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命と血の神聖さを認識するものみの塔 1978 | 9月15日
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いる」となっています。ところが幾つかの現代訳はこれを「キリストの死」に代えています。このことは大きな相違をきたすでしょうか。
17 原語のギリシャ語では,エフェソス 1章7節に「血」を意味する「ハイマ」という語が使われています。ではなぜ幾つかの翻訳はこの語をここや他の箇所で「死」と訳しているのでしょうか。それらの翻訳者たちは,「血」のことを述べているある聖句の中では,死もしくはある人間を殺害した責任を暗示するものと解釈しました。(ルカ 11:50,51。使徒 5:28。啓示 6:10)一例をあげると,ピラトはイエスの処刑を叫び求めるユダヤ人たちの前で手を洗って見せ,それから「わたしはこの人の血について潔白である」と宣言しました。ユダヤ人は,「彼の血はわたしたちとわたしたちの子どもとにふりかかってもよい」と答えました。(マタイ 27:24,25。啓示 7:14と比較してください)しかし幾つかの翻訳はこれらの節を,「わたしはこの人の死に対して責任がない」,そして「彼の死に対する罰はわたしたちとわたしたちの子供の上にふりかかればよい」と変えて訳出しています。(現代英語新約聖書)イエスの犠牲が関係している節の中で「死」が「血」に取って代わると,どんな影響があるでしょうか。神がわたしたちに伝えようとされた何かが伝わらないことにでもなるのでしょうか。
18 キリストの死はどうして重要ですか。(コリント第一 11:26。ヘブライ 2:14)
18 聖書がイエスの死を強調していることは否定できません。パウロはこう書いています。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。また「キリストが聖書にしたがってわたしたちの罪のために死んでくださった,ということです」とも書いています。(ローマ 5:8。コリント第一 15:3)イエスが死なれ,ご自身の完全な人間の命を進んでお与えになったことは,アダムが失ったためにわたしたちが持てなくなったものを返済すなわち清算しました。アダムがそれを失ったことからわたしたちは罪深い状態になりました。
19,20 キリストの血への言及には,イエスの死だけを論ずる以上のどんな事柄が含まれていますか。(ヘブライ 4:14-16)
19 しかし,「キリストの血」に対する聖書の言及は,キリストの死だけを語るのでは理解できないであろう重要な事柄をわたしたちに伝えるはずです。(エフェソス 2:13)キリストはただ死んでそのままの状態にとどまったのではありません。またとどまることはできませんでした。b エホバがもうけられた贖罪の日の型の成就として,そのときイエスは天に入り,神のみ前に出なければなりませんでした。ちょうど贖罪の日に大祭司が犠牲の血を携えて至聖所に入ったと同じように,キリストはそこでご自身の命の血の価値もしくは功績を差し出すことができました。パウロはこの相似をはっきりと述べています。「キリストは,実体の写しである,手で作った聖なる所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです」― ヘブライ 9:24,11,12; 13:11。
20 そのうえにイエス・キリストは天で生きておられ,ご自身の贖いに信仰を働かす者すべてのためにとりなしをし,彼らが救いに向かうよう助けることができます。したがってパウロは次のように書きました。「わたしたちが敵であった時にみ子を通して和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです」― ローマ 5:10。
21,22 「キリストの血」という表現には,わたしたちの命がどのように関係していますか。
21 ですから,「歴史の中の宗教と現在における宗教」という著書は,十分の理由があって,次のように述べているのです。ほとんどの場合,「死をもってキリストの血に代えることはできない。キリストの血には死以上の意味がある。それはイエスの死と,復活し高められたことにおけるイエスの命および勝利との間の密接な関連を強調するものである」。同書はさらにこうつけ加えています。「キリストの血」という表現は
「旧約聖書のユダヤ人が有した,血の贖罪力の概念を採用している。この概念は,犠牲に対する見方,また義人の死は贖う力を持つという考えの基礎をなす。……この語は一方では,われわれが高い代価によって買われたこと,その贖い代を払った者のこと,そしてそれが何であったかをわれわれに思い起こさせる。他方では,彼の血を介して結ばれた契約に対する信仰により,罪と死から永遠に解放されている,ということを思い起こさせる。キリストの血は彼の死および復活の影響を包含する」。c
22 ですから,イエスの血について述べている聖書の多くの章句はわたしたちにとってなんと意義深く,なんと喜ばしい意味に満ちているのでしょう。イエスの血によってわたしたちの罪は許されるのです。(啓示 1:5。ヘブライ 10:29)むなしい行状から救い出されることは可能なのです。(ペテロ第一 1:18,19)わたしたちは,神が是認し導いておられる人々の会衆の中にいることができるのです。(使徒 20:28)そしてその血で買い取った人々を結合させる王国の支配下で完全になり,永遠の命を得る希望があるのです。―啓示 5:9,10; 12:10,11。コロサイ 1:20。
23 血に対するわたしたちの見方は,どんなものでなければなりませんか。
23 ですから自分の命の価値を高く評価する人はみな,神が血について言われることを感謝する必要があります。神は血を神聖なものと見ておられます。神は血の唯一の有用な用途を定め,祭壇の上に置く犠牲として受け入れ得るものとされました。そして神は,将来に対するわたしたちの永続的希望がすべて,み子の犠牲の血にかかっていることを,み言葉の中で明確に示しておられます。しかし,わたしたちはどうすれば血の神聖さを理解し認めていることを個人的に示すことができますか。これは次の記事で取り上げられる重要な問題です。
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命と血に関する固い決意ものみの塔 1978 | 9月15日
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命と血に関する固い決意
1,2 血に関する質問は,時々どのようにして表面に出ますか。
「判事,輸血を許可」。アメリカのバージニア州で最近ある新聞にこのような見出しが載りました。その記事は次のように書き出されていました。
「連邦裁判所判事は木曜日,ポーツマス海軍病院に対し,命を危険にさらすことは覚悟のうえと申し立てて四日にわたり輸血を拒んでいた重病の婦人に,輸血を施すことを許可した……」。
2 この種の記事は時々現われて,命と血の価値に多くの注意を向けます。前述の件がどんな結果になったかを調べる前に,次の基本的な質問を考えてみることにしましょう。どんな強い信念からこの婦人のような人々は輸血を拒否するのでしょうか。神の言葉は本当にこれをすべてのクリスチャンに要求しているのでしょうか。もし要求しているとすれば,医師から輸血が必要だと言われた場合に,わたしたちの宗教的信念はどれほど固いものでしょうか。また,医療における血の使用以外にも,わたしたちの命と血に対する見方が重要なかかわりを持ち,それがわたしたちの将来にさえ影響を及ぼし得る面がまだあるのでしょうか。
血から来る命
3 啓示 7章14節に基づくどんな理由から,わたしたちは血を大いに尊重しますか。
3 啓示の書は,今日多数の人が抱いている血に対する感謝について説明しています。使徒ヨハネは,将来メシア王国の相続者となる14万4,000人の幻を見たのち,『すべての国民の中から来た大群衆』を見ました。彼らは,回復される地上のパラダイスで永遠に生きる見込みのある人々です。それにしても人間はどのようにして永遠に,しかも
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