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潔めを保ち守るものみの塔 1954 | 7月15日
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潔めを保ち守る
『実に,神の御意とされるものはあなた方が潔くあつて,……潔めと名誉のうちに,自分自身の器をどのように保ち持つべきか,あなた方各自は知らねばならぬことである。』― テサロニケ前 4:3,4,新世。
1 神の言葉は,どのよのように貴いですか?
ヱホバの言葉は,聖書と呼ばれる本を通して私たちのところにきます。聖書は,多くの小さな本からでき上つており,それらはみな大いなる著者によつて霊感されたものです。その方は,忠実な人間の筆者を用い,そして聖書の取り扱う問題について彼の心を表し示されました。神の言葉は,試験され,試みられたものであつて,清いものです。(シンゲン 30:5)幾世紀を通して,神の言葉は守り保たれ,堕落し腐敗した組織制度の中にあつていまや清いものであり,輝いているのです。その大いなる源は,完全で,義しく,そして聖いものですから,この言葉は十分であつて不足のものはありません。それですから,この言葉に,なにかを加えることも,またへらし取ることもなりません。(申命 4:2。黙示 22:18,19,新世)次のことについては,まつたく疑いはありません。すなわち,正義とその正義が含むすべてのものを愛する人々は,神のこの聖い言葉に依存しなければなりません。なぜならば,その神の言葉の中だけに,正しいことへの導きがあるからです。神の言葉は,そんなにも清く,聖なるもので,また貴いものであり,そして各部分はそんなにも美しいので,機に適つた言葉は,銀の据えつけの中の金のリンゴにたとえられています。『機に適つて語られた言葉は,銀の絵の中の金のリンゴのようである。』『彫刻した銀の据えつけの中の金のリンゴのようなものは,機に適つて語られる言葉である。』『描かれた銀の籠の中の金の果物は,適当な折に語られる言葉である。』― シンゲン 25:11,欽定訳,ア訳,ロザハム訳。
2 神の言葉の中に,どんな真理が見出されますか? しかし,人間はどんな態度をとつていますか?
2 貴重な尊い飾りまたは器が,清い金であつても,あるいは銀であつても,もし汚れた手か不注意な手でつかまれるならば,それは非常に間違つた風に用いられ,ひつくり返され,そしてその貴重な中味は空にされてしまうでしよう。神を認めない人々は,神の真理の言葉を誤り悪く取扱い,そのようなことをしてきています。聖書に書かれてある美しくて,大切なものの中に,潔めについての真理があります。しかし,潔めについて,今日の人々,そうですいわゆる『キリスト教』の世界の人々でも,どのような理解と認識を持つているでしようか? 彼らが知つているものは,その嫌な悪い意味で神聖ぶることというものです。神聖ぶること,すなわち偽善は,古い世のすべての構造の上に安つぽい虚飾板をかぶせるものです。そして,古い組織制度のあらゆる部分の下にある腐敗を隠そうと努めますが,それは無益な試みとなつています。公共の思想界の指導者たち,特にあらゆるキリスト教国の宗教指導者たちは,聖書を誤り悪く適用し,そして彼らの不敬虔な道を正しいものにしようという許すべからざる努力をしていますので,人々は,聖書に述べられている真の潔めという認識を取り去られて失つています。カトリック,新教徒<プロテスタント>,ユダヤ教,そして他の宗教の牧師たちは,一般に大衆のわがままにこびへつらい,大衆はまた神をないがしろにするような行いをしますので,その結果,人類の価値の意味は非常に歪じ曲げられてしまいました。それで神の憎まれるそれらのことを,心から残念に思う人は,全く例外の者たちみたいになりました。(エゼキエル 9:4)しかし,そのような例外の者たち,すなわち正義を愛する正直な心の人々は,多くおります。神の名にあつて行われる偽善の神聖ぶつたことではなく,真の潔めこそ,クリスチャンたちが常に守り行う賢明な道であると,彼らは確信をもつて知ります。そのような人々をして,その大いなる著者の聖さ,その真理の言葉の聖さ,そしてその朽ちない教理の神聖さを求めさせなさい。
3 テサロニケの会衆にたいする使徒パウロの関係を述べなさい。そして,潔めについて彼らとまた私たちに対する彼のはげましを述べなさい。
3 使徒パウロが第二の伝道旅行をしていて,クリスチャンの会衆をテサロニケに設立したのは,おそらく西暦49年か50年ごろでした。テサロニケのクリスチャンたちは,その信仰のために,最初からひどい宗教的な迫害をうけました。しかし彼らが耐え忍んだことは,古い兄弟であるパウロにとつてよろこびでありました。彼は彼らに手紙を書き,その信仰について,彼らをほめ,彼らの潔めを保ち守り,彼らが始めた正義の道を続けるようにと,強調してはげましました。テサロニケ前書にありますように,パウロが彼らに手紙を書き送つたことは良いことでした。そしてもし今日のクリスチャンがそれらの手紙をうけいれるならば,パウロの同じ言葉は,いまヱホバ神を愛する者たちを助けて,その潔めを保ち守らせることができます。
4 クリスチャンの潔めの起源は何ですか?
4 クリスチャン会衆の潔めは,使徒パウロから始まつたのではありませんでした。その著者と与え主は,ヱホバ神御自身です。その子キリスト・イエスを通して,神へのこの関係は開かれ,そして役立ち用いられるようになりました。イエス自身も,潔めについて話しをされました。キリストの体,すなわち油注がれたクリスチャン会衆の成員たちにとつて,潔めはヱホバの御意であるとパウロは示しています。テサロニケにいたクリスチャンたちは,その会衆の一部でした。
5 クリスチャンにたいする神の御意について,聖書からの証拠を述べなさい。
5 一番初めに引用されている聖句の中で,『神の御意とされるものは,あなた方が潔くあること』とパウロは示しています。(テサロニケ前 4:3,新世)ヘブル書 10章で,パウロは同様なことについて,自分の意見を発表しましたが,それは,潔めはクリスチャンたちにたいするヱホバの御意であると更に示すものです。その章で,キリスト・イエスの職務と,彼の体すなわち彼の霊的会衆のための彼の祭司の仕事について,パウロは論じています。キリスト・イエスについて,パウロは詩篇 40篇8節の予言を適用しています。その予言は,こうです。『わが神よ,われは御意にしたがうことを楽しむ。なんじの法は,わが心のうちにあり。』パウロはこのように書いています『それで,彼が世に来る時,彼はこう言う……「『みなさい! 神よ,あなたの御意をするために,私は(私について書かれている書の巻にあつて)来ました。』」「御意」と言われていることにより,キリスト・イエスの体をただ一度だけ献げられたことを通して,私たちは潔められたのである。』(ヘブル 10:5,7,10,新世)イエスが行い果されましたのは,間違いなく確かにヱホバ神の御意でありましたが,それとおなじく,潔めが何であろうと,クリスチャンが潔められるということはヱホバ神の御意です。
6 この記事の題には,何が含まれているかを述べなさい。そして,私たちにとつて助けとなる3つの事がらを,言いなさい。
6 潔めを保ち守ると言う時,潔めは自動的に保ち持たれるというものではなく,常に追い求めるべきものであるということを意味します。それは,全くその通りです。このことを考えてみる時に,テサロニケのクリスチャンたちがパウロの手紙をうけ取つたということは,なんというはげましであつたのでしよう。彼らは,神に忠実を保ち,その始めた道を続けて行こうと決心していましたが,次の文面を読んだ時,彼らのその決心は,強くなつたに違いありません。『終りに,兄弟たちよ,私たちは主イエスによつてあなた方に願い,すすめる。あなた方は,いかに歩き,いかに神をよろこばすかについて,私たちから学んだのであるから,その通りに実際に歩き,そしてもつともつと励みなさい……実に,神の御意とされるものは,あなた方が潔くあつて淫行から遠ざかり,潔めと名誉のうちに自分自身の器をどのように保ち持つべきかをあなた方各自は知らねばならぬことである。』(テサロニケ前 4:1-4,新世)私たちが,潔めを保ち守るためには潔めが何であり,それはどのように受けられ,そしてどのように保ち守られることができるかをもちろん知らねばなりません。
潔めとは何ですか?
7 『潔め』を定義し,それの正しいことと,それが強調する対照を示しなさい。
7 潔めとは,ヱホバ神と一致するということを意味します。ヱホバ神は,聖なることと正義から決して外れることはなく,また決して変化いたしません。ヱホバの正義は,全く完全ですから,ヱホバによつてつくられたものが彼に自らを献身することは正しいことです。実際に,潔めは,神の御意をするよう各自が献身することによつて先ずなされます。そして,各自のするこの行いは,それと一致して後にするその人の行動の道と共に,ヱホバ神を崇拝するためにされるのです。これはあらゆる面においてのヱホバの道徳と,そしてあらゆる面においての現代文明の不道徳とのあいだの非常な対照を,まつたく確かに強調するものです。神の行いは,彼のこの聖さに基きます。そして,彼に従い,彼を崇拝するつくられたものたちは,義しい行いを是非しなければなりません。それですから,ヱホバとすでに律法契約にあつたイスラエルにたいするヱホバの次の言葉は,適当であります。『われは,なんじらの神ヱホバなれば,なんじらその身を潔くせよ,さらばなんじら聖き者とならん。われ聖ければなり。なんじらは……その身を汚すことをせざれ。われは,なんじらの神とならんとてなんじらをエジプトの国より導きいだせしヱホバなり。われ聖ければ,なんじら聖くなるべし。』― レビ記 11:44,45。
8 クリスチャン会衆の者たちにたいして,レビ記 11章44,45節は,どのように適用されますか?
8 ヱホバは聖くあられるからという理由によるこの潔めは,イスラエルの国民と共に終りませんでした。むしろ,原則においてはこの潔めは,キリスト・イエスの油注がれた従う者たちからなり立つクリスチャン会衆にもあてはまり,行われたものでした。しかも以前よりは,一層の強い力がつけ加えられましたので,使徒ペテロは,潔めを実際に行いまた伝道しました。そうすることによつて,ペテロは,潔めを保ち守ることの必要を他のクリスチャンたちに表し示し,そしてこう言いました。『あなた方の心をひきしめて,働き,全く落ち着きをたもつて,そしてイエス・キリストの現われるときに,もたらされる恵みある御親切に,あなた方の希望を置きなさい。あなた方は,従順な子供たちとして,以前に無知のために持つていた慾望に従うのを止めなさい。そうではなく,あなた方を呼ばれた聖なる方に一致して,そのすべての行いにあつて,あなた方もまた聖くなりなさい。なぜならば,「私は聖いのであるから,あなた方は聖くならねばならない。」と書かれているからである。」』― ペテロ前 1:13-16,新世。
9 イスラエルの警告となる例を言いなさい。
9 国民として,イスラエルはその潔めを保ち守れませんでした。それで,神の認めと祝福を失いました。そのことから,クリスチャンは警告を学びとるべきです。―コリント前 10:6-11。
10 『潔め』の力のある定義を言いなさい。
10 『潔め』という言葉は,神聖にする,または聖なるものとする,そして神聖なる職務のために別に取り分けるという意味です。それは,『潔め』という英語の言葉についての,一般に認められている定義です。その言葉は,ラテン語からきており,そして罪から自由にし,道徳の腐敗から清めるという意義をも持つています。その言葉は,力のある表現であり,その意義に多くのことを含み持つているのです。
それは真ですか? 可能ですか?
11 潔めは真のものですか? そして,あなたはなぜそう答えますか?
11 私たちは何と言いますか? いま地上にいるクリスチャンの男や女にたいする潔めは,真のものですか? それともたんなる言葉に過ぎず,宗教制度が,現実的でもなく,また実際に適用されることのない教理とか教えの中に入れて用いるだけのものですか? ヱホバ神御自身が真であられ,そして聖くあられるように,潔めは真のものです。前に引用されている神の明白な言葉を信ずるならば,ヱホバの聖なることは真のものであつて,それについてはなにも仮装がないということを知ります。神の子であるキリスト・イエスは,死ぬ少し前に,天の父に次のように祈りましたが,その時に事柄を誤り偽つて示してはいませんでした。『あなたが世の中から私に与えられた人々に,私はあなたの名前を明らかに示しました。……彼らについて,私はお願いをします。この世についてではなく,あなたが私に与えて下さつた人々についてお願いをします。……聖なる父よ,あなたが私に与えられたあなた自身の御名を考えられて,彼らを見守つてください。それは,私たちが一つであるように,彼らも一つであるためです。……私は,彼らにあなたの言葉を与えました。しかし,世は彼らを憎んでいます。なぜならば,私が世の一部でないように,彼らは世の一部ではないからです。……真理によつて,彼らを潔めてください。あなたの言葉は,真理です。……彼らの為を考えて,私は自らを潔めています。それは,真理によつて,彼らもまた潔められるためです。』― ヨハネ 17:6-19。
12 ヨハネ伝 17章6-9節の聖句を語られた時のイエスの状態は,どんな対照を明白に表わしますか?
12 くるしみの杭の上にかかつて,死のうとする直前にあつて,主は心に充ち溢れて言葉を話されましたが,その健全な言葉とくらべる時,偽りの宗教の神聖ぶつた虚飾は,なんとみすぼらしいものなのでしよう! イエスが生存され,そしてヱホバを崇拝したために死なれたことは,全くたしかなように,彼がここで語られた彼自身の潔めも,またここで言い及ぼされている彼の仲間たち,すなわち体の成員たちの潔められることも必らずたしかなものであります。
13 パウロとペトロは,潔めは何であるかと述べましたか?
13 パウロによればテサロニケ人たちにとつてそれは真のものでした。なぜならば,彼らにたいしてパウロはこう言つているからです『あなた方は,その通りに実際に歩き,そしてもつともつと励みなさい。』(テサロニケ前 4:1,新世)ペテロは,聖くあることについて前述のようなすすめを私たちに与えていますが,彼は潔めの現実について,私たちを間違えて導いてはいませんでした。それで,ここでの問題はこうです。すなわち,潔めは真のものであつて,たんに語るだけの空しい言葉ではありません。またそれは,実際的なクリスチャンの生活の仕方であつて,その民にたいする神の御意であり,また現実でもあります。
14 不完全な人間と,それの持つ疑問に関係する事実を語りなさい。
14 しかし,全く真面目な心を持つある人は,次のように考えるかもしれません。私たちは弱い不完全なものたちであり,生まれつきに罪深さを相続している者です。それで,たとえ潔めがクリスチャンに対する神の御意であり,また神の見るところにあつて,潔めは真のものであるとしても,私たちは,どうして潔められ,聖なるものとされ,義に献身し,あるいは聖なる奉仕に聖別されることができますか? この疑問にたいして,私たちは,聖書から,潔めは達成することのできるものであると言います。
15,16 ヱホバ,キリスト・イエス,そしてローマ会衆の見地から,潔めは可能であるということを正しく論じなさい。
15 ヱホバ神御自身は,私たち人間の弱さを一番良く知つておられます。キリスト・イエスは,私たちの状態を,良く知つておられました。いまでも良く知つておられます。また私たち以上にその理由と救いを深く認識されています。しかも私たちを安心させ確信させる前述の言葉を言われているのです。また,使徒パウロは潔めについて別の会衆に手紙を書きました。この会衆は,ユダヤ人と異邦人たちとで構成されており,当時の地上で,おそらく最も腐敗していた都市にありました。すなわち,異教ローマ帝国の首府である異教ローマの都市でした。ローマは,巨大なローマ帝国のすべての腐敗が流れこんだ下水,またはドブであると説明されています。もちろん,悪くて古い組織制度は,ローマの当時より改良してはいません。それは当時より悪くなり,今日の偽りのキリスト教の虚飾のあるために,もつと腐敗しています。しかし,初期ローマ会衆の時代にあつて,その崇拝者に対する神の御準備は効果があるものでしたが,そのように現在でも全く効果のあるものです。それで,ローマにいる兄弟たちの無能力に対して,使徒パウロはどんな思いやりを持つたかに注意しなさい。そして,パウロがここで発表したのと同じ思いやりを,ヱホバは持たれているということを知りなきい。ヱホバは,現在の民の利益のために,キリスト・イエスを通してこの思いやりを持たれているのです。
16 『あなた方の死ぬべき体の中にあつて,罪を王として支配し続けさせてはならない,そしてその欲望に従つてはならない。あなた方の諸器官を,不義の武器として罪に捧げてはならない。しかし,あなた方自身を,死より生かされたものとして神にささげ,また諸器官を,正義の武器として神にささげなさい。あなた方は律法の下にはいないで,恵みある御親切の下にいるのであるから,罪があなた方の支配者となつてはならない。ではどういうことになるか? 私たちは律法の下にいないで,恵みある御親切の下にいるのであるから,罪を犯すのであろうか? そのようなことが決してあつてはならない! もしあなた方が奴隷として誰かに身をささげ,その者に従うならば,それが結局には死という罪のものであれ,または正義という従順のものであれ,その者に従うために,あなた方はその者の奴隷であるということを知らないか? しかし,神に感謝すべきは,あなた方はもと罪の奴隷であつたが,あなた方は受けたあの教えに心から従順になつたことである。そうです,あなた方は罪から自由にされたのであるから,あなた方は正義の奴隷となつた。あなた方の肉の弱さのために,私は人間の言葉で話す。以前に,あなた方は,あなた方の諸器官を奴隷として汚れたものと不法なものにささげ,不法なものとなつていたが,そのようにいま,あなた方の諸器官を奴隷として正義にささげ,聖くなりなさい。』― ロマ 6:12-20,新世。
17 『潔め』のうちに,各人の生涯にたいしてどんな変化が意味し含まれますか? そして,潔めは,クリスチャンと共に自動的に続いて行くものですか?
17 その時のローマのクリスチャンたちだけでなく,テサロニケにいたクリスチャンたちも,また1954年の今日の油注がれたクリスチャンたちにとつても,潔めは次のことを意味します。すなわち,彼らはその生涯を変え,彼らの各人は,大いなる法律の与え主であるヱホバ神の前にあつて,不法の道から離れて,適法の道に従うことです。クリスチャンは,この潔めを必らず追い求め,そして保ち守らねばなりません。潔めは,人について自動的に,続いてゆくものではありません。なぜならば,潔めは人の生涯にたいして変化を含み意味するからです。人は,最も高い方に自らを献身した後にその変化をするのであり,そして人は,その変化を続け,円熟しなければならないからです。人の生涯にこの変化をするということは,正義の神すなわち正義の大義への献身を守り行うことを意味します。地上にあつて,どんな大義が正義ですか? それは,国家的な大義ですか? 政治的な大義ですか? どんな大義は,腐敗の汚れを全くうけていませんか? 理智あるつくられたものが献身するのに,どんな論争は価値あるものですか? 神について,最高至上権について,清い崇拝について,一つの正義の大義について,そして聖なる企図についての論争を正しく決定するならば,それはヱホバ神についての論争です。ヱホバの最高至上権についてのこの論争のために,彼を崇拝する者たちは,ヱホバが神であることを擁護宣明いたします,そしてその時に,彼らはヱホバの造られたものとヱホバとの間柄に関する事実,そしてまたヱホバと彼の啓示された言葉である聖書に関係する事実について人々の注意を呼びおこすことによつて,そうするのです。
18 ヱホバは,この古い世の宗教のあいだに,彼の大義を擁護する者を見出しますか?
18 この古い世の宗教のあいだに,ヱホバの大義を擁護する者をヱホバは見出しますか? もしあるならば,その擁護する者の名前を言いなさい! 一つもありません。このことを説明するものは,新教主義を代表するある著名な代弁者の書き記したものです。その人は最近に『革命時代にあつて伝道する』という本を書きましたが,その中で,教会での父と子について語つていた以前の筆者について話しが及び,この司祭はそのことがらを次のように詳細に述べています。『年を取つた教区長は,旧約聖書を読んだ,それで少年は,人々の上に災いを送り,人々を亡すために火の蛇をつくつたおそろしい神を知つた。その夜のこと,父親が少年の寝室を通り過ぎた時,少年は父親を呼んで,父親のくびに手を廻し,そばに引きよせてこう言つた「お父さん,お父さんはヱホバを憎むでしよう。僕もヱホバを憎む。ヱホバはきたないいやな弱い者いじめね。僕はあんなの大嫌い。』このことがらについてこの本の著者がした論評にいま注意してごらんなさい。そして著者である司祭が,聖書の神を擁護したかどうか,そしてまた神が古代においてなされた彼の立証の業についての聖書の説明を擁護したかどうかを決定しなさい。『我々は,憎むべき神についての考えと歴史的に結びついている和解についてこの考えを長いあいだ拒絶してきた。我々にとつて,神は怒りつぽい,おそろしい,復しゅうをするものであつて,そしてアダムが罪を犯したために,人間をやたらに殺してしまうようなものであつてはならない。正直な少年が,全くいやになるのも当然であつて,「きたない,いやな弱い者いじめ」と言うのも不思議ではない。』
19 誰だけがヱホバの大義を擁護しますか?
19 キリストは,ヱホバを常に擁護しましたが,そのキリストの名前を信じている者が,まだ分別もなく,しかも間違えて教えられている子供は正しいのだと支持して,そしてその子供の言つた言葉,すなわちヱホバ神は『汚ないいやな弱い者いじめ』というのを認めているとは,なんと恥ずべきことなのでしよう。しかし,このようなことは新しいことではありません。イエスの時から今日にいたるまで,地上にいるどんな人がヘブル語聖書の神を擁護してきましたか? 誰がその神の最高至上権を宣明し,その方に愛と献身をささげ,そして仲間の人たちにも同じことをするようにと呼びかけていますか? この今日にあつて,ヱホバ神の大義のためにこの行いを誰がしていますか? それらの人々とは,自分の意志で決定してから,理解と愛のうちにその生涯を変えることにより,その器官を『義の奴隷として,聖くして』捧げる者たちだけであります。それは,聖なる神の聖なる大義に奉仕することです。潔めは,人の献身した器官をヱホバにささげ,聖さに達することを含みます。この聖いことは,真のものであつて,私たちはその聖さを得ることができ,そして保ち守ることができます。
どのようにうけますか?
20 誰から潔めは来ますか?
20 前に出ていて,研究した聖句は,他の聖句と一致しており,そして潔めはヱホバ神からのものであると示しています。ヱホバ神は,その真理の言葉によつてキリストを通じて人々を御自身にひき寄せられ,そしてその御自身の正義によつて人々をひきつけられます。ヱホバ神は,キリストの贖いの御準備をそなえられることによつて,不完全な人をして,神と和解した関係の立場を取らせることができます。それは,イエスの犠牲の恩恵により,そしてまたイエスの犠牲にたいして信仰を持つことにより,彼らは義と言明されたからです。『しかし,あなた方がキリストイエスと共におられるのは,彼(神)によるのである。キリスト・イエスは,私たちにとつて神からの智慧となり,また正義と潔め,そして贖いによる救済となられた。』(コリント前 1:30,新世)信ずる者たちが,自らを献身するのはヱホバ神にであります。それですから,潔めはヱホバから真にくるのです。イエスは,次のように言つた時,このことを示しました。『父が潔め,そして世につかわした私に対して,私は神の子であると言つたということで,「冒瀆するもの」とあなた方は言うのか?』― ヨハネ 10:36,新世。
21 潔めをするにあつて,真理はどんな役割りを果しますか?
21 また,潔めを得る手段を考えてみるときに,私たちはすぐにイエスの言葉を考えます。イエスは天の父にたいして次のように言つて,真理はその手段であると示しています。『真理によつて,彼らを潔めて下さい。あなたの言葉は真理です。』(ヨハネ 17:17,新世)それですから,神の表し示される言葉は,潔めの義しい道にたいして是非必要なものです。ヱホバは,キリストの体のクリスチャン会衆の献身した成員たちを潔めて,彼らに天の御国に入る召をあたえ,彼の聖霊でもつて彼らに油を注ぎ,彼らを彼の聖い神聖な奉仕だけに従事させ,聖別して,そして彼の真理の言葉によつて,彼らを導きます。そうです,しかし各人の生涯にあつて,最初に真理はどのように人々のところにきますか? ヱホバ神が降りてきて,彼らと一緒に坐り,彼らにその言葉を教えるなどということは全くありえません。またキリスト・イエスもそうされないでしよう。なぜならば彼は天の王だからです。使徒パウロは,テサロニケの同じ会衆に手紙を書き,潔めをする真理がどのように人のところに来るかを示しています。というのは,パウロはテサロニケにいた人たちに真理がどのように来たかを思い起して,このように言つているからです。『神は,御霊とあなた方の真理に対する信仰によつて,初めから救いのためにあなた方を選ばれたのである。私たちが宣べつたえる良い音信によつて,神はあなた方をこの運命に召されたのである。……それで兄弟たちよ,かたく立ちなさい。』― テサロニケ後 2:13-15,新世。
22 潔めをするにあつて,クリスチャンの宣教のする役目を示しなさい。
22 パウロが,テサロニケの人々に良い音信を宣べ伝えましたので,テサロニケの人々は神の真理の言葉に接し,そして信じて信仰を置き,その結果に神によつて選ばれ,潔められて救われるようになつたと考え理解すべきでしようか? そうです,全くその通りです! そのことは,クリスチャンの時代でもそうでありましたが,今日でもそうです。人々は,神との間に,彼への潔めまたは献身のこの祝福された関係に入りますが,それは,彼らよりも前にそのような関係に入つた他のクリスチャン奉仕者たちが,彼らのところに神の言葉の音信をもたらし,彼らに聖書の真理を伝道したからであり,そして彼らが聞いてそれに答え応じたからです。『私はキリスト・イエスの公けの僕となり,諸国民に仕え,神の良いたよりの聖なる仕事に従事する。それは献げもの,すなわちこれらの諸国民が神によつてうけ入れられると証明され,聖霊によつて潔められるためである。』― ロマ 15:16,新世。
23 霊的な兄弟で『年上』と『年下』の今日の関係を説明しなさい。
23 霊的に言うならば,パウロは彼らの兄であり,彼らはテサロニケにあつて弟たちでした,というのはパウロから彼らは神の言葉のこの音信をうけ取つたからです。そのクリスチャンの型は変つていません。それは,今日でも同じです。1914年に御国が設立し,1918年に主が裁きのために宮に来てから,そしてまた1920年以来に神の設立されている御国についての音信が地のいたるところで熱心に宣べ伝えられてから,ヱホバを崇拝する人々の数は今日まで増大し,いまでは143の国々や土地で,幾十万という人々になつています。それらの人々は,ちようどテサロニケの人々が,使徒パウロの伝道に答え応じたように,彼らよりも霊的に『年上の』奉仕者たちの伝道に答え応じたのです。永年のあいだヱホバの大義を擁護している奉仕者たちは,いまでも神の奉仕に熱心で積極的です。御国が1914年に設立される以前に良いたよりの奉仕者であつた者のうち,ある奉仕者は,いまでも強くなりつつあります。それらの多くの奉仕者は,現代のキリスト教聖書教育の仕事に従事しており,1919年に始まつている,現在の増加する繁栄をずつと経験しているものです。神のこれらの忠実な僕たちは,多くの伝道をしています,そして年月がたつにつれて,他の者たちも彼らに加わり,そうして業は増大します。地上にあつて,いま約2万人の人は残つている人たち,すなわち神の潔められたキリストの体の残れる者たちということを示しています。その数は,1954年の記念の象徴をいただいた数から示されています。
24 何ののなかに,私たちは,私たちの『年上の兄弟』を認めますか?
24 最近に,私たちは,聖書の真理で目が開いて,ヱホバのすばらしさを見ますが,これら年上の兄のような奉仕者たちは,使徒パウロがテサロニケの会衆に対して持つたのと似ている関係を私たちに対してもつているということを認めます。さらに,そしてもつと重要なことですが,その油注がれた残れる者の制度を,一人の愛ある年上の兄弟として認めます。そして,もし私たちがいま神に献身しているならば,私たちが救いに選ばれ,真理に信仰を持つている理由は,この『年上の兄弟』が良いたよりを私たちに伝道したからであると知ります。しかしながら,最も重要なものとして,私たちはみな真に一番年上の兄弟,キリストイエスの過去と現在の宣教を認めます。私たちは,このことをよろこんで認め,すべての感謝と讃美をイエス・キリストを通じてヱホバ神に捧げます。
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みな『かたく立ちなさい』ものみの塔 1954 | 7月15日
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みな『かたく立ちなさい』
『それであるから,私の愛し慕つており,私のよろこび,また私の冠りである兄弟たちよ,愛する者たちよ,主の道にあつてかたく立ちなさい。』― ピリピ 4:1,新世。
1 テサロニケ後書 2章13-15節を再び引用するかまたは読みなさい,そして私たちはその聖句をどのように正しく見て考えるべきかを示しなさい。
主の他の羊である私たち年下の者たちがテサロニケ後書 2章13-15節のような聖句を読みますと,私たちの大いなる『一番年上の兄弟』であるキリスト・イエスが,ヱホバの『忠実で賢い奴隷』級を通して,こう私たちに話しかけ,語つているようです。すなわち,この級が私たちに伝道した良いたよりのために,私たちは救いへの機会を持ち,そしてこの級を通して「かたく立ちなさい』とヱホバが与えられる忠告に,私たちは感謝の心を持て,ということです。
2 潔めは保ち守ることができるという証拠は,どこに見出されますか?
2 天の御国が設立されてから40年のあいだ,潔められた者の『小さな群』の心ゆるがぬ,健全な,そして忠実な成員たちと,また主の他の羊の成員たちが,この地上に居り,長いあいだ宣教に従事しているということによつて,潔めはクリスチャンに対するヱホバの御意であるばかりでなく,潔きは幾年にもわたつて保ち守ることができ,そして真のものであり,また持つことができるものと証明されています。キリストの体の成員,すなわち潔められた会衆であると自分自身で認識するヱホバの僕たちは,神の前に心をひくくし,彼らの今までの特権や,いま持つている特権に対して神に感謝します。そして彼らもまたかたく立ちつづけて,その潔めを保ち守り,そして猛犬のようにその潔めをかたく守りつづけねばならないということを知つています。奉仕から引退することなどを求めず,また油注れたことに矛盾反対して,離れ去るなどということはありません。天の賞に対する彼らの歩みは,その道にあつてそんなにもはるかなところまでに行つていますので,いまさらになつて横にそれるなどということ考えもいたしません。現在御国が繁栄しており,将来にも繁栄するからとて,それほ,彼らが手を弛めて気楽にするとか,または隠居して楽しみごとをすることのできる真のしるしではないと彼らは考えています。しかし,むしろパウロが次のように言いましたように,押しつづけます。『兄弟たちよ,私はそれを手にいれたとは考えない。しかし,それについては一つのことがある。後ろにあるものを忘れて前にあるものにむかつて前進する。私は,上からの召しの賞を得ようと目標にむかつて進んでいるのである。キリスト・イエスにあつて,神はその賞を与えられるのである。私たちについて言うならば,私たちの市民権は天にあるのであり,私たちは救い主である主イエス・キリストが天から来られるのを熱心に待つている。彼はすべてのものを御自身に従わせられる力の働らきによつて私たちのいやしめられた体をつくり変え,彼の栄光ある体と同じようにされるであろう。それであるから,私の愛し,慕つており,私のよろこび,また私の冠りである兄弟たちよ,愛する者たちよ,主の道にあつてかたく立ちなさい。』(ピリピ 3:13,14,20,21; 4:1,新世)『残れる者』すなわち,『賢い奴隷』とその成員を含んで年老いた会衆は,現在ある増加を待ち望んでいました。そして,いま増加を見て彼らは非常によろこんでいます。
3 使徒パウロとピリピの会衆とのあいだの関係を説明しなさい。今日にあつて,それと相似ている事実を示しなさい。
3 パウロはテサロニケの人たちに良いたよりを最初に伝道するという特権を持ちましたが,それと同じく,前述の手紙を書く以前にパウロはピリピの人々に良いたよりを初めて伝道した者のようです。パウロとピリピの会衆のあいだの愛の結びは,強いものでした。ピリピに会衆が設立されてから,パウロは二度彼らを訪問し,彼らの信仰を強めました。キリスト教徒ギリシア語聖書の中にあつて,『ピリピ人たちへ』と宛てて送られている手紙をパウロは書きました。そして,ピリピ人たちは,霊的な助けと物質的な援助の両方をパウロに与えました。たしかに彼らは,パウロの切望をみたしました。彼らについて,パウロはよろこんでいました。いまにあつて,年老いた制度という見地と神の業に従事する年上の奉仕者という両方の見地から,私たちはこのように言います『最近にヱホバの真理と奉仕に来たあなた方,この新しい世の社会の数と活動の両方に加つている主の他の羊であるあなた方は,私たちのよろこびである。』私たちはあなた方を切望しています。ヱホバの正義の大義に献身することは,少い人数の者だけに限定されているのではなく,多くの者たち,すなわちあなた方をも含むということについて,あなた方は生きている証拠であり証明です。それで,あなた方に向つて私たちはこう言います『愛する者たちよ,主のこの道にあつてかたく立ちなさい。』
4 新しい世の社会にある栄光と飾りを討議しなさい。
4 古い組織制度の主張する栄光は,みすぼらしいものであり,また見かけ倒しのものです,というのは古い組織制度は偽りの神である悪魔サタンの悪を反映しているものだからです。ヱホバの御国のすばらしい栄光は,私たちの不十分な言葉では到底に書き表わすことができないものです,というのは御国は,真の神であるヱホバの栄光を反映しているものだからです。地上にいる私たちに関するならば,私たちは新しい世の社会の中核を代表する成員として,私ちの共通の目標は,この栄光ある神を崇拝することです。神の僕たちで成り立つ地上の制度にあるヱホバの栄光と美は,その忠実な成員たちの中に見出されます。その忠実な成員たちは,正義の原則にしたがい一致しています。それですから,もちろん限定されたものであるのは当然ですが,神の栄光はある程度まで反映されています。その言葉に書かれてあるヱホバの御準備をあなたが学び,ヱホバの側に立ち,彼に自らを献身し,彼の大義を擁護するとき,あなた方はこのクリスチャンの群を飾るものです。ヱホバは,彼に属する者を知つており,そしてもしあなた方がヱホバに属する者であるならば,彼はあなた方のことを知つており,あなた方を愛します。地上にいる仲間の僕たちは,あなた方を尊敬します。そして,神の崇拝と奉仕にあつて年の若い兄弟であるあなた方は,実際に神の今日の地上の制度のよろこびであります。あなた方は,清さと正しさを保つという大きな責任を持つています,そして神を知らない諸国民の道に従つてはなりません。なぜならば,『なおざりにする人は,人間をなおざりにしているのではなく,あなた方に聖霊を置かれる神をなおざりにしているのである。』― テサロニケ前 4:8,新世。
5 主の他の羊であるあなた方にたいして,テサロニケ前書 2章19,20節は,何を言つていますか? そして,あなた方はどんな負債を持つていますか?
5 あなた方がヱホバに忠実を保ちつづける時,年老いた兄弟たちや,年の古い『賢い奴隷』はあなた方に次のように言うようです。『じつに,主イエスが臨在される時その前にあつて私たちの希望またはよろこび,または非常なよろこびの冠りは,何であるか? ― それは実際に,あなた方ではないか? あなた方は,たしかに私たちの栄光でありよろこびである。』(テサロニケ前 2:19,20,新世)こういうことになります。すなわち,あなた方は大きな負債を持つているということです。その負債とは,霊的なものであり,神とそしてあなた方に真理をもたらした神の忠実な社会にたいするものです。あなた方は,その真理に答え応じ,そしてその真理はあなた方を導いて,聖くして救いの道にあなた方を歩ませているのです。忠節を保ち,愛の心からの献身のうちにあなた方の負債を払いなさい。
6 潔めをうけるのに,必要なことがらを幾つか簡単に話しなさい。
6 潔めは,神から来るものであり,そして真理により,また真理が伝道されることによつてうけられるばかりでなく,またヱホバへの献身によつてうけられると言うことができます。それで,キリストの体の成員たちの潔めは,キリストと一致していて,神の聖霊が彼らの上に降り,そして彼らがヱホバと彼の言葉を信じ,また生命にたいして神のそなえられたキリスト・イエスを信ずることによつてきます。こう書かれています『父なる神の先見に従い,み霊によつて潔められ,彼らが従順であつて,イエス・キリストの血がそそがれるために。』― ペテロ前 1:2,新世。
7 第7節には,教会の神聖ぶつた敬虔についていくつかの点が記されています。あなた自身の言葉でそれらの点を述べてください。
7 さて,潔めに関係するこれらのすべての点について,またその潔めがどのようにうけられるかということを考えてみます時に,人目につかせるような美々しい教会の儀式は,どういうことになりますか? それはまちがいのものです。その儀式は,聖書に教えられている潔めと関係は全くありません。それは,明白な異教主義から始まつているもので,人間が発明したものです。そして,人々に印象を与え,また誤つた方向に導くために,近代の異教崇拝者たちが想像して美しく飾り立てたものです。一般正統派のキリスト教国では,子供だましのような儀式をして潔めを主張していますが,その主張は偽りであり,そして偽善的な神聖ぶつた敬虔であるという明白な証拠の一つは,聖書の他に次のような事実があります。すなわち,キリスト教国は道徳的に悪く,あらゆる面で腐つて腐敗しており,ヱホバ神を非難し,ヱホバ神と彼の大義のために戦うのではなくして,ヱホバ神に反対して戦つているということです。また,神の聖なる言葉の清い原則を教えようと努める人々をできうる限りにひどく迫害しており,そしてヱホバの主なる立証者キリスト・イエスの御手によつて近いハルマゲドンの戦いで必らず亡ぼされるよう運命づけられているということです。いわゆる『潔め』についてのその偽りで異教の教理や,また他の教理や行いは,一つとして聖書から認められ,支持されてはいません。一般に,それらは人類にたいして大きな悪をなしています,なぜならば,それらによつて聖いことについての神の言葉,聖書の真理はかくされてしまい人々の目は見ることができないからです。指導者も人々も共に,神の名前に非難をあたえるという共通の罪を持つています。
8 正義に献身している者たちは,何をしなければなりませんか?
8 潔めということを私たちが考える時に,神の言葉の中に見出されるこの金のような表現の言葉にたいして一般正統派の宗教がなにをしたかで私たちは迷わされ,または失望する必要はありません。その言葉には,多くの意味がふくまれておりクリスチャンにとつて非常に大切なものです。正義に献身しているあなた方は,1分といえどもこの古い世,この古い組織制度,その標準,その教理,またはその慣習に従つてはなりません。清さを持ち続けなさい。あなたの潔さと,生命にいたる潔めのあなたの希望を保ち守りなさい。
どのように保ち守りますか?
9 自己節制について,パウロはどんな点を話していますか?
9 パウロはテサロニケの人々に手紙を書いて,自己節制について話しましたが,そのいろいろな点のうちの一つはこうです。『あなた方各自は,自分の器を潔めとほまれの中にどのように持つべきかを知るべきであり,神を知らない諸国民の持つような強い淫慾をほしいままにするべきではない。誰もこのことで兄弟たちの権利を害したり,または侵害するようなことがあつてはならない,なぜならばヱホバはこれらのことがらに対して罰をなされる方であられるからである。私たちが前もつてあなた方に語り,十二分に証言を与えた通りである。』(テサロニケ前 4:4-6,新世)(『器』という言葉についての類似の用法は,使徒行伝 9章15節で,サウロが『選ばれた器』と呼ばれているところです。)
10 ここで『器』は,どのように用いられていますか? そしてどんな面で,自己節制は大切で必要なものですか?
10 ここで,各クリスチャンの体は,『器』と言われています。神の僕の体または自我は,クリスチャンによつて正しい仕方で用いられる道具であるとそれは語つています。このためには,自己節制は必要です。その結果に,私たちは信頼するに足る者になります。そしてこのことは,ヱホバ神にたいする私たちの関係,奉仕の栄光ある宝,神権的な新しい世の社会,そしてその社会の中にある私たちの役目などを正しく評価することによつてくるのです。潔めを保ち守る人は,信頼するに足る男子または信頼するに足る婦人です。私たちは,潔めを自動的に守るというのではなく,常に努めて追い求めるべきであるということは,パウロの願いの言葉の中にも言われています『ただ,キリストについての良いたよりにふさわしい仕方で振舞いなさい。それは,私が来て,あなた方に会おうとまたは離れていようと,あなた方についての事柄を聞いて,あなた方が一つの霊にあつてかたく立ち,良いたよりの信仰のために,相共に一つの魂として戦い,そしてどんな面であつても敵対者によつてあなた方はおどろかされないと聞きたいためである。このことは,彼らにとつて亡びの証拠であるが,あなた方にとつては救いの証拠である。そしてこのしるしは,神からのものである。そしてこのしるしは,神からのものである,なぜならばたんにキリストに信仰を置くばかりでなく,キリストのためにくるしみをうけるために,彼に代つてこの特権はあなた方にあたえられたからである。』― ピリピ 1:27-29,新世。
11,12 潔めを保ち守るために,何が必要ですか?
11 かんたんでしたが潔めが得られる働きを私たちは述べました。潔めを保ち守るためには,それを得るこれらの働きを明白に保ち続けることは必要です。潔めはヱホバ神から来ます。潔めを保ち守るためには,心をヱホバ神に専念集中し続けなさい。潔めは,ヱホバの言葉である聖書の真理を通して来ます。聖なる献身のこの状態に続けるためには,真理の言葉をつねに研究し,それに従うことは必要です。真理の水は,大きな流れであつて,ヱホバの宮から流れでるものとして表わされています。(黙示 22:1,2)この豊かな流れから,クリスチャンは断えず彼らの心と気持を充たさなければならず,そしてこれらの生命の水を飲みつづけるとき,彼らの中にあつて,水の泉はあわ立ち,永遠の生命を与えるようになります。―ヨハネ 4:14。
12 私たちが潔めの機会を得たのは,神の言葉の良いたよりを伝道していたある別の人が,私たちに宣教奉仕したからです。この点からみますと,私たちの潔めはその宣教のおかげでした。私たちが,潔めを保ち守るためには,私たちは宣教に活潑であり,宣教に従事し,伝道し,他の人たちに真理をもたらすことは是非ともたいせつなことです。この活動は,私たちの宣教の証拠であり,潔められた主キリスト・イエスが次のように語つたことと一致調和して,私たちの神に栄光を与えるものです,すなわち『あなた方が多くの実を結び,そしてあなた方は私の弟子であると証明することによつて,私の父は栄光をうけられる。』(ヨハネ 15:8,新世)ヱホバへの献身は,献身の象徴として水による浸礼によつて表わされましたが,その献身は常に保たれねばなりません。それでまた,仲間の僕たちとの一致は,表われ示されねばなりません。私たちをヱホバとの関係に導いた信仰をかたく保ちなさい。そうすれば,潔めに導く彼の聖霊は,いつも私たちの上にあるでしよう。テサロニケの人々のように,今日の私たちも,神の言葉よりのクリスチャンにたいする命令を知つています。『実に,主イエスを通してあなた方に与えた命令をあなた方は知つている。』― テサロニケ前 4:2,新世。
他の羊は潔められますか?
13 潔められた者が誰であるかをパウロは示しました。それらの者は誰ですか?
13 パウロはテサロニケの人々に手紙を送りましたが,その時将来にキリストの体の成員となる者たちにパウロは手紙を書き送つたということは,前のところで学びました。それらの成員たちは,ヱホバの霊的な子たちの仕事だけをするよう分けられたものであつて,ヱホバ神によつて潔められました。『さらに兄弟たちよ,眠つて死んでいる者たちについて,あなた方が無知ではないようにと願う。それは,希望のない他の人々のようにあなた方が悲しまないためである。イエスは死んで再びよみがえつたというのが私たちの信仰であるならば,イエスにあつて眠つて死んだ者たちについては,神はイエスと共につれてこられるであろう。ヱホバの言葉によつて,私たちは次のことをあなた方に言う。すなわち,主の臨在のときに生存して生き残つている私たちは,眠つて死んでいる者に決して先立たないであろう。なぜならば主自ら号令の召しと天使長の声,そして神のラッパと共に天から降つてくるであろう。そしてキリストとともに死んでいる者たちは最初によみがえるであろう。その後に生き残つている私たちは,彼らと共に雲の中に取り去られ,空中で主と会うであろう。そして私たちはいつも主とともにいるであろう。それであるから,これらの言葉でもつて互いに慰め合いなさい。』(テサロニケ前 4:13-18,新世)それからまた,潔めを保ち守るということと,淫行から遠ざかるということに関連して,パウロはコリント人に次のように書きました。『あなた方の体は,キリストの器官であることを知らないか? それで,私はキリストの器官をして淫婦の器官としてよいか? そんなことが決してあつてはならない!』― コリント前 6:15,新世。
14 黙示録 7章9節は,誰を指していますか?
14 前のところで,キリスト教徒ギリシア語聖書からの聖句を研究してきましたが,それらの聖句が書かれた時と,また現在においての適用をみるとき,それらの聖句は,潔められ,聖別された神の霊的な子たちを直接には指しています。それでは,主イエスの他の羊については,何が言えますか? 例えば,黙示録 7章9節(新世)に言われている神の僕たちの大いなる群集についてはどうですか? こう書かれています『みなさい! 誰も数えることのできない程の大いなる群集はすべての国々,種族,国民,そして言語から来て,御座と小羊の前に立ち,白い衣服を身につけていた。そして,彼らは手に棕櫚の枝を持つていた。』神に捧げる彼らの讃美の奉仕は,10節に示されています『そして彼らは大声で叫びつづける「救いは,御座に坐る私たちの神と,小羊とにある。」』
15 その『大いなる群集』は,潔められますか?
15 黙示録のその同じ章は,これらの者たちは霊的イスラエルの印せられた14万4000人ではないとあきらかに示しています。会衆,すなわちキリストの体について言われた後になつて,それらの者たちは示されています。『大いなる群集』は,霊的イスラエルの会衆の成員が潔められるようには,決して潔められません。それでも,彼らにたいして聖くあることが要求されますか? そして,真の神であり,御自身が聖く正義であられる神への汚れない清い崇拝について研究してきた前述のすべての証拠を考えてみる時に,やはり彼らにも要求されるのでしようか? そうです,と私たちは言いますが,その理由は,神は不義をよろこばれず,また認められないと,いうことです。また,神の他の羊の大いなる群衆の者たちは,神にたいしてその忠実な献身を証明するならば,そして証明する時,彼らは神によつてたしかに認められているものたちです。彼らの献身は,疑いなく真のものです。神にたいする彼らの讃美の奉仕は,非常な合唱にと高まり,神へほまれと栄光をささげています。現在にあつて,彼らは地上のヱホバの民の制度を美しくします。彼らはヱホバを愛し,ヱホバは彼らを愛します。新しい世にあつて永遠の生命をうけるという彼らの前途は,心のおどるものです。昔しにヱホバは,天的の希望のない地上の僕たちの級に聖くあれと命令しました。それはレビ記の中に言われていますが,その時ヱホバは彼御自身の聖さに注意を向けさせました。そしてまた,この同じ原則は,ペテロの時クリスチャンたちにたいして用いられるとパウロは命じています。それで,この原則は,主の他の羊であるクリスチャンを含めて今日のすべてのクリスチャンたちにも適用されるのです。
16 『大いなる群集』は,どこで奉仕していると示されますか? これによつて,私たちはどんな結論に達しますか?
16 この結論を支持する別の理由があります。それは,黙示録 7章15節は,大いなる群衆のものを次のように表わしているという事実です。彼らは『神の御座の前に立ち,神の宮の中にあつて,昼も夜も神に聖なる奉仕を捧げている。そして御座に坐られている方は,彼らの上に天幕をひろげはられる。』(新世)ヱホバの宮またはその宮に関係して,彼に奉仕する者たちが,腐敗していた不敬虔であり,聖くないなどと結論することはできません。『その宮にあるすべてのもの呼わりて栄光なるかなと言う。』― 詩 29:9。
17 聖別と潔めを区別して示しなさい。
17 潔めは,聖別と同意義の言葉ですか? いいえ,聖別とは,大祭司キリスト・イエスと彼と仲間の祭司となる油注がれたものたちをヱホバが選び,力を与えるというヱホバの働きを指し示すものです。潔めとは,他のことがらに関係しています。それは,正しく『潔められた』と呼ばれるものと,潔められていない人,または潔められていない状態とを対照します。それですから,その任命された大いなる裁き主キリスト・イエスを用いて,誰がヱホバ神に忠実に奉仕しているか,そしてその献身の故に彼より是認をうけるにふさわしいかどうかをヱホバ神が決定されるのは,全く適当で正しいことです。
18,19 信者と不信者の結婚の配偶者について,討議したときに,使徒ポウロは潔めをどのように適用していますか?
18 使徒パウロは,この原則をコリント前書の7章で述べて適用していることに注意しなさい。そのところで,クリスチャンである配偶者を持つ不信者は,関係的に潔められるとパウロは語つています。彼の言葉はこのようです。『ある兄弟に信じない妻があつても,もしその妻が同棲していたいというのであるならば,夫は妻を離別してはならない。もしある女が不信者の夫をもつていて,彼が彼女と同棲していたいというのであるならば,女は夫から離れてはならない。(なぜ?)なぜならば,不信者の夫は,その妻によつて潔くされ,また不信者の妻は,その夫によつて潔くされるからである。そうでなければ,あなた方の子供たちは真に汚れたものであるが,彼らはいまでは聖い。』― コリント前 7:12-14,新世。
19 このように分裂した家族にあつて,不信者に信者の配偶者のある良い立場と,夫婦両方とも信じない場合の悪い立場とのあいだには対照があります。聖さは,子供たちにたいして表わされます。しかし,両方の親が不信者であるならば,あるいは,片方の親が信者の配偶者の関係によつて潔められないならば,その子供たちは汚れたものでありましよう。このことでもつて,不信者の配偶者は,その不信者の行いにたいして個人的に責任があるとは意味しません。また,信者である配偶者は不信者の配偶者をして,その不信仰のままで,永遠の生命を得さすということをも意味しません。使徒パウロは不信者は,潔い者すなわち『聖徒』にはなりませんが,関係的に潔くされると言つている事実は興味深いものです。ここでそのことを話しましたのは,次のことを示すためです。すなわち,主の他の羊の者たちが,神の言葉の中よりヱホバ神への潔めの要求を読んで,それらの是非従わねばならぬ正義の原則を自分自らに適用し,それらの原則にふさわしいよう生活をするのは正しいということなのです。そしてまた,彼らは,神の正義の大義への献身という状態を保ち守らねばならないと知るのも当然に正しいことです。それは,神の御名に讃美をささげ,神の正義の新しい世で永遠の生命を相続するためです。(ペテロ後 3:13)潔くされた会衆については,こう書かれています。『神は私たちを召されたが,汚れたことを許さずして,潔めるためであつた。』(テサロニケ前 4:7,新世)他の羊は,『聖徒』または『潔められた者たち』と呼ばれる者たちで構成される『聖なる国民』の成員ではありませんが,彼らはいま,『一人の牧羊者』のもと『一つの群』の一部としてその国民と密接に交つています。それですから,むかし,イスラエルの子らの中にあつて,「混合の群衆」が荒野でしたように,彼らはその群の中にあつて悪い汚い影響を及ぼすようなことをしてはなりません。(民数紀略 11:4)主の他の羊に適用されるかぎり,彼らは聖さについての要求にふさわしく行うよう要求されています。そして,潔められた者たちである『小さな群』の残れる者たちにとつて,心配のいらない仲間になるよう要求されています。
20 かたく立ちなさいというどんな励ましでもつて,パウロはテサロニケの人たちへの最初の手紙を結んでいますか?
20 潔められた者たちで成りたつテサロニケの会衆にあてた最初の手紙の結びとして,パウロは喜ばしい,そしてはげましを与える口調でこう言つています。『平和の神が,あなた方を全く潔められますように。そして,あなた方兄弟たちの霊と魂と体が全く健全に守り保たれ,主イエス・キリストの臨在される時に非のうちどころがありませんように。あなた方を召している方は忠実であられる。そして,彼はまたそうするであろう。主イエス・キリストの恵みある御親切があなた方と共にありますように。』(テサロニケ前 5:23,24,28,新世)彼はまだ地上にいる『小さな群』の残れる者を,全く潔められますが,それと調和して,忠実な他の羊の『大いなる群衆』にたいしても,神は恵みをもつて取り扱われるでしよう。なぜならば,『大いなる群衆』は,潔められた残れる者たちに忠義を保つという関係を持つているからです。―マタイ 25:34-40,46。
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