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    ものみの塔 1972 | 5月1日
    • 最近王の秘書官があなたを訪問しましたか

      「其中に一人布の衣を着,〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり」― エゼキエル 9:2,〔新〕。

      1 王の秘書官の訪問にかんしてどんな質問が提起されますか。こうした質問に対する答えは重要ですか。

      すでに相当の年月,王の秘書官が人々の家を訪問しています。最近,その秘書官があなたの家を訪問しましたか。この質問にあなたは驚いて,次のように言われるかもしれません。『王の秘書官だといって,だれかが私の所に尋ねてきたことなど一度もありません』と。しかしあるいは,今は危険な時代ですから,知らない訪問者のために戸をあけるのを恐れて,あなたは戸を閉じて,かぎをかけておられたのかもしれません。または,その訪問者のために確かに戸はあけたのですが,訪問者が王の秘書官であることには気づかなかったのかもしれません。気づかなかったからといって,彼は訪問しなかったのだろうということにはなりません。その秘書官の仕事はたいへん急を要するものであり,彼はあなたの益のために訪問していたのです。『そんなことはわかるはずがないではありませんか。その王とはいったいだれのことですか。そしてその秘書官とはだれですか。また,彼はなんの用があって訪問するのですか』,とあなたは大声で尋ねるかもしれません。こうした質問に対する答えは,緊急な事態あるいは不慮の事変が必ずや起ころうとしている今日の不安な時代にあって,非常に重要な意味を持っています。

      2 ここではどんな王が関係していますか。現代においてその王が秘書官を遣わすことは予期されていました。その理由を述べなさい。

      2 この異例の質問は,それを提起させた状況に照らして考えると,理解できます。今日の世界情勢はかつてない全く新しい事態であるというわけではありません。遠い昔,小規模ながら同様な情勢の見られた時代がありました。したがって,その時の事態は今日のわたしたちに警告を発する例となっています。それゆえにこそ,その教訓が忘れ去られることがないようその事例が古代史の中に記録されたのです。わたしたちは今日その教訓を必要としており,永続する益を願うなら,その教訓を心に銘記し,それに注意を払わねばなりません。昔の模型的な情勢におけると全く同様,最も偉大な王が,そうです,その当時と同じ王が現在においても深いかかわりを持っているのです。この王が今日遣わしておられる秘書官は,遠い昔,困窮している民のために出かけて行くよう同じ王から権限を与えられた者に相当します。そのようなことをする王が地上に何人いるでしょうか。少なくとも,この偉大な王だけはそうなさいました。彼は現代においてそうすることを,遠い昔,同様な状況のもとで行なったことによって予表しておられたのです。わたしたちを今日啓発し導くために,彼はそれに関する真実かつ正確な記録が作成されるよう取り計らわれました。

      3 今から2,582年前,世界強国,および長期間にわたったただ一つの家系の歴代の王の治める王国に関して,どんな事態が見られましたか。その王国に生じたできごとはどうして世界的な重要性を帯びるものとなりましたか。

      3 では,その記録を調べるために,西暦前612年,つまり今から2,582年前のことをふり返ってみましょう,新しく興った大世界強国(バビロン)が,世界政治の領域で優勢な立場を占めるようになってからまもない時のことです。西暦前1077年以来,ただ一つの王家によって465年間支配されてきた一つの王国が滅ぼされようとしていました。歴史の発展の跡をふり返って見ると,その王国の滅亡までにはわずか5年の期間が残されているだけでした。つまり,その首都エルサレムが実際に滅ぼされたのは西暦前607年であり,同時にその王国の神の神殿も破壊されました。この事件は人類の全世界に影響を及ぼすことになっていました。というのは,その時から,バビロニア世界強国,メデヤ-ペルシャ世界強国,ギリシア世界強国,ローマ世界強国そして英米世界強国が順を追って全人類を支配する2,520年に及ぶ期間が始まろうとしていたからです。

      4 世界支配のなされたその期間はどのように中断されずに続くことになっていましたか。それはいつ終わりましたか。西暦前612年は今日のわたしたちにとってなぜ興味深い年といえますか。

      4 その間,これら世界強国によるこの地に対する支配は宇宙で至高の力を有するかたの建てる王国によって中断される事態は起こらないことになっていました。中断されることなくなされる政治的世界支配の続くその長い期間は,歴史の上で西暦1914年,つまり,最終的には英国とアメリカから成る二重世界強国をも含む28か国を巻き込むにいたった国際戦争,すなわち,人類史上最初の世界大戦がぼっ発した年に終わりを告げました。したがってわたしたちは今,ここで注目している遠い昔の西暦前612年という年が,当時きわめて重大な時であったこと,さらにその年が今日におけるきわめて重大な時を予表していたことを認識できます。

      5 その西暦612年,1万人ほどのユダヤ人はどこにいましたか。その年にエゼキエルは幻の中でどんな経験をしましたか。

      5 西暦前612年当時すでに,エルサレムおよびユダの王国から追放され,バビロンで流刑に服している人たちが1万人もいました。(列王下 24:14)その中には,エホバ神の預言者となった人たち,つまり,ダニエルと祭司ブシの子エゼキエルが含まれていました。(ダニエル 1:1-6。エゼキエル 1:1-3)西暦前612年は,このふたりにとって流刑の6年目に当たります。その年,預言者エゼキエルは一つの幻を見ました。肉身においてはエゼキエルはバビロニアのケバル川のほとりにあるテル・アビブという場所にとどまっていましたが,霊においては,あるいは霊感によってエルサレムに移されていました。(エゼキエル 3:15; 8:1-4)この幻の中でエゼキエルは,イスラエル王国の神であるエホバの崇拝のために,ダビデの息子ソロモン王の建てた神殿を案内してもらいます。エホバは,目に見えない神であるご自分を崇拝するのに,像や絵の使用を禁じておられます。それにもかかわらず,天と地を治めるこの神にささげられたその神殿で預言者エゼキエルが見たのは,偽りの神々の崇拝に用いられているさまざまな象や,壁にかかった絵でした。たとえば,エゼキエルが目にした光景の一つは次のようなものでした。

      6 神殿のこの見学のさいにエゼキエルはイスラエルの70人の長老が何をしているのを見ましたか。

      6 「もろもろの爬蟲と憎むべき獣畜の形およびイスラエルの家の諸の偶像その周囲の壁に画きてありイスラエルの家の長老七十人その前に立てり シャパンの子ヤザニヤもかれらの中に立ちてあり 各手に香炉を執る その香の煙雲のごとくにのぼれり 彼われに言たまいけるは 人の子よ 汝イスラエルの家の長老等が暗におこなふ事即ちかれらが各人その偶像の間におこなふ事を見るや彼ら言ふエホバは我らを見ずエホバこの地を棄てたりと」― エゼキエル 8:10-12。

      7 偶像崇拝を行なっていたそれら70人の長老たちにエホバが何をもたらしたのは正しいことでしたか。どうしてそういえますか。

      7 エホバの神殿の中にいたそれら70人の長老たちがそのように言うのは正しいかどうか,また,そのような仕方でエホバの崇拝の家を卑しめ汚しておきながら,処罰されずにすむと期待するのは正しいかどうかは,時たつうちに,しかも非常に間近に明らかにされようとしていました。彼らは忌むべき仕方で十戒の第一と第二の掟を破っていたのです。エホバは,専心の献身を求めるという意味で,また,ご自分の栄光を偽りの神々と分かつことも,ご自分の賛美を偶像とともにはしないという意味で,「嫉む神」です。エホバは,エルサレムにあるご自分の神殿のただ中で偽りの崇拝をならわしにしていた者たちすべてをその罪過と罪悪のゆえに処罰されたのは正当なことでした。(出エジプト 20:1-6。イザヤ 42:8)エホバは,ご自分の考えを変えることなく,本気でそうしようとしておられたことを預言者エゼキエルに示されました。ご自分の神殿の中で行なわれている,こともあろうに太陽崇拝をエゼキエルに目撃させてその証人とした後,エホバは彼にこう仰せになりました。

      8 エホバは本気で正当な処罰を課そうとしておられたことをどんなことばで示されましたか。

      8 「我また怒をもて事をなさん[それら70人の長老によって,盲目とみなされた]吾目はかれらを惜み見ず我かれらを憫まじ彼ら大声にわが耳に呼わるとも我かれらに聴じ」― エゼキエル 8:13-18。

      9 この点で,エホバは買収されるような神ではないことを何が証明していますか。それで,個々の人間にかんしてどんな質問が生じますか。

      9 これに対し,同様に重大な時期に住んでいるわたしたちはなんと言えばよいでしょうか。エホバは憫れみのない神なのか。この時代の重大な事態がやがて最高潮に達するとき,エホバはだれにも憫れみを示されないのか,との質問をしましょうか。偽善的で偽りの崇拝者たちが自分自身の悪行の結果をこうむるままにされたからといって,いささかもエホバを非難することはできません。しかも,エホバはまさにこのことを行なうとわたしたちすべてに明確に告げておられるのですから,エホバは買収されるような神ではないという事実をわたしたちは認識すべきです。預言者エゼキエルの民はそのことを認めさせられ,それが歴史的な事実となったことは,エホバは実在する生ける神であり,全存在にわたって真実に生きておられる真理の神であることを証明しています。今日の世代の人類もまた,このことを認めさせられようとしているのです。それにしても,神がこの世代の人々に憫れみを示すかどうかについてはどんな希望があるのでしょうか。その答えは,エゼキエルの時代のエルサレムに起こった事柄からわかります。では,エゼキエルが次になんと述べているか耳を傾けてみましょう。

      その都に注意が向けられる ― どのように?

      10,11 (イ)エゼキエルの聞こえるところで大声で呼んだのはだれですか。どこから呼びましたか。(ロ)そのかたはどうしてこの都に関して命令を発する権利を持っておられましたか。

      10 「斯て彼大声に吾耳に呼はりて言たまふ邑〔に注意を向けている〕者等各々剪滅の器具を手にとりて前み来れと」。

      11 エゼキエルの聞こえるところでこの命令を発しているのはエホバです。(エゼキエル 9:1〔新〕)エホバはどこにおられるのですか。恐ろしいほど高い輪を備えた戦車に乗って進む,栄光に輝く御座に座しておられるのです。その四つの輪のおのおののそばには天のケルブがひとりずつついています。(エゼキエル 8:2-4; 10:1,2)エホバはエルサレムの都に関して指令を発する権利を持っておられます。彼は王だからです。「とこしえの王」であられるのです。(テモテ前 1:17,新世界訳。モファット訳。黙示 15:3)彼は実際にエゼキエルの国民の上に立つ,見えない王でした。そしてエルサレムの王座に座した油そそがれた王は,目に見えない王エホバの見える代表者として,「エホバの位」に座す者と言われていました。(歴代上 29:23。エゼキエル 20:33)イエス・キリストは当時のエルサレムを「偉大な王の都」と呼ばれました。(マタイ 5:35,新)ゆえにエホバは,エルサレムの都をどのように処置すべきかについて指令を発する,最高の王権を持っておられたのです。エゼキエルに与えられた一連の幻の中の次の幻によると,エルサレムは焼き滅ぼされることになっていました。(エゼキエル 10:1-7。列王下 25:8,9。歴代下 36:17-19)しかし,その都が破壊される前に,その住民には何が行なわれようとしていましたか。

      12 破滅をもたらすそれらの武器にかんしてどんな質問が生じますか。『町に注意を向けている者ども』という表現はだれを意味してはいませんか。なぜですか。

      12 エルサレムの住民に関しては,目に見えない王エホバが,命令的な響きのこもった大声で次のように呼ばわるのが聞かれました。それは不吉な響きを持っていました。「邑〔に注意を向けている〕者等各々剪滅の器具を手にとりて前み来れ」。(エゼキエル 9:1〔新〕)その破滅のうつわ,つまり武器はだれに対して使用されるのですか。エルサレムの住民に対してですか。その全住民に対してですか。破滅をもたらす武器で身を固めた者たちは,『町に注意を向けている者ども』として言及されています。この表現は,当時統治していた王ゼデキヤをさすのではありません。また,彼に仕える政治上の支配者,軍事指揮官,神殿の大祭司あるいは下位の祭司などを意味していたのでもありません。彼らがエルサレムに住む自分たちの民に,破滅をもたらす武器を振うとは考えられません。では,この武装した者たちはいったいだれだったのですか。

      13 では,幻の中で見たそれらの武装した者たちはだれでしたか。ゆえに,バビロンの軍勢についてはなんといわなければなりませんか。

      13 「怒をもて事をなさん」としておられたエホバに服する者であった彼らは,エホバの刑執行官であり,エルサレムの住民に対してエホバの司法上の判決を執行しようとしていました。その意味で彼らは『町に注意を向けている』と言えました。幻の中でそれらの者たちは人間として現われましたが,実際には,エルサレムの住民に不利な裁きを執行するために用いられようとしていたエホバの聖なるみ使いだったのです。歴史によると,目に見えるものとしてはバビロンの武装した軍隊が,この反抗的な都市にエホバのさばきを執行するのに用いられました。しかし,エゼキエルの幻の中で描かれていた者たちはバビロンの軍隊ではありませんでした。それらバビロニア人たちは,天のみ使いによりエルサレムに敵対するものとして用いられたにすぎなかったのです。

      14 エホバの召しの声を聞くや,何人の武装した者たちが出てきましたか。どの方向から来ましたか。

      14 王としてのエホバの命令が出されるや,何人の武装した者が現われましたか。彼らはどの方向から来ましたか。エゼキエルは次のように告げています。「即ち北にむかへる上の門の路より六人の者おのおの打壊る器具を手にとりて来る其中に一人布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり 彼ら来りて銅の壇の傍に立てり」― エゼキエル 9:2,〔新〕。

      15 (イ)幻の中のそれら「六人の者」は実際にはだれでしたか。彼らがやって来た方角は,なんの前兆となりましたか。(ロ)どんな抵抗がなされようとも,「怒をもて事をなさん」としておられたエホバの決意はどのように勝利をもたらすものとなりましたか。

      15 打ちやぶるうつわ,または武器を手にした者が6人です。多い数ではありません。とはいえ,彼らはみ使いを表わしているのですから,エルサレム内部にいる幾千人の住民をもってしても対抗できないほどの超人的な力を持っていました。ですから,その数が6人だからといって,彼らに何か不備なところがあったとか,刑執行者としての仕事を果たす力がなかったなどということにはなりません。それら6人の刑執行者が「北にむかへる上の門の路より」来ることに注目してください。これは,バビロンの軍隊が北方からエルサレムに向かって行進し,エホバの刑を執行するみ使いの器として地上でその任を果たすことの前兆となりました。南からはエルサレムの王ゼデキヤの要請に応えて,エジプトのパロの軍隊が上ってきましたが,その連合軍はバビロニア人によって撃退されました。エルサレムを破壊すべく「怒をもて事をなさん」としておられたエホバの決意は,ざ折するはずがありませんでした。『町に注意』を向けるようエホバから命ぜられた,打ちやぶる武器を携えたその象徴的な「六人の者」は,神の支持を得ており,いかなる抵抗を受けようとも,それに打ち勝つことは必至でした。

      16 こうした状況からすれば,諸国民は近い将来,何に実際に直面しようとしていますか。

      16 わたしたちは今日,この預言的な状況の真意をつかみそこなってはなりません。全世界にまたがる現行のこの事物の体制が近い将来に直面しようとしているのは,滅亡と破壊とを図る単なる人間の諸勢力ではありません。それら過激で無政府主義的また虚無主義的で無秩序な人間の諸分子が破壊し,まっ殺できなかったものを,この邪悪な事物の体制に対して「怒り」を執行するエホバの超人的なみ使いの軍勢は,ことごとくぬぐい去ってしまうのです。この腐敗し,堕落した事物の体制のこん跡をとどめるものは,一つ残らず消滅しなければなりません。

      17 このことにキリスト教世界が含まれるかどうかを決めるどんな理由がありますか。キリスト教世界の人々には急を知らされなければならない理由があります。なぜですか。

      17 キリスト教世界もですか。そうです。なぜなら,今日それはこの事物の体制の主要な部分を成しているからです。そのうえ,キリスト教世界は,不忠実な古代のエルサレムとその領域,つまりユダの地によって描かれている特殊な組織であり,エホバという名の聖書の神を崇拝すると主張する宗教組織なのです。それは,エホバ神のみ子であるイエスをキリストと認めると唱え,それゆえに,キリスト教世界という名称をもって呼ばれるのをよしとしてきました。しかし,古代のエルサレムと同様,キリスト教世界はエホバとの宗教上の契約を破り,この世の異教の諸宗教によって自らを堕落させてしまいました。したがって,キリスト教世界は真のキリスト教を実践してはいません。その宗教的な名称は自らを守るものとはなりません。象徴的な「六人の者」が打ちやぶる武器をもって,『キリスト教世界に注意を向ける』その厳粛な時は近づいています。キリスト教世界のみなさん,これはまさしくあなたがたに急を告げる事態なのです。

      18 そうした粉砕はいつ生じようとしていますか。それは回避できますか。わたしたち個人についてはどんな質問が生じますか。

      18 キリスト教世界を含むこの事物の全体制がこの世代のうちに打ち砕かれる,つまり粉砕されるのは必至です。ご自分のさばきを徹底的に執行すべく天の戦車に乗って到来する宇宙の王エホバのみ手からもたらされるこの世界的大変災は不可避です。このことに関して,それら象徴的な「六人の者」が破滅をもたらす武器をもって世の事物を打ち破り始める前の今,わたしたちが何か個人的に行なえることがありますか。それを知るために,預言者エゼキエルが幻の中で見た預言的な劇をさらに調べることにしましょう。

      王の秘書官の実体を明らかにする

      19 北の方からやって来て,祭壇のかたわらに立った者たちは何人でしたか。彼らはみな武装していましたか。

      19 北の方から来て神殿の中庭にはいり,犠牲を供する銅の祭壇のかたわらに立つのは「六人の者」だけではなかったことに注目してください。そこに立ったのは7人です。しかも,その7番目の者は他の6人の者たちのように武装してはいませんでした。エゼキエルはこう述べます。「其の中に一人布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰におぶる者あり」。(エゼキエル 9:2〔新〕)この者はいったいだれですか。

      20 7番目の者はだれでしたか。彼はエルサレムのゼデキヤ王に仕えていましたか。

      20 そうです,それは王の秘書官です。軍服を着用しておらず,筆と墨のはいった墨いれを持っていることから,彼は秘書官であることがわかります。彼もエルサレムに注意を向けなければなりません。そして,天の戦車の上の王座に座しておられるかたから召喚されたのですから,この者はエホバの秘書官であるにちがいありません。エルサレムにおけるエホバの地的な見える王座には当時,ダビデの王家に属するゼデキヤ王がついていました。問題の秘書官は反逆的なゼデキヤ王に仕えていたのではなく,とこしえの王エホバに仕えていたのです。昔のエゼキエルの時代におけるこの者はだれでしたか。そして,今日その者はだれですか。

      21 布の衣を着た者がみ使いであったかどうかについてはなんといえますか。その者が幻の中でもたらしたと同様の結果が,エゼキエルの時代にもたらされましたか。

      21 彼は,エホバの裁きを執行するみ使いを表わす「六人の者」の中にいたのですから,やはりみ使いあるいはみ使いの一団を表わすのでしょうか。もし彼が目に見えない天のみ使いであるとするならば,その者があなたを最近訪問したかどうかはどうしてわかるのでしょうか。しかし,エホバが彼に割り当てた仕事からすれば,この者は地上で平和な仕方で用いられる見える何ものかを表わしていることは明白です。それでは,彼は人間を表わしていたのではありませんか。それにしても,エゼキエルの時代にさかのぼって聖書を調べても,「布の衣を着」たこの者がするようにと告げられた仕事を,だれかひとりの人間が文字どおりに行なったことをしるしている記録はありません。その当時,エルサレムにいた預言者エレミヤはそのようなことをしませんでした。エゼキエルにしてもそうです。というのは,彼は幻の中で,つまりエホバからの霊感による霊によってエルサレムに戻ったにすぎなかったからです。しかし当時,秘書官の墨いれをもった文字どおりの人間が,エゼキエルが幻の中で見た仕事を行ないながらエルサレムを巡る光景は見られなかったとはいえ,そうした秘書官の仕事のもたらす有益な結果は,あたかも文字どおりの人間が都市の中を行き巡り,割り当てられた仕事を成し遂げたかのように現われました。ゆえに,その当時における,墨いれを携えた問題の人は,神によって完遂されたわざをさし示す描画的な趣向にすぎませんでした。

      22 この幻は第一義的にはだれのために,またいつ成就されることになっていましたか。それでは今日,その王の秘書官とはだれですか。

      22 それにしても,わたしたちの時代についてはどうですか。墨いれを携えた者の幻は第一義的にはわたしたちの時代に対して,つまり「事物の体制の終わりの到来した」時代の今のわたしたちの益のために適用されるべきことが明らかになってきます。(コリント前 10:11,新)エゼキエルの時代においては,ある個人が,エルサレムが破壊されるまでに残されていた期間に,城壁で囲まれたその古代都市の中で,この仕事を成し遂げようと思えば成し遂げることができたかもしれませんが,ここで描写されていたのはただひとりの人ではありません。そして,その対型的な今日の『都市』がキリスト教世界であること,およびその世界的な規模を考慮するなら,それはひとりの人がなしうる仕事ではないことがわかります。それは一群の人々による,かなりの年月を要する仕事にちがいありません。ゆえに,わたしたちの時代において,「布の衣を着〔秘書官〕の墨盂を腰にお(びた)」この幻の人物は,複合的な現代の人,すなわち,「とこしえの王」エホバの奉仕にあって,唯一の同じ目的を目ざし,ひとりの頭のもとで唯一の同じわざに全員が協働する,一致した一群の人々であるに違いありません。それこそわたしたちの時代における王の秘書官です。

      23,24 (イ)生来のユダヤ人は布の衣を着た者にかんする幻を成就する者ではありません。なぜですか。(ロ)キリスト教世界の僧職者はエホバのための秘書官の仕事をしていますか。その答えの理由を述べなさい。

      23 この複合的な「秘書官」がエホバの奉仕に携わっているからといって,それはユダヤ人のグループだ,ということにはなりません。エホバは,彼らの父祖アブラハム,イサク,ヤコブおよびモーセの神ではありましたが,割礼を受けた生来のユダヤ人つまりイスラエル人は今日,いうまでもなくエホバの奉仕に携わっていません。不幸なことに,彼らはみずからをこの奉仕から除外しています。なぜなら,彼らは,刑柱にかけられ,そして復活させられたイエスを,メシヤすなわちキリスト,また,エホバ神のみ子として受け入れないからです。そのうえ,彼らはユダヤ人なので,エゼキエルの幻の中に現われた『布を着た』者によってなされた仕事を全うするクリスチャンのわざをキリスト教世界の至る所で行ないたいとは考えていません。キリスト教世界の僧職者にしてもエホバ神の秘書の仕事を行なう一致した団体として行動してはいません。それら僧職者はそのような仕事が必要だとは全然考えません。キリスト教世界がエホバによって,つまり,エホバのみ子イエス・キリストの率いるみ使いたちの手で間もなく滅ぼされようとしていることを信じてはいないからです。たとえば,さる1971年4月11日の復活祭の日曜日,バチカン市のローマ・カトリックの教皇はなんと言いましたか。

      24 その翌日の日付でニューヨーク・タイムス紙は,「ローマ発,4月11日」の日付のある至急報を掲載して,こう述べました。「希望に満ちた復活祭のメッセージの中で,教皇パウロ6世はきょう次のように述べた。『現代世界を導く光ともいうべきこの偉大な理想は決して消滅しないであろう』。『世界の一致は成し遂げられるであろう』と教皇は断言した。……『希望のメッセージ』と名付けられた音信の中で,教皇はこう語った,『人身の尊さは正式に認められるだけでなく,実際に認められることになろう。生命は母の胎内にある時から老年にいたるまで犯すべからざるものであることは,一般の,また事実上の支持を得ることになろう。卑劣な社会的不平等は克服され,諸民族相互の関係は平和,理性,兄弟愛に満ちたものになるであろう』」。

      25 秘書官の墨いれを携えたその複合の人の現代における成就は,キリスト教世界の宗教諸団体の中に見いだせるものではありません。なぜですか。しかし,その実体を明らかにするものが手もとにあります。それはなんですか。

      25 わたしたちの時代にかかわる聖書の預言を信じていない,キリスト教世界の僧職者や宗教団体は,キリスト教世界がそのもろもろの忌まわしい事物とともに永続することを願って働き,そのために祈り,尽力しているのです。秘書官の墨いれを携えた預言的な人の現代における成就は,キリスト教世界のそうした宗教団体の中に見いだされるわけがありません。では,『布の衣を着た』現代の複合的な人の仕事をしてきたのはだれですか。わたしたちの手もとにある,全地に知られた歴史的な諸事実は,この複合的な者あるいは人がだれであるかを明らかにすることができます。

      26 それで,1931年およびそれ以後明らかにされた,王の秘書官とはだれのことですか。

      26 それは1931年に,キリスト教世界に滅亡がさし迫っていることを悟り,それゆえに,現代に適用される『布の衣を着た者』の仕事をしなければならないことを知った,献身しバプテスマを受けたクリスチャンで構成されるある小さな団体です。1931年7月30日,アメリカのオハイオ州コロンバスで開かれたそれら油そそがれたクリスチャンたちの大会で午後3時から,「墨いれを腰におぶる者」と題する講演が始まり,その講演が終わると直ちに,エゼキエル書の1章から24章までを説明した「立証」と題する本が,大会に集まった数千人の出席者に発表されました。それよりわずか4日前の1931年7月26日,日曜日,この大会に出席していた霊によって油そそがれたクリスチャンたちは,自分たちのために「エホバの証人」という顕著な名称を採用したばかりでした。その名称のみならず,それ以来彼らが遂行したわざもまた,至高の神の油そそがれたクリスチャンのこの残れる者たちが,『布の衣を着,秘書官の墨いれをおぶる者』の20世紀におけるまぎれもない成就となっていることを証明しています。したがってこれが現代の「王の秘書官」です。最近,あなたはその訪問を受けましたか。

      27,28 (イ)エゼキエルの幻の中で,布の衣を着た人がある人間の企てにしたがって人間から命令を受けたかどうかを何が示していますか。(ロ)7人のグループの中で最初に行動することになっていたのはだれですか。何をするようにとの命令が出されましたか。

      27 この油そそがれた残れる者のわざが,人間の企てによるものではなく,エホバ神に由来することは,エゼキエルの見た幻の中にいみじくも描かれています。『布の衣を着た者』がどこからその指示を得たかを示しながら,エゼキエルは自分の見聞きしたことを次のように告げています。「爰にイスラエルの神の栄光その居るところのケルブの上より起あがりて家[神殿の聖所]の閾にいたり彼の布の衣を着て腰に〔秘書官〕の墨盂をおぶる者を呼ぶ」― エゼキエル 9:3〔新〕; 10:2。

      28 こうしてエホバの栄光は,そのかたわらに4人のケルブが配置されていた輪の上の台を離れて,エルサレムの神殿の至聖所と呼ばれる区画の敷居の上に位置を定めました。その時,エホバはまさしくご自分の聖なる神殿の中におられたのであり,このかたから,『布の衣を着た者』は何をすべきかを告げられたのです。汚された神殿の不忠実な祭司たちから告げられたのではありません。この者は,打ち破る武器で武装した「六人の者」が行動する前に,まず最初に行動することになっていました。彼はそれら6人の刑執行者に先だって何をすることになっていましたか。エホバはこう言われます。「邑の中エルサレムの中を巡れ而して邑の中に行はるゝところの諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人々の額に記号をつけよ」― エゼキエル 9:4。

      29 布の衣を着た者は,しるしをつける仕事を神殿の中で行なえとは命じられませんでした。なぜですか。彼はなぜエルサレムのただ中を通るようつかわされましたか。

      29 エホバはその者に,神殿の中を通ってしるしをつける仕事をしなさいとは命じませんでした。そこには,額にしるしをつけられるべき者はいませんでした。というのは,預言者エゼキエルは検査のために神殿の中を一巡したさい,そこで崇拝者が偽りの崇拝を行なっているのを,さらに幾人かの女たちが神殿やエルサレムのただ中で行なわれている憎むべきことのためにではなく,偽りの神タンムズのために泣いているのを見せつけられていたからです。(エゼキエル 8:13,14)このゆえに,『布の衣を着た者』は神殿の外に行って,「エルサレムの中を巡れ」と命じられました。エホバは不忠実なエルサレムの至る所に,そのただ中で行なわれている「諸の憎むべき事のために歎き哀しむ人」がいるのをご覧になりました。

      30 布の衣を着た者はどのようにして正しい種類の個々の人を捜し出すのですか。それらの人々にはどんな理由に基づいて所定の箇所にしるしをつけられましたか。

      30 『衣を着た者』は,こうして「歎き哀しむ」人たちを,どのようにして見つけるのですか。単に町の広場や市場に行くだけでなく,人々の家を戸別に尋ねることによってです。そうすれば,人々が心から述べることばを聞くことができ,額にしるしをつけるべきかどうかを決定できます。これは決して急いでする作業ではありません。むしろそれは,しんぼう強く,またきちょうめんに家々を戸別に尋ねて公正な調査をし,王の都の中で他の人たちが行なっているもろもろの憎むべき事を誠実な気持ちから嘆いている人々のみに,また偏ぱなくしるしをつける仕事でした。『布の衣を着た者』はそれらの人々に,胸中をあらわにしなさい,そうすれば心にしるしをつけます,とは言いませんでした。そうではなく,友にも敵にも公に見られる額に顕著なしるしをつけたのです。衣服の種類や偽善的で信心深そうな話しぶりではなく,このしるしこそ人をしてエホバの崇拝者であることを明らかにするものでした。

  • 王の秘書官の仕事を完了する
    ものみの塔 1972 | 5月1日
    • 王の秘書官の仕事を完了する

      1,2 (イ)今日その『しるし』に関してどんな質問が生じますか。その前に,わたしたちは自分がふさわしい者かどうかについてどのように自問しなければなりませんか。なぜですか。(ロ)エホバはほかにもその地にかんするどんな憎むべき事についてエゼキエルに告げましたか。

      この時代にかかわる重大な質問は,あなたは現代の布の『衣を着た者』によって額にしるしをつけられましたか,ということです。自分の額に文字どおりしるしがつけられているかどうかを見ようとして鏡に自分の顔を映す必要はありません。エゼキエルの幻の中では,それは文字どおりのしるしでしたが,今日ではそのようなものではありません。では,そのしるしとはなんですか。それはどのようにして,人々のいわば額にしるされるのですか。その前に次のように問えます。あなたは額にしるしをつけられるにふさわしい人ですか。エゼキエルの時代の当時,しるしをつけられたのはエホバの崇拝者たちでした。しるしをつけられたそれらの人々がエホバに忠節な人たちであり,エホバの清い崇拝の尊さを信じていたゆえに,聖なる都であるべきエルサレムで行なわれていたもろもろの憎むべき事のために『嘆きかなしんで』いたことを,わたしたちは知っています。その憎むべき事の中には,こともあろうにエホバの神殿で行なわれていた偶像崇拝が含まれていました。エホバはそのほかにも他の憎むべき事をエゼキエルに告げて,こう言われました。

      2 「イスラエルとユダの家の罪甚だ大なり国には血盈ち邑には邪曲充つ即ち彼等いふエホバは此地を棄てたりエホバは見ざるなり」― エゼキエル 9:9。

      3 今日そのしるしはなんですか。比喩的な意味でそれを額にしるすとは何を意味していますか。

      3 当時,しるしをつけられた人たちはエホバの忠節な清い崇拝者だったのですから,今日,『わたしたちはエホバの忠節な真の崇拝者だろうか』と自問しなければなりません。それから,自分が何者であるかを明らかにするしるしを捜すことができます。そうです,今日における象徴的なしるしは,あなたが,主権者であられる主エホバの崇拝者であることをしるしづける,あるいは明らかにするものです。それは比喩的な意味であなたの額にしるされているのであり,エホバ神に関する知識が額の中にたくわえられているとか,脳裡に刻みこまれているとかということを表わすものではありません。キリスト教世界の内外を問わず,聖書全巻を何度も読んだ人は少なくありません。しかしそうして頭の中に知識を取り入れたにもかかわらず,キリスト教世界の至る所で行なわれているエホバを汚す事柄,たとえば,不正,流血,宗教上の誤り,エホバを別として他の事物をあがめるさまざまな形式の偶像崇拝のために心を痛める,エホバの崇拝者としてしるしづけられているわけではありません。

      4 それで,単なる頭の中の知識以上の何が要求されていますか。しるしをつける仕事はいつから,だれによって進められていますか。

      4 ですから,単に頭の中にある知識以上のものが要求されています。重要なのは頭の中にあるものではなく,ひととなりの点で実際にどんな人間かということです。正真正銘の額に印を押されたように,それはあなたを見て調べる人に見えるもの,察知しうるものとなります。聖書の知識に基づくそのような人格が,あなたのうちにつちかわれなければならないのです。そして,現代における『布の衣を着た者』が関係してくるのはこの点においてです。先に述べた1931年のできごと以来,この複合的な「者」,つまりエホバのクリスチャン証人の油そそがれた残れる者は,ふさわしい人たちの額にしるしをつける仕事に忙しく携わってきました。

      5 やがて油をそそがれた残れる者は,何を行なう必要を認識するようになりましたか。1936年までには,彼らは何を行ないはじめましたか。なぜですか。

      5 確かに,献身してバプテスマを受けたクリスチャンの油そそがれた残れる者は家から家に戸別訪問を行ない,市町村に出かけて行っては聖書文書を頒布し,さらに『入場無料で献金を集めず』に公の演壇から聖書の講演を行なってきました。しかし,聖書を理解する助けとしてのそうした文書類を単に人々に読んでもらう以上のことが必要なのです。それを読む人は,読む事柄を理解し,それを適用するには個人的にさらに援助してもらわねばなりません。この点の必要性が時たつうちにさらに十分に認識されるようになり,1936年までには,文書を求めた人を再訪問するわざが行なわれるようになりました。次いで,やがて家庭聖書研究が関心のある人々と取り決められるようになり,油そそがれた残れる者の成員がそれを司会し,その目的のために毎週あるいはさらにひんぱんに再訪問が行なわれました。

      6 人々はキリスト教世界に見られる「憎むべき」事柄をはっきり見分けられるようどのように個人的に助けられましたか。それらの人はどのようにしてしるしをつけてもらいましたか。

      6 それら新たに関心を示した人々は,キリスト教世界の中で見られる事柄にすでに嫌悪の情をいだいていたかもしれません。しかし,唯一の生ける真の神への清い崇拝に関する聖書の真理に目を見開かれるや,彼らはキリスト教世界の中で宗教上の偽善者たちによって行なわれている「憎むべき事」をより深い認識の目をもって見るようになりました。そしてそうした事柄を目にした彼らは,キリスト教世界から手を引き,その世界との提携関係を一切断ち切り「憎むべき事」を犯すキリスト教世界に対するいっさいの精神的支持を撤回する必要を悟りました。エホバに忠節なそれらの人々は油そそがれた残れる者の助けを得て,知識と理解を深め,ついには個人的な決定を下し,み子イエス・キリストを通してエホバ神に献身し,その献身を水の浸礼によって象徴するに至りました。このようにして,エホバのみ子イエス・キリストの「弟子」となることにより,彼らは額にしるしをつけてもらったのです。―マタイ 28:19,20。

      7 1935年,油そそがれた残れる者は,だれにしるしがつけられようとしていることを悟りましたか。それらの人々は,額のしるしとしての役割を果たす何を身につけることになっていましたか。

      7 1935年,油そそがれた残れる者は,黙示録 7章9節から17節に基づいて,もろもろの国,族,民,国語の中から出てくる『大いなる群衆』が額にしるしをつけられるべきことを悟りました。この群衆は,神と犠牲にされた小羊イエス・キリストとの王座の前に公に立ち,「救いは御座に坐したもふ我らの神と羔羊とにこそ在れ」と言う者としてしるしをつけられるのです。象徴的に言って,この『大いなる群衆』に属する者たちは『白い衣』によって見分けがつきます。なぜなら,黙示録 7章14節はこう述べているからです。『彼らは羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者』であり,「神の御座の前」で是認を得ているばかりでなく,『昼も夜もその聖所にて神に事へ』ているのです。それには,彼らは聖書の次の命令に従うことが要求されています。「汝ら主イエス・キリストを衣よ,肉の慾のために備すな」。(ロマ 13:14)したがって,あたかもその額にはっきりとしるしをつけられているかのように,彼らを公に顕著にさせる是認されたしるし,つまり彼らが身に帯びるしるしはキリストのような人格なのではありませんか。まさにそのとおりです。

      8 この『大いなる群衆』の人たちは,しるしをつけられた自分の額を公に示すよう,どのようにして積極的な援助を受けていますか。『大いなる群集』の数が年ごとに増加し続けている理由を説明する事柄を述べなさい。

      8 『大いなる群衆の』それら献身してバプテスマを受けた成員たちはさらに助けられて戸別訪問のわざに携わり,キリスト教世界の中で行なわれている「もろもろの憎むべき事のために歎き哀しむ」他の人々を捜し出しています。このようにして彼らは,油そそがれた残れる者の監督のもとでしるしをつける仕事にあずかっているのです。そうすることにより,彼らはキリスト教会の内外を問わず,全世界の人々に自分の額にある象徴的な『しるし』を公に示しています。その結果,エホバ神の清い崇拝を求める他の人々が幾千人となく,容易に人の目につく額に,自分が何者であるかを明らかにする『しるし』をつけられるにふさわしいことを実証しています。たとえば,1970奉仕年度だけでも,全世界で1億2,122万6,605件の再訪問が関心のある人々に対して行なわれ,16万4,193人がエホバ神への献身を表わすために水のバプテスマを受けました。『大いなる群衆』の数が年ごとに増加し続けているのはこのためです。それにしても,当人が何者であるかを明らにするこのしるしには,どんな価値があるのですか。

      「六人の者」による刑執行の仕事は迫っている

      9 エホバが次にお告げになったどんな命令のことばを考えれば,この『しるし』には価値のあることがわかりますか。

      9 わたしたちが地上での命をたいせつにするのであれば,その『しるし』に伴う価値に関心を払うはずです。王エホバが,何をすべきかを『布の衣を着た者』に告げた後に,ご自分の王座から述べた事柄を聞くならば,その価値を認識することを学べます。預言者エゼキエルは幻の中でエホバが次になんと述べたかを告げています。「我聞くに彼またその他の者等にいいたもふ 彼にしたがひて邑を巡りて撃てよ 汝らの目人を惜み見るべからず 憫れむべからず 老人も少者も童女も孩子も婦人も悉く殺すべし 然ど身に記号ある者には触べからず先わが聖所より始めよと」― エゼキエル 9:5,6。

      10 (イ)一見残酷に思えるにもかかわらず,どんな命令がエホバの憫れみを明らかに示していますか。(ロ)このことから,『しるし』について何を正しく認識することができますか。ゆえにわたしたちは今,だれをその仕事の面で積極的に支持しますか。

      10 エホバは,「老人も少者も童女めも孩子も婦人も悉く殺すべし」と述べておられますが,これは残酷に聞こえますか。そのとおりではありますが,打ち破る武器で身を固めた象徴的な「六人の者」に対するエホバの明白な命令の中に示されている,神の次の憫れみを考えてください。「然ど身に記号ある者には触べからず」。そうです,このことから理解できるように,そのしるしには保護をもたらすだけの価値があるのです。キリスト教世界およびこの憎むべき事物の体制の他のすべての部分に臨む,きたるべき「大かん難」の際に,エホバの使いの軍勢から守られることを望むなら,わたしたちは自分自身の保護となる『しるし』を身につけるよう,いま誠実に努力するでしょう。また,他の人たちが『しるし』を身につけ,『大いなる群衆』の一員となるのを助ける努力をも払うでしょう。『大いなる群衆』に関しては,預言的にこうしるされています。「かれらは〔大かん難〕より出できたり,羔羊の血に己が衣を洗ひて白くしたる者なり」。(黙示 7:14〔新〕)しるしをつけるこの仕事が終わりに近づいていること,また象徴的な「六人の者」がしるしのつけられていない人々の頭を今やまさに粉砕しようとしていることを認識するなら,わたしたちは王の秘書官の人命救助のこの仕事を支持すべく,愛の気持ちから尽力するでしょう。

      11 (イ)しるしをつけられていない人は,きたるべき刑執行の時についてどんな考えをいだくべきではありませんか。歴史からすれば,それはなぜですか。(ロ)まだ物事を十分に理解できないわたしたちの子どもたちについては,どんな質問が生じますか。

      11 額にしるしをつけられていなくても,武装した「六人の者」になんとか気づかれずにすむだろう,などと自己本位に考えてはなりません。西暦前607年に古代のエルサレムがバビロンによって滅ぼされたその時,厳然たる事実が示しているように,娘,婦人,若い男,老齢の男はいうまでもなく,幼い子どもたちまで殺害されました。小さな赤子は飢えか疫病で死ぬか,バビロンの残酷な兵士に殺されるか,さもなくばみずからの母親の手にかかって死にました。餓死状態に追いつめられた母親は,人食い人種のように無情にもわが子を食べたのです。エルサレムが攻囲軍の手に落ちるまでその中で捕われていた預言者エレミヤがそう語っています。(哀歌 2:20,21)意味を正しく理解して献身し,イエス・キリストの弟子になることの象徴としてバプテスマを受けるには現在まだ年が若すぎる,あなたのお子さんについてはどうですか。それら子どもたちは個人的に額にしるしをつけてもらうには若すぎるかもしれません。

      12 (イ)親は自分自身と自分の子どもたちに関してどんな質問をすべきですか。(ロ)親は自分自身の額のしるしゆえに憫れみが差し伸べられることに関して,どんな僭越な態度を取るべきではありませんか。

      12 しかしあなたご自身には,献身およびクリスチャンの人格というしるしがつけられていますか。クリスチャン使徒パウロが親にさとしたように,すなわちあなたはお子さんをエホバの懲らしめと精神的規整とによって養育しておられますか。そしてお子さんは,あなたの愛ある努力に従順に答え応じていますか。(エペソ 6:1-4,新)そうであって初めてあなたはご自分の額にある『しるし』の効能が自分の未成年の子どもたちに及ぶこと,そして,来たるべき大かん難,つまり,「世の初め以来今に至るまで起きたことのないような,否,二度と起きないような大かん難」において,子どもたちがあなたとともに,破滅をもたらす刑執行を免れるよう憫れみを示されることを確信できるのです。(マタイ 24:21,新)わずかな時間の残されている今こそ,このために努力すべき時です。現代における『布の衣を着た者』がふさわしい人すべての額にしるしをつける仕事を終了する前,そして象徴的な「六人の者」が,額にしるしをつけられていない者で,彼らが見いだす人々すべてに対して打ち破る武器を行使しはじめる前にそれをすべきです。親のみなさん,あなたは復しゅうの行なわれるエホバの日に,自分の額にしるしがつけられているゆえに,幼いわが子が「清からぬ者」でなくて,「清い者」とみなされることを望まれますか。当然そう望むべきです。しかし,自ら決定を下し,キリストを通してエホバに献身するに足る十分の理解力を持つお子さんが,あなたの額のしるしの効能にあずかれるなどと考えてはなりません。

      13 「六人の者」から打ち破る武器を最初に行使された者たちのことを考えると,わたしたちはなぜ自分の宗教的な結び付きについても警戒しなければなりませんか。

      13 今警戒しなければならない別のことは,わたしたちの宗教上の結び付きです。「六人の者」が人々の頭を打ち砕くわざをエホバの聖所から,つまり,エホバの清い崇拝を汚れた異教の崇拝といっしょにしようとした者たちのいた所から開始しなさい,と命じられたことを思いだしてください。「六人の者」は偽善的な宗教家たちに同情も哀れみも感じませんでした。次の聖句にはこうしるされています。「彼等すなはち家の前におりし老人より始む 彼またかれらに言たもふ家を汚し死人をもて庭に充せよ汝等往けよと 彼等すなわち出ゆきて邑の中に人を撃つ」。(エゼキエル 9:6,7; 8:10-12)その後,都も神殿もバビロニア人によって滅ぼされました。したがって,キリスト教世界内部で偽善的な仕方で宗教を奉ずる群衆と交わりつづけながら,王の秘書官によって額にしるしをつけてもらい,悔い改めないそれら偽りの崇拝者の悲惨な最期に臨んで生き残れると期待するのは,理にかなっているでしょうか。理にかなっているなどとはとてもいえません。

      14,15 (イ)その殺りくはどれほど広範にわたりますか。それゆえに,どんな恐ろしい印象を受けるかもしれませんか。(ロ)わたしたちはだれの見方を持つべきですか。そのさい殺される者たちに関して,わたしたちはどう感ずるべきですか。

      14 キリスト教世界および全世界にまたがる事物の全体制内の人命を抹殺するわざは非常に広範にわたるので,それを免れたり,のがれたりしうる者はひとりもいないかに見えることでしょう。しかしわたしたちは,エホバが行き過ぎた裁きを執行されると考えるべきではありません。また,神の手段や代理者によって処刑される者たちのことを哀れむべきでもありません。エホバ神は不正なかたではありません。わたしたちは神の見方をすることによって,神に尊敬を示すべきです。この点でわたしたちに教訓を与えるため,この殺りくのわざの進行を見守っていたエゼキエルが続けて述べることに注意してください。

      15 「彼等人を撃ちける時 我遺されたれば俯伏て叫び言ふ鳴呼主エホバよ汝怒をエルサレムにもらしてイスラエルの残余者を悉くほろぼしたもふや 彼われに言たまひけるはイスラエルとユダの家の罪甚だ大なり国には血盈ち邑には邪曲充つ即ち彼等いふエホバは此地を棄てたりエホバは見ざるなりと 然ば亦わが目かれらを惜み見ず我かれらを憫れまじ彼らの行ふところを彼等の首に報いん」― エゼキエル 9:8-10。

      16 (イ)この点でわたしたちは,神は残酷で不公平であるとする考え方に関してどんな態度を取りますか。(ロ)神を無視し,あなどっている人々は実際にはなんと言っていることになりますか。神が彼ら自らの招く事態を彼らの頭に帰するのはなぜ当然といわなければなりませんか。

      16 この点で神は残酷さが過ぎると言えるでしょうか。神がご自分の律法の違反者に,彼らの勝手な行ないの実を食べさせ,彼らが勝手に選んだ歩みの悲惨な結果に苦しむままに放置するからといって,それは不当なことと言えるでしょうか。エホバ神の正しさを立証するものとして,わたしたちは否と唱えます。人類の中で額に今しるしをつけてもらっていない者はすべて,いわば次のように言っているのと同然です。『エホバはこの地を放置した。だからそれを支配し,思いのままに管理するのは今やわれわれの務めだ。彼はわれわれのすることを見てはいない。エホバは盲目だ,いや,われわれに関するかぎり,死んだのだから,われわれが何をしようが罰せられることはない。だから,このまま偽りの崇拝を続けよう。流血や誤った歩みを続けよう。よこしまな行動を続けようではないか』。彼らはこのようにエホバ神を無視し,あなどっているのですから,神が彼ら自らの招く事態を,しるしのつけられていない彼らの頭に帰するのはきわめて当然といわなければなりません。歴史の上で西暦前609年から同607年にかけて古代のエルサレムに成就したエゼキエルの幻は,エホバ神がそうなさることを確実にしています。エホバ神のつかわされた,布の衣を着た者が訪問したとき,彼らは注意を払わなかったのです。

      完了した仕事に関する報告がなされる

      17 (イ)王の秘書官がそれと見分けられる以上,その訪問にどう答え応ずるのは分別のある態度といえますか。(ロ)その秘書官の仕事はどの程度遂行されますか。エゼキエルの幻のどんな事柄がこのことを保証していますか。

      17 現代における『布の衣を着た者』つまり,今統治をしておられる王エホバの秘書官が,最近あなたを訪問しましたか。あなたは問題を正しく理解してこの質問に答えることができます。なぜなら,あなたは今やその秘書官の実体を見分けるすべ,つまり見てそれと認めるすべを知っているからです。それよりもさらに重要な質問は,その秘書官をどのように受け入れたかということです。神の新しい事物の体制における永遠の命に至る分別のある受け入れかたは,その王の秘書官によって自分の額にしるしをつけるわざを始めてもらうことです。つまり,聖書的にいって,しるしをつけてもらうのです。『布の衣を着た』この複合的な者による人命を救う仕事は今やその終わりに近づいています。偽善的な宗教家たちが反対するにもかかわらず,この仕事は神の意志どおりに完遂されます。預言者エゼキエルが幻の中で見たことは,それが成功裡に終結することを保証しています。その幻の終わりのところで,エゼキエルはこう述べているからです。「時にかの布の衣を着て腰に〔秘書官〕の墨盂をおぶる人復命まをして言ふ 汝が我に命じたまひしごとく為たりと」― エゼキエル 9:11,〔新〕。

      18 (イ)エゼキエルの幻のこの最後の特別な事柄はいつ成就しますか。額にしるしのある人たちには喜ぶべきどんないわれがありますか。(ロ)王の秘書官が提出する最後的な報告には何が載せられているでしょうか。

      18 これは現代における『布の衣を着た者』が,主権者であられる主エホバからの使命を忠実に遂行することを意味しています。人類はこのことをなんと喜べるのでしょう。ふさわしい最後の人の額にはっきりと,しかも消すことのできないしるしをつけ終えた後にはじめて,彼は「汝が我に命じたまひしごとく為たり」と王に報告できるのです。額にしるしをつけられた,神を恐れる者はみな,王の秘書官が最近,もしくは記念すべき年である1935年以降,自分たちを訪問してくれたことをどんなにか喜ぶことでしょう。彼らは王のこの秘書官に善を行なえること,またそれゆえに王そのかたに忠節と専心を示せることをどんなにか喜ぶことでしょう。彼らは王の秘書官を支持し,またその秘書官がそれほどの世界的な規模で行なった,しるしをつける仕事を助けるという,たぐいまれな特権にあずかったことを喜ぶでしょう。王の秘書官が提出する最終的な報告には,彼によって額にしるしをつけられた者たちがその秘書官に差し伸べた援助や支持の記録も載せられているでしょう。

      19 (イ)額にしるしのつけられていない山羊のような人々はいつ打ち砕かれますか。羊のような人々はどこにいることに気づきますか。何を耳にするのは彼らにとって快いことですか。(ロ)これらのことばがそれらの人々に話されるのを聞くとき,布の衣を着た者はなぜ歓喜しますか。

      19 しるしのつけられていない額を持つ山羊のような強情な人々が,「六人の者」からなる王の刑執行者の軍勢によってまもなく打ち砕かれて滅ぼされる時,額にしるしをつけられた羊のような人たちは,エホバのメシヤなる王イエス・キリストの右に位置していることを知るでしょう。神の小羊の語りかける次のことばは,彼らの耳に快く響くでしょう。「わが父に祝せられたる者よ,来りて世の創より汝らのために備へられたる〔王国〕を嗣げ」。王の秘書官として布の衣を着た者も,キリストの王国の楽園となる地的の領域を受け継ぐ将来の相続者たちにこのことばが語りかけられるのを聞いて歓喜するでしょう。というのは,それゆえに,『秘書官の墨いれ』をもって行なった自分の仕事が無益ではなかったこと,それどころか心に満足をもたらす成功を収めたことを知るからです。―マタイ 25:31-46〔新〕。

      [280ページの図版]

      クリスチャンの親は,エホバの懲らしめをもって子どもを養育しなければならない。未成年の子どもたちは親の導きに従順に答え応じてはじめて,親の額の『しるし』の効能にあずかることができる

      [281ページの図版]

      キリスト教世界の信心深そうに見える偽善者の群れと交わり続ける者は,王の秘書官にしるしをつけてもらえると期待できるであろうか

  • 神のお名前に関する宣言
    ものみの塔 1972 | 5月1日
    • 神のお名前に関する宣言

      1 世界の各地におけるどんな行事にさいして,神のお名前に関する宣言が提出されましたか。だれによって提出されましたか。

      1971年8月7日日本の東京における「神のお名前」地域大会に集まった,神を恐れるわたしたち男女は,聖書に基づき,あらゆる人種,皮膚の色,国籍,言語の人々に対して次の宣言をするよう奮起させられます。

      2 そのお名前を持っておられるかたはなんの到来を実現させうるかたですか。そのお名前はだれにとって重要ですか。なぜですか。

      2 神のお名前は,愛と幸福,そして神のお名前に対する敬虔な恐れをいだいてともに住む,完全な人間によってほどよく満たされた,全地に及ぶ平和な楽園によって飾られた新しい義の秩序の到来を可能にし,必然にし,実現させうる唯一のかたの固有の名前です。その名前に関する知識は全人類にとって最も重要な事柄です。信仰と確信をいだいてそのお名前を呼び求めることにより,人類は永遠の絶滅から救われ,約束された新しい秩序においてその神から注がれる尽きることのない祝福を享受します。

      3 (イ)良い心を持った非常に大ぜいの人々はどんな正しい願いをいだいていますか。(ロ)それらの人々は自分たちを宗教的に支配した者たちによってどのように裏切られてきましたか。

      3 今日,良い心を持った非常に多くの人々が,その神のお名前はなにか,またそのお名前の属するかたを知り,そのかたと和合した関係にはいり,その結果,正しい理解をもってそのかたを崇拝し,その愛ある恵みにあずかりたいとの誠実な願いをいだいています。そうした正しい心の願いを持つ人々は,自分たちの宗教指導者たちから裏切られてきました。それら宗教指導者は彼らを抑圧し,霊的な暗黒の中に閉じ込め,神のお名前を彼らから隠して,そのお名前に宿る救いの力を知らせないようにしてきました。キリスト教世界として知られている宗教圏の僧職指導者は,その神のお名前を明らかにする,霊感を受けた神聖な本を所有しています。その本は,人間の不完全さや誤り,さらに死のもろもろの働きといった人を隷従させる支配から全人類を救出する神の目的とそのお名前との切り離すことのできない関係を示しています。

      4 そうした怠慢の結果はどこにはっきり現われているといえますか。神のお名前に対するどんな方針は教会員にも異教徒にも益をもたらしませんでしたか。

      4 僧職指導者たちのそうしたゆゆしい怠慢

日本語出版物(1954-2026)
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