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イエス・キリストの贖いの功績ものみの塔 1954 | 6月15日
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やロトや他の人々に現れる時になしたように,その霊体の上に肉体の外被を着けた神御自身であつたのだと言います。(創世 18:1,2; 19:1。士師 13:9-11,16)三位一体論者は神とキリストが一つであり,同一であると信ずるので,これと同様の偽の理論を固執しています。この偽教理は更に他の間違つた結論を強いて引き出させます。例えばこの理論は,イエスの弱さと苦しみが単なる偽の作り事であるということを肯定しなければなりません。何故なら霊者は疲れず苦しむことが出来ないからです。この理論はまた彼の祈りは偽の作り事であつたという結論を強いて引き出さなければなりません。何故なら彼は結局単に彼自身に祈つていたからです。そして彼がそうしたことは弟子たちや他の者らに,単に深刻な印象を与えるために過ぎなかつたことになります。(ヨハネ 17章)その上更にこれと同じ間違つた道に沿つて,そして本来の前提に基いて,その理論は,キリストの死が単なる外見だけの死であつたと結論しなければならないでしよう。何故なら神は不滅で,実際に死ぬことが出来ませんから,そこには実際の死はなく,人類のための贖いの血を流すことも全然なかつたことになります!
11,12 宗教的指導者たちは,他にどんな見解を主張していますか?
11 この危険な理論に極く近いものは,『道徳感化説』を信ずる人々の結論です。彼らは,キリストの唯一の使命は,心を融かすほどの感動的な方法で神の愛を現わし示し,そして罪を捨てるように人々を導くことであつたと主張します。(『20世紀黎明の神学』(英文)261頁)。彼らは言います。『厳密に言えば,キリストの死は人間の救いに必要ではなかつた』。
12 それ故贖いに関して非常に著名な宗教指導者が次のように言うのを見ても驚くには及びません。『勿論私は処女受胎を信じませんし,また時代遅れの贖罪の身代りの教理も信じません。そして私はそれを信ずる知識的なクリスチャン奉仕者を知りません。これらの根本教理主義者たちについての悪い点は,彼らの教理の教えに或る者が同意するのでなければ,人々の生活を変化させ,そしてこの世の中でキリストが救い主であるという唯一の希望であるところの,クリスチャン福音の深遠な,真実の,永遠の真理をその人は,信ずることが出来ないと考えている点にあります。』(「クリスチャン・ビーコン」1946年5月9日号第11巻 第13号(ハリー・エマーソン・オスデイツク英文)この級の人々の中には,贖いの価を備えるのにイエス・キリストの死が必要であるということを嘲笑する人々が含まれています。何故なら彼らの云う通りそれは神の御心を成就するために殺人が必要となるからです。
13 贖いに対する彼らの不信はどのように示されていますか,ペテロによつて述べられた一つの級に彼らを当てはめながら説明しなさい。
13 このように実際にイエス・キリストの贖いの功績を否定する宗教人たち,宗教指導者たちを発見します。そうです。彼らは『クリスチャン福音の永遠の真理』について語りますが,しかし彼らの目には,原理は,十戒とキリストが教えた新しいいましめ,即ち死ぬまで神を愛し,隣人を愛せよという新しい誡しめ ― これらは『人々の生活を変化させる』ものであり,そして『この世の中でキリストが救い主であるという唯一の希望』であります ― とを一体と見ています。彼ら自身の言葉と行為によつて,彼らが犠牲的死によつて差し出されたイエス・キリストの生命,そしてそれが,アダムの叛逆の罪によつて最初に失つた肉体の完全さと,神と人との一致とを再び人類に得さす道を実際に開かれたことを,信じない事実を示しています。彼らはキリストを彼らの贖い主,救い主として承認しません。そしてまた彼等は流されたキリストの血の価値が,アダムによつて失われた生命権を人類に再び得さすために,神の前に支払われた代価であることも信じません。神の僕を装いながら,彼らは実際は偽教師です。ペテロは彼らのことを何と正確に述べていることでしよう。『あなた方の中にも偽教師があるであろう。これらの者は,亡びに至る教派をひそかに持ち込み,自分たちを買つて下さつた主をさえ非認し,自分たちの上に急速な滅亡を招くであろう』― ペテロ後 2:1。コリント前 1:18。新世。
14 正直な人は,真理のどんな全き重みを会得しなければなりませんか?
14 生命に興味を有するすべての人は,神聖な聖書こそ,誰でも救いを得ようとするには,ただイエス・キリストの贖いの功績を通じなければならないことを知るのに圧倒的に専問の書であり,的確なものであるという真理の全き重みを会得しなければなりません。その上更に救いを得つつある者は誰でも贖いの要求する条件に一致しなければなりません。そしてこのようにして神の標準に応じなければなりません。結局において,聖書攻撃のために利用することが出来る人々の哲学も,すべてのこの世的な知識も,人間の理論も,何の役にも立ちません。神の御言葉は確実で,堅固で,そしてすべての知識を有し,自分の言葉を裏付けし,それを成就するすべての力を所有するお方から来るものとして,信頼されています。私達は神の御目的の中で占める神の御子の立場が,人類の救いに関係があるものとして,その解明を得るために真直ぐに正しく神のもとに行きます。
15 『贖う』とはどういう意味ですか? そして何故全人類はそれが必要ですか?
15 『贖う』ということは「代価を支払つて,捕われの身から,奴隷状態から,刑罰又はそれに類似することから買い戻すこと。束縛から買い戻すこと。罪から又は罪の刑罰から,又はそれに類似することから救い出すこと。買い戻し手となること』を意味します。(ウエブスターの新国際辞典〔英文〕第二版)人類はエデンの時以来,罪とその刑罰と死の束縛の中にいることは全く認められているものです。『見よ,われ邪曲の中にうまれ,罪にありて我が母われをはらみたりき。』(詩 51:5)この束縛の告白はただダビデ自身だけに適用されるのではありません。何故ならパウロはそれが全人類にとつても真実であることを次のように述べて確証しています。『一人の人によつて罪は世に入り,罪によつて死が入つて来た。このようにしてすべての人が罪を犯したので死がすべての人に及んだ』(ロマ 5:12,新世)全人類は束縛と奴隷状態の中にありましたし,また今でもその中にあります。そしてその結果死が生じました。そしてもしも全人類が完全さの中で全き自由を再び永遠に得ようとするならば,その解放を成しとげるために贖い主が必要であります。
16 どんな条件に基いて,人間を罪の刑罰の死から回復することが出来ますか?
16 死は,ヱホバの正しい完全な律法の運用によつて,正しく人間の上に来ました。神の側には不正はありませんでした。何故なら人間はこの奴隷状態と死の刑罰とを自分自身の上に招いたからです。正義に一致して,神は来るべきすべての時の間,死が人々を支配することを許すことも出来ましたが,しかし神の愛と憐の偉大な性質は,正義の傾向を持つ人々のために道を準備されます。しかしながらヱホバはその憐を行うに当つて,人間の中に入つた死の刑罰の正しさを無視したり。知らない風をすることは出来ません。『生命にて生命を償い,目にて目をつぐない,歯にて歯をつぐない,手にて手をつぐない,足にて足をつぐのうべし』― これは神が常にそれに基いて働くところの条件と原則を表現しています。(出エジプト 21:23,24)従つてヱホバが人類の罪のための刑罰として宣告したもの,即ち死は,ただ贖いの価又は相当する代価によつてのみ取り除くことが出来るのです。もしも或る者が自分から喜び進んでこの贖いの価を支払うことが出来て,このようにして,ヱホバの正しい法律を履行するならば,その時神の憐れみは人類に向つて差し伸べられるでしよう。イエス・キリストは自分から喜び進んで人間をその束縛から買い戻すことの出来るお方でありました。
17 この点でヱホバの偉大な愛はどのように示されていますか?
17 贖いのための支払いの価を準備するようにキリストを動かしたのがヱホバの愛と憐であるということは,ヨハネ伝 3章16節(新世)に明かに示されています。『神は世を愛するのあまり,その独子を与えられた。それは,彼に対する信仰を実行するすべての者が亡びないで,永遠の生命を得るためである。』それは神によつて開始された行いであり。贖いの価を支払つて正義の条件に満足を与えるために為した神の御子の快諾によつて成し遂げられたのであります。『これによつて神の愛は私達に現わされた。何故ならば神は彼を通じて私達に生命を得させるために,その独子を世に遣わされたからである。愛というのは,私達が神を愛したのではなくて,神が私達を愛して御子を遣わし,私達の罪のために,宥めに供物とされたという,この点である』(ヨハネ第一 4:9,10,新世)イエス・キリストはヱホバと堕落した人間に対する愛によつて,贖いの価を支払うことに喜び進んで応じたのです。
18 贖いの価を要求することはヱホバにとつて新しい事でしたか?
18 このように贖いの代価を要求することは,ヱホバにとつて別に新しい事ではありませんでした。ヱホバはイスラエル民族の贖い主又は買い戻し手として彼らと交り給うた。それと同じ基本的原則に従つたに過ぎません。ヱホバは御自身について言われました。『われはヱホバ,汝の神,イスラエルの聖者,汝の救い主なり。われエジプトを与えて汝の贖い代となし,エチオピアとセバとを汝に代う。われ見て汝を宝とし,尊きものとし,また汝を愛す。この故にわれ人をもて汝に代え,民を汝の生命に代えん』(イザヤ 43:3,4)。イスラエルに与えられた律法の契約の法令は,或る種の罪を犯した人の生命を買い戻すための贖いの代価のことを規定しました。すべてのヘブル人が出す半シケルの人頭税は,彼らの生命のための宥めの贖いの金と考えられました。(出エジプト 21:28-32; 30:12-16)。民のために献げられた牡牛と山羊の例年の供物はヱホバが認め,受入れた贖罪又は贖いの役を務めました。―レビ 4:1-35; 5:1-19; 16:1-31。箴言 21:18。
19 贖いの価を支払うことは,どのようにむづかしい事ですか?
19 人間の場合,完全さと永遠の生命を回復するために,神が要求する贖いの価は,金銀又は他の高価な物で支払うことは出来ませんし,また獣類の血によつて支払うことも出来ません。何故ならこれらの代価は,アダムが全人類のために失つた完全な生命に相当せず,また,等しくないからです。(ペテロ前 1:18,19)『低い者も高い者も,富める者も貧しい者も,世に住む者』すべてに向つて詩篇 49篇(ア標)は,人間はその生命の贖いの価を神に献げることが決して出来ない,『何故ならば彼らの生命の贖うことは高価であるから,永遠にその事を見棄てなければならない』と指し示しています。そこで結局ヱホバが相当する贖いの価を支払う方法を準備しない限り,人類は決して罪と死から回復されることが出来ないということになります。神は独子が完全な人間の生命を犠牲として,差出す特権を彼に許すことによつて,この準備をなさいました。―ガラテヤ 4:4,5。
20 キリストのために設けられたこの犠牲の道筋に関して,キリストの取つた態度はどのようでしたか?
20 ヱホバは御子をこの犠牲の道筋<コース>を歩むように強制しませんでしたが,イエスはそれが父の御心であることを理解した時,自分から喜び進んで,その通りに行いました。イエスについてパウロはこう言います。『彼は……神と等しくあるという考えを固執しないで,かえつて自分を空しくし,僕の形をとり,人間の様となつて来られた。更にそれ以上に,自分が人間の形であるのに気付かれた時に彼は自らへりくだり,死に至るまで,苦痛の刑柱に懸けられて死ぬまで従順であられた』(ピリピ 2:6-8,新世)イエス御自身も,自分から喜び進んでその生命を犠牲に献げることを確証しています。『これこそが私を愛する理由である。何故ならば私は私の魂〔生命〕を捨てるからである。これは私が再び生命を得るためである。何人も私から生命を取り去るのではない。しかし私は自発的に生命を捨てるのである』(ヨハネ 10:17,18,新世訳欄外)神の犠牲の小羊としてイエス・キリストは確固として,喜び進んで,ためらわずに,苦痛の刑柱に懸けられて犠牲となる行為を進んでとられました。そしてそれが,信ずる人類のために贖いの価を備える能力のあることを十分に理解していました。―イザヤ 53:7。
21 ヱホバはその仁慈によつて,イエス・キリストの贖いを信ずる基礎をどのように備えましたか?
21 イエスが人間となる前の存在の頃に,自ら進んで贖いの価を備えることを言い表わした時は,疑いもなくイエスが奇蹟的に地上に来る時よりも可なり前の時でした。勿論そうでなければなりません。何故ならイエスが地上へ来るよりも遥か以前に,ヱホバはアブラハムを通じて,どのようにヱホバが御子を犠牲として与えられるか,そしてまた御子が自分の自由意志でどのようにその生命を献げられるかを縮図で示しました。(創世 22:1-19)アブラハムによつて演じられたこの予言的描写に引続いて,直ちにヱホバは『汝の裔によつて地のすべての国民は祝福されるであろう』という約束をしました。この『裔』はキリストであるとパウロは正しく見定めました。故に神がその事を示されてから,即ちアブラハムの時代から未来の指定された時に,神御自身の愛する御子は偉大な犠牲となるために来ることになつていました。ヱホバはその記された御言葉の中に,一つの根拠を据えて置かれたので,正しい人々は,この偉大な出来事と,そして彼らの上に開かれることになつている,まだ十分に説明されていない多くの祝福の上に,彼らの希望を堅く定めることが出来ました。人々が,彼らのための贖いの価を備えて下さる者を,正しく見定めることが出来るところの信ずべき記録が確立されていました。(箴言 8:22-36。ヨハネ 8:58)大解放は今や近づきました。しかしそれは確かにイエス・キリストの贖いを通じて来るでしよう。
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『贖いによる解放』ものみの塔 1954 | 6月15日
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『贖いによる解放』
『彼によつて,彼の血を通じて,私達は贖いによる解放を得,私達の罪過の赦しを得る。これは彼の豊かな仁慈の富によるものである。―エペソ 1:7,新世
1 律法の下で献げられた犠牲はどうして実際の『解放』が出来ませんでしたか? しかしそれは何の目的のためでしたか?
罪の中に生れ,邪曲の中に形づけられた人間は,罪の中に生き,罪の刑罰である死の運命を与えられました。イスラエルに与えられたモーセの律法の下で,民の罪は,大祭司の手で献げられた獣の犠牲による模型的方法によつて赦されました。しかし本当の意味で牡牛の血は,罪の刑罰である死から永久性のある実際の解放を致しませんでした。何故なら律法に従つたすべての者も結局は死んでしまつたからです。その上犠牲は規則正しい一定の間隔を置いて繰返し献げなければなりませんでした。律法の契約は実際は『来らんとする善き事の影』であつて神が御子イエス・キリストを通じて為し給う事を図解していたのでした。(ヘブル 10:1-3)『そこで律法は,私達が信仰によつて義しいとされるために,キリストに導く私達の守役となつた』― ガラテヤ 3:24,新世。
2 律法の下で,血はどんな重大な役を演じましたか? しかしイエスが来ることによつて,どんな大変化が行われましたか?
2 しかし律法の取極の下でさえ,義しさはただ血を流すことによつてのみ与えられました。イエスの犠牲と贖いを観察する場合に私達は『血を注ぎ出すのでなければ赦しは行われない』という聖書の明瞭な記述を心に留めて置かなければなりません。それこそイスラエルが罪からの年毎の解放を得るために,模型的な意味で,大祭司を通じて獣の血を引続き献げた理由です。しかしイエス・キリストが来ると共に大変化がありました。何故なら『彼は山羊や小牛の血でない,御自身の血をたずさえて,只一度だけ聖所に入られて,私達のために永遠の解放を得られた』(ヘブル 9:22,12,新世)もはや獣の血を定期的に献げることは不必要でした。何故ならこれらの獣の犠牲が前影となつていたところの真物が来て,永遠の解放を確立されたからです。今は贖いによるその解放の利益を受ける資格を作ることが問題なのです。
3 どんな点でイエスの犠牲は最上のものでしたか?
3 人類の罪のための宥めをし,そして解放を成すためにイエス・キリストが入ることは,地上のどこかの宮に入ることではありません。『実にキリストは真物の模型であるところの手で造つた聖所には入らずに,〔イスラエルの大祭司がしたように〕今私達のために神の御前に現れようとして,天そのものに入られたのである。……キリストは多くの者の罪を負うために,ただ一度だけ献げられた』(ヘブル 9:24-28,新世)キリストがその復活に続いて,彼が注ぎ出された完全な生命の血の功績を献げるために行つた所は,天のヱホバ神の御前でした。そしてこれは,人類の中でその贖いの功績を信ずる者らのために永遠の解放を成すために行われました。ペテロはイエスの流された血が贖いの功績を備えたのであることを確証しています。『あなた方が先祖たちから伝えられた無益な行いの様式から贖いによつて解放されたのは,銀や金のような朽ちる物によつてではなくて,かえつてそれは瑕のない,汚点のない小羊のような貴い血,即ちキリストの血によつてであることを,実にあなた方は知つている。』― ペテロ前 1:18,19,新世。
4 イエスの犠性的死を不必要と考えることは何故愚かですか?
4 このように犠牲的死によつて注ぎ出された完全な人間イエスの生命の血は,それを信ずる者らを救う功績があるものと見られています。この故に世の救いのために必要なのは,犠牲に供された血であつて,単なる『クリスチャン福音の深遠な,真実の,永遠の真理』ではありません。流された血なしでは解放はあり得ません。聖書はこの真理を特に目立つて強調しています。そこでイエスが自分で犠牲となる道筋は,彼が世の救い主となることには本質的には必要ではない,と見ることは,本当に愚かです。もしも流された血の功績が何人のためにも適用されないなら,人間は永遠の生命を得る希望を持つことが出来ません。イエス・キリストの完全な生命の血は,アダムが失つた生命価値に相当しました。イエスが死からよみがえつて昇天した時に,彼は完全な人間の生命の権利とそのすべての有望な前途とを所有していました。丁度アダムが不従順によつて人類のために失つたところのものと全く同じものを……。イエスは神の御前にこの贖いの価を差出し,それと引換えに,人類のうちより受ける値打のある者共に永遠の生命を得る機会を与えました。―ロマ 5:15-19。
5 どんな大きな質問が提出されますか? そして間違つた見解がどのように人々に害を及ぼしますか?
5 これは先ず,誰が贖いによつて利益を受けるか,という質問を起させます。善い人であろうと,悪い人であろうと,すべての人が利益を受けますか? 御子を与えられたことを心付かせることは,すべての人に対する神の偉大な愛ではありませんか? それは,アダム自身も,そして悪魔さえも含むすべての者が最後には救われるという,多くの人の持つ見解を支持するのではありませんか? 断じてそうではありません。何故なら何物も真理より上のものはあり得ないからです。そのような万能の救いの理論を保持することは人々に大きな害を及ぼします。何故ならそれは贖いの真の目的に対して人々を盲目にするからです。それは人々を油断と無責任の偽りの気持の中に寝込ませてしまいます。何故ならそれは,彼らが何を為そうと,どのように生活しようと,そんな事はどうでもよいのであつて,最後には万事よく成るであろうと彼らに告げるからです。『すべての者のための救い』という信仰を持つことによつて,彼らは,神の御目的を調べる必要を見落し,そしてどんな基礎の上に彼らがイエス・キリストの『血を通じて,贖いによる解放』を得るに資格づけるかを確める必要を見落してしまいます。
6 どんな簡単な事実が,その正確な見解を支持していますか?
6 一寸止めて,或る簡単な事実を考え,調べて下さい。イエスが地上に居て,悔改めを宣べ伝えた時,或る者らは彼の言う事を聞いて信じ,そして他の者らは彼の教えを軽んじました。信仰を以て彼に聞き,「彼の試練の時に彼に固く着いていた」者らに向つてイエスは御国における偉大な祝福を約束しました。(ルカ 22:28-30,新世)そして彼は,他の羊たちもまた後になつて,信仰を以て聴き,祝福を受けるであろうと言いました。しかし彼を取り巻いて,彼の音信を嘲り,彼がキリストであるかどうかを知りたいと要求した不信仰のユダヤ人たちに向つてイエスは答えました。『私はあなた方に告げたけれど,あなた方は信じない。……あなた方は信じない。それはあなた方が一人も私の羊でないからである。私の羊たちは私の声を聞く。そして私も彼らを知つている。そして彼らは私に従いてくる。そして私は彼らに永遠の生命を与える。そして彼らは決して永遠に亡ばされないであろう』(ヨハネ 10:16-30,新世)それらの信じない人々は,後にイエスを石で打つて殺そうとしました。贖つて永遠の生命を与える約束は,このような人々には絶対に与えられないで,ただ信じる人々,即ち,『羊たち』だけに与えられました。
7 マタイ伝 23章の記録は,『すべての者のための救い』を信ずる人々に対して,困惑させるどんな状態を提出していますか?
7 『すべての者のための救い』を提案する人々は,イエス時代の偽教師たち,即ち学者らやパリサイ派の人々に向つてなしたイエスの痛烈な証言に,その目を閉じなければなりません。彼らは神を崇拝すると主張しながら各種の悪い事を行いました。イエスは彼らのために善い事を何も予言しないで,ただ災いの上にも災いの来ることを予言しました。彼らの歩んだ悪い道筋<コース>のために,ヱホバの御手によつて行われるゲヘナ(滅亡)の審判を逃れることが全く出来ないことを,イエスは強く指摘しました。それでも,イエスが彼らに贖いを備えるために死んだのであると言うでしようか? 彼らは贖われたり滅ぼされたり,両方をすることが出来ましたか? 確かにそうではありません。これは良く考える人ならばどんな人も認めなければならない通りです! イエスは彼らが罪に定められたことを彼らに告げました。故に彼らに贖いはあり得ませんでした。―マタイ伝 23章新世。
8 弟子たちに与えたイエスの教訓は,どんな見解を支持していますか?
8 イエスが弟子たちに与えた教訓は,贖いは個人的にすべての人々に適用されるのではないという真理に重みを加えています。何故なら彼はこう言いました。『人がもしあなた方を迎え入れず,またはあなた方の言葉を聞かないならば,その家またはその町を出る時に足の塵を払い落しなさい。ほんとに私はあなた方に言う。審判の日には,その町よりもソドムとゴモラの地の方がはるかに耐えやすいであろう。』(マタイ 10:14,15,新世)彼は,信じない人々や故意に悪を行う人々を贖うことが全く不可能であることを,鋭く指し示しました。何故ならソドムとゴモラはまつたく罪を宣告され,亡ぼされて,絶対に回復される可能性がないからです。
9 サタン,アダムの立場と一般人類の立場との間に,どのような違いがありますか?
9 サタン,悪魔はよこしまと悪の上に基礎を置くこの世の神です。彼は自分で巧らんだ,故意の犯罪者であり,神の主権の違犯者であります。彼のためには回復は全くなく,定まつた滅亡があるだけです。人間アダムも故意に巧らんで,サタンが取つたと同じ叛逆の道筋<コース>を選びましたので,神は正しく死を宣告しました。しかしアダムの子孫の場合は立場が違つています。何故なら彼らはアダムの故意の行為の結果として罪の宣告の下に生れたからであつて,彼ら自身で行つた事のために罪の宣告を受けたのではありません。(ロマ 16:20。黙示 20:10。ホセア 6:7。ロマ 5:14)この故にヱホバは彼等のために,イエス・キリストの贖いによる解放によつて,この奴隷状態から回復する機会を準備しました。
10 贖の利益を得る者の生活に,どんな変化が来なければなりませんか?
10 イエスが善い音信を宣べ伝えられた時代に,アダムの全子孫が生きていて,聞いて信じたのではなく,それですからすべての者が,イエスが後に有効にしたところの贖いの下に来たのではありません。これに反して,信じた人々の場合には,使徒たちのように,彼らの生活に驚くべき変化が起りました。故に今日贖いによつて遂に利益を得る人々は,まず最初に彼らの生活に変化を来さなければなりません。それは,悪を慎み,中庸を保ち,又は目に余る悪事から離れて超然たる立場を保ちながら,このようにしてその人自身の努力によつて築き上げられた美しい人格によつて贖いを得ることを望むということより以上の事を意味しています。むしろそれは,イエスが宣べ伝えた善い音信,そしてイエスが約束された通りに今日では全地に宣べ伝えられつつある善い音信を,聞いて信ずることを必要とします。それは,新しい世を建てるためにヱホバ神が為された全部の取極めを支持して,積極的に活動することを意味します。悪魔および彼と同様の心を持ち故意の罪人となつた人々は,新しい世を支持しないでしよう。彼らは贖いによる利益も受けないし,また彼らを死へ追いやるところの利己的な心の束縛から解放されることも決して経験しないでしよう。
11 『羊』と『山羊』の譬は,贖いが制限されていることを,どのように示していますか?
11 御国の音信が宣べ伝えられる結果として地上の民が,羊と山羊の二つの級に分けられることを述べた中で,イエスは『山羊』級が受ける滅亡と,『羊』級が受ける贖いと生命を予言しました。一人のアダムの罪が,すべての人に死をもたらしたという事は一般に承認されるでしよう。しかし『一つの義の行い〔イエス・キリストの行つた役目〕によつて,すべての種類の人々が義とされ,生命を得ることになる』という事も等しく真実です。(ロマ 5:18。マタイ 25:45,46。ヨハネ 3:36。新世)これらの『すべての種類の人々』というのは,イエス・キリストの贖いの功績を聞いて信ずる『羊』たちのことであつて,彼らはその行いと生活の方法によつて,彼らの信仰を示します。これらの者は,彼らのために適用されるイエスの血の贖いの功績を有する人々です。何故なら彼らはそれの価値を認め,そしてヱホバがその御言葉の中に指定して置かれた条件に基いて,それの恩恵を受けることを請願するからです。
12 追加されたどんな事実が,贖いに制限のあることを示していますか?
12 これらの『羊』は,たとえ彼らの信仰が何であり,彼らの生活上の習慣が何であるにも拘らず,すべての国々のすべての人を含んでいない事に,よく注意して下さい。実際そうではないのです。何故ならイエス・キリストの主要な目的が非難された父の御名を証明することであるという事を,私達は記憶していなければならないからです。同様に,これと一致して贖いの主要な目的は,人々をその信仰と献身によつて死の刑罰から買受ける,又は買い戻す権能をイエスに与えることであつて,それは悪魔が噓言者であることを立証することになります。もし或る人々が故意に悪に沈溺し,聖書の救いの音信を完全に無視することによつて自分自身が真理と正義に敵対している事を示すなら,彼らがキリストの贖いの功績を望むことが出来ないのは当然のことです。『この組織制度の完全な終りにおいても,これと同じであろう。御使たちが出て行つて,義しい人々の間から悪人をえり分け,彼らを燃えている炉に投げ入れるであろう』― マタイ 13:49,50,新世。イザヤ 26:10。
13 贖われることは選ばれるということについて,聖書はどのように示していますか?
13 贖いによつて買われることは,選ばれるのであると聖書自体良く注意しており,イエスについてこのように言つています。『あなたは屠られて,その血を以てあなたはすべての種族と,各言語の民と民族と,国民の中から,神のために人々を買い取られた』(黙示 5:9。新世)クリスチャン会衆,天の『王なる
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