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  • 神の支配権を行使する主要な代理者に従う
    ものみの塔 1973 | 2月15日
    • 人は,自分自身のわざに頼って,自分が義にかなっていることを神の前で示そうとしたため,神が彼らのために用意し,彼らのすぐそばに,彼らのただ中において,彼らがあずかれるようにしてくださった備えに信仰を働かす必要を少しも感じませんでした。救いを得るためには,クリスチャンはそうした不信仰なユダヤ人とは全く異なった行動を取らなければなりません。

      口でなされる告白

      24 (イ)律法,および命を得ることに関してモーセは何と述べましたか。信仰を要求する義は,神のおきてが身近かにあることについて何と述べていますか。(ロ)義と救いに関して,心と口はどんな役割を果たしますか。

      24 神のおきてに基づくこうした要求と一致して,使徒パウロは次いでこう述べます。『モーセは,律法による義をおこなう人はこれによりて生くべしと録したり。されど信仰による義はかくいう「なんじ心に『だれか天に昇らん』と言うなかれ」と。これキリストを引きおろさんとするなり「また『だれか底なき所にくだらん』と言うなかれ」と。これキリストを死人のうちより引き上げんとするなり。さらば何と言うか「みことばは,なんじに近し,なんじの口にあり,なんじの心にあり」と。これ我らが宣ぶる信仰のことばなり』。「それは,もしあなたがその『あなた自身の口の中にあることば』を,つまりイエスは主であるということを公に宣言し,あなたの心の中で神は彼を死人の中からよみがえらせてくださったとの信仰を働かせるなら,あなたは救われるからです。人は心で義のために信仰を働かせますが,口で救いのために公の宣言をするからです」ロマ 10:5-8; 10:9,10,新。

      25 (イ)その「ことば」をパウロは,どれほど異邦人に近づけましたか。特に主イエスは,わたしたちがその情報を入手できるようにするため,どのように取り計らわれましたか。(ロ)その「ことば」がそれほど身近かにあるわけですから,救いを求める人たちに関しては何が問題でしたか。

      25 特に,「異邦人への使徒」であった使徒パウロによって,またその同僚の宣教者たちによって,神とそのキリストに関する「ことば」は異邦人の近くにもたらされたので,それらの人々もそのことばを口をもって復唱し,感謝してそれを心にいだこうと思えば,そうすることもできるようになりました。また,イエス・キリストは,神とその目的にかんして証するため天から地に下って来ることにより,彼らがこうした情報を得られるようにしておかれたのです。イエスはまた,全能の神により死人の中からよみがえらされていましたが,それは神の目的が達成され,実現したことに対する生きた証となるためでした。またそれによって,イエス・キリストこそ「主」であり,エホバ神の神聖な支配権を行使する主要な代理者であることが疑問の余地なく立証されました。ですから,命を救う「ことば」がそこに,つまりそれら異邦人の手の届くところに,自分たちの口や心にあるのと同じほど近いところにあったのです。しかし問題は,彼らがそれをどうするかということでした。もし永遠の救いを望むのであれば,それに関して行なうべきことがただ一つありました。しかも,救いを得るために行なうべきことは,神ご自身によって命じられていたのです。霊感を受けたモーセが,その『ことば』を,『わが今日なんじに命ずるおきて』と呼んだことを思い起こしてください。(申命 30:11-14)救いを得るためには,わたしたちは従わなければならないのです。

      26,27 (イ)信仰をもって受け入れるよう神がわたしたちに命じておられるのは,どんな「ことば」ですか。(ロ)ユダヤ人が尋ねた『神のわざ』とは何であると,イエスはユダヤ人に告げましたか。それこそ神の命じておられるわざであることを,パウロは,アテネのアレオパゴスのギリシア人にどのように述べましたか。

      26 そうです,救いのためのすべての条件を定めるエホバ神が,そのことば,すなわちイエス・キリストは主であり,神はイエスを死人の中からよみがえらせたということを,信仰をもって受け入れるよう,わたしたちに命じておられるのです。これこそイエスが,『われら神のわざを行なわんには何をなすべきか』と尋ねたユダヤ人たちの問いに答えて言われたことなのです。イエスはこう言いました。『神のわざはその遣わしたまえる者を信ずるこれなり』。(ヨハネ 6:28,29)このことは非ユダヤ人,つまり無割礼の異邦人にもあてはまります。そのようなわけで,知識を得た異邦人にとって,神の意志を行なうために神に献身して,神のわざを行なう以外に道はありません。それらの人々は,それまで自分たちが献身して仕えていた偽りの偶像の神々から離れ去らなければなりません。これは,アテネのアレオパゴスに集まった異教徒のギリシア人に使徒パウロが次のように述べたことと一致します。

      27 『神はかゝる無知の時代を見過ごしにし給いしが,今はいずこにてもすべての人に悔い改むべきことを告げ[求める,アメリカ標準訳; 要求する,ロザハム訳; 命ずる,改訂標準訳]たもう。さきに立て給いし一人によりて義をもて世界を審かんために日をさだめ,彼を死人のうちよりよみがえらせて保証を万人に与え給えり』― 使行 17:30,31。

      救いのための公の宣言

      28 (イ)わたしたちは,心を用いて何を行なうよう命じられていますか。(ロ)わたしたちが信仰をもって受け入れるべき「ことば」とは何ですか。(ハ)わたしたちはどうすれば,そうした信仰を自分の心の中で培えますか。それは何を行なうためですか。

      28 エホバ神のおきてを守って神の意志を行なうためになされたわたしたちの献身に一致して,わたしたちは,『あなたの心の中で信仰を働かせ』なさいと命じられたとおり,従順に行なわなければなりません。心は愛情もしくは愛の発するところであって,それはその所有者を動かす力を持っていることをわたしたちは知っています。人は心で感謝の気持ちを感ずるのです。では,心で何に『信仰を働かせ』なければならないのでしょうか。エホバ神がイエス・キリストを用いてわたしたちの近くにもたらしてくださったその「ことば」に信仰を働かさねばならないのです。使徒パウロに言わせれば,この「ことば」とは,「我らが宣ぶる信仰の『ことば』」なのです。使徒パウロの宣べ伝えたその「ことば」を受け入れるには信仰を働かせることが必要であり,わたしたちはそのことを心で行なわねばなりません。わたしたちは,宣べ伝えられたその「ことば」に自分の心をとめねばなりません。その「ことば」に対する愛を自分の心の中に培わねばなりません。その「ことば」に対する誠実な認識を自分の心で築かなければなりません。わたしたちは心のこうした状態に動かされて,あるいは動機づけをそこから得て,そのことばを信じ,それを受け入れ,それに基づいて行動するのです。

      29 わたしたちは何に関して心の中で信仰を働かせなければなりませんか。それで,救いを得るためのわたしたちの主要な行動の対象となるのはだれですか。

      29 何に関して『[わたしたちの]心の中で信仰を働かせる』ことが要求されているのでしょうか。このこと,つまり,「神は彼を死人の中からよみがえらせてくださった」ということに関して信仰を働かせることが要求されているのです。そうです,ただ『主イエスを信じ』さえすればそれで救われるのではないことがこれでわかります。(使行 16:31)まず第一に,わたしたちは神に信仰を働かさなければなりません。パウロが思い起こさせているように,『すべて〔エホバ〕の御名を呼び求むる者は救わるべし』ということは依然として真実なのです。(ロマ 10:13〔新〕)わたしたちが心と魂と思いと力をつくして愛さねばならないのはエホバなのです。エホバは,イエス・キリストを死人の中からよみがえらせて不滅の命をお与えになった全能者です。ですから,エホバこそわたしたちの主要な行動の対象です。わたしたちは,ほかならぬエホバに献身して,その意志を行ない,そのおきてを守らなければならないのです。―ロマ 10:8,9。

      30 (イ)わたしたちは,イエス・キリストに関して神が何を行なわれたということを信じなければなりませんか。(ロ)こうして,神は実質的な「ことば」をどのような意味でわたしたちの身近かにもたらされましたか。

      30 それで,わたしたちは,愛と認識にあふれて,エホバにささげられた心に動かされて,杭につけられたイエス・キリストをエホバ神が死人の中からよみがえらせるという驚嘆すべき奇跡を行なわれたのだという信仰をいだかねばなりません。そのようにして神は,イエス・キリストが天の神のみまえに上り,全人類を益するためのご自分のあがないの犠牲の価値をそこでささげ,こうして,全人類を買い取れるようにしてくださったのです。犠牲となって死ぬことにより,イエス・キリストは「底なき所」に下りましたが,エホバの霊すなわち活動力は,その「底なき所」に下って,『キリストを死人のうちより引き上げ』ました。こうして,生きたキリストによって,全能の神エホバは,「ことば」をわたしたちの身近にもたらし,その「ことば」に内容と実質を付与し,命を得させる音信をその「ことば」に含ませることができました。それで,どう考えても,わたしたちが献身して取るべき行動の主要な対象はエホバです。しかし,わたしたちは,エホバの主要な代理者イエス・キリストを通してそうしなければならないのです。―ロマ 10:6,7。ヘブル 2:9,10; 5:8,9。

      31 ですから,わたしたちは救いを得るためにだれの名を呼び求めなければなりませんか。それには,なぜわたしたちの口もイエス・キリストに関する告白をしなければなりませんか。

      31 したがって,当然のこととして,わたしたちは,『〔エホバ〕の御名』を呼び求めなければなりません。(ロマ 10:13〔新〕。使行 2:21。ヨエル 2:32)そのためには,口が心に動かされて何かを行なうことが必要です。わたしたちはエホバのみ名を口で呼び求めなければなりません。しかし今や,神はキリストを死人の中から引き上げられたのですから,イエス・キリストを別にして神のみ名を呼び求めることはできません。わたしたちはまた,イエス・キリストに関して自分の口で告白をしなければなりません。使徒パウロが自分の宣べ伝えていた信仰の「ことば」について論じて,さらに次のように述べたのはそのためです。「それは,もしあなたがその『あなた自身の口にあることば』を,つまりイエスは主であるということを公に宣言し,あなたの心の中で神は彼を死人の中からよみがえらせてくださったとの信仰を働かせるなら,あなたは救われるからです。[1]人は心で義のために信仰を働かせますが,[2]口で救いのために公の宣言をするからです」― ロマ 10:9,10,新。

      32 (イ)わたしたちが自分の口でこうした公の宣言を行なうことは,他の聖書翻訳では何と述べられていますか。(ロ)救いのためのこうした口頭の告白が行なわれるのはいつですか。

      32 人が「口で救いのために公の宣言をする」のはいつでしょうか。それは,献身した信者が『父と子と聖霊との名によって』バプテスマを受ける前であり,またそうでなければなりません。(マタイ 28:19,20。使行 16:31-33; 17:33; 19:1-7)王国行間逐語訳や他の聖書翻訳が示しているように,ここで言う公の宣言とは,ある意味での告白です。(改訂標準訳; モファット訳; エルサレム; アメリカ標準訳)バイイングトンの翻訳とアメリカ訳はこれを「承認」と訳しています。この告白もしくは承認とは,今や献身した信者としてのわたしたちが,水のバプテスマをつかさどるクリスチャン奉仕者に対して,またはその前で口頭で行なう事がらなのです。もちろんわたしたちはそののちも,会衆の集会でこの告白を続けます。(ヘブル 10:23)また,わたしたちのクリスチャンとしての希望について説明を求める,行政や司法上の権威者の前でもこの告白を行ないます。(ペテロ前 3:15)また,わたしたちは,戸別訪問を通して公に行なう宣べ伝えるわざや,見いだした関心のある人々の私宅を再び訪問する活動においても,このことをします。しかし,当然のこととして,この告白はバプテスマの前に始まるものなのです。献身していない人は,バプテスマを受ける前に,単に口頭で証言したからといって救われるわけではありません。

      33 告白とはどういう意味ですか。わたしたちは,救いを得るために,他の人々の前で何を告白しなければなりませんか。

      33 もちろん,告白とは,あることについて他の人に宣言すること,明らかにすること,認めること,もしくは承認することを意味しています。では,他の人に対して口頭で宣言,もしくは承認しなければならないこととは何ですか。もとよりそれは,パウロがロマ書で述べる「ことば」です。パウロはこう述べます。「もしあなたがたがその『あなた自身の口にあることば』を,つまりイエスが主であるということを公に宣言(するなら)……あなたは救われるでしょう」。(ロマ 10:9,新)したがってわたしたちは,神の目的や取り決めからイエス・キリストを除外して考えることはできません。イエスは「救いの主要な代理者」だからです(ヘブル 2:10,新)わたしたちは,イエスがダビデ王の「主」であるだけでなく,わたしたちひとりびとりの「主」でもあるということを口頭で宣言し,告白し,認め,承認しなければなりません。(詩 110:1。使行 2:34-46)わたしたちは,神の霊によって霊感を受けた「ことば」にしたがって,この宣言を他の人の前で行なわねばなりません。

      34 コリント前書 12章2,3節によれば,わたしたちは何の導きのもとで,イエスが主であることを告白しますか。わたしたちは,救いのためのそうした告白をいつまで固守しますか。

      34 使徒パウロが次のように述べたのはそのためです。『されば我なんじら[かつては偶像に帰依していた者たち]に示さん,神の御霊に感じて語る者は,だれも「イエスはのろわるべき者なり」と言わず,また聖霊に感ぜざれば,だれも「イエスは主なり」と言うあたはず』。(コリント前 12:2,3)わたしたちの内にある神の霊はわたしたちを導いて,他の人々に対して正しい告白,承認,あるいは宣言を行なわせる,すなわち,イエスは,神の任命を受けた「主」であると言わせるのです。神はイエスを死人の中からよみがえらせましたが,それはイエスが生ける主になるためでした。神は復活したイエスをご自分の右に座させ,他のすべての創造物よりも位の高い「主」とならせました。もしわたしたちが永遠の救いを願うなら,わたしたちは,水のバプテスマを受ける前に公に行なったこと,すなわちイエス・キリストはエホバ神がわたしたちの上に任命し,わたしたちが愛をいだいて受け入れる主であると述べて行なった公の宣言,告白あるいは承認を固守しなければなりません。

      自分自身を否む

      35 イエスが弟子たちに告げたところによれば,イエスについて行きたいと思う人は何をしなければなりませんか。

      35 イエスはわたしたちの主であると口で告白することによって,わたしたちはある種の義務を負うことになります。イエスは,エルサレムで刑柱上の死を遂げるに至る歩みを思いとどまらせようとしたペテロをしかったのちにこのことに言及しました。こうしるされています。「次いで,イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについてきたいと思うなら,その人は自分を否み,自分の十字架を取って,わたしに従いなさい」。(マタイ 16:24,改訂アメリカ標準訳)バイイングトンの翻訳は次のとおりです。「だれでもわたしについて来たいと願うなら,その人は自分を否認し,自分の十字架を取り上げ,わたしに従いなさい」。「アメリカン・カレッジ辞典」は,「否む」ということばの意味を説明し,その一つとして,「4,認める,もしくは承認することを拒む; 否認する; 拒否する; 拒絶する」と述べています。

      36 (イ)ペテロはいつイエスを三回否みましたか。そうすることによってペテロは何を認めていましたか。(ロ)イエスを否認することによって,ペテロは自分が何に所属していることを唱えていましたか。

      36 イエスがユダ・イスカリオテに裏切られた夜,使徒ペテロはイエスを三度否みました。ペテロのことを怪しんだ人々が,イエスの仲間ではないかと三度彼を責めたのち,マタイ伝 26章74節によると,ペテロは,『盟い,かつ契いて「我その人を知らず」と言い』ました。こうしてイエスを否むことによって,ペテロは自分をイエスの仲間もしくは追随者の中から除外しました。そうすることによってペテロは単に自分自身を他のすべての人から引き離したのではありません。それどころか,ペテロは,イエスに従わずに,かえってイエスをぜひとも裁判にかけるべきだと考えた者たちに組した,もしくはその者たちの側に立ったのです。あるいは,別のことば,つまり「否認する」ということばを用いるとすれば,ペテロは自分の指導者また教師としてのイエスを否認することにより,だれかほかの者を自分の指導者また教師としていただいていると唱えたのです。イエスのことを否認したペテロは,みずから中立の立場,つまり問題のどちらの側をも支持せず,他のだれともいっさい関係のない独自の立場に立っていたのではありません。イエスのことを否認することによってペテロは,自分がだれかほかの者に所属していることを唱えねばならなかったのです。

      37 それで,イエスに従うために自分自身を否むとは,どういう意味ですか。それはだれの意志にもとづいてなされるのですか。

      37 イエスがマタイ伝 16章24節で弟子たちに言われたことについても,同じことがいえます。自分自身を否み,自分の刑柱を取り上げて,イエスに従いつづけることによって,人は単にその場その場で自分の個人的な欲望に関して自分を否定しているのではありません。実際のところ,その人は,イエス・キリストに従わない利己的な人間としての自分の残りの生涯にかんして自分を否定しているのです。自分自身を否むことによって,人は物質主義に根ざした自己本位な生き方に背を向けてイエスの追随者になり,イエスがなさったように死の刑柱を担ってゆくのです。その人はみずからの指導者また決定者としての自分自身を否み,イエス・キリストを自分の指導者また教師として認め,また承認します。もちろん,この段階は神の意志にしたがって踏まれるのです。

      38 イエスに従うために自分自身を否認するとは,どういう意味ですか。イエスと同様,わたしたちはだれの奴隷になりますか。

      38 新世界訳はマタイ伝 16章24節をこう訳出しています。「だれでももしわたしについて来たいと思うなら,その人は自分を否認し,自分の刑柱を取り上げて,絶えずわたしに従いなさい」。では,この場合,自分を否認するとは何を意味していますか。それは確かに,もはや自分自身に対する自分の所有権を主張しないという意味です。その場合,わたしたちは,自分自身に対する所有権をだれかほかの者に譲り,もしくは引き渡し,わたしたちに対するその者の所有権を認め,承認するのです。わたしたちはだれのものでもなくなってしまうというのでは決してありません。では,わたしたちは自分を否認して,杭をにない,イエス・キリストに絶えず従う者となる以上,だれがわたしたちの所有者となるのでしょうか。イエスは疑いもなくご自分を否認しました。ということは,イエスはご自身に対するエホバの所有権と,みずからはエホバの奴隷であることとを認め,承認しました。では,このことと一致して,イエスの追随者になるためにわたしたちが自分自身を否認するとき,わたしたちは自分自身に対する所有権をエホバに譲り,または引き渡し,みずからはキリストのように,エホバの奴隷になるのです。わたしたちはもはや自分自身のものではないのです。

      39 (イ)では,そうした選択をする人たちには何が要求されますか。(ロ)それはどのようにして象徴されますか。しかし,それはどんな告白を行なったのちに初めてなされるものですか。

      39 では,そうした選択をするわたしたちには何が要求されますか。み子イエス・キリストにならって,エホバの意志を行なうため,エホバ神に無条件で献身することが要求されます。エホバの意志は,わたしたちがイエス・キリストの忠実な弟子になることです。またそれは,わたしたちが,イエス・キリストを神によって任命された「主」と宣言し,告白し,承認することです。こうしてイエスは,わたしたちに命令し,わたしたちに務めを割り当てる権威を持った,わたしたちの主人となるのです。もちろん,エホバ神に対するこうした献身は,わたしたちが悔い改めて神に転向したのちになされます。わたしたちは,神の主要な代理者イエス・キリストを通してエホバ神に献身することによって,転向後の生き方をその真の目標に合致させるのです。わたしたちは今やこうした献身を水の浸礼によって象徴します。そうすることは神の意志であり,その意志を行なうためにこそわたしたちは神に献身したのです。水のバプテスマに先だって,わたしたちは自分の口で救いのために公の宣言もしくは告白を行なわなければなりません。それは自分の心の中で信じている事がらのあからさまな表現としてそうするのです。そうすることによって初めて,わたしたちはキリストを通して神から備えられている永遠の救いの道にはいるのです。

  • 水のバプテスマと救いとの関係
    ものみの塔 1973 | 2月15日
    • 水のバプテスマと救いとの関係

      1 (イ)ペテロ前書 3章20,21節は,八人の人間の魂を守って大洪水を生き残らせたことと,クリスチャンのバプテスマとをどのように結びつけていますか。(ロ)バプテスマとその水とはどのように明確に異なっていますか。

      水のバプテスマと救いとの関係については,使徒ペテロがその第一の手紙の3章で注解しています。イエスが霊においてよみがえらされ,獄にある霊たちに宣べ伝えたことについて語ったのち,ペテロはさらにこう述べています。『ノアの時代に方舟の備えらるるあいだ,寛容をもて神の待ち給えるとき……その方舟に入り水を経て救われし者は,わずかにしてただ八人なりき。その水にかたどれるバプテスマは肉の汚れを除くにあらず,[正しい]良心の神に対する要求にして,イエス・キリストの復活によりて今なんじらを救う』。(ペテロ前 3:20,21〔新〕。改訂標準訳; アメリカ訳; モファット訳)水が人を救うのではありません。バプテスマとはバプテスマの水のことではありません。バプテスマとは,水中に浸されることによって水の中を通ることです。バプテスマとは一つの行為であり,水のことを言うのではありません。

      2 (イ)ヘブル書 11章7節は,大洪水のさいノアに救いをもたらしたものについてどのように述べていますか。(ロ)大洪水の前にノアは神とともに歩んでいたにもかかわらず,ノアは救いを得るために,どんな重大な処置を講じなければなりませんでしたか。

      2 ノアは大洪水によって救われたのではありません。彼がどのようにして救われたかについて,ヘブル書 11章7節がこう述べています。『信仰によりてノアは,いまだ見ざる事につきて御告げをこうむり,かしこみてその家の者を救わんために方舟を造り,かつこれによりて世の罪を定め,また信仰による義の世嗣となれり』。その洪水の前でさえ,『ノアは義人にしてその世の完全き者なりき ノア神とともに歩めり』とあります。(創世 6:9)しかし,ノアが重大な決定を下さねばならない時も到来しました。それは,ノアの世代のうちに臨む事がらについて神がノアに警告し,巨大な箱船を建造するよう命じた時のことでした。その命令を実行するには,ノアの側の信仰と従順が求められました。今や問題は,ノアは神の意志を行なうだろうかということでした。ノアは自分の生がいにおけるこの最大の仕事をすることに決めました。それで彼は,神の意志を行なうことを約束し,そうすることに一身をささげたのです。その結果,ノアとその家の者たちは救われました。彼らはその箱船にはいって救われたのです。―ヘブル書 10:7-9と比べてください。

      3 (イ)それで,命を救うものとなったその箱船は,ノアとその家族に関しては何を象徴するものとなりましたか。(ロ)それら八人の魂は,自分たちの信仰ゆえに従順に従ったため,自分自身の内に何を得ましたか。

      3 それで,その箱船は,神の意志を行なうためにノアが献身したこと,および信仰と従順をもって神の意志を行なったことの象徴となりました。ノアと他の7人の人間の魂を救ったのは,神の意志を行なうためになされた献身の具体的で有形の実際的表現であったその箱船でした。大洪水の水が救ったのではありません。それは箱船の外にいた者たちに死をもたらしました。箱船にはいったノアとその家の者たちは,水の中を通って救われたのです。箱船に関して神の意志を行なうために献身し,ついでその箱船を建造することにより,ノアは神に対する正しい良心を得ました。ノアの家の者たちもノアとともに同様に行ないました。箱船を建造する時までに得ていた義それ自体はそれだけでは彼らを大洪水から救うものではありませんでした。ノアとその家の者が箱船にはいるまで住んでいた家は滅びました。

      4 モーセの律法契約のもとにあったユダヤ人の例が示すように,正しい良心とは,わたしたちが神に願い求めなければならないものです。それはなぜですか。

      4 これに対応する事がらが,バプテスマを受けてイエス・キリストの弟子となる人々の場合にも起こります。神に対する正しい良心は,わたしたちが生まれつき備えているもの,もしくは自分の定めた条件に基づいて自分自身の独善的なわざによってもたらされるものではありません。ユダヤ人は,ユダヤ国民と結ばれたモーセの律法契約の中で命じられているわざを行なう点で完全を目ざして努力することによってエホバ神に対する正しい良心を得ようとしましたが,彼らは失敗しました。毎年の贖いの日(チリス10日)ごとに,彼らは神に対する正しい良心を取り戻すため,イスラエルの大祭司を通してなだめの犠牲をささげてもらわねばならなかったのはそのためでした。したがって,正しい良心とは,わたしたちがエホバ神に願い求めなければならないものなのです。

      5 (イ)わたしたちはどうすれば正しい良心を神に願い求め,またそれを得られますか。(ロ)その時まで,わたしたちはだれの好むところを行なっていましたか。

      5 バプテスマに関係している事がらについて述べるさい,ペテロが次のように告げたのはそのためです。『肉の汚れを除くにあらず,[正しい]良心の神に対する要求(なり)』(ペテロ前 3:21〔新〕)では,どのようにしてその正しい良心を神に願い求めるのですか。それは,水の中を通る前に,ノアのように献身することによってです。ノアのように,わたしたちはエホバの意志を行なうためエホバ神に献身し,それ以後エホバの意志を行なってゆくのです。そして,これはイエス・キリストを仲介者とするエホバの新しい契約に関係することを意味していますから,シナイ山のふもとに集まったイスラエルの民がモーセの律法契約に入れられる前に,次のように語って行なったと同様のことをわたしたちもしなければなりません。こうしるされています。『エホバの言いたまいしところは皆われらこれをなすべし』。(出エジプト 19:8; 24:7,8)そうする時まで,わたしたちは『異邦人の好むところを』おこない,『人の欲に従って』生きていましたが,今やわたしたちは,「神の〔意志〕」に従って生きるために献身するのです。(ペテロ前 4:1-3,19〔新〕)その結果,わたしたちは正しい良心を得ることになるのです。自分は神の意志を行なっているのだということを知るとき,わたしたちは正しい良心を享受するからです。

      6 今わたしたちは単に不完全な仕方で神の意志を行なえるにすぎないので,正しい良心を保持するには,わたしたちのために何を適用してもらう必要がありますか。

      6 もちろんわたしたちは,単に不完全な仕方で神の意志を行なえるにすぎません。そのゆえにこそ,わたしたちは,神の大祭司によってわたしたちのために適用され,わたしたちを罪と不完全さの汚れから清める,イエス・キリストの贖いの血を必要としているのです。ヘブル書 9章14節が問いかけているとおりです。『まして,永遠の御霊によりきずなくしておのれを神に献げたまいしキリストの血は,我らの良心を死にたる行ないより潔めて活ける神に事えしめざらんや』。

      7 (イ)では,ペテロ前書 3章21節のことばづかいによれば,キリストを通してなされるわたしたちの献身は,実際には何を表わすものですか。(ロ)この正しい良心を保つには,わたしたちは何に絶えず頼る必要がありますか。

      7 ですから,神の意志を行なうために神に献身するのは,確かに『〔正しい〕良心の神に対する要求』ということができます。正しい良心は,『死んだわざ』である,自分自身の独善的なわざを行なうことによってもたらされるのではなくて,神の定めたわざ,また神の意志を行なうことによってもたらされるものなのです。それを行なうためにこそわたしたちは神に献身するのです。その正しい良心を最初に受けたのち,それを保つためには,わたしたちは対型的な大いなる贖いの日のなだめの犠牲としてのイエス・キリストの流された血の恩恵に絶えず頼ってゆかなければなりません。ヘブル書 9章22節がわたしたちに思い起こさせるとおり,「もし血を流すことなくば赦さるること」はありません。このゆえに,キリストを通してゆるされたわたしたちは,「もはや罪の意識を持たない」のです。―ヘブル 10:1,2,新。

      8 (イ)わたしたちが悔い改め,転向し,献身するゆえに,神はわたしたちのために何を適用してくださいますか。それはわたしたちにどんな結果をもたらしますか。(ロ)それで,わたしたちの水のバプテスマは何を象徴するものであるといえますか。(ハ)単に水のバプテスマを受けただけで救われるかどうかについては,どんな聖句がその答えを示していますか。

      8 ですから,わたしたちがキリストを通して神に献身することは,『〔正しい〕良心の神に対する要求』となります。それはどうしてですか。不完全で罪深い状態にあるわたしたちは,そのままでは神に受け入れられないからです。それで,わたしたちが罪を悔い改めて身を転じ,あるいは転向し,キリストを通して神に献身するので,エホバは,清める効力を持つキリストの贖いの犠牲の血をわたしたちに適用し,それによって罪の定めからわたしたちを解放し,神に対する正しい良心をわたしたちに与えてくださるのです。そのようなわけで,わたしたちの水のバプテスマ,つまり従順にバプテスマの水の中を通ることは,イエス・キリストを通してなされるエホバ神への献身の象徴であると言えるでしょう。ノアは箱船を建造して神の意志を行なうということに従順に同意したので,自分自身とその家の者を救うことになりました。それで,神の意志を行なうために神に献身し,ついで神の意志を忠実に遂行していくなら,それは『今わたしたちを救う』ものとなるのです。この点でわたしたちは,救われるためにエホバのみ名を呼び求めています。(ヘブル 13:15,改訂標準訳)また,わたしたちは,救われるために主イエスを信じてイエスに頼っています。(使行 4:12)わたしたちは,救われるために自分の口で,「イエスは主である」と公に告白あるいは宣言し,また心の中で,「神は彼を死人の中からよみがえらせてくださった」と信じています。

      9 こうした積極的な段階を踏んだ人は,その人の『正しい良心の神に対する要求』に関して,後になって何と言うことはできませんか。

      9 ですから,悔い改め,転向,献身などの積極的な段階を踏む人はだれひとりとして,後になって,わたしの『〔正しい〕良心の神に対する要求は全然かなえられなかった,神はわたしに正しい良心を決して与えてくださらなかった,だからわたしの献身は無意味だし,わたしは今それに拘束されてはいないなどと言えるものではありません。

      10 (イ)救われるために,わたしたちは何を受けなければなりませんか。(ロ)このようなバプテスマが今も『イエス・キリストの復活によって』わたしたちを救うものとなっているのはなぜですか。

      10 したがって,今わたしたちは,もし救われたいと思うなら,イエス・キリストにならい,またその命令に従順に従って,水のバプテスマを受けなければならないということを認識できます。(マタイ 28:19,20)したがって,ペテロ前書 3章21節のことば,すなわち『その水にかたどれるバプテスマは……イエス・キリストの復活によりて今なんじらを救う』ということばほど明瞭なものはありません。わたしたちは自分の心で,神はイエスを死人の中からよみがえらせてくださったことを信じなければなりません。復活したイエス・キリストはわたしたちの救いにとってなくてはならないかたです。わたしたちに罪の許しを得させ,またその結果として正しい良心を得させるために注ぎ出されたイエスの命の血の価値を天で神にささげ,神の大祭司として行動できるのは,ほかならぬ復活した,神のみ子だけだからです。わたしたちの要求に答え応じて神がわたしたちに正しい良心を与えてくださるさいに,イエスはなくてはならないかたなのです。―ペテロ前 3:22。

      わたしたちのメシヤなる指導者

      11 小羊の血で自分たちの衣を洗う結果,『大いなる群衆』には何がもたらされますか。彼らが神のこの小羊を歓呼して迎えるべき,どんなもっともな理由がありますか。

      11 あらゆる国民・部族・民族・言語の中から今日集め出されている『大いなる群衆』さえ,小羊イエス・キリストの血で自分たちの衣を洗って白くし,そうすることによって,神に対する正しい良心を得るのです。そういうわけですから,それらの人々が神の御座の前に立って,しゅろの枝を振りながら,『救いは御座に座したもう我らの神と小羊とにこそあれ』と大声で叫んでいるのももっともなことです。(黙示 7:9-14)こうして彼らは,神の支配権を行使するエホバの主要な代理者を歓呼して迎えています。そして,自分たちの牧者また指導者としてのそのかたに従うのです。

      12 地上では,神の支配権を行使する主要な代理者にだれが従わなければなりませんか。そうすることは,そのような人々にとって何を意味しますか。

      12 献身してバプテスマを受け,神の支配権を行使するその主要な代理者の弟子になる人々はみな,この代理者に従わなければなりません。そうするためには,「信仰の〔主要な代理者また完成者〕なるイエスを仰ぎ見る」ことが必要です。(ヘブル 12:1,2〔新〕)わたしたちが愛をこめてそうするなら,わたしたちは永遠の救いにあずかり,偉大な神聖な支配者エホバ神に永遠の賛美をもたらすことになるでしょう。

  • 読者からの質問
    ものみの塔 1973 | 2月15日
    • 読者からの質問

      ● 申命記 22章5節にしるされていることからすれば,女性がスラックスをはくのは正しいことですか。―アメリカの一読者より

      申命記 22章5節にはこうしるされています。『女は男の衣服をまとうべからず また男は女の衣裳を著べからず すべてかくするものは汝の神エホバこれを憎みたまうなり』。この聖句は衣服のスタイルのことを述べているのではありません。ここでは,特に異性のためにデザインされた物を身に着けることが禁じられているのです。

      性別は神によって設けられたものであり,申命記 22章5節にしるされている律法はその区別を保つためのものでした。容姿服装のことになると,男性は男らしく,女性は女らしくしたいというのがふつうです。何がふさわしいかに対するこのような心の奥深くにある感覚に反する行為をするイスラエル人は同性愛に陥るおそれがありした。ですから,申命記 22章5節に述べられている律法は同性愛行為を非とするものでもあります。

      この律法が与えられた当時は男女とも,すそまでたれる長い外衣を身につけていました。しかし,男性の服装と女性のそれとにははっきりとした違いがありました。今日でも同様に,世界には,男女ともズボンをはいている所がありますが,女性用のズボンは男性用のそれとは異なっています。したがって,申命記 22章5節で教えられている原則は,女性がスラックスを着用することを禁ずるものではありません。

      そればかりでなく,クリスチャンはモーセの律法の下にはいません。(ロマ 6:14)ですから,この律法を文字どおりに適用することを主張するのはクリスチャンの教えに反します。したがって,婦人が家事や畑仕事をする時に夫の古いズボンをはいたとしても,性の混同や性の誤用を防ぐという,問題の律法の明白な目的に反することにはなりません。

      クリスチャンはモーセの律法下にはおらず,その原則を導きとするのですから,分別つまり良い判断を利かせ,良心を働かせなければなりません。クリスチャンの女性であれば,スラックスを着用するのがふさわしいかどうかは自分の好みとは別の要素によって決まることを知っています。また他の人をつまずかせたり,クリスチャン会衆に非難をもたらしたりすることを望みません。家庭や職場といった私的な場所で着てもおかしく見えない衣服が,クリスチャンの集会や神のみことばを公にふれ告げたり他の公的な活動に携わる場合に着用するとふさわしくないことがあります。また,見方も地域によって異なります。聖書は婦人に対してこう助言しています。『慎みて宜しきに合う衣にて己を飾り,…善き業をもて飾とせんことを。これ神を敬はんと公言する女に適える事なり』。―テモテ前 2:9,10。

      ● エホバの証人のわざを統轄する長老たちに対して,なぜ「統治体」という語を用いるのですか。―アメリカの一読者より

      「統治体」というような語は聖書の中には出ていません。しかしながら,西暦一世紀のクリスチャン会衆内で,指導的立場に立って奉仕する長老たちの一団が確かに存在していたことを示す十分の証拠があります。

      パウロは仲間のクリスチャンに,『あなたがたの間で指導の任に当(っている)人たちのことを思い起こしなさい。…あなたがたの間で指導の任に当っている人たちに従順で,素直でありなさい』とさとしました。この部分は別の翻訳によると,『汝らを導きし者ども』を思い起こし,従いなさい,と訳されています。(欽定訳,脚注; マードックのシリヤ訳; ロザハム訳)王国行間逐語訳(英文)は,「あなたがたを統治している[ギリシア語,ヘゴウメノン]人たちを念頭に置きなさい」と訳しています。―ヘブル 13:7,17,24,新。

      この同じギリシア語の変形が,マタイ伝 2章6節,ルカ伝 22章26節,使徒行伝 7章10節,15章22節に出ていますが,その意味はいずれも同様で,統治する,長として

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