-
サタンの攻撃に直面したら,あなたはどうしますかものみの塔 1976 | 11月1日
-
-
サタンの攻撃に直面したら,あなたはどうしますか
「悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からのよろいを着けなさい」― エフェソス 6:11。
1 わたしたちはだれを常に警戒していなければなりませんか。なぜですか。
知っていてもいなくても,あなたを含め全人類には,考えに入れておかねばならない邪悪な敵がいます。あなたは,全人類を憎むような者の実在など実感してはいないかもしれませんが,確かに存在するのです。あなたは,うそを言う計画的な殺人者につけねらわれているのです。その者は人の目に見えないだけに,あなたの側に一層の用心が必要です。あなたのわきに立っているとしても,見ることはできません。にもかかわらず暴力的な方法で「死をもたらす手だて」を持っています。それはいったいだれでしょうか。悪魔サタンです。―ヘブライ 2:14。
2 サタンとはだれですか。彼が一番の目標としているのは何ですか。
2 それにしても悪魔は何を望んでいるのでしょうか。なぜあなた個人が危険にさらされているのでしょうか。まず次のことを忘れてはなりません。つまり悪魔はかつて真の神エホバの崇拝者であったが,『真理のうちにかたく立たなかった』ということです。彼は背教し,自分を崇拝させたいという彼自身の野心と欲望を,創造者の関心事よりも先に置きました。自分の行為を正当化し,自分が崇拝を獲得するために,サタンは天地の被造物すべての忠誠を打ち砕くことを目標としました。サタンはあなたと神との関係を断つことを望んでいるのです。それで,あなたは攻撃を受けているのです。―ヨハネ 8:44。マタイ 4:9。a
3 地に対する悪魔の影響はどれほどの範囲に及んでいますか。
3 あなたにとって,悪魔崇拝など思いもよらないことかもしれません。ところが実は,真の神を崇拝していると考えている人の大多数は,実際にはサタンの側に,また悪魔の考え方に従った悪魔の使いたちの側にいるのです。そのことを疑う人たちもいるでしょう。しかし啓示 12章9節は,「悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者」に言及しています。さらに,ヨハネ第一 5章19節は,「全世界が邪悪な者の配下にある」ことを述べています。聖書の他の箇所ではサタンは,「この事物の体制の神」と呼ばれています。(コリント第二 4:4)創造者の見地からすれば人類の大多数は悪魔の影響と支配の下にあるということが,これらの言葉からかなりはっきり分かるはずです。
4 サタンは明らかにある程度“成功”していますが,どのようにしてそうしましたか。
4 『人類のほとんどが,サタンの支配を,しかも明らかにそれと知らずに,受けるようになるといったことが,どうしてあり得たのか』と問う人もあるでしょう。その原因はサタンが用いる方法にあります。それは完全なアダムとエバさえ免れ得なかったほど効果的な方法です。かつては「真理のうちに」いたために,サタンは『自分を光の使い』に変様させる方法をよく知っているのです。(ヨハネ 8:44。コリント第二 11:14)おいしそうに調理された毒入り料理が,疑念のない人の心を引くのと同じく,サタンは多くの場合,人が持つ正常で自然な欲望に訴える事柄を取り上げますが,それらを,確実に破滅をもたらすものとなるようにねじ曲げるのです。生じた結果に気づいたときにはもう遅い,というところまでわたしたちを連れてゆくことがサタンの望みなのです。ある期間この死の道を歩み続けるなら,やがて良心は無感覚になって,ゆがんだ道のほうが自分にとって“正常”なものとなり,ほかの人たちがみな間違っているのだ,と考えるようになります。「人の住む全地」,つまり「全世界」に生じたのはこのことだったのでしょうか。文字に書かれた神ご自身の言葉によれば,そうでした。
5 サタンは,本当に“秘密兵器”と言えるものを持っていない,と言えるのはなぜですか。
5 これが聖書的に真実であるとすれば,当然人は,『サタンの陰険な攻撃に抵抗して勝てる人がいるのだろうか。サタンがどんな手段を用いるか,前もって正確に知る方法が何かあるのだろうか』と考えるでしょう。幸いなことに答えは,然り,です。神の言葉と,クリスチャン会衆の現代の歴史とを研究するなら,サタンのたくらみのすべてを知ることができます。サタンは本当に“秘密兵器”と言えるものは何も持っていません。伝道の書 1章9節(口)に述べられていることはサタンについても言えることです。「先にあったことは,また後にもある,先になされた事は,また後にもなされる。日の下には新しいものはない」。サタンは創造者ではないので,全く新しいことを考え出して,わたしたちを完全に驚かすことはできません。サタンには限界があります。それで,サタンが人類に対する全面的攻撃に用いてきた「悪だくみ」を幾つか検討し,防御態勢を整えるのにどうしたらよいか考えてみましょう。―エフェソス 6:11,王国行間逐語訳。
攻撃方法
6 サタンがしかける正面攻撃はどんなものですか。クリスチャンはどのようにそれを受け止めることができますか。
6 サタンはその戦争においてしばしば正面攻撃に出ます。この方法を特徴づけるものは脅し,投獄,禁令,暴力行為などで,その炎をあおり立てるのは多くの場合国家主義です。そうした攻撃を受けても妥協しなかったために,職や家や家族,はては自分の命まで失った人たちもいます。わたしたちの敵は,そのような恐怖戦術を用いてわたしたちを圧倒し,おびえさせて降伏させることを望んでいるのです。サタンは,人間が自然の傾向として苦しみや心配から逃れるためになんらかの手を打つことを知っています。頭痛がすれば,痛みを和らげるために何かをしようとします。それでもし十分に苦しめてやれば,その苦しみから逃れようとして妥協するだろうから,あなたとエホバ神との関係が断てる,とサタンは計算しているのです。現代になって,エホバのクリスチャン証人は,地球上のすべての大陸において,こうした事柄に耐えねばなりませんでした。ほとんどの人は,そうした脅しをかけられて“正常”な道を歩み続けていますが,“時勢に抗する”ことを恐れない真のクリスチャンは,忠実を保ちます。
7 サタンは恐れの気持ちをどのように利用しますか。
7 クリスチャン会衆と交わり始めて日の浅い人々に特に強い影響を与えるサタンの別の『悪だくみ』は,近所の人,友人,親族などの思わくに対する恐れを利用することです。身近な家族の者が背を向けるかもしれず,配偶者まで反対するかもしれません。その場合にわたしたちは,突如奇襲攻撃を受けたかのように我を失うべきでしょうか。そのようであってはなりません。イエスは警告されませんでしたか。「わたしが地上に平和を投ずるために来たと考えてはなりません。平和ではなく,剣を投ずるために来たのです。わたしは分裂を生じさせるため,男をその父に,娘をその母に,若妻をそのしゅうとめに敵対させるために来たからです。実際,人の敵は自分の家の者たちでしょう」と。(マタイ 10:34-36)聖書の原則に従おうとすれば,そういう人たちからの圧力がかかってくるかもしれません。人に受け入れてもらいたい,というごく普通の欲求にあなたが負けて妥協することを望んで,サタンはこの方法を用いるのです。あなたはそういう攻撃の目標になったことがありますか。
8 わたしたちが持っている安全を望む気持ちをも,わたしたちに不利になるように,どのように利用されることがありますか。
8 サタンはさらに別の分野でわたしたちを害そうとしていますが,それは,安全に対する人間の欲求と関連のある分野です。キリスト・イエスは,ご自分の話を聞いていた者たちに,「思い煩うのをやめなさい」,「『わたしたちは何を食べるのか』,『何を飲むのか』,『何を身に着けるのか』などと言ってはなりません」と助言されました。後日,使徒パウロも,「何事も思い煩ってはなりません」と述べています。(マタイ 6:25,31。フィリピ 4:6)言い換えれば,もしわたしたちが自分の分を尽すなら,エホバ神は,わたしたちが生活に必要なものを得るよう顧みてくださるということです。しかしサタンは,わたしたちが創造者に頼ることを望みません。むしろ,霊的な事柄に対する関心をわたしたちから押し出してしまうことを目標にしていますから,燃料や食糧その他の物資の不足,インフレなどから自分を守るために自分で非常な工夫をしなければならない,とわたしたちが考えることを望んでいます。向こうしばらくの間は大丈夫なように,自分に必要な物を十分用意している人々でさえ,何か月また何年か先になったらどうなるのだろう,と心配しています。また,わざわざ作り出される不足や,預言されていた不足への自衛策として,普通以上に多くの物資を蓄えておかねばならない,と感じている人々もいます。神の言葉の中の,「ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」という明確な助言に従う人はなんと少ないのでしょう。多くの人は,サタンのこの巧妙な攻撃に屈し,生活の諸問題の霊的解決策を締め出されてしまいました。こうした問題において,あなたはどうしていますか。―テモテ第一 6:8。啓示 6:5,6。
9 サタンは,わたしたちの悪気のない欲望を攻撃の手段として利用することがあります。どのようにしてそうするか,例を挙げなさい。
9 娯楽と息抜きの必要は,わたしたちだれもが感じるもう一つの自然の欲望です。しかし,こうかつなサタンは,少しの変化を求めるだけの悪気のない欲望を,総攻撃に変えることができます。それは,心配,人間への恐れ,国家主義などと同じほど,わたしたちの霊性に破壊的な影響を及ぼしかねません。スポーツや音楽,また他の形の娯楽への関心は,わたしたちが霊的責任を果たしてゆくのに差し支えるまでに時間とお金をそちらに費やすほど,わたしたちの注意を奪う恐れがあります。あなたは,霊的な事柄に当てる時間,関心,お金に比較して,余暇の娯楽にはそれらをどれほど費やしていますか。あなたの答えは,サタンがあなたに対する攻撃で成功しているかどうかを,ある程度示すものとなります。
10 サタンが用いる極度に邪悪な攻撃手段の一つは何ですか。説明してください。
10 悪魔が用いる極めて邪悪な攻撃手段は,結婚したいという全く正常な願いまたそれに伴う親密な行為と関連があります。例えば,婚約しているカップルは,『わたしたちは明日結婚するんだし,お互いに愛し合っている。結局,結婚そのものは一枚の紙片と二,三の言葉に過ぎない。本当に重要なのは,わたしたちの互いに対する感情である。だから,既婚者に与えられている,親密な間柄の者たちが持つ特権の幾つかを今から楽しむのがどうして悪いだろう』と考え始めるかもしれません。エデンの園でも,禁じられた果実そのものには悪いところはありませんでした。しかしエホバ神は,それを食べてはいけない,と言われました。神がそう言われたために,それを食べるのは悪いことになりました。男女関係についても同じことが言えます。明日は正しいことでも今日は間違っているかもしれません。サタンのこうかつな手は,エホバは正当な理由なく,有益なもの,楽しいものを与えないでいる,とわたしたちに思わせることです。人間には,何が正しいか,何が間違っているかを自分で決める「権利」がある,という考えをサタンは育てました。乱交はそのような考えの副産物で,わたしたちが警戒しなければならない一つのわなです。サタンの攻撃に直面してもしっかりした立場を保ちたいと思うなら,クリスチャンは神の律法に対する疑問の余地のない忠誠を実証しなければなりません。
用意が肝要
11 わたしたちは,サタンの攻撃に備えるために何をすることができますか。
11 サタンの攻撃に対して自らを備える際の基礎となるのは,わたしたちの防御が肉によるものではなくて主に霊によるものであるという認識です。そのことはエフェソス 6章11-13節で明らかにされています。「悪魔の策略にしっかり立ち向かえるように,完全にそろった,神からのよろいを着けなさい。わたしたちのする格闘は,血肉に対するものではなく,もろもろの政府と権威,またこのやみの世の支配者たちと,天の場所にある邪悪な霊の勢力に対するものだからです。このゆえに,完全にそろった,神からのよろいを取りなさい。あなたがたが,邪悪な日にあって抵抗できるように,また,すべての事を徹底的に行なったのち,しっかりと立てるようにです」。したがって,自らを守ることにおいては,若者であろうと老人であろうと,筋骨たくましい人であろうと虚弱な人であろうと,健康な人であろうと病気の人であろうと,変わるところがありません。ダビデがゴリアテに対抗したように,わたしたちは敵に立ち向かうことができます。敵の外観がどこから見てもたち勝っているように思えても,わたしたちは勝利者になることができます。そうなるのは,わたしたち自身が老練であるからではなく,むしろ霊的に用意の調った状態を保っているからです。確かにこれはわたしたちの唯一の防衛手段です。
12 確固とした立場を保つには,どんな問題を理解していなければなりませんか。
12 他の人たちが,神への忠誠を激しく試みられる中で忠実を保っていることを読んだり聞いたりするのはともかく,問題が直接自分に降りかかり,自分自身の命と忠誠がどうなるか分からないような状態になるとき,わたしたちは各自どうするでしょうか。そのような反対に個人的に対抗してしっかり立つには,エホバが攻撃を許す理由を自分でよく知っていることが非常に大切です。わたしたちは,自分が忠誠をテストされていること,そして神への愛ゆえに奉仕しているのでない者は除かれるということを,覚えていなければなりません。さらに,わたしたちが忠誠を保つなら,悪魔がうそつきであることの証明となり,エホバの主権の正当性を支持することになります。もしこの苦しみの理由を見失うなら,わたしたちは自分をあわれむ気持ちにたやすく負けてしまうでしょう。それは妥協につながり,わたしたちの防御線に破れ口ができたことになります。神の主権が関係している宇宙的論争の中で神の民が個人的に演ずる役割を,時折思い返してみることは,彼らすべてに大きな益となります。―ルカ 22:31。
13 どんな歴史の研究は,わたしたちの助けになりますか。
13 成功する防御法の一つは,起こるかもしれない試練の一つ一つにどう対処するかを,前もって決めておくことです。コリント第二 2章11節がサタンの努力について述べているように,「わたしたちはその謀りごとを知らないわけではないのです」。聖書には彼の戦術の歴史が余すところなく記されています。ですから,この点についてだれも無知でいる必要はありません。優秀な軍人は,過去の歴史的戦争を研究し,学んだ事柄を応用して益を得ます。敵のさまざまな戦略に対してどう反撃するかを前もって心のうちに決めておきます。種々の作戦行動を完璧なものにするために,模擬遭遇戦を行なうことさえするでしょう。ところで,わたしたちは各自「キリスト・イエスのりっぱな兵士」として,聖書や,最近では「エホバの証人の年鑑」に記されている,神の民に対するサタンの攻撃の記録から益を得ることはできないでしょうか。サタンの用いる種々の術策を個人研究の主題とし,それぞれの場合にどのようにして自分の立場を固く守るか考えてみるのはどうでしょうか。そうすれば,油断している弱いときに捕えられることはないでしょう。すでに決定はしてあるので,突然,どたん場になってそれをしなければならないようなことは起こらないでしょう。自分に正しいと分かっている行動をとることに心掛け,あくまでもその努力を続けるでしょう。―テモテ第二 2:3。
14 サタンの攻撃に抵抗することが可能であることを何が証明していますか。
14 ペテロ第一 5章9節の言葉を記憶していることも,忠誠を保つ上で助けになります。「堅い信仰をもって[サタン]に立ち向かいなさい。苦しみを忍ぶ点での同じことが,世にいるあなたがたの仲間の兄弟全体の中で成し遂げられているのを,あなたがたは知っているからです」。ある人々は未信者の配偶者や,家族に関係した深刻な問題を抱えています。巧みな誘惑,失業,残虐な迫害などに耐えながらなお忠実を保った人たちもいます。わたしたちすべてに共通の弱点を持つ『普通の』人々が『立ち向かって』勝利者となったのです。彼らがそうしたのであれば,あなたもサタンの攻撃を受け止めることができます。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば,彼はあなたから逃げ去ります」という言葉を忘れないようにしましょう。―ヤコブ 4:7。
15 援助はどこで得られますか。わたしたちは自分をどのように強めるべきですか。
15 人々が防御を強化するよう助けるための援助は,世界中に存在するエホバの証人の会衆を通して得られます。エホバは,ご自分の民を霊的に築き上げるための種々の備えを,彼ら全員が可能な限り利用することを期待しておられます。攻撃を受ける日に備えて自らを強くするためには,ちょうど食料品を買いに行ったり,医者に行ったり,また生活の中の他の重要な問題を処理するのと同じように,会衆の取り決めに従って必要な霊的食物を得,交わりや活動を行なわねばなりません。
16 サタンとの戦いで,祈りはどのように助けになりますか。
16 サタンは,わたしたちが一番予期していない時に攻撃するのを好みますから,わたしたちの慈愛深い父は,どんな時にでも即座に用い得る防御手段を与えてくださっています。それは祈りと呼ばれています。長年サタンの攻撃の下で耐えてきた人たちは必ず,祈りこそ力の第一の源である,と言います。サタンとのこの戦いにおいて自らを守るためにわたしたちが所有している種々の手段については,エフェソス 6章に概説されている通りですが,それを説明するに当たって,次の点,つまり「すべての機会に霊によって祈りなさい」ということが強調されているのにお気付きでしょう。自分の内部では弱さを感じるかもしれませんが,祈りはあなたを塔のように強くなし得るのです。―エフェソス 6:18。フィリピ 4:13。
17 たゆみなく祈ることの主な益は心理的なものですか。それとも何ですか。
17 しかし,祈りはどのように助けになるのでしょうか。祈りの主な益は,それがわたしたちに及ぼすかもしれないある程度の心理的影響に過ぎないのでしょうか。そうではありません。ヤコブ 5章16節によると,「義にかなった人の祈願は,それが働くとき,大きな力があります」。ですから祈りは実際にある事柄を成し遂げます。なるほど世界の出来事の一般的なパターンを変えることはないかもしれませんが,細かい事柄がどう解決するかには相違をきたします。例えば,パウロは獄中で問題をどう見たでしょうか。『さて,兄弟たち,わたしは牢獄につながれています。これはわたしに対する神のご意志に違いないので,このことについては,わたしたちにできることは何もありません』と言ったと思いますか。決してそうは言いませんでした。むしろパウロは,自分のために祈るように兄弟たちを励ましました。なぜでしょうか。次の言葉に注目してください。「しかしわたしは,あなたがたがそうしてくれるようにとなおいっそう勧めます。わたしがそれだけ早くあなたがたのところに戻るためです」。彼らのたゆまぬ祈りは,パウロの釈放される時について,確かに相違をもたらしました。―ヘブライ 13:19。フィレモン 22と比較してください。
18 神はどんな様々な方法で祈りに答えられますか。
18 しかし,たゆまず祈るにもかかわらずサタンの攻撃が続いたらどうでしょうか。それは神があなたに背を向けたということですか。そうではありません。たとえ法廷で勝利を得させなくても,また政府が発した禁令を解かせるとか,障害や誘惑を取り除くことなどをされなくても,神はあなたの祈りに答えておられますから安心してください。神には解放をもたらす別の方法があるのかもしれません。あるいは反対が続くのを許しておくことは,神がその正しい目的を達成するのに役立つのかもしれません。この点に関し,わたしたちは次のことを思い出します。それはパウロがローマでの自分の投獄について言ったことです。彼は自由にされることを望んだに違いありません。それでも,自分が獄にとどめられることをエホバが許されるかもしれない理由を理解していました。彼は次のように述べました。「さて,兄弟たち,あなたがたに知って欲しいのですが,わたしに関することがかえって良いたよりの前進に役だつ結果となり,わたしのなわめがキリストのことに関連して親衛隊の全員とほかのすべての人たちの間で公に知られるようになりました。そして,主にある兄弟たちの多くは,わたしが獄につながれたことのために確信を持ち,神のことばを恐れなく語る勇気をいよいよ示しているのです」― フィリピ 1:12-14。コリント第二 12:7-10と比較してください。
19 あなたがしっかりした立場を保つなら,それによって他の人々はどのように助けられますか。
19 神は,ナチス・ドイツ,韓国,マラウィなどで,エホバの証人の一部に対する長期にわたる残虐な迫害を許してこられました。しかし,彼らの忠実さはわたしたちを鼓舞しなかったでしょうか。彼らはだれもが読める公の記録を提供し,エホバの証人が組織として神への忠誠を曲げないことを示さなかったでしょうか。それで,あなたが家族の中で試練に直面するとき,健康を害したり,世の反対に遭ったりしたとき,あなたの忠実の模範が,あなたのクリスチャンの兄弟たちを築き上げるのにすばらしい影響を及ぼすことを忘れないでください。こういう方法で神に用いられるとは,なんと大きな特権でしょう。祈りは,迫害に耐え,以前の「友」を失うことに耐える力をあなたに与えます。祈りは,物質主義の圧力や不道徳な誘惑に抵抗する助けになります。サタンの攻撃に直面して強力な霊的防御を持つわたしたちは,本当にしあわせです。
-
-
攻撃の下にあって信仰を示すものみの塔 1976 | 11月1日
-
-
攻撃の下にあって信仰を示す
「人に共通でない誘惑があなたがたに臨んだことはありません。しかし,神は忠実であられ,あなたがたが耐えられる以上に誘惑されるままにはせず,むしろ,あなたがたがそれに耐えられるよう,誘惑に伴ってのがれ道を設けてくださるのです。」― コリント第一 10:13。
1 信仰についてわたしたちはみなどんな質問をしてみることができますか。
あなたはどれほどの信仰をお持ちですか。事態が険悪になっても,それを切り抜けるだけの信仰がありますか。好きな食物や衣服,非常に愛着のある家などを奪われても確固とした立場を保ち,依然としてエホバにより頼むことができますか。投獄され,健康を害し,はては命を失うようなことになっても耐え,将来に対する神の約束を信じ続けることができますか。そのような「信仰はすべての人が持っているわけでは」ありません。エホバの忠実なクリスチャン証人は,イエスに向かって「わたしたちにさらに信仰をお与えください」と言った使徒たちと同じ心境であるにちがいありません。―テサロニケ第二 3:2。ルカ 17:5。
2 サタンの迫害に関してはどんなことが確実ですか。
2 『わたしはそういう目に遭うことはないだろう』と考える人もあるでしょう。イエスは真のクリスチャンたちに前もって警告されました。「しかし,これらのすべての事の前に,人びとはあなたがたに手をかけて迫害し,あなたがたを会堂や獄に引き渡し,あなたがたはわたしの名のために王や知事たちの前に引き出されるでしょう。さらに,あなたがたは,親,兄弟,親族,友人たちによって引き渡され,彼らはあなたがたのうちのある者たちを死に処するでしょう。またあなたがたは,わたしの名のゆえにすべての人の憎しみの的となるでしょう」。(ルカ 21:12,16,17)この言葉を聞いた使徒たちは,この預言が,明日太陽が昇るのと同じほど確実に自分たちの上に,またキリストの追随者すべての上に成就することを知っていました。もちろんイエスは,クリスチャンひとりびとりがあらゆる種類の迫害に耐えねばならない,とは言われませんでした。こうした事柄は,集団としての神の民に降りかかるものでした。しかし,攻撃手段はともかく,『キリスト・イエスにあって敬神の専念をもって生活しようと願う者がみな同じように迫害を受ける』よう,サタンが仕向けることは確実です。―テモテ第二 3:12。
3 今日でも信仰が必要なのはなぜですか。
3 今日のわたしたちには預言以上のものがあります。西暦一世紀から1976年の今年に至るまで,エホバのクリスチャン証人に加えられてきた迫害を概説した歴史的記録があります。流血を喜ぶ多数のローマ市民が正面観覧席から歓声を上げる中で,クリスチャンたちが野獣に引き裂かれた恐るべき記録については,ローマ史研究者のよく知るところです。この20世紀においても,神の民は相変わらず圧迫されています。今日でも,エホバの証人のクリスチャンとしての業は幾つかの国で禁止されています。投獄されている真のクリスチャンも少なくありません。命を失った人たちもいます。神の民は皆なんらかの形で,彼らの忠誠を砕くことを目的とする勢力の支配を受けています。しっかりと立つためには信仰が必要です。
4 神の現代の民は,どのように強い信仰を実証しましたか。
4 今の時代の神の民が試練に耐える信仰を有していることは,疑う必要はありません。世紀の変わり目に,ほんの一にぎりの男女が,伝統的宗教思想から離れ,幾世紀もの間真理として守られて来た教理を偽りであると公然と非難するには,信仰を必要としなかったでしょうか。またわずか数千人の彼らが,1922年のシーダーポイント大会で行なわれた,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい」との呼びかけに応ずるには,信仰を要求されなかったでしょうか。現在では幾百万もの人々が交わっていて,神の組織は今日非常な増加を楽しんでいますが,当時はだれもこのような状態を予見することはできなかったのです。そして,国家主義が幅をきかせていた第二次世界大戦中に,また政策に同調しない者たちが人類を憎む者とみなされていたときに,神の言葉を忠実に固守し,中立の立場を保ったのはだれでしたか。エホバのクリスチャン証人でした! 彼らは,第一世紀における発足当初から彼らの現代史に至るまでずっと,『見えるところによらず,信仰によって歩いて』きました。(コリント第二 5:7)ほかの人々が皆神の言葉を嘲笑しているときに,彼らをして神の言葉を信じさせたのは彼らの信仰でした。忠実な人たちのこの信仰は報われました。彼らの確信はむなしいものではありませんでした。今日の多数の人は今それを認めています。
5 信仰を必要とするどんな事柄が将来生じますか。
5 しかし,エホバの証人がサタンの攻撃に直面して勝利を得るには,信仰が必要であり,それを要求する挑戦がまだ将来に控えています。今日,わたしたちはこの事物の体制の滅びの瀬戸際に住んでいます。今の時点では,エホバが,ご自分の民の信仰を打ち砕こうとする敵の試みをどこまで許されるか明らかでありません。また神が,個々のわたしたちをどんな手段で救ってくださるかも明らかではありません。―マタイ 24章。マルコ 13章。ルカ 21章。
逃れ道が定かでないときに信仰が必要
6 わたしたちの信仰を試みるどんな事態が発展する可能性がありますか。
6 この「終わりの時」はその頂点に向かって急速に進んでいますから,神の民は逃れ道がどこにあるかはっきり分からないような状態に置かれることがあるかもしれません。事実,わたしたちの生活には,人間の見地からすると逃れる手段などないように見える緊急事態が生じ得ます。今日ある人々は,来月また来年の自分たちの福祉をかなり気にかけています。しかし事態は,明日の日の食物も,衣服や住まいも,自由や命も分からないほどの危機に達するかもしれません。もしなすすべがないように思えるならわたしたちはどう反応するでしょうか。事態を切り抜けさせてくれる者としてだれに頼るでしょうか。わたしたちの信仰は極限まで試されるかもしれません。
7 パウロは彼を強くするどんな「秘訣」を学びましたか。
7 パウロは,フィリピにあった仲間の信者の会衆あてに,ローマの牢獄から手紙を書き送っていますが,その中で彼は25年余にわたるクリスチャンとしての経験から学んだ一つの「秘訣」について語り,こう言っています。「自分が乏しいことについて述べているのではありません。わたしは,どんな境遇にあろうとも自足することを学び知ったからです。実際わたしは,乏しさに処する道を知り,あふれるほどの豊かさに処する道を知っています。いっさいの事において,あらゆる境遇のもとで,飽きるにも飢えるにも,満ちあふれるほど持つにも乏しさを忍ぶにも,その秘訣を学び取りました。自分に力を与えてくださるかたのおかげで,わたしはいっさいの事に対して強くなっているのです」― フィリピ 4:11-13。
8 どんな経験を通してパウロは貴重な教訓を学びましたか。
8 まさかの時に神がどんな方法で必要物を備えてくださるかは,エホバの民の多くがまだこれから経験しなければならない事柄です。使徒パウロの生涯を見るなら,その秘訣は洞察できます。例えば,コリント第二 4章8-11節を読んでみてください。使徒はそこで,わたしたちは圧迫され,困惑させられ,迫害され,倒されるかもしれないが,「見捨てられているわけではなく……滅ぼされているわけでは」ないと述べています。またコリント第二 11章24-27節も読んでください。「ユダヤ人たちからは四十より一つ少ないむち打ちを五回受け,三度杖で打ちたたかれ,一度石打ちにされ,三度難船を経験し,一昼夜深みで過ごしたこともあります。幾度も旅をし,川の危険,追いはぎの危険,わたし自身の民族からの危険,諸国民からの危険,都市での危険,荒野での危険,海での危険,偽兄弟たちの間での危険に遭い,労し苦しみ,眠らぬ夜を幾度も過ごし,飢えと渇きを知り,食物を取らないことが何度もあり,寒さと裸を経験しました」。確かに彼は,一体明日までどのようにして持ちこたえるのだろう,と考えざるを得ないような目にしばしば遭った人でした。しかし,彼はクリスチャンとして得た経験から教訓を学びました。わたしたちもそれから益を受けることができます。
9 どうすればわたしたちもパウロと同じ「秘訣」を学べますか。
9 事態が険悪になるとき,あるいは逃れ道が定かでないときに退く人は,困ったときに神がどのように強め,必要物を備え,希望がないかに見える状態から逃れ出る道を与えてくださるかを体験することはないでしょう。先の成り行きが分からない限りしりごみするのが人間の示す一般的な反応です。信仰が関係してくるのはここのところです。それは非常に強い強力な信念で,人間の感覚では感じ取れない事柄も,信仰を持つ人の思いの中では現実のものです。その人は確かな保証を有しています。その保証がその人の信仰なのです。パウロは信仰を次のように定義しています。「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」― ヘブライ 11:1。
10 (イ)西暦前1473年,イスラエル人はどんな障害に直面しましたか。(ロ)にもかかわらず神は彼らに何をすることを命令されましたか。
10 エホバ神がわたしたちに期待しておられる信仰の働かせ方の良い例は,ヨシュア記 3,4章に記録されている通り,イスラエル人の約束の地への移住に関連して見られます。それは西暦前1473年の春のことでした。イスラエル人はヨルダンの東側の,死海の真北に当たる地点に野営していました。40年間荒野をさまよった末,いまやついに神の時は到来し,イスラエル人が正当に彼らのものである地に入り敵からそれを分捕る時となりました。それにしても,300万人余の男女子供が動物と物資を携えて,雪解けと春の雨とで増水し奔流となっているヨルダン川を,どのようにして渡るのでしょうか。それでもエホバは,彼らが祭司たちを先頭に川の中に入って行くことを指示されました。その命令は次の保証と共に与えられました。『全地の主エホバのはこをかくところの祭司たちの足のうらヨルダンの水の中に踏みとどまらばヨルダンの水上より流れくだる水きれとどまり立てうずたかくならん』― ヨシュア 3:13。
11 (イ)イスラエル人がどんな態度を取ることも考えられましたか。(ロ)彼らはどのように信仰を実証しましたか。
11 イスラエル人はどうしたでしょうか。『あんな激流を今渡るのは不可能だ。水位が下がるまで数週間待つべきだ。こういう「不可能な」状態の時に渡ろうとして,天幕や動物や子供たちが流されでもしたら大変だ。そのうちにエホバが,紅海でされたように,川の中に道でも作ってくださるようなことがあれば,もちろん喜んで渡ればいい』といった態度を取ったでしょうか。ではどういうことになったか,次を読んでみましょう。『かくて民はヨルダンをわたらんとてその幕屋を立ち出で 祭司たちは契約のはこをかきてこれに先だちゆく そもそもヨルダンは収穫の頃には絶えずその岸にことごとくあふるるなれど はこをかく者どもヨルダンにいたり はこをかける祭司たちの足水際に浸るとひとしく 上より流れくだる水とどまりてはるかに遠きところまでかれ ザレタンに近きアダム邑のほとりにて積りたちてうずたかくなり アラバの海すなわち塩海の方に流れくだる水まったくきれとどまりたれば民エリコにむかいて直ちにわたれり すなわちエホバの契約のはこをかける祭司たちヨルダンの乾ける地に堅く立ちおりてイスラエル人みな乾ける地をわたりゆき ついに民ことごとくヨルダンをわたりつくせり』― ヨシュア 3:14-17。
12 イスラエルが示した模範はわたしたちにどんな教訓を与えますか。
12 なんとすばらしい信仰の実証でしょう。神の民すべてにとって良い教訓です。彼らも将来,不確かな事柄に直面するかもしれないからです。もしエホバがご自分のしようとしておられる事柄やそれを行なう方法を逐一明確に説明されるなら,信仰の必要がどこにあるでしょうか。信仰とは,人間の見地からいかに不可能な道に見えても,神が導く方向に進むことを意味します。エホバ神は,わたしたちが『足をぬらす』だけの信仰があるかどうかを見ることを望まれるのです。そしてもしわたしたちが信仰をもって行動するなら,わたしたちはエホバがどのように苦難を切り抜けさせることがおできになるか,そしてまた実際に切り抜けさせてくださるのを見ることになるのです。ですから聖書が「信仰の試された質」について述べているのも不思議ではありません。―ヤコブ 1:3。ペテロ第一 1:7。
忍耐できる限度はない
13 試練という段になると,わたしたちはどういう疑問を抱きますか。
13 なかには次のように考える人たちもいます。『エホバ神が忠実であられ,ご自分の民を支援されることは信じて疑いませんが,ある試みや圧力に対して自分がどう反応するか,自分自身のことが時々心配になります。わたしには耐える力があるでしょうか。“忍耐できる限度”に追いやるのに利用できるような弱点があるでしょうか』。またある人は,『自分はどんなことにでも耐えられるけれど,親として,子供の身に何事か起こるのを見るのは耐えられない。もし子供に害が及びそうになったら,わたしはそれを忍ぶことができないと思う』と考えるかもしれません。
14 (イ)わたしたちは神の民が以前経験したことのないような試練を受けますか。(ロ)誘惑に関して聖書はどんな保証を与えていますか。
14 そうした疑問が思いのうちにあるので,使徒パウロの答えは本当によい励ましとなります。彼は仲間の信者の会衆に手紙を書き送り,多くのイスラエル人の身の破滅の原因となった事柄を,もう一度取り上げて論じます。コリント第一 10章7-10節には次のように書かれています。「また,彼らのある者たちのように,偶像を礼拝する者となってはなりません。『民は食べたり飲んだりするために座り,また楽しく過ごそうとして立ち上がった』と書かれているようにです。また,彼らのある者たちが淫行を犯したように,淫行を行なっていることがないようにしましょう。彼らは一日に二万三千人が倒れる結果になりました。またわたしたちは,彼らのある者たちがしたように,エホバを試したりはしないようにしましょう。彼らはへびによって滅びる結果になりました。また,彼らのある者たちがつぶやいたように,つぶやく者となってはなりません。彼らは滅ぼす者によって滅びる結果になりました」。そうした事柄はクリスチャンたちへの例として生じたのである,とパウロは述べ,『自分には決して起こらない』と考えることの愚かさを警告しています。次いで彼は,聖書の中でも最も励ましとなり,人の信仰を築き上げる考えの一つとなる陳述を行ないます。「人に共通でない誘惑があなたがたに臨んだことはありません。しかし,神は忠実であられ,あなたがたが耐えられる以上に誘惑されるままにはせず,むしろ,あなたがたがそれに耐えられるよう,誘惑に伴ってのがれ道を設けてくださるのです」― コリント第一 10:13。
15 (イ)クリスチャンの忠誠には“忍耐できる限界”がありますか。(ロ)エホバはどのように「のがれ道を設けて」くださいますか。
15 神のご意志を行なうことに誠実に努めている忠実なクリスチャンにとって,この節が何を意味するか,あなたはご存じですか。もしあなたがそういう人であるなら,それは,神に対する忠誠に関する限り,あなたには“忍耐できる限度”というものなどないということです。目に見えるものにせよ見えないものにせよ,あなたを圧迫して,神に対するあなたの忠誠を確実に打ち砕き得る権力,勢力,たくらみ,すなわち“秘密兵器”はありません。あなたの敵が,あなたの不利になるように利用して必ず成功する,いわゆる“弱いところ”はありません。肉体が耐え得る限り神に対して忠実であるなら,自分の力ではもはやこれ以上持ちこたえられない,と思うときに,エホバ神が踏み込んで助け,「のがれ道を設けてくださる」のを確かに知ることができます。これは必ずしも神が誘惑を取り除かれることを意味しません。むしろ,神のこの介入の目的は,「あなたがそれに耐えられるよう」にすることにあります。
16 忍耐することにおいて,信仰はどんな役割を演じますか。例を挙げなさい。
16 聖書に基づいて問題をこのように正しく理解しているなら,事態が極度に困難になっても,それを正しく見るのに役立ちます。例えば,自分の子供を迫害者に連れ去られるかもしれない親は,それさえ耐えることができるでしょう。ただし,神の助けがあって初めて耐えられるのです。自分はできる限りのことをしたのだし,またエホバがそのようなことが起こるのを許しておられるのであれば,確信をもって問題をそのみ手にゆだねればよいということが分かるでしょう。あなたの子供のめんどうを見るより優れた資格を持つのはだれでしょうか。あなたですか。それともエホバ神とそのみ使いの軍勢ですか。事態は全く希望のないものに見えるかもしれず,エホバがどのように事を解決されるか直ぐには分からないかもしれませんが,エホバに対する信仰と,子供のような信頼が関係してくるのはここのところです。これなくしてはわたしたちは耐えることができないでしょう。―ヘブライ 11:6。
今小さな事柄に忠実でありなさい
17 どんな原則に対する確信は,将来の試練に立ち向かう助けになりますか。
17 神の民は,将来どんな試練が自分たちを待ち受けているか確かには知りません。しかし,よしそれがどんなものであろうとも,イエスの述べられた原則が真実であることをわたしたちは確信しています。「ごく小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であり,ごく小さな事に不義な人は多くのことにも不義です」― ルカ 16:10。
18 「ごく小さなこと」に今忠実であれば,将来どのように役立ちますか。
18 これは事実ですから,エホバのクリスチャン証人は,折々臨む信仰の試みに首尾よく対処するよう,日々努力しています。わたしたちの日常生活やエホバへの奉仕において障害となって現われるものはたくさんあります。けれども,もしそうした「ごく小さな事」またはキリスト教の基礎的な事柄に関係した試みに首尾よく耐えるなら,将来どんなことがあっても信仰をもって立ち向かえるように強められるでしょう。悪魔が悪の限りを尽すなら尽すがよいでしょう。なんであろうと心にあるたくらみを実行に移すなら移すがよいでしょう。それらは別に新しいものではありません。サタンの攻撃の下で信仰を表明している人々はそれに立ち向かってきました。これからもそれに立ち向かって勝利を収めるでしょう。
-
-
神のみことばは人を変化させるものみの塔 1976 | 11月1日
-
-
神のみことばは人を変化させる
神からの音信が書かれている一冊の文書がどんな働きをし,どこへ行くかということも予知できません。協会のポケット版の書籍はすばらしい結果をもたらしました。ボリビアのある大学生は,数年来,聖書の内容について多くの疑問を持っていました。ある日,彼は「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する本を偶然手に入れました。それは彼の家族が求めたものでした。青年はその内容にすっかり心を奪われ,それを一気に読んでしまいました。王国伝道者が再び訪問した時,その大学生と家庭聖書研究が始まりました。青年は集会に出席し始め,新たに見いだした神の知識を女友だちと分かち合いました。彼は良いたよりの伝道者の資格を得る前に,その女友だちとの道徳上の関係を改めねばなりませんでした。しかし,彼はその若い女性と結婚し,最近の巡回大会でふたりとも,エホバへの献身を表象してバプテスマを受けました。神のみことばには確かに変化させる力があります。―「エホバの証人の1976年の年鑑」より
-
-
聖書の原則にそって行動する幼い子どもたちものみの塔 1976 | 11月1日
-
-
聖書の原則にそって行動する幼い子どもたち
神の民の幼い子どもたちでさえ,心を守り,聖書の原則にそって行動することができます。会衆の長老を父親に持つビルマの6歳の少女は,おじいさんとおばあさんのもとで2,3日過ごすために連れて行かれました。昼の食卓についた時,彼女はおばあさんが小さな動物の蒸し焼きを用意してくれたのを知って,「それはどんなふうにほふったの」と尋ねました。少女は動物の血が正しく抜かれているかどうかを知りたかったのです。おばあさんがその動物から血を抜いていないと答えると,少女は一切食べることはできないと言いました。当然のことながら,おじいさんとおばあさんは驚いて,「どうして食べられないの」と聞きました。その6歳の少女は言いました,「わたしはクリスチャンだから正しくほふっていないものは食べてはいけないとお父さんから言われています」と。するとおばあさんは,お父さんは80㌔も遠い所にいてそこに居合わせていないのだからと言い,なんとかして少女に料理を少し食べさせようとしました。もちろん,父親はそのことを知るよしもないではありませんか。しかし,少女は次のように答えました。「わたしはお父さんを崇拝していません。お父さんがここでわたしを見ていなくても,わたしが崇拝しているエホバ神はここにいらっしゃいます」。こうした会話がきっかけで,そのふたりのお年寄りは真理に関心を抱くようになりました。―「エホバの証人の1976年の年鑑」より
-