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「へりくだってあなたの神と共に歩む」ものみの塔 1961 | 7月1日
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者は誉を得る」。―ヤコブ 4:6。箴言 18:12; 29:23,新口。
新世社会のすべての者は高ぶらないよう注意しなくてはなりませんが,特にほかの者に対して権威をふるう立場にある者,たとえば両親,会衆内でほかの者を訓練計画で教えている者,会衆の奉仕の補佐たち,とりわけ監督たち,つまり会衆の僕,巡回の僕,地域の僕,支部の僕,地帯の僕はけんそんでなくてはなりません。
このような者たちはすべてへりくだって神と共に歩むことにおいて模範を示さなくてはなりません。ちょうど知識と熱意においても模範を示さねばならないのと同様です。それで使徒ペテロは古い人たちに次のような助言を与えております,「また,ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ,群れの模範となるべきである」。他の人々を教えるにあたって,パウロの次のけん責が自分に向けられないよう注意しなければなりません,「なぜ,人を教えて自分を教えないのか」。―ペテロ前 5:3。ロマ 2:21,新口。
監督がなぜ注意しなければならぬかというもう一つの理由は,非常にたくさんの兄弟たちに接するということです。ひとりの兄弟に接するばあい,それが益になるか害になるかのどちらかです。これはその監督がけんそんであるかどうかによるのです。そしてまた,その地位のゆえに監督が言ったりしたりすることは,ほかの人の言動よりもっと深刻にとられるものです。
そしてまた監督のつとめのために,忙しすぎるように見えたり,あるいは活動的,事務的すぎて,自分が責任を負うべき人々に対して真に助けとならないということが往々にしてありがちなのです。このようになると同情をかき,他人の気持になって考えるということができません。それで他の人のところまで自分自身を下げるということに失敗し,使徒パウロの次の言葉を言うことができないでしょう,「弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである」。―コリント前 9:22,新口。
さらに監督は次の警告を心にとめねばなりません,「知識は人を誇らせ,愛は人の徳を高める」。才能があるということ,学識があるということ,ある地位についているということ,これらは容易にけんそんを失わせる原因になります。新世社会の監督のだれでも「あの人はいいのだが,それを意識している」と言われるようなことがあってはなりません。つねにけんそんな気持を維持し正しい釣合を保たないならば,すぐに「高慢になって,悪魔と同じ審判を受けるかも知れない」のです。―コリント前 8:1。テモテ前 3:6,新口。
いつ特に注意すべきか
へりくだって神と共に歩むさい,特に注意してけんそんでなくてはならぬ時があるようです。ひとつのばあいは,叱責あるいは矯正される時です。集合者は次のように賢明な助言をしています,「つかさたる者があなたに向かって立腹しても,あなたの所を離れてはならない。温順は大いなるとがを和らげるからである」。それでダビデ王が預言者のナタンにより,罪を告げられた時,ダビデは神の代弁者に対して怒りを発しませんでした。それとは反対にけんそんにその叱責をうけました。ダビデが温順であり,けんきょな気持で悔い改めたために,彼の大きなとがは和らげられ,王座からひきおろされることもなく,御国契約も解かれずにすみました。―伝道の書 10:4。サムエル後 12:1-14,新口。
一方戦うのにすぐれていたウジヤ王の例があります。僭越にも香をたこうとしたため,祭司が叱責しました。しかしウジヤはこれを受けいれず,高ぶっていたので怒りを発し,祭司たちの言うことを聞きいれませんでした。その結果らい病におかされ,エホバからのやまいで死にました。神の代弁者による助言や叱責をうけた時こそ,次のさとしに注意してけんそんであるべき時です,「わが子よ,汝ヱホバのこらしめをかろんずるなかれ,そのいましめを受くるのをいとうことなかれ それヱホバはその愛する者をいましめたまふ」。―歴代志下 26:16-21。箴言 3:11,12。
もうひとつ特にけんそんでなければならぬデリケートなばあいは,責任の地位を与えられた時です。私たちはしりぞけられたサウル王のようになりたいとは思いません。サウル王は最初けんそんでしたが,自分のことをあまり重要視したため,不従順かつ僭越になり,遂にはすべてを失ってしまいました,「汝がちいさき者とみづからおもへるときに,なんぢイスラエルのわかれの長となりしにあらずや…ヱホバはその言にしたがふ事をよみしたまふがごとく燔祭と犠牲をよみしたまふや それ…そむくことは魔術の罪のごとくさからふことは虚しき物につかふる如く偶像につかふるがごとし」。小さい者とみずからを思っているかぎり,私たちにつけ加えられた特権を楽しむことができるのです。―サムエル前 15:17,22,23。
けんそんになるための助け
『へりくだって神と共に歩む』ために神が備えて下さった助けはなんですか。一番大きな助けは何といっても神の御ことばである聖書です。そのためイスラエルの王は律法の写しをつくり,「世に生きながらえる日の間それを読み,その神エホバを恐れることを学び,この律法のすべての言葉と,これらの定めとを守って行なわなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして,高ぶることがない」と言われていたのです。―申命 17:18-20,新世。
神の聖霊は愛と力と心の健全さをはかる霊です。それゆえ,聖霊は私たちを助けてへりくだらせ,こらしめられた時怒りを避けさせ,奉仕の特権を与えられて,高められた時,高ぶらないようにします。たしかにエホバを恐れるなら,私たちはけんそんでいられます。なぜならそれがあるとエホバとの関係をつねに認識でき,エホバに対する責任や,エホバに依存しているということをいつもおぼえることができるからです。そして特に祈りは私たちを助けけんそんにならせます。めぐみ,ゆるし,知恵,聖霊,力,努力に対する豊かなむくいが与えられるように神に祈ります。自分が取るに足らぬ者で,助けを必要としているということを認めて神に祈るなら,高ぶらずにすみます。
それで「へりくだってあなたの神と共に歩」みなさいというさとしの言葉をすべての者が心にとめるようにいたしましょう。そうすれば現在と新しい世で多くの祝福を得ることになります。なぜなら,「へりくだりとヱホバをおそるゝこととの報は富と尊貴と生命」であるからです。―箴言 22:4。
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「彼らは一致の中に伝道する」ものみの塔 1961 | 7月1日
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「彼らは一致の中に伝道する」
ホンジュラス
人口: 1,887,389人
伝道者の最高数: 550人
比率: 3,432人に1人
昨年のホンジュラスのわざに見られた一番けん著な点は,御国の伝道者が孤立した区域で働いたということでした。大きなまちの会衆は,余り遠くない小さなまちに出かけて行きました。また開拓者や宣教者も孤立した区域や田舎の方で広範囲にわたる宣教のわざをいたしました。兄弟たちは,今こそ世界中で行なわれている憎むべきことのためになげき悲しんでいる人々を見つけるために,どこにでもでかけて行くべきだと感じました。支部の僕はこの拡大のわざに関連した経験を次のよう知らせてきました。
ひとつの会衆は離れたところにある7つの小さいまちを毎月2回ずつ訪問して働くことにしました。これらの場所で,以前エホバの証者と勉強していた善意者を見つけました。ある場所では連絡がとだえていた献身した兄弟たちにも会いました。これらの兄弟たちはまた援助を受けてエホバへの奉仕が始められるので非常に喜んでいました。この会衆は,孤立していた区域で働いた結果昨年中にそこから15人の伝道者を得ました。
別の会衆のふたりの兄弟はこの国の中でも一番孤立している場所へ行き,1ヵ月の間休暇開拓者として働くことにしました。その地域には極度の貧困,文盲,深く根ざしている宗教的偏見があるにもかかわらず,これらの兄弟たちは200冊以上の雑誌と数多くの本と冊子を配布することができました。何週間か過ぎてひとりの姉妹がこの区域に住んでいる親類をたずねたところ,以前にこの地を訪れたエホバの証者の奉仕者たちのことを,人々がいまだに話しているということがわかりました。ふたりの兄弟は来年の休暇の時,今度はさらにふたりの開拓者もつれて,そこを再び訪ねる計画です。―年鑑
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