ざめよ! 1976 | 4月8日
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ここに認められている通り,このような慣習に聖書的な裏付けがない事から,初期の改革者たちは「聖遺物の崇敬に対して反対の声をあげ」始めたと,この百科事典は述べています。そこで「トレント公会議はこの間違いを取り上げ,その第25回総会で出された宗令の中で聖書になんら言及することなく,使徒の伝承と教会の不変の慣習に訴えて」聖遺物崇拝を支持しました。―第12巻238ページ。傍線は発行者。
しかし後代の伝統や「教会の慣習」よりも『聖書に言及する』ならばどうですか。新カトリック百科事典の示すように聖徒はあなたが神に祈るのを助ける力を持つのかどうかにつき,聖書には『明確に述べられていない』と,確かに言えますか。
神の道に従って神に近づく
大抵のクリスチャンは「わたしたちの父よ」の祈りを知っています。祈り方についての導きを求められた時,イエスはこの祈りの言葉を教え,「わたしたちの父よ」という表現を用いて祈りを始める事を勧めました。この言葉の持つ暖かさと,神に対する親近感とを考えてごらんなさい。神の代わりに聖人に祈ることを選ぶならば,この暖かい,父に対するような関係を享受できるでしょうか。最初のクリスチャン聖徒たちが仲間のクリスチャンのためによく祈った事は確かです。しかしこれが天の父に語る事によってクリスチャンの享受した親しい関係に取って代わった事は一度もありません。―マタイ 6:9。ルカ 11:1,2。
しかしイエス・キリストの役割についてはどうですか。それは「聖人」の役割と似たものではありませんか。そうではない理由を,カトリックの新アメリカ聖書から次のように読むことができます。「キリストにあって,また彼に対する信仰により,わたしたちは確信を抱いて神に近づき,神に向かって自由に語ることができるのです」。誠実なクリスチャンはこのように祈りの中で常に「神に向かって」語るのであり,他のだれに祈るのでもありません。同時に彼らは犠牲をささげた仲保者としてのキリストの役をも認めています。それによって彼らは「わたしたちの父よ」と神に語りかける確信を与えられるのです。したがって聖書は次の事を明白に述べています。「わたしたちが共に崇拝する時,神に向かってわたしたちのアーメンを唱えるのは彼を通してなのです」― エフェソス 3:12; コリント第二 1:20,新アメリカ聖書。ヘブライ 7:24,25と比べてください。
「わたしを通してでなければ,だれも父のもとに行くことはできない」と弟子たちに告げたイエスご自身の言葉は,天で他の者がとりなしの役をすることを明白に除外しています。そして何年か後,イエスも他のクリスチャンたちも既に殉教者の死を遂げた後でも,なお聖書は「神と人類の間に唯一の仲保者,ご自身,人となられたキリスト・イエスがおられる」と明白に述べています。―ヨハネ 14:6,13; テモテ第一 2:5,エルサレム聖書。
天の聖徒による神へのとりなしについて聖書が沈黙している別の理由は,それが全く不可能であったという事のためです。なぜそうですか。迫害されていたテサロニケ人に対し,キリストの再来に関して述べた使徒パウロの言葉に注目してください。
「兄弟たちよ,わたしたちは死の眠りについている人々について,あなたがたにはっきり分かってもらいたいと思います。……主ご自身,命令の言葉と天使長の声と神のラッパの音で天から下って来られるでしょう。そしてキリストにあって死んでいる人々がまずよみがえるでしょう」― テサロニケ第一 4:13-16; コリント第一 15:22,23,51,52と比べてください。新アメリカ聖書。
「キリストにあって死んで」いたこれらの聖徒が「死の眠りについて」おり,キリストの再来の時までよみがえらないのであれば,彼らは天でだれかのためにとりなしを出来る立場にある事など,どうしてあり得たでしょうか。ゆえに聖書は,記録の不完全さ,あるいはあいまいさのためではなく,復活についての聖書自体の教えと一致しているために,この点について沈黙しているのです。
では聖人の列に加えられるための手続きに費やされるこのすべての時間と費用と努力については何と言うべきですか。カトリックの季刊誌クリテックの主筆ジョエル・ウェルズは率直にこう述べています,「教会はそれに費やす金で出来る事が他にいくらもある」。助けを必要とする時に頼るべきかたとして聖人よりも神に信頼する事を誠実な人々に教えるため,これほど徹底した努力を傾けるならばはるかに良い事ではありませんか。
「わたしたちの大祭司はわたしたちにつきまとう弱さを感ずることができないなどというのではないからです」。キリスト・イエスについて聖書はそのように述べています。それで聖書は次のことを勧めています。「それゆえ[神の]恵みの座に近づくにあたり,わたしたちは助けを必要とする時に彼からあわれみを得,恵みを見いだすことを確信しよう」。(ヘブライ 4:14-16,エルサレム聖書)確かに神からの助けは,人間の作った聖人に祈ることによってではなく,神の定められた経路である神のみ子キリスト・イエスを通して「天におられるわたしたちの父」に直接に祈ることによって得られるのです。
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パプア・ニューギニア独立の年 ― 1975年目ざめよ! 1976 | 4月8日
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パプア・ニューギニア独立の年 ― 1975年
パプア・ニューギニアの「目ざめよ!」通信員
戦い合う部族の国が百年を経ずして独立国家に! パプア・ニューギニアはこのようにして現代世界に登場した国です。1975年9月16日,国の首都ポートモレスビーにおいてオーストラリアの国旗に代わってパプア・ニューギニアの国旗が掲げられ,建国者たちの努力は頂点を迎えました。
オーストラリア,シンガポール,フィリピン,インドネシアおよび太平洋の他の島々からの国賓が何日も前からつめかけました。英王室の代表者はチャールズ王子でした。一方,オーストラリアの総督,首相,オーストラリア議会のメンバー多数が参列して,オーストラリアから新政府への最終的な権力の移管を見守りました。
初期の植民地支配
1880年代の半ばにドイツ帝国が大きな島の北部18万平方キロと600に上る小さな島々を占領してニューギニアと名づけて以来の植民地支配の時代は,こうして終わりを告げました。当初の四年間はニューギニア・カンパニーという名の企業に統治の権限と責任が与えられていましたが,1899年にはドイツ政府が再び統治し,最終的にニューギニアはジャーマン・ミクロネシアおよびマーシャル群島と合併して,ニューブリテン島のラバウルに政庁が置かれました。
英国はその植民地オーストラリアの北岸にきわめて近い所でとられたドイツのこの動きに警戒し,その結果,本島の南部は,沖合の島々をも含めて約23万4,000平方キロが英国の支配下に置かれることになりました。その首都が南岸のポートモレスビーです。1901年,オーストラリアに連邦政府が設立されると,英領ニューギニアと呼ばれるようになっていたパプアはオーストラリアに移管されました。
第一次世界大戦後にドイツが植民地を手離すことになったのに伴い島の北部ニューギニアも国際連盟の委任統治領としてオーストラリアに割り当てられました。1937年,火山の大爆発によってラバウルの町が事実上,壊滅した時,首都を本島の北岸にあるラーエに移すことになりましたが,この
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