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あなたの最大の敵 ― それは自分自身ですか目ざめよ! 1984 | 9月8日
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あなたの最大の敵 ― それは自分自身ですか
近所の人たちはピーターのことを,「ランニングとテニスに熱中している……気持ちの良い男」と言っていました。まだ33歳だというのに,地位も名誉もある職業を持ち,アマチュア運動家としても名を知られていました。ところが,ある日の朝,自分の父親を絞め殺したのです。何が原因だったのでしょうか。デイリー・ニューズ紙によると,ピーターは,「悪魔がこんなことをさせたのだ」と叫びました。
しかし,悪魔がこんなことをさせたのだという言い訳をする犯罪者は,大抵,放免してもらえるどころか,急いで精神鑑定に回されます。そしてある社会では,悪魔の存在を信じると言うだけで,正気かどうか疑われます。『走り回って殺人を行なわせたり傷害ざたを起こさせたりする影のようなものだって?ばかばかしい!』と言う人は少なくありません。幾らかましに思われているのは,悪魔とは人間自身の内にある悪の象徴にすぎないという概念かもしれません。
不完全な人間には確かに邪悪な面があります。「人の心の傾向はその年若い時から悪い」と聖書は述べています。(創世記 8:21)しかし,“内なる悪魔”を見いだそうとする幾十年にも及ぶ心理学者たちの研究の成果といえば,大抵の場合に矛盾と様々な問題とに満ちた,対立し合う理論にすぎません。(囲み記事をご覧ください。)
例えば,人間は暴力的な性向を進化によって動物から受け継いだとする人々のことを考えてみましょう。エーリッヒ・フロムは,自著「人間の破壊性の解剖学」の中で,一般に受けのよい意見とは反対に,凶暴な行為は危険に面した時に動物が示す唯一の反応ではないと論じています。そして,「逃げようとする衝動は……動物の行動において,戦おうとする衝動と同じほど,あるいはそれ以上の役割を果たす」と述べています。ですから,たとえ問題の多い進化論を受け入れるとしても,人間は先天的に暴力的な動物であるという概念は疑わしいものです。では,人間が自分自身の最大の敵でないとしたら,最大の敵はだれなのでしょうか。
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あなたの最大の敵 ― それはだれですか目ざめよ! 1984 | 9月8日
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あなたの最大の敵 ― それはだれですか
もちろん,悪の原因になっているのは大抵の場合人間であるということを否定する人はいません。しかし,実際の問題は,この世代が目撃している非道な残虐行為や暴力行為の責任は人間だけにあるのだろうか,ということです。悪の別の元凶を人間以外のところに求めることなど,考えようともしない人が少なくありません。しかし,調べることもせずにこの可能性をわきへ押しやってしまってよいものでしょうか。なるほど,長い尻尾と角を生やし,赤いタイツをはいた悪魔という,多くの人がもっているイメージは,一笑に付してよいでしょう。しかし,邪悪な事柄が世界的な規模でエスカレートしている事実を一笑に付すことはできません。
深い愛と優しさを示すことのできる被造物の人間が,強制収容所の拷問や核爆弾の生みの親でもあるということなどとても信じられないことに思えませんか。悪が単に心理的な問題や環境の問題だと言うのなら,人間が自分自身や自分たちの環境についてかつてなく多くの知識を有していると思われるこの時代に,その悪が恐るべき水準に達しているのはなぜでしょうか。ほとんどの国で,犯罪の増加が報告されているのはなぜですか。今世紀になって,以前にはほとんど聞かれなかったような様々な形の悪が満ちあふれているのはなぜでしょうか。悪が人間によってのみ作り出されたのであれば,それを除き去ろうと人間が最大級の努力を払っているのに,その努力が惨めな失敗に終わっているのはなぜでしょうか。
「悪魔的な要素を度外視するとすれば,歴史は人間の理解の及ばないものとなろう」と述べた,有名なルーマニア人の劇作家,ユジェーヌ・イオネスコは正しかったのでしょうか。
僧職者の奇妙な沈黙
「悪魔的な要素」が存在するかどうかという疑問には神学者たちが一番よく答えられるように思えますが,不思議なことに,僧職者たちは科学的な研究者たちと同じほど分裂しているのです。プロビデンス・ジャーナル-ブリテン誌は,地元の一群の僧職者たちに,サタンは実在するか,という質問をしたことがありました。自分は実際に悪霊を追い払ったことがあると主張した人もいれば,悪魔の存在は信じていても,それを“人格化する”のに困難を覚える(『わたしはどちらかといえば悪魔を,神のご意志に反する力と見る』)人もいれば,悪魔は人格的存在ではないと言う(『悪魔を人格化する必要はないと思う』)人もいました。
カトリック教会でさえ,悪魔に関する信条が教会の公式の教理であるにもかかわらず,悪魔の問題になると,奇妙なほど沈黙してしまいます。E・V・ウォルターが「悪魔的なものの様々な仮面」の中で述べているとおり,同教会は現代の懐疑主義に反応してきました。ウォルターは1907年版と1967年版のカトリック百科事典を比較して,「悪霊」,「悪霊につかれた者」,「悪魔に取りつかれること」,および「悪魔払い」などを扱った項目の中に,「微妙な相違以上のもの」があるのに注目しています。古い版の百科事典は悪霊に取りつかれることが現実にあることをはっきりと認めているのに対し,新しいほうの版はもっと手の込んだ取り組み方をしています。「以前の世代が悪魔の活動に帰していた異常な状況の大半とは言わないまでも,その多くが潜在意識の働きによるということを……精神医学は示している」。
しかし,法王パウロ6世は1972年に,「我々は,目に見えないこの不気味な者[悪魔]が実在し,依然不信実な悪知恵をもって働いていることを知っている」と述べ,神学上の騒動を引き起こしました。自由主義的な神学者たちはこのことで萎縮しました。同教会はこの論争に関する神学的な研究を主催し,その結果生まれたのが,「クリスチャンの信仰と悪魔学」と題する文書です。それはカトリック教会が悪魔の存在を信ずることをはっきりと再確認したものでした。しかし,ハーバート・ハーグが「世界教会研究ジャーナル」誌の中で述べているように,同教会はこの研究報告を発表するに当たって奇妙なほど人目につかない方法を選びました。a しかも驚いたことに,長い間のしきたりを破って,その研究論文の著者は匿名になっています。ハーグは,「ローマは匿名という路線を選んだが,それは不確かであることを認める以外の何ものでもないとしか解釈のしようがない」と結論しています。
サタンを「実在するものとして,まじめな」見方ができるか
バチカンのこの文書は報道機関や世の人々からは無視されたも同然でしたが,悪魔の存在の問題は一蹴してしまえるようなものではありません。そのことから生ずる結果は余りにも大きいのです。例えば,悪魔がいないとしたら,愛の神の存在と悪が存在し続けていることとをどのように調和させることができるでしょうか。ハワード・R・バークルは,「神,苦しみ,そして信仰」の中でこう書いています。「しかし,[神を]信じることを現代人にとって難しくするあらゆる要素の中でも最も重要なのは,人間の苦しみである」。ですから,悪魔の存在を否定することは,神の存在を否定することと紙一重なのです。
悪魔の存在を信じることはほとんど世界的な現象であるという事実もあります。歴史家のジェフリー・バートン・ラッセルが述べるとおり,「遠く隔たっていて様々に異なる文化に,悪魔に関する類似の明確な表現」があります。古代ペルシャ人は悪魔をアーリマンと呼び,イスラム教徒はイブリス,仏教徒はマーラと呼んできました。しかし,西欧世界では,サタンという名のほうがよく知られているでしょう。科学は懐疑主義的な見方をし,神学者は否定するにもかかわらず,悪魔の存在は依然として信じられています。
しかし,クリスチャンにとって最も重要なのは,聖書は悪魔の存在について教えているだろうか,という質問です。確かに,自由主義的な神学者たちは,聖書の中で悪魔の現われる箇所をうまく説明してその存在を否定しようとします。中には,イエス・キリストが悪魔の存在を信じていなかったと主張する人さえいます。リチャード・H・ヒェーズ教授が「スコットランド神学ジャーナル」誌に書いているところによると,そうした人々の態度は,「我々がサタンと悪霊を信じていないのだから,イエスも信じておられたはずがない」というものです。しかし,福音書の記述を注意深く研究した末,ヒェーズはこう結論しています。「イエスの時代の人々や共観福音書記者は悪霊を実在するものとして,まじめな見方をしていたが,イエスがそれと同じ見方をしていなかったとする理由は何もない」。
では読者にも,悪魔の存在を「実在するものとして,まじめな」見方をする確かな理由がありますか。正確に言って聖書は悪魔について何と述べているのでしょうか。
[脚注]
a ハーグによると,その文書はバチカンの機関紙であるオッセルバトーレ・ロマノの幾つかの版にしか載りませんでした。
[5ページの拡大文]
「悪魔的な要素を度外視するとすれば,歴史は人間の理解の及ばないものとなろう」
[5ページの拡大文]
悪魔を人間の内なる悪だけに限定しようとする努力はうまくゆかなかった
[6ページの図版]
こうしたことの責任は人間だけにあるのだろうか
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あなたの最大の敵 ― その出現と没落目ざめよ! 1984 | 9月8日
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あなたの最大の敵 ― その出現と没落
聖書の示すところによると,敵は神が男と女を彼らの楽園の住みかに置いた直後に出現しました。神はこの夫婦に忠節と従順を求め,『善悪の知識の木から食べてはならない』という簡単な命令を与えておられました。―創世記 2:16,17。
しかし,敵はこれを絶好の機会とみなしました。こう書かれています。「さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女にこう言いはじめた。『あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか』」。エバは,蛇もその用心深い行動もよく知っていたに違いないので,恐怖におののいて逃げ出す理由は何ひとつありませんでした。エバは超人間的な力がこの蛇の背後にあるということを悟らず,蛇の滑らかな言葉に興味をそそられました。―創世記 3:1。テモテ第一 2:14。
エバが,神の律法に背くことは死を意味すると答えると,蛇は神の言葉を真っ向から否定してこう言いました。「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その木から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」― 創世記 3:2-5。
あとは歴史の物語るとおりです。エバは欺かれ,神から独立しても首尾よく生きてゆけると考えるようになり,その木から取って食べ,アダムもそれに倣いました。神は反逆的な夫婦を処罰するための措置を速やかに講じ,二人に有罪宣告を下し,やがて死ぬようにお定めになりました。―創世記 3:16-19。
蛇の背後にいたのはだれか
聖書は明確に,サタンと「初めからの蛇」を同一視しています。(啓示 12:9)悪魔を(ある懐疑主義者たちのするように)創世記から除いてしまうなら,その記述は無意味なものになります。その記述から悪魔を除いてしまうなら,蛇が何らかの方法で力をふりしぼって話す能力を身に着けたということを信じなければなりません。
しかし聖書は,人間だけが「神の像」に造られ,理知的に意思を通わせる能力があるということを示しています。(創世記 1:27)また,神が蛇に言い渡した次の判決に注目してください。「そしてわたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう」― 創世記 3:15。
この言葉を文字通りの蛇に当てはめても,ほとんど何の意味もなしません。人間は蛇に対して,たとえばネズミやクモに対する以上の「敵意」を本当に感じているでしょうか。ですから,この聖句に出てくる「蛇」,「女」,それに両者の「胤」は他の聖句に照らして初めて理解できる象徴であることがはっきりと分かります。(ガラテア 4:26; 3:29。啓示 12:1-6。マタイ 23:33)しかし,神に反抗する者,サタンが自由に活動していることがそのとき明らかになりました。
敵の起源
「その者は,その始まりにおいて人殺しであり,真理の内に堅く立ちませんでした。真実さが彼の内にないからです」。(ヨハネ 8:44)このようにイエス・キリストは,サタンが一時期「真理の内に」いたことを示唆されました。すなわち,栄光を受けたみ使いたちで成る「神の子たち」の中にいたということに違いありません。(ヨブ 38:7)これは,悪魔を角のある,ひづめの割れた生き物として描く,身の毛もよだつような描写とは雲泥の差です。a しかし,聖書はサタンの元の名を挙げてサタンに尊厳を付すことはしていません。
『でも,どうして天使が罪を犯すことができたのだろうか』と反論する人もいるでしょう。どんな思考の過程をたどって反逆するに至ったかについては,聖書ははっきりとしたことを述べてはいません。もしかすると高慢なバビロンの王のように,「わたしは天に上る。わたしは神の星の上にわたしの王座を上げ(る)」と考えたのかもしれません。(イザヤ 14:13。テモテ第一 3:6と比較してください。)崇拝されたいという欲望がつきまとって離れず,それが引き金になって死をもたらす連鎖反応を起こしたものと思われます。「むしろ,おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。次いで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」― ヤコブ 1:14,15。
宇宙を引き裂く
それでは,神はどうしてサタンを完全に滅ぼしてしまわなかったのでしょうか。それはアダムとエバの変節が幾つかの重大な疑問を引き起こしたからです。神の支配は圧制的なものか,それとも,その支配は義にかなったものか,支配する権利はだれにあるか,神はご自分の臣民に自由を与えることを差し控えていたか,機会さえ与えられれば,神の僕たちはいずれも神を捨てるか,というような疑問です。
サタンを滅ぼしたところで,これらの疑問のいずれも決着を見ることにはなりません。それで,神は賢明にもサタンの存在を,限られた期間,お許しになりました。それによって,人間にとってもみ使いたちにとっても,神とサタンの対照的な支配の仕方を観察することが可能になりました。こうして人々は,神かサタンか,そのどちらかの側に立つことができるのです。神の支配 対“独立”というこの論争は,今日に至るまで宇宙を引き裂いているのです。
この論争の別の面は幾世紀も後に明らかにされました。聖書のヨブ記 1章6節から11節は,驚くべきことに天そのものをかいま見させて,サタンが厚かましくも出席した,み使いたちの集まりについて次のように述べています。
「エホバはサタンに言われた,『あなたはどこから来たのか』。するとサタンはエホバに答えて言った,『地を行き巡り,そこを歩き回ってきました』。すると,エホバはまたサタンに言われた,『あなたはわたしの僕ヨブに心を留めたか。地上には彼のような人,とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人はひとりもいないのだが』。するとサタンはエホバに答えて言った,『ヨブはただいたずらに神を恐れたのでしょうか。……どうか,あなたの手を出して,彼の持っているすべてのものに触れて,果たして彼が,それもあなたの顔に向かってあなたをのろわないかどうかを見てください』」。
このやり取りの調子から,サタンが神に敵対していたことは明らかです。b サタンは,圧力をかけられても忠実を保つような神の僕は一人もいないということをほのめかしました。その結果,新たな疑問が提起されました。すなわち,人間は神を愛するゆえに,どの程度までの苦しみに進んで耐えるだろうか,神の僕たちに利己的な動機づけがあるのだろうか,という疑問です。この場合にも,こうした質問に答えるには,少しのあいだ悪の存在を許す以外にはありませんでした。
霊の政府と権威があるか
サタンは6,000年ほどかけて追随者を募ってきました。そして,不従順なみ使いたちの支持まで得ました。そのみ使いたちはサタンの影響を受けて,天での「そのあるべき居所を捨てた」のです。(ユダ 6。創世記 6:2)しかし,人間を自分の側に引き入れることにはどの程度成功したでしょうか。その影響は今日どれほど広範に及んでいますか。
預言者ダニエルにひとりのみ使いが証言したところによると,その影響はかなり広範に及んでいます。そのみ使いは自分が遅れた理由を説明して,「しかし,ペルシャの王土の君が二十一日間わたしに逆らって立ちつづけた。すると,見よ,主立った[み使いである]君のひとりミカエルがわたしを助けに来た」と述べました。(ダニエル 10:13)では,いったいだれがみ使いに抵抗することができるでしょうか。当然のことながら,人間ではありません。たった一人のみ使いが,一晩で18万5,000人の微弱な人間を滅ぼすことができたからです。(イザヤ 37:36)ですから,逆らっていたこの君は,大敵対者サタン自身の悪霊の手先だったに違いありません。
その示唆するところは極めて大です。使徒パウロは,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が「政府」と「権威」に組織されていることを示しました。(エフェソス 6:12)そうであれば,世界強国はそれぞれ目に見えない悪霊の「君」によって目に見えない仕方で治められているに違いありません。(ダニエル 10:20)実際,サタンは後日,イエスに向かって,「人の住む地のすべての王国」を自分が所有していることを誇らし気に示しました。c 言うまでもなく,イエスはこのサタンの支配に少しもあずかろうとはされませんでした。(ルカ 4:5-8)しかし,国家の指導者としての現在公職に就いている人々はどうでしょうか。事実上,そうした人々はサタンの操り人形ではありませんか。―啓示 13:2もご覧ください。
「多くの肉を食らえ」
サタンの支配は本当に現実的な影響を人類に及ぼしているのでしょうか。この質問に対する背筋の寒くなるような答えがダニエル 7章の中で与えられています。そこでは,メディア-ペルシャ帝国が熊に似た「獣」で表わされています。その章の5節の終わりのところで,聖書は,「彼らはそれに向かってこのように言うのであった。『起き上がって,多くの肉を食らえ』」と述べています。サタンの配下の悪霊の君たちは,ペルシャの支配者たちに,二流の強国の地位から「起き上がって」,貪欲に版図を広げるよう唆したものと思われます。
歴史は,メディア-ペルシャがやがて,「多くの肉を食らえ」というこの悪霊の招きに答え応じたことを実証しています。「歴史家の世界史」はこう述べています。「この帝国が,単なる地理的な規模の点では,世界にそれまで存在した国の中で最大の国であったということを考えると興味深い。それはエジプトよりもはるかに大きく,アッシリア帝国がその版図を最高度に広げた時よりも大きく,さらにはアレクサンドロス大帝[の治めた]ほんの10年間を除けば,現代に至るまで同帝国のあとに興ったいかなる帝国よりも大きかった」。
今日でも,国際的な指導者たちは同様に自分たちの影響力の及ぶ範囲を広げようとする傾向を示しています。しかし,今ではそれは高くつくものになっています。国々は,“核兵器所有による均衡”を保つ“死の舞踊”とある著述家が呼んだ状況を演出しています。世界を幾度か滅ぼすに足るほどの核兵器を所有しています。“限定”核戦争という思わず手の出そうな見込みにより,「どの大国の軍事戦略家」も「相互抑止という自分たちの長い間神聖視してきた概念を」捨てるよう誘惑されてさえいます。「彼らはむしろどうしたら原子爆弾を使って戦火を交え,戦いに勝てるか,その一番よい方法を考え出すことに没頭している。口に出せないようなことが話し合われており,考えられないようなことが考えられている」。(マクリーンズ誌,1982年2月15日号)それらの人々は狂ってしまったのでしょうか。いいえ,その人たちは目に見えない自分たちの支配者であるサタン悪魔の教唆に屈していたにすぎません。
悪魔の支持者たちはだれか
一人の女性は,「私は[悪魔]を信じているのだと思います。でも,もう長いこと悪魔のことを考えたことがありませんでした」と言いました。しかし,悪魔の存在を思いの片すみに追いやってしまうべきではありません。その存在に真っ向から立ち向かわなければなりません。
しかし,悪魔を信じるとはいっても,それは悪魔を病的に恐れたり,オカルトの魅力に取りつかれたりすることを意味してはいません。クリスチャンは悪霊崇拝的な慣行やオカルトの習わしから逃れます。(申命記 18:10-12。コリント第一 10:21)興味深いことに,「悪魔の統治」という本はこう述べています。「オカルトやサタン的な事柄への関心やかかわり合いが非常に強くなっている主な理由は……既存の教会の霊的不毛状態にある。……自ら意識はしていないが本当の意味での悪魔の支持者のグループは,既存の諸教会の聖職者たち自身である」。
しかし,エホバの証人はそのような「霊的不毛状態」に苦しんではいません。また,悪魔の存在を否定する懐疑主義者たちの声に加わって自ら意識せずに悪魔の支持者になることもありません。(コリント第二 11:14)人間の敵がだれであるかを知っているので,愛の神がなぜ悪を許しておられるかを理解するのに役立っています。また,自分たちが宇宙的な論争の中で一体どこに立っているかを知っており,はかない“独立”を選ぶよりも神の支配の優れた律法に服し,その恩恵にあずかることを好みます。そして,神の助けがあれば,『邪悪な者から救い出される』という確信を抱いています。(マタイ 6:13)悪魔がいることを認めると,嘲笑に遭うかもしれませんが,それは真の保護ともなるのです。
米国の第二次世界大戦のポスターに,「敵を知れ!」というのがありました。将軍が自分の敵を見くびったために,戦いに破れることがありました。しかし,エホバの証人は敵がだれであるかを知っており,証人たちは「その謀りごとを知らないわけではないのです」。(コリント第二 2:11)「全世界が邪悪な者の配下にある」ことを知っているので,その企てにたぶらかされることはありません。―ヨハネ第一 5:19。
エホバの証人はまた,サタンの邪悪な統治が間もなく終わろうとしていることを知っています。宇宙の全能の創造者が間もなくご自分の領域からすべての敵対者たちを除き去ることを聖書は予告しています。サタンの支配の後には,使徒ペテロが書いているように,「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地」があり,「そこには義が宿ります」。―ペテロ第二 3:7,11-13。啓示 20:1-3,10。
残されている『短い時』の間,読者も聖書を研究して,どうしたら自分も「悪魔に立ち向か」えるかを学ぶようお勧めいたします。(啓示 12:12。ヤコブ 4:7)エホバの証人は,読者がそうしたことを学んで,「平和を与えてくださる神は,まもなくサタンを……砕かれるでしょう」という聖書の約束をご自身の希望とされるよう,喜んでお手伝いいたします。―ローマ 16:20。
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