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  • 世界平和 ― 誰によつて?
    ものみの塔 1955 | 2月15日
    • このことが行われた後に,世界平和が来ます。それは,地上の全家族のあいだの平和,人間と動物のあいだの平和,人間と神とのあいだの平和です。そして,それはどの位の期間ですか? 詩篇を書いた人は,『たゞしき者はさかえ,平和は月のうするまで豊かならん。』と答えています。(詩 72:7)それで,再び質問いたします。世界平和 ― 誰によつて? 神によつて,神の仕方によるのであり,しかも間もない中です。

  • 泰国からの報告
    ものみの塔 1955 | 2月15日
    • 泰国からの報告

      ある一青年はバンコックの宣教者と共に研究を始め,燃えるような熱心さを示しましたが,友達の殆んどは彼を見捨てて,仏教に対する反逆者だと非難したにもかかわらず,そうし続けました。もう一人の友達は ― この人はカトリックでしたが ― この青年が御国会館に出席するのを思い止めようと工作していました。『それなら,何故私をあなたの教会に連れていつてくれないのですか?』と仏教徒が尋ねました。「仏教徒を改宗する」というこの機会に,カトリックのこの信者は応えましたか? いいえ。その代りにやがて,聞いた新しい知識に感動されて,伝道を始め,遂には自分の友達をも御国会館へ来るように納得させました。今でも二人とも規則正しい出席者となつて,円熟へと邁進しています。その一人は彼の始めての研究生の話をしました。以前カトリック信者であつたものは,聖書の教えについて,以前の仏教徒よりも,もつともつと学ばなければならないと感じています! ―1955年のエホバの証者の年鑑より。

  • 神聖なる我らの戦
    ものみの塔 1955 | 2月15日
    • 神聖なる我らの戦

      『あなた方の神であるヱホバは,あなた方を救い,敵をあなた方にわたすために,あなた方の陣営の中を歩かれておられる。故に,その陣営を聖いものにしなければならない。それは,あなた方の中に汚れたものをヱホバが見ず,またあなた方に伴うのを止められないためである』― 申命 23:14,新世。

      1 ヱホバの証者にとつては,それはどんな種類の戦でしたか? どの位の期間でしたか? なぜ彼らはそれを止めませんか?

      戦をしている者がいるとすれば,それはヱホバの証者です。(イザヤ 10:10-12; 44:8)いままでの6000年のあいだ,肉の争いに加わる人の戦で紛乱がなく,殺された者の血で赤く染められなかつた世紀は,まずまず殆どありません。しかし,最高の神の証者たちにとつては,この60世紀すべてを通してそれは絶えず行われる戦,一生涯の争,毎日の闘いであつて,彼らがそのために戦われる方からは,休暇も与えられず,媾和もなけれは,休戦条約もありません。彼らは天からの助けを得て,いまにいたるまで耐え忍ぶことができました。それで,ヱホバの証者は今日でも活動しており,戦は続いて行われています。その戦は不敬虔な世にあつて,神聖な戦であり,聖なる争である故に,彼らは戦を止めません。

      2 この世の諸国民は,自分たちの戦争をどのように聖なるものに見せようとしましたか? そしてなぜ?

      2 今日にいたるまで,この世の戦は,この世の論争を暴力と血によつて荒々しく解決することでした。人間は,努めていつも,この世の戦争を宗教化しようとしてきました。それは,そのようにして人間は,その暴力行為を正当化しようとし,その争に参加している者にその良心の呵責を感じさせず,むしろその戦に自分の身を差し出すことは自分の神に対する義務と感じさせ,また戦争の残酷さに荒々しく加わることにより,その将来は恵まれた,幸いなものと感じさせるためです。人間がいつもしてきたことは,戦争の責任を神に押しつけ,その戦争は神の御旨であると言い,戦士は神と神の大義に仕えているのだと教えます。この世の諸国民のあいだでは,戦争は聖なるものとされ,神聖な義務にされています。

      3 ギリシャ人,ローマ人,ペリシテ人,バビロン人のような異邦人のあいだで,戦争が神聖な業と考えられた事実について,何が証明を与えていますか?

      3 戦争は神聖な業と考えられた事実を証明するものとして,昔の諸国民はおのおの軍神を持つていました。戦を好んだギリシヤ人は,その神アレスを持ち,ローマ人はその神マルスを持ち,また神殿はこれらの神々に奉献されていました。ペリシテ人がイスラエル人をうち敗つて,サウル王とその3人の子を殺したとき『サウルを剥ぎてその首とその鎧甲を取り,ペリシテの国の四方に人を遣してこのことをその偶像と民に告げしめ,しかしてかれが鎧甲をその神の室に蔵め,彼が首をダゴンの宮に釘づけたり』(歴代志略上 10:9,10)異邦の国民は,その勝利を自分たちの神々に帰して,戦勝品を神殿に持参したばかりでなく,軍事行動を始める前に,その神々や神祕な力に助言を求め,指導と指示をあおぎました。キリスト以前の第7世紀後期に,バビロンの皇帝ネブカデネザルは選択をしなければならぬ事態と直面しました。彼はパレスチナの道の分岐点にいて,一つの道は南東のラバというアンモン人の都に通じ,他の道は,南西のエルサレムに通じていました。その選択を決めるために,彼は人間よりも高いものに願いを立てました。『バビロンの王その道のはじまりその途の岐処に止りて,占卜をなし,箭を揺りテラピムに問い肝を察べおるなり。彼の右にエルサレムという占卜いづ,云く破城槌を備え口をひらきて喊き殺し,声をあげて吶喊をつくり,門にむかいて破城槌を備え,塁をきづき雲梯を建つべしと。』(エゼキエル 21:20-22)ネブカデネザルは,このように導かれて自分の意志からではない決定をつくり,確信をもつてエルサレムにむかつて進軍して行きました。そして,彼は自分の神マルダクの御旨を行つており,成功するものと確信していました。エルサレムはキリスト前607年の夏に亡びましたが,それはマルダクによるのではなく,実際には不忠実な都の棄てた神ヱホバが,すでにそれより40年も昔に,その都の亡びを判決されていたからでした。―エルミヤ 1:1-3,13-16。

      4 これと一致して,戦士たちはどのように準備をいたしましたか? おのおのの神に対して,どのように振舞いましたか?

      4 異邦人の国の戦士たちは,自分たちの目の見るところで,その戦を聖なるものと考え,それに一致して,軍事行動をすることに潔めをうけました。彼らは,おのおのの神の名によつて出陣し,神に誓いをかけ,戦勝を神に祈願し,軍隊の旗や軍旗は聖なるものと考え,全く神聖視されて崇拝すらしました。

      5 ブリタニカ百科辞典によると,昔と今のこの世の諸国民の軍旗に,どのように神聖さがつけられましたか?

      5 ブリタニカ百科辞典は,次のように言つています。『エジプトの軍隊の数分隊は,それぞれ独自の軍旗を持つていたようである。これらの軍旗は,人の心に恐れと献身の感情とを連想させるような物体でつくられていたと信ぜられる。聖なる動物,舟,表象または形,王の名を持つ牌札,扇子,翼の形をした象徴は,軍旗として棒の上にかかげられ,それをになう仕事は特別な特権であり,名誉のことと見なされた。それとどこか類似しているものは,アツシリア人の習慣のようである。……ペルシヤ人はその長槍の端に鷲をつけて運び,その神である太陽も軍旗の上に表わされていた。彼らの軍旗は,ある種の織物でつくられたもののようであり,軍隊の中の一番勇敢な者たちは必死に守り防いだものである。……軍旗の形は,後になつて非常に変化した。ある時は,槍の端に交叉した木片がつけられ,その上に銀でつくられた手の形がのせられていた。下の方は丸いか楕円形の円盤であつて,マルスかミネバの形がつけられていた。あるいは後には,皇帝か著名な将軍の肖像がついていた。……ローマ人の軍旗は,ローマの神殿で,宗教的畏敬をもつて守られた。しかして,その旗に対するローマ人の畏敬は,戦争に勝ち進み,他国民よりも優越になるにつれて,進んで行つた。将軍が命令を発し,軍旗を敵の隊伍に投げいれさせることは,よくあることであつた。それは,兵士たちにとつて,おそらく地の中で一番神聖なものを取り返させようと鼓舞し,その突撃をさかんにするためであつた。ローマの兵士は,その旗に誓つた。(ローマ人により,エルサレムが西暦70年に2度目の亡びをうけたとき,ローマ人は,ヱホバ神に捧げられていた宮の庭にその軍旗をたづさえ,勝利の冠するその軍旗を偶像として崇拝した。)……初期の国旗は,ほとんど全く宗教的な性質のものであつた。……実際のところ,宗教の助けは,国旗に潔めを与えるものとして願い求められたものである。それに多くの国旗の起源は,聖なる幟から来ている。その著しいものに,フランスの王室旗<オリフラム>やデンマークの国旗<ダネブログ>がある。……ウイリアム征服王の幟は,法王から送られたものである。』― 第10巻,第11版(1910年)454,455頁。

      6 そのような宗教的な感情が今日の国旗にまでも持ちこされているということを,アメリカナ百科辞典はどのように示していますか?

      6 そのような宗教的な感情が,このいまにいたるまで持ちこされていることは,アメリカナ百科辞典の副見出し『国旗に対する尊敬あるいは敬礼』の述べているところからも証明されます。その言葉は,こう述べています。『国旗は,十字架と同じく聖なるものである。多くの人は「国旗の儀礼」という言葉あるいは術語を用いている。この言い方は弱すぎて,皮相のものであり,客間の丁重さという匂いがする。国旗に対する人間の態度に関する規則や規定は,強い力ある言葉を用いる。例えば,「国旗に仕える」「国旗を重んずる」「国旗に敬礼」「国旗に身を捧げる」「国旗によつて振舞う」……忠誠の誓を国旗に捧げたのは,昔のことである。……(1942年版,第2巻316頁)初期のクリスチヤンたちが,拒絶してローマ皇帝の軍隊に加わらなかつたのは,他の理由もありましたが,しかしその軍隊が偶像崇拝と結びついていたためでもありました。

      7 聖なる見せかけを着せるにもかかわらず,諸国民はその侵略戦争について何をしましたか? エレミヤ,イザヤ,そしてヨエルはこの事実をどのように示していますか?

      7 異邦人の国民は,このように戦争に聖なる見せかけを着せたにもかかわらず,実際にこの暴力の形式を潔めました。異邦人の国民が侵略戦争を準備したことについて,聖書はこの言い方を適切に用いています。ここに,亡びの運命となつたバビロンの都に対するヱホバ御自身の予言の言葉があります。バビロンは,ノアの時の世界的大洪水の後にニムロデの支配をうけて軍事侵略が始まつたところでした。『国々の民を潔めて,之を攻め,アララテ,ミンニ,アシケナズの国々を招きて之を攻め軍長をたてて之を攻め,恐ろしき蝗のごとくに,馬をすゝめよ。国々の民,メデヤ人の王たち,その方伯たちとその督宰たちおよびそのすべての領地の人を潔めて,之を攻めよ,……バビロンを攻めるヱホバの御旨は立ち,バビロンの地を荒れ果てさせて,人なきところにし給うべければなり。』(エレミヤ 51:27-29,ア標,欄外)バビロンを攻める戦争のために,予備的な宗教儀式をうけて潔められることにより,兵士たちは聖別された,神用に供せられる,または潔められた者と語られました。ヱホバは,予言者イザヤを通して次のように言われています『バビロンにかゝる重負……われすでにきよめ別ちたるものに命じ,わが丈夫ほこらかにいさめる者をよびて,わが怒をもらさしむ。山におおくの人の声きこゆ,大いなる民あるがごとし! もろもろの国人のよりつどいて喧めく声きこゆ。これ万軍のヱホバたゝかいの軍兵を召したまうなり。』(イザヤ 13:1-4)ハルマゲドンの宇宙戦争のさいに,ヱホバと地上にある新しい世の社会に攻めかかる現在のすべての国民に挑戦して,ヱホバは再びこの特別な言葉を用いてこう言われます『もろもろの国に宣つたえよ,戦を潔め,勇士をはげまし,軍人をことごとくちかより来らしめよ。』(ヨエル 3:9,ア標,欄外)ヱホバに反対する戦争の潔めは,『この世の神』つまり『この世の組織制度の神』である悪魔サタンから来ます。(コリント後 4:4,新世)それですから,それは悪い大義に対して潔めることです。この邪悪な反ヱホバの運動に宗教の助けを願い求めても,その成功は保証されず,勝利の栄冠を受けることはありません。

      神権的戦争の真の潔め

      8 誰だけが行を聖なる義務にすることができますか? イスラエルの王サウロは,これは又戦にも適用するとどのように知りましたか?

      8 生ける真の神,『その御名がヱホバである』方のみが,ある行を潔め,それを聖なる義務あるいは特権とすることのできる唯一人のお方です。(詩 83:18。レビ記 20:8; 21:8,15,23)ヱホバがある行為の権威を与えるだけ,または命ずることだけでも,そのものを聖なるものとするのであつて,その指示に背いて違反してはなりません。このことは,戦争についても真ですか? そうです。イスラエルの国民の最初の人間の王サウロは,敵のアマレク人を亡ぼせとヱホバから命ぜられていながらも,自分自身の利己的な理由のためにその神の命令をことごとくなしとげなかつたときに,聖なる職務を瀆しておりました。王サウロの不従順は,実際には反逆であつて,僭越にも自分勝手な行をしたものでした。あたかも,この世の偽りの神々に仕え,占いとか,ある気味の悪い力や,偶像でもつて,その奉仕に自分自身を潔めたようでした。予言者サムエルは王サウロにこう言いました。それ,従う事は犠牲にまさり,聴くことは牡羊の脂にまさるなり。そは,逆くことは魔術の罪のごとく,さからうことは虚しき物につかうる如く偶像につかうるがごとし。汝ヱホバの言葉を棄てたるにより,ヱホバもまた汝をすてゝ,王たらざしめ給う。』(サムエル前 15:1-23)ヱホバは,御自身の裁きの刑執行に用いなかつたこの世の国民あるいは異邦人の国民の戦を潔めたことは一度もありません。バビロンの設立者であり,『力ある猟夫』あるいは人間を餌食にした軍事謀略者ニムロデは,神の本の中で『ヱホバに反対する力ある猟夫』と烙印されています。それですから,ニムロデはその侵略的な軍事の狩猟をして,ヱホバ神から潔められたことは決してありません。またニムロデに真似る者たちも潔めをうけません。―創世 10:8-11,新世。ヨセハス著『ユダヤ人の古代事物記』第1巻,第4章,第2節。またエルサレム,タルグム。

      9 ヱホバは平和主義者であると聖書は述べていますか? 又は別の風に述べていますか? ヱホバの民が戦うよう権威づけられている戦争は,どんな種類のものですか?

      9 ヱホバは平和主義者ではありません。御自身の御旨にしたがい,彼と彼の民に反対して戦う敵に対しては,正義の戦争をいたしました。ヱホバが戦に敗れたことはありません。彼の戦は,聖なるもので義しいものだからです。エジプトの大軍隊を紅海で溺れ死にさせて,勝利を得られた後に,ヱホバは予言者モーセを霊感して,『ヱホバは軍人なり。ヱホバはその御名なり。』と歌わせました。(出エジプト 15:3,新世)彼は宇宙の神政者,あるいは神権者である故に,彼の戦争またはその民に権威を与えて行わせる戦争は,神権的な戦争です。その戦争は,真実に潔められており,聖なるものです。

      10 それでモーセの時代には,どんな本が存在していましたか? その本は,おそらくどんな出来事とともに始まりましたか? なぜそうですか?

      10 キリスト以前の15世紀であるモーセの時に,『ヱホバの戦争の本』と呼ばれるものがすでにありました。(民数紀略 21:14,新世)この本は,その家族共々に甥のロトをとりこにした4人の連合侵略王に対してなされたアブラハムの戦争で始まつていることでしよう。神がアブラハムに命じて,追跡をさせ,これらの囚われ人を取り戻させたとは言われていませんが,318人の奴隷と3人の同盟者でもつて,敵の大軍に打ち克つたアブラハムの勝利は,ただ神の与えたものでしよう。ヱホバの王なる祭司メルキゼデクはそうであると言いました。アブラハムがそれらの王たちを撃ち破つて,戻るときに,メルキゼデクは彼を祝福し,こう言いました『天地の造り主,最高の神のアブラハムに祝福あれ。敵をあなたの手に付した最高の神に称誉あれ。』(創世 14:17-20,新世。ヘブル 7:1-10)アブラハムのした戦争は,神権的なものでした。4人の侵略王たちの戦争は,おのおのの異教の宗教儀式で潔められていましたが,神権的なものではなかつたのです。メルキゼデクは,その友アブラハムのために戦かつた最高の神ヱホバの代表者でした。それでメルキゼデクに,アブラハムが彼にその戦利品の10分の1を捧げたのは,全く適当なことだつたのです。

      11 どの民によつて,神権的な戦は特別に著しく目立ちましたか? それは何時頃からでしたか? これについて,どんな昔の表現ができましたか?

      11 アブラハムの曾孫にあたるイスラエルの12支族の場合に,神権的な戦は特に著しく目立つてきました。ヱホバは,その友アブラハムの子孫たちをエジプトの圧制から解放するために,ただにパロとその当時の優秀な戦具に対して戦つただけではなく,神々に対しても戦つたのです。つまり,エジプト人たちの崇拝していた悪鬼の神々に対して戦つたのです。ヱホバはこう言われました。『私はエジプトのすべての神々に裁きをなそう。私はヱホバである。』キリスト前1513年の最初の過越しの夜に,亡びをもたらすヱホバの御使は,神々に捧げられていた長子をみな殺しましたが,その後になつてパロは敗北を認め,そしてイスラエル人は出てゆきました。このことについて,聖書には次のように書かれています。『エジプト人は,その間ヱホバのお撃ちになつて殺した者たちつまりすべての長子を埋葬していた。ヱホバは彼らの神々に裁きを行われた。』(出エジプト 12:12。民数紀略 33:4,新世)その選民が約束の地に行く途中に荒野を通つたその40年の旅行のあいだ,ヱホバは彼らのために戦いました。彼らを導いて約束の地に入れた後,そして救助者としてヱホバの起てられた裁き人の時代のあいだ,またイスラエルとユダの国の時のあいだ,ただ真の神だけが,その聖なる民のために戦いました。それで『イスラエルのために戦われたのはヱホバであつた。』という昔の表現が生じたのです。―ヨシユア 10:14,42; 23:3,10,新世。出エジプト 14:14。申命 1:30。ネヘミヤ 4:20。

      12 (イ)そのような戦に参加することは,なぜ正しいことですか? それに関連して,罪とは何ですか?(ロ)ヱホバはそのような戦をどのように支持しましたか?

      12 最高の神のすべての活動は義である故に,御自分の民のためにすべての戦を戦われても,それは全く正しいことでありました。御自身の敵やその民の敵を打ち負かして,亡ぼしたのは,死罪に相当する敵に裁きを執行されたことでありました。神は,御自分の民がこの処罰された罪人を亡ぼすのに参加するようにと命じまた。彼らの戦を神権的なものとして,彼らを刑執行者として用いられました。神の御意と命令に従つてなされたために,そのような戦に参加することは罪でもなく,また道徳的にも悪いものではありません。サウロ王の場合のように,罪とは命令を果さず,神を悦ばせないことにあります。エレミヤ記 48章10節にこう書かれています。『ヱホバの業を行うて怠る者は詛われ,又その剣をおさえて血を流さざる者は詛わる。』ヱホバは,その選民が世界侵略の途をとり始めて,世界勢力を確立させるという権威を与えられなかつたのです。しかし,ヱホバは彼らに命じて,彼らに与えるとお約束になつた土地の不道徳な,悪鬼崇拝の異邦人たちを亡ぼし一掃させたのです。彼らがこの神権的な戦の命令を従順に果したあいだ,ヱホバは彼らのために多くの奇蹟をなされました。彼らの戦いのときに,ヱホバは彼らを後押ししました。

      13 どんな軍事的な理由のために,イスラエル人はいろいろな面でくるしみましたか? その戦に従順に参加した人は,どのように恵まれた人でしたか?

      13 イスラエル人は,肉体的にも,宗教的にも,霊的にも,また国家的にも,苦しみをうけました。というのは,不純な悪鬼崇拝者たちがその地から全く清められ,神の御意がなし行われる時までに彼らは愛の心からの勇気ある従順に不足していて,この神権的な戦をしなかつたからです。従順に従つて,その戦に参加したイスラエル人は,ヱホバの軍に戦うと言われました。王サウロが巨人を殺したダビデに次のように言つたとき,それはたんなる諂の言葉ではなく,実際の真実であつたのです。『汝たゞわがために勇み,ヱホバの軍に戦うべし。』(サムエル前 18:17)カルメルの邑の女アビガルは,良く理解していたために,同じダビデに次のように言いました。『ヱホバ必らずわが主のために堅き家を立て給わん。こはわが主ヱホバの軍に戦うによる。』(サムエル前 25:28)ヱホバの軍人になることは,高い名誉と尊敬であつて,ヱホバはそれぞれの神権的な軍人とともに居ります。神の祝福は,その者の上にあります。今日でも,ヱホバのクリスチヤン軍人がおります。彼らは,ある点から見ると,イスラエル人のヱホバの軍人よりも大きな勇気を示します。これらヱホバのクリスチヤン証者たちは,イスラエルの戦士たちがしたような肉の殺人武器を用いたり,頼つたりしないからです。それに,『全能の神の大いなる日の戦』であるハルマゲドンの戦のときであつてさえも,彼らはそのような暴力の武器を用いて頼つたり,また私営の軍事小隊をつくることがないからです。ヱホバのクリスチヤン軍人についてなぜそうなのですか? しらべてみましよう。

      潔められた戦士

      14 その戦が聖なる故に,それに従事する人は,どのようにそれに備えましたか? ダビデとアヒメレクのあいだのどんな言葉のやりとりは,この問題について関係を持ちますか?

      14 神権的な戦は聖なるものであり,その戦に従事する特権を持つ者たちは,その戦の神聖なる故に潔められます。神聖なる奉仕として,潔められた状態でその戦に近づき,従事しなければなりません。このことは,ヱホバ神の聖なる櫃のうつされていたノブの邑で,大祭司アヒメレクとダビデとのあいだに取り交わされた会話からも明白に分ります。ヱホバの祝福が,その軍人であるこの若者に注がれたため,王サウロはダビデにねたみを感じました。ダビデは,遂に死をまぬかれるために,已むを得ず逃げ,サウロの手の届かないところに去りました。道すがら忠実な若者たちに伴われて,彼は空復を感じ,無武装でノブに来ました。ダビデは,自分のためにも,またある場所に残した若者たちのためにも食物を欲しました。彼は大祭司アヒメレクにこう言いました。『「いま何か汝の手にあるや。わが手に五のパンか,あるいはなににてもあるところを与えよ」。祭司ダビデに答えていいけるは,「常のパンはわが手になし。されど,もし少者女より遠ざかりてありしならば聖きパンあるなり」と。ダビデ祭司に対えて言いけるは,「実にわが出陣の時の常のごとく,女われらより遠ざかり,常の旅なれど少者の器は潔し。ましてや,彼らの器は今日いかばかりに潔きぞや?」 祭司かれに聖きパンを与えたり。そはかしこに供前のパンの外はパンなかりければなり。すなわち,そのパンは下げる日に熱きパンをさゝげんとてこれをヱホバのまえより取されるなり。』― サムエル前 21:1-6,改定訳。

      15 それについて神聖さを考慮すべきであると,イエスはどのように示しましたか?

      15 主イエスは,この歴史的な出来事を証明して,次のように言つたときに,ここに神聖ということを考慮すべきであると示しました。『ダビデと彼の従者が空腹になつたとき,ダビデが何をしたか,読んだことがないのか? ダビデは神の家に入り,祭司のほかには自分も従者も食べてはならない供えのパンを食べたのである。』(マタイ 12:3,4,新世)この理由のために,アヒメレクは最初に,ダビデとその若者は少くとも1日のあいだ女から離れていたかと尋ね,ダビデはそれに肯定の答えをしたのです。しかし,ここでは,神聖ということはどのように含まれ関係していましたか? 出陣するということについてのダビデの答えには何が意味されていましたか?

      16 ダビデと従者たちが女と交接していたならば,なぜ供えのパンを食べる資格を失うことになりますか? ダビデは,軍事遠征と比較することにより,その清いことをなぜ強調しましたか?

      16 女から遠ざかつているということは,妻あるいは妻妾との性交から遠ざかるということでした。普通の時では,そのような正当な交接をしても悪いことではなく,資格を失うことではなかつたのです。しかし,ある事態,または奉仕が儀式上の清めを要求したときには,イスラエル人とその妻とのあいだの交接は,止められました。なぜ? なぜならば,そのような交接の後には儀式上男もその妻も両方とも次の日の夕方まで汚れていたからでした。モーセを通してイスラエル人に与えられた神権的な律法の中に,こう書かれていました。『人もし精の洩ることあらば,その全身を水にあらうべし。その身は晩まで汚るるなり。すべて精のつきたる衣服皮革などは皆水に洗うべし。是は晩まで汚るるなり。男もし女と寝ねて精を洩さば,二人ともに水に身をそそぐべし。その身は晩まで汚るるなり。』(レビ 15:16-18)それで,ダビデと彼の従者がその日に性交をしていたならば,まだ使われていない聖なる供えのパンをいただく資格はなく,食べることはできなかつたでしよう。王に仕える常の旅であると,ダビデは言いましましたが,それでも自分と従者たちは『出陣』する,つまり軍事の遠征に出かけているのと同じく,妻や妻妾たちと性交を行わず,儀式上から見て清いものであると言いました。軍事の遠征または戦争に出かけるには,その『器』つまり体の機構を儀式的に清めて,潔めをうける必要がありました。軍隊の上に神の祝福が注がれ,ヱホバの戦をする者たちに勝利が与えられるためには,戦の神権的な性質からしてこの種の潔めが必要でありました。それは聖なる奉仕でした。

      17 イスラエルの陣営は,どのように清く保つべきでしたか? そしてなぜ?

      17 儀式上,道徳上,そして肉体の上からも清めを保つことは,神権的の戦に従事したイスラエルの陣営に要求せられていました。イスラエル人に与えられたヱホバの律法は,次のように述べていました。『あなた方が陣営に入り,敵を攻める時は,あらゆる悪いことから遠ざからねばならない。あなた方の中に夜中に,起る汚れのために万一にも清くない人がいるならば,その者は陣営を出ねばならず,陣営の内に入ることはできない。夕暮に水で洗い,日没の後に陣営に入ることができる。陣営の外に目立たぬ場所を設けて用い,あなた方はそこに行かねばならない。器具と共に小鍬を備えて用い,陣営の外で便をする時は,それで穴を掘り,土を返して排泄物を覆わねばならない。あなた方の神であるヱホバは,あなた方を救い,敵をあなた方にわたすために,あなた方の陣営の中を歩かれておられる。故に,その陣営を聖いものにしなければならない。それはあなた方の中に汚れたものをヱホバが見ず,またあなた方に伴うのを止められないためである。』(申命 23:9-14,新世)ヱホバの御使いで代表される神の臨在が,明白に軍隊にともない,最終の勝利にと導くのであるならば,その陣営は神権的な標準にしたがい是非とも清さを保つべきでありました。

      18 異邦人たちは,陣営の中やまた征服したときに,これとはどのように異つていましたか? このちがいは,ダビデ王の戦士,ヘテ人ウリヤによつてどのように説明されましたか?

      18 それで,ヱホバの神権的な民の陣営は,異邦人の軍隊の陣営とは違つていました。異邦人の戦士たちが女に耽けるために,女を伴つて行くのが常でした。またあるところを占領すると,兵士たちは勝手気儘に婦人をつかまえ暴行を加えました。(イザヤ 13:16。エレミヤ哀歌 5:11。ゼカリヤ 14:2)今日でも,それと似たものがあります。軍営の後を売春婦たちがくつついて廻り,士官たちは近くに売春の場所を故意に設けて兵士たちの性欲を満足させるというようなことを読んだり聞いたりいたします。イスラエルの神権的な陣営の中では,このことは禁じられていました。彼らの行つていた戦争は,神権的なものであるために,聖なるものであり,戦士たちに潔めが要求されたからです。それで,たとえその妻や妻妾と行うものにせよ,女との性交は禁ぜられており,また彼らは自分から進んで,禁欲いたしました。この理由から,善意を持つていたヘテ人ウリヤは,ダビデ王の命令で戦場から召されたときに,エルサレムの自分の家に夜行かず,妻と一緒にならなかつたのです。ダビデ王は,戦役についての聖なる要求を無視して,ウリアになぜその夜自分の家に帰らなかつたのかと尋ねたとき,その忠義の兵は神権的にもこう答えました。『櫃とイスラエルとユダは小屋の中に住まり我が主ヨアブと我が主の僕は野の表に陣を取るに我いかでわが家にゆきて食い飲みし,また妻と寝べけんや。汝は生く,また汝の魂は活く。我この事をなさじ。』(サムエル後 11:6-11)ウリヤは,戦のために潔めを保ちたく欲しました。それで,その当座のあいだは,妻なきもののようでした。このことは,使徒パウロがクリスチヤンに語つたことを思い起させます。『兄弟よ,私はさらにこう言う。残る時はちぢまつている。それで,妻を持つ者は,あたかも妻の無いもののように。』(コリント前 7:29,新世)神権的な義務は,時折りにクリスチヤンを妻の側から召しますが,彼は答え応じなければなりません。

      19 イスラエルの軍隊の神聖のために,捕えた娘で妻に欲する者たちについては,どんな手順が必要でしたか? 娘に婚約していた男は,なぜにまたどのように軍務から解除されましたか?

      19 ある場所を攻略して,その男と処女ではない女を殺せとイスラエル人に命ぜられた場合に,彼らは自由勝手に生き残された娘を犯すことはできなかつたのです。そうすることは,淫行,不道徳をすることになり,軍隊を瀆します。イスラエル人が捕虜にした娘を欲しても,捕虜にしたとき直ぐその娘と関係をすることはできません。彼は次のように述べている律法に従い,神権的な戦のために身の潔めを保たねばなりません。『汝出でて汝の敵と戦うにあたり,汝の神ヱホバこれを汝の手にわたしたまいて汝これを俘虜となしたる時,なんじもしその俘虜の中に貌美しき女あるを見てこれを悦び取りて妻となさんとせば,汝の家の中にこれを携えゆくべし。而して彼はその髪を剃り,爪を切り,また俘虜の衣服を脱すてて汝の家に居り,その父母のために一月のあいだ哀哭べし。然る後なんぢ彼の処に入りてこれが夫となり,これを汝の妻とすべし。』(申命 21:10-13,新世)戦役が終り,その戦の潔めが全うされるまで,神の是認をうけてのこの性交は行われなかつたのです。軍隊に召された者が娘に婚約していたならば,1年のあいだ軍務をゆるされて,家に帰ることができ,その許嫁と結婚し,子供を持つことができました。それは,子孫を持つて自分の名を生き存らえさせ,子供を持たずに戦で殺されることのないためです。―申命 20:7; 24:5。

      20 陣営にとつて,儀式上または道徳上の汚れより,何がもつと重要なものでしたか?

      20 勝利の神ヱホバを立証することが危急存亡に瀕していました。神の目から見て非難の打ちどころがないように,またヱホバの絶えざる祝福によつて勝利を得るのにふさわしいように陣営を保つことの方が,儀式上や道徳上の汚れを犯し,戦役の潔めを破ることより,よりはるかに重要なものでありました。このことは今日ヱホバのクリスチヤン戦士の聖なる戦についても真であります。もちろん,モーセを通して昔のイスラエル人と結ばれたヱホバ神の律法契約は,今日のクリスチヤンには適用しません。それで,クリスチヤン戦士は,聖なる戦に加わつているからという理由で,その妻との性交を控える必要はありません。しかし,彼らの振舞は,道徳的にも霊的にも清いものでなければなりません。不道徳から遠ざかり,またこの世の一部になつて,霊的な姦淫をすることから遠ざかることは,この潔いクリスチヤンの戦に相応しくなければなりません。(ヤコブ 4:4)ヱホバの立証にあづかる彼らの立場は,危急存亡のものであり,そして清めの感化,つまり道徳的にも霊的にも清くなるという刺戟を彼らに与えます。

  • 神権的な軍隊に伴う祭司
    ものみの塔 1955 | 2月15日
    • 神権的な軍隊に伴う祭司

      1 誰がいることによつて,イスラエル人の陣営は潔められましたか? 彼らがいることは,なぜ必要でしたか?

      神権的な戦の神聖さは,神のこの奉仕をするのに,イスラエルの男の潔めを必要としました。彼らは,神の宇宙的至上権を擁護し,また偽りの神々を崇拝する者に発する神の義しい御怒りの刑執行者でありました。その故に,レビ族の祭司たちがイスラエス人の軍隊に伴うことが必要でありました。彼らがいるということは,ヱホバの軍隊に神聖を加えました。ヱホバの聖なる契約の櫃が幕屋または天幕に置かれて護られた時代に,ならわしとして櫃を軍隊の陣営に持つて行きました。櫃は,ヱホバ神がその戦闘軍勢と共にいるということを象徴したからでした。(サムエル前 4:4-6; 14:18,19。サムエル後 11:11)このためには,レビ人の祭司がどうしても陣営にいなければならなかつたのです。彼らだけにヱホバ神の櫃を持ち運ぶ権威が与えられていたからです。祭司ではないイスラエル人は,あるとき,車から櫃の落ちるのを防ごうと思い,櫃に手を触れましたが,そのために殺されました。レビ人の祭司が櫃を運んでいたならば,このことは起らなかつたことでしよう。(申命 31:9。ヨシユア 3:17; 6:4-11。サムエル前 4:4。サムエル後 6:6,7。歴代志略上 15:2-15,26)また,イスラエルの軍隊は交戦に直面すると,犠牲をヱホバ神に献げるのが通例でしたが,このためにはヱホバの予言者かレビ人の祭司のいることが必要でした。(サムエル前 7:9; 13:9)さらに,ある戦術を行う前に,神を恐れる軍事指揮官は,契約の櫃によるか,あるいは祭司の衣服,または大祭司の着ていた聖なるウリムとサミムによつてヱホバの助言を求めました。バビロンの王ネブカデネザルのような異邦人は,いろいろな形式の占いに頼りましたが,ヱホバの民は真の神であるヱホバに頼り,戦の指示を仰ぎました。(シシ記 1:1; 20:27,28。サムエル前 14:37; 23:2,6,9-14; 28:6; 30:8。サムエル後 5:19,23。エゼキエル 21:21)このためにも,ヱホバの予言者または祭司がヱホバの神権的な陣営とともにいることを必要としました。

      2 戦の前に,何の目的のために,祭司たちは先頭にいるよう直接命ぜられましたか? 彼らは武器をとつて戦うことが必要でしたか?

      2 聖地,約束の地にいたイスラエル人に次のいましめを与えたとき,ホヱバはその祭司たちが先頭に立つようにと特別に命ぜられました。『なんじその敵と戦わんとて出るに当り,馬と車を見,また汝よりも数多き民を見るもこれをおそるるなかれ。そは汝をエジプトの国より導き上りし汝の神なんじとともに在せばなり。なんじら戦に臨むときは祭司進みいで民に告げて之に言うべし。イスラエルよ,聴け,汝らは今日なんじらの敵と戦わんとて進み来れり。心に臆するなかれ,おそるるなかれ,あわつるなかれ。彼らにおづるなかれ。そは汝らの神ヱホバ汝らとともに行き,汝らのために汝らの敵と戦いて汝らを救い給うべければなりと。』(申命 20:1-4)ヱホバの直接の代表者,聖別された祭司が,戦闘の最先頭に立つて,このはげましの言葉をヱホバの戦の軍人に与えるということはもつとも適当なことでした。しかし,祭司たち自身が武器を取り,戦をすることは必要ではなかつたのです。

      3 戦の合図に,なぜ祭司たちが軍隊にいることを必要としましたか? 実際には,この戦の合図とは何でしたか?

      3 戦の会図を吹き鳴らすことのためにも,陣営の中に祭司たちのいることを必要としました。ただ祭司たちだけが戦の会図を与え敵にむかつて勝利の突撃をすることができました。モーセを通してなされたヱホバの教は次のようでした。『なんぢ銀のラッパ二本をつくれ。すなわち,槌にてうちて之をつくりこれを用いて人を呼び集め,また営を進ますべし。またなんぢらの国において汝らその已を攻むるところの敵と戦わんとて出る時は,ラッパを吹きならすべし。然せば汝らの神ヱホバ汝らを記憶て汝らをその敵の手より救いたまわん。……ラッパを吹きならすべし。しかせば汝らの神これに由て汝らを記憶たまわん。我は汝らの神ヱホバなり。』(民数紀略 10:2,8,10)この2本のラッパを用いることについての聖書の記録によつて,誰が吹きならした者であるかが分ります。それはレビ人の祭司たちでした。戦の会図を鳴らして,ラッパの音が響きわたると,全軍は活気づけられ,軍の隊伍は活動を始めました。ラッパの音は,上からの援助を求めるものでした。それは祭司の鳴らした音であるため,神に彼らとともに行動し,彼らに勝利を与えるよう注意を促したもののようでした。

      4 ミデアン人に対するイスラエルの勝利は,どんな原因によりましたか?

      4 荒野でさまよつた40年の終りに近づいて,イスラエル人は,約束の地の邑エリコの手前,ヨルダン河のこちら側のモアブの平野に来て,営を張りました。モーセは,この場所から1万2000人の軍勢を遣して,悪鬼崇拝のミデアン人と戦わせました。聖書の記録は,こう述べています,『モーセすなわち各の支派より千人づつを戦争に遣し,また祭司エレアザルの子ピネハスに聖き器と吹き鳴らすラッパをとらしめて之とともに戦争に遣わせり。彼らヱホバのモーセに命じたまえるごとくミデアン人を攻め撃つ。』(民数紀略 31:1-7; 22:1)ヱホバにむかつてなされたラッパの響は,勝利をもつて答えられました。

      5 軍事的などんな不利の状態で,ユダのアビヤ王はイスラエルのヤラベアム王と向き合いましたか? しかしアビヤにはどんな大切な附加の援助がありましたか?

      5 ヱホバの敵に対してなされたその神権的な戦争から幾世紀も後に,約束の地にいたイスラエルの12支族の国は二つの国に分けられました。つまり,ユダの国とイスラエルの国でした。あるときは両方の王の軍隊は戦場で向い合いました。ユダの国の王アビヤは,神に忠実を保ち,40万の軍勢をもつて,その2倍にあたるイスラエルの王ヤラベアムの下の偶像崇拝者たち80万と敵対いたしました。しかし,ユダのアビヤ王は,40万人の戦士以上のものを持つていましたが,彼は敵勢にむかつて次のように訴えたとき,その非常に大切な附加の援助について述べました。『されど,われらにおいてはヱホバ我らの神にましまして我らはこれを棄てず,またヱホバに事うる祭司はアロンの子孫にして,役事をなす者はレビ人なり。……視よ,神みづから我らと共にいまして我らの大将となりたもう。またその祭司どもはラッパを吹きならして汝らを攻む。イスラエルの子孫よ,汝らの先祖の神ヱホバに敵して戦うなかれ。汝ら利あらざるければなりと。』

      6 生じたところの危険な状態にあつて,アビヤ王の軍勢はヱホバにより頼んでいたことをどのように示しましたか? そしてヱホバはどのようにそれを立証しましたか?

      6 この訴えの言葉は,敵には役立ちませんでした。戦が始まると,アビヤ王の軍隊は伏兵をうけていて,状勢は危険でした。しかし,神の助けは,ラッパに答えて来ました。聖書の記録は,こう述べています。『ユダ後を顧みるに敵前後にありければ,ヱホバにむかいて呼ばわり,祭司どもラッパを吹けり。ユダの人々すなわち吶喊を挙げけるがユダの人々吶喊を挙ぐるにあたりて神ヤラベアムとイスラエルの人々をアビヤとユダの前に打ち敗り給いしかば,イスラエルの子孫は,ユダの前より逃げ走れり,神かく彼らを之が手に付したまう。』それでは,なぜこの聖なる勝利が来ましたか? 聖書の記録の中で,ヱホバはこのように答えています。『このときには,イスラエルの子孫打ち負され,ユダの子孫勝を得たり。是は彼らその先祖の神ヱホバを頼みしが故なり。』祭司が聖なる銀のラッパを吹き鳴らしたことは,ヱホバにより頼んでいるという記念,覚えとして響き渡りました。ヱホバに確信を持つ一致した吶喊,ハレルヤ!は,その戦士たちの口から轟き出ました。ユダの軍勢は,神の勇気に皷吹され前と後ろの敵に突撃しました。そして,ヱホバは勝利を与え,彼らのより頼んだということを立証いたしました!。―歴代志略下 13:3,10-18。

      7 エルサレムが,モアブ人,アンモン人そしてセイル山の人の軍隊で危険になつたとき,ヱホバは誰を用いてその音信を述べられましたか? それは何と述べましたか?

      7 神権的な戦の神聖さということと,また軍勢に関連してヱホバはどのようにその献身したレビ人の支派を用いられたかを示す別の例証は,国の非常危急の時に起りました。悪鬼崇拝者たちの連合軍勢,つまりモアブ人,アンモン人,そしてセイル山の人々は,ユダの荒野を通つて攻め寄せ,エルサレムの聖都を攻撃しようとしていました。王ヨシヤパテは,国中に断食を布告し,すべての民をエルサレムの宮に集めました。王ヨシヤパテはすべての男,女,子供たちにおごそかな気持ちで訴え,ヱホバに祈りを捧げました。そのとき,ヱホバは,危機に臨むに際し,慰めと指示を与える御自身の代弁者を選ばれました。聖なる人,レビ人の歌い手ヤハジエルが選ばれ,ヱホバは聖霊を注ぎ,彼を感動してこう言わせました。『ヱホバかく汝らに言いたもう。この大衆のために懼るるなかれ,おののくなかれ。汝らの戦にあらず,ヱホバの戦なればなり,なんぢら明日彼らのところに攻めくだれ。……この戦には汝ら戦うにおよばず。ユダおよびエルサレムよ,なんぢらただ進みいでて立ち,汝らとともに在すヱホバの救を見よ。おそるるなかれ,おののくなかれ。明日彼らの所に攻めいでよ。ヱホバ汝らと共に在せばなりと。』

      8 彼らがこの状況に会う神聖さはどのように示されましたか? 神聖さに強調が置かれたことは,なぜ間違つてはいませんでしたか?

      8 翌朝,彼らはこの言葉に従つて,都の防壁から出て,殺倒する敵と会しようと進軍しました。しかし,どのように? 祭司たちの手に持つ2本の銀のラッパはたずさえて行かず音を吹きならすことはなかつたのです。吶喊をあげてモアブ人,アンモン人,そしてセイル山の民に突撃することはなかつたのです。彼らは,この戦闘に戦う必要がなかつたのです。それは聖なる戦でした。それは彼らの戦ではなく,神の戦でした。彼らが出かけて行つたときに,軍勢の総指揮官である王ヨシヤパテは申命記 20章5-9節に従い,立ちて,進軍する者たちをいましめ,こう言いました。『なんぢらの神ヱホバを信ぜよ。さらば,汝らかたくあらん。その予言者(ヤハジエルのような)を信ぜよ。然らば汝ら利あらん。』と同時に,彼らのヱホバへの信仰と確信を強めるために,ヨシヤパテ王はヤハジエルとその仲間のレビ人の歌い手に聖き衣をつけさせ,行進する軍勢の最先頭に置きました。ラッパの音にひきつづく吶喊をあげる代りに,これら聖なるレビ人たちは『ヱホバに感謝せよ。その恩恵は世々かぎりなし。』と歌を歌いながら進軍して行きました。ヨシヤパテ王と軍勢は,次位の地位をしめて従つて行きました。戦争の神聖さに,この強調を置いたことは,間違つてはいなかつたのです。聖書には,こう書かれています『その歌を歌い,讃美をなし始めるに当りて,ヱホバ伏兵を設け,かのユダに攻め来れるアンモン,モアブ,セイル山の子孫をなやまし給いければ彼ら打ち敗られたり。すなわち,アンモンとモアブの子孫起ちてセイル山の民にむかい,ことごとくこれを殺して滅ぼししが,セイルの民を殺しつくすに及びて彼らもまた力をいだしてたがいに滅しあえり。』荒野のものみの塔に来たとき神権的な行列は,行われたところの殺戮を見ました。

      9 彼らはどのようにヱホバの勝利を祝いましたか? ヱホバの勝利によつて,昔の世は何を知りましたか?

      9 彼らのすることは,ただ死体から戦利品を取ることだけでした。このことを3日間して後に,彼らはベラカの谷に集まり,ヱホバを崇め,それから聖なる音楽を奏して彼らはエルサレムとその宮によろこんで戻つて来ました。『そはヱホバ彼らをしてその敵の故によりてよろこびを得させたまいたればなり。』不敬虔な侵略者に対するヱホバの聖戦の結果は何でしたか? 聖書の記録は,こう答えています。『諸々の国の民ヱホバがイスラエルの敵を攻め撃ちたまいしことを聞きて神を畏れたり。』(歴代志略下 20:1-29)昔の世は,ヱホバが平和主義者ではなくして戦をする方であると知りました。しかも戦つていつも勝たれる方であり,私たちは彼を恐れるべきであります。神に反対して戦う者は災いです。彼らは敗け戦をしています! しかし,ヱホバの戦争を戦うものは,そうではありません。これらの者たちとは,クリスチャンの神権的な戦に全く自らを捧げる者たちです。彼らはただこの戦のためだけに潔めをうけています。なぜならば,その戦は聖いものであり,宇宙の聖者によつて権威を与えられ,また彼によつて支持され,勝利を必らず得るからです。

  • クリスチャン戦士
    ものみの塔 1955 | 2月15日
    • クリスチャン戦士

      1 今日のクリスチャンの戦は,なぜ聖なるものですか? 武器の使用方法について,どんな質問が起りますか?

      クリスチャン時代より以前の,忠実な証者たちが戦つた戦争は神権的なものであつて,また万軍のヱホバの御名により,ヱホバの御指示と御命令に従つて戦つたために聖なるものでありました。同様に今日でもヱホバの証者である真のクリスチャンの戦争は,神権的であるために,同じく神聖で聖いものであります。勇ましい昔のヱホバの証者は,死をもたらす物質の武器を用いて多くの場合に戦いました。今日のヱホバの証者も同様に,殺伐な物質の武器を用いて戦うことができますか? ヱホバはそれに答えをあたえられ,私たちの良心を訓される方であります。

      2 クリスチャンは,全歴史上でなぜ一番大きな戦をしていますか? いまはなぜ『悪しき日』ですか?

      2 昔に,ヱホバの忠実な証者たちは,結集した敵の大軍としばしば戦いました。しかし,ヱホバのクリスチャン証者たちはいま,歴史上最大の戦をしているのです。ヱホバのために戦つた昔の証者たちに敵対した敵は人間であつて,彼らは人の手でつくられた武具で武装しました。現在のヱホバのクリスチャン証者たちは,超人間の敵と対抗し,組み打ちしているのです。それは人間の目には見えない敵ですが,しかし敵であることには変りなく,その戦は実際のものです。それで,その戦は,私たちが常に警戒を払い,絶えず用心をし,また永久に続く戦争であつて,一生の戦です。その戦に休暇は許されず,休戦もなく,また講和もありません。その戦には,私たちは,勇気を持ち,戦闘態勢にいるために,神よりの訓しをいつも受ける必要があります。その戦は,『悪しき日』と呼ばれる時に一番激しくひどくなります。それについては,もはや疑問はありません。その『悪しき日』はいま現在なのです。なぜならば,悪魔サタンとその目に見えない悪鬼たちは天から地に追い落されており,そしてまた『悪鬼の支配者』は,いままでのうちで一番大きな戦争,すなわちハルマゲドンの宇宙戦争までに,自分の持つている時は短いと知つて,大きな怒りをいだいているからです。―黙示 12:7-13,17; 16:14-16。マタイ 12:24,新世。

      3 それでは,クリスチャンに,なぜ違つた戦の装具が必要ですかそれは誰から来ますか?

      3 その理由で,この戦争は,この世の軍隊の戦争とは違うものです。この戦争の敵は,違う敵です。この世の軍隊は,自分たちがその一部であるこの世の組織制度の神のために戦います。ヱホバのクリスチャン証者は,『この世の組織制度の神』に敵対して戦います。(コリント後 4:4,新世)それで,彼らには違つた武器,戦の装具が必要となります。しかしこの世の組織制度にいる武具製造家で,一人として,そのような武具をつくり出すことはできません。彼らは,自分たちの敵を知つておりその敵と戦つて,勝つための唯一つの戦の装具を知つております。それは,あらゆるものの中で最大の戦い手,ヱホバ神からいただく戦の装具であります。ヱホバの次の御言葉は,この必要な装具を指摘し,そして敵を発いております。『最後に,主と主の大いなる御力のうちに強くなりなさい。悪魔の手立てに反抗できるために,神からの全武器を身につけなさい。私たちの戦は血肉に対するものではなく,(血肉ではない)政府や,権威や,この暗い世界の支配者や,天の場所にいる悪い霊の力に対する戦である。このために,神からの全武具を取りなさい。それは,あなた方が悪しき日にあつて,反抗できるためであり,これらのことを全くした後に,固く立つためである。』― エペソ 6:10-13,新世。

      4 昔のイスラエルの武器の型にもかかわらず,どんな事実のためにクリスチャン戦争の特質は変りますか?

      4 私たちの敵は霊のもので,超自然なものであるという事実から,私たちの戦争の性質と戦の武具の性質は,全く変つてしまいます。たしかに,昔の証者たちは昔の戦争のいろいろな武器を用いて多くの場合に戦い,そして,彼らは,悪魔サタンとその超人間の軍勢,すなわち血肉よりも高く,また,より力強い悪鬼たちと神権的な戦争を行つている今日のヱホバのクリスチャン証者たちの予言的な絵,または型をつくりました。

      5 祭司とレビ人の状態は,どんなでしたか? 生来のイスラエル人全部は,誰を予表しましたか?

      5 別の事は,こうです。アロンの家族の祭司と,またレビ族の残りのすべての男は,他のイスラエル人のしたこの世的な仕事の義務から免除されていました。このことについて,モーセに与えられた大神権者の御命令は,明白なものでした。『ただし,レビの支派のみは,汝これを核数うべからず,またその総数をイスラエルの子孫とともに計うべからざるなり。なんぢレビ人をして律法の幕屋とその諸の器具とそれに属する諸の物を管理らしむべし。彼らは,その幕屋とその者の諸の器物を搬ぶことを為し,またこれが役事を為し,幕屋の四囲にその営を張るべし。』イスラエルの敵に対する神権的な活動のために,他のイスラエル人を登記することについての記録は,次のように述べています。『イスラエルの子孫のその父祖の家にしたがいて核数られし者は,是のごとし。諸営の軍旅すなわち,その核数られし者は,合わせて六十万三千五百五十人なりき。但し,レビ人はイスラエルの子孫とともに計えらるること無かりき。すなわち,ヱホバのモーセに命じたまえる如し。』(民数紀略 1:1-50; 2:32,33)それで,幕屋または宮で聖なる奉仕をしていた人々,すなわち祭司を含めて,レビ族の人々はこの一般の人の登記と責務から免除をうけました。生来のイスラエル人の全部,つまり登記した人とレビ人,また同国民の支族の残れる者全部は,イエス・キリストを首とする霊的イスラエル,すなわち唯一つで真実のクリスチャン会衆を予表しました。しかし,この予表の中でも,今日次のような違いがあります。

      6,7 (イ)しかし,その予表の中では,使徒ペテロの述べるようにどんな大きな違いがありますか?(ロ)結果として,彼ら全部は何からまた誰によつて,免除されておりますか?

      6 霊的イスラエルの中には,一般登記者,祭司,レビ人,そして登記されない他の人というように,成員の分割はありません。岩なるイエス・キリストの上にたてられた唯一つの真の教会,霊的イスラエルは,その全部が祭司であり,神の聖なる奉仕をするようみな神により聖別された者たちです。(マタイ 16:18)使徒ペテロは,神の御霊で潔められたクリスチャンたちに呼びかけ,次のように言つた時,その事実を証明して,論議の余地を全くなくしたのです。『主は人によつて,たしかに棄てられたが,しかし神の選ばれた貴い生ける石である。この主のみもとに来て,あなた方も生ける石となり,聖い祭司職のために,霊の家につくりあげられ,イエス・キリストを通して神の御心にかなう霊の犠牲をささげなさい。……あなた方は選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別に神に属する民である。それは,あなた方を暗やみから召して驚くべき光に入れてくださつた方の大いなる誉をひろく宣べ伝えるためである。あなた方は,以前には民でなかつたが,いまでは神の民である。もと恵みを示されなかつた者たちであるが,いまでは恵みを示される者たちである。』― ペテロ前 1:1,2; 2:4-10,新世。

      7 真の教会,またはクリスチャン会衆の14万4000人の成員は,祭司職であつて,各人は霊的な祭司であり,イエス・キリストは彼らの大祭司です。神に対するその聖なる奉仕や,この世に対する態度において,これら従属のクリスチャン祭司たちは大祭司に模倣いたします。(ヘブル 3:1。コリント前 11:1)彼らは霊的な家を形成して,神がその御霊によつて,その中に住むようにし,またイエスはこの霊的な宮の主な隅石であつて,彼らは,この世の間違つた使用により,冒瀆されるとか,汚されることはありません。(エペソ 2:19-22。コリント前 3:16,17。マタイ 26:51-56)ヱホバ神は,全くこの強い理由のために,彼らすべての者,つまり全教会,あるいは全会衆が,来るべきハルマゲドンの戦で肉の武器をもつて参加するのを免除しておられます。それで,これらイエス・キリストの従属の祭司たちは,ハルマゲドンで亡ぼされるこの世の一部ではないゆえに,現在の諸国民の争に固い中立を保ち,そして不公平や区別をつけずに全国民に対して一様に,その祭司の仕事を行わねばなりません。

      8 彼らが汚れたこの世の事柄と干渉するのに,誰が反対しますか? 彼の反対は,なぜに重要なものですか?

      8 大祭司イエスの下にあるクリスチャン会衆は,みな『聖なる国民』『王なる祭司』であるために,彼らが,この世の事柄に積極的に参加して,姦淫を行う如くに干渉するとき,ヱホバ神御自身がそれに反対せられます。彼の御命令はこうです。『なんじら去れよ,されよ。彼処を出でて汚れたるものに触る勿れ,その中をいでよ,ヱホバの器をになう者よ,なんぢら潔くあれ。』(イザヤ 52:11(ヱホバはこのように,クリスチャンの良心を導くために,その反対を述べられており,その反対は確定的なものです。

      9 ヱホバのクリスチャン証者は,この世の権威者によつて,なぜ悪く評価されますか? この点について,使徒パウロはどんな警告を与えていますか?

      9 ヱホバのクリスチャン証者は,キリスト教国の牧師が着る宗教的な服装を用いず,ただ普通の男女が日常用いる衣服を着ています。私たちは,普通の職業について,時間極めで,働くことすらしますが,フランスの『労働祭司』が共産主義の進出を止めるために,店々で実直に働くことが許されたことよりも前から,私たちはそうしていました。ヱホバのクリスチャン証者は,使徒パウロのように,一部の時間のあいだ実直な職業を持つて働きます。それは,使徒時代のようになつて,私たちの生活必要品を正しく,また公正に入手し,私たちの交つている会衆に経済的な負担をかけないためです。私たちは仰々しい称号をつけず,異常な宗教的な服装も着ず,また牧師のするような安易な生活をもせず,一般の他の人々と区別をつけません。それで,この世の権威者は,私たちを献身した神の祭司とは見ず,彼らの目に見えるものに従つて,私たちを見ます。彼らは,聖書の見解を持たない故に,使徒パウロの言いましたように『私たちが肉にあるものに従つて歩んでいるかのように,私たちを評価』するでしよう。そのような私たちへの悪い評価に対する警告として,霊感をうけた使徒は次のようにつけ加えています。『私たちは肉のうちにいて歩くが,しかし肉にあるものにしたがつて,戦つているのではない。私たちの戦の武器は,肉のものではなく,神により城砦をも打ちこわす程に力あるものである。私たちは神の知識に反して樹てられた数々の議論や各種の傲慢を打ちこわし,すべての思想をとりこにして,キリストに従わせるのである。そして,あなた方の服従が全くなされる時に,あらゆる不従順に対し,(死をもたらす肉の武器を用いずに)罰を加えようと用意しているのである。あなた方は,物ごとのうわべを見る。』(コリント後 10:2-7,新世)それで,私たちのうわべだけを見る人々,そして私たちが,この世の成員ではなくして,『聖なる国民』の成員であり,ヱホバ神の奉仕者で,最高の神の献身した祭司であると評価しない人々の心を匡さなければなりません。

      10 そのようなクリスチャン祭司は,どんな戦に潔められていますか? 誰が彼らを徴召しましたか? 彼らは,どのようにして,正しい種類の兵士であると示さねばなりませんか?

      10 キリストの追随者である私たちは,血肉に対して戦わず,また私たちの武器は肉のものではないと使徒は霊感をうけて,語つています。私たちは献身した祭司であつて,ハルマゲドンの戦に参加する軍事動員に従うものではありません。しかし,私たちは『全能の神の大いなる日の戦』の只中であつても,自分たちの祭司の義務を果すことにより,無害の傍観者であり,ヱホバ神とイエス・キリストの下にいる御使の大軍が,見えるものも見えないものをも含めての悪魔の制度に向つてどのように戦い,勝利を得られるかをよろこびのうちに見ることができます。その論をまとめて言うと,私たちは霊的の戦に加わつているということです。それは霊的な戦争であつて,私たちはその戦争に潔められています。私たちは,神権的な戦争で霊的な軍隊に編入されており,その指揮官は神の子イエス・キリストであります。私たちは従順と模倣を示すことにより,その方のみをよろこばせねばなりません。同じ使徒パウロは,若者テモテに手紙を書き送り,次のように述べることによつてその点を明白に示しました。『キリスト・イエスの正しい種類の兵士として,ともに悪に苦しみなさい。兵士として仕えている者は,この世の商売事に係り合わない。それは,兵士として彼を徴召した者の心にかなうためである。』(テモテ後 2:3,4,新世)私たちは,キリスト・イエスの御心にかなうよう努めねばなりません。なぜならば,キリストは私たちを神権的な軍隊に徴召し,私たちは「キリスト・イエスの兵士」であるからです。私たちは,キリストのために悪に苦しむことにより,自ら正しい種類の者であると示さなければなりません。

      11 キリストの追随者は,なぜに二人の主人の奴隷になれませんか? この世の戦を宗教的にすることは,クリンチャンの良心をどのように束縛するものですか?

      11 私たちの指揮官イエス・キリストは次のように言われました。『人は二人の主人に仕える奴隷になれない。一方を憎んで他方を愛し,一方に親しんで,他方をうとんじるからである。』(マタイ 6:24,新世)私たちはイエス・キリストの兵士として,『天の場所にいる悪い霊の勢力に反対する』聖なる戦争に参加し,そして良いたよりの光が暗やみの勢力を駆逐するために,神の御国の良いたよりを伝道し続けねばなりません。キリスト教国の指導者たちが,自分たちの戦争を宗教的なものにしようと努力し,『十字軍』とか,他の人の耳目の注意をひく他の合言葉を用いようと,ヱホバの祭司職の立場を変えるものでありません。支配者たちは,そのように戦を宗教化しようと努めることにより,宗教の設立を図つております。人々は,自分自身の宗教を選ぶか,またはヱホバの御言葉に従つて,その御言葉により自分の良心を導くか,良心の自由を持つべきですが,彼らは宗教的にそれらの人々を独裁しています。一宗教の設立と他の宗教の実践を禁ずることについて,使徒パウロとその友の使徒たちは,ユダヤの議会にむかい,『人間に従うよりは,神に従わねばならない。『と言いました。―使行 5:29,新世。

      善意者も戦に加わる

      12 生来のイスラエル人の他に,誰がイスラエル人の昔の戦争に参加しましたか? ダビデの軍勢の中には,どのような人がいましたか?

      12 昔のイスラエルの戦争に加わつた者の中には,神権的な国民の生来のイスラエル人だけではなく,また勇気のある善意者の異邦人もおりました。ダビデ王の軍隊に徴召された者の中に,ヘテ人ウリヤがいました。神の櫃と神権的な軍隊が野営していたとき,彼は,いつも潔められた状態で戦に臨み,通知のあつた際にすぐにその仕事を行い,資格を無くすことのないようにするため,家で眠るのを拒絶しました。また,アンモン人ゼレク,モアブ人イテマ,ガテ人イツタイ,ガテのペリシテ,600人の他のガテ人,またダビデ王の特別な護身兵と知られ,異邦人であつたと考えられるケレテ人やペレテ人がいました。―サムエル後 11:6-17; 23:37-39。歴代志略上 11:26,46。サムエル后 15:18,19; 8:18; 20:7,23。列王記略上 1:38,44。歴代志略上 18:17。

      13 そのようなダビデの異邦人の戦士は,誰を予表しますか? 彼らの戦は,いまなぜ霊的な戦だけなのですか?

      13 ヱホバのためのダビデの戦に参加した,これら異邦人の戦士は誰を予表しますか? 彼らは,今日あらゆる国からきた善意者を予表しています。彼らは,大祭司キリスト・イエスに従う『王なる祭司』のなかの,その残れる者とともに忠節に従う者たちです。彼らは霊的な祭司ではありませんが,霊的イスラエルの残れる者と全く同じく,この世の汚れた事柄に参加してはなりません。そうすることは,ヱホバ神によつて是認されていないのです。彼らは霊的祭司の残れる者と同じく同じ指揮官の下に従つて来ているのです。彼らの戦う戦は,ただ霊的な戦神権的な戦である故に,ハルマゲドンの戦で肉の武器を使うこともできなければ,使おうともせず,それにその戦争の暴力に加わろうとはしません。これらの者たちは,神の正しい牧者の『他の羊』であつて,『小さな群』の霊的羊とともに牧者の一つの囲に集められており,この『小さな群』の者たちと一緒に一人の牧者に従わねばなりません。(ヨハネ 10:14-16。ルカ 12:32)一つの囲いの中にいる両方の群の戦は,一つの戦であり,霊的な,神権的な,聖なる戦です。両方の群の者たちは,大いなるダビデ,正しい牧者キリスト・イエスの声に良く聴くために,この戦に対して潔められています。そして,両方の群とも牧者の足跡に忠実に従おうと,ヱホバ神に献身しております。彼らは他の指揮官には従わず,彼らを呼びかける他の声には注意を向けません。

      14 これら『他の羊』は,どの場所で神に聖なる奉仕を捧げますか? イザヤはどんな言葉を用いて,彼らがそこに来ることと,また彼らがうける教について述べていますか?

      14 全国民からくるこれら『他の羊』は,霊的な残れる者の友となり,すでに『大いなる群衆』を形づくつています。しかし,彼らは引き続き囲に来続け,ハルマゲドンの宇宙戦争が始まるまで,来続けるでしよう。その来ることを予言する予言は,彼らが神の御座の前に立ち,その宮の中で昼も夜も聖なる奉仕を神に捧げると示しています(黙示 7:9-15)善意者のこれら『他の羊』は,このことをしておりながら,同じ時にどうして,潔めをうけていない人の『肉の業』すべてに係り合うことができますか? そのようなことをしながら,しかも新しい世の神の御国の支配の下で,地的な祝福を相続することはできません。イザヤ書とミカ書の予言の示すところによると,彼らはヱホバの家に来て,ヱホバの教えられることと,またこの古い世の終りの日にヱホバは何を要求されるかを話すことになつています。このように書かれています。『すえの日に,ヱホバの家の山はもろもろの山のいただきに堅く立ち,もろもろの嶺よりもたかく挙り,すべての国は流のごとく之につかん。おおくの民ゆきて相語りいわん,いざわれらヱホバの山に登りヤコブの神の家にゆかん。神われらにその道を教え給わん。われらその路をあゆむべしと,そは法律はシオンよりいで,ヱホバの言葉はエルサレムより出べければなり。ヱホバはもろもろの国のあいだを裁き,おおくの民をせめたまわん。かくてかれらはその剣をうちかえて鋤となし,その槍をうちかえて鎌となし,国は国にむかいて剣をあげず,戦闘のことを再びまなばざるべし。』(イザヤ 2:2-4)ミカ書の予言(4:1-3)は,イザヤのその予言を二重に強調しているものです。

      15 この世がそれらの予言が成就されるのを見るのは,何時ですか? 羊の来る場所を乱す要素となぜ彼らはなりませんか?

      15 両方の予言とも,全国民の善意者である『他の羊』のヱホバの宮に来ることについて,いま現在に適用されております。それで,この世の諸国民は,いま不思議に思つています。というのは,神の宮にいるこれらの『羊』は,イザヤとミカの述べている武器を手に取らず,またもはや近代の非神権的な戦争の技術を学んでいないからです。彼らは天的牧者の害を与えぬ『羊』のように行動します。(ヨハネ 10:16。黙示 7:15-17)これらの者たちは,ヱホバの裁きと決定を学び,そしてまた天的シオンから来るヱホバの律法と御言葉は,以前のごとく彼らが『肉の業』を行うのを禁じており,それに間もなく来る新しい世で行う平和の技術をいまこそ求めねばならないと,彼らは知つています。これら『他の羊』は,望ましいものであり,全国民の中でも神にとつて,貴重なもので,彼らは神の家または宮に来て,それを栄光で充たしました。彼らはそこで神の御意を認めて従わねばなりません。ハガイ書 2章9節の予言は,その御意についてこう述べています。『この処においてわれ平康をあたえんと万軍のヱホバ言いたもう。』彼らはそれで平康を保ち,霊的の宮級である霊的祭司職のあいだを乱す要素とはなりません。この霊的な祭司職は,彼らがヱホバ神の宮で内輪同志にひどい戦を行うことも,またハルマゲドンの戦のときに,外部の者とひどく戦うことも認めず許しません。―ハガイ 2:7-9。ヤコブ 4:1-4。

      16 その故に,私たち共同の戦はどんな種類のものでなければなりませんか? この戦に加わるために,私たちはどんな命令に従わねばなりませんか?

      16 その故に,私たちの共同の戦は,霊的な戦でなければなりません。それでは私たちの両方の群は,このために命令どおりに従つて,神の与える同じ武具をつけなければなりません。『それで,かたく立ちなさい。そして,真理の帯を腰にしめ,正義の胸当てを胸につけ,平和の良いたよりの備えを足にはきなさい。あらゆることにまして,信仰の大きな楯を手に取りなさい。それでもつて,悪しき者の放つ火の矢を消すことができる。また救のかぶとをかぶり,御霊の剣,すなわち神の言葉を取りなさい。あらゆる祈と願をなし,御霊によつてどんな時でも祈り続けなさい。そのために絶えず目を覚まし,すべての聖徒のためにも祈りなさい。また,私が口を開くときに話す力が与えられ,そして良いたよりの聖なる奥義を大胆に語ることができるように,私のためにも祈つてほしい。私はこの良いたよりのために,鎖につながれた大使として働いてはいるが,良いたよりを語るべき時には,大胆に語れるように祈つてほしい。』― エペソ 6:14-20,新世。

      17 私たちは平和でありながら,どのようにこの戦に参加することができますか? 私たちは,なぜ劣つた剣を用いてはなりませんか?

      17 あなたはこの武具を身につけることにより,血肉に害を与えない地の平和な住民になることができます。と同時に,天の場所にいる悪い霊の勢力に対して神権的で霊的な戦を行うことができます。その悪い霊の勢力は,地上の騙された人間を用い,良いたよりを大胆に伝道する言論の自由を止めさせようとしております。『霊の剣』または霊的の剣は,神の御言葉であつて,何人に対しても身体上の傷害を加えることはありませんが,しかし非常な霊的の善をいたします。朝鮮戦争の一将軍は,最近に『文は武よりも強し。』と言いましたが,その武とは文字通りに剣を意味していたものです。さて,今度は,神の言葉はこの世の文よりも強いのですから,文字通りの剣よりも強いということになります。使徒パウロは,また生きている神の言葉は,『力を持ち,いかなる両刃の剣よりも鋭い』と述べました。(ヘブル 4:12,新世)それであるのに,聖にして神権的な戦に潔められている私たちは,これ以上にお互い同志にむかつて,力のない,劣れる武器を用いるべきでしようか? 私たちの共通の敵,『天の場所にいる悪しき霊の勢力』に敵対して,力ある剣,勝つた武器,霊的な剣,神の言葉を,なぜに用いないのですか? 私たちが,戦争で強いということは,神からあたえられる武器に依存するからであつて,私たちはただこれらの武器のみを使用することができます。

      18 私たちの防禦の武具につけ加えて,何が必要ですか? このことは,ユダのアサ王の場合にどのように力強く示されましたか?

      18 それにまた,祈りは私たちの戦で重要な役目を果すものであり,私たちの防禦の武具に是非つけ加えられるものであるということを見逃してはなりません。神権的な戦の醋わな時に,祈りをすることは非常に大切です。ずつと昔のこと,ユダのアサ王は祈りをして勝利を得ました。58万人の潔められた戦士で成り立つ軍隊では,エジプト人ゼラのひきいる100万人の軍隊と300の戦車には,とうてい立ち打ちできないと知り,アサは心をこめて熱心に祈りました。『ヱホバよ,力ある者を助くるも力なき者を助くるも汝においては異ることなし,我らの神ヱホバよ,我らを助けたまえ,我らは汝に倚り頼み,汝の名によりて往きてこの群衆に敵る。ヱホバよ,汝は我らの神にましませり。人をして汝に勝せたもうなかれと。』その祈りに答えて,100万人といえども,人間は神に勝つことができませんでした。次のように書かれています。『ヱホバすなわちアサの前とユダの前においてエテオピア人を撃ち敗りたまいしかば,エテオピア人逃げ走りけるに……かくて,エテオピア人は倒れて再び振うことを得ざりき。そは彼らヱホバとその軍旅に打ち敗られたればなり。』(歴代志略下 14:9-14)この記録は,後の時代の私たちの学ぶために書かれました。祈りがどのように勝利を助けるかということについて,これはなんとすばらしい説明なのでしよう! いつでも,いま祈りを捧げましよう。

      19 (イ)私たちは,ハルマゲドンの時になぜ霊的の武具を脱ぎ棄てて,肉の武器をとりませんか?(ロ)キリスト・イエスは,正しい戦のために,私たちをどのように潔めましたか? 私たちは,この戦になぜ熱心に参加しますか?

      19 私たちは神権的な武具を身につけて,ヱホバの大義の聖なる戦のために潔められ,いまの悪しき日に立つております。私たちは,ハルマゲドンの宇宙的戦争に直面しております。その戦争は,人類の経験したあらゆるもののうちで,最もひどく,最も災をもたらす戦であります。しかし,私たちはそのときの暴力に参加する必要はありません。ハルマゲドンについての昔の予言的な予表から,ヱホバの御言葉は,私たちにこう述べています。『汝らの戦にあらず,ヱホバの戦なればなり。』『かたく立ちて,ヱホバの救を見よ。ヱホバは今日,あなた方のために救をなされるであろう。……ヱホバ自ら,あなた方のために戦うであろう。』(歴代志略下 20:15。出エジプト 14:13,14,新世)これらの言葉は,ハルマゲドンの戦の時に,私たちが霊的の武具をかなぐり捨ててしまい,肉の武器をとつて,地上の人を守るためとか,あるいは反対するために,その肉の武器を用いることを禁じているものです。マゴグの主なる君ゴグが新しい世の社会に全力をかけて攻撃を加え,そして私たちを防ごうとヱホバがゴグに反撃されて,ハルマゲドンが始まるその時にいたるまで,私たちは聖なる戦の潔めを保たねばなりません。(エゼキエル 38:1より39:22)私たちの大祭司キリスト・イエスは,私たちのためにその人間としての犠牲を捧げられましたが,私たちは彼の犠牲によつて神の御前に潔められた立場を取り,霊的な戦をすることができるのです。私たちは,彼によつて神の御意を聞き,そして『信仰の戦をりつぱに戦つて勝利を得ねばならぬ』ということを学びました。(テモテ前 6:12,新世)私たち各人は,キリスト・イエスの正しい種類の兵士』であると証明せねばならないと知つています。私たちの大祭司であるイエスは,陣営の中に私たちと共におり,私たちに助言を与え,また敵を恐れず,神権的な兵士として神の御意を行いつつ前進せよと励ましております。ヱホバの栄光と立証のための私たちの戦は,聖なる戦,神聖なる義務,潔められた義務であつて,私たちのクリスチャン良心は,聖なる武具をつけてこの神権的戦に参加することに対して,全く反対しないものです。しかし,私たちは忠節な自発志願者として,この奉仕に熱心に参加するものです。詩 110:3。

      20 (イ)私たちは神権的な陣営を,どのように保つべきですか?(ロ)それでは,全能の神の大いなる日の戦争のあいだに,私たちはどのように振舞いますか? それにはどんなすばらしい結果が来ますか?

      20 私たちは聖い生活をなして,この敵の世と淫行を結ばず,そしてヱホバが私たちの中に汚らわしいものを見て,共にいることを止めないように,私たちの陣営を清く保たねばなりません。私たちは神の霊的の武具を身につけ,『天の場所にいる悪しき霊の勢力』に対して,いまやたえず,戦わねばならずそして,設立された神の御国の良いたよりを全地に伝道することにより『神の言葉である霊の剣』を勇敢に使うべきです。それで,決定的な戦が近づく時,そうです,私たちが『全能の神の大いなる日の戦争』に入る時でも,『聖なる国民』であり『王なる祭司職』である私たちは,あらゆる国から来るすべての善意者の仲間の戦士とともに,ヱホバの讃美を歌うのにふさわしいものでありましよう。そして,ヱホバは私たちに勝利を与えて下さるとの確信を強くもち,敵に対して勇敢な進撃ラッパを吹きならす者にふさわしい者でありましよう。良いたよりの伝道を助けて,私たちが戦い続ける時に,私たちは信仰を持つてお互のためと,またヱホバ神の御目的が成功するようにと熱心に祈ります。その時,私たちの神権的な戦は,全く無益なものではありません。その戦は,キリスト・イエスによる神御自身の勝利と,またその勝利にあづかる私たちに与えられる新しい正義の世の永遠の生命という飾りをつけることでしよう!(コリント前 15:57,58,新世)『汝らの戦にあらず,ヱホバの戦なり。』― 歴代志略下 20:15,ア標。

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