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神が与えてくださる霊的安全ものみの塔 1975 | 3月1日
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神が与えてくださる霊的安全
「わたしはエホバに申し上げよう。『あなたはわたしの避難所,わたしのとりで,わたしの信頼する,わたしの神です』と」― 詩 91:2,新。
1,2 (イ)剣と霊についてボナパルトはなんと言ったと伝えられていますか。(ロ)ヒトラーはどのクリスチャンに関して,そのことばが真実であることを学びましたか。
武人であったナポレオン・ボナパルトは,「世には二つの力がある。すなわち剣と精神である。しかし究極においては精神が常に勝利を得る」と言ったと伝えられています。
2 独裁者アドルフ・ヒトラーは明らかに,ひとりの非情な武人が経験を通して得たこの知識を信じていませんでした。彼は,血なまぐさい戦争という「剣」の力により,世界制覇に乗り出しました。猛攻撃を加えて占領した地域において,ヒトラーは,この世の紛争に対しクリスチャンの中立を守る人々の精神をくじこうとしました。しかし1945年,彼の「剣」の力は尽き,彼は敗北を告白して拳銃で自ら命を断ち,その遺体は焼却されました。しかし,迫害されたエホバのクリスチャン証人たちは,数においては幾千人か減少しましたが,不屈の精神をそのままに意気揚々と出て来て,ヒトラーの蹂躙した土地で,神の王国を宣べ伝えるわざを公に再開しました。彼らの内にあった神の霊は,12年にわたるヒトラーの支配に勝利を得ました。
3 (イ)その武人たちはどんな安全手段に頼りましたか。それはどんな結果に終わりましたか。(ロ)エホバの証人はどんな安全に頼りましたか。なぜですか。
3 ボナパルトもヒトラーも,強力な独裁政治権力とその影響力に,また強大な軍事組織に,自らの安全を求めました。しかしこの世的に賢明なその種の防衛手段は,人を失望させる,当てにならないものでした。一見安全でない,無防備に見えたエホバの証人は,異なる型の安全に関心をいだいていました。それは霊的安全でした。というのは,そのような安全こそ,神が人類のためにつくられる来たるべき新しい事物の体制において平和で幸福な永遠の命を受けるにふさわしい状態に人を保護するものであるからです。ヨーロッパに住む,生き残ったエホバの証人たちは,今日に至るまで,この霊的安全のうちにとどまることを求めています。なぜなら,来たるべき「大患難」において,人間製の物質的,経済的,軍事的防衛手段は,人の命を保護して神の新秩序に生き残らせ得ないからです。『不義の財は益なし されど正義は救いて死を脱かれしむ』― 箴 10:2。
4 霊的安全を身体的安全よりも高く評価すべきであるのはなぜですか。聖書のどの詩篇はそれを描写していますか。
4 霊的安全とは,永遠の命に関する神のご要求に調和したわたしたちの霊的生活に神の保護がある,という意味です。神が是認する人々は,神に忠実であるがゆえに敵が彼らを殺すのを神が許されることがあろうとも,霊的な安全を得ている人々です。神は,死に至るまで保たれた彼らの霊性に対し,義の新秩序において祝福と命の機会を与える復活という報奨をお与えになります。霊的安全は,物質主義的な人々が設けようとする身体的安全よりも高く評価されるべきです。霊的安全は,わたしたちが望む,欠くことのできない安全です。これこそ聖書の詩篇 91篇が,わたしたちのために美しく描写しているところの安全です。
5 詩篇 91篇の作者についてはどんなことが言えますか。同詩篇はだれにわたしたちの注意を集中させますか。
5 霊感を受けて詩篇 91篇を書いた人は,詩篇 90篇の作者と同一人物のようです。90篇の最後の節にすぐに91篇がつづき,その間に作者を紹介する表題は入っていません。もし同一人物であれば,作者は,90篇の表題の中に名前を示されている預言者モーセです。しかし,状況はそのことを示しているように見えますが,確証はありません。それでもやはり,詩篇は神の聖言が書き記された霊感による書の一つです。重要なのはその点です。それがこの詩篇を真実なもの,信頼できるものにするのです。この詩篇は,西暦紀元より少なくとも460年前に書かれたので,久しく約束されていたメシア,神の油そそがれた者,すなわちキリストについて,直接には述べていません。そのメシア,すなわちキリストの霊的安全の聖なる源であったかたに,わたしたちの注意を集中させます。
6,7 サタンはイエス・キリストを誘惑しようとして詩篇 91篇11,12節をどのように用いましたか。なぜ成功しませんでしたか。
6 例えば,西暦29年のこと,神の大敵対者は,中東に住んでいたある人物に,11節と12節を適用しました。誘惑者悪魔サタンは,霊感によって語られた神ご自身のことばを悪用することによって欺き,その人物の霊性を損おうとしていました。その誘惑者は,詩篇 91篇のそれらの聖句に,身体的安全という考えを入れました。「神の子」には特にそのような身体的保護と防護が直接に与えられるだろう,と彼は論じました。そのことを悪魔とユダヤ人たちに証明するために,その人物はエルサレムの神殿の胸壁から身を投げ,み使いたちをして重力の法則から彼を守らせ,彼を神殿の舗道まで静かに運ばせるべきだ,というわけです。それは「天からのしるし」のようなものだ,というのでした。
7 この詩篇 91篇は,だれよりも,このほど神の聖霊で油そそがれてメシア,すなわちキリストになったこの人物に,よく当てはまりました。そこで悪魔は,神により油そそがれたこの人物にとって真の誘惑になると彼が考えたことを,たくらみました。しかし,その人物,すなわちイエス・キリストは,その悪だくみを見抜かれました。詩篇 91篇11,12節にまちがった意味が付されたのをご覧になりました。イエスはご自分の霊的安全を放棄することを拒否されました。
8 イエスはどのようにサタンの誘惑に対抗されましたか。それはイエス自身にどんな益をもたらしましたか。
8 イエスは,預言者モーセを通して与えられた霊感による戒めに訴えることによって,そのことを行なわれました。聖書の記録は次のように伝えています。「イエスは彼[つまり悪魔]に言われた,『「あなたの神エホバを試してはならない」とも書いてあります』」。(マタイ 4:7。申命 6:16)もちろん,イエスは聖なるみ使いたちを信じておられました。しかしもしイエスが,神殿にいたユダヤ人たちの前で,利己的な気持ちから,向こう見ずな方法で自分を誇示するために,神のつくられた,よく知られている重力の法則を無視しようとするような正しくないことをしても,み使いたちはイエスを助けるとは信じておられませんでした。この場合,イエスが賢明にも霊的に安全な所を離れなかったことは,結果としてイエスの身体的安全を守るものともなりました。イエスは,聖書の預言の成就とならない,早まった死に方をするようなことをされませんでした。イエスは,「至高者のもとなる秘められた所」で生きておられました。―詩 91:1,新。
「至高者のもとなる秘められた所」
9,10 (イ)イエスは詩篇 91篇が,ご自身に個人的に適用されるものであることを否定しておられたのですか。(ロ)この詩篇はだれにも当てはまりますか。どのように?
9 詩篇 91篇は,詩篇作者が挙げているような危険の多い時に当てはまり,その危険な時を通過しつつある人々に慰めと確信と保証を与えるためのものです。イエス・キリストは人間として地上におられた時,このすばらしい詩篇を心に収めておくことができました。というのは,この詩篇が個人としてのイエスに当てはまることには,何の疑問もなかったからです。イエスは,11,12節に基づいているように見せかけた悪魔のごまかしの申し出を拒否された時,その詩篇がイエスに正しく当てはまることを否定しておられたのではありません。14節の成就としてエホバ神に愛情を寄せた者があるとすれば,それはイエス・キリストでした。
10 したがってそれは必然的に,イエスの足跡に忠実に従い,イエスの模範に倣う,バプテスマを受けた弟子すべてに当てはまるでしょう。といってもそれは,それらの人々が各自,『この詩篇は,イエス・キリストに当てはまったと同様にわたし個人に当てはまる』と言える,というのではありません。そうではなく,一つの級としての真の弟子たちに当てはまるのです。そしてその級に属する人はだれでも,それから霊的な力を得ることができます。同詩篇は,キリストの真実の忠節な弟子たちのうちのどの特定の人物をも予告してはいません。
11-13 (イ)黙示録はどこで,イエス・キリストの霊的兄弟たちの残りの者のことを述べていますか。なぜ彼らは神が備えられた保護の場所にいる必要がありますか。(ロ)「ものみの塔」誌の1927年8月1日号は,だれが「秘められた安全な所」にいたかをどのように示しましたか。
11 聖書の黙示録 12章17節は,西暦1914年に天において神のメシアの王国が誕生したあと,災いに悩まされた地上に,イエス・キリストの霊的兄弟たちの「残れる者」がいることを述べています。
12 その王国の天の母の「胤」の残っている者たちに関し,黙示録 12章17節(文,〔新〕)は,『龍[悪魔サタン]は女を怒りてその〔胤〕の残れる者即ち神の誡命を守り,イエスの証しをもてる者に戦闘を挑まんとて出でゆき』,と述べています。女の胤の,地上にいるこの残りの者は,悪魔サタンとその悪霊の使いたちに戦いをしかけられるのですから,残りの者は,彼らが守る戒めの与え主である神の備えられる霊的に安全な所にいることが確かに必要です。この明らかな事実にふさわしく,「ものみの塔」誌の1927年8月1日号(英文)に掲載された「安全な所」という記事は,227ページの冒頭の節の中で黙示録 12章17節を引用し,次のように述べています。
13 「『残れる者』である人々は,秘められた安全な所を知ろうとして確かに勤勉に探すであろうし,その中に入れられたなら,そこにとどまることを心から願うであろう」。
14,15 (イ)その理解が得られると共に,1927年にどんな一連の記事が出され始めましたか。(ロ)これは,現代のどの人々の群衆が「ものみの塔」誌で論じられる八年前のことでしたか。
14 それで,当時「至高者のもとなる秘められた所」に住んでいた人々がこの理解を得るとともに,詩篇 91篇を取り上げた,「安全な所」,「なぜ安全であるか」,また「防御と安全」と題する一連の三つの連続記事が出され始め,「ものみの塔」誌の1927年8月1日号,15日号,9月1日号に掲載されました。a その後の進展について言えば,詩篇 91篇に関するその注釈は,黙示録 7章9節から17節に描写されている『大いなる群衆』(文)が形成され始める八年前に出版されました。『大いなる群衆』は1935年以降形成され始めました。(「ものみの塔」誌〔英文〕の1935年8月1日号および15日号に掲載された「大いなる群衆」と題する,二つの部分からなる記事をご覧ください。)この『大いなる群衆』を描写するに当たり,霊感を受けた使徒ヨハネは黙示録 7章14,15節(文)で次のように述べています。
15 『かれらは大いなる患難より出できたり,こ羊の血に己が衣を洗いて白くしたる者なり。この故に神の御座の前にありて昼も夜もその聖所にて神につかう。御座に坐したまう者は彼らの上に幕屋を張り給うべし[あるいは,彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう,新世界訳]』。
16 (イ)「大群衆」もどんな安全な所にいるべきですか。なぜですか。(ロ)詩篇 91篇には,イエス・キリストのほかに,だれのことが予告されていますか。詩篇 91篇の適用が特別に必要となったのはいつからですか。
16 この預言的な描写によると,『大いなる群衆』もしくは「大群衆」(新)は,今日,「至高者のもとなる秘められた所」にいる女の胤の「残れる者」と霊的保護を共にしていなければなりません。さもなければ,至高者なる神は,彼らが生き残って神の新秩序に入るように,「大患難」の間に彼らを保護されはしないでしょう。その義の新秩序においてその「大群衆」の人々は,引き続き神の霊的神殿の中庭で昼夜神に神聖な奉仕をします。したがって,詩篇 91篇は,イエス・キリストご自身のほかには,キリストのどの特定の弟子についても予告していないこと,しかしそれは,今日に至るまでの,級もしくは会衆としての,バプテスマを受けたイエスの弟子たちに言及するものであることが分かります。その適用が特に必要となった時は1919年以降で,サタンとその使いである悪霊たちが天からこの地の近くに追い落とされた後です。彼らは,西暦1914年に天に神のメシアの王国が誕生したあと,追放されました。―啓示 12:1-13。
17 詩篇 91篇を調べるに当たって,わたしたちは自分についてどんなことを自問してみることができますか。
17 さてわたしたちは今から詩篇 91篇を調べてみますが,わたしたちは個人的に,自分は,信仰を強めるこの詩篇の中で言及され,話しかけられている恵まれた級に属しているだろうか,と自問してみることができます。属している,と言うことができるならば,その詩篇に描写されている霊的安全を得ることは確かです。その詩篇は次のような叙述的な文章で始まります。「至高者のもとなる秘められた所に住まう者はみな,全能者の影のもとに宿り場を得る」― 詩 91:1,新。
18 「至高者のもとなる秘められた所」とは何ですか。この世的な人たちはなぜそれを見ることが,あるいは洞察することができませんか。
18 この「至高者のもとなる秘められた所」とは,人間の目に見えない,あるいは天軍からさえ遮断されている,至高者ご自身が住まわれる天の場所ではありません。それは,至聖所,すなわち西暦前1513年にシナイ山の荒野で預言者モーセが建てた崇拝の天幕の一番奥の仕切り室によって表わされた天の場所ではありません。その仕切り室の中では,神の臨在は,金で作られた契約の箱の贖罪所の上方に漂う,奇跡的なシェキナの光で象徴されました。至高者ご自身は,詩篇 91篇に描写されているような脅威や危険から身を守るための秘められた所を必要とされません。むしろ,その「秘められた所」は,詩篇 91篇に述べられている要求を満たす人々のために備えられている隠された場所,隠れ場のことです。彼らにとってそれは避難所,保護の場所です。それは霊的な意味で安全な所ですから,この世の人々は肉眼でそれを見ることはできません。また,霊的な洞察力を持たないために,そこの住人たちがその「秘められた所」にいるということを悟ることもできません。
19 (イ)「秘められた所」にいる人々は,どんな問題に関して霊的な意味で保護されていますか。それはどんな名称に暗示されていますか。(ロ)この問題はいつ世に対して明らかにされましたか。
19 しかし,そこに忠実に住んでいる人々が享受する霊的安全は,彼らが本当にそこにいるということを証明します。その事実は,いま全天全地の前に置かれている最重要な問題に関して,彼らが霊的な意味で保護されていることを示します。それは,「秘められた所」を備えたかたの名称,すなわち「至高者」という名称が暗示している問題です。そうです,宇宙主権の問題です。この問題は,だれが地を支配するか,という問題をめぐって諸国家が戦っていた第二次世界大戦のさなかに,そしてアメリカ合衆国がその世界的闘争に加わる何か月か前に,人類世界の注目を集めました。1941年の夏,アメリカ,ミズーリ州,セントルイスで開かれたエホバのクリスチャン証人の国際大会で,当時のものみの塔聖書冊子協会会長は,「忠誠」という題の講演を行ないました。多数の大会出席者の前で行なわれたその講演の中で,会長は,全創造物の前に置かれている問題は宇宙支配の問題であることを述べかつ明らかにしました。―「ものみの塔」(英文)の1941年8月15日号245ページに掲載された主要記事「忠誠」の19節をご覧ください。
20 この最重要の問題が決着を見る時はいつですか。この問題を理解し,この問題に関して正当性を立証されねばならないかたを支持する人々はだれですか。
20 地の支配,および国民の国家主権の問題は目下激しい論争の的となっています。聖書の年表のみならず世界情勢も,この時代こそ,至高者が,宇宙支配もしくは宇宙主権に関する長年月にわたる問題に一度限り決着をつけなければならない時であることを示しています。「至高者のもとなる秘められた所」にいる人々は,この問題を理解して至高者の宇宙主権を明確に支持する,したがって国家主権や地の支配をめざすこの世の諸国家の紛争に対してクリスチャンの中立を保つ人々です。政治に関与することなく,「至高者のもとなる秘められた所」に住んでいる人々は,至高者の宇宙主権を認め,それを堅く支持しない限り,そこに入りかつとどまることはできなかったのです。彼らは至高者が,この世代のうちに,ハルマゲドンと呼ばれる象徴的な場所で行なわれる,「全能者なる神の大いなる日の戦争」において,ご自分の宇宙主権の正当性を立証されるのを,熱心に待ち望んでいます。―啓示 16:13-16。
21 西暦前20世紀に,どの王は宇宙主権の問題に関して正しい側にいましたか。そして彼はどの族長を,どんなことばで祝福しましたか。
21 聖書の記録によると,中東にあったサレムの王メルキゼデクは,西暦前20世紀に,宇宙主権の問題において正しい側に立っていました。預言者モーセによる彼に関する短い記録は,そのことを証明しています。この昔の王は,族長アブラム(アブラハム)が,メソポタミアの地から攻めて来た四人の王に対して収めた勝利を,宇宙の主権者の勝利としました。そのことについて創世記 14章18節から20節には次のように述べられています。『時にサレムの王メルキゼデク,パンと酒を携出せり彼は至高き神の祭司なりき 彼アブラムを祝して言いけるは 願くは天地の主なる至高神アブラムを祝福みたまえ 願わくは汝の敵を汝の手に付したまいし至高神に誉れあれと アブラムすなわち彼にそのすべての物の十分の一をおくれり』。
22,23 (イ)その直後,アブラムは,宇宙の主権者の側に立つことをどのように公に証明しましたか。(ロ)宇宙の主権者は,申命記 32章8節に記録されているように,ご自分の権利のうちにあるどんなことを行なわれましたか。
22 アブラムは,略奪をした四人の王に勝って得た全戦利品の十分の一を,天地の産出者の祭司としてのメルキゼデクに贈ることによって,祭司兼王であったメルキゼデクと共に宇宙の主権者の側に立ちました。そのことを公に示した証拠に,アブラムは宇宙の主権者の名によって誓いました。アブラムは,ソドムの王のために取り返した物を彼に戻す時にそのことを行ないました。創世記 14章21節から23節は次のように伝えています。『ここにソドムの王アブラムに言いけるは 人[救い出された人々]を我に与え 物を汝に取れ とアブラム,ソドムの王に言いけるは 我天地の主なる至高き神エホバを指して言う 一本の糸にてもくつひもにてもすべてなんじの所属は我取らざるべし 恐らくはなんじ我アブラムを富しめたりと言わん』。アブラムがその名を指して誓ったかたは,アブラムの子孫であるイスラエル人のために,アブラハムに約束しておられた土地を確保されたとき,宇宙の主権者として行動されました。このことについてモーセは次のように述べています。
23 『至高者人の子を四方に散らしてよろずの民にその産業を分かち イスラエルの子孫の数に照らしてもろもろの民の境界を定めたまえり』― 申命 32:8。
24 忠実なみ使いたちが宇宙の主権を認めていることは,マリアに対する発表の中でどのように示されましたか。またイエス・キリストは,貸すことに関して弟子たちに語られたことばの中で,それを認めていることをどのように示されましたか。
24 忠実な天使たちさえも,天地の創造主の宇宙主権を認めています。ですから,み使いガブリエルは,ユダヤ人の処女マリアに,彼女がどのように奇跡的に,イエスと呼ばれることになっていた彼女の初子の母親になるかを告げた時,彼女にこう言いました。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」。(ルカ 1:35)そして後日,完全に成長したそのみ子は,ご自分もだれが宇宙主権者であるかを認めていることを示し,弟子たちにこう言われました。「あなたがたの敵を愛し,善を行ない,何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば,あなたがたの報いは大きく,あなたがたは至高者の子となるのです。彼は感謝しない邪悪な者にも親切であられるからです」― ルカ 6:35。
25 最重要の問題に関するどんな祈りが,わたしたちの世代のうちに答えられますか。それでわたしたちの安全はどこにありますか。
25 霊感による祈りが答えられ,天地の産出者の宇宙主権に敵対する者たちに対してそれが実現する時は近づきました。「人々は,エホバという名をお持ちになるあなただけが全地を治める至高者であることを知る」。(詩 83:17,18,新)したがって,最重要な宇宙主権の問題が永久に解決されるこの世代におけるわたしたちの安全は,至高者の側をしっかりと支持して,「至高者のもとなる秘められた所」に住むことにあります。わたしたちがそこに住むことは,いま地にはびこっている,議論を引き起こすあらゆる政治的宣伝に影響され,誤導されて災いを被らないための保護となります。―詩 27:5。
「全能者の影」
26,27 (イ)客として「至高者のもとなる秘められた所」に入れられる人々はだれですか。(ロ)なぜこのかたはご自身の主権を行使することができますか。それでわたしたちとしてはどうすることが道理にかなった行ないと言えますか。
26 「至高者のもとなる秘められた所に住まう者」は何を得ますか。詩篇 91篇(新)の最初の節全体は次のように答えます。「至高者のもとなる秘められた所に住まう者はみな,まさに全能者の影のもとに宿り場を得る」。この場合,宿るということは,全能者の客として扱われるであろう,という意味です。この全能者と至高者は同じかたです。その同一の神は,至上性と全能性の特質をともに備えておられます。
27 神は全能であられますから,ご自身の至上権,ご自身の宇宙主権を維持することがおできになります。理性を持つどんな被造物が反抗しようとも,宇宙のすべての場所でご自分の主権を行使することがおできになります。被造物が至高者の主権に反対したりそれを無視したりするのは無益なことです。なぜなら神は全能者であられるからです。神の正当な主権を認め,それに従い,忠節をつくし,誠実を保ち,神を常に自分の命の主権者と認めることこそ,道理にかなった行ないです。このことを行なう人々が,全能者の客として「至高者のもとなる秘められた所」に入れられる人々です。
28 至高者はいつ,ご自分が全能であることに,アブラハムの注意を引かれましたか。そしてそれをどのように証明されましたか。
28 聖書をよく知らない今日の多数の人々にとって,存在の全領域において比類のない全能なる神,という考えは理解しがたいものです。しかし,西暦前20世紀という昔に,至高者,すなわち天地の産出者は,地に住んでいたご自身の友,族長アブラムをしてその事実に注意を向けさせました。アブラムの息子イサクが生まれる前の年,至高者はそのみ使いを通してご自分が全能であることを語られました。創世記 17章1,2節は次のように伝えています。『アブラム九十九歳の時エホバ,アブラムにあらわれてこれに言いたまいけるは 我は全能の神なり なんじわが前にあゆみて完全かれよ 我わが契約をわれとなんじの間に立て大いになんじの子孫を増さん』。神は,アブラムとその老いた妻が,子どもをもうけるという点では死んだも同然の状態にあったときに,彼らに息子イサクを奇跡的に授けることにより,ご自分に不可能なことが何もないことを証明されました。イサクが生まれた時,アブラムは100歳,妻は90歳でした。(創世 17:17; 21:1-5。ローマ 4:19-21)この全能者はいまも存在しておられます。
29 今日わたしたちは,だれを通してのみ「至高者のもとなる秘められた所」にはいることができますか。なぜですか。
29 アブラハムの孫ヤコブにとって全能者は非常に親しい神でした。(創世 35:11; 43:14; 48:3; 49:25。出エジプト 6:3)比較すればいかにも取るに足りない被造物ですが,神はそのわたしたちにも非常に親しくしてくださるのです。「至高者のもとなる秘められた所」で全能者の客となることを考えてごらんなさい! しかし今日のわたしたちは,神と最も緊密な関係にある天のみ子イエス・キリストの尽力によってのみ,この親しい関係に入れていただけるということを,覚えていなければなりません。ご自分の完全な人間の命をわたしたちの罪のための,神に対する犠牲として捨てられる前夜,イエスは忠実な使徒たちに言われました。「わたしは道であり,真理であり,命です。わたしを通してでなければ,だれひとり父のもとに来ることはありません」。(ヨハネ 14:6)ですから,わたしたちはイエスを通して,全存在の中の至上者に近づき,その至上者を宇宙の主権者,すなわちわたしたちが自分の命と,愛のこもった忠節および献身をささげるべきわたしたちの主権者であることを認めるのです。このようにしてわたしたちは,「まさに全能者の影のもとに宿り場」を得ます。
30,31 「まさに全能者の影」にいることについて語った時,詩篇作者は明らかにどんな情景を頭に描いていましたか。
30 全能者の影に覆われることは,わたしたちにとってなんとすばらしいことでしょう。このことは,全能者の興味と関心と注意がわたしたちに注がれていることを示します。その情景は,小さな人がずっと大きな人の陰に隠れているとか,あるいは無生物の陰に,『倦みつかれたる地にある大いなる岩陰』に隠れているといったものではありません。(イザヤ 32:2)詩篇作者が思いのうちに描いた正しい情景は,詩篇 17篇8節の中で言われているような情景です。ここでダビデは至高者に次のような祈りをささげています。『願くはわれを瞳のごとくにまもり なんじのつばさの蔭にかくし(たまえ)』。
31 そうです,ここに描かれているのは,親鳥がひなの頭上高く舞い,ひなの上に影を落としている情景です。下方にいるひなたちは,上方の親鳥の影の中にいるかぎり,自分たちには親鳥の注意が注がれていて,猛禽から保護されており,安全であるということを知っています。頭上でのそのような鳥の飛行が,注意と保護を示すものであることは,イザヤ書 31章4,5節に述べられていることによって確証されます。『万軍のエホバくだりてシオンの山およびその岡にて戦い給うべし 鳥のひなをまもるがごとく万軍のエホバはエルサレムをまもりたまわん これを護りてこれをすくいすぎ越してこれを援けたまわん』。
32 (イ)それで全能者と,全能者の「影」にやどるわたしたちは何に例えられていますか。(ロ)全能者は至高者でもあられるので,忠実な主人としてどんなことをすることができますか。
32 このように全能者は力の強い大きな鳥になぞらえられており,霊的な意味で安全な「秘められた所」にいる人々は,その親鳥の若いひなに例えられています。彼らは「まさに全能者の影」にいるので,「秘められた所」は彼らにとって一層安全な所となります。全能者は至高者ですから,他のすべてのものはその下にあり,下方のものは何一つその全能の視力から逃れることはできません。全能者は,その「影」の下にいる者たちに反対する下方のどんなものの,あるいはどんな人のどんな動きも,直ぐに見てとることができます。また,霊的な意味での客としてご自分のところに宿っている,自分の陰にいる者たちの防衛と保護に直ちに赴くことができます。全能者は,主人として,ご自分が客としてもてなす人々に対する責任と関係のある誉れを忠実に保たれます。なんと大きな慰めを与える考えでしょう。わたしたちは他のどこに,霊的安全を見いだすことができるでしょうか。
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霊的な危険に対する恐れからの自由ものみの塔 1975 | 3月1日
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霊的な危険に対する恐れからの自由
1 恐れからのそのような自由を得るには,人はどんな道を追い求めなければなりませんか。
詩篇 91篇に記述されている霊的な危険に対する恐れからの自由を得るには,同詩篇が指示している道を追い求めなければなりません。その道の一部に言及し,詩篇作者はこう言いました。「わたしはエホバに申し上げよう。『あなたはわたしの避難所,わたしのとりで,わたしの信頼する,わたしの神です』と」― 詩 91:2,新。
2 それでその独特の名前は,出エジプト 6章2,3節と一致して,だれを明らかにしていますか。
2 わたしたちはみな,詩篇作者(あるいは彼が代表する者)が,エホバに対して,『あなたはわたしの避難所,わたしのとりでです』と言っているのに注目しましょう。こうして彼は,至高者および全能者が,エホバという独特の名前を持つかたであることを明らかにしています。このことは,モーセがエジプトに戻ったあと至高者が彼に言われたことと合致します。「わたしはエホバである。そして,わたしは,アブラハム,イサク,ヤコブに全能の神としてよく現われたが,わたしの名,エホバに関しては,わたしはみずからを彼らに知らせなかった」― 出エジプト 6:2,3,新。
3 ご自分の名前を押し広げ,詳しく説明するさいに,全能者はどんなヘブライ語の表現をお用いになりましたか。そしてそれは,いくつかの英語の翻訳が訳出しているように,どんな意味を持ち,どんな意図を含んでいましたか。
3 ご自分の名前の意味を推し広げて,詳しく説明されるに際し,全能者はモーセに,「エヒエ アシェル エヒエ」と言われました。出エジプト記 3章14節に見られるこの表現は,「我は我がなるものにならん」(ユダヤ教の教師リーサーの訳),あるいは「我は我が喜ぶものとならん」(ロザハム訳),または「わたしは自分が成るところのものに成る」(新世界訳)という意味です。つまり,この全能者は,ご自分の民の状況に適応することができ,しかも,ご自分の民のために,そしてご自分の目的に即応して,なんであれご自分がなる必要のあるものになることができ,またなる,あるいはなんであれご自分がそれに成る必要があれば,それに成ることができ,また成る,という意味です。神はいかなる事態にも首尾よく対処することができ,また対処されるのです。ですから全能者は,このヘブライ語の表現によって,ご自分の自存,ご自分が永遠であることについて語っておられたのではありません。
4 (イ)ヘブライ語の語根によると,エホバという名前にはどんな意味がありますか。それはだれと,あるいは何と関係がありますか。(ロ)この名前の,神のみ子キリストに対する適用についてはどうですか。
4 神の名前はその表現と関係があります。エホバという名前は神の「記念」の名前,「代々にわたってわたしの記念となるもの」とされました。(出エジプト 3:15,新)ヘブライ語のエホバという名前の語根によると,それは,「彼はならせる(あるいは成らせる)」という意味を持つようです。すなわち,ものを創造することに関してではなく,神ご自身に関して,またご自分が何になる,あるいは成るかに関してそうなさる,という意味です。命を持つ理知あるものの全領域において,至上者と全能者のほかにだれが,そのような名前を正当に自分に付けることができたでしょうか。神のみ子イエス・キリストでさえ,そのような名前は採用されませんでした。「エホバは救い」という意味のエシュアすなわちイエスというような,神の名と結合した名前をもらうことはできましたが,エホバという名前を全くそのままでもらうことはできませんでした。―エレミヤ 23:6; 33:16。
5 エホバに対して,エホバは人の「避難所」であり「とりで」である,と言うのはなぜ当を得ていますか。箴言 18章10節は賢明にもなんと言っていますか。
5 それで,詩篇 91篇2節で語っている詩篇作者によって代表されている人々は,エホバに向かって,『あなたはわたしの避難所,わたしのとりでです』と正しく言うことができます。特に戦後の年である西暦1919年以来,エホバは彼らに対し,もちろん霊的な意味で,避難所またとりでとなっておられます。エホバは目に見えないかたですから,人がエホバに対してそう言い,本当にその気でそのことば通りに行動するには,強い信仰が必要です。しかし,至高者エホバのほかに,人が避難所のようにして逃げ込めるものがありますか。全能者ご自身以上に強い,あるいは攻略しがたいとりでがあるでしょうか。昔の王ソロモンが,「エホバの名は堅固な塔である。その中に義人は走って行って,保護を与えられる」と書いたのは,確かに霊感を受けた知恵によりました。―箴言 18:10,新。
6 いまはキリストが関係されていますが,救いはだれの名に求められていますか。クリスチャンにとって「避難所」となり「とりで」となるかたはだれですか。
6 いまは神のみ子イエス・キリストを通して行なわれているとはいえ,結局堕落した罪深い人類はエホバのみ名に永遠の救いを呼び求めなければなりません。そのことを言ったのは,キリスト前の預言者ヨエルだけではありません。(ヨエル 2:32)使徒ペテロも,クリスチャン会衆が設立された西暦33年のペンテコステの日にそのことを語りました。(使徒 2:21)何年かあと,使徒パウロにも,ローマ 10章13節にそのことを記述しました。いまは仲介者イエス・キリストを通してのみ,至高者なる全能者に近づきますが,それでもわたしたちが避難所としなければならないかた,わたしたちの堅固なとりでであるかたは,やはりエホバです。―ゼパニヤ 3:12。
信頼すべき神
7-9 (イ)「わたしの神」という表現が用いられていても,そのために詩篇 91篇がイエス・キリストに適用できないものになることはありませんが,それはなぜですか。(ロ)復活されたイエスの前で,疑っていたトマスはどんな叫びを発しましたか。そしてヨハネは彼の福音書にそのできごとを挿入することによって何を証明しましたか。
7 このエホバは,詩篇作者にとって,避難所やとりで以上のものでした。詩篇作者がエホバに対して述べたことばの全文は,「あなたはわたしの避難所,わたしのとりで,わたしの信頼する,わたしの神です」というものでした。―詩 91:2,新。
8 詩篇作者がエホバを「わたしの神」と呼んだことには,エホバは聖なる実在者として彼が崇拝すべきかたである,という意味がありました。これはイエス・キリストご自身がエホバに対して用いるにふさわしい表現でした。「わたしの神」という表現が用いられていても,そのために詩篇 91篇がイエス・キリストに適用できないものになることはありません。エルサレムの外の刑柱の上で死を迎えた時,イエスは詩篇 22篇1節を引用して,天の父に向かい,「わたしの神よ,わたしの神よ,なぜわたしをお見捨てになりましたか」と叫ばれました。(マタイ 27:46。マルコ 15:34)死から復活したのち,イエスは使徒トマスにご自分の手と足のくぎの跡を調べさせました。そしてトマスが驚いて,「わたしの主,そしてわたしの神」と言ったのは事実です。しかしイエスはトマスの叫びを正しく解釈されました。使徒ヨハネもそうでした。このできごとを福音書に記録する際に,ヨハネは,イエスがエホバ神であるとか,三位一体の「子なる神」であるといった考えを伝えようとはせず,トマスに
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