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科学の進歩目ざめよ! 1983 | 2月8日
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科学の進歩
今日,科学によって聖書が時代遅れになったと考える人は少なくありません。聖書研究者は科学の発達をどう見るべきでしょうか。また,科学に傾倒している人々は聖書をどのように見るべきでしょうか。これら二つの知識の源の間に生ずる対立は避け難いものなのでしょうか。
「真の科学が今示している目ざましい進歩ゆえに,時々自分が早く生まれすぎたことを残念に思う。物質に対する人間の力が一千年の間にどれほどの高みにまで達するか想像するのは不可能である」。
アメリカの政治家,ベンジャミン・フランクリンがこの言葉を語ったのは,200年前のことです。フランクリンは科学が示すであろう進歩について楽観的でしたが,そのフランクリンでさえ自分の時代以降2世紀間における科学の大躍進を見れば,驚嘆していたに違いありません。
今日,科学 ― あるいはその応用 ― はわたしたちの生活の一部になっています。アスピリンを服用する人,手術を受ける人,バスや飛行機に乗る人,電話をかける人,テレビを見る人,あるいは下水へ廃水を流し,市の下水道局にそれを処理してもらっている人などはいずれも,科学の進歩の恩恵に浴しています。
科学はわたしたちの世界観をも変化させています。かつて,食品は食品にすぎませんでした。今では,種々の食品のカロリー量や微量ミネラル,ビタミンなどの含有量が細かく調べられています。第二次世界大戦前には,コンピューターは空想科学小説から出てきたような存在でした。今では学童がコンピューターのプログラムの方法を学んでいます。またわたしたちのほとんどは,物質が微小な原子でできており,その原子は細かくて非常に活動的な粒子から成っているということ,また地球が太陽の周りを回っており,その太陽は銀河系と呼ばれる広大な星雲の一部で,その銀河系は宇宙空間にある無数の星雲の一つにすぎないという概念に慣れ親しんでいます。ベンジャミン・フランクリンの時代以来,科学者たちはこの全体像の詳細を徐々に書き入れてきたのです。
先進諸国では,科学が非常に多くのことを成し遂げてきたために,科学は将来に対する人間の最善の希望であるとみなす人が大勢います。ノーベル賞受賞者マックス・ペラッツ博士は,人間の諸問題の最善の解決策は科学にあるとはっきり考えていました。同博士はこう語っています。「司祭は貧しい民にその厳しい巡り合わせに耐えるよう説得し,政治家はそれに抵抗するよう貧しい人々に勧め,科学者はその厳しい巡り合わせを完全にぬぐい去る方法を考える」。最近のヒューマニスト宣言は,聖書が真理の源であることを受け入れず,こう主張しました。「我々は,不完全なものであるとはいえ科学的な手法がやはりこの世界を理解する最も信頼の置ける方法であると信ずる」。しかし,確かに知識の際立った源であるとはいえ,科学には欠点もあります。
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科学: 平衡の取れた見方目ざめよ! 1983 | 2月8日
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科学: 平衡の取れた見方
確かに,人類は大いに科学の恩恵に浴してきました。しかしそうではあっても,わたしたちはこうした科学の備えに対して平衡の取れた見方をしなければなりません。科学は人間の行なう業であり,人間は不完全です。ですから,科学の進歩は必ずしも祝福だけをもたらしてきたわけではありません。
例えば,自動車は速くて,便利な輸送手段となってきました。しかし一方では,そのために毎年幾十万もの人が死亡事故に巻き込まれて亡くなり,汚染の問題が生じ,世界のエネルギー資源が危険なほど枯渇してきているのです。同様に,テレビはニュースや娯楽を家庭の中に直接もたらします。しかし,家族の成員はしばしばテレビ中毒にかかり,放送される娯楽が知性のない,堕落したものになることもあります。
新しい化学物質によって数多くの産業に革命が起きましたが,そうした化学物質はまたわたしたちの飲む水や吸う空気を汚染しています。殺虫剤のおかげで農家の作物の収量は著しく増加しましたが,殺虫剤はまた野生生物を殺し,人間の健康をも脅かしています。良い結果だけではなく,悪い結果もやはり科学の進歩の所産なのです。悪いのは科学者だと考えてよいのでしょうか。
悪いのはだれか
必ずしも科学者が悪いわけではありません。科学的な研究によって自動車は比較的安全になりましたが,それでも人間の過失や故意の違反行為や飲酒などのために交通事故が相変わらず起きています。科学者には汚染を現状以下にする力がありますが,しばしば経済面の現実に阻まれてそうすることができません。科学的な発見はテレビを生み出しましたが,性や暴力や堕落した考えで損なわれていることの非常に多い番組を提供しているのは科学者ではありません。また,人々がテレビを見る習慣を制御できないことも科学者の責任ではありません。
しかし,科学の進歩が引き起こした様々な問題について,科学者に全く責任がないとするわけにはゆきません。例えば,科学によって現代の戦争は極めて危険なものになりました。だれが悪いのでしょうか。確かに,より破壊的な核爆弾やそうした兵器を運ぶためのより優れたシステムを開発するために時間を費やした科学者,あるいは恐るべき毒ガスや細菌戦の原料を開発するために知力や受けた教育を利用する科学者たちは,少なくとも責任の一端を担わなければなりません。
なるほど,戦争を始めるのは科学者ではありません。政治家です。しかし,ロンドンのガーディアン紙が提起しているように,「世界の最も優秀な科学者や技術者の半数以上が軍備競争に忙しく従事しているのであれば,どうして軍縮が始まり,核による大破壊は回避されると言えるだろうか」という質問が生じます。
科学の諸学説
科学の様々な学説を検討する場合にも,平衡を保つことが必要です。科学者たちは物質の成り立ちや宇宙の起源を説明するために,幾つかの物々しい概念を編み出してきました。しかし,こうした概念は物々しい証拠によって支持されていることがあっても,常に改訂される可能性のある学説にすぎないという点を見失うべきではありません。どんな問題であれ,科学者から決定的とみなされるような科学的な学説はないのです。
パスキュール・ジョーダン教授はこう語りました。「私は自分の研究から,自然科学,それも特に物理学が,完成され閉鎖された思考の体系ではなく,むしろ絶えざる変化を経る過程にある生きたものであることを認識するようになった」。別の科学者は,科学の提示するものが「せいぜい相対的な真理にすぎない」ことを認めています。科学随筆家ルイス・トーマス博士はこう述べています。「生物学や医学の分野で我々が本当に理解していると主張できる分野は一つもないように思える。生物,それもわたしたち自身について学べば学ぶほど,生命はさらに不思議なものになってくるように思われる」。
それだけではなく,科学の進歩の歴史を調べていると,科学者も人間であることを研究者は絶えず思い起こさせられます。偏りがあったことを示す証拠にぶつかるのです。ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は次のように伝えています。「例えば,サッカリンにまつわる論争で,砂糖業界がスポンサーになって行なわせた研究はいずれもその人工甘味料が安全ではないことを明らかにしたのに対し,ダイエット食品業界がスポンサーになって行なわせた研究はいずれもサッカリンには何も問題がないとしたことが取り上げられている」。
科学著述家アイザック・アシモフの伝えている場合のように,研究者は偏見を見いだします。「ドイツの地質学者アルフレッド・ベーゲナーは1912年に,諸大陸が幾百万年もの間に徐々に移動していることを示唆した。その考えは一笑に付され,ベーゲナーは自分の概念が認められるようになる前に世を去った」。(サイエンス・ダイジェスト誌,1981年7月号)今ではベーゲナーの概念は地質学で広く受け入れられている理論になっています。
研究者はまた,欺きの事例をも見いだすでしょう。英国の一科学雑誌は,尊敬されていたある科学者が故意の改竄で罪ありとされた後に,一つの調査を行ないました。その対象になった204人の科学者のうち92人が,自分たちの生涯にいわゆるIB(故意の偏り)の例に少なくとも一つは出くわしたことがあると語りました。この故意の偏りというのはわい曲と言うよりは丁寧な言い方ではありますが,意味は同じことです。
1976年に故意の偏りの一例が生じました。ドイツの諸新聞は当時発掘されたある化石を「一大発見」として称賛しました。それは頭足綱の失われた鎖の輪であると考えられ,それゆえ進化論を証明するものとされました。1979年に「故意の偏り」が暴露され,その化石は偽物であることが明らかになりました。「だが,古生物学[化石の研究]の歴史を振り返ってみると,それはわい曲された化石で彩られている」と一新聞記者は嘆いています。
ですから,科学が人類に大きな貢献をしてきたことを過小評価すべきではありませんが,科学に限界があることをも忘れてはなりません。この点は,科学を別の偉大な情報源である聖書と比較するとき,特に重要です。
[5ページの囲み記事]
妻子があろうと思われる,教育のある人が,文字通り幾百万もの人々を殺す兵器の設計にどうして当たれるのだろうか
“社会責任のための医師の会”の会長,ヘレン・カルディコット博士は,この同じ質問をある科学者に尋ねた時のことについて,ある雑誌のインタビューの中で次のように語っています。「私が,『ジョー,どうして人々は大量殺りくが可能なこういう兵器を設計するのかしら』と尋ねたところ,彼はこう答えました。『理由が知りたいかい。すごく面白いからさ。解決不可能な問題がある。つまり,どうやって1基のミサイルに10個の弾頭を付け,どうやってミサイルの先に1台のコンピューターを付け,どうやって各弾頭を別個の都市に落とすかという問題だ。それはただすごく面白いことなんだ」― U・S・カトリック誌。
しかし,たとえ科学者が知的な挑戦と業績にふけっていたのだとしても,彼らの高価な『面白い遊び』がわたしたち残されたものにもたらしている緊張と危険の責任のかなりの部分は,科学者たちに帰されてしかるべきです。
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科学と聖書目ざめよ! 1983 | 2月8日
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科学と聖書
現代の科学によって,聖書を信じるのは不可能なことになるでしょうか。そのように考える人もいるようですが,聖書はもともと科学の教科書ではないことを覚えておかなければなりません。それは,科学的な手法によって明らかにされるのとは異なった種類の真理を明らかにしています。しかし,聖書は時として地質学や考古学その他の科学と関連のある事柄を述べています。そのような場合,それは科学者たちの述べる事柄と調和しているでしょうか。二つの例だけを考えてみましょう。
聖書の詩編には次のように書かれています。「神は地の基をその定まった場所に置かれました……あなたは水の深みを衣のようにしてそれを覆われました。水は実に山々の上に立っていました。……山々は隆起し,谷あいの平原は沈下しはじめました」。(詩編 104:5-8)山々は本当に「隆起」するのでしょうか。また,山々は水中に没することがあるのでしょうか。「分かりやすい科学の本」は次のように述べています。「[非常に古い]時代から現在に至るまで,山々が形成され破壊されてゆくやむことのない過程が続いてきた。……山々は,消えてしまった海の底から形成されただけでなく,形成されてからずっと後に水中に没し,それから再び持ち上げられたこともしばしばあった」。
聖書の冒頭の節には,「初めに神は天と地を創造された」と書かれています。(創世記 1:1)科学者たちはかつて,そもそも初めがあったのか,あるいは物質は常に存在してきたのかについて激しく論争してきました。しかし,1979年に,タイム誌は次のように述べました。「大抵の天文学者は,宇宙に創造の瞬間があったという学説を今では受け入れている。……宇宙大爆発生成説は,旧約聖書がこれまでずっと説いてきた物語に非常によく似ているように思われる」。
しかし,聖書が述べる事柄と科学の述べる事柄とが矛盾するように思える場合もあります。聖書が間違っているのでしょうか。いいえ,そのようなことはありません。もっとも,聖書を教えていると唱える者が間違いを犯す場合はあります。
聖書は本当に間違っているのか
例えば,17世紀の昔にイタリアの科学者ガリレオは,太陽が地球の周りを回っているのではなく,地球が太陽の周りを回っているということを教えました。カトリック教会はそれを撤回するようガリレオに命じました。なぜならガリレオの述べる事柄が聖書に反すると僧職者たちは考えていたからです。結局,正しかったのはガリレオで,間違っていたのはカトリック教会のほうでした。しかし,聖書は間違ってはいませんでした。太陽が地球の周りを回っているなどとは聖書のどこにも記されてはいません。そのような説を唱えたのは古代の天文学者プトレマイオスでした。
今日,根本主義者のある人々は,地球が日を24時間とする六日間で創造されたと信じています。これは科学の教える事柄と著しく対立しますが,どちらの考えが正しいのでしょうか。
そうした根本主義者たちは自分たちの教えが聖書に基づいていると信じていますが,創世記 1章を注意深く読むと彼らが間違っていることが明らかになります。聖書は地球が過去のある明記されていない時に創造され,有名な「六日間」はその地球を人間が住むために整えるためのものであったことを示しています。―創世記 1:1-31。
なるほど,さらにその記述は,地球が形を整えてゆくときの大きな段階の各々に1日しかかかっていないことを述べています。しかし,聖書の中で,「日」という言葉は24時間という一期間以上のものを意味することがあります。それは千年間,あるいはそれ以上の長さを指すこともあるのです!(創世記 2:4。詩編 90:4)聖書の記録と実証し得る歴史とは,その創造の週の七日目が7,000年の期間にわたることを示唆しています。ですから,それに先立つ六「日間」も各々それと同じ長さになるでしょう。
ですから,創世記の第1章を読む時,単に何時間という単位ではなく幾千年という単位の長い六つの期間を経て,古代の海に陸地が現われ,昼と夜とが識別できるようになり(地球の周りから宇宙塵が取り除かれたためと思われる),植物が現われ,それに続いて魚や鳥や陸生動物が現われ,最後に人間が登場したことが分かります。多くの点で,この記述は学校の教科書に書かれている事柄と似ています。
現代の科学は本当に正しいのか
しかし,聖書が現代の科学の学説とはっきり対立する事柄を述べているような場合はどうでしょうか。聖書が間違っているとみなすべきですか。いいえ,科学は学び続ける過程にすぎないことを覚えておかなければなりません。昨日まで広く支持されていた学説が明日になれば捨てられてしまうことがあります。ですから,聖書と対立する科学的な信条が将来廃れてしまうことも十分考えられるのです。
その一例を考えてみましょう。今世紀の初頭,アブラハム,イサク,そしてヤコブに関する物語は神話にすぎないと述べた批評家ウェルハウゼンに同意する人は少なくありませんでした。今日,一般の考えは変わってきています。最近出版されたある本はこう説明しています。「ウェルハウゼンの時代以来見解は変わり,結局のところ保守的な方向へと向かったが,この傾向は,誇張されて伝えられることが多過ぎる。その公平な例は族長たちの史実性に関するものである。ウェルハウゼンは族長たちのことを最初の千年期に源を有する『美化された幻想』とみなしていた。今では,より最近の学問によって明らかにされた証拠は,族長たちが結局のところ実在の人物で,聖書の示していた期間,つまり西暦前2000年期に生きていたということを多くの人々に納得させるものとなっている」。(チャイム・バーマント,マイケル・ワイズマン共著,「エブラ,考古学における驚くべき事実」)ですから,この場合に考古学という科学の進歩が多くの学者たちの考えを聖書の述べる事柄に近付けたということになります。
聖書と現代の科学との違いで最もよく知られているのは進化論に関係したものと言えるでしょう。進化論の教えによると,すべての生物は単一の生物学的源から徐々に発達したことになっています。これは聖書の説明とは異なっています。聖書は,神がすべての生物を別個に創造され,それらの生物は各々「その種類にしたがって」繁殖すると説明しています。(創世記 1:11,12,21,24,25)科学は動物の種の中で広範にわたる変種の生じる可能性を示しました。しかし,例えばサイやワシやサバがいずれも究極的には同じ先祖からきたという概念は聖書の述べるところとはっきりと対立します。これは聖書が間違っているという意味でしょうか。
いいえ。多くの人は,入手可能な証拠から進化が起きたことを証明できるという考えを受け入れてはいません。a そして,この学説が将来どうなるか一体だれに分かるでしょうか。一つの点として,すべての生命が単一の原始形態に由来するという概念はある方面では下火になってきています。1978年に,50冊以上の科学書の著作のあるA・E・ワイルダー・スミス博士は次のように書きました。「全般に少壮の権威者のかなりの数の人は,近年,生物発生,つまり生命の起源は単元的(すべての生物は単一の細胞に由来する)ではなく,むしろ多元的(数多くの源に由来する)なものであると確信するようになってきている。ゆえに,今日ではすべての種が一個の原始細胞から生物変移により発生したということをもはや信じない権威者もいる。彼らはすべての種に共通の生物学的系統樹があり,すべての生命形態に単一の源があるということを信じていない」。
それがそのまま聖書の述べていることであるというわけではありません。しかし,それは純粋にダーウィン主義の進化論よりも聖書の述べるところに近いものです。そして将来の研究と理論付けにより,多くの科学者はさらに聖書の教えるところに近付くことになるかもしれません。しかし,たとえそうならなくても,そのために科学者たちが正しく,聖書が間違っているとみなすべきでしょうか。
科学の学説は入手できる範囲の証拠を不完全な人々が解釈することに基づいているのを忘れてはなりません。古生物学(化石の研究),および考古学の場合に,証拠のかなりの部分が損なわれていたり,失われていたり,解釈するのが困難であったりします。そして解釈をする科学者たちは大抵,その証拠が証明するものについて強い意見を持っているものです。ですから,ある科学の学説と調和しないからといってすぐに聖書を捨ててしまうべきではありません。そして,聖書が科学ではとてもきわめられないような数多くの真理を明らかにしていることを考えると,特にそう言えるでしょう。
[脚注]
a 進化論に関するさらに詳しい論議については,1981年12月22日号の「目ざめよ!」誌をご覧ください。
[7ページの拡大文]
聖書は,現代の科学が確証している事柄を数多く述べている
[8ページの拡大文]
ある点に関して聖書と科学が互いにはっきりと対立する場合,聖書が間違っていると自動的にみなすべきではない
[8ページの囲み記事]
科学がかつて次のようなことを教えていたのをご存じでしたか
● 熱は熱素と呼ばれる流体である
● 原子は物質の最も小さな粒子で,それを分けるのは不可能である
● 物質とエネルギーとの間には乗り越えることのできない障壁があり,一方を他方に変える可能性を全く阻んでいる
● 睡眠は,神経細胞が縮んで,互いに接触しなくなった時に引き起こされる
言うまでもなく,科学者たちはこうした学説をずっと昔に退け,現在自分たちの知っている諸事実とより調和した別の学説で置き換えています。将来発見される新しい事実や現在科学者たちの知っている事実に対する異なった研究方法により,科学者が現在抱いている学説は修正されたり破棄されたりすることになるかもしれません。
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科学ではきわめることができない領域目ざめよ! 1983 | 2月8日
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科学ではきわめることができない領域
「今日のように科学を極端に強調するのは危険である。……科学の発見を越えたところに確実なものは何もないとするのは道理に合わないことである」。近代コンピューターの父と呼ばれることもあるベネバール・ブッシュのこの警告の言葉は時宜にかなったものです。科学はすべての解決策を備えているわけではないのです。科学ではきわめることができない肝要な真理が確かに存在するのです。それは何でしょうか。
科学と神
ニューヨークのコロンビア大学で長い間生化学者として働いていたアーウィン・チャルギャフはかつて,「自然科学は計り知れない事柄を究明するための手段ではない。[また]神が存在するかしないかを判断することもその仕事[ではない]」と語りました。それは真実でしょうか。
今世紀の最もよく知られた科学理論家であるアルバート・アインシュタインは,「宇宙の諸法則のうちに明らかに示されている一つの霊 ― 人間の精神をはるかにしのぐ霊」について語らないわけにはゆきませんでした。さらに最近になって,才気あふれる英国の天文学者フレッド・ホイルは,生命が偶然に宇宙に発生するのは数学的に不可能であることを計算して,創造の力の存在に疑いを抱く立場からその存在を信じる立場に変わったと伝えられています。
こうした例は,「神の見えない特質……は,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見える」という聖書の言葉が真実であることをある程度例証しています。(ローマ 1:20)しかし,神について科学が教えてくれる事柄には限界があるという点に関して言えば,チャルギャフは正しかったと言えます。アインシュタインにしてもホイルにしても,物事を組織する神が存在するに違いないという以上の事実を科学から悟ることはできませんでした。その神がどなたで,その方の目的が何であるかを知るには,聖書をひもとかなければなりません。そのような知識はいずれも,科学ではきわめることができない真理なのです。
科学と将来
さらに,科学は将来を見越すこともできません。自らの諸発見のもたらす結果さえ見越すことができないのです。例えば,DDTが開発された時,この新しい武器によって害虫の問題は永久に解消するであろうと期待されました。それは植物を保護し,マラリアのような病気を広める害虫を抑えるものになるとみなされました。ところが,ドイツの新聞,フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンクは,「人類にとっての[この]祝福……夢にも見なかったような,化学の業績が」後日「祝福と呼べるかどうか疑わしく[なった]。……ドイツを行き巡るDDTの勝利の行進は終わった」と述べました。そしてドイツだけではなく,DDTの使用が禁止されるようになった他の多くの国々でも同じことが起きています。科学は,人間を含む他の生命形態にDDTが及ぼすマイナスの効果を見越すことができませんでした。
アルフレッド・ノーベルのことも忘れてはなりません。ノーベル平和賞はこの人にちなんで名付けられました。ノーベルは平和愛好者であったにもかかわらず,ダイナマイトを発明しました。なぜでしょうか。ノーベルは一人の友人に,「余りにも恐ろしい大量破壊の力を持つゆえに戦争が今後いっさい不可能になるような物質あるいは装置を発明したいと思っている」と書き送りました。ノーベルの死後に生じた二つの世界大戦は,その発明に彼の望んだような効力がなかったことを証明しています。
アルバート・アインシュタインも,ほぼ自分の理論に基づいて開発された原子爆弾が戦争の危険を今後いっさい除き去ることを願っていました。しかし,激しい戦争が依然として行なわれており,文明は自ら核の火薬だるの上に座って,だれかが導火線に火をつけるのではなかろうかと恐れおののいている状態にあります。アインシュタインは死の直前に,「こんなことになると分かってさえいたなら,錠前屋にでもなっていたことだろう」と語ったと言われています。
幾百幾千万もの人々の生活を向上させた科学が,人間を自滅させる手段をも提供しているというのは皮肉な限りです。科学者に将来を見越す力がありさえすればよかったのです。言うまでもなく,科学者にはそれができませんが,聖書にはそれができます。
聖書と将来
起きようとしている事柄を聖書が確かに正確に予告してきた過去のほんの幾つかの事例だけを取り上げてみましょう。バビロニア帝国の時代に当たる西暦前6世紀に書かれた聖書の一部分であるダニエル書には,バビロンに続いてペルシャが,そして次いでギリシャが世界強国になることを予告する預言が記録されていました。その書は次いで,広大なギリシャ帝国が四つの小さな強国に分割されることを予告し,続いて興る鉄のようなローマ帝国について確信のこもった調子で描写していました。(ダニエル 7:1-8; 8:3-8,20-22)すべてが預言通りに起きました。
将来に関する興味深い預言の一つは,イスラエルの北にあるティルスの町に関するものです。エゼキエルはティルスがネブカドネザルによって破壊される結果になることを預言し,その究極的な定めについて次のような詳細をも述べました。「わたしは彼女からその塵をこそげて,これを大岩の輝く,むき出しの表面とする。……またあなたの石や,木工物や,塵を水の中に置くであろう。……広大な水があなたを覆ってしまう」。(エゼキエル 26:4,12,19)こうしたことが生じましたか。
確かに生じました。ネブカドネザル王はエルサレムを滅ぼしてから少し後に,ティルスに向かい,それを打ち負かしました。しかし,その都市は完全には消滅しませんでした。町の住民は沿岸部にある一つの島に逃れ,そこを要塞としたのです。そしてほぼ300年後に,当時,島の都市になっていたティルスをアレクサンドロス大王が包囲しました。自分の軍隊がその島を攻撃できるようにするため,アレクサンドロスは本土にある古代の都市のがれきを取り,それを海の中に投げ込んでその島の都市に向かう道を造りました。ですから,この預言は驚くほど詳細に至るまで文字通りに成就しました。古代都市ティルスの塵がこそげられ,石や木工物や塵そのものまでが海に投げ込まれました。
さらに驚嘆すべきなのはイエス・キリストに関する預言です。聖書は,イエスがメシアとして登場される時期についてだけでなく,行なわれる事柄,さらにはどんな死に方をするかについて予告していました。イエスの生涯の行路全体は幾百年も前に書き記された預言を成就するものでした。―ダニエル 9:24-27。イザヤ 53:3-9; 61:1,2。
今日でさえ,聖書研究者は,現在の政治情勢に著しい預言の成就を見ることができます。(例えば,マタイ 24:7-15およびルカ 21:25-28をご覧ください。)また,テモテ第二 3章1節から5節に記されているパウロの言葉を読むと,そこには,今の世界の堕落しつつある道徳的風潮に関する非常に正確な描写が見られます。さらに,聖書はわたしたちの将来についても様々な事柄を預言しています。
聖書は,現在見られる,世界の政治的な危機の驚くべき解決策を予告しています。今日の対立する世界の支配者たちについて,聖書は次のように述べています。「それらの王たちの日に,天の神は決して滅びることのないひとつの王国を立てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時に至るまで続きます」― ダニエル 2:44。
その約束を信じられる理由は数多くあります。現在まで,聖書の預言すべてがその通り成就してきたということは,その約束を信じる理由として決して小さなものではありません。しかし,その預言の示す事柄を考えてみてください。これは,神の王国が間もなく全地に一つの政府を備え,今日の国家主義的で戦い合う諸政府に取って代わるという意味です。これは何と大きな変化をもたらすのでしょう。
一つの点として,科学の発達が破壊的な目的で政治家に利用されることはもはやなくなります。また,この王国はイエスが地上におられた間に行なわれたのと同じ性質の強力な業を行ないます。科学の力で白内障の混濁部分を取り除くことはできますが,生まれつき盲目の人に視力を得させることはできません。イエスはそうしたことを行なわれました。(ヨハネ 9:1-12)科学の力で義手や義足を作ることはできますが,なえた手足を元通りにすることはできません。イエスはそうしたことを行なわれました。(マタイ 12:10-13)科学は,作物の人工変種を改良し,収量を増加させる点で大きな進歩を見せてきました。しかし,イエスは5,000人以上の人々を五つのパンと二匹の魚で養いました。(マタイ 14:15-21)科学の力でも,手遅れになっていなければ,おぼれた人や心臓発作に襲われた人に息を吹き返させることができます。しかし,イエスは死んで四日たっていた人を生き返らせたのです!―ヨハネ 11:39,43,44。
しかし,それ以上に顕著なのはイエスの教えが人々に及ぼした影響であったと言えるでしょう。激しい迫害者だったサウロは,辛抱強い使徒パウロになりました。衝動的な漁師ペテロは円熟した,責任感のある人になりました。不道徳な人々が道徳的になり,家族の間の愛は強まり,敵対し合う国々に住む個々の人々が信仰に結ばれた兄弟になりました。そのような変化を生じさせることは科学の力の全く及ばないところです。
ですから,科学には多くの仕方で生活をより快適なものにする力があるとは言え,神の力によってはるかに多くのことが成し遂げられます。そして神の王国のもとではその力の及ぼす影響を十分に体験することになるでしょう。聖書はこう約束しています。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。
人間は決して近代科学発生以前の時代に戻るのではありません。むしろ,科学の力では除くことのできなかった ― しかし神が除いてくださる ― 有害な傾向から自由にされて,人間は自分たちの永続的な益のために過去と現在と将来の有用な科学的知識すべてを活用できるようになります。わたしたちは科学が人類に明らかにしてくれた事柄に感謝しています。しかし,わたしたちがそれ以上に感謝していることは,科学ではきわめることができない真理を神が入手可能にしてくださり,それを求める人々に永遠にわたる益を与えておられることです。
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