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わたしたちすべてが選択すべきこと真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第1章
わたしたちすべてが選択すべきこと
1-4 (イ)真の平和と安全が得られたらどんなによいだろうと思えるのは,どんな状態を見ているためですか。(ロ)世界の指導者が永続的な平和を予告しているのはどんな根拠に基づいていますか。(ハ)平和と安全のためのいかなる取り決めも,それがわたしたち自身の生活を益するためには,どんな問題を解決するものでなければなりませんか。
もとよりあなたも,今日のたいていの人びとと同じように,平和と安全を望んでおられるに違いありません。人びとはどこでも,戦争と緊張と混乱にうみ疲れています。人びとは安らぎを求めています。この地球が,そこに住む人びとすべてにとって安全でここちよい住まいとなるのを見るとすれば,あなたは喜ばないでしょうか。
2 人びとの切望してきた安らぎの時は今や近づきました! そのことを信ずる理由はすべてそろっています。しかし,それはどこから得られるのですか。
3 今日の世界の指導者は,世界史上の“新時代”の到来を,確信をもって予告しています。そうした指導者たちは,世界戦争や核による破滅の脅威は過去のものになったと言います。なぜでしょうか。世界の大国間の関係に劇的な変化を見たことがかつて経験したことのない平和と安全の時代を招来しつつある,というのがそうした人びとのあげる理由です。1973年1月,著名な一政治家はこう語りました。「われわれは,世界がこれまで知らなかったもの,すなわち,われわれの時代だけでなく,今後幾世代も続く,永続的な平和の機構を造り出すための突破口を設けた」。1
4 問題は,平和と安全をほんとうのものとするためには何が必要か,という点です。それはあなたの生活をどのように安全なものにしますか。そうするためには,あなたの近隣や家庭にも及ぶもの,あなたに大きく関係している問題を解決するものでなければならないでしょう。またそれは,犯罪の増大や麻薬の中毒,食糧の値上がりや重くのしかかる税金,汚染の拡大や家族のきずなの弱まりなどの問題を解決するものでもあることが必要でしょう。こうした状態のどれも,それが存続しているかぎり,あなた個人の平和と安全は脅かされるはずです。
5-8 (イ)あなたご自身の人生の経験から見て,人間がそうした問題を解決すると思いますか。(ロ)ほかのどこに解決の道を求められますか。(ハ)聖書はどういう点で傑出した本ですか。
5 人びとは今日,人類を悩ます大きな問題を克服できるとの希望を述べています。戦争のための重苦しい負担から解放されることによって,富と研究と人力を,犯罪,病気,飢え,貧困,住宅不足などの解決策を見いだすことに,はるかに精力的に振り向けることができると言います。
6 あなたはこのことを信じますか。人間がそうした解決をもたらすことができるという,何か確かな証拠が過去や現在にありますか。人間の歴史は何を示していますか。あなたご自身の人生の経験はこの点で何を語りますか。
7 『だが,人間に解決策がないとすれば,あとは何が残るのか。ほかにどんな選択の道があるのか』と言われるかもしれません。では,神についてはどうでしょうか。地球とそこに生きるものとが理知ある設計の証拠であることは否定のできない事実です。(ヘブライ 3:4)では,神はここでどのように登場されるのでしょうか。神はこのことに関心を持っておられますか。人間の事態に手を下されるでしょうか。
8 ここに関係している事がらを考えると,聖書がこうした点についてなんと述べているかを調べるのは,価値のあることではないでしょうか。聖書が地上で最も広く翻訳されaまた流布された書物であることは,すでに知っておられるかもしれません。しかしそれが,この二十世紀に住むわたしたちに最も関心のある問題そのものを論じていることを知っておられたでしょうか。
9 聖書は人類の将来,また人類を治める政府の将来についてなんと述べていますか。
9 聖書が世界の滅びを予告しているということを聞いた人は多くおり,そのことで不安な気持ちになっている人もいます。しかし,その滅びがいつ来るかについて聖書がなんと述べているか,またその後のこの地上での生活についてそれがどのように預言しているかを知っている人は多くありません。(マタイ 24:21,22。ペテロ第二 3:11-13)人びとは,『神の王国が来ますように』と祈ってきたかもしれません。しかし,聖書はその王国を現実の政府として,また現存しているすべての政治上の体制にまもなく取って代わるものとして述べているのであり,その点を悟っている人はわずかです。―ダニエル 2:44。
10 神の王国が行なうと聖書が述べている事がらと,人間の指導者が将来に描いている事がらにはどんな違いがありますか。
10 神の王国がもたらすと聖書が述べる平和や安全と,今日の人間の指導者が約束するものとの間には大きな隔たりがあります。今日の人びとは,協定や平和条約による軍備の縮小について論じます。聖書はそれと対照的に,神がまもなく,いっさいの軍備に完全な終わりをもたらし,戦争の根本原因を除き去ることを述べています。神が約束しておられる安全は,単に国家間の戦争がないというだけのことではありません。どこにおいても,どんな敵もいないという安全なのであり,その結果,昼であれ夜であれ,だれひとり恐れをいだく必要はありません。(ミカ 4:3,4)人びとは今,犯罪をなんとか抑制することに努力しています。しかし,神の宣言された目的は,犯罪の根源そのものをぬぐい去り,犯罪のもとになる態度や状態を全くなくすことです。(詩篇 37:8-11。ガラテア 5:19-21)国々の人びとは,医学研究における進歩,また病気や老齢の人たちに対する世話を改善することについて語ります。しかし聖書は,神の政府が完全で永続する健康をどのようにもたらすか,そうです,老化と死の問題をさえ克服することを説明しています。(啓示[黙示] 21:3,4)聖書が述べるような支配のもとで,人の仕事は単に金銭や所有物を得るためのものではありません。それは生活を意義あるもの,目的に満ちたもの,真に満足をもたらすものとします。結局のところ,どれだけの支払いを受けようとも,仕事が単調なものであり,ざせつ感を意識し,物事を達成する喜びが生活に欠けているなら,決して幸福ではありえないからです。―ローマ 8:19-21。イザヤ 65:21-23。
11 人間に頼るか聖書が約束するものに頼るかを決定するにあたり,わたしたちはどんなことを自問するのがよいでしょうか。
11 あなたならどちらを好まれますか。どちらが真の平和と安全を差し伸べていると思いますか。世界一般が受け入れているものに従うことによって,あなたは自分の生活に欲しているものをほんとうに見いだしましたか。今のところ人びとの間で人気のある事がらにそのままついて行くなら,あなたは,幻滅を感じさせるだけでなく,人を重大な危険に陥れる,偽りの平和,まやかしの安全に頼ったことにならないでしょうか。一方,聖書が,信じうること,実際的なこと,現実的なこととして約束している事がらは,頼ることのできるものですか。
12 こうした点をともに調べてみるのはなぜ有益ですか。
12 わたしたち各自がいま直面している選択は小さな事がらではありません。わたしたちの命そのものがそれにかかっています。それゆえ言うまでもなく,ここにあげた質問の答えは,あなたが慎重に検討するに価します。
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人間は永続する平和と安全をもたらせるか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第2章
人間は永続する平和と安全をもたらせるか
1 平和と安全に対するわたしたちの希望が,現実で真実の事がらに基づいたものであることはなぜたいせつですか。
ほんとうの希望は,現実でありまた真実である事がらに基づきます。偽りの希望は人びとを欺き,真の希望に対して盲目にならせるにすぎません。わたしたちが今直面しているような危機の時代にあって,偽りの希望は人の命を奪うものとさえなります。
2,3 (イ)平和と安全をもたらすことに関する問題についてどんな点を自問してみるのがよいですか。(ロ)神に信仰を持つと唱える人びとはさらにどんな質問にも答えねばなりませんか。
2 それゆえ,わたしたちは自問してみることが必要です。ほんとうの平和と安全をもたらすために解決しなければならない問題がどれほど大きいかを,わたしたちははっきり認識しているでしょうか。事態がどこまで切迫しているかを悟っているでしょうか。人間の持つ解決策が,果たさねばならない仕事の膨大さに対応しうるものであるという,どんな実際の証拠を得ているでしょうか。
3 また,世界の指導者にも神にも同時に頼ることができるのかという問題にも答えなければなりません。そうすることができると信じる人たちがいます。そうした人びとは,永続する平和をもたらそうとする今日の人間の努力には神の後ろだてがあると信じています。しかし,ほんとうにそうでしょうか。多くの事が関係していますから,事実を検討してみるのがよいでしょう。
恐怖と切迫感に促された行動
4-6 人類が直面している問題の重大さについて世界の指導者はどんなことを悟るようになりましたか。
4 幾千年もの間,人間は永続する平和と安全を求めながら成功してきませんでした。しかし,今や生じた新しい事態のゆえに,人間はこの問題と取り組んで成功できると信じる人びとが多くいます。その新しい事態とはなんですか。
5 それは,世界平和か世界の自殺かのいずれかを決定しなければならないということを,世界の指導者が初めて認めるようになったという点です。彼らは,核の全面戦争があまりにも壊滅的であるために勝者は存在しえず,ただ敗者のみであろうという点で同意しています。それだけではありません。多くの人,特に科学者は,全世界的な汚染から来るさらに大きな危険が存在すること,また“人口爆発”とそれに伴う広範囲な飢きん,病気,社会不安の脅威を指摘します。そして,世界規模の災厄を回避するためには,すべての国の人びとによる全地球的な行動が必要であるが,そのための時間も尽きつつある,という点を述べます。アメリカ,ワシントン特別区からの一報道はこう伝えています。
「アメリカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,スウェーデン,チェコスロバキア,ソ連,インド,日本など異質の国々において,その国の指導的な人びとが,人間のこれまでの経験に類例のない危険が差し迫っていることをにわかに意識するようになった。未来学者はそれを,危急中の危急,人間の限りない過誤の頂点と呼ぶ」― ワシントン・ポスト紙。2
6 これらの人びとは,人類がたとえこうした危機を一時に一つは乗り越えることができたとしても,もしすべてが,あるいはその幾つかであっても,同時に襲うなら,もはや生き残りえないということを認めています。しかし,問題は,災厄に対する恐怖がほんとうに人類を転じさせ,不一致と抗争から,真の平和と安全の道に至らせるであろうか,という点です。
人間の努力によって戦争のない世界?
7-11 (イ)戦争をなくすための人間の能力について,歴史は何を示していますか。(ロ)核戦争に対する恐怖は平和のための確かな土台となりますか。(ハ)軍縮協定や平和条約が調印されれば永続的な平和が保証されることになりますか。
7 人間が戦争を全くなくすことができると信ずるだけの確かな理由を,わたしたちのだれが提出できるでしょうか。歴史は何を示していますか。
8 たしかに,この地球上に戦争のなかった年月も幾らかありました。しかしそれはごくわずかです。軍事問題の分析家ハンソン・W・ボールドウインは,記録に残る歴史およそ3,457年のうち,戦争の年は3,230年以上であり,平和の年はわずかに227年にすぎなかったと計算しています。3
9 しかし,原子力戦争に対する相互的な恐怖がこれを変えるのではないでしょうか。人間が核兵器に対する恐怖を知ったのは四半世紀以上も前,原子爆弾が日本の二つの都市をぬぐい去った時であることを思い出してください。その恐怖心は以来人びとに何を行なわせましたか。実際には,そうした兵器をさらに多く蓄積させ,はるかに破壊力の強いほかの兵器を次々に開発させてきたのです。
10 攻撃を受けるのではないかという恐怖は真の平和を保証するものではなく,実際には疑いと緊張を作り出す,ということに同意されないでしょうか。隣りに住む人が武器を備えており,それを何かの場合に使うかもしれないという,ただそれだけの理由でその人と平和を保っているとすれば,それは真の平和ですか。その人が隣りに住んでいる間,安心した気持ちを持てるでしょうか。実際のところ,そうした恐怖心は,性急で思慮の欠けた暴力的な行為に走りがちなものです。世界の指導者が築き上げた“恐怖の均衡”は,決してほんとうの平和のための土台とはなりません。
11 諸国家が軍縮協定や平和条約に調印したとしましょう。これまで何世紀もの間,そうしたものがまさに幾千となく調印されてきました。しかし,戦争気運が強まればいつでも,そうした条約類は無価値なもの,ただの紙くずとなりました。今日の世界の指導者が自己本位な国家利益の追求に反すると思えるような場合にもなお自分たちのことばを守る,と考えるのは現実的なことでしょうか。また,さらに重要な点として,あなたは,平和で安全な生活に対する自分の希望を,そうした人びとの,平和を守るという約束に賭けるつもりですか。
12,13 (イ)永続的な平和の達成における人間の失敗を予告した聖書は実際に起きたこととどのように一致していますか。(ロ)聖書は何を戦争の真の源として指摘していますか。
12 では,聖書についてはなんと言えますか。平和の達成という点で人間の無能力さを示す証拠が十分あるのに,なお人間の平和努力に希望と信頼を置くようにと聖書は勧めていますか。いいえ,むしろ聖書は,人間が独力では決して平和をもたらしえないことを,遠い昔に予告していました。そして,義に対する真の愛を持たない者を神の王国が地から一掃する直前の時代にさえ「戦争や無秩序な事態」が存在し,世界規模の戦争で『国民が国民に,王国が王国に敵対して立ち上がるであろう』とあらかじめ警告していました。(ルカ 21:9,10,31。啓示 6:1-4)人類史上最大で最も破壊的な殺りく行為が,わたしたちの世代に,二度の世界大戦のかたちで行なわれました。そして,第二次世界大戦が終わって以来,三百以上の戦争や動乱が起きています。これは実に,一月にほぼ一件の割合です。聖書の予告は実際に起きた事がらと一致しています。聖書が与えたものは偽りの希望ではありません。
13 聖書はまた,問題の真の源をもはっきり指摘しています。すなわち,戦争が弾丸や爆弾や戦艦によって起きるのではなく,人びとによって,人間の利己心によって引き起こされることを示しています。(ヤコブ 4:1-3)人間が永続的な平和を達成するためには,まず人びとを変化させることを世界的な規模で行なわなければなりません。しかし,これまで幾世紀もの人間の記録を見て,あなたはそうしたことが起きると言われますか。この世代の記録についてはどうですか。そうした変化が間近に起きることを示していますか。すなわち,人びとはどこでも,利己心,分裂のもとになる国家主義,人種的な憎しみ,商業主義の貪欲さなどから離れつつありますか。決してそうではありません! そして聖書は真実にも,人間がただ自分の利己的な目的追求のために平和を求めるのであれば,決して成功しえないことを述べています。―イザヤ 57:19-21; 59:7,8。
人間は“人間爆弾”の爆発をくい止められるか
14-17 (イ)地上の人口はどれほどの速さで増加していますか。これは食糧供給の問題について何を意味していますか。(ロ)必要な解決策を科学者が備えているかどうかについて,科学者自身はなんと述べていますか。
14 地上の人口は十九世紀初頭に初めて十億に達しました。それは1930年までには二十億に増えました。今では三十六億以上の人が地上に住んでおり,今後三十年のうちにこの数字は六十億を超えるものと推定されています! これは何を意味するでしょうか。
15 これは,毎日新たに二十万の口を養ってゆかねばならないという意味です。しかも,その多くは,貧困,飢え,病気などがすでに幾百万の人びとに影響を与えている地域で生まれています。アメリカ,ミシガン州立大学の食糧問題の学者ゲオルグ・ボルグストロム教授はこう述べます。
「現在の世界のたん白質危機はやがて収まってひとりでに解消するであろうと考えている人はみな次の点を銘記すべきである。すなわち,世界の空腹人口は,十分な栄養を得ている人びとの二倍の速さで増えている,という点である」。4
16 しかし,農学者は米,小麦,とうもろこしなどの新しい多収穫品種を開発して,いわゆる“緑の革命”をもたらしたのではありませんか。そうです。しかし,それは世界の飢えの問題の答えとなりますか。今では,食糧問題の専門家で,それを否定する人がしだいに多くなっています。そうした穀物の新品種がむしろ飢きんの一因になると警告する人が多くいるのです。しかし,どのようにですか。1971年の一AP特報はこう伝えました。
「その雑種の新品種は病虫害に対して在来種ほどの抵抗力がない。一国の全収穫が ― 場合によっては世界の全収穫が ― 新しい植物病によってふいになってしまう可能性が存在する。昨年,アメリカのとうもろこしの作付けにおいて,ほとんどそれに近い状態が生じた」。5
17 科学者も解決策を備えてはおらず,そのことを先頭に立って警告しているのは科学者自身です。著名な一生物学者はこう述べました。
「世界人口を養ってゆくための戦いはすでに敗北を見た,そして,1985年までに世界規模の飢きんが起きて,幾億の人が餓死することは目に見えた結論である,と感じている人びとがいる。目下のところ,こうした結論を否定させるほどの突貫的な大計画がなされているとは言えない」。6
18-21 (イ)こうした事態について聖書はなんと予告していましたか。(ロ)軍事支出を縮小すれば問題は解決されますか。(ハ)事態がこれほど深刻になっているのはどうしてですか。
18 現代社会は,その農学上のあらゆる進歩にもかかわらず,聖書があらかじめ警告していたその事態を避けることができませんでした。「事物の体制の終結」の時期に世界規模の深刻な食糧不足が到来することを,聖書は正確に予告していました。―マタイ 24:3,7。啓示 6:5-8。
19 問題のかなりの部分は,おもに農業上の方式にあるのではなく,聖書の原則に逆らって行動する人びととその態度とにあります。これまで何十年もの間,地上のいたるところで幾百万の人が餓死に直面しているにもかかわらず,諸国家は巨額の資金を軍備に投じてきました。国連の一報告によると,近年諸国家は,その軍隊のために,年々二千億ドル以上を費やしてきました。これは,地上人口の三分の一の人びとの年間所得総計を上回っています!
20 たとえ大々的な軍備増強をやめたとしても,世界のさまざまに分かれた経済上の体制が,問題の真の解決に対する妨げとなります。食物がある場合でさえ,大きな利潤を得ようとする欲望が,それを必要とする人びとへの分配を阻む例が多くあります。国によっては,政府が農民に金を支払って一定の作物の生産をやめさせ,多大な生産によって価格が下がらないようにと,収穫した作物を焼き捨てることさえ行なわれています。
21 こうした状態のすべては,困っている人びとに愛のある態度を取ることを勧める聖書の原則と大きく異なっているではありませんか。(申命記[第二法の書,バ] 24:19-21)人間はその経済上の体制を利己心の上に築き上げ,平和と安全をもたらすどころか,災厄的な結果になるのではないかという事態が今や発展しています。遅かれ早かれ,人間は,聖書が述べるとおり,『自分のまいたものを刈り取る』ことになります。―ガラテア 6:7。
人間は地球との平和を実現できるか
22-25 (イ)汚染の問題はどれほど深刻ですか。(ロ)人間の科学に解決をあおぐ人たちがいますが,科学者自身はなんと述べていますか。
22 これまで幾十年もの間,人間は自分が住む地球に対して戦争をしかけてきました。どのようにですか。全世界的な汚染によってです。その汚染は人間が生み出した有毒な廃棄物によるものであり,それが人間の使う水に,呼吸する空気に,口に入れる食品に逆戻りして,押しのけることができないまでになっています。こうして人間は,自分の生存のための最も基本的な要素をさえ危険にさらすようになりました。
23 平和と安全を人間に託している人びとは,人間は過去のいろいろな危機を乗り越えてきたのだから,この危機を乗り越える道をも見いだすであろう,と言います。そうした人びとは,人間の科学が解決の道を与えるものと信じています。
24 しかしここでも,今日最も深い疑念を言い表わしているのは科学者自身です。次の一文に注目してください。
「近く退任する,全米科学財団の理事ウィリアム・D・マッケロイ博士が最近語ったところであるが,人間はこれまでほかのいろいろな危険を乗り越えてきたし,このたびも乗り越えられるであろうということが,汚染の脅威に対する自然の反応となっている。が,残念なことに,これは『少しも事実と一致しない。まともな社会における人間の生存は決して保証されていないということが,今日全く真実のところである……環境の破壊による自滅は現実に起こりうる問題である』」― アトランタ・ジャーナル。7
25 人間は機械を発明して大量に生産し,産業化社会を建設することができます。しかし,そうした機械の使用によって自らの環境をも破滅させています。汚染問題の権威者レーネ・デュボ博士はこう述べます。
「科学技術がわれわれの未来を支配するという考えに従うかぎり,汚染の問題を ― あるいは人間の生存を脅かす他の問題を ― 解決する希望は持てない,というのがわたしの見解である」。8
26-28 (イ)地上にこうした危機的な事態が生じることを聖書は予告していましたか。(ロ)汚染問題の真の源はどこにありますか。(ハ)エコロジーに関係した問題と取り組むにあたり,人間の科学者はどんな肝要な知識を欠いていますか。しかし,それを持っておられるのはだれですか。
26 ここでも,聖書は,地の恵みを利用する点で人間が知恵の欠けた行動をすることを予告しました。啓示 11章18節の預言は,「地を破滅させている者たちを破滅に至らせる」ために神が行動を取らねばならない時が来ることを予告しています。
27 そして再び,人類がかかえる汚染問題の真の源を聖書が的確に指摘していることが明らかになります。それは工業や機械ですか。いいえ,それらがおもではありません。汚染を引き起こしているのは主として人びとです。人びとは利己的な欲望か無知,あるいはその両方が理由で環境を汚染させます。自分の欲望を満たすことを求めて現在の経済上の体制を築き上げましたが,今ではそうした体制によって,生活を楽しむために必要なものそれ自体が奪い取られてゆくのを見ているのです。
28 今日,エコロジー(生態学)とか,地球の環境に対する研究について多くのことが論じられていることは確かです。しかし,科学者は地球の“エコシステム”(生命活動が持続してゆくための生態学上のいろいろな関係)がどのように作用しているかまだ十分に理解していません。タイム誌はそうしたエコシステムについてこう述べています。
「最も単純なものでさえあまりに複雑であり,最大の計算機をもってしてもそれを解明しつくすことはできない」。9
人間は自ら認めているとおり,地球の複雑な生態系を理解していません。しかし,神は理解しておられます。それを創造されたからです。こうしたものの創造者に問題の解決をあおぐのが賢いことであり,また実際的なことではありませんか。
犯罪をなくすことによる安全
29-31 (イ)犯罪の問題はどれほど広がっていますか。(ロ)新しい法律を成立させても犯罪が除かれないのはなぜですか。(ハ)物質上の繁栄を得ても問題が解決されないことを何が示していますか。
29 環境の汚染が人間生存のための本質的な要素をさえ危険にさらしているとはいえ,さらに多くの人が不安を覚えているのは犯罪の増加です。犯罪のために身の安全を脅かされる人がしだいに増えています。それは大都市だけではありません。小さな町や田園地方にも及んでいます。単に所有物を奪われるにとどまらず,身体そのものをも脅かされる場合が少なくありません。人間は,こうした危険からほんとうに解放された状態をあなたにもたらすことができますか。
30 人間はそれを新しい立法措置によって実現できるでしょうか。世界の法律全書にはすでに幾百,いえ幾千の法律があります。しかしそれらは犯罪の増大をくい止めてはいません。また,取締りに当たる人びと自身の間にさえ根深い腐敗の育っている場合も少なくありません。高い地位にある人びとの不正が正直な取締官の努力を無にしてしまう場合もあります。そしてここに残るのは,正義を法律によって人の心に注入することはできないという事実です。
31 犯罪を探知し,その意図をくじくような新しい方法が開発されれば,それが問題の答えとなりますか。新しい方法が案出されるごとに,犯罪者はそれを越える別の方法を考え出します。では,人間の作る“平和時代”において繁栄が増し加われば,問題は解決されるでしょうか。犯罪を所得の少ない人びとだけのものと考えるとすれば,それは大きな誤りです。たとえば,次の報道に注意してください。
「オーストラリアにおいて,事業家や専門職の人によってなされる犯罪の件数は,過去二,三年の間に驚くほど上昇した」― オーストラリアン誌。10
また,ニューヨーク・タイムズ紙は,ウォール街金融地区におけるどろぼう行為がいわば“したいほうだい”であると伝え,さらに,「使い走りの者や事務職員から管理職者にいたるまで,すべての者が盗みを行なっている」と述べました。11 犯罪率のいちばん高いのは富裕な産業国であるというのが実情です。そして,麻薬中毒が広まって行く傾向も無視してはなりません。
32 こうした事態について聖書が予告したことは成就を見ていますか。
32 今日生じている事態は,聖書の預言がずっと以前に予告したとおりです。「終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人びとは自分を愛する者,……自制心のない者,粗暴な者,善良さを愛さない者,……神を愛するより快楽を愛する者……となるからです」。(テモテ第二 3:1-5)特に注目すべきことは,こうした状態が,神への信仰を持つと唱えながら,実際にはその主張どおりでない人びとの間に見られると預言されている点です。(5節)そしてわたしたちは今日,キリスト教世界の諸国家が,犯罪その他の社会的病弊に最もひどく災いされているのを見ていないでしょうか。イエスはまた,地球を『柔和な人びとの受け継ぐ』場所とするため神の王国が邪悪な者たちを滅ぼす直前の時期に『不法の増し加わる』ことを予告されました。そうした『不法の増し加わり』は今の時代の事実となっています。―マタイ 24:12; 5:5。
最大の問題
33-38 (イ)たとえ人間がここまでに論じた問題のすべてを解決できたとしても,平和と安全に対するさらに大きなどんな敵が残りますか。(ロ)人類を悩ます主要な病気の征服に関して医学研究者たちが差し伸べているのはどんな前途ですか。
33 人間が戦争,貧困,飢え,汚染,犯罪,麻薬中毒などの難問を解決できたと仮定しましょう。これによってあなたは全くの平和と安全を持つことができますか。いいえ,まだ何かが欠けています。病気や死があなたの安全に対する未征服の敵として残っています。実際,自分の愛する家族が病気になったり死んだりするのを見,また自分の体が致命的な病気に冒されるのを見なければならないとしたら,ほかのすべての問題に関して平和を得たとしても何になるでしょうか。
34 近年,医学の面で驚くほどの進歩がなされました。しかし,これが現実の意味でわたしたちにどんな安全をもたらすでしょうか。医学の権威者自身は何を認めていますか。
35 ウォール・ストリート・ジャーナル紙12の一記事は,「科学は貧困諸国での病気に対する戦いに負ける」という見出しのもとに,三つの病気(マラリア,トラホーム,住血吸虫病)が,そうした国々で現在八億人の人びとを苦しめていることを示しています。そして,医学関係の報道によると,そうした病気に冒される人の数はしだいに増加しています。したがって,数多い病気のうちのわずか三つが,世界人口の四分の一近くを悩ましていることになります。
36 さらに富裕な国々についてはどうでしょうか。ここでは,心臓病が第一の殺人病となっています。最近開かれた,「飢えと栄養失調に関する会議」において,心臓病は一種の“流行病”であるとされました。カナダでは,おとな四人につきひとりがこの病気で苦しんでいます。アメリカの場合,毎年の死亡者の半数以上は心臓病が原因であり,今では若くしてその犠牲となる人も多くいます。しかし,ニューヨーク・タイムズ紙の一報道によると,「アメリカ心臓学会の役員モーゼス博士は,医師たちは心臓病を“撲滅”できないことを認めていると語」りました。13
37 恐ろしい病気であるガンの犠牲者も増えつづけています。この不安からの解放についてどんな希望がありますか。コロンビア大学医学部のハリー・グルンドフェスト教授は,「ガンについては,その解決はおろか,問題の性格についていまだにばく然とした手がかりがあるにすぎない」と述べています。14
38 医学界の最も熱心な人たちさえ,わたしたちの時代のうちに心臓病,ガン,マラリア,その他の恐ろしい死病の根本的な治療法を見いだす見込みのないことを認めています。しかしたとえ見いだしたとしても,それが多くの人の平均寿命を伸ばすことにはさして役だたないことを悟るでしょう。人びとは依然年老いて死んでゆくことでしょう。それで,病気,老化,死などの不安から解放された真の安全について,人間はどんな希望を差し伸べることができるでしょうか。
39 人間の生涯がこのように短く,しかも問題に満ちている理由については何から学べますか。
39 幾千年も昔に記されたとはいえ,聖書のヨブ記 14章1,2節のことばは今日なお真実ではありませんか。『をんなの産む人はその日少なくしてなやみ多し そのきたること花のごとくにして散り その馳すること影のごとくにしてとどまらず』。これから先に見るとおり,聖書はこのことの理由をも示しており,また人間のすべての問題の主要な,そして見えない原因をも明らかにしています。
あなたは希望を何に託しますか
40,41 人類が直面している問題の解決について,それを人間にあおぐほうが現実的か,それとも神だけがそれをなしうるか,あなたが信じるのはどちらですか。どんな理由でそのように信じますか。
40 したがって,全く正直に考える場合,世界の指導者その他の人間に頼って,人類が直面している問題の解決をあおぐのは現実的なことと言えますか。それとも,聖書が示す解決策,すなわち,義に基づいた天の政府による神ご自身の行動に信頼を託するほうが現実的ですか。遠い昔,霊感を受けた詩篇作者は次のことばを記しました。
『もろもろの君によりたのむことなく 人の子によりたのむなかれ かれらに助けあることなし その息いでゆけばかれ土にかへる その日かれがもろもろの企てはほろびん ヤコブの神をおのが助けとし その望みをおのが神エホバにおくものはさいはひなり こはあめつちと 海と そのなかなるあらゆるものを造り(たる神なり)』― 詩篇 146:3-6。
41 どれだけ誠実な人間でも,また世界の指導者としてどれほど有力で影響力のある人でも,彼らはみな死にゆく被造物です。この点を決して忘れてはなりません。彼らは自分をさえ救うことができないのですから,どうして他の人を救えるでしょうか。
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世界の諸宗教は正しい導きを与えているか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第3章
世界の諸宗教は正しい導きを与えているか
1-3 (イ)世界の諸宗教についてどんな重要な質問がここに提出されていますか。(ロ)これらの質問はなぜ適切なものと言えますか。
宗教に対してどんな態度を取っておられるにしても,あなたは,宗教が人類に大きな影響を与えてきたことを認められるに違いありません。「ワールドブック百科事典」1970年版はこう述べています。「宗教は歴史の上で最も力ある勢力の一つとなってきた」。15
2 幾億もの人に対して大きな影響力を持つ世界の諸宗教は,平和と安全のためのほんとうの力となっていますか。それとも,地上の混乱を助長するものとなってきましたか。それらは,実際には,人類が世界の滅びに直面していることに対して最大の責任を持っているのではないでしょうか。
3 このような問いは意外に聞こえるかもしれません。しかしわたしたちは,キリスト・イエスが当時の宗教指導者について,「彼らのことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」と言われたのを思い出すことができます。(マタイ 15:14)今日,キリスト教ととなえる幾百の宗教があり,十億近い信徒を擁しています。キリスト教世界に属する国々は,世界の最も強力な国の中に名を連ねています。キリスト教世界の諸教派が教えた事がらは,世界の状態と大きな関係を持ってきたに違いありません。それでは,キリスト教世界の諸教派は,神とキリスト・イエスを代表し,神のことばとして聖書に従うというその主張にかなう歩みをしていますか。あるいは,世界の他の宗教とともに,実際には人類を神との衝突に,すなわち,ただ災いに終わるだけの衝突に導いているのではないでしょうか。
4,5 これらの質問に対する答えは,聖書が信頼できるものであることを知る点でどのように役だちますか。
4 ご自身とご家族のために安全で平和な生活を求めておられるのであれば,あなたはこうした問題が率直に検討されることをむしろ歓迎すべきです。その答えはさらにほかのことをもあなたに示すものとなるでしょう。すなわち,あなたはそれによって,聖書がいかに信頼できるものであるか,神のことばであるというその主張がいかに真実なものであるかをも知るようになります。なぜですか。
5 なぜなら聖書は,真の宗教と偽りの宗教があることを述べているからです。そして,真理に立脚し,偽善や欺瞞のない崇拝だけを神が是認し祝福されることをも述べています。(マタイ 15:7-9。ヨハネ 4:23,24。テトス 1:16)また,神のことばと全面的に一致調和した真の崇拝だけが,平和と一致のうちに生活し,互いに対する純粋な愛をいだいた人びとを生み出しうることをも宣言しています。(イザヤ 32:17,18。ヨハネ 13:35)そうであれば,聖書に従わない宗教は,人類を平和と安全に導く点で決して成功できないはずです。実際にそのとおりでしたか。
世界の宗教は戦争についてどんな導きを与えているか
6 真の平和が存在するためには,人びとはまず何をしなければなりませんか。
6 聖書は神を,『平和を与えてくださるかた』と呼んでいます。(ローマ 16:20)また,神の民は,「平和を求めてこれを追い求め」,『その剣を打ちかへてすきとし』,戦争をもはや学ばないようにと諭されています。(ペテロ第一 3:11。イザヤ 2:2-4)全地に及ぶこうした平和は,人びとがまず『隣人を自分自身のように愛する』ときにはじめて実現します。―マタイ 22:39。
7-12 世界の諸宗教が国際平和を推進するような愛を教えてきたかどうかについて,事実は何を示していますか。
7 この世界の諸宗教は,その追随者たちにこうした愛を教えてきましたか。こうした愛を,国境また人種や言語の相違をも乗り越えるべきものとして教えてきましたか。カトリックであれプロテスタントであれ,キリスト教世界の諸教会は,「平和の君」としてのイエス・キリストに従うという自分たちの主張に偽りのないことを実証してきましたか。驚く人が多いかもしれませんが,歴史は,実際にはその逆であったことを示しています。
8 ニューヨーク・タイムズ紙はこう述べました。「過去において,それぞれの土地のカトリック聖職者団は,自分の所属する国家の戦争をほとんど常に支持し,軍隊に祝福を与え,その勝利を祈り求めた。しかも,その反対側では,ほかの[カトリック]司教たちが逆の戦果を公に祈り求めたのである」。16 プロテスタントの宗教指導者もこれと同じことをしました。
9 その典型的な例は,キリスト教世界の中心部でぼっ発した第一次世界大戦です。戦線の両側にいた人びとの大多数は同じ宗教を持つ人たちでした。ベルギーの新聞ラ・デルニエール・ヘウルは,パリにいたローマ・カトリックのアメット枢機卿が,その戦争中,フランスの兵士たちにこう語ったと述べています。
「わたしの兄弟諸君,フランス軍およびその栄光ある同盟軍の僚友諸君,全能の神はわれわれの側におられる。……神は戦闘においてわれわれの勇敢な兵士たちの近くにおられ,力を与え,また敵に対して強くしてくださる。……神はわれわれに勝利を与えてくださるであろう」。17
10 それと同じ時,戦線の反対側では,ドイツ,ケルンのカトリック大司教がドイツの兵士たちにこう言っていました。
「正義のためのこの戦いにおいて,神はわれわれとともにおられる……われわれは,国の栄誉と栄光のために最後の一滴の血を振りしぼっても戦いぬくよう,神の名においてあなたがたに命令する。……神はわれわれが正義の側にいることを知っておられ,勝利を与えてくださるであろう」。17
11 このように相矛盾した,そして憎しみにあふれた指導を与える場合,そうした教会は神を代表していると言えますか。1935年,イタリアがエチオピアに攻め入ったのち,アメリカ,ピッツバーグのクーリエ紙はこう論評しました。
「教会は国旗に追従する。しかもその国旗は,戦争の狂気の犠牲となった罪のない血,文明の名のもとに殺りくされた人びとの血でぐっしょりぬれているのである……
「カトリック教会はこの国際レベルの強奪,搾取,殺害を是認こそすれ,それを非とすることはまれであったが,プロテスタント諸教会もそれと同様の歩みを取ってきた。……
「今日のキリスト教会の霊的な弱さは,本来なら闘うべき悪と終始妥協してきたことにおおむね帰せられよう」。18
12 第二次世界大戦中およびその後の幾つもの戦争において,教会はこれと同様の歩みを続けてきました。では,キリスト教世界外の諸宗教についてはどうですか。その残した記録に違いがありますか。いいえ,決してそうではありません。キリスト教以外の同じ宗教に属する人びとも,暴力的な闘争や戦闘行為において繰り返し互いに殺し合ってきました。歴史が豊富に証言するとおりです。その宗教の教えそのものが,そうした暴虐や流血を擁護している場合も少なくありません。
13 平和の名のもとに現存の政府に対する暴力的な抗議運動に携わる牧師がいますが,聖書はそうした行動に同意を与えていますか。
13 確かに,宗教指導者は,平和時には平和を称揚します。そうすることは,その時には一般に受け入れられることなのです。一般に受け入れられない時にさえなお戦争に反対の態度を取る人びとのことについて聞いたり読んだりすることがあるかもしれません。しかしそうした宗教指導者も,ほんとうに平和な態度を守っていない場合が多くあります。しばしば暴力的な形を取る抗議行動を行なうことによってです。また破壊行為や現存の政府に対する反抗を唱道する者もいます。しかし聖書はそうした行き方を非としています。―ローマ 12:17-19; 13:1,2。
14 (イ)聖書の中で世界の諸宗教はどんな象徴的なことばで描写されていますか。(ロ)「大いなるバビロン」にはどんな罪が帰せられていますか。
14 世界の諸宗教が地上の諸国民に対して持つ影響力が非常に大きいものであったため,聖書はそれらの宗教をまとめて一つの帝国として描写しています。それは「大いなるバビロン」の名で呼ばれ,「地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市」と述べられています。(啓示 17:3-5,15,18)世界の諸宗教が政治・商業・社会活動上の利得のために身を売ってきたことはまぎれもない事実であり,そのゆえにこの宗教上の帝国,大いなるバビロンは,「娼婦」として描かれています。この娼婦のような宗教上の帝国に関して,「彼女の中には……地上でほふられたすべての者の血が見いだされた」と述べられています。(啓示 18:24)世界の諸宗教が世界史上になされたすべての殺りく行為に関して主要な罪を持つということ,これは衝撃的に聞こえますか。しかし多大の影響を及ぼしてきたこと,率先して戦争を支持してきたこと,また暴虐な十字軍運動や宗教的な迫害を行なってきたことなどは,まさしくそうした責任をそれらの宗教の上に帰するものです。―マタイ 23:33-36; 27:20-23,25と比べてください。
15 教会員である人がほんとうに平和を望むなら,自分の教会に関するどんな質問を避けてはなりませんか。
15 聖書の教えは,「互いに愛し合うこと……です。カインのようであってはなりません。彼は邪悪な者[悪魔サタン]から出て,自分の兄弟を殺りくしました」。(ヨハネ第一 3:10-12)しかし,人類はカインの歩みを続け,世界の諸宗教はそうした歩みを追う人びとに祝福を与えてきました。教会員であるかたなら,『自分の宗教についてはどうだろうか。すべての人がわたしの宗教に属していたとすれば,戦争はなくなり,地上はほんとうに平和な所となっていただろうか』と自問してください。
世界の諸宗教は道徳を向上させているか
16 (イ)真の道徳規準をしっかり守ることは平和と安全のためにどうしてたいせつな要素と言えますか。(ロ)聖書の中に教えられているとおり,そうした道徳を向上させるものはなんですか。
16 道徳上の健全な規準がしっかり守られていないようなところで,人は周囲の人びととの真の平和やほんとうの安全を楽しめるでしょうか。明らかにそれは不可能です。そうしたところには,偽り,盗み,姦淫,そのほかそれに類する事がらがあるはずです。隣人に対する純粋な愛が道徳を向上させるのです。聖書はその点をこう表現しています。
「仲間の人間を愛する者は律法を全うしているのです。『あなたは姦淫を犯してはならない,殺人をしてはならない,盗んではならない,貪ってはならない』,そしてほかにどんなおきてがあるにしても,その[法典]は,このことば,すなわち,『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』に要約されるからです。愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです」― ローマ 13:8-10。
17,18 (イ)正しい道徳規準を守らなくても神との平和を持てるでしょうか。(ロ)そうした規準を定めるべきかたはだれですか。
17 しかし,さらに重要な点として,あなたは,真の道徳律を実践しない人が神と平和な関係を持ち,神の恵みと保護の保証を得られると思いますか。神がご自分の是認を与える人びとに対してそうした道徳の実践を要求されなかったとすれば,それでもあなたは神を敬い尊敬することができるでしょうか。
18 言うまでもなく,被造物に義を要求するとすれば,当然神はご自分の道徳上の規準をも明らかにされるはずです。ひとりひとりにそれぞれ自分の規準を立てさせ,それによって行動させるのは,ひとりひとりの人にそれぞれ勝手な交通法規を作らせ,それによって車を走らせるのと同じく無分別なことです。そのようなことをすればどんな結果になるかは明らかなはずです。聖書が,神の是認を受ける道はただ一つであり,ほかの道はすべてただ滅びに至るとしているのは理屈にかなったことです。―マタイ 7:13,14。
19 キリスト教世界の諸教会が道徳の面でりっぱな手本を示しているなら,その成員の生活にどんなものが見られるはずですか。
19 では,キリスト教世界の諸教会は聖書の述べることを真実に代表し,その道徳上の規準を擁護して,世界の残りの部分に手本を示しているでしょうか。それらの教会に属する人びとの生活にはどんなものが見られますか。聖書は,「[神の]霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制で(ある)」と述べています。(ガラテア 5:22,23)これが,世界の諸宗教の生み出している実ですか。あるいはその逆に,驚くほどの「腐った」実,「淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ」などの「肉の業」が見られるでしょうか。(ガラテア 5:19-21)聖書は人びとを木に例えて,そうした実を生み出す「木」がすべて滅びに定められていることを述べています。―マタイ 7:17-19; 12:33。
20-22 (イ)道徳に関し,自分の教会の成員についてどんな点を自問してみることが必要ですか。(ロ)会衆の成員で不道徳な行為をならわしにする者がいれば,その者について何を行なうようにと聖書は述べていますか。(ハ)このことは諸教会で行なわれていますか。
20 いずれかの宗教に属するかたでしたら,次の点を自問してください。『自分の宗教に属する人びとの道徳水準についてどれほどの自信と安心感を持てるだろうか。地上のすべての人が自分の宗教の人たちと同じように生活したとすれば,それによって犯罪,不正な商習慣,争い,性の不道徳などはなくなるだろうか』。
21 「少しのパン種が固まり全体を発酵させ(る)」,また,「悪い交わりは有益な習慣をそこなう」という聖書の警告には明白な真理があります。(ガラテア 5:9。コリント第一 15:33)霊感を受けた一使徒がコリントの人たちに次のように記したのはそのためです。「兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように……『その邪悪な人をあなたがたの中から除きなさい』」― コリント第一 5:11-13。
22 たしかに,人は一時的に過ちを犯す場合があり,そののち立ち直ることができます。しかし,前述の使徒がそのことばの中で書いている人びと,すなわち,そうしたことをならわしにし,それを自分の生活の一部とする人びとについてはどうですか。そうした人びとが神に仕えていると唱えるとすれば,それは偽善です。言うまでもなく,あなたは偽善を嫌悪されるはずです。そして聖書も,神がそれを,またそれをならわしにする人びとをきらわれることを示しています。(マタイ 23:27,28。ローマ 12:9)では,あなたの宗教についてはどうですか。その指導者たちは,「罪をならわしにする者たちを見守るすべての人の前で戒め」て,その成員を霊的な危険から保護しますか。(テモテ第一 5:20)悪行を執ように続け,それに対する真の悔い改めをなんら示さない者たちを除き去りますか。それとも,そうした人が正式の成員としてとどまり,他の人びとに悪い感化を与えることを許していますか。道徳を守ることについてはただ“口先だけの忠実”を示し,実際には悪行を容認したり,“見ないふり”をしたりしていますか。―マタイ 15:7,8。
23 (イ)淫行,姦淫,同性愛行為などについて多くの牧師は今日どのように述べていますか。(ロ)聖書はそうした行為についてなんと述べていますか。
23 世界の諸宗教に不利な証拠,すなわち,それら諸宗教が道徳性のための,またそれがもたらす安全と平和のための真の力とはなってこなかったという証拠が全世界で集まっています。淫行,姦淫,同性愛行為などは必ずしも悪ではないと公言する宗教指導者が今日しだいに多くなっています。あなたご自身もそうしたことを伝える報道記事をお読みになったことがあるかもしれません。そうしたニュースは世界の諸宗教のすう勢を表わしています。しかしそれは聖書の教えを伝えるものではありません。聖書はこう述べています。
「惑わされてはなりません。淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうして寝る者,盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がない」― コリント第一 6:9,10。
24 自分の教会の牧師がこうした行為についてどのように考えているかはどうすればはっきりわかりますか。
24 あなたは,自分の宗教の指導者たちは道徳規準をしっかり保つという点で確固とした態度を取っていると思われるかもしれません。しかし,ここにあげたような事がらに関する自分の牧師の見解をじかに尋ねたことがありますか。それは知る価値のあること,また知るべきことです。あなたの命の希望そのものがかかっているからです。
貪欲さや利己心のから解放されているか
25 「金銭に対する愛」は人間関係に何をもたらしますか。
25 今日の争いや不安な状態の多くには,その根底に貪欲さや利己心のあることが明らかです。聖書は,「金銭に対する愛はあらゆる有害な事がらの根である」と述べています。(テモテ第一 6:10)世界の諸宗教,特にキリスト教世界の諸教派はこうしたものから解放されていますか。
26,27 世界の諸宗教は金銭や土地の保有に関してどんな態度を示してきましたか。
26 真実のところ,キリスト教世界の普通の慣行は,賦課金を割り当て,什一を徴収し,寄付盆を回し,基金集めの運動を進め,ラジオやテレビの宗教番組また郵便などによって公に金銭を求めることではありませんか。教会員が自分の宗教指導者に礼拝式,たとえば,洗礼式,結婚式,埋葬式などをしてもらいたいと思う場合,金銭の支払いの義務を感じるのが普通ではありませんか。そして,貧困にあえいでいる人が,多大の費用のかかる寺院や神殿を建設する資金の調達を求められたり強いられたりすることは世界のどこにでも見られます。
27 多くの土地では,世の諸宗教が,富財の蓄積や大土地保有という点で記録を作ってきました。十九世紀に,メキシコのローマ・カトリック教会は,その国にある不動産の半分までを所有していました。19 同じように,キリスト教以外の宗教の土地でも,最大の富財を集積しているのはそこの宗教の神殿であるという場合が非常に多く,しかもたいていは,その周囲の多くの人びとの貧困ときわだった対照をなしています。
28 こうした慣行はイエス・キリストやその使徒たちの教えとどんな対照をなしていますか。
28 これを,イエス・キリストの教えと比べてください。イエスはご自分の弟子たちに,「あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」と言われました。(マタイ 10:8)聖書の記録によると,原初のクリスチャンたちの間で,与えることはすべて自発心によってなされ,強制されたりすることはありませんでした。(使徒 11:29,30。コリント第二 9:7)指導の任に当たった使徒その他の人たちも,仲間のクリスチャン兄弟たちに負担をかけることなく,また兄弟たちの犠牲において自分を富ませたりすることもありませんでした。彼らは手ずから働きました。(使徒 18:1-4; 20:33-35)このことはあなたの知る宗教指導者についても言えますか。
29 今日の世界の宗教指導者とイエスに敵対した一世紀の宗教指導者との間にどんな類似が見られますか。
29 今日の世界の宗教指導者を,第一世紀の,イエスに敵対した宗教指導者たちと比べてください。ある程度の慈善活動をしたとは言え,それらの人びとは栄誉と人前に目だつこととを愛し,政治指導者からの愛顧を求めました。(マタイ 6:2。マルコ 12:38-40。ヨハネ 11:47,48; 19:15)イエスは,それら「金を愛する者」が神の目に嫌悪すべきものであることをはっきり告げました。彼らが偽善者であったからです。イエスは彼らを,「白く塗り上げた墓」,すなわち,『外面はなるほど美しく見えるが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちたもの』になぞらえ,ついで,「そのように,あなたがたもまた,たしかに外面では義にかなった者と映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」と言われました。―ルカ 16:14,15。マタイ 23:27,28。
聖書を退けたことはどんな結果になったか
30 イザヤ書 48章17,18節に示されるとおり,人がエホバのおきてに注意を払えばどんな結果になりますか。
30 エホバ神を崇拝すると唱えた国民であるイスラエルの民に対して,エホバ神が次のように語られたことが記録されています。『われはなんぢの神エホバなり 我なんぢに益することを教へ……願はくはなんぢわが〔おきて〕に聴きたがはんことを もししからばなんぢの平安は河のごとく なんぢの義はうみの波のごとく(ならん)』― イザヤ 48:17,18,〔新〕。
31-33 神のことばに対する多くの牧師の態度についてここにどんなことが示されていますか。
31 しかし,ここで取り上げた証拠は,世界の諸宗教が神のおきてに注意を払ってこなかったことを示しています。事実,キリスト教世界では,聖書が霊感を受けた神のことばであるという信仰を持っていないことを公然と言い表わす牧師がしだいに増えています。サイエンス誌1972年11月号は,アメリカ,カリフォルニア州教育委員会の一会合の模様を伝えていますが,それによると,「モルモン教会の監督と,サンフランシスコの米国聖公会聖寵大聖堂首席司祭」は,聖書の創世記にある創造に関する記述よりも進化論を擁護する見解を述べました。20
32 「新カトリック百科事典」は,基本的には,聖書を霊感の所産として受け入れることを主張しながら,「とはいえ,聖書中の陳述の中には,現代の科学および歴史の知識にしたがって判断する場合,全く真実でないものが多いことは明らかである」としています。21
33 同様の見解は,バプテスト派の「ブロードマン聖書注解」の中でも表明されています。22 1972年に開かれた,南部バプテスト派(米国における最大のプロテスタント教派)のある大会では,聖書の記述の真実性を擁護していないという理由で,前述の著作を撤回して書き改めるようにとの決議が提出されました。しかし,その決議は約四対一の比で否決されました。―1972年8月2日付 ザ・クリスチャン・センチュリー。
34,35 (イ)聖書の教えを退けたことはどんな結果を招いてきましたか。(ロ)それで,人類を平和と安全に導くことを世界の諸宗教に期待するのは当を得たことですか。
34 こうしたことすべてはどのような結果になっていますか。世界の諸宗教は,聖書の教えを軽んじても,なおりっぱな,そして平和と安全に資する道徳状態を生み出しうることを示しましたか。いいえ,その逆に,地上全体で状態はしだいに悪化しており,キリスト教世界は,長年にわたり,犯罪,不道徳,麻薬中毒,人種抗争,戦争などによって特に災いされた所となってきました。キリスト教世界外の諸国も,動揺と分裂,政治腐敗と道徳衰退の場となり,年とともにその度合いを強めてきました。『彼らエホバのことばを棄てたり 彼らに何の知恵あらんや』と述べる聖書のことばがあてはまっています。―エレミヤ 8:9。
35 世界じゅうで示される証拠は否定のできないものです。それは,世界の諸宗教が平和と安全のための真の力となっていないことを示しています。これはわたしたちにとって何を意味していますか。
世界の諸宗教の終わりは近い
36,37 聖書は世界の諸宗教に何が来ることを警告していますか。
36 イエス・キリストは,「わたしの天の父がお植えになったのでない植物はみな根こぎにされ(る)」と言われました。(マタイ 15:13)世界の諸宗教が生み出したよくない実は,それが神の植えたものでないことを示しています。聖書は,そうした宗教が平和で義の満ちる状態を決してもたらしえないことを予告しましたが,それと同じように,偽りの崇拝の体制すべてに滅びが到来することをも警告しています。
37 神はそのことを,娼婦のような「大いなるバビロン」という象徴のもとに語り,そのような宗教上の帝国についてこう述べておられます。
「彼女の罪は重なり加わって天に達し,神は彼女の[数々]の不正な行為を思い出されたのである。……彼女の災厄は一日のうちに来る。それは死と嘆きと飢きんであって,彼女は火で焼きつくされるであろう。エホバ神,彼女を裁いたかたは強いからである」― 啓示 18:5-8。
38 そうした滅びはどのように到来しますか。またどこから来ますか。
38 偽りの宗教の世界帝国の滅びが驚くほど突然に,いわば「一日のうちに」来るとされている点に注目してください。彼女が積み上げた富すべては政治上の諸国民が荒れ廃れさせ,それは多くの人が驚き,またろうばいするところとなるでしょう。―啓示 18:10-17,21; 17:12,16。
39 (イ)神の是認を求める人びとは,啓示 18章4節の中でどんな行動を促されていますか。(ロ)そうした行動を取らせるものはなんですか。
39 それゆえ,神からの声は,「わたしの民よ,彼女の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女から出なさい」ということです。(啓示 18:4)このような行動を取るとは,すなわちこの偽りの宗教の世界帝国に対して神と同じ見方をし,その腐った実,またその偽善と迷信的慣行のゆえにそれを忌みきらうことです。「大いなるバビロン」が人類の前で神を偽って代表してきたこと,また,民が苦しみ,抑圧され,しいたげられることの原因ともなってきたことに対しては,嫌悪を感じるのが当然です。(ローマ 2:24。エレミヤ 23:21,22)この点を認識されるなら,あなたは彼女に対するいっさいの支持を取りやめ,こうして,彼女に関する神の裁きに全面的な支持を表明されるでしょう。
40 (イ)さらに,平和で安全な生活を楽しむためには何を見いださねばなりませんか。(ロ)真の崇拝を実践している人びとを見いだそうと思うなら,どんな人びとを捜すべきですか。
40 しかしながら,ご自身とご家族のために平和で安全な生活を求めておられるのであれば,単に彼女に対する支持を取りやめるだけでは十分ではありません。神からの平和をもたらし,予告された滅びが到来するときに保護となる,偽善のない真の崇拝を捜し,それを今見つけ出さねばなりません。そうした真の崇拝に携わっているのは,すでに『その剣を打ちかへてすきとし,もはや戦争を学んでいない』人びとであるはずです。(イザヤ 2:4)また,神のことばを信じ,ほんとうにそれに従って生活し,それを自分の生活を導く力としている人びとであるはずです。(詩篇 119:105)そして,仲間の人間に対して,偽善のない真実の愛を示している人びとであるはずです。(ヨハネ 13:35。ローマ 13:8)そのような人びとが今日存在します。そして,その人びとが持つ平和と安らかさは,神のことば聖書の力と真実性とを立証します。
41 王国会館におけるエホバの証人の集まりに出席すればどんなことをじかに見ることができますか。
41 あなたにこの本をおわかちした人びと,つまりエホバのクリスチャン証人は,偽りの宗教が人びとを導き入れた危険な事態について大いに憂慮しています。彼ら自身としては,自分の生活の中で神のことばを第一のものとすることに誠実な努力を払っています。あなたは,それぞれの土地にある彼らの王国会館での集まりに出席し,彼らが示す神の霊の実を,またそれによって彼らが持つ平和と安らかさのほどを,ご自身で調べてごらんになるよう招かれています。それによってあなたは,神がもたらされる義の新秩序に生き残ろうとする人すべてに神が要求される事がらを,彼らがどのように学び,どのように自分にあてはめているかをも見ることでしょう。
[25ページの図版]
諸教会が戦争と深いかかわりを持っていることをご存じでしたか
フォワード誌 1947年5月31日号
原爆を禁止すべきか 教会はこれを否定!
ワシントン・ポスト 1965年7月4日 日曜日 7版
カトリック教徒とベトナム アメリカのベトナム介入をあと押ししたスペルマン枢機卿その他: ラムパーツ誌の発表
1951年2月15日付 アドバタイザー紙
戦線奉仕に備えるアドベンティスト青年
タイム誌 1970年7月13日号
北アイルランド
1970年3月5日号 パナマ・アメリカン誌
またもや‘ゲリラ’司祭
ニューヨーク・ポスト紙 1940年
ナチス軍を賛美 ドイツのカトリック司教たちは忠誠を誓う
スター紙 1950年
ルーテル派は危機下での米国の歩調に支持を約束,戦争に至るまでも
ニューヨーク・タイムズ 1917年
メソジスト派は対独戦を承認
これらは英文刊行物の記事を訳したものです
[30ページの図版]
あなたがご家族のために求めておられるのはこうした導きですか
・ニューズ 1967年11月29日
同性愛行為は悪か,聖公会司祭たちはこれを否定
タルサ・デイリー・ワールド 1972年4月13日 木曜日
教会は若者の避妊具使用を支持
1969年8月11日 月曜日付 ヘラルド紙 6ページ
性道徳の緩和を求める牧師たち
ウインストン・サレム・ジャーナル 1970年5月18日
牧師は同性愛者の祝福を教会に求める
1972年7月11日付 オークランド・スター紙
性を14歳で合法化することを望む主教
これらは英文刊行物の記事を訳したものです
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まず世界の滅び ― それから世界の平和真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第4章
まず世界の滅び ― それから世界の平和
1-3 (イ)世界の指導者が警告している世界の滅びとはなんですか。(ロ)なぜそれは地上に永続的な平和と安全の道を開く世界の滅びとして聖書が述べるものではありませんか。
聖書の預言によると,人類が恒久的な平和を楽しむことができるようになる前に,まず世界の滅びが起きなければなりません。どうしてそのようなことがあるのですか。その滅びはどこからもたらされるものとして予告されていますか。この地球上の人間にとってそれはどのような結果になりますか。
2 まず認めるべき点として,聖書の予告する世界の滅びは,世界のある指導者,科学者,その他の人びとが警告する全地球的な大災害と同じものではありません。そうした人たちが語る災厄は,広範囲な飢きん,疫病,汚染,核戦争,それらの結合という形で生じます。しかし,そうした大災害はこの地球に永続的な平和と安全の道を開くものとはなりません。なぜですか。
3 なぜなら,それは,例えば全面戦争の結果としての放射能汚染による場合のように,地球を全く破滅させてどんな生物も住めない所としてしまうか,あるいは,それによって死に絶える人びとより劣るわけではないにしても,ことさらに勝るわけではない人びとを生き残らせるかのいずれかだからです。そのような場合,生き残るかどうかはおおむね偶然の問題であり,強いて言うなら,貧しい人びとのほうが先に犠牲になりやすいというにすぎません。そのような大災害が来るとすれば,あなたは,自分が生き残る者の中に入れるというどんな確かな希望を持てますか。仮に生き残る者の中に入ったとしても,その生活が今と同じように争いに悩まされる不安な状態に戻らないというどんな希望を持てますか。
聖書が予告しているものは希望を与える
4 聖書が述べる世界の滅びのさいに滅びるのはどのような者たちですか。
4 聖書が予告している滅びは選択的なもの,また一定の目的を持つものです。それは,「人間の限りない過誤の頂点」として来る何かの災厄ではありません。それはだれにでも無差別に死をもたらすのではなく,ほんとうに滅びに価する者,地上の悪い状態に責任を持つ者たちをこの地から除き去るのです。それは,箴言 2章21,22節にある神の原則と一致するものです。
『義しき人は地にながらへおり 全き者は地にとどまらん されど悪しき者は地よりほろぼされ もとる者は地より抜きさらるべし』。
5,6 (イ)その世界の滅びの時,地球そのものはどうなりますか。(ロ)この点,どのような意味で「ちょうどノアの日のよう」になりますか。
5 では,何が滅ぼされるのですか。多くの人は,聖書が惑星としての地球とその上のすべての物が完全に焼け尽きることを預言していると考えています。しかしそうではありません。イエス・キリスト自身が,「柔和な人たちは幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」と言われました。(マタイ 5:5)こうして『受け継がれるもの』が,生命のない,焼け尽きた燃えがらであるはずはありません。聖書は,地球が人の住む場所として永久に存続するという神の明確な保証をも与えています。―詩篇 104:5。イザヤ 45:18。マタイ 6:9,10。
6 これと一致する点として,聖書は,生き残る人びと,つまりその滅びが過ぎた後にも地上にとどまっている人々のことを述べています。(啓示 7:9,10,13,14)イエス・キリストは,『人の子の臨在はちょうどノアの日のようである』と言われました。ノアの時代,全地球的な滅びが起きた時にもそれを生き残った人びとがいました。―マタイ 24:37。ペテロ第二 2:5,9。
7 その時終わりを迎えるものはなんですか。
7 したがって,滅びることになっているのは,人間が地上に築き上げてきた全世界的な事物の体制,またそれとともに,神および地上の支配に関する神の約束に頼らないでその体制を擁護する者すべてです。(詩篇 73:27,28)そうした理由のもとに,聖書の幾つかの翻訳は,ほかの翻訳にある「世界の終わり」という語句を避け,原語(ギリシャ語)のより正確な訳出として,「時代の終わり」(新英),「時代の終結」(ロ),「事物の体制の終結」(新)という表現を使っています。―マタイ 24:3。
8 (イ)その滅びはどこからもたらされますか。(ロ)これは現在の世界の体制がどんな状態に達する以前に起きなければなりませんか。
8 この,きたるべき世界の滅びがどこからもたらされるかを言えば,それは人間からではなく,エホバ神からです。汚染や飢きん,また人間の無知,誤り,堕落の結果から来た現代の他の危機がその滅びを引き起こすのではありません。むしろそれらは,現在の世界の体制の利己主義,またその完全な失敗の証拠であり,エホバ神がその体制を完全に除き去るべき当然の理由となります。神は,現在の世界の体制が崩壊状態に達したり自滅を遂げたりする以前にそうした行動を取ることを約束しておられます。(啓示 11:17,18)しかし,ほんとうにそうした徹底的な行動しか道がないのですか。
真の平和の到来のために今の世界の体制が終わらなければならないのはなぜか
9,10 人間の歴史は,現在の世界の体制の単なる改革以上に徹底的なものが必要なことをどのように示していますか。
9 神は現在の世界の体制を完全に滅ぼしてしまうのではなく,それになんらかの変化を加えればよいのではないか,と思う人がいるかもしれません。しかし聖書は,神が現実に即した見方をしておられ,今の世界の体制を矯正の及ばないものと認めておられることを示しています。
10 何世紀にもわたり人間によって加えられてきた幾多の変化をご自身で考えてください。都市国家,君主政治,民主政治,共産主義や社会主義式の統治,さらには独裁制など,人間が発展させてきたあらゆる種類の統治形態のことを考えてください。既存の支配者あるいは政府全体が退けられて新しいものがこれに替わった例がいかに多いか思い出してください。選挙によるもの,クーデターによるもの,革命によるものなどさまざまですが,どれも人類のかかえる問題の永続的な解決とはなっていません。人間の境遇をなんとか改善しようとする善意の人びとさえ,その努力が,自分を閉じ込めているこの世界の体制によって阻まれてしまうのを見ています。古代の賢明な一支配者が見いだしたとおり,ただ人間の努力だけでは,『曲ったものを,まっすぐにすることはでき』ません。―伝道之書 1:14,15。
11-13 (イ)現在の体制で,全人類の益のための変化を阻んでいるものはなんですか。(ロ)それで,どれほどの変化が必要かを,どんな例えで説明できますか。
11 たとえば,世界の諸都市はさまざまな問題に災いされていますが,人間はそれを解体して新たに始めることができません。世界の経済また産業上の体制全体についても同じことが言えます。私利本位の態度や国家主義が基幹の部分をむしばんでおり,人類全体の益を図る真の変化すべてを阻んでいます。
12 世界の体制全体もこれと同じであり,貧弱な計画のため粗悪な土台の上に,欠陥のある材料で建てられた家に似ています。家具の配置を変え,またその家を修繕したり模様替えしたりすることがどれほどの益になるでしょうか。それが立っているかぎり問題は続き,その家は壊変を続けます。ただ一つ分別のあることは,それを取り壊し,別のものを,良い土台の上に建てることです。
13 イエス・キリストは,「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる」人はいないと述べて,これと多少似た例えを使われました。古い皮袋は新しいぶどう酒のために張り裂けてしまいます。(マタイ 9:17)それでイエスは,自分がそのもとにあったユダヤ人の事物の体制を改革しようとはせず,神の王国を平和と安全のための唯一の希望として宣べ伝えました。(ルカ 8:1; 11:2; 12:31)それと同じように,わたしたちの時代においても,エホバ神は,現在の世界の体制について,単にその装いを変えたり,調整を加えたりすることはされません。それは永続的な益をもたらすことにはならないからです。
14 新しい法律を作れば人びとは義を愛するようになりますか。
14 神のことばは,法律の制定によって義を人の心に入れることはできないという真理を強調しています。正しいことに対する愛がないなら,どれだけ法律を作っても,義を人の心に置くことはできません。イザヤ書 26章10節にこう記されています。『悪しき者はめぐまるれどもただしきをまなばず 直き地にありてなほ不義をおこなひ エホバのみいつを見ることをこのまず』。―箴言 29章1節と比べてください。
15,16 義に対する真の愛を持たない人が多いことは,神のご意志に対するどんな反応に示されていますか。
15 義に転じて神からの支配に服するよりも,失敗や害悪のある現在の体制下にとどまることのほうを好む人が多いということ,これが厳とした事実です。その政治上の体制の腐敗と欺瞞,その戦争のむなしさ,世界の諸宗教の偽善,またその科学技術が問題を解決するというよりむしろいっそう大きな問題を作り出しているという明白な証拠,こうした事すべてにもかかわらず,多くの人は,平和と安全の真の源として神およびその王国に頼ることを拒んでいます。そうした人びとは,神が次のように言われたイスラエル人に似ています。『預言者は偽りて預言をなし 祭司は彼らの手によりて治め わが民はかかる事を愛す されどなんぢらその終わりに何をなさんとするや』― エレミヤ 5:31。イザヤ 30:12,13。
16 こうしたことを理解しがたいことのように思われるかもしれませんが,破滅に至ることを示す証拠が十分にあってもそれを無視する人たちをあなたご自身も見ておられるはずです。自分の健康や安全,また自分の家族の安全を危うくする習慣や癖を,それと知りながら行ないつづけ,それを変えるのを助けようとする人間のあらゆる努力に逆らう人たちのことを見てこられたに違いありません。しかし,人が神の助言や導きに逆らうのであれば,それははるかに重大な結果になります。そうした態度を取るのは,真理と義を全く愛していないしるしです。ゆえに聖書はそうした人びとについてこう述べています。「神の憤りは,不義な方法で真理を覆い隠している人びとのあらゆる不敬虔と不義とに対して,天から表わし示されているのです。……神の見えない特質,実に,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるからであり,それゆえに彼らは言いわけができません」。(ローマ 1:18-20)同様の人びとについてイエス・キリストはこう言われました。「この民の心は受け入れる力がなくなり,彼らは耳で聞いたが反応がなく,その目を閉じてしまったからである。これは,彼らが自分の目で見,自分の耳で聞き,自分の心でその意味を悟って立ち返り,[神]が彼らをいやす,ということが決してないためである」― マタイ 13:15。
17 人類に滅びをもたらすことを喜びとされるわけではないのに,神がそれを行なわれるのはなぜですか。
17 神のしんぼうとあわれみに限度があるのは至当なことです。もしないとすれば,義なる者たちに対する神の愛はどこに示されるでしょうか。悪が地上にもたらす苦しみからの救出を求める彼らの嘆願に対し,神が全く耳を傾けないはずはありません。(ルカ 18:7,8。箴言 29:2,16)したがって,情況が世界の滅びを要求しています。神が正しくかつ公正な事がらを堅く守るため,また正しい事がらを同じように愛する者たちへの同情を実際に示すためには,情況からしてそうした行動を余儀なくされるのです。しかし神は,人類に滅びをもたらすことを喜びとされるわけではありません。こう述べておられます。『主エホバ言ひたまふ われいかで悪人の死を好まんや むしろ彼がその道を離れて生きんことを好まざらんや……さらばなんぢら悔いて生きよ』― エゼキエル 18:23,32。
18 正しいことを愛する人びとを不安な状態から救い出すために払わねばならない代価はなんですか。
18 したがって,現在の世界の体制下にとどまる者たちの滅びは,正しいことを愛する人びとを苦しみや不安な状態から救い出すために払わねばならない代価となります。これは聖書の次の原則にかなうものです。『悪しき者は義しき者のあがなひとな(る)』― 箴言 21:18。イザヤ 43:1,3,4と比べてください。
有益な結果
19 今の事物の体制が滅びることによって,世界平和のためのどんな障害が取り除かれますか。
19 現在の世界の体制とそれを支持する者たちが滅びることからどんな結果がもたらされますか。それによって全地球的な義の支配が可能になります。生き残る人びとはそのもとにあって一致して働くことができ,利己心による競争をすることはありません。人を分け隔てる国境や政治上の境界は取り除かれます。関税の障壁や税金の障害は除かれます。軍事費のための重苦しい負担はなくなります。また,人類が地上の一致した家族となることを妨げる社会的な障害もなくなります。こうしたことすべてにおける肝要な要素は,その時生きているすべての人が,真理という『一つの清い言語』を互いに語り,「霊と真理をもって」創造者を崇拝し,宗教的な迷信や伝統また人間製の信条などによって分裂させられていないことです。―ゼパニヤ[ソフォニア,バ] 3:8,9,新。ヨハネ 4:23,24。
20 詩篇 72篇が示すとおり,地上全体にどんな状態が到来しますか。
20 み子キリスト・イエスが全地に対して単独の支配権を行使する神の政府のもとに,古代に書かれた聖書詩篇の次のことばが,古代イスラエルの場合よりはるかに大きな成就を見ます。「かれの世にただしき者はさかえ 平和は月のうするまで豊かならん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし」― 詩篇 72:7,8。
21 地球そのものはきたらんとする世界の滅びからどんな益を受けますか。
21 きたらんとする世界の滅びは地球そのものにとっても益になります。地球が貪欲な汚染者や無情な破壊者によって損われたり汚されたりすることはもはやありません。湖,川,大洋,そして大気は,そこに注ぎ込まれるあらゆる廃物の重圧から解かれ,ほどなく自浄作用が完全に働きます。こうして神は,清い,庭園のような惑星を所有し,創造者ご自身の輝かしい特質を反映する民で満たす,という当初の目的を放棄されなかったことを証明されます。―創世記 1:26-28。イザヤ 45:18; 55:10,11。
22 神がそうした滅びをもたらすことは,「平和の神」であられることとどのように一致調和していますか。
22 したがって,神が世界の滅びをもたらすことは,「平和の神」であられることと矛盾するものではありません。また,そのメシアなる王イエスが「平和の君」であることに反するものでもありません。神とイエスがこうした行動を取って地球を清く,義に即した状態に戻すのは,平和と公正に対するその愛のためです。―コリント第一 14:33。イザヤ 9:6,7。
23,24 平和で安全な将来を楽しむために,わたしたちひとりひとりは今何を行なうことが肝要ですか。
23 では,わたしたち個人は何をできますか。イエス・キリストは,イエスの教えた神の指示を無視する者は将来に対する自分個人の希望を「砂」の上に築いており,そうして築かれたものは攻め寄せる破壊的なあらしに決して耐ええない,という点を示されました。また,平和で安全な将来を持つためには,神のことばに従順に従って希望を築くことが重要であることをも指摘されました。―マタイ 7:24-27。
24 しかし,悪と苦しみを終わらせるための行動を,神はなぜ今まで猶予してこられたのですか。聖書はこの問いにも答えており,神がご自分の目的を成し遂げるためにこれまで何を行なってこられたかを示しています。
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あなたに関係した論争真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第5章
あなたに関係した論争
1 神が人類の間に悪を許してこられた理由を理解し難く思う人がいるのはなぜですか。
人は平和と安全に対する願いを共通にいだいているにもかかわらず,人間の歴史はほとんどその始めから流血その他の悪によって傷つけられてきました。聖書は,神がそうしたことを嫌悪されることを示しています。それでは,なぜ神はこうした状態をもっと早く阻止されなかったのですか。関心を持っておられなかったわけではないはずです。聖書,そしてまた神の地上の創造物の美しさは,人類に対する神の愛と関心の証拠を豊富に示しています。(ヨハネ第一 4:8)また,さらに重要な点として,これは神ご自身のみ名の誉れにかかわる問題です。こうした状態のゆえに人びとは神を非難しているからです。では,神が幾千年にもわたる暴虐と不穏な状態とを忍んでこられたことにはどんな理由があるのでしょうか。
2 (イ)神が悪い状態をこれほど長く許してこられた理由を聖書のどこから学べますか。(ロ)アダムとエバに関する聖書の記述が歴史の事実であることはどんな点から明白ですか。
2 その答えは,聖書の巻頭の書,アダムとエバについて述べている部分にあります。その記述は決して単なるぐう話ではありません。それは歴史の事実です。聖書は,西暦第一世紀からその最初の人間にまでさかのぼる,書類証拠のついた完全な系図を記録しています。(ルカ 3:23-38。創世記 5:1-32; 11:10-32)わたしたちの祖先としてアダムはわたしたちに影響を与えました。そして,聖書がアダムについて述べる事がらは,今日のわたしたちの生活を取り巻く情況を理解するのに役だちます。
3 神は当初,人類のためにどんな備えを設けられましたか。
3 聖書は,最初の人間夫婦に対する神の備えすべてが非常に良いものであったことを示しています。彼らには,エデンと呼ばれる地域にあった公園のような住まい,豊富で多様な食物,心を満足させる仕事,自分の家族が殖えて地を満たすのを見る見込み,そして創造者からの祝福など,幸福な生活に必要なものすべてが整っていました。(創世記 1:28,29; 2:8,9,15)道理にかなった見方をするなら,だれがこれ以上を求めえたでしょうか。
4 (イ)創造された人間は他の地上生物と比べ,どんな点で異なっていましたか。(ロ)行動のための必要な導きはアダムのためにどのように備えられましたか。
4 創世記の霊感の記録は,人間が地上で特異な地位を占めていたことを示しています。人間だけが「神の像」に造られました。(創世記 1:27)動物と異なり,人間は道徳感覚を持った心を備え,自由意志を賦与されていました。人間が理性力や判断力を有しているのはそのためです。人間の行動を導くものとして,神はアダムに良心の働きを植え込まれました。創造者の「像」に造られた完全な人間として,その本来の性向が善に向かうためでした。(ローマ 2:15)このすべてに加えて,神はこの地的な子に語りかけ,彼が生きている理由,彼のなすべきこと,まただれによって周囲のすばらしい物すべてが備えられたかを告げました。(創世記 1:28-30)では,今日存在する悪い状態をどのように説明したらよいのですか。
5 (イ)神はどんな簡単な要求を人間に課しましたか。どんな理由で?(ロ)人間の前途の命の見込みがそれに関係していたのはなぜ当然と言えますか。
5 聖書の記録は一つの論争が生じたことを示しています。それは今日のわたしたちひとりひとりにも関係を持つ論争です。それは最初の人間夫婦の創造後ほどなく発展した事態の中で持ち上がりました。神は人間に,簡単な要求に従うことによって自分の創造者に対する愛に根ざした感謝を実証する機会を与えました。その要求が与えられたのは,人間に無思慮な,いえ,よこしまな傾向があるのでそれを抑制しなければならなかった,という意味ではありません。むしろそれは,それ自体としては正常でさしつかえのない事がら,つまり食物を食べることに関するものでした。神は人間にこう告げました。『園のすべての樹の果はなんぢこころのままに食らふことを得 されど善悪を知るの樹はなんぢその果を食らふべからず なんぢこれを食らふ日には必ず死ぬべければなり』。(創世記 2:16,17)この要求は人間が生きるために必要な何かを奪うものではありませんでした。人は園にあったほかのすべての木から食べることができました。とはいえ,彼の前途の命の見込みが関係していたことは明確です。それは当然のことでした。なぜですか。なぜなら,そのおきてを与えたのは,人間の命の源,またその維持者でもあるかたであったからです。
6,7 (イ)支配権に関するどんな基礎的な真理に従って行動したならわたしたちの最初の親は永久に生きることができましたか。(ロ)アダムが神に従う気持ちをいだくのはなぜ当然でしたか。
6 人間が死ぬこと,神はそれを意図しておられませんでした。不従順に対する処罰として以外には,死に関することはアダムに対して何も語られませんでした。わたしたちの最初の親には,その平和で公園のような住まいの中で永久に生きるという壮大な見込みが置かれていました。これを実際に得るためには何が要求されましたか。自分たちの住む地球が神のもの,すなわちそれを造られたかたのものであること,そして,創造者として神がその創造物の正当な支配者であられることを認める,ということにすぎませんでした。(詩篇 24:1,10)人間が持つすべてのもの,命そのものをさえ与えたこのかたに対しては,そのどんな要求にも,人間が感謝に基づいて従順を示すのが全く当然なことでした。しかし,その従順は強制されたものであってはなりません。愛を動機とするものであることが必要です。―ヨハネ第一 5:3。
7 アダムはそのような愛を示しませんでした。そのことはどのようにして起きましたか。
神の支配に対する反抗の始まり
8 (イ)聖書は神の支配に対する反抗がどこで始まったことを示していますか。(ロ)霊の領域の存在を信じるのはなぜ分別のあることと言えますか。
8 聖書は,神の支配に対する反抗が,地上においてではなく,霊の領域つまり人間の目に見えない領域で最初に起きたことを示しています。わたしたちは,単にそれがわたしたちに見えないというだけの理由で,多くの人のようにそうした領域の存在を疑うべきでしょうか。いいえ,そうした態度は分別のあることではありません。引力は目に見えません。風も同様です。しかしその作用は見ることができます。同じように,霊の領域からの作用も観察によって知ることができます。「神は霊」です。そして,神の創造の業はわたしたちの周囲いたるところにあります。神の存在を信じるなら,当然のこととして霊の領域の存在をも信じなければなりません。(ヨハネ 4:24。ローマ 1:20)しかし,その領域にはほかにだれが住んでいますか。
9 み使いはどのような者たちですか。
9 幾百万の霊者,つまりみ使いたちが,人間よりも前に存在するようになりました。(詩篇 103:20)それらすべては完全なものとして創造されました。よこしまな傾向を持つ者はだれもいませんでした。しかし,神がのちに創造された人間と同じように,彼らも自由意志を授けられました。それゆえ彼らは,神に対する忠実の道も不忠実の道も自分で選ぶことができました。
10,11 (イ)完全な霊の被造物が悪を行なおうとしたりすることがどうしてありうるのですか。(ロ)それで,み使いのひとりはどのようにしてサタンとなりましたか。
10 しかし,多くの人が疑問とするのは,完全な被造物である彼らの中から,悪を行なおうとしたりする者がどうして出るのだろうか,という点です。さて,わたしたち自身が知っていることですが,わたしたちの生活にも,いろいろな可能性 ― 良いものも悪いものもある ― を含んだ事態の生じることがあります。悪い可能性を見分ける知力を備えているということだけでわたしたちが悪い者となるわけではないはずです。真の問題は,どちらの道に自分の心と思いを向けるか,という点です。悪い事がらを考えてそれから離れないなら,悪い欲望を心の中に培うことになり,その欲望はやがてわたしたちを動かして悪行を犯させるようになります。これこそ,罪がどのようにして生まれるかについて,聖書筆者ヤコブが説明している点です。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」― ヤコブ 1:14,15。
11 聖書は,神の霊の子のひとりが,自分の中に悪い欲望の育つがままにしたことを示しています。その者は,神の創造物である人間が神よりも自分に服するようになる可能性を見ました。そして明らかに,神にささげられていた崇拝の一部であれ,それを自分が受けたいと願うようになりました。(ルカ 4:5-8)彼はこの欲望にそって行動した結果,神に対する反抗者となりました。その理由で,この者は聖書の中でサタンと呼ばれています。サタンとは『反抗者』という意味です。―ヨブ 1:6。
12 サタンが実際に存在することを信ずるどんな確かな根拠がありますか。
12 物質中心のこの二十世紀において,霊者であるサタンの存在を信じるのが一般に受け入れられることでないのは確かです。しかし,一般に受け入れられるかどうかは,決して真理の確かな指針となってはきませんでした。かつて,病気の研究をする人びとの間で,見えない細菌が考慮すべき要素であるという考えは一般に受け入れられていませんでした。しかし今日,細菌の作用はよく知られています。一般に受け入れられる事がらが常に真の導きとなってきたのであれば,今日の世界ははるかに異なったものとなっていたことでしょう。イエス・キリストは,自分自身霊の領域から来た者として,そこでの生命について権威をもって語ることができました。イエスは,サタンを霊者,その影響力によって人びとの生活に厳しい試練をもたらすことのできる者として明確に言及されました。(ヨハネ 8:23。ルカ 13:16; 22:31)この霊者である敵対者の存在を認めてはじめて,わたしたちはこの地上に悪い状態が始まったいきさつを理解することができます。
13 サタンはどのような手段で女エバと交信しましたか。どうしてそのような方法を取りましたか。
13 創世記第3章にある霊感の記録は,この者が自分の悪い欲望を満たそうとしてどのように事を進めたかを描写しています。彼はエデンの園において女エバに近づきましたが,自分の正体を隠すため欺瞞的な方法を取りました。エバの目は彼を見ることができませんでした。また,彼が用いることのできる人間の手先はまだいませんでした。それで記録は,彼が,その人間夫婦が普通に見ている一匹の動物,へびを用いたことを示しています。明らかに彼は,わたしたちが腹話術と呼ぶようなものを使い,自分のことばがこの生き物から出ているかのように見せかけました。その動物の生来の用心深い様子は,彼が与えようとしていた印象によく適合しました。―創世記 3:1。啓示 12:9。
14 サタンはエバになんと言いましたか。それには明らかにどんな意図がありましたか。
14 サタンは女に直接に取り入って支配者として自分に頼らせようとするかわりに,まず彼女の思いの中に疑念を植え込もうとし,『神まことになんぢら園のすべての樹の果は食らふべからずと言ひたまひしや』と尋ねました。これは実際のところ,『園のすべての木から食べてはいけないと神が言われたのは残念なことだ』という意味でした。これによって彼は,神が何か良いものを与えないようにしておられるのではないか,ということを暗示しました。エバは,ただ一本の木に関する神の禁止のことばを引用して答え,また不従順の結果として来る死の刑罰についても述べました。それに対し,サタンは,神の律法に対する尊敬心を弱めようとしてこう言いました。『なんぢら必ず死ぬる事あらじ 神なんぢらがこれを食らふ日にはなんぢらの目開けなんぢら神のごとくなりて善悪を知るに至るを知りたまふなり』。(創世記 3:1-5)こうした状況に直面した場合,あなたならどうされるでしょうか。
15 (イ)なぜエバはサタンのえじきになりましたか。(ロ)アダムはどうしましたか。
15 聖書の記録は,エバが自分の利己的な欲望に引かれるままに行動し,神の禁じられたものを食べたことを示しています。そののち,夫アダムも彼女に促されてそれを食べ,彼女と運命を共にすることを選んで創造者を捨てました。それはどんな結果になりましたか。―創世記 3:6。テモテ第一 2:14。
16 したがって,アダム以来の人類史の特色となってきた犯罪と暴力,また病気と死の理由として何をあげることができますか。
16 人間家族全体が罪と不完全さの中に投げ込まれました。今やアダムは自分の子孫に完全さを伝えることができませんでした。それをもはや備えてはいなかったのです。それ自体に欠陥のある鋳型やひな型で何かの複製を作れば,できる複製はみな同じ欠陥を持つものとなります。それと同じように,アダムの子孫すべては罪のうちに生まれ,利己的な傾向を受け継ぎました。(創世記 8:21)盗み,強姦,殺人,そのほか人類から平和と安全を奪い取ったあらゆる悪を導いたのはこの傾向であり,それを抑制しなかったためです。そして,病気や死もこの受け継いだ罪の結果です。―ローマ 5:12。
提出された論争
17,18 (イ)神がこうした事態をこれほど長く忍んでこられた理由を理解するために,わたしたちはどんな重要な論争について認識しなければなりませんか。(ロ)その提出された論争とはどういうことですか。
17 こうした事実を見るとき,わたしたちの思いは先に提出した質問に戻ります。すなわち,なぜ神はこうした事態を忍び,それがここまで発展するのを許してこられたのですか。それは,提出された論争と,それが全宇宙に及ぼす影響とのためです。どうしてそうなるのですか。
18 アダムに対する神の律法は人間にとって良いものではないと唱え,また神が不従順の結果とされた事がらに挑むことによって,サタンは神の支配権に関して疑いをさしはさみました。彼は,神が支配者であるという事実には異議を唱えませんでした。サタンが提出した問題はむしろ,エホバの支配の正しさ,またエホバの方法が義にかなっているかどうかという点でした。不真実にも,サタンは,人間が独立して行動し,神の指示に服するよりも自分で物事を決定したなら,そのほうがうまくゆく,と唱えました。(創世記 3:4,5)しかし,そのようにするならば,人間は実際には神の敵対者の導きに従うことになります。
19 (イ)この論争にはほかにどんなことが関係していましたか。そのことは聖書のどこに示されていますか。(ロ)この論争はどのような意味でわたしたちとも関係がありますか。
19 別の事がらも関係していました。これら神の被造物がエデンで神に反逆したのであれば,ほかの者たちはどうでしょうか。そののち,ヨブという人の時代に,サタンは,エホバに仕えている者たちが,神とその支配に対する愛のためではなく,利己心によって,つまり神からすべてのものを備えてもらうので,そのゆえに神に仕えているのだと,公然と主張しました。サタンはここで,もし苦難のもとに置かれるなら,だれひとりとしてエホバの主権の忠節な支持者とはなりえないであろう,ということを暗に意味しました。天と地上のすべての理知ある被造物の忠節と忠誠に疑問が投げかけられたのです。こうして,これはあなたに関係のある論争となりました。―ヨブ 1:8-12; 2:4,5。
20,21 反逆者たちの滅びを延期することによって,エホバはご自分の創造物,み使いと人間の両方にどんな機会を与えましたか。
20 こうした挑戦に面して,エホバは何を行なわれるでしょうか。エホバは容易に,しかも正当なこととして,サタンとアダムとエバを,エデンにおけるその反逆の時点で滅ぼすことができました。それはエホバの至高の力の表明となったことでしょう。しかし,事の展開を見守ってきた神の創造物すべての思いの中に今や提出された疑問に対し,それは答えとなったでしょうか。宇宙における永久の平和と安全のためには,こうした疑問が一度かぎり完全に解決されることが必要でした。加えて,神の理知ある創造物すべての忠誠と忠節に関しても異議が唱えられていました。真実に神を愛するなら,彼らは自分に対する不実の訴えに答えることを望むはずです。エホバは,彼らにそうする機会を,また神の主権支配に対する真の心の態度を示す機会を与えようと決定されました。そしてまた,アダムとエバに(不完全とはいえ)子孫を生み出すことを許すなら,それによって神はまだ生まれていない人間家族の絶滅を防ぐことにもなります ― その家族の中に,今日生きるわたしたちすべてが含まれるようになりました。これは,それら子孫に,神の支配に従うかどうかを自分で選択する機会を与えることになります。その選択こそ,今あなたの前に置かれているものなのです!
21 こうしてエホバは,エデンにおいて直ちに死の刑罰を執行するかわりに,それら反逆した者たちがしばらくとどまることを許されました。アダムとエバはエデンから追い出され,千年が過ぎる前に死にました。(創世記 5:5。創世記 2:17をペテロ第二 3:8と比べてください。)サタンもまた,頭を砕かれたへびのようにしてやがて滅ぼされることになりました。―創世記 3:15。ローマ 16:20。
時の経過が表わし示したもの
22,23 (イ)神によって許された期間のあいだ,サタンと人類は支配に関して何を行なってきましたか。(ロ)過去六千年にわたる人間の歴史は,神を無視して自らを治めようとする企てについて何を示していますか。
22 主権者としての正しさに関する挑戦を神が受け入れた結果として何が示されましたか。人間は,神の敵対者に聴き従い,自分の物事を自分で支配しようとしたことによって自らを益してきましたか。サタンは,「邪悪な霊の勢力」を築き上げ,それを組織して『もろもろの政府と権威,また世の支配者たち』とすることを許されてきました。(エフェソス 6:11,12)人類は,考えうるかぎりの統治形態を試みる機会を与えられてきました。エホバは,わずかに数世代を許し,そののち人間の努力に終止符を打つ,ということはされませんでした。むしろ,十分な結果が示されるように図られたのです。今から一世紀前でさえまだ早すぎたでしょう。当時人間は“科学技術の時代”に入ったばかりであり,これから成し遂げようとする事がらについて遠大な主張を始めたところでした。
23 しかし今,神からの独立を求めた人間の歩みがどのような結果になるかを見るために,あと一世紀待つことが必要でしょうか。政治や科学研究に携わる著名な人びとでさえ,現在のすう勢を見て,地球と地上の生物が今や重大な破滅の危険に直面していることを認めています。神が,人間の独行的な支配の完全な失敗を実証するために,全くの破滅を許す必要はないはずです。神を無視して自らを治めようとした企ての結果について証しする,過去六千年の証言を見るとき,人間は ― また霊の反逆者たちも ― 自分たちの主張を実証する十分な時間がなかったとは決して言えません。事実は,神から離れたいかなる統治も全人類に真の平和と安全をもたらしえないことを示しています。
24 神のみ子による,地に対する義の支配に道を開くため,まもなく何が起こりますか。
24 わたしたちがのちに取り上げる点ですが,エホバ神は,神としてのご自分の支配に対するいっさいの反逆を宇宙から一掃する時の世代を,ずっと以前に,そして完全な時の計算のもとに,今の世代として定められました。邪悪な人間が永久に滅ぼされるだけでなく,サタンと配下の悪霊たちも底なき深みに入れられるかのようにして拘束され,人間やみ使いたちの物事に影響を与えることができなくなります。これは,神のみ子の政府による,地に対する義の支配に道を開くものとなります。一千年の間,その政府は,人間の数千年にわたる利己的な支配がもたらしたいっさいの害悪を消し去ります。それは,この地球に楽園の美しさを回復し,従順な人びとをエデンにあったとおりの完全な状態に戻します。―啓示 20:1,2; 21:1-5。コリント第一 15:25,26。
25 (イ)一千年の終わりにサタンと配下の悪霊が解き放たれるのはなぜですか。(ロ)その結果としてどのようになりますか。
25 聖書は,その千年支配の終わりに神の敵対者が配下の悪霊たちとともにしばらくのあいだ拘束から解き放たれることを述べています。なんのためですか。そのとき生きている者すべてが,提出された挑戦的な論争に対して決然たる最終の答えを差し出し,エホバ神の主権支配の忠節で専心的な支持者であることを示す機会と特権を持つためです。その時には,無数の人びとが復活によって出て来ているでしょう。その多くにとって,これは,試みのもとで命の授与者エホバ神に対する愛と献身を証明する最初の機会となるはずです。そして,過去の不完全な状態のもとで,しかもこの現在の体制の悪い事情に囲まれながら試みに耐えてしっかりと立った人びとも,その時には,人間としての完全な状態,またエデンにおけると同じような環境の中でそのようにすることができるでしょう。論争はエデンで提出されたのと同じです。つまり,個々の人が,表明されたエホバのご意志に対する忠実な従順と破れることのない忠誠によってエホバの主権を擁護するか,という点です。エホバ神は,ご自分の臣民として,愛の動機でそうした献身をささげる人びとだけを望まれます。神の敵対者と悪霊たちの側につき,何にせよこれらが神の宇宙の平和を再びかき乱そうとして行なうむなしい企てに加わりたいと思う者がいるなら,その選択はその者の自由です。しかし,こうして神の政府を侮る者は,それによって当然の滅びを受けることになります。そして今度それは,天からの火によるようにして即座にもたらされます。こうして,霊であれ人間であれ,すべての反逆者は永遠の滅びをこうむります。―啓示 20:7-10。
26,27 エホバの物事の扱い方はわたしたちひとりひとりにとってどのように益となってきましたか。
26 確かに,人類は数千年にわたって幾多の苦難を経験してきました。しかしこれは最初の人間の選択の結果であり,神によるものではありません。神はこの間ずっと非難に耐え,ご自分の嫌悪する事がらを忍んでこられました。しかし,『千年をも一日のように』ご覧になる神は,物事を長期にわたって展望することができ,それが結局被造物の益になります。霊感を受けた一使徒はこう書いています。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」。(ペテロ第二 3:9)神のしんぼうと忍耐強さがなかったとすれば,今日のわたしたちのだれにしても,救いのためのどんな機会を持ちえたでしょうか。
27 しかしわたしたちは,過去六千年の神の役割が単に受動的なものであり,発展した悪をただ容認し,ご自身はなんの行動も取ってこられなかったと結論してはなりません。次に見るとおり,事実はその逆であったことを示しています。
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神は何を行なってこられたか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第6章
神は何を行なってこられたか
1 (イ)「神は死んでいる」と言う人びとがいますが,どのような意味でそう言うのですか。(ロ)あなたはそれに同意しますか。
近年,ある人びと,とりわけ宗教指導者たちは,「神は死んでいる」と唱えてきました。そうした人びとは神の存在を否定しているのでしょうか。たいていの場合そうではありません。彼らは普通,神が地上の事がらに積極的な関心を持ち,また人類を悩ます諸問題について何か行なっているとは信じない,という意味でそう言っているのです。しかし真実を言えば,神は大いに活動しておられ,確かに関心をいだいておられます。なるほど,人間が期待したようなしかたでは行動してこられなかったかもしれません。しかしそれは,神が何も行なってこられなかったという意味ではありません。実際には,人間の歴史の初めから今日に至るまで,人類のために活動してこられたのです。
2 人間の寿命の短さがこの点で人の考えにどのように影響を与える場合がありますか。
2 ある人びとが「神は死んでいる」と感じるのは,一つには人間の寿命が短いためです。人は,生涯に許される短い時間に物事を行なおうとしてあせります。人の努力が早計であり,そのために所期の目標を達成できない場合もあります。いずれにしても,自分の生きている間に結果を見たいという気持ちが,その人の考えを支配してしまいます。人間のそのような,しかも全く限りある経験に基づいて神を判断するという過ちを犯しがちなのです。
3 エホバの命の長さは,考えうる最も良い時に事態を扱うその能力とどのように関係していますか。
3 一方,エホバは永久に生きておられます。(詩篇 102:24[102:24,25,バ]。イザヤ 44:6)あせりを感じられる必要はありません。状況をつぶさに調べ,時の流れの中で,ご自分の行為が関係者すべての最大の益となり,ご自身の目的を推進するのに効果的な時を的確に見定めることができます。(イザヤ 40:22。ペテロ第二 3:8,9)神はまさしくそのようにしてこられました。
神はご自分をどのように啓示してこられたか
4 エホバは何をご自身の目的として宣言されましたか。それで,どんな知識を人類のために備えてこられましたか。
4 エホバが明確に宣言された目的は,全創造物のため,義に基づく管理機関を設けることです。それは,人類が平和と一致,また全き安全のうちに生活することを可能にするものです。(エフェソス 1:9,10。箴言[格言の書,バ] 1:33)しかし神は,ご自分に仕えるという点でだれをも強制されません。神は,すすんで神の地位を認め,その支配を愛する者たちだけをご自分の管理機関のもとに集めます。ご自分の要求に従って生きる人類世界の土台を据えようとされた神は,その義に基づく管理機関の規準と原則,またそれがどのように運営されるかに関する知識を人類に備えられました。同時に神は,人類が神ご自身とその数々の特質に関する肝要な知識を得ることをも可能にされました。―ヨハネ 17:3。
5 創造のみ業からわたしたちは神について何を学べますか。
5 エホバは霊ですから,もとより人間には見えません。それで,血肉の人間にこれらのことをどのようにして理解させるのでしょうか。創造者の持たれる特質については,そのみ手の業から多くのことを学べます。(ローマ 1:20)地上の生命活動に見られる驚くべき相互作用は神の知恵を証しします。海洋,気象,また天体の制御された動きなどに表わされる強大な力は,その全能性の証拠です。(ヨブ 38:8-11,22-33; 40:2)そして,地が産出する多様な食物,花,鳥,日の出や日没の美しさ,また動物のおどけたしぐさなどのすべては,人類に対する創造者の愛と,わたしたちの生活が楽しいものであるようにという願いを物語ります。しかし,ご自身に関する神の啓示はここで終わるわけではありません。
6 (イ)神はどんな手段でご自分の意志に関する明確な啓示を与えてこられましたか。(ロ)さらにどんな手段で神はご自分の原則や特質を人間に啓示されましたか。
6 さらに神は,いろいろな機会に天から語られました。ある場合にはご自身で直接に語り,またみ使いたちを通して語られたこともあります。こうして神は,ご自分の義にかなった規準,またそのご意志を,徐々に人間に知らせました。特にそれを行なわれたのは,アラビア半島のシナイ山においてでした。神はその地で,畏怖を感じさせずにはおかないようなしかたで語り,そこに集まっていた数百万のイスラエル人にご自分の律法を与えました。(出エジプト 19:16-19; 20:22)そののち幾世紀もの間,預言者たちを通して人間にみ旨を伝え,またこうして啓示したご意志を彼らに書き記させました。(ペテロ第二 1:21)加えて神は,ご自分の民との交渉を通してご自分の原則や特質を啓示する方法を取られ,こうして,霊感のもとに記されたみことばに,人間経験の暖かさを添えられました。神の目的に関する明確な宣言を聞いたり読んだりするだけでなく,消すことのできない歴史の記録の中に,み旨の理解を助ける実際の例を見ることができるなら,わたしたちはいっそうの教訓と確信と感動を得るのではないでしょうか。(コリント第一 10:11)そうした記録は何を啓示していますか。
7 (イ)神は不義を永久には容認されないことをどのように表明されましたか。(ロ)神がそうした行為をどうご覧になるかを学ぶわたしたちは何を行なうべきですか。
7 それは,神が不義を永久に容認されることはない,ということを示しています。確かに神は,アダムの子孫が思いどおりの道を取ることを許し,人間が自らを成功裏に治める能力を持たないという当然の記録を築かせました。しかし神は,彼らの不義の歩みに対するご自分の裁きを人類に全く示されなかったわけではありません。例えば,神はノアの時代に洪水を起こされました。『暴虐が地に満ちた』からです。(創世記 6:11-13)また,性的に堕落した都市ソドムとゴモラを滅ぼされました。(創世記 19:24。ユダ 7)さらに神は,ご自分に仕えるととなえたイスラエル国民を流罪に処されました。彼らが欺瞞的な行為をならわしにしたためです。(エレミヤ 13:19,25)神がそうした行為をどうご覧になるかを知れば,わたしたちは自分の生活を変えて義に対する愛を示すことができます。わたしたちはそうしますか。
8 神が滅びをもたらすとき,生き残る者がいますか。例を挙げなさい。
8 その記録が人間に啓示する別の肝要な点は,神が義なる者たちを邪悪な者とともに除き去ることはないという点です。全地球的な洪水のさい,神は「義の宣明者」であったノアを滅ぼさず,ノアとほかの七人を生き永らえさせました。(ペテロ第二 2:5)また,火といおうがソドムに降り注ぐ前,義なるロトとその家の者たちの逃れる道が備えられました。―創世記 19:15-17。ペテロ第二 2:7。
9,10 (イ)悪を離れるようにとエホバが繰り返しイスラエルを促されたことを見て,あなたはどのように感じますか。(ロ)こうした記述は,神のしんぼう以外に,神についてほかのどんなことをわたしたちに教えますか。
9 神との契約関係にあったイスラエルの民が不忠実になった時,神はどうされましたか。彼らを直ちに振り捨てることはされませんでした。ご自分の預言者エレミヤを通して語られたとおりです。「われわが僕なる預言者をなんぢらにつかはし 日々あさよりこれをつかはせり」。しかし彼らは聴きませんでした。(エレミヤ 7:25,26)エルサレムに対する実際の包囲と滅びが近づいた時でさえ,エホバはご自分の預言者エゼキエルを通してこう語られました。『主エホバ言ひたまふ われいかで悪人の死を好まんや むしろ彼がその道を離れて生きんことを好まざらんや……さればなんぢら悔いて生きよ』― エゼキエル 18:23,32。
10 では,わたしたちはここに何を見ますか。義を求める人びとの心に深く触れるようなしかたで,エホバが人類に対する多大のしんぼうを示されたという点です。同時にエホバは,その数々のご処置によって,義に対するご自分の愛を,また神の要求に従って生きることのたいせつさを,わたしたちに強く銘記させておられます。
11 (イ)エホバはエデンにおいてご自分の目的をどのように述べられましたか。(ロ)神はそれ以来何を行なってこられましたか。
11 もう一つ,きわめて根本的な事がらが目だっています。すなわち,わたしたちは,神が初めから,その行なわれたすべての事がらに明確な目的を持ってこられたこと,そして,その目的遂行に必要な場合には必ず行動されたことを見ます。神の基本的な目的は,暗示的な表現ながら,まさにエデンにおいて述べられました。サタンに裁きを宣告したさい,エホバは,サタンが自分の「胤」を起こす機会を持つことを予告されました。それは,サタンの特性を表わし,サタンの意志を行なう者たちをさしています。神はまた,別の「胤」,すなわち義なる救出者を生み出すことをも予告されました。この者は,『初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれる者』に致命的な打撃を加え,こうして人類をその邪悪な支配から解き放ちます。(創世記 3:15。啓示 12:9)この目的を宣明されたのち,エホバは,やがてこの約束の「胤」のもとに地上の物事を管理するための明確な準備を進められました。これから先に見るとおり,この準備の業は時間を要します。
神が特にイスラエルと交渉を持たれた理由
12,13 (イ)神がイスラエルを選び取り,この国民だけにご自分の律法を授けたのはなぜですか。(ロ)したがって,イスラエルの歴史また他の諸国民の歴史から何を学べますか。
12 現代の諸国民が登場するずっと以前,神は一つの国民を選び,数百年の間それをご自身の民とされました。なんのためでしたか。それは,ご自分の義にかなった原則がどのように実施されるかについて,その実例を設けるためでした。その国民は,創造者に対して深い信仰を示したアブラハムの子孫から成っていました。彼らに対してエホバはこう言われました。『エホバのなんぢらを愛しなんぢらを選びたまひしはなんぢらがよろづの民よりも数多かりしによるにあらず なんぢらはよろづの民のうちにて最も小さき者なればなり ただエホバなんぢらを愛するによりまたなんぢらの先祖たちに誓ひし誓ひを保たんとするによりて(なり)』― 申命記[第二法の書,バ] 7:7,8。列王紀下 13:23。
13 エジプトでの奴隷状態から救い出したのち,エホバは彼らをシナイ山に導き,彼らをご自分との契約関係に入れることを申し出られました。それに対して彼らは,『エホバの言ひたまひしところは皆われらこれをなすべし』と答えました。(出エジプト 19:8)ついでエホバは,ご自分の規定と司法上の決定を彼らに示されました。それは彼らをほかのすべての国民から分け,また,神の義にかなった規準に関して詳細な情報を人間に与えるものとなりました。(申命記 4:5-8)こうしてイスラエル人の歴史は,神の賢明で義に即した律法に従い,あるいはそれに背く場合に何が起きるかを示す記録となりました。また他の諸国民の歴史は,それと対照的に,神の律法なくして生活する人びとがどのような結果になるかを表わし示しています。
14 (イ)非イスラエル諸国民の事がらに干渉されなかった神は彼らに対して不当な扱いをされましたか。(ロ)でも彼らは神の過分のご親切からどのように恩恵を受けましたか。
14 それら他の諸国民についてはどうですか。それらの国民は自分の道を進み,自分の好む統治形態を選びました。それらの民の生活に良い点が何もなかったわけではありません。彼らは依然として良心の働きを持ち,それに動かされて仲間の人間に博愛的な行動を取った場合もあります。(ローマ 2:14。使徒 28:1,2)しかし,彼らが罪を受け継ぎ,また神の導きを退けていたことは,彼らをして根本的には自己本位の道を進ませるものとなりました。これが,残酷な戦争や,利己的な情欲を満たそうとする堕落した習慣をもたらしました。(エフェソス 4:17-19)彼らが身に招いた災いについては神に責任があるのではありません。その生き方は彼ら自身が選択したものでした。神は,彼らの活動がご自分の目的の実現とぶつかる場合でないかぎり,彼らに干渉されませんでした。しかし,その過分のご親切のもとに,彼らが太陽と雨,創造の美しさ,また地の実りを楽しむことを許されました。―使徒 14:16,17。
15 やがてこれら諸国民に祝福を得させるため,神はどんな取り決めを進めておられましたか。
15 またエホバは,約束の胤によってやがて祝福を受ける者の中からこれらの国民を除外されたわけでもありません。アブラハムはその胤が自分の家系から出ることを告げられましたが,そのことの結果についてエホバはこう言われました。「なんぢの〔胤〕により天下の民みなさいはひを得べし なんぢわがことばにしたがひたるによりてなり」。(創世記 22:18,〔新〕)ここに見るとおり,エホバはもっぱらイスラエルと交渉を持たれたとはいえ,のちに他の諸国民に祝福を得させるという目的を公正な態度で進めておられました。ただ彼らはその事実を知りませんでした。―使徒 10:34,35。
16 (イ)この間ずっと神は胤に関する約束について何を行なっておられましたか。(ロ)その約束の胤はだれであることが判明しましたか。
16 肉のイスラエルと交渉を持たれた間に,エホバは重要な意味を持つ数多くの預言を備えられました。それは,信仰の人びとが,約束の胤,すなわちエホバの油そそがれた者の到来のさいに,それを明確に見分けるためのものです。彼の家系 ― ユダ族のダビデの家筋を通して ― ははっきり指定されました。(創世記 49:10。詩篇 89:35,36[89:36,37,バ])その誕生地ベツレヘムは地名を挙げて予告されました。(ミカ 5:2)彼がひとりの成人として油をそそがれ,それによってメシアとなる時さえも幾世紀も前に示されました。(ダニエル 9:24-27)人類のためになされる,彼の祭司としての奉仕は予影されました。そして,あらゆる国の人が神の裁きの日にとこしえの命の機会を得る道を開くため,彼が自分自身を犠牲としてささげることも予影されました。(ヘブライ 9:23-28)こうして,定めの時が来ると,いっさいのことは,イエス・キリストが約束の胤としてエホバから遣わされた者,また,やがて全人類に祝福を得させる者であることを誤解の余地なく示しました。―ガラテア 3:16,24。コリント第二 1:19,20。
人類のために支配者たちを整える
17 神はイエスを通して何をもたらそうとしておられましたか。そのことは彼の誕生のさいどのように強調されましたか。
17 神が人類に平和を与えるために用いる者がここにいました。その者の誕生の前,その母マリアは,自分の子が永遠の王国を与えられることを,神の使いから告げられました。また,ベツレヘムの近くにいた羊飼いたちは彼の誕生を知らされ,そののち,天の軍勢が神を賛美して,「上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように」と言うのを聞きました。―ルカ 1:31-33; 2:10-14。
18 (イ)彼の地上での経験は王また祭司としてのその職務にどのように備えるものとなりましたか。(ロ)彼の死は平和を得ることとどのようなつながりを持っていましたか。
18 この,将来の天の王が地上で生活したことの益を考えてください。ひとりの人間として彼は人類のかかえる問題を知りまた理解するようになりました。彼は人びとと生活し,ともに働き,人びとの悲しみを分け合い,自らも苦難を忍びました。最も厳しい試みのもとで,エホバに対する忠節と義に対する愛を実証しました。このすべては,天と地をつかさどる王,また人類を命に導く大祭司とするために,神が彼を整える過程でした。(ヘブライ 1:9; 4:15; 5:8-10)さらに,イエス・キリストは自分の命を犠牲としてささげることにより,人類が神との平和な関係を取り戻す道を開きました。―ペテロ第一 3:18。
19 (イ)イエスが復活して天に上られたことをわたしたちは何から知ることができますか。(ロ)彼は天に戻ったのち自分の王権について何を行ないましたか。
19 その死後,神は彼をよみがえらせて再び命を得させ,五百人以上の人間の証人によってこの事実が証言されるように図られました。(コリント第一 15:3-8)それから四十日後,弟子たちが見守る中で彼は天へ上り,彼らからは見えなくなりました。(使徒 1:9)そののち彼は自分の忠実な追随者に対して天から王権を行使し,その支配の益は彼らをして人類の中できわだったものとならせました。しかしそれは,彼が諸国民に対する王としての権威を受ける定めの時でしたか。いいえ,そうではありません。神の偉大な予定のもとに,さらに別の事がらが進められねばならなかったからです。―ヘブライ 10:12,13。
20 イエスはそれよりも前,地上の弟子たちのためにどんな新しい業を開かれましたか。
20 大きな業が全世界的な規模でなされねばなりませんでした。イエスの死と復活の前,他の国民の改宗を図る伝道者として出かけて行ったイスラエル人はひとりもいませんでした ― もっとも,エホバへの崇拝を始めたいと思う者はだれでもイスラエルとともに祝福にあずかることができました。(列王紀上 8:41-43)しかし,クリスチャン時代の始まりとともに,新しい業が開かれました。イエス・キリスト自身がイスラエル内でまずその手本を示しました。ついで,天に上る前,まだその弟子たちとともにいた時,イエスは彼らにこう語られました。「あなたがたは……エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」― 使徒 1:8。
21 神はその証しの業を通して,世界の改宗ではなく,ほかの何を成し遂げておられましたか。
21 世界の改宗がその目的でしたか。そうではありません。「天の王国」に関する例えの中でイエスが示したように,「事物の体制の終結」までの期間になされるのは,「王国の子たち」を集めることでした。そうです,やがて来る王国政府の他の成員を選び出さねばなりませんでした。(マタイ 13:24-30,36-43)クリスチャン・ギリシャ語聖書を読むならだれでも容易に知ることのできる点ですが,西暦33年のペンテコステ(五旬節)を始まりとして,信じる者たちに差し伸べられた希望は,イエス・キリストとともにその天の王国支配にあずかることでした。―テモテ第二 2:12。ヘブライ 3:1。ペテロ第一 1:3,4。
22 (イ)神は天の王国の相続人となるこれらの人びとにどんな資質を求めましたか。(ロ)それで,選ぶことは性急に行なわれましたか。
22 これら,人類に対する将来の共同支配者を選び出すには時間がかかりました。なぜですか。一つには,どんな宝石よりも貴重なこの希望はあらゆる国の人に差し伸べられるものであったからです。それをとらえると自らとなえた人は多くいましたが,真に神のみ子の忠実な追随者となった人は多くありませんでした。(マタイ 13:45,46。22:14)そのためには高度な規準を満たさねばなりませんでした。クリスチャンは,肉のイスラエルの場合と異なり,他の人びとから離れた国民としては生活してきませんでした。その結果,彼らの信仰と忍耐は厳しく試されてきました。彼らはこの世界にあって外国人のような存在であり,異なった生き方,神の義の原則に従う生き方を唱道してきました。(ペテロ第一 2:11,12)是認を受けるために,彼らは周囲の世界の不道徳で堕落した習慣から身を清く保たねばなりません。(コリント第一 6:9,10)真に「神の子」となるためには,自分が「平和を求める」者,諸国民の戦争に加わらず,信仰のために迫害されても仕返しをしない者であることを示さねばなりません。(マタイ 5:9; 26:52。ローマ 12:18,19)彼らは,神の支配に対するゆるぎない忠節を実証し,聖書が『獣』と呼ぶ,人類の政治上の機関を擁護する者とならないことを求められています。(啓示 20:4,6)このゆえに,また神が油そそいだ王としてのイエス・キリストの名に堅く従うがゆえに,彼らは「あらゆる国民の憎しみの的」となってきました。(マタイ 24:9)このようなわけで,キリストとともに天にあって人類の支配者となる者たちを選ぶことは,性急には行なわれませんでした。
23 (イ)その天の管理体にはキリストとともに何人の人が入りますか。(ロ)彼らはどんな人びとの中から選び出されてきましたか。それはなぜですか。
23 長い時間を要したのは,選ばれる者の数が多いからではありません。聖書によると,神は,イエス・キリストのもとに置かれるこの選び出された管理体の成員の数を十四万四千人に限定されました。(啓示 14:1-3)しかし,神はその人びとを注意深く選ばれました。彼らは,「あらゆる部族と国語と民と国民の中から」取られています。(啓示 5:9,10)その中には,あらゆる身分の人がおり,男も女もおり,人類のあらゆる問題を経験した人びとがいます。新しいクリスチャン人格を身に着ける過程で彼らのうちのだれも直面せずまた克服しなかった問題はありません。(エフェソス 4:22-24。コリント第一 10:13)これはわたしたちにとってまことにうれしいことではありませんか。それは,彼らが,神のとこしえの命の備えをとらえるようあらゆる男女を助けることのできる,同情とあわれみに富んだ王また祭司である保証となるからです。
24 この間に生きて死んだ他の無数の人びとの中には聖書について知らなかった人が多くいますが,その人びとについてはどうですか。
24 このクリスチャン会衆外の人類についてはどうですか。この間ずっと,神は世界の統治に関する事がらに干渉されませんでした。神は人間が自分の選ぶ道を進むことを許されました。もとより,無数の人びとが,生きて死に,聖書や神の王国について全く聞かなかった人が多くいます。しかし,神はそうした人びとを忘れたのではありませんでした。神は将来のある時のために準備をしておられました。その時に関して,使徒パウロは当時の一ローマ知事に,「わたしは神に対して希望を持っています……義者と不義者との復活があるということです」と語りました。(使徒 24:15)その時になると,最も好適な条件のもと,神の新秩序において,彼らは,エホバの道を学び,宇宙主権に関する論争において自分が取る態度を決定する機会を与えられます。義を愛する者であることを実証するなら,彼らは永久に生きることができます。
「終わり」が近づいた時
25,26 (イ)キリストはさらにどんな権威をやがて受けますか。そしてだれに対して行動を取りますか。(ロ)このことは地上の状態にどのような影響を与えますか。
25 その新秩序の到来に先だって息づまるようなできごとが起きます。聖書は世界情勢の重大な変化を予告しました。イエス・キリストが,単に自分の弟子たちを支配するためではなく,全世界に対して行動する権威を持つ王として即位するのです。その時,次の布告が天でなされます。「世の王国はわたしたちの主とそのキリストの王国となった。彼はかぎりなく永久に王として支配するであろう」。(啓示 11:15)その敵に対して行動する権威を神から与えられた者として,彼はまず「世の支配者」そのもの,つまり悪魔サタンに対し,またその配下の悪霊たちに対して行動します。(ヨハネ 14:30)これら邪悪な勢力は天から投げ落とされ,その活動を地の近くに限定されます。その結果として何が起きますか。
26 「ヨハネへの啓示」にある,このできごとに関する預言的な描写は,天からの声を次のように記録しています。「このゆえに,天と天に住む者よ,喜べ! 地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」。(啓示 12:12)諸国民の間にはかつてない騒乱が起こります。しかし,終わりは直ちには来ません。
27 (イ)「終わり」が近づくにつれて,大規模などんな分離の業がなされますか。どのように?(ロ)予告された世界の滅びはどれほど大規模なものですか。
27 これは,大規模な分離の業がなされる時となります。天の王座からなされるイエス・キリストの指揮のもとに,その忠実な追随者たちは「王国の良いたより」の伝道を推し進め,あらゆる国民に対する証しのため人の住む全地にそれを宣べ伝えます。(マタイ 24:14; 25:31-33)人びとはどこでも,神の支配に対する自分の態度を表明する機会を与えられます。イエスが説明されたように,これが成し遂げられて,「それから終わりが来」ます。それは,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」となります。(マタイ 24:21)人は二度と再び,神は何を行なってきたのだろうかとは尋ねません。生き残るのは,十分に注意を払って神が行なってこられた事がらを学び知り,世界の滅びが到来する前に自分の生活を神の要求に合わせた人びとだけです。
28 (イ)キリストの即位とあらゆる国民を分ける業とはいつ起こりますか。(ロ)したがって,わたしたちひとりひとりは緊急に何を行なわねばなりませんか。
28 しかし,こうした事はいつ起きるのですか。キリストは王として支配する権限をいつ与えられて,すべての国の民を分ける業を始めるのですか。事実の示すところから言えば,それらこそ神がこの二十世紀に行なってこられた事がらです。キリストはすでに天の王座についておられ,分ける業は今や完了しようとしています。宇宙主権に関する論争において自分がエホバの側にいることをはっきり示せる時は非常に短くなっています。「大患難」は間近に迫っています! 近年の歴史に照らして聖書の預言を注意深く調べれば,その確かさは証明されます。わたしたちは,あなたがそのことを注意深く検討されるようせつにお勧めします。
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予告された世界の滅びはいつ来るか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第7章
予告された世界の滅びはいつ来るか
1 神は人類に対してどんな壮大な目的を持っておられますか。
戦争,犯罪,地球の汚染などがなくなるのを見るとすれば,それはなんと大きな安らぎでしょう。ほんとうに義に基づく管理機関のもとで生活できたら,どれほど快いことでしょう。そうした場所では,人は自分の家族とともに心ゆくまで安全を楽しむことができます。聖書は,神がこれを現実のものとしてくださることを約束しています。しかし,それはいつのことですか。
2 (イ)「エホバの日」が来る時に不意に捕われるのはどんな者たちですか。(ロ)どうすればそうしたことが自分の身に起きるのを避けられますか。
2 神の義の新秩序への道を開く世界の滅びに関して,イエス・キリストの一使徒はこう書きました。『エホバの日はまさに夜の盗人のように来る』。ついで彼は,神のことばを研究し,それに注意を払う人びとに語りかけて,「しかし,兄弟たち,あなたがたはやみにいるのではありませんから,盗人たちに対するように,その日が不意にあなたがたを襲うことはありません」とつけ加えました。(テサロニケ第一 5:2,4)警告に注意を払わない者たちは不意を突かれることになるでしょう。「エホバの日」が到来する時,彼らは,突然わなにかかってそれから逃れることのできない動物のようになります。しかし,あなたがそのような経験をする必要はありません。さきの聖句が述べるとおり,『やみにいるのではない』人びとがいます。それは決して,その人びと自身の知恵によるのではありません。むしろそれは,彼らが神のことばを研究し,それを心に留めているためです。神のことばはわたしたちの時代についてなんと述べていますか。―ルカ 21:34-36。
3,4 (イ)二十世紀に起きたできごとの深い意味はどこに説明されていますか。(ロ)聖書預言の中に示されるどんな四つの大きな点をこれから調べますか。
3 それはこの二十世紀のできごとを描写しています。しかも,およそ二千年も前にそれを行なったのです! そのできごとの多くは一般に知られていますが,聖書だけがその深い意味を説明しています。
4 聖書中にある,わたしたちの時代に関する情報の中には次の点があります。(1)神が「人間の国」に対する支配権を「その望む者」に与えるのはどの年か。(2)「事物の体制の終結」として知られる時期にはそのことを示すどんなできごとがあるか。(3)「事物の体制の終結」の時が始まってから,予告された世界の滅びが来るまでの時間の長さはどれほどか。(4)世界の滅びがまさに始まろうとするその最後のしるしとして,世界の情勢はどのような著しい進展を見るか。これらの点を一つずつ調べましょう。
指定された年 ― 1914年
5 1914年が特別の意味を持つ年として聖書の中で特に指定されていることを,エホバの証人はどれほど早く悟りましたか。
5 西暦1914年は,天における大きなできごとが人間の物事に多大な影響を及ぼす年として,聖書の預言の中で特に指定されています。早くも1876年,エホバの証人(当時は“聖書研究生”として知られていた)はそれを悟り,そのことを広く告げ知らせました。あなたはご自分の聖書を使い,その点をご自身で詳しく調べることができます。
6 (イ)聖書のダニエル書第4章を開き,その3節と17節で何が述べられているかを示しなさい。(ロ)エホバが「王国」をお与えになるのはだれですか。
6 ご自分の聖書のダニエル書第4章を開いてください。そこには,地に対する主権の行使に関して神が何を意図しておられるかを啓示する預言があります。その預言の目的は,『至高者人間の〔王国〕を治めて〔その望む者〕にこれを与へたまふといふ事をすべての者に知らしめんがためなり』と述べられています。(3,17節〔新〕)わたしたちは,至高者が選んで「王国」を与えるこの「者」がイエス・キリストであることを知っています。聖書巻末の本は,「世の王国」が天の王としてのキリストに与えられる時のことについて述べています。(啓示 11:15; 12:10)つまり,ダニエルのこの預言は,至高の神が「世の王国」をご自分のみ子イエス・キリストに授けて人間の物事に介入される時のことを扱っている,という意味です。預言はそれをいつであるとしていますか。
7 ダニエル書 4章にある預言的な夢の要旨を述べなさい。それはネブカデネザル王にどのように当てはまりましたか。
7 ダニエルの記録した預言的な夢は,一本の巨大な木が切り倒され,『七つの時』が過ぎるまでそれに鉄と銅のたががかけられることに関するものです。その『七つの時』の間それには「獣の心」が与えられる,と述べられています。(ダニエル 4:10-17)これは何を意味していますか。神はご自分の預言者ダニエルを立ててこう説明させました。つまり,バビロンの王ネブカデネザルはその王座からはずされ,人びとの中から追われて獣のような生活をします。七年ののち,王は正気を取り戻して神の支配権の至上性を認め,彼自身は王位に復します。(ダニエル 4:20-37)しかし,このすべてにはさらに大きな意味があります。それが聖書に記録されているのはそのためです。
8 (イ)その預言のさらに大きな意味はどんな王国に関するものですか。(ロ)このさらに大きな成就において,木が切り倒されることは何を表わしていますか。どのような意味で『それに獣の心が与えられ』ましたか。
8 このさらに大きな意味は,地上に生きるものすべてが益を受ける支配に関連したものです。その預言が述べるとおり,『すべての者がそれから食を得』,動物や鳥さえそれから保護を得ます。(ダニエル 4:12。マタイ 13:31,32と比べてください。)こうしたものを真実に備えることができるのは神の王国の支配だけです。その王国支配の義の原則はユダの統治を通して幾世紀もの間表明されていました。ユダには,ダビデの王統を引く王がエルサレムにいました。しかし,その民の不忠実さのゆえに,エホバは,彼らがバビロニアの王ネブカデネザルによって征服されることを許されました。それはあたかも,夢に出てきた巨大な木が切り倒され,その切り株にたががかけられたかのようでした。それ以後,異邦の諸政府が世界の覇権を握り,ネブカデネザルの支配したバビロンがその筆頭でした。これら異邦の諸王国は聖書の中で「獣」として表わされています。(ダニエル 8:1-8,20-22)したがって,統治という点で起きていた事がらは天からの使いが発表したとおりでした。『その心は変はりて人間の心のごとくならず 獣の心をうけて七つの時を経ん』。(ダニエル 4:16)しかし,やがてその『七つの時』は終了して『たが』は取り除かれ,エホバの言われたとおり「世の王国」を授けられた者が世界の覇権を行使しはじめるにつれ,その「木」は大きくなってゆきます。
9,10 (イ)『七つの時』の長さの算定において,『一時』はどれほどの長さになりますか。聖書はそれをどのように示していますか。(ロ)『七つの時』はいつ始まりましたか。それはどれほどの年数に及びますか。いつ終わりますか。
9 その『七つの時』はどれほどの期間になるのですか。それは文字どおりの七年よりはるかに長い期間でした。なぜなら,その数百年のちに,イエス・キリストは,それがまだ終了していないことを示したからです。西暦第一世紀に,イエスはそれを,「諸国民の定められた時」と呼ばれました。「諸国民」とは,紀元前607年に起きたバビロンのエルサレム征服以来世界の覇権を保持してきた異邦の諸国民です。―ルカ 21:24。
10 聖書が預言的な「時」に関してどのように述べているかに注意を払ってください。啓示 11章2,3節は,1,260日が四十二か月,つまり3年半となることを示しています。啓示 12章6,14節は同じ日数(1,260)のことを述べていますが,それを「一時と二時と半時」,つまり『三時半』としています。したがって,『一時』は360日であるはずです(3 1/2×360=1,260)。さらに,霊感のもとに神の別々の預言者ふたりによって記された,『一日を一年とする』定めにしたがえば,ダニエルの預言にある預言的な「時」の各一日はまる一年を表わすことになります。(民数記 14:34。エゼキエル 4:6)この点が定まれば,その『七つの時』を2,520年(7×360)と算定することは難しくありません。ユダにおける神の模型的な王国がバビロンによって倒された紀元前607年の秋から数えれば,それから2,520年めは1914年の秋になります。(606 1/4+1913 3/4=2,520)。「世の王国」が,天の王座についたイエス・キリストに託されるのはその時です。
11 1914年の意味について歴史家はなんと述べていますか。
11 エホバの証人は,聖書が1914年を明確に指定していることを悟ったのち,それがどのような年になるかを見るために何十年か待たなければなりませんでした。1914年の初め,世界の平和な情勢は,世界の指導者たちを含む多くの人びとに,何ごとも起こらないかのように思わせました。しかし,その年の夏が終わらないうちに,世界は,人類史上例のない大戦争に投げ込まれていました。その年のできごとについて,オックスフォード大学の歴史学者A・L・ロウスはこう書いています。
「一つの時代から別の時代へと,その変わりめとなった年を求めるとすれば,それは1914年であった。それは,安心感のあった古い世界を終わらせ,われわれが今日日ごとにいだく不安をその特色とする現代の始まりとなった年である」。23
また,英国の政治家ウインストン・チャーチルの生涯を扱った本の書評の中にも次の一文があります。
「1914年6月28日にサラエボで起きた銃撃事件は,安全と創造的理性とを備えた世界を打ち砕いた……以来世界は決して元の状態に戻っていない……それは転向点であり,魅力と静穏と美しさのあったきのうの世界は消え去って二度とやって来ない」― ランドルフ・チャーチル著「ウインストン・S・チャーチル伝」第2巻の書評。24
聖書預言によって2,500年も前に指定されたその年は,確かに歴史の転向点となりました。さらにほかのできごとが展開するにつれ,その真の意味はいよいよ明らかになりました。
12 1914年およびその後の人間の物事の大変動にはどんな理由がありますか。
12 キリストが王座について人類世界に対する支配を始める時に地上において前例のない大戦争が起きるということは,初めのうち多少不可解に思えるかもしれません。しかし,神から離れた人類の「世の支配者」は悪魔サタンであることを忘れないでください。(ヨハネ 14:30)彼は,新たに誕生してキリストの手中に置かれた神の王国が地上の物事を制御するようになることを望みませんでした。明らかに,宇宙的に重要なこのできごとから人間の注意をそらせようとしたサタンは,人間世界を駆り立てて,主権をめぐる戦争へと至らせました。さらに,聖書が示すとおり,王国が誕生して十分な活動を始めた時,サタンと配下の悪霊たちはその新たに生まれた政府を食い尽くそうとして立ち構えました。その結果はどうなりましたか。「天で戦争が起こった」。「大いなる龍,すなわち,初めからのへびで,悪魔またサタンと呼ばれ,人の住む全地を惑わしている者は投げ落とされた。彼は地に投げ落とされ,その使いたちもともに投げ落とされた」。サタンは,自分に残されている「時の短いこと」を知り,大きな怒りをいだきました。(啓示 12:3-12)このことの結果はどのようになりますか。聖書は十九世紀も前にそれを正確に描写しました。
特別の意味を持つできごと
13 イエスが『自分の臨在と事物の体制の終結のしるし』について語られたことにはどのような背景がありましたか。
13 西暦33年の昔に,イエスは『自分の臨在と事物の体制の終結のしるし』を詳細に描写しました。それは聖書のマタイ 24,25章,マルコ 13章,ルカ 21章に記録されています。エルサレムで一群れの弟子たちとともにいたさい,イエスはそこに立つ壮麗な神殿が倒壊することについて予告されました。そのしばらくのち,彼が市の外の丘の中腹に腰を下ろすと,弟子たちがさらに知ろうとしてこう尋ねました。「わたしたちにお話しください。そうしたことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。―マタイ 24:1-3。
14 イエスが「しるし」として述べられた意味あるできごとのうち,その幾つかを挙げなさい。
14 追随者を得ようとしてキリストの名をかたる者たちに惑わされないようにと警告したのち,イエスはこう答えました。「あなたがたは戦争のこと,また戦争の知らせを聞きます。恐れおののかないようにしなさい。これらは必ず起きる事だからです。しかし終わりはまだなのです[あるいは,すぐには起こりません]。というのは,国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,またそこからここへと食糧不足や地震があるからです。これらすべては苦しみの劇痛のはじまりです」。ルカ 21章11節は,イエスが『そこからここへと疫病がある』とも言われたことを示しています。イエスは「不法が増す」ことを警告し,そのために「大半の者の愛が冷える」と言われました。そして,意味深いことにも,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」と予告されました。―マタイ 24:4-14。
15,16 (イ)その中には西暦70年のエルサレムの滅びよりも前に起きたものがありますか。(ロ)別のさらに重要な成就があることはどんなことからわかりますか。
15 しかし,『こうした預言の中には,エルサレムがローマ人の手で滅ぼされた西暦70年より前の時代に成就したものがあるのではないか』という質問が出されるかもしれません。そうです,そのようなものもあります。しかし,預言そのものが示しているように,さらに多くのことが含まれていました。イエスは,弟子たちが当面関心を持つ質問に答えながら,その機会を使って,遠い先のさらに重要な問題に関する情報を与えられました。イエスは,「人の子」が「力と大いなる栄光」を伴って到来する時についても語っておられること,またそこで話していることが「神の王国」の到来と関係のあるものであることを示されました。―ルカ 21:27,31。
16 これらのことは西暦70年のエルサレムの滅びまでには起こりませんでした。第一世紀の終わり近くに書かれた聖書巻末の書「ヨハネへの啓示」は,神の王国に関係したこれらのできごとがまだ将来のものであることを示しました。(啓示 1:1; 11:15-18; 12:3-12)「ヨハネへの啓示」はまた,象徴的な表現のもとに,イエスの予告した戦争・食糧不足・疫病が将来に異例な規模で成就することを示しました。それは,キリストが神の王国に敵対する者すべてに対する征服を始め,またそれを完了する時です。(啓示 6:1-8)しかし,弟子たちに対するイエスの預言の大部分が第一世紀に確かに成就したということは,それが真実なものであるという証印となり,また,その預言に含まれるほかのすべての点の成就を確信するたしかな根拠となります。
17 今日の世界の状態は1914年以前の状態とほんとうに大きく異なっていますか。
17 これらの預言は,この二十世紀に,そのさらに大規模で完全な成就を見ましたか。七十歳以下で,事情を十分に知らない人びとにとって,周囲にある今日の世界の状態はそれほど意味のあるものに思えないかもしれません。今とは大いに違った時代の記憶がないために,われわれの時代はこれでしごく“正常”なのだろう,と感じるかもしれません。しかし,さらに年長の人びと,また歴史に通じた人びとは,決してそうではないことを知っています。たとえば,1914年に世界に生じたできごとに関して,スイスの教育機関で使われている歴史の一教科書はこう述べています。
「その戦争に巻き込まれなかった国はわずかに15か国であった……しかし,それらの国の中に,調停役を果たせるほどの大国は一つもなかった。こうしたことは世界史上に例のないことであった。これほど規模の大きな戦争はかつてなかった。『民は民に,国は国に逆らって立つ』という聖書の預言がまさに成就した」。―グスタフ・ウイゲット著「三州同盟から民衆同盟に至るスイス史」。25
18 広範囲な戦争だけが「しるし」であると考えるのはなぜ誤りですか。
18 しかし,イエスが「しるし」として述べられたのは,『民は民に,国は国に逆らって立つ』ということだけではありません。イエスは一つの例えを使ってこう話されました。「いちじくの木やほかのすべての木をよく見なさい。それらがすでに芽ぐんでいれば,あなたがたはそれを観察して,もう夏の近いことを自分で知ります。このように,あなたがたはまた,これらの事が起きているのを見たなら,神の王国の近いことを知りなさい。あなたがたに真実に言いますが,すべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」。(ルカ 21:29-32)ただ一本の木が季節はずれに葉を出すのを見るとしても,あなたはそれによって,夏が近いと思い込むことはないでしょう。しかし,すべての木が芽を出しているのを見れば,あなたはその意味を理解します。イエスの予告したことはこれと同じであり,その「臨在」と「事物の体制の終結」とは,ただ戦争だけでなく,同一の世代に起きる多くの事がらによって証拠づけられます。
19 (イ)ここの表に示されるとおり,「しるし」のいろいろな面は1914年以来どのように成就してきましたか。(ロ)なぜ以前の戦争,食糧不足,地震などはイエスの語られた「しるし」とはなりませんか。
19 そうした事がらは起きましたか。次に掲げた,「しるしには何がありますか」という表を調べてください。それを調べてゆくさい,あなたはそれ以前の時代の戦争に関して何かで読んだ事がらを思い出すかもしれません。しかし,第一次世界大戦が他のすべての戦争とはっきり異なった性格を持ち,歴史の大きな転向点となったことは明瞭です。またあなたは,1914年以前にも,目だった食糧不足,疫病,地震,不法の時代などがあったと,歴史家によって伝えられているのを思い出すかもしれません。しかし,これらすべてがこれほど圧倒的な規模で同一の世代に起きた時代はほかにありません。福音書の筆者によって記録された「しるし」のほかの面も明らかに見ることができます。全く正直に考える場合,1914年以来のできごとがしるしの成就でないのであれば,このうえさらに何が必要なのでしょうか。明らかに,わたしたちはイエスの語られた世代に生きています。
20,21 第一次世界大戦に伴ったできごとが,イエスの予告したとおり,「苦しみの劇痛のはじまり」にすぎなかったことを述べなさい。
20 「しるし」のこれらの面が出現したことは,神の王国がその後直ちに地上のいっさいの悪を除き去るという意味ではありませんでした。イエスが予告したとおり,「これらすべては苦しみの劇痛のはじまり」でした。(マタイ 24:8)さらにほかのできごとが続くはずでした。その後に発展した事態について,「ワールドブック百科事典」はこう述べます。「第一次世界大戦とその余波は,1930年代初めの空前の不景気を招いた。戦争の結果および平和時代への調整上の問題は,ほとんどすべての国に動揺をもたらした」。26 その後多年を経ずして第二次世界大戦が起こりましたが,それは最初の大戦より幾倍も恐ろしいものでした。以来,生命や資産を軽視する風潮が高まり,犯罪に対する不安は日常のものとなりました。道徳心はわきへ押しやられました。“人口爆発”は,指導者もなんら現実的な解決のないことを認めるほどの問題を投げかけています。環境の汚染は生命の特性をそこない,絶滅の脅威をさえ忍ばせています。そのため,国連人間環境会議に関する報告は,人間家族が「かつて人類の遭遇したいかなる危機より急激で,広範で,不可避的,また困惑的な危機」の門口に立っていると伝えました。27
21 こうした「苦しみの劇痛」が始まったのはいつでしたか。ロンドンのスター紙は,「来世紀の歴史家は,世界の狂気が始まったのは1914年……だと言うであろう」と述べました。28 わたしたちがすでに見たとおり,その年,1914年は,聖書預言の中でずっと以前に指定されていました。
注目すべき宗教上の動向
22 (イ)イエスはご自分の予測の中で,不法の増すことや愛の冷えることをほかのどんなことと結びつけましたか。(ロ)キリスト教世界の牧師の教えがこうした状態の一因となってきたことを述べなさい。
22 「事物の体制の終結」の時に起こるべき事がらとしてイエスが挙げた意味あるできごとの中に次の点があります。「多くの偽預言者が起こって,多くの者を惑わすでしょう。また不法が増すために,大半の者の愛が冷えるでしょう」。(マタイ 24:11,12)イエスが,不法の増すことや愛の冷えることと,偽預言者つまり神を代弁すると虚偽の主張をする宗教教師の影響とを結びつけている点に注目すべきです。キリスト教世界の牧師たちが諸国家の戦争に祝福を与え,聖書の道徳規準は時代遅れであるという考えを唱道し,聖書のある部分を“神話”としてきた証拠は本書の中ですでに取り上げました。こうした態度はどのような結果をもたらしましたか。神への愛,またその律法に対する関心が冷えたことです。これこそ,権威の軽視や仲間の人間に対する関心の欠如を含め,全体的な道徳崩壊の大きな要素となってきました。―テモテ第二 3:1-5。
23,24 結果として,諸教会には近年どんなことが起きていますか。
23 こうして発展した状態のために,幾千幾万という人びとがキリスト教世界の宗教組織を離れています。聖書に頼るようになって自分の生活を聖書の道に合わせる人たちもいますが,他の人びとは,教会が真の霊的な援助を与えていないのを見,失望と嫌悪をいだいてただ身を引いています。教会に敵対するようになる人びとも多くいます。
24 ニューヨーク・ポスト紙が,「従来の秩序がわれわれの前を光のような速さでよろめき去って行くかのように思える分野は宗教である」と述べたのはこのためです。29 そしてニューヨーク・タイムズ紙はこう伝えました。「制度化した宗教は消滅しつつあると,ドイツの宗教社会学の権威は語った」。30 バチカンの週刊誌「ロセルバトル・デラ・ドメニカ」は,アメリカのローマ・カトリック教会が「大規模な地震」によって揺り動かされていることを認めました。31 同誌は,司祭の辞任,修道女の離脱,カトリック学校や神学校の閉鎖など,ほとんど毎日「何かの新しい災い」が同教会に降りかかっていると述べました。キリスト教世界のすべての教派において,神学校に入る若者が減り,宗教系の学校が門を閉じ,多数の宗教雑誌が廃刊になるといった現象が見られます。教会はおおむね,その出席者数が減少していることに気づいています。売りに出されている教会堂も少なくありません。
25 (イ)それと対照的に,聖書は真の崇拝に関してこの時代に何が起きることを示していますか。(ロ)真の神の崇拝者を集めるこの業はだれの指揮のもとに,また何に基づいて行なわれますか。(ハ)こうして,あらゆる国の人びとの前にどんな論争が提出されていますか。
25 これとは対照的なこととして,聖書は,あらゆる国民から来た「大群衆」がこの終わりの時に真の崇拝のもとに引き寄せられることを示しています。(啓示 7:9,10,14)この,真の神の崇拝者を集める業はキリスト・イエスの指揮のもとに行なわれています。イエスは,ご自分が「その栄光のうちに」戻る時,あらゆる国民に注意を向け,「大患難」を生き延びる者ととこしえの滅びを受ける者とをひとりひとり分けると予告されました。(マタイ 25:31-33)彼らは何に基づいてそのように分けられるのですか。イエスは,この地上にいるご自分の霊的な『兄弟たち』に対して取る態度に基づいてそれがなされると言われました。それはなぜですか。なぜなら,それらはイエス・キリストの手にある神の王国の代表者だからです。彼らがキリストに従って宣べ伝える音信は,「王国のこの良いたより」です。彼らはそれを,「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」行なっています。(マタイ 24:14)この王国のたよりはあらゆる国の人びとの前に宇宙主権に関する論争を提出します。神の支配を支持しますか。それとも,エデンにおけるサタンの勧めにしたがって,人間の独立した支配を求めますか。エホバ神はみ子を通してこの選択の機会を人びとに与えます。
26,27 (イ)この証しの業はすでにどの程度行なわれてきましたか。(ロ)王国の音信に対してどのような態度を取るかはなぜ重大な事がらですか。
26 全世界的な証しがなされてきました。世界208の土地で,エホバのクリスチャン証人は人びとの家庭を訪ね,どんな家族にも個人にも,無償の聖書研究を申し出ています。神の王国を宣明する目的で証人たちが使う刊行物は,地上で最も広く頒布されている書物の中に数えられており,160以上の言語で手に入れることができます。
27 この分ける業はすでに幾年ものあいだ続けられてきました。それは今や完了しようとしています。神のことばによれば,神の王国支配を故意に退けた者,また神について学ぶ機会を無関心な態度で放棄する者は,その時に存在を断たれて永遠の滅びに至ります。(マタイ 25:34,41,46。テサロニケ第二 1:6-9)神の王国の真実の支持者であることを自らすすんで,また喜んで示す人びとにとって,それは壮大な安らぎの時となります。では,聖書はその裁きの表明をどれほど間近なものとしていますか。
『この世代は決して過ぎ去らない』
28 イエスは,予告された世界の滅びをどれほど間近なものとしておられますか。
28 イエスは,「その日と時刻についてはだれも知りません。天の使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます」と言われました。(マタイ 24:36)しかしイエスは,「これらのすべての事が起こるまで,この世代は決して過ぎ去りません」と語って,その時を判断する目安となるものを与えられました。(マタイ 24:34)これらのすべての事とはなんですか。イエスが語っておられた「しるし」のいろいろな面すべて,そしてまたイエスがそこで言及された「大患難」をさしています。これらの事がらが一つの世代のうちに起きるとすれば,「事物の体制の終結」の時が始まった1914年に生きていてその年に起きた事がらを見た人びとが,この期間の終わり,「大患難」の襲来する時にも生きていなければならない,ということになります。1914年のできごとを覚えている人びとは今ではずっと年を取っています。その年代に属する人びとの中にはすでに死んだ人も多くいます。しかしイエスは,「この世代」のうちに,と保証しておられます。その人びとすべてが死ぬ以前に,この邪悪な事物の体制の滅びが到来します。
29 1914年以来のできごとがここまで発展するのを許した神は,人間が正しい決定をする助けをどのように備えられましたか。
29 これだけの期間を猶予された神は,多大のしんぼうを示してくださったではありませんか。この世代のうちに,歴史上はじめて,戦争,汚染,人口過剰その他の問題が,次から次へと超大な規模に達しました。そのどれにしても完全な破滅をもたらしかねないものです。こうして証拠を積み上げさせることによって,神は,人間による支配が真の解決をもたらしえないものであることをいっそう容易に悟れるようにしてくださいました。同時に神は,「王国の良いたより」を宣べ伝える業を通し,心の正直な人びとが,神の王国こそ真の平和と安全に対する唯一の希望であることを悟り,大論争において自分の立場を神の側にはっきり定めることができるように助けてこられました。
30 世界の滅びが接近したことを示す最終的なしるしとして,聖書は何を明記していますか。
30 世界の滅びが差し迫っているまぎれもないしるしとなる,もう一つの明確なできごとが起こります。そのしるしは使徒パウロの次のことばの中に示されています。『エホバの日はまさに夜の盗人のように来ます……人びとが「平和だ,安全だ」と言っているその時,突然の滅びが……彼らに突如として臨みます。彼らは決して逃れられません』。―テサロニケ第一 5:2,3。ルカ 21:34,35。
31,32 (イ)政治支配者たちのふれ告げる『平和と安全』は真実のものですか。(ロ)それに誤導されることはどうして危険ですか。
31 世界の政治指導者たちは,ひとたび核戦争に巻き込まれるなら,だれも勝利を得られないことを知っています。それは事実上の絶滅という結果となるにすぎません。さらに,環境汚染に伴う深刻な問題,“人口爆発”その他の国内の難問が資金と配慮を要求しています。そうした理由で,彼らは国際関係の緊張緩和を達成しようと努力してきました。言うまでもなく,彼らの交渉は,人びとが互いに愛し合うほどの真の変化はもたらしていません。彼らは犯罪をなくしたり,病気や死を除き去ったりはしていません。でもこの預言は,人びとが,『平和と安全』が今やついに実現したと唱える時の来ることを示しています。そうした事が起こるその時,「突然の滅び」が人類を誤導している者たち,またそれに信頼を託している者たちすべてに,「突如として」臨みます。
32 しかし,生き残る人びとがいます。あなたはそのひとりですか。
[80,81ページの囲み記事]
「しるしには何がありますか」
『国民は国民に敵対して立ち上がる』―
「第一次世界大戦は総力戦の世紀を招来し,史上はじめて真の意味での世界戦争となった。……1914-1918年以前……地上のこれほど広い範囲におよんだ戦争はなかった。……殺りく行為がこれほど広範囲に,また無差別に行なわれたこともかつてない」― H・ボールドウイン著「第一次世界大戦」
第一次世界大戦は900万人以上の戦闘員を殺し,さらに幾百万の市民を殺した。
第二次世界大戦は5,500万の死者を出した。
第二次世界大戦後約20年のうちに,全世界に300件以上のクーデター,動乱,反乱が起きた。
『食糧不足がある』―
第一次世界大戦後,食糧不足が多くの国を悩まし,第二次大戦後にも同様の事態が起きた。
科学技術の空前の進歩にもかかわらず,1967年には,栄養失調のために毎日10,000人が死に,毎年3,500,000人が死んでいると報告された。
「1970年代に世界は飢きんを経験するであろう。今日のあらゆる突貫生産計画にもかかわらず,幾億人もの人が餓死に向かっている」― ポール・アーリック博士著「人口爆弾」
『疫病がある』―
記録に残る疫病で,1918年から1919年にかけて流行したスペイン風邪に匹敵するものはない。少なくとも5億人がこれに冒され2千万人以上が死んだ。
今日の医学研究は心臓病が流行病的な勢いで広がるのを防ぐことができなかった。ガンは多発しており,性病患者の数は急増している。
多くの場所で『地震がある』―
1915年,イタリア,アベツアーノの地震では29,970人が死んだ。中国では1920年に180,000人,日本では1923年に143,000人,インドでは1935年に60,000人が死んだ。1960年代には,イラン,チリ,モロッコ,ユーゴスラビア,リビヤ,エルサルバドル,ソ連,コロンビア,フランス,インドネシア,トルコその他で大地震が起きた。1970年のペルーの地震では70,000人が死に,ニカラグアでは1972年には12,000人が死んだ。
『不法が増す』―
あなたは事実を知っておられます。あなたご自身の生活が影響を受けています。あなたの住む土地の学校では何が起きていますか。あなたの住む土地には麻薬の不法な使用がありますか。商取引きにおける不正についてはどうですか。夜の外出をどこまで安全に感じますか。
“犯罪による危機”があまりにも広範囲に及んでいるため,1972年,国連の事務総長は国際的な行動を呼びかけた。
不法とは,単に人間の法律に関してだけではない。それ以上に神の律法が無視されている。
神の王国が全世界で宣べ伝えられる ―
この業は世界208の土地で整然と行なわれている。
この音信を公に宣べ伝えるため,過去30年の間に,エホバのクリスチャン証人によって3,676,343,869時間がささげられた。その同じ期間に,証人たちは,神の王国を人間の唯一の希望として伝える文書を,160以上の言語で,50億部以上出版した。
これらのことは何の「しるし」か。わたしたちが今,「事物の体制の終結」の時に生きていること。キリストが天の王座につき,あらゆる国民の中から,神のご意志に真に従う人びとを取り分けていること。「大患難」が非常に近いこと!
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生き残るのはどのような人たちか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第8章
生き残るのはどのような人たちか
1 神の平和な新秩序に生き残ることは何にかかっていますか。
きたらんとする世界の滅びを生き残るかどうかは,人間の戦争の場合によくあるような偶然の問題ではありません。それは地上のどの部分に住んでいるかによって決まるのではありません。また,警報のサイレンを聞いて防空壕その他の避難所に駆け込むことによって救われるのでもありません。生き残るかどうかは,神のあわれみ,そして,予告された「大患難」が始まる前に慎重な選択をするかどうかにかかっています。どうしたら賢明な選択をし,生き残って平和な新秩序での命を受ける人びとの中に入れますか。
過去の預言的なひな型
2 生き残るための条件を定めるのはだれですか。それはどこに見いだされますか。
2 きたらんとする世界の滅びを生き残る人びとがいること,聖書はただそのことだけを予告しているのではありません。聖書はさらに,ひな型となるものを示して,それがどのような人たちであるかをも知らせています。生き残ることは神の力によるのですから,そのための条件を定めるのも神であってしかるべきです。
3 そこに平和と安全が存在するために,悪を行なう者が断ち滅ぼされることはなぜ必要ですか。
3 神は賢明にも,そして当然のこととして,きたるべき「大患難」を生き残る人びとが,その新秩序において善を行ない,それを害するようなことを何も行なわない者たちであるように図られます。神は義を愛する者たちだけを生き永らえさせるのです。もしそうしないで,不義なる者たちを生き残らせるなら,そこに平和と安全は存在しないでしょう。方正な人びとの住まいと身体上の安全は依然として脅かされることになるからです。しかし,神の霊感によることばはこう約束しています。『悪をおこなふものは断ち滅ぼされ エホバをまち望むものは〔地〕をつぐべければなり あしきものは久しからずしてうせん……されどへりくだる者は〔地〕をつ(がん)』。神がこの詩篇 37篇9-11節に述べられる規準を完全に適用することによってのみ,生き残る者たちは,この聖句の中でさらに約束されているとおり,『平安のゆたかなるを楽しむ』ことができます。神がこのことをどのようになさるかは,人間の悪のゆえに神がやむなく滅びをもたらした過去の場合に関する記録の中に見られます。
過去の生存の例
4-6 (イ)西暦70年のエルサレムの滅びが歴史の事実であることを何が示していますか。(ロ)その滅びが臨んだのはなぜですか。(ハ)イエス・キリストの弟子たちが逃れることを可能にしたものはなんですか。
4 ローマの街には,チツス門として知られる,一世紀以来の門が今日でも立っています。その門の内側の壁には,西暦70年のエルサレムの滅びののちそこの神殿からいろいろな物品を運び去る模様が描かれています。その滅びは歴史の事実です。それと同じく歴史の事実であるのは,それより何十年か前,イエス・キリストが,その滅びの到来とそれを生き残る方法とを予告されたことです。
5 ユダヤ人は神に背いていました。彼らは人間および人間の宗教上の伝統に従い,神またそのみことばに従っていませんでした。(マタイ 15:3-9)彼らは人間の政治支配者に信頼を託し,神の約束された王国に信仰を置いていませんでした。(ヨハネ 19:15)彼らは,神のみ子およびその使徒たちがふれ告げた真理を退け,それに敵して戦うことさえしました。キリスト・イエスは,そうした歩みの必然的な結果を警告されました。―マタイ 23:37,38; 24:1,2。
6 その結果はまさに聖書の予告どおりでした。西暦66年,ユダヤ人はローマに対して反逆しました。ローマ人はエルサレムに対して最初の攻撃をしかけたのち,おおかたの予期に反して撤退しました。これは,神のことばを信ずる者たちがみ子の言われたとおりに行動する合図,またその機会となりました。それは逃げること,つまり,その滅びに定められた都市およびユダヤ州の全域から出ることであり,そのために何をあとに残さねばならないとしてもそれを惜しんではなりませんでした。イエス・キリストの真実の弟子はまさにそのとおりに行動しました。ついで西暦70年,ローマ人は再び襲来し,しばらくの包囲ののちにエルサレムを滅ぼしました。目撃証人であるユダヤ人の歴史家ヨセファスは,飢きん,病気,内部抗争,またローマ人の剣のためにエルサレムで1,100,000の人が死んだと伝えています。しかし,積極的な行動を取り,従順な態度によって信仰を表明したそれらクリスチャンはその滅びを免れました。―ルカ 19:28,41-44; 21:20-24。マタイ 24:15-18。
7 バビロンがイスラエルの国を壊滅させた時,それを生き残るためには何が必要でしたか。
7 その七世紀ほど前にもこれと似た事態が起きていました。その時エホバ神は,ネブカデネザル王(二世)の率いるバビロニアの軍勢がイスラエルの国を壊滅させることを許されました。この滅びもまた歴史上のできごとです。それに先だつ幾年もの間,神はご自分の預言者たちを通してこの背教した民に警告を与え,彼らの歩みが災いに至ることを告げられました。『なんぢら翻へり翻へりてその悪しき道を離れよ……なんぢらなんぞ死ぬべけんや』ということが,彼らに対する神の呼びかけでした。(エゼキエル 33:11)大多数の者は伝えられる警告に信仰を持ちませんでした。エルサレムがバビロン軍の包囲下に置かれた時でさえ,それらのイスラエル人はなおも,滅びは来ないものと思っていました。しかし,それは予告されたとおりに起こりました。でも神は,従順な行動によって信仰を表明した人びとを生き永らえさせて,ご自分の約束を成就されました。―エレミヤ 39:15-18。ゼパニヤ[ソフォニア,バ] 2:2,3。
8-10 (イ)ノアの時代,エホバが世界的な滅びをもたらされたのはなぜですか。(ロ)ノアとその家族が命を救われたのはなぜですか。
8 人間の歴史をさらにさか上ると,生き残ることに関して神の備えられた最古のひな型を見ることができます。それは一国民的な滅びではなく,全世界的な滅びに関連したものですが,これもまた歴史の事実です。それはノアの時代,紀元前2370年から2369年にかけて起きた全地球的な洪水のさいのことです。その世界的な滅びの前に広く見られた状態について,歴史の記述はこう記しています。『エホバ 人の悪の地に大いなるとその心のおもひのすべて図るところのつねにただ悪しきのみなるを見たまへり,時に世神のまへに乱れて暴虐世に満ちたりき』― 創世記 6:5,11。
9 悪と暴虐が神の行動を余儀ないものとしました。地上ではただノアとその家族だけが信仰と従順を示しました。彼らに対するあわれみのゆえに,また地上に義と公正を存続させるために,エホバ神は『古代の不敬虔な人びとの世を罰することを差し控え』ませんでした。その結果として,「その時の世は,大洪水に覆われた時に滅びをこうむ」りました。―ペテロ第二 2:5; 3:5-7。
10 しかし,ノアとその家族は生き残りました。なぜですか。まず,ノアとその家族は「不敬虔な人びとの世」とともになってその不義に加わりませんでした。彼らは,飲食や結婚など普通の生活上の事がらにまとわれすぎて神のご意志や警告に鈍感になることはありませんでした。ノアは義に従いつつ「神とともに歩」みました。これは決して消極的な態度ではありません。ノアとその家族はただ悪行を慎しむことに努めたのではありません。彼らは積極的に行動しました。彼らは物事を,正しいことを行ないました。彼らは神の言われたことをほんとうに信じ,神の明細な指示どおり,長さ130メートルを超える,長持型,三階建の箱船を従順な態度で建造することによってそのことを示しました。ノアはまた「義の宣明者」であり,神の意図しておられた事がらについて大胆に語るとともに,義の道を唱道しました。―創世記 6:9,13-16。マタイ 24:37-39。ヘブライ 11:7。
11 これらの警告的な例に示されるとおり,きたらんとする世界の滅びを生き残るためには何をしなければなりませんか。
11 これら八人は信仰,また信仰の業のゆえに生き残りました。神のみ子およびその使徒たちは,この時の世界の滅びが預言的なものであり,今の「終わりの時」に生きる人びとに直面する事がらを表わすものとしていますから,明らかにわたしたちも,あらゆる点でノアの時代と同じく不敬虔な今の人類世界の誤った歩みから全く離れなければなりません。わたしたちも神のご意志に従って行動しなければなりません。自分の勝手な規準によって歩み,それによって生き残れると期待することはできません。神のことばはこう述べています。『人の自ら見て正しとするみちにして その終はりはつひに死にいたるみちとなるものあり』。(箴言[格言の書,バ] 16:25)また,ただ表面的な義の装いによっても生き残ることはできません。エホバ神は心の状態をご覧になるからです。―箴言 24:12。ルカ 16:15。
エホバが人の心に求めるもの
12,13 (イ)多くの人はどんなことのために状態の変化を求めていますか。(ロ)そのことが神の新秩序に生き残るための十分な保証とならないのはなぜですか。(ハ)生き残る者の中に入るため,現在の悪い状態に対するわたしたちの悲嘆はどんな動機によるものでなければなりませんか。
12 現在の状態に不満を感じている人は多くいます。彼らはそのことを,苦情の申し立て,抗議デモ,ストライキ,また国によっては暴力的な反抗運動などによって示します。高い税金や生活費の高騰に憤慨する人も多くいます。多くの土地の人びとは犯罪の脅威について嘆きます。不安の気持ちが人びとに変化を求めさせています。しかしそれは神の新秩序に生き残るための十分な保証となりますか。いいえそうではありません。なぜですか。
13 こうした状態に不満をいだいてはいても,依然利己的である場合があるからです。自分に危害が及ばないかぎり,ある種の不正や不道徳を是認している場合さえあります。しかし,人が聖書の知識を得ると,こうした悪い状態がこの世界の持つほんとうの病気の外面的な表われにすぎないことを悟ります。そして,こうした兆候の背後に,正しい原則,さらには神そのものに対する敬意の欠如があり,エホバ神の意志を知ってそれを行ない,エホバの義の規準を守ろうとする態度の欠けていることを認めます。心の正しい人びとは,ある種の物質上のものや社会生活上の権利を得ていないこと,また犯罪や汚染による危険,戦争の脅威などに関しておもに憤慨したり悲嘆したりするのではなく,むしろ,人類がその腐敗した歩みによって神の名を傷つけているのを見て,そのことにこそ悲嘆を感じます。そして,単に自分たちだけでなく,他の人びとがその結果として苦しみに遭っていることを悲嘆します。
14 バビロンによるエルサレムの滅びの時,生き残るための「しるし」を付けられたのはどんな人たちですか。
14 きたらんとする世界の滅びを生き残る者の中に入るために,わたしたちは,神がバビロン軍によるエルサレムの壊滅を許したさい神からその命を救われた人びとのようにならなければなりません。それら,生き残るためのしるしを付けられた人びとは,その都市の中で行なわれていた「もろもろの憎むべき事のために嘆きかなし」んでいたと述べられています。(エゼキエル 9:4)そこでの状態はきわめて悪いものでした。貧しい人びとは虐げられ,同国人のため不当にも奴隷にされていた者たちさえいました。(エレミヤ 34:13-16)預言者ホセアはそれ以前,北のイスラエル王国とその首都サマリアに関し,『ただのろひ 偽り 人殺し 盗み……のみにして 互ひに相襲ひ 血血につづき流る』と記しましたが,エルサレムとユダ王国はそれよりさらに悪い状態になっていました。(ホセア 4:2。エゼキエル 16:2,51)そうした不義の状態,およびそれに示される神へのはなはだしい不敬のゆえに心に悲嘆を感じていた人びとだけが生き残るための「しるし」を付けられました。―エゼキエル 9:2,4-6。
15 ある人びとが,きたらんとする世界の滅びを生き残るための変化を差し控えるのはなぜですか。
15 今日,なんの恐れもない,豊かで快適な状態のもとでの平和な生活を願う人は多くいます。しかしそうした人びとは,神のことばの述べることを学び,またそれが定める正しい生き方に従って自分の生活を変えることは望んでいません。実際のところそうした人びとは,義に対する愛を持たず,仲間の人間に対する誠実な関心をいだいていません。神の新秩序は『義が宿る』新しい地上社会を生み出すものですから,それに関する良いたよりはただ義を愛する人にのみ訴えるものを持ちます。他の人びとは,自分がそれによって罪に定められるのを感じます。―ペテロ第二 3:13。コリント第二 2:14-17。
あなたが今できること
16-18 (イ)人はどのようにして,きたらんとする世界の滅びを生き残るためのしるしを付けられた者となりますか。(ロ)したがって,まず偽りの崇拝に関し,ついで真の崇拝に関してどんな行動を取らねばなりませんか。
16 エホバ神は,ご自分の義の支配下で生活することを誠実に願う者だけを救います。それを望まないと自ら言い表わす人びとを,ご自分の約束された新秩序に強いて生活させることはされません。しかし,そうした人びとが願わないからといって,神は義を愛する人びとへの祝福を控えるわけではありません。それゆえ,神がきたらんとする世界の滅びを生き永らえさせるのは,今,神の支配をほんとうに受け入れていることを証明する人びとです。そうした人びとは,「新しい人格」を着け,自分の生活を神の道に合わせ,神のみ子の,献身してバプテスマを受けた真実の弟子である証拠を示すことによって,生き残るための『しるし』を付けられることになります。彼らは神のご意志を行なうことに積極的に加わります。こうして彼らは,死ではなく,『命』と祝福を『選び』ます。(コロサイ 3:5-10。申命記[第二法の書,バ] 30:15,16,19)あなたはこのようにして命を選びますか。
17 神に対する忠節と柔順が求められます。そしてこれには崇拝の問題も含まれます。キリスト・イエスは言われました,「真の崇拝者が霊と真理をもって父を崇拝する時が来るのであり,それは今なのです。実際,父は,ご自分をそのように崇拝する者たちを求めておられます」。(ヨハネ 4:23)それゆえ,きたらんとする世界の滅びを生き残るためには,偽りの崇拝をすべて捨て,真の崇拝に熱心に携わらねばなりません。
18 生存に至るこうした道を取る人には限りない祝福が待っています。神のことばに信仰を置き,積極的な行動によってその信仰を実証する人たちのために神が約束しておられる壮大な事がらの幾らかについて考えてください。
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全地球的な平和と安全 ― 信頼できる希望真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第9章
全地球的な平和と安全 ― 信頼できる希望
1,2 聖書に予告されたどんな状態はこの地球をきわめて快適な所としますか。
ほんとうに平和で安全な状態が全地に行き渡ったなら,この地球はきわめで快適で興味深い所となります。今日の状態はそれと掛け離れていますが,聖書は,地球がやがて人類のすばらしい住まい,人間家族が生活を存分に楽しめる場所となることを予告しています。
2 実際にはどのような祝福が約束されているのですか。それが実現することをどのように確信できますか。
確信するためのたしかな根拠
3,4 (イ)宇宙を支配する基本的な法則が信頼できるものであることからわたしたちは何を学べますか。(ロ)そうした法則を立てたのはだれですか。したがって,ほかの何にも信頼を託して当然ですか。
3 宇宙にはそれを支配する基本的な法則があります。わたしたちはその多くをあたりまえのことのように考えています。日の出,日没,月の満ち欠け,季節の移り変わりなどは,律動的に続き,人間の安定した生活に役だっています。人間は暦を作り,何年も先の活動を計画します。太陽,月,惑星などの運動が信頼できるものであることを知っているからです。わたしたちはこのことから何を学べますか。
4 そうした法則を立てたかたは信頼できます。その言われること,行なわれることは頼ることのできるものです。義の新秩序に関する聖書の約束は,天と地の創造者としてのこのかたのみ名にかけてなされています。(イザヤ 45:18,19)人の日常生活は,市場に食物を売りに来てくれる人,郵便を配達してくれる人,身近な友人など,他の人びとをある程度信頼することによって営まれています。では,神およびその約束の成就に対しては,それをはるかに上回る確信をいだいて当然ではありませんか。―イザヤ 55:10,11。
5 神の約束には何か利己的な動機があり,そのゆえにわたしたちはその実現を疑うべきなのですか。
5 人間は利己的な理由のために信頼を裏切る場合が少なくありません。しかし,聖書に含まれる神の約束すべては明らかにわたしたちの益のためであり,なんら神の利己心はありません。神はわたしたちからの何かを必要とされるわけではありません。また,わたしたちが神のことばを信じることが,だれか人間の利己的な益に資するのでもありません。しかし神は,神に対する愛と神の道に対する認識のゆえに信仰を示す人びとについては確かに喜びを持たれます。―詩篇 50:10-12,14,15。
6 聖書はわたしたちにどんな信仰を得させますか。
6 そしてまた,聖書はわたしたちの理性に訴えています。盲目的な信仰や軽信を要求しているのではありません。事実,聖書は真の信仰を,「望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証」であると定義しています。(ヘブライ 11:1)聖書の中で,神は信仰のための確かな根拠を与えておられます。その根拠は,わたしたちが神のことばの知識の面で成長し,それがわたしたち自身の生活において,また預言の成就という点でいかに真実なものであるかを知るにつれ,いよいよ明白になります。―詩篇 34:8-10[34:9-11,バ]。
7 将来の祝福に関する聖書の約束を調べるさい,それを信じることに何が伴うものと考えてはなりませんか。
7 将来の祝福に関する聖書の約束は,人間が提供するいかなるものをもはるかに越えています。しかしそれらの約束は,人間経験すべてに反する事がらを信じるように求めるものではありません。またそれは,人間の正常な願いに逆らうものでもありません。それら壮大な祝福の幾つかについて調べ,それがいかに真実なものであるかを知ってください。
地球は庭園のような住まいとなる
8,9 (イ)「パラダイス」ということばはどのような意味で理解すべきですか。(ロ)そのような場所はかつて地上に存在しましたか。(ハ)パラダイスを全地に広げることが神の目的であることを何が示していますか。
8 「パラダイス」ということばを聞くと,地上にはないもの,さらには,非現実的なもの,といった感じを持つ人が多くいます。しかし,「パラダイス」ということばは古代の類似のことばから来ています。(ヘブライ語,パルデス; ペルシャ語,パイリダエザ; ギリシャ語,パラデイソス)これらは,地上に実際に存在したものを表わすために使われたことばです。基本的に言ってこれらのことばはみな,『美しい公園』,もしくは『公園のような庭園』という意味を持っています。古代でもそうでしたが,今日でもそのような場所は数多くあり,そのあるものは非常に大きな面積を持っています。そして人間は,そうした美しい場所に対する自然のあこがれをいだいています。聖書は,惑星であるこの地球全体がそうした公園のような庭園に,つまり一つのパラダイスになる日の来ることを約束しています。
9 最初の人間夫婦を創造した時,神は彼らの住まいとして『エデンの園』をお与えになりました。この名称には,『楽しみのパラダイス』という意味があります。しかし,パラダイスはその一つの所に限定されるはずのものではありませんでした。聖書はこう述べています。『神彼らを祝し 神彼らに言ひたまひけるは 生めよ殖えよ地に満てよ これを従はせよ』。(創世記 1:28; 2:8,9)これは,パラダイスの境界を地の果てにまで広げることを意味していました。アダムとエバの不従順な歩みは,神の言明されたこの目的を終わらせたのではありません。キリスト・イエスは,地球をパラダイスとすることがなお神の目的であることを示されました。イエスは,ご自分のかたわらで死に,イエスが神の子であるとの信仰を示したひとりの人に対して,そのような地上のパラダイスで生活する機会を約束されたのです。(ルカ 23:39-43)これはどのようにしてもたらされますか。
10 神は啓示 11章18節で,パラダイスに対するどんな障害を除き去ることを約束しておられますか。
10 神は,地を破滅させている者たちをきたるべき「大患難」のさい破滅に至らせることによって,そのようなパラダイスの障害となるものすべてを一掃することを約束しておられます。(啓示 11:18)こうして神は,人間の政府が決してなしえない事がらを行なわれます。神は,商業主義の貪欲さによって地を汚染させ荒廃させる利己的な者たちすべて,権力欲に駆られて破壊的な戦争を行なう者すべて,また,神が備えられた豊かな賜物に対する感謝と敬意を持たないで地を誤用する者すべてを除き去ります。
11 (イ)地上にパラダイスを復興することが人間のこれまでの経験に反するものではないことを,どんな歴史上のできごとが示していますか。(ロ)これは約束されたどんな祝福に対するわたしたちの信仰を強めますか。
11 その時,全地は美しく咲き輝きます。大気と水と土壌には清さと新鮮さがみなぎります。こうしたパラダイスの復興は,信ずることの及ばないもの,人間の経験に反したものではありません。幾世紀も前,イスラエル国民がバビロンでの捕われから出て来た時,エホバ神は彼らをその故国に戻らせました。彼らがそこへ帰ってみると,土地は荒涼とした荒れ地となっていました。しかし,彼らとその業に対する神の祝福のゆえに,土地はまもなく変化し,近隣の諸民が,『ここはエデンの園のようになった!』と叫ぶほどになりました。いばらやいらくさのやぶであった所が,今では松やもちの木の茂るところとなりました。土地は産出豊かな所となり,飢えや飢きんの心配を払い去りました。(エゼキエル 36:29,30,35。イザヤ 35:1,2; 55:13)神は,この時パレスチナの小さな地域で行なわれた事がらを,今度は全地球的な規模で行ない,生きている人びとすべてが神の備えたパラダイスでの生活を楽しめるようにすることを約束しておられます。―詩篇 67:6,7[67:7,8,バ]。イザヤ 25:6。
貧困や経済上の隷属の終わり
12 生活に真の喜びを持つためには経済や勤労に関してどんな状態が除去されねばなりませんか。
12 周知のとおり,貧困や経済体制による束縛は世界じゅうに見られます。神の新秩序においてこうした状態が除去されず,幾百幾千万という人がただ暮らしを立てるための労働を続け,人間が巨大な機械の歯車となって単調な仕事を強いられるのであれば,そこでの生活に真の喜びはありえません。
13-15 (イ)こうした点における神のご意志を示す歴史上の例をどこに見いだすことができますか。(ロ)その取り決めは各個人や家族の安全および生活上の喜びという点でどのように役だちましたか。
13 こうした点における人間に対する神のご意志は,神が古代イスラエルに対してなされた物事の取り決めの中に見ることができます。そこでは,それぞれの家族が世襲制の土地を所有しました。(士師記[判事の書,バ] 2:6)これは人に売ることができ,また負債を負った場合には自分を売って隷属の身となることもできましたが,エホバはなお,広大な土地所有や長期の奴隷状態を防ぐ備えを設けられました。どのようにですか。
14 それは,神がご自分の民に与えた律法中の規定によりました。隷属の身となってから七年めは『釈放の年』であり,束縛されていたイスラエル人はみな自由にされねばなりませんでした。また,五十年に一度,国民全体のために「ヨベル」の年がありました。これは『国じゅうのすべての民に自由をふれ示す』年でした。(申命記[第二法の書,バ] 15:1-9。レビ記 25:10)その年が来ると,売却された世襲制の資産はすべて元の所有者に返され,隷属の身にあった者はみな,七年が経過していなくても釈放されました。それは家族が再びともになる喜びの時であり,また経済的な面での“再出発”の時となりました。こうして,どんな土地も永久的に売却することはできず,それは事実上一種の“賃貸借”であり,長くてもヨベルの年には終了するものでした。―レビ記 25:8-24。
15 このすべては,国家の経済上の安定,また個々の家族の安全と平和に大きく寄与するものとなりました。この取り決めが堅く守られるとき,一つの国が二つの階級,つまり,きわめて富裕な人びとと極端に貧しい人びとに分かれてしまうという,今日多くの国に見られる悲しむべき状態に陥ることはありませんでした。こうして各個人が保護されたことは国家の基盤を強めるものとなりました。だれも,悪い経済状態のために打ちひしがれ,不遇な境遇を強いられることはなかったからです。エホバに知恵を仰ぎ求めたソロモン王の治世についてこう記されています。『ユダとイスラエルはダンよりベエルシバに至るまで安らかにおのおのそのぶどうの樹の下といちじくの樹の下に住めり』。(列王紀上 4:25)今日,自分を押え込む経済上の体制のとりことなり,ひとりの人もしくは少数の人びとの欲望への奉仕を強いられて,自分の才能や創意を十分に活用できない人が多くいます。神の律法のもとにおいて,勤勉な人びとは,自分の能力をすべての人の福祉と喜びのため十分に活用するよう助けられました。わたしたちはここに,神の新秩序での命を得る人びとが持つ個人の自由,また各人の人格上の尊厳と生きがいのほどを小規模ながら見ることができます。
16 生活条件や人の経済事情に関し,神の王国はその臣民となるわたしたちすべてに何を備えますか。
16 ミカ書 4章3,4節の預言が全地にわたって大きな成就を見ます。神の義の支配下で生活する,平和を愛する人びとに関して,『みなそのぶどうの樹の下に座し そのいちじくの樹の下に居らん これをおそれしむる者なかるべし 万軍のエホバの口これを言ふ』という預言が成就します。神の王国の臣民の中に,ごみごみしたスラム街や超満員の共同住宅で生活する人はひとりもいません。彼らはそれぞれ自分の土地と住まいを持ちます。(イザヤ 65:21,22)王キリスト・イエスはずっと以前,『柔和な者が地を受け継ぐ』ことを約束されました。そして,これがそのとおりになるように見届ける,「天と地におけるすべての権威」を持っておられます。―マタイ 5:5; 28:18。
永続的な健康と生命
17-19 (イ)健康や長寿が人類の自然な願いであることを何が示していますか。(ロ)人間の生命や草木に関するどんな事実を考えると,人間の寿命の短いことが不思議に思えますか。(ハ)人間の頭脳に関するどんな事がらを見ると,人間が永久に生きるように創造されたと信じるのはしごくもっともなことと言えますか。
17 しかし,病気,老化,そして死が前途を暗くしているかぎり,こうした状態のどれも,あなたの生活をほんとうに平和で安全なものとすることはできません。こうしたものからの解放を願うのは,道理に外れたこと,人間の経験に反することですか。それを欲するのは決して人間の本性に反することではないはずです。それを達成する道を探し求めて幾多の人が生涯を費やし,また多額の資金を投じてきたのです。
18 永続的な健康と生命を願うのは道理に外れたことではありません。むしろ,人間が価値ある仕事を行なうだけの知識と経験と能力のりっぱな蓄えをようやく持ちはじめたその年齢で死んでしまうことこそ,道理に合わないことではありませんか。その一方では,幾千年も生きる樹木があります。理知を賦与された人間が,意識も理知も持たない草木の寿命に比べ,そのほんの一部しか生きられないというのはどうしてですか。人間ははるかに長く生きて当然ではありませんか。
19 「サイエンス・イヤー」1967年版は,老化の問題と取り組む専門の研究者にとっても,「老化の過程はなおおおむねなぞである」と述べています。32 科学者を当惑させる別の事実は,人間の頭脳が事実上無限の情報を取り入れられるように設計されている,と考えられることです。生化学者アイザック・アシモフが指摘するとおり,頭脳が持つ「整理装置」は「人間が普通に学習し,記憶する事がらをどれだけでも完全に収録でき」,「その十億倍の情報を収録することもでき」ます。33 つまり,あなたの頭脳は,七十年か八十年の生涯でどれだけのことを詰め込んでもそれをすべて収めることができるだけでなく,その十億倍の使用にも堪えるという意味です。人間がこれほどに知識欲を持ち,物事を学んで成し遂げようという意欲を有しているのも不思議ではありません。ところが人間は,寿命の短さのゆえにそれを阻まれています。人間がその頭脳にこの途方もない能力を潜めながら,そのほんのわずかしか使わないというのはもっともなことですか。聖書の示すとおり,エホバ神は人間が地上で永久に生きるように設計され,くすしくもそれに見合う頭脳を与えられたということのほうが,はるかに理屈にかなっていませんか。
20 聖書は,死そのものを含む罪の影響に関し神が人類のためにどんな約束をしておられると述べていますか。
20 聖書は,人間が当初永久に生きる機会を持っていたこと,しかし反逆の結果それを失ったことを示しています。そして,「ひとりの人[アダム]を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」ことを述べています。(ローマ 5:12)人間の経験はこの記述と一致しています。罪と死は人類世界全体に及んでいるからです。しかし聖書はまた,復興したパラダイスにおいては「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」という神の約束をも含んでいます。(啓示 21:3,4; 7:16,17)聖書は,罪の影響から全く解放された永遠の命こそ,神が人類に意図しておられるものであることを明瞭に述べています。(ローマ 5:21; 6:23)さらに聖書は,神の新秩序における祝福が,過去に死んだ幾百幾千万の人びとにも及ぶことを約束しています。どのようにですか。死からの復活,そうです,人類に共通の墓を空にすることによってです。この点に関し,イエス・キリストは確信をこめてこう予告されました。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです」― ヨハネ 5:28,29。
21,22 完全な健康を取り戻すという見込みはなぜ決して望み難いものではありませんか。
21 現代の医学者は“奇跡の薬”を生み出し,何世紀か前ならとても信じられなかったような目ざましい手術に成功しています。では,人間の創造者が,正しい心を持つ人びとに活気みなぎる健康を取り戻させるため,病院・手術室・人工臓器などは使わずに,これよりはるかに壮大で,いっそう驚嘆すべき事がらを行ない,老化の過程をさえ逆行させうるということを疑うべきでしょうか。神は,そのおもんぱかりのゆえに,こうした祝福が決して望み難いものではないという証拠をわたしたちのために備えておられます。
22 神は地上にいたみ子に力を与えて強力ないやしの業を行なわせました。それらの業は,肉体上のどんな弱さ,欠陥,病気も,神のいやしの力の及ばないものはないことをわたしたちに保証します。体じゅうらい病にかかっていたひとりの男がイエスにいやしを請うた時,イエスは深い同情をもってその男に触れ,「清くなりなさい」と言われました。すると,歴史の記録が述べるとおり,「彼のらい病はすぐに清められた」のです。(マタイ 8:2,3)イエスはこれらの事を,公衆の目から隠れた,どこか離れた場所で行なわれたのではありません。歴史家マタイ・レビはこう伝えています。「大群衆が,足なえ,不具者,盲人,おし,その他さまざまの人を連れて彼に近づき,それらの人を彼の足もとに投げ出さんばかりにして置いた。そしてイエスは彼らを治された。そのため群衆は……非常に驚き,イスラエルの神の栄光をたたえた」。(マタイ 15:30,31)一例としてヨハネ 9章1-21節をご自身で読み,そうしたいやしに関する歴史の記録がいかに真実のこもった,生き生きしたものであるかを見てください。それらのできごとには,医師ルカをはじめ,多くの証人たちの証言が備わっています。―マルコ 7:32-37。ルカ 5:12-14,17-25; 6:6-11。コロサイ 4:14。
23,24 死者が神の王国のもとでよみがえりうる,また実際によみがえると信じるのはなぜ道理に外れたことではありませんか。
23 同様の理由によって,死人の「復活がある」という聖書の明確な約束についても,それを信じられないものとする必要はありません。(使徒 24:15)人間は今日,人の声,姿,行動などを小さなフィルムやビデオテープに記録し,その人が死んで何年もたってからそれらを再生することができます。人間を創造したかた,それゆえに人間の原子的・分子的な構造を厳密に知っておられるかたは,それをはるかに超越した事がらをなしうるのではありませんか。人間のこしらえた計算機が文字どおり幾十億のデータをたくわえ,それらを統合することができるのであれば,神は,各人の個性を厳密に記憶し,それをよみがえらせることができるのではありませんか。―ヨブ 14:13。
24 再びエホバ神は,こうした壮大な希望に対するわたしたちの信仰を強めるものを与えてくださいました。エホバは,地に対するご自分の義の支配の時に大々的に行なう事がらをあらかじめ小規模に表示するため,そうした力をみ子にお与えになりました。キリスト・イエスは死んだ人びとを復活させ,人びとの注視の中でそれを行なわれたことも幾度もあります。イエスはエルサレムの近くでラザロという人を復活させましたが,それは死後かなりたってからであり,その体はすでに腐敗しはじめていました。こうして,復活の希望にはしっかりした根拠を見ることができます。―ルカ 7:11-17; 8:40-42,49-56。ヨハネ 11:38-44。
地球の人口収容能力
25,26 死者が復活する時,すべての人を生活させる場所がどこにありますか。
25 惑星であるこの地球は,死者の復活によってもたらされる大きな人口に快い住み場所を提供することができますか。1960年,アメリカ化学協会の会長であったアルバート・L・エルダー博士はこう述べました。
「世界人口は,人類史の5,000年以上をかけて,ようやく1820年ごろに11億に達した。しかし次の一世紀間にそれは倍になった。今日,世界人口は28億であり,1960年代の初めには30億に達するはずである[実際そうなった]。こうして,わずか50年足らずのうちに,最初の50世紀間に匹敵する人口の増加を見たことになる」。34
26 したがって,今日生きている人は,これまでに地上に生きた人びと全体のかなりの部分を占めています。事実,1966年には,「これまでに生きた人びと全体の25パーセントが今日生きていると推定される」と伝えられました。35 これに基づいて考えると,人類史上の全人口合計はおよそ14,000,000,000人と推定されます。地球の陸地面積は15,000,000,000ヘクタールです。これはひとりに1ヘクタール以上ということになります。そこには,食糧生産のための場所だけでなく,森や山もあり,パラダイスの地が過度に込み合うことはないはずです。そしてまた聖書は,今日生きている人がみな生き残って新秩序で生活するわけではないことを示しており,その点も忘れてはなりません。
27 地球はそうした人びとすべてのための十分な食糧を生産しえますか。
27 しかし,地球はそれほど大ぜいの人のための十分な食糧を生産できるでしょうか。科学者は今日,現在の状態のままでさえそれが不可能ではないとしています。タイム誌(1970年7月13日号)は,「世界の農業には1,570億の人口を養うだけの潜在力がある」という,国連食糧農業機関の見解を伝えています。これは,これまでに地上に生きたと推定される総人口をはるかに上回っています。
28 人びとが永久に生きても,地球がやがて人口過剰になる危険はなぜないのですか。
28 最初の人間夫婦に当初言明された神の目的は,彼らが『地を満たしてこれを従わせ』,エデンの境界を地の最果てにまで広げることでした。わたしたちはこの点に注意すべきです。(創世記 1:28)これは,地球を人びとであふれさせてしまうことではなく,ここちよい程度にまで,つまり,『従えられた』地球全体を当初の人間の住まいと同じ公園のような所とするという目的から外れない程度にまで満たすことを意味しています。したがって,神のこの命令は,神の定めの時,また神の方法のもとに人類の生殖作用がやがてやむことを示しています。人間に生殖能力を賦与された神にとって,これはなんら大きな問題をきたすものではありません。
永続的な幸福のための確かな土台
29,30 (イ)他の人びととの関係は人の幸福にどのように影響しますか。(ロ)神の新秩序でとこしえの命を得るのは仲間の人間の平和と安全に真に寄与する人びとだけですが,そのことは何からわかりますか。
29 美しい所に住み,物質面で豊かであり,興味深い仕事に携わり,体も比較的に健康であったとしても,それだけで永続的な幸福が保証されるわけではありません。そうしたものを持ちながらなお幸福でない人が今日多くいます。なぜですか。周囲の人びととの関係のため,つまり利己的であったり,闘争的であったり,偽善的であったり,憎しみをいだいていたりする人びとのためです。神の新秩序における永続的な幸福は,全地にわたって人びとの態度が変化することによるところが少なくありません。神に対するその愛と敬意,また神の意図しておられる事がらを成し遂げようとする態度が霊的な繁栄をもたらします。それがないなら,物質的な繁栄は無意味であり,満足感のない,むなしいものとなります。
30 物質上のものを持つこと以上の楽しみは,親切で,謙遜で,友好的な人びと,あなたがほんとうに愛しかつ信頼でき,あなたについても同じように感じている人びととともに暮らすことから得られます。(詩篇 133:1。箴言[格言の書,バ] 15:17)神への愛こそ隣人に対する真実の愛を保証するものであり,それが,神の義の新秩序における生活をきわめて快いものにします。神からとこしえの命の恵みを受ける人はみな,神と仲間の人間に対する愛を実証した人びとです。そうした人びとを自分の隣人,友人,仕事の仲間とするなら,あなたは真の平和と安全,また永続的な幸福を楽しむことができるでしょう。―ヨハネ第一 4:7,8,20,21。
31 神の新秩序での命をほんとうに願うなら,わたしたちは今何をすべきですか。
31 あなたの前にはこうした壮大な見込みが開かれているのですから,それをほんとうにとらえるための要求を学び知ることこそ実際的な知恵の道です。そして今こそ,きたるべき「大患難」を生き残る人びとのため神がみことばの中に示された義の要求に従って自分の生活を整えるべき時です。―ペテロ第二 3:11-13。
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あなたは自分の生活においてすすんで真理に答え応じていますか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第10章
あなたは自分の生活においてすすんで真理に答え応じていますか
1,2 (イ)真理はわたしたちにどのような益をもたらしますか。(ロ)あなた自身は真の平和と安全のほんとうの源として何を信じますか。
真理はきわめて願わしいものです。それに従って行動すれば,それはあなたを危害や損失から守り,あなたの幸福・安全・福祉に資するものとなります。このことは,今の世代の前途に何があるかに関する真理について特に当てはまります。
2 この本の中ですでに取り上げた事実に照らして考えるとき,あなたは,人間が真の平和と安全をもたらしえないことに同意されるでしょう。また,聖書の述べること,すなわち,ただ神だけが人類の直面している問題を解決でき,み子に託した王国によってそれを実際に解決してくださるということ,これが真理であることを悟っておられるでしょう。そうであれば,今あなたが真理であると知っておられる事がらにしたがって行動するのが賢いことではありませんか。(ヤコブ 1:22)それはあなたにとって何を意味しますか。
3 生き残って神の新秩序に入れていただくため自分の生活で経なければならない変化はどれほど重大なものですか。
3 聖書は,生き残って神の義の新秩序に入る人びとが満たすべき規準を定めています。その規準は,神のしもべになろうとするすべての人の生活に変化を求めます。確かに,人間の観点からすれば,すべての人が誤った生活をしてきたわけではないかもしれません。しかし人が経なければならない変化は決して小さなものではありません。それは生活に対する全く新しい見方を伴うものです。それゆえローマ 12章2節はこう述べています。「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」。
4 ほんとうに『真理の道を歩む』ためには,何を正邪を判断する基準としなければなりませんか。
4 そうした変革は,わたしたちが正邪を判断する基準にも影響を与えます。過去において,わたしたちは仲間の人間の不完全な見解に頼り,あるいは自分で行動の規準を定めようとしてきたかもしれません。しかし今わたしたちは,アダムとエバが自分の支配者として神を退けて災いを招いたのは,自分で善悪の規準を定めようとしたためであることを知っています。神の是認を願うなら,わたしたちは神に導きを仰ぎ,正邪の判断を聖書に記されている事がらに基づいて行なわねばなりません。神のご意志に服することを選ぶなら,誤った道に導かれることは決してありません。詩篇 119篇151節(新)は,『神のおきてはすべて真理である』と述べています。それゆえ,それに従ってゆくなら,『真理の道を歩む』ことになります。(詩篇 86:11,新)それこそあなたの望んでおられることではありませんか。
助言と懲らしめの必要性
5 (イ)自分の生活を変化させようと思うなら,自分自身についてどんな真理をすすんで認めなければなりませんか。(ロ)人は何が妨げとなって誤りを認めない場合が多くありますか。それはどのような結果になりますか。
5 自分の生活を変化させようと思うなら,すすんで誤りを認め,改善の必要性を認めなければなりません。わたしたちはみな過ちを犯す者であり,それゆえに矯正を必要とする者ではありませんか。「人は罪を犯さざる者なければ」と聖書は述べています。(列王紀上 8:46)ところが,自分の誤りをすすんで認めようとしない人が多くいます。なぜでしょうか。誇りの気持ちがあるためです。そうした人びとは,自分の誤りを謙遜に認めないで他の人びとを非難することも少なくありません。それはただ問題を大きくするにすぎません。
6 わたしたちはどんな源に助言と懲らしめを求めるべきですか。なぜ?
6 同じように大きな問題となるのは,わたしたちが不完全であるため,取るべき正しい道を必ずしも常に見分けることができない,という点です。わたしたちは,誤った道を取っていながら,それで全く正しいのだと思ってしまうことさえあります。(箴言[格言の書,バ] 16:25)したがってわたしたちは,自分自身と仲間の人間の最大の益となるようなしかたで賢明に行動するために,人間より高い源からの助言と懲らしめが必要です。この懲らしめの源はエホバ神です。それゆえ,箴言 3章11節は,『わが子よ なんじエホバの懲らしめをかろんずるなかれ』と助言しています。
7 (イ)エホバからの懲らしめはわたしたちにどのようにもたらされますか。(ロ)そうした懲らしめを受け入れてほんとうに自分に当てはめるなら,自分について何を示すことになりますか。
7 エホバはこの懲らしめをどのように備えられますか。そのみことば聖書を通して与えてくださいます。したがって,自分で聖書を読み,あるいはその述べる事がらを仲間の信者から指摘されて,自分が何かの点で神の要求にかなっていないことを知るなら,わたしたちは神からの懲らしめを受けていることになります。その懲らしめを正しいものとして受け入れ,それをほんとうに自分に当てはめることによって,わたしたちは自分が真理に答え応じていることを実証できます。わたしたちは,人間に指示を与える神の権利を認め,こうして,自分が神の新秩序に入れていただくにふさわしい者であることを示します。わたしたちの生命は,神からの懲らしめに注意を払うかどうかにかかっているのです。―箴言 4:13。
8 (イ)懲らしめを受け入れているように表面を繕いながら真に自分の態度を変えないなら実際には自分を害する結果になることを述べなさい。(ロ)どこにいてもエホバが見ておられるということはわたしたちにとってなぜ慰めとなりますか。
8 言うまでもなく,神の懲らしめから益を受けようと思うなら,自分に対して正直でなければなりません。他の人が見守っているときには表面を繕い,人の見ていないところでは自分の元の態度に戻るというのであれば,それはわたしたちにとって益になりません。偽善者のようにふるまうなら,自分の誤った道を改めるのには役だちません。それはただ,わたしたちの良心を鈍らせるにすぎないでしょう。そしてまた,人びとがわたしたちをほめるとしても,創造者を欺くことはできません。わたしたちの行なうことが創造者の目を逃れることはありません。箴言 15章3節はこう述べています。『エホバの目はいづくにもありて悪しき人と善き人とをかんがみる』。エホバ神が見守っておられるということ,それを知るわたしたちは悪行を慎むべきです。それと同時に,エホバが『善き人』を好意をもってご覧になり,その試練のさいに支えてくださるという保証は,わたしたちにとって慰めとなります。神がこうして恵みを差し伸べられる『善き人』とはどのような人たちですか。
『おのおのたがひに真実を言ふべし』
9 (イ)真実を話すという点で,この世においてはどんなことがあたりまえとして受け入れられていますか。なぜ?(ロ)したがって,『自分をこの事物の体制に合わせる』のをやめるためには,どんな変化が求められますか。
9 神のことばに堅く従うと唱えてはいなくても,今日のたいていの人びとは,自分が不正直であるとは考えません。しかし,どれほどの人が終始一貫して真実を語っているでしょうか。むしろ,できるだけ真実を隠し,あるいは自分の目的を進めるのに役だつと思える事がらだけを話す人が多いというのが実情ではないでしょうか。これは世の中であたりまえとみなされていても,それによってそれが正しいことになるわけではないはずです。神から離れた人類世界は「邪悪な者の配下に」あります。その「邪悪な者」悪魔サタンは「偽りの父」です。偽りを語ることはサタンから始まりました。(ヨハネ第一 5:19。ヨハネ 8:44)したがって,『自分をこの事物の体制に合わせる』のをやめるため,常に真実を語るという点で大きな変化をしなければならないとしても決して驚いてはなりません。
10 不正直さから来る悪循環は真の平和と安全をどのように損いますか。
10 正直であろうとすることには良い理由があります。不正直さほど平和と安全を損うものはありません。これはいつでもどこでも,つまり,家庭でも,仕事や商取引きにおいても,また娯楽や社交的な関係についても言えます。人が自分のことばを守らず,約束を破り,だましたり欺いたりするなら,それによって益を受ける人はだれもいません。不正直な行為の犠牲となる人は失望を感じ,苦々しさや怒りを感じる場合も多くあります。精神的また感情的な苦しみに加えて,不正直さが身体的な損傷,さらには死を引き起こすことさえあります。貧弱な作業,粗悪な材料,そして欺きの主張が重大な事故の原因となった場合などはその一例です。自分の不正直な行為によって益を得ていると思う人は,他の人の不正直な行為によって損失をこうむってもいるのです。従業員や顧客の盗みの行為の結果として,自分も商品やサービスに対して余分の代価を払わされるからです。こうして不正直さは悪循環をもたらします。他の人を利用しようとする人が増えるにつれ,ざせつ,失望,暴力,傷害,死などの事例は多くなります。
11 エホバは不正直さや偽りを語ることをどのようにご覧になりますか。
11 そうした悪い実のゆえに,エホバ神が不正直さや偽りを是認されることは決してありませんでした。「エホバの憎みたまふもの」の中に,偽りを語ること,偽証,ごまかしの分銅,虚偽のはかりがあります。(箴言 6:16-19; 20:23)習慣的に偽りを語る人は,神がご自分を愛する人びとのために備えておられる祝福に少しもあずかることができません。(啓示 21:8)これこそ,わたしたちが義の神に当然期待することではありませんか。欺瞞を弄し,隣人の犠牲において利得を図ろうとするような者を神が引き続き容認されるとすれば,人はその新秩序でどうして安心した気持ちをいだけるでしょうか。
12,13 (イ)真実を語ることについて聖書そのものはなんと述べていますか。(ロ)わたしたちが正直であるかどうかはエホバの証し人として仕えることとどのような関係がありますか。
12 したがって,『おのおのたがひに真実を言ふべし』という聖書の命令は決して軽々しいものではありません。(ゼカリヤ[ザカリア,バ] 8:16。エフェソス 4:25)約束や合意事項について言うなら,わたしたちの「はい」は,はい,を,「いいえ」は,いいえ,を意味するものでなければなりません。(ヤコブ 5:12)わたしたちのことばを信頼できるもの,信じることのできるものとするためにわざわざ誓いを必要とするようであってはなりません。「真実の神エホバ」を代表する者になろうと思うなら,わたしたちは終始一貫真実を語らなければなりません。(詩篇 31:5,新[31:7,バ])真実を語らない人は,神からも仲間の人間からも尊ばれず,神の証し人として神を代表することもできません。詩篇作者は語りました,『神あしきものに言ひたまはく なんぢは教へをにくみ わがことばをその後ろにすつるものなるに 何のかかはりありてわが律法をのべ わが契約を口にとりしや なんぢその口を悪にわたす なんぢの舌はたばかりをくみなせり』― 詩篇 50:16,19。
13 しかし,正直と真実を求めていたらこの世で生活してゆけるだろうか,ほかのみんながしていることをしないで商売をうまくやってゆけるだろうか,と思う人がいるかもしれません。
神は真実を守る者たちを顧みられる
14 不正直なことをしなくてもこの世で生活できることを知るうえで聖書はどのように助けとなりますか。
14 正直にしていたら生活できないと言うのは,神はご自分を愛する者たちを顧みない,と言うのと同じことです。これは真実ではありません。それは幾千年にわたる神のしもべたちの経験に反しています。(ヘブライ 13:5,6)例えば,詩篇作者ダビデは語りました。『われむかし年わかくして今おいたれど義しき者のすてられ あるひはその裔の糧こひありくを見しことなし』。(詩篇 37:25)これは,義なる人が困難や苦境を経験することはないという意味ではありません。ダビデ自身,一時は社会ののけ者としての生活を強いられました。しかし,生きてゆくために必要なものに事欠くことはありませんでした。
15 命を支えるための物質上のものを得ることに神が関心を示してくださることについて,イエスはどのように言われましたか。
15 真の崇拝の目的は物質上の利益を得ることではありません。しかしイエス・キリストはその追随者たちに対する教えの中で,「その日の必要に応じてその日のためのパン」を得る努力に神の祝福を祈り求めるのは正しいことであるとされました。(ルカ 11:2,3)またイエスは,食物や身を覆う物の必要を過小視することなく,ご自分の弟子たちにこう保証されました。「あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです」。しかしイエスは彼らに,「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」と言われました。(マタイ 6:25-34)あなたはこのことばを信じますか。もしそうであれば,単に他の人びとがそうするというだけの理由で神の義の規準を捨てようとしたりすることはないでしょう。むしろ,テモテ第一 6章6-8節に記されている事がらの知恵を認識されるはずです。それはこう述べています。「確かに,自ら足りて敬神の専念を守ること,これは大きな利得の手段です。わたしたちは世に何かを携えて来たわけではなく,また何かを運び出すこともできないからです。ですから,命を支える物と身を覆う物とがあれば,わたしたちはそれで満足するのです」。
16 これらの聖句に言い表わされる真理に従うことはどのようにわたしたちの守りとなりますか。
16 こうした勧めに従うためには,今日の世界一般とは大きく異なった見方を持たねばなりません。したがって,このことも,『思いを作り直す』ことの中に含まれています。生きてゆくに必要なものを得て満足する態度があれば,金銭を神としたり,その奴隷となったりすることを避けられます。(マタイ 6:24)またそれは,物質上のものを人生の主要な目標としたり,それを得るために他の人をだましたり利用しようとしたりすることから人を守ります。(箴言 28:20。テモテ第一 6:9,10)富を得ようとする人は,それが安全と幸福をもたらすと考えるかもしれません。しかし,実際にそうですか。むしろ,聖書の述べるとおり,「銀を愛する者は銀に満ち足りることなく,富を愛する者は収入に満ち足りることがない」ということのほうが真実ではありませんか。(伝道之書 5:10,新)多く持つ人はさらに得ようとします。そうした人びとは,それを得ようとして,健康や家族とともに過ごす楽しみを犠牲にすることも少なくありません。そうした人びとは,安心した気持ちをいだくというよりも,自分の得たものを失うのではないかという不安をいだいて生活しています。
17 (イ)物質上の富を得ることに心を向けるならどんな真理を無視することになりますか。(ロ)正直さや真実さを守って生活してゆくことが今日でも実際的なことであるというどんな証拠がありますか。
17 富への欲望に屈する人は,イエス・キリストの言われた,「満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じない」という真理に答え応じていません。(ルカ 12:15)ご自分のしもべに必要なものを備えてくださる神の力に信仰を置くほうがはるかにまさっています。世界の二百以上の土地にいる,百五十万人を越えるエホバの証人たちの中に,神が確かに必要なものを備えられるという生きた証拠があります。あらゆる形の政府のもと,あらゆる種類の合法的な職業にあって,人種や背景のさまざまに異なる証人たちが幸福な生活を続け,生活に必要なものを得ています。確かに彼らは,その信仰のゆえに他の人びとからの嘲笑を受け,場所によっては肉体的な迫害も経験しています。しかしたとえそうであっても,正直にすれば不利になるように思える場合にさえ,彼らが必要なものを備えてくださる神の力に対して示す信仰は報われてきました。彼らは仲間の人間からの敬意を得,その正直さのゆえに尊重される働き人となっている場合も少なくありません。この不正直な世界にあっても,人びとはやはり信頼できる人との取引きを求めます。しかし,さらに重要な点として,方正な人はその正直さのゆえに汚れない良心を持つことができます。また,こうして神のご意志に従うがゆえに,彼らには神の新秩序でのとこしえの命の見込みがあるのです。
18,19 (イ)なぜこれらの人びとは生活を変化させてこうした規準に従いましたか。(ロ)神がご自分の新秩序に生き永らえさせるために求めておられるのはどんな人びとですか。
18 以前,エホバのクリスチャン証人となる前には,彼らも多かれ少なかれ世の道に従っていました。しかし,聖書を学んで真理を知るようになってからは,それまでの悪いならわしを捨て去りました。今彼らはさらに進歩を続けることに力を尽くしています。彼らは「忠信な態度を十分に示し」,「すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾る」ことに努めています。(テトス 2:10)絶えず真理に答え応じて生活を変えてゆくことは,彼らにとって必ずしも容易ではありませんでした。しかし,真理に対する愛がそれに従って行動するための助けとなってきました。
19 あなたも真理に対して同じような愛をいだいていますか。もしそうであれば,あなたも,神がご自分の新秩序に生き永らえさせるために求めておられる人のひとりです。神に受け入れていただく人は,「霊と真理をもって崇拝しなければ」なりません。(ヨハネ 4:24)これはその人を周囲の世界とは異なった者にならせます。エホバを真に喜ばせるため世と異なっていなければならないほかの点があります。それはなんですか。
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生き残る者たちは『世のものとなってはならない』真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第11章
生き残る者たちは『世のものとなってはならない』
1,2 (イ)イエスはご自分の弟子たちと世との関係についてなんと言われましたか。(ロ)それはどういう意味ではありませんか。なぜ?
わたしたち人間はみな「世に」います。つまり,この人類世界の中で生活しています。しかしイエス・キリストは,ご自分の追随者たちが『世のものとなってはならない』ことを語られました。(ヨハネ 17:11,14)イエスは何を意味しておられたのですか。生き残って神の新秩序での命を得る人びとの中に入りたいと思うなら,わたしたちはこの点を理解することが必要です。
2 「世のものではない」ということがどういう意味ではないかをまず考えてください。それは,自分を人びとから隔絶させるという意味ではありません。また,ほら穴にこもって隠者のような生活をしたり,修道院その他の隔てられた所に引きこもったりすることでもありません。むしろイエスは,死の前の晩,弟子たちのためご自分の父に祈ったさい,次のように言われました。「わたしは,彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」― ヨハネ 17:15,16。
3,4 (イ)どんな活動のさいにクリスチャンは世の人びとと接することが必要ですか。(ロ)しかしクリスチャンは何を避けなければなりませんか。
3 イエスの弟子たちは人びとから隠れたのではなく,むしろ『世に遣わされ』人びとに真理を知らせました。(ヨハネ 17:18)彼らは「世の光」となり,真理の光を人びとの前に輝かせなければなりませんでした。それは,神の真理が人の生活にどのような良い感化を与えるかを,人びとの前に示すためでした。―マタイ 5:14-16。
4 クリスチャンは,自分と家族を養うために働くさい,また神の王国の良いたよりを人びとに宣明するさいに,当然のこととして多くの人に接します。したがって,使徒パウロが示すとおり,クリスチャンは肉体的な意味で『世から出る』ことは期待されていません。彼らは世の人びとと交わるのを全く『やめる』ことはできません。しかし彼らは,大多数の人びとの進む誤った道から自分とクリスチャン会衆が悪い影響を受けないようにすることができ,またそうしなければなりません。―コリント第一 5:9-11。
5 世から離れていることが必要ですが,ノアとその家族の場合にどのようにその例を見ることができますか。
5 こうして彼らはノアとその家族のようにならなければなりません。ノアの時代に,『地上のすべての人は堕落した生活をして』いました。(創世記 6:12,新英)しかし,ノアとその家族の者は異なっていました。ノアは他の人びとの不敬虔な道に加わることなく義を宣べ伝え,こうして「世を罪に定め」,世が全くゆるしがたいまでに神のご意志からはずれていることを示しました。(ヘブライ 11:7。ペテロ第二 2:5)全世界的な洪水が不敬虔な人類世界に終わりをもたらした時に彼とその家族が生き残ったのはそのためです。彼らは「世に」いましたが,それでも「世のもの」ではありませんでした。―創世記 6:9-13; 7:1。マタイ 24:38,39。
世の人びとに対する正しい愛とは何か
6 世の人びとに対してなんらかの愛を示すのは正しいことですか。
6 『世のものとならない』というのは,『人類を憎む者』になるという意味ですか。決してそうではありません。むしろわたしたちは,エホバ神を見倣う者となるべきです。ヨハネ 3章16節に記されていますが,イエス・キリストはわたしたちにこう言われました。「神は[人類の]世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされ(まし)た」。あらゆる種類の人びとへの神の親切と同情は,わたしたちの従うべき手本となります。―マタイ 5:44-48。
7,8 (イ)使徒ヨハネは世を愛することについてなんと述べましたか。(ロ)それはどういう意味ですか。ヨハネのその後の注解はこの点をどのように示していますか。
7 しかし,使徒ヨハネは,『世も世にあるものをも愛していてはならない。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにない』と言っているのではありませんか。神が世を愛されたのであるのに,なぜヨハネはこのように述べたのですか。―ヨハネ第一 2:15。
8 聖書の示すところにしたがえば,神が愛されたのは,単に人間たち,つまり,不完全で死にゆく状態にあり,自らは認識していなくても全く助けを必要とする者たちとしての人類です。神は,よこしまな欲望となって現われる彼らの不敬虔な資質を愛されたのではありません。また,彼らの犯す不敬虔な行為を愛されたのでもありません。使徒ヨハネが警告しているのは,人類世界のよこしまな欲望や行為を愛することがないようにという点です。彼はこう述べています。「すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:15-17。
9,10 (イ)どうしてこうした欲望は「世から」出ていると言えますか。(ロ)こうした欲望は人類にどのような影響を与えていますか。
9 そうです,それら肉の欲望および目の欲望,また自分を高めようとする欲望は,確かに「世から」出ました ― これらは人類の最初の親の中に育ち,彼らを反逆の道に至らせたものです。(創世記 3:1-6,17)よこしまな欲望が彼らをして神からの独立を求めさせました。それは,神のご意志からはずれた利己的な事がらを追い求めるためでした。こうした利己的な欲望に従うことが神の律法を破る結果になりました。
10 あなたが今自分の周囲に見るものについて考えてください。今日の人びとの多くは,肉の欲望や目の欲望,また「自分の資力を見せびらかすこと」を中心として自分の生活を築き上げているのではありませんか。大部分の人びとの希望や関心を形成し,その行動や対人的な関係を支配しているのはこれらのものではありませんか。そうです,そしてそのことが彼らをして神の律法を破る行為に至らせてきました。人類の歴史が,ただ戦争と不一致,犯罪と不道徳,抑圧と商業主義の貪欲,高慢な野心と名誉や権力追求の長い記録となってきたのはそのためです。
11 それで,世に対する神の愛と,使徒ヨハネが非としている事がらが矛盾するものではないことを述べなさい。
11 わたしたちはここに,神が世に対して示された愛と,世のよこしまな欲望やならわしを愛することとの違いを見ることができます。使徒ヨハネが非としているのは後者です。人類の世に対する神の愛は,人びとがそうした罪深い欲望から,また死をはじめとしたその悪い結果から自由になるための道を開くこと,まさにそのために表わされました。神はその愛をご自身の大きな費えにおいて,つまり,人類を贖う犠牲としてご自身のみ子を与えることによって表わされました。しかし,だれにしても,その犠牲を退け,あえて不従順のうちにとどまる者については,「神の憤りがその上にとどまっている」と聖書は述べています。―ヨハネ 3:16,36。ローマ 5:6-8。
12 わたしたちが世の人びとに愛をいだいているとすれば,それが神に喜ばれるものであるかどうかをどのように判断できますか。
12 では,わたしたちについてはどうですか。わたしたちは,仲間の人間たち,つまり,神の恵みのもとでの命に至る道を見いだす点で助けの必要な人たちに対する誠実な関心のゆえに,そうした世の人びとを愛しますか。それとも,彼らが神のしもべになることを妨げているもの,すなわち,彼らが利己的な肉の関心や,神よりも自分の栄光や威勢を求める思いを満たそうとして神の律法を破るその独立的な態度を愛しますか。こうした悪い資質に引かれて人びととともにいることを愛するのであれば,わたしたちは使徒ヨハネが戒めたようなしかたで世を愛していることになります。
13 世に対する愛が神に仕える妨げとなりうることを述べなさい。
13 イエス時代の多くの人びとは世の悪い歩みを愛し,そのゆえに,イエスの弟子となって大胆な態度を取ることを避けました。そうした人びとは,宗教および社会生活上の地位や人気を失うことを望みませんでした。彼らは神からの是認よりも,人間からの賞賛を愛しました。(ヨハネ 12:42,43)慈善行為や他の宗教的な活動に携わった者たちもいましたが,それはおもに,人びとから,そうです,人類の世から見上げられることを求めたためでした。(マタイ 6:1-6; 23:5-7。マルコ 12:38-40)あなたは今日,人びと,実にキリスト教世界の非常に多くの人びとが,世のよこしまな道に対する同様の愛を示しているのを見ませんか。しかし聖書は,これが生き残るための道ではないことを示しています。
「この世の支配者」の制御下に入らない
14 地上におられたイエスに誘惑をもたらしたのはだれですか。その結末はどうでしたか。
14 神のみ子もこうした面で誘惑にあわされました。彼の心に利己的な肉の欲望また目の欲望を起こさせ,人びとに対して誇示的な態度を取らせようとする,つまり世のもののようにならせようとする努力がなされました。世のすべての王国に対する支配権やその栄光さえ彼に対して提供されました。彼はそうした魅惑をきっぱり退けました。彼は自分の父の意志にしたがって世に愛を示す方法を知っていました。ところで,利己心に従わせようとするそうした働きかけはだれからもたらされたのですか。エホバ神の主権に最初に挑戦した者,わたしたちの最初の親に誘いかけて創造者に対して不実にならせようとした者,すなわち悪魔サタンです。(ルカ 4:5-8)これはわたしたちが認識するべき肝要な点です。なぜですか。
15 「この世の支配者」とはだれかを自分の聖書から示しなさい。
15 なぜなら,世俗の王国や他の支配形態を含むこの人類世界一般が神の敵対者をその見えない支配者としていることをそれは示しているからです。イエス自身が,神のその主要な敵対者のことを,「この世の支配者」と呼ばれました。(ヨハネ 12:31; 14:30。コリント第二 4:4)使徒パウロも,「邪悪な霊の勢力」,つまりサタンの配下にある悪霊たちが人の目に見えない「政府と権威,またこのやみの世の支配者たち」となっていることを述べ,クリスチャンはそれらに対し霊の武具で身を守らねばならないとしました。―エフェソス 6:10-13。
16 世のどれほどの部分がサタンに惑わされてきましたか,またその配下にありますか。
16 この見えない支配者とその勢力の制御下に入らなかったのはごく少数の人でした。一方,「世界」,つまり人類の集団一般は「邪悪な者の配下に」あります。彼はその悪霊的な影響により,地の支配者たちを含む「人の住む全地を惑わし」,彼らをあやつって,神,そしてキリスト・イエスによる神の王国と衝突する道を進ませています。―ヨハネ第一 5:19。啓示 12:9; 16:13,14; 19:11-18。
17 (イ)世が表わす「霊」は,人類を導いているものに関して何を物語っていますか。(ロ)そうした霊を表わすことは創造者に喜ばれますか。
17 これは信じ難いことに聞こえますか。しかし,この世のたいていの人は,神の敵対者の特性を反映する「霊」― 支配的な態度,また推進する力 ― や業を明瞭に表わしているのではありませんか。わたしたちは全世界にわたって,偽り,欺瞞,憎しみ,暴力,殺人を見ています。これらは,聖書が,『悪魔から出ている』人びと,つまり悪魔を自分の霊的な「父」としている人びとのしるしとしているものです。(エフェソス 2:2,3。ヨハネ 8:44。ヨハネ第一 3:8-12)確かに,世のこうした霊は,愛ある創造者から来るものではありません。
18 支配に関するわたしたちの態度は,わたしたちが「この世の支配者」に制御されているかどうかをどのように示しますか。
18 わたしたちはまた,大多数の人びとが,地上に平和と安全をもたらすものとして,人間の企てや計画に頼っているのを見ていませんか。あなたは,地上の諸問題を解決するものとして,人間の政治上の機構ではなく,神とそのみ子の王国にほんとうに頼っている人をどれだけ知っていますか。しかしイエスは,『わたしの王国はこの世のものではない』と言われました。イエスの王国はこの世をその「源」とするものではありません。人間がそれに権限を付したり,それを建てたり,その支配力を維持したりするのではないからです。それは神ご自身が設けられるものです。(ヨハネ 18:36。イザヤ 9:6,7)したがって,その王国かそれに敵抗する者すべてを攻めるさいに生き残る希望を持つ人びとの中に入るためには,サタンがこの世とそのいろいろな機構を支配しているという冷厳な事実を認めることが必要です。わたしたちは,キリスト・イエスによるエホバの義の政府を確固とした態度で支持することによって,サタンの支配下に入らないようにしなければなりません。―マタイ 6:10,24,31-33。
19 歴史の証言に見るとおり,初期のクリスチャンは『世のものではない』ことをどのように示しましたか。
19 歴史は,初期のクリスチャンが,他の人びとへの敬意をいだき,法律に従う市民として生活しつつも,『世のものとはならない』という決意を定め,それゆえの激しい迫害をさえ忍んだ様子を伝えています。わたしたちは次のような記述を読むことができます。
「初期のキリスト教は,異教世界を支配した人びとからはほとんど理解されず,好意をもってみなされることはほとんどなかった。……クリスチャンはローマ市民としての義務のあるものを受け入れなかった。……彼らは政治上の地位に就こうとしなかった」― ヘッケル,シグマン共著「世界の歴史,文明への道」,237,238ページ。
「彼らは,政治や帝国の軍事上の防衛などに積極的に参与することはなかった。……クリスチャンが兵士,行政官,侯君などの地位につくことはできなかった。それは,彼らのさらに神聖な務めを放棄することになった」― エドワード・ギボン著「キリスト教史」,162,163ページ。
「オリゲネス[西暦2,3世紀の人]は……『キリスト教会はどの国に対する戦争にも参加することができない。彼らはその師から,自分たちが平和の子であることを学んでいる』と述べている。その時期には,多くのクリスチャンが兵役を拒否して殉教の死を遂げた。295年3月12日,名あるローマ軍人の子マクシミリアンはローマ軍への入隊を求められたが,ただ『わたしはクリスチャンです』と言って,それを拒んだ」― A・ゴルドン・ナスビー編「クリスチャン世界宝鑑」369ページに引用された,H・イングリ・ジェームスの一文。
20 「この世の支配者」に制御されるようにならないために,エホバのしもべは世のどんな分裂的な活動から離れますか。
20 エホバのしもべは,こうして世の事がらに巻き込まれないでいることによって,その闘争,分裂のもとになる国家主義や民族主義,社会生活上の抗争などを助長するようなことを避けられます。神に導かれた彼らの態度は,どんな人びとの間でも平和と安全に寄与するものとなります。(使徒 10:34,35)事実,きたらんとする「大患難」を生き残る人びとは,「すべての国民と部族と民と国語の中から」来ます。―啓示 7:9,14。
世の友となるか,神の友となるか
21 聖書に従う人が,同時に世に愛されることをも期待できないのはなぜですか。
21 イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたが世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなたがたは世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなたがたを憎むのです。……彼らがわたしを迫害したのであれば,あなたがたをも迫害するでしょう」。(ヨハネ 15:19,20)世との交友を持つ唯一の方法は,世のもののようになり,その欲望,野心,偏見を自分も同じように持ち,その考え方や哲学をたたえ,その習慣や物事のやり方にならうことです。これは全くの真実です。しかし,この世を支持する人びとは,自分の誤りを指摘されたり,自分の進む道にある危険を警告されたりするのを不快に感じます。人が聖書に従い,行動や生活態度でその教えを擁護し,聖書を支持する発言をすると,世からの憎しみを免れないのはそのためです。―ヨハネ 17:14。テモテ第二 3:12。
22 わたしたちひとりひとりは交友に関してどんな選択をしなければなりませんか。
22 したがって,聖書は,わたしたちが明確な選択をしなければならないことを示しています。ヤコブ 4章4節はこう述べています。「あなたがたは世との交友が神との敵対であることを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,自分を神の敵としているのです」。神はまた,ご自分と交友を持つ人びとの規準を定めておられますが,それは罪深い人類一般の規準とは相いれないものです。―詩篇 15:1-5。
23 (イ)人が世の友であることを示すものはなんですか。(ロ)自分が神の友であることをどのように示せますか。
23 神の新秩序に生き残るためには神との交友を持つ者となることが必要ですが,それはこの世のなんらかの組織に所属するかしないかというような問題ではありません。世の霊を表わし,人生に対するその世俗的な見方を分け持つなら,わたしたちは,自分が神の友ではなく世の友であることを示すことになります。世の霊は「肉の業」,すなわち,「淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がら」を生み出します。聖書は明瞭に,「そのような事がらをならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」と述べています。それとは全く逆に,もし神の友であるなら,わたしたちは神の霊を持つことになります。その実は,「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」です。―ガラテア 5:19-23。
24 (イ)世が誉れを与える人びとに見倣うのはなぜ賢明なことではありませんか。(ロ)物質上の所有物に対する態度は,わたしたちがだれとの交友を求めているかをどのように示しますか。
24 では,わたしたちはだれの霊を反映していますか。これは,自分が実際にはだれの友であるかを見きわめる助けになります。わたしたちはこの現在のよこしまな世界に住み,そのいろいろな影響を受けていますから,神を喜ばせるために自分の生活に変化の必要を認めたとしても驚いてはなりません。たとえば,世の人びとは,野望に動かされて大きな富,力,名声を打ち立てた人びとに誉れや栄光を与えます。人びとはそうした世の英雄や偶像を自分の手本とし,その話し方,行動,外見,身なりなどを模倣します。あなたはそうした人びとの賛美者とみなされることを望みますか。そうした人びとの達成したものは,神のことばが人生の目標としてわたしたちに説き勧めているものの正反対です。聖書がわたしたちに指示しているものは,霊的な富と強さ,そして地上における神の代理者また代弁者として奉仕する誉れです。(テモテ第一 6:17-19。テモテ第二 1:7,8。エレミヤ 9:23,24)世の商業主義の宣伝は人びとに物質本位の気持ちをいだかせます。人びとは,ただ物質上の所有物を増やすことに幸福があると考えるようになり,それを,神のことばや霊的に価値のある物事よりはるかにたいせつなものとみなします。それはあなたに世との交友を得させますが,同時に神との交友を切り断ちます。あなたにとってはどちらがたいせつですか。どちらが,より大きな,そしてより永続的な幸福につながりますか。
25 (イ)世の道を離れるとき,わたしたちは世からのどんなことを予期すべきですか。(ロ)どうすれば,ほんとうに「思いを作り直し」て神と同じ見方をすることができますか。
25 世の傾向に屈してしまうことは容易です。そして,その悪い霊のゆえに,この世を支持する人びとは,あなたが違った道を取ることを不快に思うでしょう。(ペテロ第一 4:3,4)あなたを世に順応させ,世俗的な人間社会に合わせてあなたを形作ろうとする圧力が加えられることでしょう。世の知恵 ― 何が人生の成功をもたらすかに関する世の哲学 ― が,あなたの考え方を支配するために用いられるでしょう。ですから,『自分の思いを作り直し』て神の観点から物事を見,『この世の知恵が神にとっては愚かなものである』ことを知るためにはほんとうの努力と信仰が必要です。(コリント第一 1:18-20; 2:14-16; 3:18-20)神のことばを勤勉に研究することによって,わたしたちは世の偽りの知恵を見抜き,それがすでにもたらしている悪い結果と,やがて必ずもたらす災厄的な結末とを見ることができます。そしてまたわたしたちは,神の道にある知恵と,それが保証する確かな祝福とを十分に悟り知ることができます。
命と精力とを過ぎゆく世にささげるのはむだなこと
26 状態の改善を目的とした世の博愛主義的な組織の仕事に関係するのは賢明なことですか。
26 『しかし,世のいろいろな組織の中には,善を行ない,人びとの保護,健康,教育,自由のために働いているものも多いのではないか』と異議をはさむかたがいるかもしれません。確かに,人びとが持つ問題のあるものについてある程度の一時的な救済を差し伸べている組織もあります。しかし,それらはみな神から離れた世の一部であり,人びとの注意を,現在の事物の体制を存続させることに向けさせています。それらの中に,地に対する神の政府,そのみ子による神の王国を唱道するものはありません。結局のところ,他を害する非道な行為に携わるような犯罪者でさえ,家族をもうけ,その必要をまかない,社会に対して慈善的な行為を行なう場合さえあります。しかし,そうしたことは,わたしたちがその犯罪組織になんらかの支持を与える理由となるでしょうか。―コリント第二 6:14-16と比べてください。
27 この世の人びとが神の新秩序に生き残る者の中に入るのを助ける唯一の道はなんですか。
27 わたしたちは,何にせよ世の企てに加わり,その成功のために時間と精力をささげることによって,人類に対する真の愛をほんとうに示せるでしょうか。病気の人たちを助けようと思う場合,あなたは,その人たちと交わって自分もその同じ病気や疾患にかかるような方法で助けるでしょうか。あるいは,あなた自身は健康を保ち,病気の人たちが回復の道を見つけるのを助けることに努めるなら,そのほうがはるかに大きな助けとなるのではありませんか。現在の人間社会は霊的に病んで病気になっています。わたしたちはだれもそれを救うことはできません。神のことばが示すとおり,その病気は死に至るものだからです。(イザヤ 1:4-9と比べてください。)しかしわたしたちは,世にいる個々の人が霊的な健康への道,そして義の新秩序に生き残る道を見いだすように助けることができます。そのためには,わたしたち自身が世から離れていなければなりません。(コリント第二 6:17)したがって,世の企てに巻き込まれるのを避け,世の霊に染まってその不義の道をまねることのないようにすべきです。それが賢明なことです。次のことを決して忘れてはなりません。「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。
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権威に対する敬意 ― 平和な生活のために肝要なもの真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第12章
権威に対する敬意 ― 平和な生活のために肝要なもの
1-3 (イ)今日,権威を退けようとする傾向が広まっていることの一因として何を挙げることができますか。(ロ)こうした態度はどのようにさまざまな形で表わされていますか。(ハ)その影響はどこに現われていますか。
今日の世界には独立の精神が浸透しています。特に第二次世界大戦以後に生まれた人びとの間には,権威を退けようとする一般的な風潮が育っています。なぜですか。一つには,その親たちが未曾有の規模の圧制を見,またそれを経験したからです。また彼らは,権力にある人びとの高圧的で腐敗したかけひきも見ました。彼らは権威に対してあいまいな見方を育てました。結果として,その多くは,親となったとき,自分の子どもに,権威に対する敬意を教え込みませんでした。子どもたちが見るさまざまな不正は事態を正すことにはなりませんでした。その結果,権威に対する反抗は普通のこととなりました。
2 その反抗はいろいろな形で表わされています。“既成の規準”を排撃するような服装によってそれが示される場合もあります。またそれは,警察に対する公然の抵抗を,さらには暴力や流血を伴うこともあります。しかし,こうしたことだけではありません。このような公然とした方法で表わさない人びとの中にも,自分の同意しない,あるいは自分に都合の悪い法律その他の規則を無視したりわき道を行ったりする人がいかに多いことでしょう。
3 こうした状態は,家庭,学校,職場の,また役人と接するさいの雰囲気に大きな影響を与えています。ほかのだれからも何もさしずを受けたくないという人がしだいに多くなっています。そうした人びとは,自分たちが自由の拡大とみなすものを追い求めています。こうした状態に対して,あなたはどのように対応されますか。
4 わたしたちがこの問題に関して行なうことはどんな論争に対する態度を示すものとなりますか。
4 あなたがどのような道を取るかは,エホバの宇宙支配の正しさに関する論争でどのような態度を取っているかを必然的に示すものとなります。あなたは,真の平和と安全の源としてエホバに頼りますか。エホバのことばの示す事がらを尋ね求めて,それを自分の生活に当てはめますか。それとも,サタンに惑わされ,善悪を自分で決定すべきだと信じている人びとと歩みを共にしますか。―創世記 3:1-5。啓示 12:9。
5 (イ)「自由」を約束する人びとの導きに従うことはしばしばどんな結果になっていますか。(ロ)神のご意志を行なう人にはどんな自由がありますか。
5 「一般的な」事がらを自分の考えの導きとする人は容易に惑わされます。(エレミヤ 8:6,新)一方,聖書の正確な知識は人の守りとなります。それを持つなら,『自由を約束しながら,自らは腐敗の奴隷となっている』人びとに従ったために一つの悪い状態を脱しても今度は別の悪い状態に陥る,といった事態を避けることができます。そうした人の導きに従うのは,自分も同じ奴隷状態に陥ることにほかなりません。(ペテロ第二 2:18,19)真の自由は,神のご意志を学びかつそれを行なうことによってのみ得られます。神の律法は,「自由に属する完全な律法」です。(ヤコブ 1:25)エホバは無意味にわたしたちを拘束したり,なんら有益な目的のない規則でわたしたちを囲んだりはされません。神が与えてくださる導きは,人が神および仲間の人間との間に良い関係を持ち,そのゆえに平和と安全を楽しむためのものです。それが,あなたの望んでおられるものではありませんか。
6,7 (イ)この事物の体制における権威の誤用に対して何か処置を取るのに最も良い立場におられるのはだれですか。(ロ)無法な制裁行動を取る者に起きる事がらをイエスはどのように示されましたか。
6 神は,この古い事物の体制の腐敗とそこにおける権威の誤用の程度を,ほかのだれよりもよく知っておられます。そして,圧迫をもたらしている者がどれほど高い地位についていようともその者の申し開きを求めることを,みことばの中で示しておられます。(ローマ 14:12)神の定めの時に,『悪しき者は地よりほろぼされ もとる者は地より抜きさられ』ます。(箴言[格言の書,バ] 2:22)しかし,性急な態度を取って無法な制裁行動に出ることは,わたしたち自身にとってなんら永続的な益にはなりません。―ローマ 12:17-19。
7 イエス・キリストは,裏切られてゲッセマネの庭で捕縛された晩に,この点を使徒たちに強調されました。野獣の横行その他土地の事情のため,ユダヤ人はしばしば武器を携行しましたが,そのおりには,イエスの使徒たちの間に剣二本がありました。(ルカ 22:38)何が起こりましたか。はなはだしい正義の歪曲 ― なんら正当な理由もなく,夜陰に乗じてイエスを捕縛しようとすること ― を見たとき,使徒ペテロは衝動的に剣を抜き,ひとりの者の耳を切り落としました。しかしイエスは,切り離された耳を元どおりに治して,ペテロにこう言われました。「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」。(マタイ 26:52)わたしたちの時代にも,こうした忠告に従っていたなら時ならぬ死を避けえた人が多くいることでしょう。―箴言 24:21,22。
世俗の権威に対する正しい見方
8 (イ)ローマ 13章1,2節の述べるとおり,クリスチャンは世俗の権威をどのように見るべきですか。(ロ)それらが「神によって相対的な地位に据えられている」というのはどういう意味ですか。
8 ローマのクリスチャンたちに手紙を書き送った使徒パウロは,神の霊感のもとに,世俗の権威に関連した問題でどのように行動すべきかを論じました。彼はこう述べました。「すべての魂は上にある権威に服しなさい。神によらない権威は存在しないからです。現存する権威は神によってその相対的な地位に据えられているのです。したがって,権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます」。(ローマ 13:1,2)これは,神がこれら世俗の支配者に力を与えたという意味ですか。聖書はそれを明確に否定しています。(ルカ 4:5,6。啓示 13:1,2)それはただ神の許しによって存在しているのであり,それが人間の歴史において占めてきた「相対的な地位」は神の決定によるものでした。その地位とはどのようなものですか。
9 官公吏に何かの不正がある場合でも,どのような意味でその人びとを敬うことができますか。
9 ここに引用した聖句は,それが「上にある」ものであることを述べています。したがって,官公吏に対して不敬な態度で当たるべきではありません。そうした人びとの施行する法律は軽視すべきものではありません。必ずしもこれは,あなたがそうした人びとをあがめるとか,そうした人びとが何かの不正に携わる場合でもそれを是認するとかいう意味ではありません。しかし,その人びとの持つ職務のゆえに敬意を払うのは正しいことです。―テトス 3:1,2。
10 税を払うことについてどのように見るべきですか。なぜ?
10 世俗の法律は多くの点で民の益を図ります。それは秩序を維持し,個人の身体と財産にある程度の保護を与えるのに役だちます。(ローマ 13:3,4)さらに,政府は普通,道路建設,衛生事業,消防,教育,その他民の益となる事業を行ないます。わたしたちはこうした事業に対する支払いをすべきですか。税金を払うべきですか。高い税率や,しばしば起こる公金の悪用などのために,これはときに憤まんをこめて多くの人の問うところとなっています。イエスの地上宣教の時代にも,この問いは政治的な色彩をこめて提出されました。しかしイエスは,状態のいかんによっては払わなくてもよい,というような態度は取られませんでした。ローマのカエサルによって鋳造された貨幣を引き合いに出して,「それでは,カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と言われました。(マタイ 22:17-21。ローマ 13:6,7)容易に発展してくる問題を知っておられたイエスは,各自が好き勝手に行動するというような考えを承認されませんでした。
11,12 (イ)今取り上げている聖句は,考慮に入れるべき別の権威があることをどのように示していますか。(ロ)世俗の支配者が神の要求に反する命令をする場合,あなたならどうしますか。なぜ?
11 しかし,イエスはその答えの中で,世俗の国家だけが考慮に入れるべき唯一の権威ではないことを示されました。この点に注意してください。「上にある権威」は神の上にあるのではなく,また神と同等でさえありません。むしろそれらは,「神によってその相対的な地位に据えられている」のです。(ローマ 13:1)彼らの権威は限定されたものであり,絶対的なものではありません。このゆえにクリスチャンはしばしば重大な決定に直面してきました。それはあなたも行なうべき決定です。権力の座にある人びとが,神に属すべきものを自分たちにささげるようにと要求する場合,あなたはどうされますか。神の命令しておられる事がらを彼らが禁じるなら,あなたはどちらに従いますか。
12 イエス・キリストの使徒たちはエホバの主権を擁護することを選びました。そして,エルサレムにあった高等法院の議員たちの前で,敬意をこめつつも毅然とした態度で自分たちの立場を明らかにしてこう述べました。「神よりもあなたがたに聴き従うほうが,神から見て義にかなったことなのかどうか,あなたがた自身で判断してください。しかし,わたしたちとしては,自分の見聞きした事がらについて話すのをやめるわけにはいきません。…わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 4:19,20; 5:29)政府は会合に集まる人の数に制限を課するかもしれません。また,ある種の公の活動を禁ずるかもしれません。神のことばは,神の民が崇拝のために大ぜいで集まらなければならないとはしていません。また,神のご意志について語るため他の人びとに接する方法はただ一つだけであるとも述べていません。一方,政府の規制に従えば神からゆだねられた務めを果たすことが不可能になるという場合にはどうすべきですか。行なうべき正しい事がらは,『自分たちの支配者として人間より神に従う』ことであり,だれがこれを否定できるでしょうか。
13,14 (イ)単に個人的な理由で世俗の法律に背くことのないようどのように注意深くあるべきですか。(ロ)その理由を聖書から示しなさい。
13 これは,利己的な関心にかなう事がらを求め,自己本位な態度で法律の要求を無視することとは大きな違いです。確かに,個人的な観点に立つと,不必要に見えたり,不当に制限的に思えたりする法律があるかもしれません。しかしそれは,その法律を無視してもよいということでしょうか。もしすべての人がただ自分の益になると思える法律だけに従うとすれば,どのような結果になりますか。無政府状態になるはずです。
14 直ちに処罰を受けはしないだろうというだけの理由で権威を無視して自分の好きなことだけを行なうのであれば,そこには重大な危険があります。そうした法律軽視の態度は初めは比較的小さな事がらに関するものかもしれませんが,処罰を受けないことから大胆になってさらに大きな不法に進み,やがては悪の道に固まってしまうかもしれません。こうしたことについて,伝道之書 8章11節はこう述べています。『悪しき事の報い速やかにきたらざるがゆえに世の人心を専らにして悪をおこなふ』。法律に従うことのほんとうの理由はなんでしょうか。それは単に,従わないことに対する処罰を恐れるためですか。クリスチャンの場合にはそれよりはるかに強い動機 ― 使徒パウロが,「どうしても服従するべき理由」と呼ぶもの ― があるべきです。それは,自分の良心を清く保ちたいという願いです。(ローマ 13:5)聖書にしたがって自分の良心を教育した人は,不法な道を追い求めれば「神の取り決めに逆らう」ことになるのを知っています。わたしたちの行なっている事がらを他の人が知っていようといまいと,神は必ず知っておられます。そして,わたしたちの前途の命の見込みは神にかかっているのです。―ペテロ第一 2:12-17。
15 (イ)学校の教師や雇用者に対して取る態度について何を導きとすべきですか。(ロ)こうすることによって,わたしたちはだれの霊の影響を避けることができますか。
15 年若い人が学校の教師に対して取る態度,おとなが職場の雇用者に対して取る態度についても同じことが言えます。わたしたちの周囲の他の多くの人が誤ったことをするとしても,それを決定の要素とすべきではありません。教師や雇用者がわたしたちの行なうことを知っているかどうかも問題ではありません。問題は,何が正しいか,何が神に喜ばれるか,という点です。学校の教師はおおむね,世俗の政府の代表者,「上にある権威」の代理者ですから,わたしたちが敬意を払うに価します。そして,世俗の雇用者に対する態度について,聖書はこう助言しています。「彼をじゅうぶんに喜ばせ,……忠信な態度を十分に示しなさい。それは,すべての事においてわたしたちの救い主なる神の教えを飾るためです」。(テトス 2:9,10)こうすることによって,わたしたちは,自分がサタンの影響に屈していないことを示せます。サタンの霊は,『不従順の子らのうちに働いている』のです。そしてわたしたちは,仲間の人間たちとの平和な関係に真実に寄与する者となります。―エフェソス 2:2,3。
家庭内での権威
16 調和と一致のある家族生活のためのどんな要求がコリント第一 11章3節に述べられていますか。
16 もう一つ,平和な関係が大いに望まれる所は家庭です。そうした健全な関係の欠けているために,家族関係の崩壊,さらには,家族そのものの崩壊をきたしている例が非常に多くあります。こうした状態を改善するために何ができるでしょうか。基本的に求められるのは,頭の地位に関するエホバの取り決めに敬意を払うことです。コリント第一 11章3節に記されているその取り決めは次のとおりです。『すべての男の頭はキリストであり,女の頭は男であり,キリストの頭は神である』。
17 (イ)頭の地位について言えば,男はどのような地位にありますか。(ロ)キリストは頭たる夫としてどのような優れた手本を示されましたか。
17 このことばは男の地位を最初に述べてはいますが,男が頭であることをまず指摘しているのではなく,むしろ,エホバの物事の取り決めの中では,男が導きを仰ぎ,その手本に従うべきかたがいることに注意を引いています。この点に注目してください。キリストが男の頭であり,キリストは,花嫁に例えられるご自分の会衆との交渉を通じて,頭たる夫としての成功の道を示されました。追随者たちはその優れた手本に喜んで答え応じます。イエスは彼らに対してボスのようにふるまったり,厳しく強要的な態度を取ったりせず,むしろ,「柔和で,心のへりくだった者」となられました。そのため,追随者たちは自分の魂にさわやかなものを見いだしました。(マタイ 11:28-30)イエスは彼らの欠点を見てさげすみましたか。むしろその逆に,彼らを罪から清めるために自分の命を投げ出されました。(エフェソス 5:25-30)こうした手本に誠実な態度で従おうとする男子がいることは,その家族にとってなんと大きな祝福でしょう。
18 (イ)妻は夫の権威に敬意を払っていることをどのように示せますか。(ロ)子どもは親に対してどのように敬意を示すべきですか。なぜ?
18 家庭内で頭の権威がそのように行使されるとき,妻が自分の夫を敬うのは難しいことではありません。そして,親に対する子どもの従順さもいっそう自発的に示されるようになります。しかし,家族の幸福のため妻や子どもたちにもできることが多くあります。妻は,勤勉に家事を果たし,また,夫の決定を受け入れてその成功のために自分も努力することによって,「夫に対して深い敬意」をいだいていることを示せます。あなたのご家庭ではこのようですか。(エフェソス 5:33。箴言 31:10-15,27,28)子どもたちについて言えば,父親にも母親にもすすんで従おうとする態度があるなら,それは親を敬っているしるしであり,神の求めにかなうことです。(エフェソス 6:1-4)権威に対する敬意の欠けている家庭に比べ,このような家庭にははるかに豊かな平和と,いっそう大きな安心感とがあるはずです。あなたはそのことに同意されませんか。
19 神のことばに従おうとするのが家族の中で自分ひとりである場合にはどうすべきですか。
19 あなたは自分の家庭をそのような場所とするために働くことができます。家族の他の人がエホバの道を擁護してもしなくても,あなたはそのようにすることができます。家族の他の人たちはあなたのりっぱな手本に答え応じるようになるかもしれません。(コリント第一 7:16。テトス 2:6-8)たとえそうでないとしても,あなたの行なうことは,エホバの道の正しさに対するあなたの信仰の表明となります。それは決して価値の小さなことではありません。―ペテロ第一 3:16,17。
20,21 (イ)聖書は夫や親の権威が絶対的なものではないことをどのように示していますか。(ロ)したがって,クリスチャンである妻や信者である子どもはときにはどんな決定をしなければなりませんか。どんなものが行動の動機となるべきですか。
20 家族内の権威に関する取り決め全体が神から来ているものであることを忘れてはなりません。したがって,神を無視してしまうことはできないはずです。それゆえ,妻は,「主にあってふさわしいこと」であるゆえに夫に服するようにと諭されています。また,子どもたちは親に従順であるようにと助言されていますが,それは「主にあって大いに喜ばれること」であるからです。(コロサイ 3:18,20)つまりこれは,妻に対する夫の権威,また子どもに対する親の権威が相対的なものであるという意味です。信者ではない夫や親にとって,こうした考えは初め快いものではないかもしれません。しかし,実際のところ,これはそうした人たちの益になるのです。それが信者を助けて,いっそう信頼性に富む者,いっそう敬意にあふれた者とならせるからです。
21 言うまでもなく,夫が「主にあってふさわし」くないある事がらを行なうようにと要求するようなとき,そのような場合に妻が行なう事がらは,真実に「まことの神を恐れる」者であるかどうかを示すものとなります。(伝道之書 12:13,新)同様に,神のことばを理解して自分でそれに従うことのできる年齢の子どもに,同じようにエホバに仕えようとする気持ちを持たない親がいる場合,その子どもは,自分が神への忠節を実証するか,そのようにはしていない親と歩みを共にするかを決定しなければなりません。これは,そうした子どもにとって,とこしえの命の見込みを左右する問題となります。(マタイ 10:37-39)とはいえ,神に対する優先的な務めを別にすれば,そうした子どもは「すべての事」において親に服し,たとえ自分の好まないことにおいても従わなければなりません。(コロサイ 3:20)こうすることによって彼らは,親も救いのためのエホバの備えを受け入れるように助けることができるかもしれません。人の行動の動機が,独立的な精神から来る不従順さではなく,エホバとその義の道に対する忠節さによるものであれば,それはほんとうに,「主にあって大いに喜ばれる」ものとなります。
クリスチャン会衆において
22,23 (イ)クリスチャンの監督たちは会衆の成員のために何をしますか。(ロ)それで,ヘブライ 13章17節は彼らに対してどんな態度を取るようにと述べていますか。
22 エホバに対する同じような忠節の精神は,エホバのクリスチャン会衆およびその益のために働く人びとに対する態度の中にも示されるべきです。エホバは会衆の中に,その「群れ」を牧する監督たちを備えておられます。そうした監督たちは自分の仕事に対してなんら俸給を受けません。それどころか,クリスチャン兄弟姉妹たちの福祉に対する純粋な関心のゆえに,すすんで自分自身を与えています。(テサロニケ第一 2:8,9)彼らは,会衆に託された特別の仕事,すなわち,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業を遂行する面で会衆を助けます。また,会衆の個々の成員の福祉を思う気持ちから,それらの人が聖書の原則を学んで自分の日常生活に当てはめるのを助けます。さらに,会衆の成員の中に,神の要求しておられる事がらを知っていながら重大な悪行を故意に続ける者がいるなら,責任を持つ監督たちはその人を会衆から閉め出し,こうして,会衆のほかの人びとをその腐敗的な影響から保護します。―コリント第一 5:12,13。
23 ご自分の民の間に平和の精神を保証するためエホバが設けられたこの愛ある備えに対する感謝の気持ちから,わたしたちはヘブライ 13章17節の次の勧めに注意を払うべきです。「あなたがたの間で指導の任に当たっている人たちに従い,また服しなさい。彼らは言い開きをする者として,あなたがたの魂のために見張りをしているのです。こうしてあなたがたは,彼らがこれを喜びのうちに行ない,嘆息しながら行なうことのないようにしなさい。そのようなことはあなたがたにとって損失となるのです」。
24,25 (イ)長老たちが教えている事がらは,長老たちに対するわたしたちの態度とどのように関係がありますか。(ロ)わたしたちは聖書から学んだ事がらをいつまたどこで実行すべきですか。なぜ?
24 しかし,「指導の任に当たっている人たち」に従うということは,単に人間を喜ばせようとする者になることではありません。聖書は,これら監督もしくは長老に敬意を払うべき主要な理由として,これらの人びとが「神のことば」を教える者であるという点を特に指摘しています。(ヘブライ 13:7。テモテ第一 5:17)そして,その神のことばについて,ヘブライ 4章12,13節はこう述べています。「神のことばは生きていて,力を及ぼし,どんなもろ刃の剣より鋭く,魂と霊,また関節とその骨髄を分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるのです。そして,神のみまえに明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,このかたに対してわたしたちは言い開きをしなければなりません」。
25 この「神のことば」は人の内面を真実に表わし示します。それは人の表向きと,その人の言動を支配する内面の態度との違いを白日にさらします。神に対してほんとうに信仰を持ち,創造者を喜ばせたいという純粋な願いに動かされているなら,その人は,会衆の長老たちの目を離れたところでは悪行に進む,というようなことはありません。またその人は,会衆から閉め出されるほどの重大な悪行ではないというだけの理由で聖書に反した行為に携わることもありません。その人の願いは,罪を犯さないようにということ,そして,「神の栄光」を正しく反映したい,ということです。(ローマ 3:23)一方,神のことばにある助言のいずれかを軽視する傾向の人がいるなら,その人は神に対する自分のほんとうの態度がどのようなものであるかを注意深く調べてみるべきです。その人は,詩篇 14篇1節が,『愚かなるものは』― 公にではなく ―『心のうちに神なしといへり』と述べる人のようになってはいないでしょうか。
26,27 (イ)エホバの「すべてのことば」を真剣に取り上げることはなぜたいせつですか。(ロ)こうして権威に対する敬意を示すなら,わたしたちの生活はどのようなものになりますか。
26 悪魔の誘惑を受けた時,イエス・キリストは確固たる態度で,「人は……エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」と言明されました。(マタイ 4:4)あなたはこのことについて,このように強く感じますか。エホバの「すべてのことば」が重要なものであり,そのどれも無視すべきものではないことを信じていますか。エホバの要求のあるものに従い,他のものはたいせつでないかのように扱うのであれば全く不十分です。わたしたちは,エホバの主権を擁護するか,あるいは善悪について自分自身の規準を設けて悪魔の側につくかのいずれかです。エホバの律法を真実に愛していることを示す人びとは幸福です。―詩篇 119:165。
27 そうした人びとは世の分裂的な精神のわなにはまることはありません。また彼らは,道徳上の拘束を投げ捨てようとする人びとの恥ずべき行為に落ち込むこともありません。エホバとその義の道に対する深い敬意が彼らの生活を堅実で安定したものにします。
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性に対するあなたの見方 ― それはどのような相違をもたらすか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第13章
性に対するあなたの見方 ― それはどのような相違をもたらすか
1-3 (イ)聖書は,男女間の性関係を神が是認しておられることをどのように示していますか。(ロ)自分の性的な能力を無制御に用いることはその人の益になりますか。
聖書は性に関する事がらをすべて非としている,といった見方をしている人びとがいます。もとよりそれは,聖書そのものが述べていることではありません。聖書は,神が最初の男と女を創造されたことを述べたのち,さらにこうことばを続けています。『神彼らを祝し 神彼らに言ひたまひけるは 生めよ殖えよ地に満てよ』― 創世記 1:27,28。
2 したがって,男女間の性関係は神が是認しておられる事がらです。しかし,それはなんの制限もなくほしいままに行なってよいものですか。そのような見方によって,わたしたちは生活に最大の喜びを得ることができますか。またそれは,わたしたちに,そしてわたしたちの周囲の人びとに,真の平和と安全をもたらしますか。
3 性は,人間の他の機能と同じように誤用されやすいものです。食べることは良いことであり,生存のために欠くことのできない事がらです。しかし,暴食は健康を損い,人の寿命を短くします。睡眠も必須のものです。しかし過度の睡眠は生活から活動を奪い,身体を軟弱にさえします。生活の真の喜びが,暴食,泥酔,怠惰などからは得られないのと同じように,自分の性的な能力を無制御に用いることも真の喜びをもたらすものとはなりません。それは,人間の幾千年もの経験が証言するとおりです。わたしたちはそのことを,自分自身の苦い経験によって学ばなければなりませんか。もっと良い道があります。
4 わたしたちは,どんな動機で,性に関する神の規準を守るべきですか。
4 神のことばは,性に対する平衡の取れた見方を示しています。それはわたしたちの現在と将来の幸福を守るものです。しかし,単にわたしたちの平和と安全のためだけではなく,さらに重要な点として,創造者に対する敬意のゆえに,わたしたちは,創造者が人類に賦与されたこの機能の使用に関する神の規準を学びまたそれに従うことを求めるべきです。わたしたちは,神の支配の正しさに関する論争において,ほんとうに神の側に立ちますか。そうであれば,この問題についても,宇宙の主権者としての神の至上の知恵と権威に喜んで服するはずです。―エレミヤ 10:10,23。
結婚をすべての人の間で誉れあるものとして保つ
5 結婚のわく外で性関係を持つことについて聖書はなんと述べていますか。
5 聖書はこう勧めています。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。(ヘブライ 13:4)したがって,神は,結婚のわくの外で性関係を持つ人びとを非としておられます。これは,最初の男に配偶者を与えたさいに神が示されたご意志,つまり男とその妻が「一つの肉体」となり,その結合のきずなをいつまでも保たねばならない,ということと一致しています。およそ四千年ののち,神のみ子は自分の父がこの規準を変えておられないことを示しました。(創世記 2:22-24。マタイ 19:4-6)そうした規準は必要以上に拘束的なものですか。それはわたしたちから何か良いものを奪い取るものですか。考えてみましょう。
6 姦淫を非とする神の律法がわたしたちを益するものであることを何が示していますか。
6 姦淫は神の定めた規準を犯すものであり,エホバ神は,姦淫を行なう者に対する裁きにおいて「速やかな証人」となることを約束しておられます。(マラキ 3:5,新)結婚によって結ばれた者以外の者との性関係から来るさまざまな悪い結果は,神の律法の賢明さを強力に示しています。姦淫は信頼関係を破壊し,不信感を生み出します。それは不安な状態を作り,結婚生活の平和を損います。それから来る悲痛と傷心は離婚という結果に至る場合が少なくありません。家族が引き裂かれるのを見ることはその子どもたちにとって悲しい経験です。こうした点を考えるなら,神が姦淫を罪に定めておられるのはわたしたちの益のためである,ということに同意されませんか。聖書は,隣人に対してほんとうの愛をいだく人が姦淫を犯さないことを述べています。―ローマ 13:8-10。
7 聖書中で「淫行」と呼ばれているものが何を意味しているか説明しなさい。
7 すでに見たとおり,聖書は,淫行を行なう者をも神が有罪としておられることを述べています。ここで言う「淫行」とは正確には何を表わしていますか。聖書中でのこの語の用法は,姦淫や結婚していない人たちの行なう性交とともに,さらに広い意味を含んでいます。イエスやその弟子たちのことばを記録するさいに「淫行」に当たる語として用いられたギリシャ語は「ポルネイア」です。これは今日用いられている「ポルノグラフィー」などと類縁の語であり,同じ元のことばから来ています。聖書時代に,「ポルネイア」という語は,あらゆる形の不法な性交を表わすために使われました。(モウルトン,ミリガン共編「ギリシャ語新約聖書の語い」)それは,結婚関係にない人たちの間の普通の意味での性関係だけでなく,そうした人たちの間の倒錯した性関係をも含んでいます。それゆえ,別の研究書は,「ポルネイア」が「ソドミー,……男色」をもさしうることを述べています。36
8 使徒パウロはどんな強力な理由で,「淫行を避ける」べきことをクリスチャンたちに説き勧めましたか。
8 使徒パウロは,「淫行を避ける」べきことをクリスチャン兄弟たちに説き勧めましたが,そのようにするべき強力な理由としてこう述べました。「だれもこの点で兄弟の権利を害するようなことをせず,またそれを侵さないことです。……エホバはこうした事すべてに対して処罰を科するかただからです。神はわたしたちを,汚れを容認してではなく,聖化に関連して召してくださったのです。それゆえ,無視する者は,人間ではなく……神を無視しているのです」― テサロニケ第一 4:3-8。
9,10 (イ)人が異性と同棲しながら法律上の結婚の手続きを控えるのはしばしばどんな理由によりますか。(ロ)その淫行が相互の合意による場合でさえ『他の人の権利を害し侵す』ものとなることを述べなさい。
9 淫行を行なう人は,確かに『他の人の権利を害しまた侵し』ます。たとえばこのことは,法律上の結婚の手続きをしないで異性と同棲する人たちについて言えます。そうした人びとはなぜそのようにするのですか。いつでも好きなときにその結び付きを捨てられるからという理由でそうする場合が少なくありません。そうした人びとは,そのような関係にある自分の相手に対し,責任ある結婚関係が当然にもたらすべき保障をなんら与えません。しかし,双方がそれを望み,相互の合意のもとに淫行を行なうのであればどうですか。それでもなお,『他の人の権利を害しまた侵し』ていますか。明確にそうであると言えます。
10 一つの点として,だれでも淫行を行なう人は,他の人の良心を損い,またその人が神のみまえで清い立場を持っているならそれをも損います。淫行者はまた,他の人の,清い状態で結婚生活に入る機会を失わせます。そして,他の人の家族,また自分自身の家族にも,辱しめと非難と悩みをもたらすことでしょう。淫行者はまた,他の人の精神的,感情的,身体的な健康を危うくすることになるかもしれません。そうした性の不道徳には恐ろしい性病の結び付いている場合が少なくありません。そうした危害に対する罪はその淫行を推し進めた側の者に最も重くのしかかるとしても,双方がその罪にあずかっていることは言うまでもありません。
11 神が淫行を黙認されると考えることはできません。なぜですか。
11 人は激しい欲情に押されてこうした危害に目をつぶってしまうかもしれません。しかしあなたは,義の神が,他の人の権利を無視するこうした厚顔な態度を見過ごし,黙認されると考えますか。神のことばは,隣人を自分自身のように愛すること,そして,神の設けられた神聖な結婚の取り決めを卑しめたり退けたりすることではなく,それを「誉れあるもの」として尊ぶことを求めています。―マタイ 22:39。ヘブライ 13:4。
12 (イ)同性愛行為に対する神の見方は何に示されていますか。(ロ)同性愛行為を禁じる神の律法はわたしたちをどんなことから保護しますか。
12 同性愛行為についてはどうですか。すでに見たとおり,この慣行は,イエスやその弟子たちが使った「ポルネイア」(「淫行」)ということばの中に含まれています。弟子ユダは,ソドムとゴモラの人びとの不自然な性行為について述べるさいにこのことばを使いました。(ユダ 7)それらの土地での同性愛行為は,大きな「苦情の叫び」を起こさせるほどの堕落を招き,神はそれらの都市とそこの住民に滅びをもたらされました。(創世記 18:20,新; 19:23,24)その時と今とでは神の見方に変化がありますか。いいえ,そのようなことはありません。たとえば,コリント第一 6章9,10節は,「男どうしで寝る者」について述べ,もしそうした慣行を続けるなら神の王国を受け継ぐことができないとしています。また,『汚れによって自分の体を辱しめ』,『不自然な用のために肉を』追い求める者たちに臨む結果を描写した使徒パウロは,そうした者たちが「互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受け(る)」ことを述べ,それを,「彼らの誤りに対して当然なもの」としています。(ローマ 1:24,27)そうした人びとは神からの有罪の定めのもとに入るだけではありません。彼らは,精神的また身体的な堕落という面でも「返報」を受けます。たとえば,今日,同性愛者の中には梅毒患者が多くいます。神のことばが定める高い規準は,わたしたちから何か良いものを奪い取るのではなく,わたしたちをそうした危害から保護するのです。
離婚に対する神の見方を受け入れる
13 自分の結婚の誓いに対する忠実さはどれほど重大な問題ですか。
13 「わたしは離婚を憎む」。自分の配偶者に対して背信の行ないをする者たちを戒めたさい,エホバ神はご自分の強い感情をこのようなことばで表現されました。(マラキ 2:14-16,改訂標準訳)神のことばは,結婚生活を成功させ,離婚の痛ましさを避けさせるための助言を豊富に差し伸べています。それはまた,神が,結婚の誓いに対する忠実を神聖な責任と見ておられることをも明らかにしています。
14,15 (イ)離婚の唯一の正当な根拠はなんですか。(ロ)そうした「淫行」は自動的に結婚のきずなを断ちますか。(ハ)どのような状況のもとで再婚は許されますか。
14 これは,神が,離婚の正当な根拠としてただ一つのことしか認めておられない,ということによって強調されています。神のみ子はそれが何であるかを次のように示しました。「あなたがたに言いますが,だれでも,淫行[ポルネイア]以外の理由で妻を離婚して別の女と結婚する者は,姦淫を犯すのです」。(マタイ 19:9; 5:32)すでに見たとおり,「ポルネイア」は,自然のものであれ不自然のものであれ,結婚のわくを外れた不道徳な性交すべてをさしています。
15 今日,配偶者がそうした「淫行」の罪を犯した場合,それは自動的に結婚のきずなを断つものとなりますか。いいえ,罪のないほうの配偶者は,それをゆるすかどうかを決定することができます。離婚を決定した場合,クリスチャンは,世俗の政府の権威を正しく認めるがゆえに,その結婚関係を法律的に解消し,そのことを真実な,そして法律的な根拠に基づいて行なうことが必要です。(ローマ 13:1,2)手続きが完了した場合,その人が再婚することはさしつかえありません。しかし聖書は,そうした結婚を,別のクリスチャン,つまりほんとうに「主にある者」とのみに限っています。―コリント第一 7:39。
16 世俗の法律がどんな根拠による離婚をもいっさい許さない国にいる場合,エホバのクリスチャン証人はこの問題に関する神の律法に対する正しい敬意をどのように示せますか。
16 国の法律が,性の不道徳を理由とするものを含め,いかなる離婚をも許さない場合にはどうですか。そのような場合,罪のない配偶者は,離婚の許可されている国で離婚の手続きをすることもできます。もとより,いろいろな事情でそれのできないことがあるでしょう。しかし,自分の国においても,なんらかの形で合法的な別居の手続きをできるかもしれず,もしそうであれば,そうした処置を求めることができます。いずれにしても,罪のない配偶者は罪を犯した者から離れることができ,その土地のエホバのクリスチャン証人の会衆で司法上の務めを果たす長老たちに対して,聖書的に見て離婚の許される明確な証拠を提出することができます。そして,その人がのちに別の配偶者を得ようと決定するような場合,会衆は,その人を姦淫者として会衆から除くような処置は取りません。ただしそのさいには,会衆に対して一つの声明書を提出することが必要です。その声明書は,現在の配偶者に対する忠実の誓いと,離れた法律上の配偶者が死亡した場合に法律に基づく婚姻証書を取得するという同意を含むものでなければなりません。しかしながら,このことが会衆外の世界に関連してどのような結果になるとしても,本人がそれに対処しなければなりません。世は一般に,神の法が人間の法に優先すること,またそうした人間の法の持つ権威が相対的なものにすぎないことを認めていないからです。―使徒 5:29と比べてください。
あらゆる汚れと性的な貪欲を賢明に避ける
17 結婚した人びとの生活において性関係が占めるべき正しい地位を聖書から説明しなさい。
17 結婚した人びとの生活において性関係が正しい地位を占めていることは明らかです。神はこれを,子どもを生み出す手段として,また親に対して快い満足を与えるものとしても備えられました。(創世記 9:1。箴言 5:18,19。コリント第一 7:3-5)しかし神はこの賜物の乱用を戒められました。
18,19 (イ)マスターベーションつまり自涜の習慣はクリスチャンにとってなぜ正しいことではありませんか。(ロ)何がそうした習慣を避ける助けとなりますか。
18 現代社会において性に関する事がらが強調されているために,多くの若い人びとは,結婚する立場になる以前に性的な欲望をかき立てられています。その結果,自分の性器を自分で刺激して楽しみを求める人たちもいます。これはマスターベーションもしくは自涜と呼ばれます。これは正しいこと,また賢明なことですか。
19 聖書はこう助言しています。「ですから,淫行,汚れ,性欲,有害な欲望,また強欲つまり偶像礼拝に関して,地上にあるあなたがたの肢体を死んだものとしなさい」。(コロサイ 3:5)マスターベーションを習慣にする人は『性欲に関して自分の肢体を死んだものと』していますか。逆に,その人は自分の性欲を刺激しています。その人は,自分にまだ許されていない行為に対する渇望を育て,その渇望を清くない方法で満たそうとしています。(エフェソス 4:19)聖書は,こうした問題に至るような考えや行為を避けること,その代わりに健全な行為に携わること,そして自制心を培うことを強く勧めています。(フィリピ[ピリピ] 4:8。ガラテア 5:22,23)こうした勧めに従うために真剣な努力を尽くすなら,自涜は避けることができ,本人にとって,精神的,感情的,霊的な益となります。
20 夫婦であっても自分たちの性関係においていっさいの拘束を払いのけてしまうのは正しくないことを何が示していますか。
20 聖書が「汚れ,性欲,有害な欲望」などに関して述べる事がらは,独身であるか結婚しているかを問わずすべてのクリスチャンに当てはまります。夫婦関係にある人が性関係を持ちまたそれを楽しむことは,確かに聖書的にも法的にも認められた権利です。しかしそれはいっさいの拘束を払いのけてよいという意味でしょうか。神のことばがすべてのクリスチャンに自制心を培うように説き勧めている事実は,そうした見方を非とします。(ペテロ第二 1:5-8)霊感を受けた聖書の筆記者は,結婚している人びとに対し,夫と妻の生殖器が補い合う自然の方法について説明する必要はありませんでした。同性愛者の関係は明らかにこの自然の方法に従うことができません。それで,男女の同性愛者はそれぞれ別の形の性交を求め,使徒が「恥ずべき性欲」また「卑わいな」慣行と呼ぶものにふけります。(ローマ 1:24-32)結婚した夫婦がその結婚関係において同性愛者のそのような性交をまねしても,なお神の目から見て,「恥ずべき性欲」や「有害な欲望」を表わしていないと言えるでしょうか。
21 人の過去の生活がどのようなものであるにしても,今どんな機会が開かれていますか。
21 聖書の述べている事がらを考えると,人は,こうした問題に関する自分の以前の考え方が,聖書の述べるとおり「いっさいの道徳感覚を通り越し」た人びとによって形作られていたことに気づくかもしれません。しかし,それを変化させることは可能です。人は,神の助けのもとに,『,新しい人格を着ける」ことができます。それは真の義にそって形作られるものです。(エフェソス 4:17-24)こうしてその人は,神のご意志を行ないたいという自分の願いが真実のものであることを示せます。
あなたの見方は,あなた自身の平和と安全を大きく左右する
22 性道徳に関する神の助言に従う人にはどんな直接の益がありますか。
22 性道徳に関する神のことばの助言に従うことは決して重荷ではありません。聖書が定める道の結果と,この世の高い離婚率,破壊された家庭,非行子女,売春,性の欲情にからむ暴力や殺人の行為を比べてください。(箴言[格言の書,バ] 7:10,25-27)神のことばにこそ知恵があることはいかにも明白ではありませんか。利己的な欲望や貪欲さに基づくこの世の考え方を退け,自分の考え方をエホバの助言に合わせるなら,あなたの心は正しい欲望にそって大いに強められます。あなたは,性的不道徳のはかない快楽ではなく,清い良心と,いつまでも続く精神的な平安を楽しむことができます。そして,配偶者相互の信頼と親に対する子どもの尊敬心が深まるにつれ,結婚と家族のきずなはいよいよ強くなります。
23 性に対する見方が,神の「新しい地」に生き残るための「しるし」を付けられるかどうかの要素となることを述べなさい。
23 そしてまた,とこしえの命に対するあなたの希望そのものがかかっていることを見失ってはなりません。聖書に従った道徳生活はあなたの現在の健康に資するだけではありません。(箴言 5:3-11)それは,あなたが,神を信じていると偽善的に唱える人びとの行なう忌むべき事がらをほんとうに嘆き,また,義の宿る神の「新しい地」に生き残るための「しるし」を付けられていることの証拠の一部となるのです。それゆえ,『最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう今力をつくして励む』ことはいかにもたいせつではありませんか。―エゼキエル 9:4-6。ペテロ第二 3:11-14。
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命の賜物に対する敬意真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第14章
命の賜物に対する敬意
1,2 なぜわたしたちは命の賜物に対して深い敬意を示すべきですか。
命の賜物に対する深い敬意は,真の平和と安全のための土台となります。しかし,悲しいことに,そうした敬意を持たない人が多くいます。だれでも知るとおり,人間は殺すことによって命を取ることができますが,いかなる人間も,ひとたび失われた命を元に戻すことはできません。
2 わたしたちは,神聖な務めとして命に対する敬意を示さねばなりません。だれに対してですか。命の与え主,つまり,詩篇作者が「いのちの泉はなんぢに在り」と述べたかた,エホバ神に対してです。(詩篇 36:9[36:10,バ])わたしたちはこのかたに命を負っています。このかたは人間を創造されただけでなく,人類が今日に至るまで繁殖することを許し,生命を支えるためのものを備えてこられたからです。(使徒 14:16,17)それだけではありません。エホバはご自分のみ子を,人間家族を買い戻す者,贖い取る者とならせ,自らの生き血をもって人間家族を買い取らせてくださいました。(ローマ 5:6-8。エフェソス 1:7)こうしてエホバは今,それを受け入れる者すべてに,神の新秩序における生命という壮大な希望を差し伸べておられます。それこそわたしたちがほんとうに欲しているものではありませんか。こうした事がらすべてを考えるなら,わたしたちは,神からの命の賜物に対して深い敬意と感謝を表わすべきです。どうしたらそのようにすることができますか。
3 娯楽のために暴力を見ることが生命に対する人の態度に影響することを述べなさい。
3 一つのこととして,生命に対する敬意を示す点で誠実であるなら,ただ楽しみのために,暴力を中心とした娯楽で自分の思いを養う人びとに加わることはないでしょう。暴力を“娯楽”とみなすことによって,人間の苦しみや,生命を失うことに対して冷酷で無感覚になった人が多くいます。そうした人びとはただ当座のことのために生きることを学び,自分や他の人の将来の福祉についてほとんど関心を示しません。しかし,神の恵みと神が与えてくださる希望に感謝しているなら,わたしたちはそうした精神に抵抗します。そして,神からの賜物である生命に対して感謝を培います。こうした態度は,自分の命をどのように用いるか,他の人びとをどのように扱うか,そしてまだ生まれ出ていない者をどのようにみなすかということにさえ及びます。
胎児の生命を尊重する
4 (イ)生命が子孫に伝えられるのはいつですか。(ロ)神が誕生以前の人間の生命に関心をいだいておられることを何が示していますか。
4 生命伝達の能力を持つことは壮大な特権であり,これは神から授けられたものです。その生命が伝達されるのは誕生の時ではなく,妊娠の時です。大英百科事典も述べるとおり,「別個の生物学的実在としての個人の生命史が始まる」のはその時です。37 同様に,人間の生命に対する神の関心もその誕生以前に始まります。詩篇作者ダビデは,神に対することばの中でこう記しました。「あなたは,わたしの母の腹の中でわたしのために仕切りを設けてくださった。……あなたの目はいまだ胎児であったわたしを見,その各部はことごとくあなたの書の中に記された」― 詩篇 139:13-16,新。伝道之書 11:5。
5 堕胎を正当化しようとして提出される論議はなぜ健全なものではありませんか。
5 今日,幾百万もの,生まれる前の子どもの生命が,堕胎という手段で故意に中断されています。これは正しいことですか。誕生前の赤子は生命に対する自覚や認識がなく,また母胎の外で独立して存在することもできない,と論じる人びとがいます。しかしそれは,基本的には生まれたばかりの赤子についても言えることです。生まれたばかりの赤子は,生命の意味について何も理解しておらず,親または他の人の不断の世話がないかぎり存在を続けることもできません。妊娠時に子宮内に形成される生きた細胞は,なんらかの障害が加わらないかぎり,成長してひとりの赤子となる可能性をことごとく備えています。新生児の生命を取ることはほとんどどこの土地でも犯罪とみなされています。赤子が未熟児として誕生する場合でさえ,その生命を守るために多大の努力が払われます。では,胎児の生命を奪ってその成育と誕生を妨げることも犯罪とみなされるのが当然ではありませんか。生命が子宮を離れたときにのみ神聖とみなされ,子宮内にあるときにはそのようにみなされないというのはどうしてでしょうか。
6 聖書は,生まれる前の子どもの生命を故意に取ることに関する神の見方をどのように示していますか。
6 たいせつな点は,人間が問題をどのように見るかということではなく,命の授与者である神がどのように述べておられるかということです。エホバ神の目から見て,誕生前の子どもの生命は貴重なものであり,軽く扱うべきものではありません。エホバは古代のイスラエルに対し,特に誕生前の子どもの生命を保護することに関する律法を与えました。その律法は,ふたりの男が相争って妊娠中の婦人を傷つけたり,流産を起こさせたりした場合に,そのような危害を与えた者に対して厳しい刑罰を定めていました。(出エジプト 21:22,23)生まれる前の子どもの生命を故意に取ることがさらに重大な罪とされることは明らかです。神の律法のもとで,人間の生命を故意に奪った者はみな殺人者として死刑に処せられました。(民数記 35:30,31)神は今日でも,生命を大いに重んずる同じ態度を守っておられます。
7 生まれる前の子どもの生命に関する神のご意志に敬意を払うことはどんなことに対する身の守りとなりますか。
7 生まれる前の子どもの生命に関する神のご意志に深い敬意を払うことは,わたしたちにとってほんとうに益になります。誕生前の生命についてその親が十分に責任を取るべきものとされた神は,それによって,性病,不本意な妊娠,私生児,家庭の破壊,汚れた良心から来る精神の緊張などあらゆる悪い結果を伴う性の乱行に対する抑制力を備えられました。それは今家族の平和を守り,また,将来の祝福を得る面でたいせつな要素となります。
自分の命をたいせつにする
8 なぜわたしたちは,自分の体の扱い方において神のご意志に対する敬意を示すべきですか。
8 自分の体の扱い方についてはどうですか。あなたは自分の命で何をしておられますか。『自分で生まれてこようと思ったわけではない。だから自分の命で何をしようとわたしの勝手だ。わたしはなんでも自分のしたいことをする』と言う人がいます。しかし,自分が頼んでもらったものでなければ人は贈り物に対して感謝しないのでしょうか。生命そのものは良いものです。そのことに否定の余地はありません。生活から多くの喜びを奪い取っているのは人間の悪と不完全さにすぎません。これらについてエホバをとがめることはできません。エホバはそれをご自分の王国政府によって矯正することを約束しておられるのです。したがって,生きているかぎり,わたしたちは,神の意志と目的に敬意を示すようなしかたで生きるべきです。―ローマ 12:1。
9 聖書は暴食と酔酒についてなんと述べていますか。
9 そうした認識を表わす一つの方法は,飲食において節度を守ることです。暴食や酔酒は神によって罪に定められています。(箴言[格言の書,バ] 23:20,21)一方,節度を守って食事をするのは正しいことであり,アルコール飲料の使用についても同じことが言えます。このことは多くの聖句が示しています。―申命記[第二法の書,バ] 14:26。イザヤ 25:6。ルカ 7:33,34。テモテ第一 5:23。
10 (イ)大酒する人は生命に対する敬意の不足をどのように示していますか。(ロ)コリント第一 6章9,10節の示すとおり,酔酒を避けることはなぜたいせつですか。
10 したがって,聖書の中で罪に定められているのは,酒を飲むことではなく,酒に酔うことです。それにはもっともな理由があります。酔酒は体を害し,人に愚かな行動をさせ,他の人の危険となる場合さえあります。(箴言 23:29-35; エフェソス 5:18)それは命を縮め,肝硬変の原因となる場合も少なくありません。なんらかのアルコール中毒症状を示す人が九百万人はいるのではないかとされるアメリカだけを見ても,可能所得,事故,医療,犯罪などの面での損失は年々七億五千万ドルに上ると推定されています。家庭の破壊,生命の損傷,人びとの苦しみなどの犠牲は「計り知れ」ません。(1970年発行「治療の薬理的根拠」,291ページ)それゆえ,使徒パウロが,「惑わされてはなりません。淫行の者,……大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです」と述べていても驚くにはあたりません。―コリント第一 6:9,10。
11 過度の飲酒によって自分の問題から逃れようとするのは分別のあることですか。
11 確かに,世の中の状態が非常に重苦しいものに思えるかもしれません。戦争,犯罪,インフレ,貧困,緊張や圧迫が絶え間ない問題としてのしかかって来ることでしょう。しかし,こうした状態から逃れようとして度を過ごした飲食にふけったところでなんの益にもなりません。それはただ,自分にも他の人にもいっそうの問題を作り出し,その過程において自己の尊厳と人生の目的を失う結果となるにすぎません。
薬剤の使用
12 多くの人はどんな理由で薬剤に頼りますか。
12 生活上の問題から逃れようとして薬剤に頼る人が増えています。言うまでもなく,多くの薬剤には医学上の目的があります。病気の人は,それを使って病気の回復を図ることが必要な場合もあるでしょう。しかし,病気の治療とは関係なく,ただ夢ごこちを得ようとして,さらには一種のこうこつ状態を求めて薬剤を使うことについてはどうでしょうか。それは使う人の生命にどんな影響を与えますか。
13 こうした薬剤のあるものはそれを使う人にどんな影響を与えますか。したがって,聖書の原則はそうしたものを使うことについて何を示していますか。
13 今日,この種の快楽を求める人びとの中には,ヘロイン,コカインなどの“強い”麻薬を使う人が多くおり,また,LSDなどのいわゆる“幻覚剤”を使用する人もいます。また,アンフェタミンやバルビツレートの錠剤を多量に飲む人もいます。これはどのような結果になりますか。こうした薬剤の使用は容易に自制力を失わせ,酒に酔ったと同じような状態を生じさせます。(コリント第一 6:9,10。箴言 23:33)こうした薬剤が危険なことは広く認められており,使用者の多くでさえそれを認めています。たとえば,ニューヨーク市においては,ヘロインの中毒が,18歳から35歳の年齢層における主要な死因となっています。命の賜物に対するはなはだしい敬意の不足ではありませんか。
14,15 マリファナは一般には惑溺性がないとされていますが,それを吸う人はなぜ命の賜物に敬意を示していませんか。
14 しかし,中毒性のない麻薬とされているマリファナの使用についてはどうですか。それにもいろいろな点で危険があります。その一つは,アメリカの保健厚生教育省発行の折り本の中で指摘されています。その説明によると,「ただ一種類の違法薬剤の使用者も,麻薬販売人や他の使用者との接触を通して各種の違法薬剤にさらされることに」なります。また,「USニューズ・アンド・ワールドリポート」誌1971年2月1日号も,「マリファナに関する最近の発見」という見出しのもとに,「一般の証拠からすれば,心理的な理由で,つまりそれによって緊張やゆううつを和らげられると考えて薬剤に頼るようになった人はさらに強い薬剤に進みがちである」と伝えました。
15 しかし,たとえそのようなことが起こらないとしても,マリファナの服用そのものに危険がありえます。多少異なった見方のあることは確かですが,一調査が明らかにした次の点は注目に値します。「相当量の服用は……一時的とはいえ急激な,そして予測のできない精神病的症状を引き起こし,それは妄想,幻覚,偏執,抑うつ状態,恐怖感などの形で表われる」。38 この報告はまた,マリファナの継続的,定常的な使用が,「肝臓障害,遺伝的欠損,脳障害,呼吸器上部の疾患」など,身体的に悪影響を及ぼしうることをも述べています。こうした危険性を考えるとき,マリファナを使用する人は命の賜物に敬意を示していると言えますか。
16 麻薬を使う人はほかのどんな重大な危険に身をさらすことになりますか。そのゆえにわたしたちはこの問題をどのようにみなすべきですか。
16 薬剤によって偽りの幸福感を求めることを戒める別の強力な理由があります。そうした薬剤の使用によって,人は悪霊の支配下に入りやすくなります。麻薬使用者の中にさえ,そうした麻薬の使用に神秘主義的な慣行の伴う場合のあることを認める人が多くいます。この,麻薬と神秘主義との結び付きは最近に始まったものではありません。過去の呪術者たちは麻薬を用いました。バインの「新約用語解説辞典」はこう述べています。「呪術においては,単純なものであれ強力なものであれ麻薬類が使用され,それには普通,じゅもんや,神秘的な力に訴えることが伴っていた……これは申し込み者に,呪術者の不可思議な才知と力を印象づけるためであった」。この注釈は,ガラテア 5章20節で「心霊術の行ない」と訳されているギリシャ語(ファルマキア,字義的には「薬剤の使用」)に関するものです。(啓示 9:21; 18:23もご覧ください。)したがって,昔と同じように今日でも,麻薬は人を悪霊の影響にさらすものとなりえます。エホバの忠節なしもべになろうとする人であれば,ただつかのまの陽気な気分を味わうために,どうして自分の身をそうした危険にさらすことができるでしょうか。
17,18 (イ)麻薬を使うことにはほかのどんな悪い実が結び付いていますか。(ロ)それで,エホバのクリスチャン証人は麻薬の使用をどのようにみなしますか。
17 周知のとおり,麻薬の使用には,犯罪や,その社会における道徳崩壊が密接に結び付いています。違法な麻薬の売買は組織犯罪の主要な収入源の一つとなっています。麻薬中毒者の中には,その習慣を続けるために窃盗や夜盗を働く者が多くいます。また,売春に身をくずす者もいます。ひとりが中毒者となったために引き裂かれてしまった家族が幾千となくあります。妊娠中の母親は中毒状態を自分の子どもに伝えます。そうした子どもはもだえながら死んでゆく場合も少なくありません。そして,たいていの国において,こうした危険な薬剤を医療目的以外で使用したり保持したりすることは違法とされています。―マタイ 22:17-21。
18 あなたは,これら悪い実すべてと結び付いた習慣に関係したいと思いますか。エホバのクリスチャン証人たちは決してそのようなことを望みません。彼らは,スリルや現実逃避を求めて薬剤に頼るようなことにはいっさい関係を持とうとしません。彼らは命を非常にたいせつなものとみなしており,自分の命を神のご意志にかなうしかたで用いたいと願っています。
たばこ類の使用
19 たばこ,ベテルナット,コカの葉などをどう見るかの問題に,命の賜物に対する敬意が関係してくるのはなぜですか。
19 今日さらに広く見られるのは,たばこをのむ習慣です。また,土地によっては,ベテルナット(ビンロウの実をキンマの葉で包んだもの)やコカの葉が用いられています。世界じゅうの無数の人びとによって使用されていますが,これらはいずれも体に,そしてときには知能にも有害であることが知られています。たばこについては,肺ガン,心臓疾患,慢性気管支炎,肺気腫などとの関連が警告されています。こうした惑溺性のある有害な物質を使用するのは,命の賜物に対して敬意を払うことですか。
20,21 (イ)聖書がそうした習慣をそれぞれ名を挙げて罪に定めていないということは,それを行なってもよいという意味ですか。(ロ)こうした習慣が,誠実な態度で神のご意志を行なおうとする人の生活には無縁なものであることを,聖書のどんな原則が示していますか。
20 これらはみな神の創造されたものだ,と言う人がいるかもしれません。確かにそのとおりです。しかし,きのこについても同じことが言えますが,その中には人が食べれば死ぬものもあります。さらに,聖書はこうした習慣について特に述べておらず,それを罪に定めてはいない,と言う人がいるかもしれません。なるほどそうです。しかし,すでに見てきたとおり,聖書の中で特に罪に定められてはいなくても明らかに悪であるものはいくらでもあります。聖書はどこにも,隣家の裏庭をごみの捨て場にしてはいけないと,特に述べてはいません。しかし,わたしたちのだれにしても,『隣人を自分自身のように愛しなさい』という命令だけで,これがどれほどいけないことであるかを悟れるはずです。―マタイ 22:39。
21 コリント第二 7章1節で,神のことばはわたしたちに,「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成」するようにと述べています。あるものが「神聖である」とは,「晴れやかで,清く,汚れがなく,腐れのない」ことです。エホバ神はご自分を清く,腐れのない状態に保ち,身を落として神聖さの欠けた行為をされることは決してありません。神がわたしたちに,わたしたち人間に可能なかぎり「神聖さを完成」してゆくようにと求められるのは当然なことです。(ローマ 12:1)また神は,わたしたちが『心と魂と思いと力をこめて神を愛する』ことを求めておられますが,自分の体を損い,健康を害し,命を縮める習慣にふけっているとすれば,どうしてこの求めに応じることができるでしょうか。―マルコ 12:29,30。
22 こうした悪い習慣のとりこになっている人は何によってそれから脱することができますか。
22 こうした習慣のいずれかが自分にとって“大きな障害”となっているように思う人がいるかもしれませんが,それを克服して自由になることは可能です。神とその壮大な目的に関する知識は,そのようにするための強力な動機付けを与えます。人は『自分の思いを活動させる力において新たに』なることができます。(エフェソス 4:23)それは人に新しい生き方をさせるものとなります。それは人に満足感を与え,神に誉れとなる生き方です。
生命を表わす血に対する敬意
23 (イ)神がイスラエルに対する律法の中で是認された,血の唯一の使用法はなんでしたか。(ロ)そうした犠牲の表わしていたものが,この問題に関する神のご意志に慎重な考慮を促すのはなぜですか。
23 生命について述べる場合,わたしたちが持つ血のことも取り上げねばなりません。人間のものであれ動物のものであれ,神は血を生命の象徴とされました。このことは,わたしたちすべての先祖であるノアとその子らに神が与えた律法の中で,またのちにイスラエル国民に与えた律法の中で示されています。血の使用に関して神がそこで是認しておられるのは,神の指示にしたがって祭壇上にささげられる犠牲の血を用いる場合だけです。(創世記 9:3,4。レビ記 17:10-14)そうした犠牲はみな,神のみ子がささげる一つの犠牲を表わしていました。み子はその犠牲によって,ご自身の生き血を人類のために注ぎ出してくださったのです。(ヘブライ 9:11-14)そのこと自体,この問題に関する神のご意志に慎重な注意を払うようわたしたちを促すものです。
24 使徒 15章28,29節は,クリスチャンが血の使用に対して持つべき見方についてなんと述べていますか。
24 血の使用に関する神の制限は真のクリスチャンに今でも当てはまりますか。確かに当てはまります。そのことは,使徒や一世紀のクリスチャン会衆の他の年長者たちの公式の声明の中に示されています。神の霊の導きのもとに彼らはこう書き記しました。「聖霊とわたしたちとは,次の必要な事がらのほかは,あなたがたにそのうえなんの重荷も加えないことがよいと認めたからです。すなわち,偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[ゆえに,血を注ぎ出してないもの]と淫行から身を避けていることです。これらのものから注意深く離れていれば,あなたがたは栄えるでしょう」― 使徒 15:28,29。
25 世はどんな慣行によって,血に関する神のご意志を無視していることを示していますか。
25 しかし今日,生命のこの肝要な要素に関する神のご意志を全く無視する人が多くいます。そうした人びとは血を食品の中に,また医療の目的で,さらには肥料をはじめとする商業製品の原料としてさえ見境なく用います。しかしこれは,命の賜物をはなはだしく軽視するこの世界の特色を反映するものではないでしょうか。一方,生命に対する誠実な感謝を持ち,神に対する責任を認識しているならば,わたしたちは,神のご意志を無視したり,明確な神の命令に背いて神をないがしろにしたりすることはないでしょう。
26,27 神への不従順によって現在の命を永らえさせようとすることは,神の命の賜物に真の敬意を示すことではありません。なぜですか。
26 それゆえ,わたしたちは自分の健康に注意を払い,神からの賜物として自分の生命の保護を図るべきであるとはいえ,そこには守るべき一定の限度があることを認めねばなりません。神のみ子は次のように述べてそれを明らかにされました。「自分の魂[もしくは,命]を慈しむ者はそれを亡くしますが,この世において自分の魂を憎む者は,それを永遠の命のために保護することになるのです」― ヨハネ 12:25。
27 これは何を意味していますか。神に従うがゆえに死に直面するか,あるいは,自分の現在の命を永らえさせるために神に不従順になるかという問題の場合,神の真実のしもべであれば,神への不従順よりは死を選ぶという意味です。イエス・キリストも,神への従順を捨てれば杭の上での死を免れることができました。しかし,そうはされませんでした。そして,キリスト以前の人びとも,神のご意志に対する同じ不動の献身を示しました。(マタイ 26:38,39,51-54。ヘブライ 11:32-38)彼らは,当座の命を守ろうとして永遠の命の希望を失うことはありませんでした。
28 生命に対する聖書の見方に認識を培うことによって,わたしたちは何に備えることができますか。
28 あなたも生命に対してこれと同じ見方をしておられますか。あなたは,生活をほんとうに意義あるものとするためには,神のご意志に従って生きなければならないことを認識しておられますか。今そうした見方を培うことは神の新秩序での生活に備えることになります。その時には,地上に生活する人すべてが神の命の賜物に対する真実の敬意をいだいているのですから,人は,いつどこにいても,このうえない平安と安全を楽しむことでしょう。
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他の人びとのことに関心を払うべきなのはなぜか真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第15章
他の人びとのことに関心を払うべきなのはなぜか
1 (イ)どんなことのために,多くの人は,ただ自分のことだけに気を配り,他の人びとのことにはあまり関心を払わないのがよいと考えるようになっていますか。(ロ)それはどのような結果になっていますか。
利己心のない態度で他の人の福祉を考えることは今日まれになっています。わたしたちすべてが他の人を愛する能力を持って生まれてきていることは確かです。しかし,他の人が不当に自分を利用しようとしているのを見て,あるいは,愛を示そうとする自分の努力が誤解されるのを見て,結局のところただ自分のことだけに気を配ればそれでよいのだ,と思ってしまう人がいます。また,利己的な目的のために仲間の人間を利用する人がしばしば物質的に栄えているのを見て,これが成功の道なのだと考える人もいます。結果として,真の友人をほとんど持たない人が多くなっています。人びとの間には不信感と疑いの精神が流れています。こうした不幸な事態にはどんな理由があるのでしょうか。
2 (イ)聖書は問題の根本をどのように明らかにしていますか。(ロ)神を『知る』とはどういう意味ですか。
2 人びとに欠けているのは愛,他の人びとの永続的な福祉に対する誠実な関心としての愛です。なぜそれが欠けているのですか。聖書は問題の根本を指摘してこう述べています。「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。(ヨハネ第一 4:8)神を信じていることを公言し,教会にさえ出席する自己本位の人びとがいることは確かです。しかし,そうした人びとはほんとうに神を知ってはいない,というのが事実です。神を『知る』とは,神の特質に十分に通じ,その権威を認識し,それに従って行動することです。(エレミヤ 22:16。テトス 1:16)したがって,他の人を惜しみなく愛し,他の人からも愛を受ける時にはじめて可能な,ほんとうに喜びある生活のためには,神を十分に知り,学んだ事がらを実際に当てはめなければなりません。
3 神は人類に対するきわだった愛をどのように示されましたか。
3 使徒ヨハネは書きました,「わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが[まず]神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです。愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」。(ヨハネ第一 4:9-11)神は,人類の愛のない行動のゆえに自らの愛を消し去るようなことはされませんでした。ローマ 5章8節が述べるとおりです。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。
4 そのことから,あなたは神に対してどのような感情をいだきますか。
4 あなたが深く愛していて,自分の命をさえ与えたいと思う人がどれだけいますか。しかも,あなたのために特に何かをしたわけではない人のためにです。子どもを持たれるかたで,自分の命を犠牲にしても子どもの命を守ろうとする自然の愛情に動かされることがあるとしても,その子どもの命をさえある人びとのためにすすんで与えようとすることがありますか。神がわたしたちのために示してくださったのはそのような愛です。(ヨハネ 3:16)このことから,あなたは神に対してどのような感情をいだきますか。神がしてくださったことにほんとうに感謝しているなら,わたしたちは神のおきてに従うことをなんら重荷とは感じないはずです。―ヨハネ第一 5:3。
5 (イ)イエスが弟子たちに与えた「新しいおきて」とはなんですか。(ロ)支配者としての神に対するわたしたちの専心的な態度がここでどのように関係してきますか。(ハ)では,神のしもべである仲間のためにわたしたちが行なうべきことの中にはどんなことがありますか。
5 イエスは,死ぬ前の晩に,そうしたおきての一つを弟子たちに与えました。そのおきては,それに従う弟子たちを,世のほかの人びととははっきり異ならせるものでした。イエスは,「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです」と言われました。彼らは単に,自分を愛するように他の人を愛するのではありません。イエスは,「わたしがあなたがたを愛したとおりに」と言われました。その点でこのおきては「新しい」ものでした。つまり,互いのためにすすんで自分の命をも犠牲にしようとすることを意味していました。(ヨハネ 13:34,35。ヨハネ第一 3:16)このような愛を表わすことによって,わたしたちは神に対する専心的な態度をも示すことになります。どうしてですか。それによってわたしたちは,自分自身の命つまり自分の魂が危険になるならどんな人間も神への従順を曲げると唱えた悪魔が偽り者であることを実証していることになるからです。(ヨブ 2:1-10)この「新しいおきて」に従うことが,互いに対する深い関心を求めることは明らかです。それは,必要な場合に神のほかのしもべたちを霊的また物質的に助けるため,自分の努力を,そして自分の命をさえ惜しまないことを意味しています。―ヤコブ 1:27; 2:15,16。テサロニケ第一 2:8。
6 ほかのだれにも愛を示すべきですか。なぜ?
6 しかしながら,愛の行為の対象はただ仲間の信者だけに限られるのではありません。キリストは人類世界全体のために死なれたのであり,ただその地上宣教の期間にご自分の弟子となった者たちだけのために死なれたのではありません。したがって,聖書はわたしたちにこう促しています。「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」。(ガラテア 6:10)わたしたちの生活にはこれを実行する機会が毎日たくさんあります。狭い見方をせず,広い心を持って寛大な態度で他の人に愛を働かせるなら,わたしたちは,自分が『天におられる父の子』であることをほんとうに示せます。「父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださる」からです。―マタイ 5:43-48。
他の人の身体や資産に対する敬意
7 他の人の身体や資産に対する態度について,わたしたちはどんなものの影響を受けやすいですか。
7 わたしたちは愛のない世界のただ中に住んでいます。おそらくあなたも,自分が他の人びとに対して必ずしも常に最大限の思いやりを示してこなかったことを認められるでしょう。何が正しいかを知っている場合でさえ,ともに交わる人びとの影響で悪い習慣を身に着けやすいものです。(コリント第一 15:33)したがって,神に仕えようとする人は,『自分の思いを作り直す』ために良心的な努力をすることが必要です。(ローマ 12:1,2)他の人の身体や資産に対する自分の態度を変えなければなりません。
8 (イ)他の人の資産を軽視する態度が広範に及んでいることはどんなことに示されていますか。(ロ)聖書のどんな教えに従う人はこうした行為を慎みますか。
8 場所によっては,他の人の資産に対する敬意が驚くほど欠けているところもあります。若者たちはただ“スリル”のために個人や公共の資産を破壊し,他の人びとがほねおって得た物品を故意に傷つけます。また,そうした蛮行にまゆをひそめていながら,紙くずその他の廃物を公園,街路,公共の建物などに所かまわず投げ捨てて,こうした傾向に一役買っている人たちもいます。これらは,「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」という,イエスの訓戒のことばに従うものですか。(マタイ 7:12)こうした行動をする人は,全地をパラダイスにするという神の目的に全く従っていることを示していますか。
9 (イ)盗みの行為はすべての人の生活にどんな影響を与えていますか。(ロ)盗みの行為を神が悪としておられるのはなぜですか。
9 自分の生命や資産に対する心配のために,多くの土地の人びとは戸に鍵をかけ,窓に横木を渡し,あるいは番犬を置くことを余儀なくされています。商店は盗まれた品物に対する埋め合わせとして値段を上げなければなりません。盗みの行為は広く見られます。しかし,神の新秩序での生活の用意をしている人びとにとってこうした行為は無縁です。彼らは仲間の人間の安全に資するようなしかたで行動することを学ばねばなりません。聖書は,人が『その労苦によって楽しみを得る』ことが「神の賜物」であることを示しています。したがって,人の働きの結果を奪い取ろうとするのは正しくありません。(伝道之書 3:13; 5:18)かつては不正直な生活をしていても,今はその生活を変化させた人が大ぜいいます。彼らは単に盗みの行為をしないだけではありません。他の人に与える喜びを学び知っているのです。(使徒 20:35)神を喜ばせたいという願いのもとに,彼らはエフェソス 4章28節の次のことばを心に留めています。「盗む者はもう盗んではなりません。むしろ,ほねおって働き,自分の手で良い業をなし,窮乏している人に分け与えることができるようにしなさい」。
10 (イ)他の人に話しかけるさいのその話し方によっても思いやりを示せることを述べなさい。(ロ)この点で愛を示すことを学ぶうえで助けとなるものはなんですか。
10 人が必要としているのは物質的なものではなく,ただその人個人に対する親切さであるという場合も少なくありません。物事がうまくゆかなかった場合には特にそうです。ところが,人の失敗や誤りが明らかになると,しばしばどんなことが起こりますか。怒り声,叫び声,ののしりのことば,辛らつな批判などを耳にすることは珍しくありません。こうしたことがよくないことだと認めながら自分の舌を制御できない人もいます。こうした習慣を克服する上で助けになるものはなんですか。根本的に欠けているものは愛です。つまりこれは,神を知らなければならないという意味です。神から示していただいた深いあわれみをほんとうに認識するとき,人は他の人をゆるすことがそれほど難しいことではないのを悟ります。さらに,神の手本に倣って過ちを犯した人を助ける方法をも知るようになり,事態の改善を図って親切な援助を与えようとするでしょう。―マタイ 18:21-35。エフェソス 4:31–5:2。
11 他の人びとが不親切な態度を取る場合でも,なぜあしざまな言い方をすべきではありませんか。
11 わたしたちに接する人びとが神のことばに基づくこの優れた助言に必ずしも従って行動しないことは確かです。自分は誠実な動機をいだいているのに他の人びとの無情な攻撃の的となる場合もあります。そのようなとき,わたしたちはどうしますか。聖書はこう助言しています。「悪に征服されてはなりません。むしろ,善をもって悪を征服してゆきなさい」。(ローマ 12:17-21。ペテロ第一 2:21-23)他の人びとの予期していないわたしたちの親切な行動が相手の態度を和らげ,その人の持つ良い資質を引き出す結果になるかもしれません。しかし,人びとの反応がどうであるとしても,自分が神の方法に従っているかぎり,わたしたちは,愛に基づく神の支配のしかたを擁護する証拠を示しているのだということを確信できます。
人種的,国家的,また社会的な偏見を克服する
12,13 人種的,国家的,社会的な偏見をいっさい除き去るために聖書の教えはどのように助けとなりますか。
12 真の愛を持つ人は,人種,皮膚の色,国籍,社会的地位などの相違によって影響されません。なぜですか。『[神]はひとりの人からすべての国の人を作った』という聖書の真理を深く理解しているからです。(使徒 17:26)したがって,すべての人は親族関係にあります。いかなる人種も生得的に他の人種に勝るということはありません。
13 また,いかなる人も,先祖,人種,皮膚の色,国籍,身分などのゆえに誇る理由はありません。「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しない」のです。(ローマ 3:23)義に到達するためには,どんな人もキリストの犠牲に頼らなければなりません。そして聖書は,そのようにキリストの犠牲に頼り,きたらんとする「大患難」のさいに命を救われる人びとが,「すべての国民と部族と民と国語」の中から取られることを示しています。―啓示 7:9,14-17。
14 個人的な悪い経験のゆえにある人種または国籍の人びとに対して冷たい感情を持つべきでないのはなぜですか。
14 人は,自分のいだく偏見を正当化しようとして,自分がある人種または国籍の人から受けた苦い経験を思い出すかもしれません。しかし,その人種または国籍のすべての人がその悪行に関係したわけではないことを考えるのは良いことです。さらに,自分と同じ人種や国籍の人もそれと同様の罪を犯したことがあるに違いありません。神の平和な新秩序に生きることを願うなら,わたしたちは自分の心の中から,他の人びととの間に壁を作りがちな誇りの気持ちをいっさい除き去らねばなりません。
15 人種や国籍に関して述べる事がらが仲間の信者をつまずかせるとすれば,その人自身が神およびキリストのみ前で持つ立場はどのような影響を受けますか。
15 わたしたちの心の中にあるものは,いずれわたしたちの話す事がらとなって表われてきます。キリスト・イエスは,「心に満ちあふれているものの中から人の口は語る」と言われました。(ルカ 6:45)他の人種または国籍の人に対する偏見のことばが,神の救いのご準備に関心を示している人をつまずかせたとしたらどうですか。これは,そのような愛の欠けた言動をした人にとって重大な結果になりえます。キリスト・イエスはこう警告されました。「信ずるこれら小さな者のひとりをつまずかせる者がだれであっても,その者は,ろばの回すような臼石を首にかけられて海に投げ込まれてしまったとすれば,そのほうがよいのです」― マルコ 9:42。
16 イエスは,他の人に関心を払っていることをどのようなかたよりのない態度で示すべきであるとされましたか。
16 クリスチャンは,人種,国籍,身分などには関係なく他の人に関心を払う務めを負っています。(ヤコブ 2:1-9)「あなたがごちそうを設けるときには,貧しい人,かたわ,足なえ,盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです」と言われたイエスは,その点をよく言い表わされました。(ルカ 14:13,14)こうして他の人に深い関心を払っていることを示すなら,神の資質を真に反映していることになります。
他の人びとの永遠の福祉に対する愛の関心
17 (イ)わたしたちが他の人びとと分け合うことのできる最も価値あるものはなんですか。(ロ)わたしたちは何に動かされてそれを行なうべきですか。
17 言うまでもなく,他の人びとに対するわたしたちの関心は,当座の物質上の必要を顧みることだけに限られるべきではありません。また,あらゆる人種,国籍,身分の人びとに対して親切な態度を取ったからといって,それだけでわたしたちの愛が完全なものとなるわけでもありません。そうした人びとが真に意義ある生活をするためには,エホバ神とそのお目的に関する知識を持たなければなりません。ご自分の父に対する祈りの中で,イエス・キリストはこう言われました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」。(ヨハネ 17:3)この本を初めから読んでこられたなら,この命の賞をとらえる方法を知っておられるはずです。また,予告された「大患難」について聖書が述べている事がらを,そして,それが近いことを確証する実際の証拠を,ご自身で見てこられたはずです。そして,神の王国が人類に対する唯一の希望であることを知っておられます。他の人びとも,この肝要な知識を必要としています。あなたは,エホバと仲間の人間に対する愛のゆえに,それを他の人びとと分け合うことを願いますか。
18 (イ)イエスは,わたしたちの時代になされるべきものとして,マタイ 24章14節でどんな業を予告されましたか。(ロ)わたしたちはそれに加わることをどのようにみなすべきですか。
18 「事物の体制の終結」について語ったさい,イエスはこう予告されました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)宇宙の主権支配者エホバご自身の代理者となり,その証し人のひとりに数えていただくことは,なんとすばらしい特権ではありませんか。神のみ子が予告したこの特別の業に加わる機会はまだ開かれています。とはいえ,その開かれている期間はあとわずかです。
19 自分の能力が足りないのではないかと考えてこの業からしりごみすべきでないのはなぜですか。
19 エホバのクリスチャン証人のひとりとなってこの業に加わることについて考えるさい,好意的な態度で良いたよりに耳を傾ける人の心を開くのは,個人の話し方の能力ではなく,神ご自身である,ということを知っておくのは良いことです。(使徒 16:14)あなたがすすんで行なおうとする心に動かされているなら,エホバはご意志を成し遂げるためにあなたを用いることができます。音信はエホバ神のものであり,それが結果を生み出すように事を導かれるのもエホバです。(コリント第一 3:6)使徒パウロが自分自身の場合に関して述べた事がらについて考えてください。「さて,わたしたちはキリストを通して神にこのような確信をいだいています。すなわち,何にせよそれがわたしたちから出ているとみなせるほどわたしたち自身にじゅうぶん資格があるということではなく,わたしたちにじゅうぶん資格があるのは神から出ているということです」― コリント第二 3:4-6。
20 (イ)この良いたよりにすべての人が好意的な態度で応じると考えられますか。(ロ)無関心な人,そして反対する人にさえ宣べ伝えることによってどんな良いことが成し遂げられますか。
20 もとより,すべての人がその良いたよりに好意的な態度で応じると期待することはできません。無関心な人が多いでしょう。反対する人もいることでしょう。しかし,そうした人びとが変化しないわけではありません。一時はクリスチャンの迫害者であったタルソスのサウロは,イエス・キリストの熱心な使徒のひとりとなりました。(テモテ第一 1:12,13)当人がそのことに気づいていてもいなくても,他の人たちも王国の音信を必要としています。それゆえわたしたちは,それを真剣な態度で伝えなければなりません。単に自分のことだけではなく,他の人びとに対する深い関心が必要です。そうした関心を示すためには,彼らの益を求める専心的な努力,その永続的な福祉のためにすすんで自分をささげようとする態度が求められます。(テサロニケ第一 2:7,8)たとえ彼らが王国の音信を望まないとしても,成し遂げられていることがあります。証しがなされ,エホバのみ名が大いなるものとされ,人びとを『分ける業』が進められてゆくのです。―マタイ 25:31-33。
自分の家族に起きる事がらに関心を払う
21 家族の頭は自分の家族の霊的な福祉に関してどんな責任がありますか。
21 しかしながら,エホバの愛あるご準備から益を得られるように他の人びとを助けるあなたの努力は,自分の家族外の人びとだけに向けられるべきものではありません。たとえば,家族の頭には自分の家の者たちに対する主要な責任があります。家族の霊的な成長は,ともに神のことばについて話し合ったり学んだりする機会を,頭が家族のためにどれほど定期的に取り決めるかということと直接のつながりを持っています。そして,家族のために父親のささげる祈りが深い献身と感謝を表わすものであれば,それが家族全体の態度を形作るようになります。
22 父親が子どもに懲らしめを与えることはなぜたいせつですか。どんな動機でそれを行なうべきですか。
22 頭の責任の中には,懲らしめを与えることも含まれています。何かの問題が生じた場合,それを無視してしまうほうが簡単に思えるかもしれません。しかし,父親がいらだったときにだけ懲らしめが与えられ,また,深刻になったときにだけ問題が扱われるのであれば,そこには何かが欠けています。箴言[格言の書,バ] 13章24節はこう述べています。『子を愛する父親は懲らしめを加えつつ待ち望む』。(新)一日の終わりで疲れているときでも終始一貫したしつけと懲らしめを与える父親はほんとうに愛のある父親です。そして,しんぼう強い態度で子どもに物事を説明し,各自の知的,情緒的,身体的な限界を考えに含めるなら,それはいっそうの愛の表われとなります。(エフェソス 6:4。コロサイ 3:21)父親であるかたでしたら,お子さんに対してそのような愛を示しておられますか。こうした責任を喜んで果たそうとしているなら,ただ現在のことだけでなく,家族の将来の福祉にも目を向けておられることのしるしです。―箴言 23:13,14; 29:17。
23 母親は家族の霊的な福祉に強い関心をいだいていることをどのように示せますか。
23 家族の霊的な状態に気を配る点で夫に協力することによって,妻も家族の福祉のために大きく寄与できます。そして,子どもに深い関心を払い,自分の時間を活用して子どもの生活を敬神の道に従って形作るなら,それはたいてい,子どもの行動や母親に対する態度に反映されるようになります。(箴言 29:15)父親のいない家庭においても,聖書に基づいて注意深く教え,それにりっぱな手本が伴うなら,良い結果を見ることができます。
24 (イ)自分の配偶者からの反対に直面した場合,信者はどんな論争をはっきり認識しているべきですか。(ロ)そのような状態のもとで,信者でない配偶者に対する真の愛はどのように示せますか。
24 しかし,父親が家庭にいても神のことばを受け入れていない場合にはどうですか。そして,妻を迫害する場合さえあるかもしれません。妻はどうしたらよいですか。エホバを愛するなら,彼女は決して神に背を向けたりはしないはずです。人間は苦難に遭えば神を捨てるだろうと唱えたのはサタンです。そして彼女は,自分がサタンの言う通りになることを望まないはずです。(ヨブ 2:1-5。箴言 27:11)同時に聖書は,妻が夫のことに深い配慮を払い,夫の永続的な福祉を図るように求めています。真理であると自分が知っている事がらを放棄してしまうのはそうした愛を示すことにはなりません。もし放棄してしまうなら,ふたりともとこしえの命を失う結果となるに違いありません。一方,妻が信仰のうちにしっかりとどまるなら,夫が救いを得るように助けることもできるでしょう。(コリント第一 7:10-16。ペテロ第一 3:1,2)さらに,難しい状態のもとでも引き続き自分の結婚の誓いを尊ぶなら,妻は結婚の創始者であられるエホバ神への深い敬意を示すことになります。
25 親の決定は子どもの命の見込みにどのような影響を与えますか。
25 信者であるほうの親が,反対に直面してもなお神への忠実を守るべき別の強力な理由があります。それは子どもです。神はご自分に献身したしもべの幼子を恵みをもってご覧になり,そうした子どもが,もし従順であるなら,きたるべき「大患難」のさいに保護されるとの保証を与えておられます。たとえ片親だけがエホバのしもべである場合でも,神はその思いやりによって,そうした幼子を「聖なる者」とみなされます。(コリント第一 7:14)しかし,もしその親が神のご意志を行なうことを「言いわけをして拒む」とすればどうでしょうか。そうした親はそれによって,単に自分だけでなく,幼子のためにも,神のみまえでの是認された立場を放棄することになります。(ヘブライ 12:25)それはいかにも悲しむべき損失ではありませんか。
26 自分自身と他の人びとの真の益を図るために,わたしたちには何が必要ですか。
26 それで,生活のどんな面を見ても,わたしたちが単に自分のことだけでなく,他の人のことをも考えるべきことは明らかです。利己心のない態度で他の人びとに関心を払うことをわたしたちの習慣とするなら,わたしたち自身が人びとからの愛を受けるようになります。(ルカ 6:38)しかし,純粋な愛を働かせ,近視眼的な人間の論議に惑わされないようにするためには,エホバ神を知り,エホバとの親密な関係を持つことが必要です。しかしながら,そうするためには,わたしたち各自が一つの選択を行なわなければなりません。
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真に平和で安全な生活を保証する選択真の平和と安全 ― どこから得られるか
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第16章
真に平和で安全な生活を保証する選択
1 正しい選択をするなら,どんな平安と確信を今自分のものにできますか。
生きることに真の目的を持ち,自分がどこに行くかを知っていることはなんという祝福でしょう。そして,それ以上に賢明で優れた道はありえないという確信を得ていることはなんという慰めでしょう。それは,心と思いの深い平安となるではありませんか。あなたはそうした平安と確信を自分のものとすることができます。しかしそのためには,機会に恵まれた今の時に,正しい選択をしなければなりません。
2 エホバとそのお目的を知ることは,生活に対するわたしたちの見方全体にどんな影響を与えますか。
2 あらゆる証拠は,真の平和と安全をこの世には求めえないことを示しています。そして聖書は,この世ではなく,わたしたち自身でもなく,ただエホバ神だけが,真の平和と安全の唯一のよりどころであることを明確に指摘しています。エホバ神と人類に対するエホバの目的とを知ることによって,わたしたちはなぜ自分がこの地上に存在しているか,なぜ物事が今日このようになっているかを理解できます。わたしたちは,全人類が直面している大論争について,また,エホバの宇宙主権に関するその論争がわたしたち各人と生命に対するわたしたちの希望にどんな影響を与えるかについても学べます。神のことばの光によって,わたしたちは人類がかかえる問題の根本的な原因を知ることができます。さらにわたしたちは,自分の目ざしているものが正しくかつ賢明なことかどうかを考量するすべを知り,また,生活の導きとなる,安定した信頼できる道徳規準を得ることができます。そうです,たとえ病気,老化,死に面する場合でさえ,エホバのご意志を行なう者には義の宿る健康的な新秩序での命が,必要なら死からの復活によってさえ必ず与えられるとの,慰めに満ちた保証を持てるのです。
3 なぜエホバはわたしたちがいっさいの希望を託すべきかたですか。
3 したがって,イザヤ 26章4節が,「なんぢらとことはにエホバによりたのめ 主エホバはとこしへの巌なり」と説き勧めているのも当然です。全能者であり,とこしえに存在される不変のエホバこそ,わたしたちがいっさいの希望を託すべきかたです。あなたは,神の保護と導きを,ただ現在だけでなく,神の約束された新秩序においていつまでも限りなく受けられるようになりたいと思いますか。そのためには何を行なわねばなりませんか。
4 エホバの恵みを得るためにわたしたちには何が必要ですか。何によってそれは可能になっていますか。
4 人類全体は,わたしたちの最初の親の罪の結果として神から離反してきました。エホバの恵みを得るためには,どんな人もエホバと和解し,エホバとの恵みの関係に入らねばなりません。神はみ子により,また世のためにささげられたみ子の犠牲によって,すべての人がそうできるように道を開かれました。(コリント第二 5:19-21。エフェソス 2:12,13)しかし,わたしたちが今,神との交友を得たいと言うだけでは十分でありません。
5 エホバとの交友を求めるさい,何がその動機であるべきですか。
5 わたしたちは,自分がそれを望み,しかも正しい動機でそれを望んでいることを,すすんで,いえ,熱心な態度で神のみまえに実証しなければなりません。わたしたちがただ何かの災厄を逃れる手段として神との交友を求めるのであれば,エホバ神は決してそれを喜ばれません。神の裁きが近いために今はほんとうに危急な時代であるとはいえ,わたしたちが神のみまえでの正しい立場を得ようとすることは,ただ一時の間だけ,また,ただきたるべき「大患難」を生き残るためだけであってはなりません。それは永久に及ぶものでなければなりません。純粋な愛だけがわたしたちにそうした動機づけを与えます。わたしたちが自分の願いの誠実さを実証するためのものとして,エホバ神は,わたしたち各自が神との和解を得るために果たさねばならない一定の事がらをみことばの中に示しておられます。
生きた信仰
6 神を喜ばせるため,わたしたちは神に関してどんな確信を持たねばなりませんか。
6 エホバは真理の神です。わたしたちはエホバの約束に対して絶対の確信を持つことができ,また持つべきです。事実,「信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならない」のです。(ヘブライ 11:6)あなたはそのような信仰を持っておられますか。もしそうであれば,神が行なわれる事がらにはすべて義にかなった良い目的があること,また,神がいつでもわたしたちの最善の益を心にかけておられることを確信しておられるでしょう。神の創造のみ業から,また,それ以上に,記された神のみことばから,あなたは,神が単に全知全能であられるだけでなく,愛と慈しみの神でもあられることを理解できます。もとより神は,ご自分の義の規準から離れたり,ご自身の目的を放棄されたりすることは決してありません。しかし,たとえわたしたちが不完全で誤りを犯す者であっても,わたしたちが義を愛するかぎり,神の行なわれる事がらから祝福を受けることができます。いかなる状況のもとでもわたしたちに力と慰めを与えるような信仰を持つためには,この点を十分に理解していることが必要です。
7 エホバの正しさと知恵に対する確信はどのようにわたしたちの守りとなりますか。
7 そうすれば,矯正や戒めや懲らしめを受けるときでさえ,それが自分の益と永遠の福祉のためであることを悟れるでしょう。こうしてわたしたちは,ちょうど息子や娘が,愛と知恵のある毅然とした父親を信頼するのと同じように,エホバ神を信頼するようになります。(詩篇 103:13,14。箴言 3:11,12)そうした信仰をいだいているなら,たとえある時には十分に理解できない事がらがあるとしても,神の賢明な助言や神の道の正しさについて疑ったり疑問に思ったりすることはないでしょう。そのことはわたしたちにとって守りとなります。こうしてわたしたちは,詩篇作者が,『なんぢの法を愛する者には大いなる平安あり かれらにはつまづきをあたふる者なし』と述べた人びとの中に入ることができます。―詩篇 119:165。箴言 3:5-8。
8 (イ)なぜ信仰だけでは十分でありませんか。(ロ)信仰はわたしたちを,使徒 3章19節が述べるどんな行動に至らせますか。
8 しかし,ヤコブ 2章20,26節が指摘するとおり,『業を別にした信仰は無活動』であり,「死んだもの」です。ほんとうの信仰は人を動かして行動に至らせます。真の信仰が人を動かして最初に行なわせる事がらの中にはどんなものがありますか。そのひとつは,使徒ペテロが自分の時代の人びとに説き勧めた次のことです。「あなたがたの罪を消していただくために,悔い改めて身を転じなさい。さわやかにする時期がエホバのみもとから到来(するようにです)」。(使徒 3:19)これは何を意味していますか。
悔い改めて身を転じる
9 (イ)真の悔い改めとはなんですか。(ロ)わたしたちは何に関して悔い改めることが必要ですか。
9 聖書の中で,悔い改めとは一つの変化,つまり,自分の以前の歩み,あるいは自分の犯した悪行に対する後悔もしくは自責の念を伴う思いの変化を表わしています。(コリント第二 7:9-11)約束された「さわやかにする時期」を神から与えられるためには,自分の過去の一つか二つの誤った行為について悔い改めるだけでは十分でありません。そうではなく,アダムの子孫であるがゆえに自分の性情そのものが罪深いものであることを認め,そのゆえの悔い改めを示さなければなりません。使徒ヨハネはこう述べています。「『自分には罪がない』と言うなら,わたしたちは自分を惑わしているので(す)……(また)神を偽り者としているのであり,そのみことばはわたしたちのうちにありません」。(ヨハネ第一 1:8,10)わたしたちは創造者を正しく代表し,『神にかたどって造られた神の像』として神に仕えるべきです。ところが,受け継いだ罪のゆえに,わたしたちはこれを完全に行なうことができません。わたしたちは『的からはずれ』ます。これが聖書における,「罪」ということばの字義どおりの意味です。―創世記 1:26。ローマ 3:23。
10,11 (イ)わたしたちは命をだれに負っていますか。なぜ?(ロ)それで,わたしたちは自分の命をどのように用いているべきですか。
10 それゆえわたしたちは神に対して『負いめのある者』であり,神のゆるしを必要としています。(マタイ 6:12)わたしたちは,創造者であられる神に自分の命を負っていることを認めます。しかし今わたしたちは,完全な人間の命をささげたみ子の犠牲によって全人類が買い取られた,もしくは贖われたことを知っています。その人類の中にはわたしたちも含まれています。そのように非常に貴い「代価をもって買われた」のですから,わたしたちは「人間の奴隷」,また自分自身や自分の利己的な欲望の奴隷とさえなってはなりません。(コリント第一 7:23)しかしながら,真理を学んでそれを受け入れる以前には,わたしたちのすべてがそのようになっていませんでしたか。―ヨハネ 8:31-34。
11 あなたは神がみ子を与えてくださったことに感謝しますか。罪と死の束縛から逃れる道を開くため神が行なってくださった事がらに心の中で感謝していますか。そうであれば,過去の人生を必ずしも創造者に従って用いなかったことについて誠実に悔やまれるでしょう。それは,神のご意志と目的から外れたこの世と同じような歩み方をしてきたことに対する心からの悔い改めに至るはずです。―使徒 17:28,30。啓示 4:11。
12 悔い改めた人は,自分が以前の歩みをほんとうに退けたことをどのように示しますか。
12 この真の悔い改めは『身を転じる』ことへとつながります。つまりそれが「転向」ということばの意味です。ほんとうに悔い改めた人は過去における人生の誤用を後悔するだけではありません。その誤った歩みを退け,その誤った道を実際に憎むようになります。その人はそれを,「身を転じ」て神のご意志を行ない,自分の生活を神の目的と合わせることによって示します。その人は「悔い改めにふさわしい業」を行ないます。―使徒 26:20。ローマ 6:11。
13 (イ)イエスに従おうとする者は「自分を捨て」なければならないというイエスのことばはどういう意味ですか。(ロ)わたしたちがこうしてエホバに全く服するのはどんな理由によりますか。そのことはわたしたちの生活にどのような影響を与えますか。
13 こうして悔い改めて身を転じることの中には,イエス・キリストがご自分の弟子たちに命じたこと,すなわち,『自分を捨てる』ことが含まれます。(マタイ 16:24)つまりこれは,わたしたちがもはや自分自身について何も利己的な主張を行なわず,また,神の意志や目的を顧みずにただ自分の利己的な欲望のままに生活するというような想像上の“権利”を主張しない,という意味です。むしろわたしたちは,エホバ神がわたしたちの生命に対する全面的な権利を持っておられることを認めます。それは単にエホバが創造者であられるからだけではなく,それ以上に,エホバのみ子がご自分の贖いの犠牲によって全人類を買い取ってくださったからでもあります。使徒パウロが言い表わしているように,『わたしたちは自分自身のものではありません。わたしたちは代価をもって買われたからです』。(コリント第一 6:19,20)それゆえわたしたちは,真理がわたしたちにもたらす壮大な自由を誤用したりはしません。むしろ,み子に導かれるままに神のご意志を行なうことに自分の身を全くゆだねるのです。(ガラテア 5:13。ペテロ第一 2:16)わたしたちがそれを行なうのは,それが正しいことであるからだけではなく,『心と魂と思いと力をつくして』エホバ神を愛するからでもあります。(マルコ 12:29,30)確かにそのためには,わたしたちひとりひとりが神に全く身をささげた献身の生活をしなければなりません。こうした歩みは重荷,もしくは抑圧的なものですか。それどころか,人はそれによって,生きることを,かつてなかったほど楽しむようになるのです。―マタイ 11:28-30。
救いのために公の宣言をする
14 (イ)エホバが自分に対する正当な所有権を保持しておられることを認めたいと考えるようになったとき,人はそのことを神に対してどのように言い表わせますか。(ロ)ローマ 10章10,13節が示すとおり,その人はほかのどんなことをも願うべきですか。
14 祈りの中で神のご準備に対する自分の信仰を言い表わし,わたしたちに対して神が正当な所有権を保持しておられることを認めるのはほんとうに良いことです。しかし,わたしたちが行なうことができ,また行なうことを願うべき事がらがほかにもあります。ローマ 10章10,13節はわたしたちにこう告げています。「人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をする」,そして,「エホバのみ名を呼び求める者はみな救われる」。したがってわたしたちは,エホバ神とそのご準備に対する自分の信仰を喜んで公に言い表わすべきであり,それを,感謝にあふれた心で行なうことが必要です。わたしたちがそれを行なうべき方法として,まず水のバプテスマの場合があります。
15 なぜわたしたちは水のバプテスマについて真剣に考えるべきですか。
15 イエス・キリストは人類の世にあって公の宣教を始めようとするにあたり,水の浸礼を受けるためご自身をバプテストのヨハネに差し出されました。聖書は,イエスがその時,「わたしはあなたのご意志を行なうために参りました」と神に向かって言われたことを記しています。(ヘブライ 10:9。詩篇 40:7,8[40:8,9,バ])イエスはご自分の弟子となる人すべてが同じようにバプテスマを受けるべきことを指示されました。あなたもそうした弟子であるしるしとして水のバプテスマを受ける備えがありますか。―マタイ 28:19,20。
16 (イ)人は,自分がバプテスマを受ける用意ができているかどうかをどのように判断できますか。(ロ)主宰監督は,バプテスマを受ける準備の面で個々の人を助けるために何をしますか。
16 献身してバプテスマを受け,唯一のまことの神であり全宇宙の正当な主権者であられるエホバの証し人となることは壮大な特権です。そのことに何が含まれているかを思い出してみましょう。エホバはその愛によって,あなたがエホバからの是認を受けた状態に入る道を開いてくださいました。しかし,実際にその状態に入るために,あなたには信仰が求められます。あなたは,聖書が霊感による神のことばであることをほんとうに信じなければなりません。(テモテ第二 3:16,17)神に受け入れられた立場を得るための唯一の手だてとしてキリスト・イエスに信仰を働かせねばなりません。(使徒 4:12)あなたは,自分がエホバ神に全く依存した存在であることを認識し,エホバのご意志を,ただ数年ではなく,永久にわたって行なうため,自分の全生活をエホバにゆだねたいとの真剣な願いをいだかねばなりません。それが真実にあなたの心の中にあるものですか。今あなたが知っておられるとおり,このことには,『世のものとならない』ということが含まれます。(ヨハネ 17:16。ヨハネ第一 2:15)悔い改めて『身を転じた』しるしとして,あなたは神の義の規準に反する習慣を捨て去り,今では,神の命じられる事がらを行なおうと誠実に努めておられるに違いありません。あなたは,エホバに対する心からの愛のゆえに,自分の思いを作り直してこれが生活に対する自分の見方となるようにしましたか。(ローマ 12:1,2)そうであれば,そうした信仰を『公に宣言する』こと,それがあなたに対する聖書の勧めです。それがあなたの願いであるならば,あなたの地域における,エホバのクリスチャン証人たちの会衆の主宰監督に近づいて,自分がどのように考えているかをはっきりと伝えるのがよいでしょう。主宰監督は,バプテスマに備えて聖書の基礎的な教えを復習するための機会をあなたのために設けることでしょう。
17 救いを得ることとバプテスマとが明確に関係していることを述べなさい。
17 聖書はバプテスマと救いとを結び付けていますが,それはきわめて適切なことです。使徒ペテロは,ノアとその家族が全世界的な洪水を生き延びて救われたことについてふれたのち,こう述べています。「これに相当するもの,すなわちバプテスマ(肉の汚れを除くことではなく,神に対して正しい良心を願い求めること)がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなたがたを救っているのです」。(ペテロ第一 3:21)どうしてそうですか。バプテスマの水そのものが,バプテスマを受ける人に何かをするのではありません。しかし,水の浸礼のために自分を差し出す人たちは,自分の罪に対する神のゆるしを得,それによって神に対する清い良心を持つことを願っています。彼らは,キリスト・イエスの流された血の価値に対する信仰によってそうしたゆるしが可能なことを知っています。そうした信仰に基づいて,彼らは神からのゆるしを願い求め,バプテスマのために自分を差し出すことによってそのことを明らかにします。(使徒 2:38)神は,彼らの願い求めた正しい良心を与えます。こうして各人は現在の邪悪な事物の体制から救われ,もしくは救い出され,神のご意志を行なう人びとに属する壮大な見込みを持つようになります。(ガラテア 1:3,4。ヨハネ第一 2:17)したがって,クリスチャンの水のバプテスマは,今や近づいた神の義の新秩序での命を願う人びとにとって肝要なものです。
18 わたしたちが『自分の信仰の公の宣言』をどのように続けねばならないかを,聖書から示しなさい。
18 このような段階を進んでも,『自分の信仰を公に宣言する』ことがそれだけで終わらないことは言うまでもありません。エホバの是認を保つためには,エホバを呼び求め,その導きを仰ぎ求めることを決してやめてはなりません。このことは,自分の家の隠れたところだけでなく,公にもなされることが必要です。またこれには,キリスト・イエスがその頭の権威に服する者すべてに与える特別の業に熱心に加わることも含まれています。その業とは,神の王国の良いたよりを全世界で宣べ伝え,あらゆる国の人びとを弟子とすることです。―マタイ 24:14; 28:19。
神との関係をたいせつにする
19,20 エホバとの関係を永続的なものとするために個人研究はどれほどたいせつですか。
19 では今,ひとたび得た神との関係を永続的なもの,きたらんとする世界の滅びを生き残ることだけでなく,平和と安全のゆきわたった喜ばしい状態のもとで神に仕える永遠の将来をも保証するものとするためにはどうしたらよいでしょうか。
20 そのための一つのこととして,あなたは神に関する知識において成長しつづけることを願われるでしょう。そのみことばを個人的に研究することはこの点で大きな助けとなります。また,さらに助けになるのは,学んだ事がらを自分の日常生活に当てはめることです。あなたは,神がご自分のみことば聖書の中に蓄えられた知識と理解と知恵の宝を得ることに真の楽しみを見いだされるでしょう。あなたは詩篇 1篇2,3節が描写している人のようになることでしょう。『かかる人はエホバの法をよろこびて日も夜もこれをおもふ かかる人は流れのほとりにうえし樹の期にいたりて実をむすび葉もまたしぼまざるごとくそのなすところ皆さかえん』。そうです,真理に対し,また神の知識に対して真の愛を培うなら,それによってあなたは,『楽しき道』を歩み,『平和の道すじ』を進むことになるでしょう。それは,生活上のすべての問題に対処する知恵をあなたに与えるからです。(箴言 3:13,17,18)知識に対する渇望が聖書の研究に対する深い関心として表わされるなら,それはあなたが新秩序での生活に備えているしるしです。その新秩序では,『水が海を覆うようにエホバを知る知識が地に満ちる』のです。―イザヤ 11:9。
21 集会にいつも出席することがエホバの民の生活に必須であるのはなぜですか。
21 「わたしたちの希望を公に言い表わすことを,たじろぐことなくしっかり保(つ)」ためあなたにきわめて必要なほかのことがあります。それはエホバに献身しているほかのしもべたちと集い合うことです。エホバの民の集会にいつも出席することによって,あなたは愛と良い業とをほんとうに鼓舞され,神との正しい関係をしっかり保とうという強い励みを得ることができます。(ヘブライ 10:23-25)あなたはそうした家族のような楽しい交わりの中に,神の新秩序に約束されている平和と安全が現実のものであるという証拠を見いだされるでしょう。―詩篇 133:1。コリント第一 14:26,33。
22 会衆の「長老たち」は反対や個人的な苦境のさいにわたしたちをどのように助けることができますか。
22 そうした会衆の中では,愛のこもったほかの助けからも益を受けられます。ご自身「りっぱな羊飼い」であられるイエス・キリストは『従属の羊飼いたち』を地上に有しておられます。それは,霊的に年長の人びと,「羊」の世話をする「長老たち」です。これは,全地で集められた神の民が今日でも平和と安全を楽しむための強力な要素となっています。(ペテロ第一 5:2,3)これらの人びとは,『風のさけどころ暴雨ののがれどころとなり かわける地にある水のながれのごとく うみつかれたる地にある大いなる岩陰のごとく』なっています。(イザヤ 32:1,2)そうです,この世からの反対や個人的な苦境から来る,問題,圧迫,苦難というあらしのさいに,これら霊的な意味での年長者もしくは「長老たち」は,その岩のような信仰と,神のことばを堅く守ろうとする態度とによって,真の助けを差し伸べることができます。彼らは,心をさわやかにする助言と助力と激励をあなたに与えるのです。
23 他の人の不完全さのゆえに自分とエホバとの関係を損うようなことを避けさせるものはなんですか。
23 確かに,神のしもべたちの間でも,人間的な不完全さの現われることがあるでしょう。わたしたちはみな日ごとにまちがいをします。(ヤコブ 3:2)しかしわたしたちは,他の人の不完全さにつまずかされるままになりますか。人の不完全さによってエホバ神と自分との関係が損われることを許しますか。わたしたち自身も過ちを犯し,のちに後悔する事がらを言ったり行なったりするのですから,自分に望むのと同じあわれみとゆるしを他の人びとにも示すべきではありませんか。(マタイ 6:14,15)神の平和な新秩序での生活にふさわしい者となるためには,他の人びとと平和に過ごしてゆく能力のあることを今実証しなければなりません。キリストがそのために死なれたわたしたちの兄弟をも愛するのでないかぎり,わたしたちは神を愛することができません。―ヨハネ第一 4:20,21。
24 祈りはわたしたちの生活でどんな地位を占めるべきですか。
24 神との正しい関係を持つことはあなたに別の壮大な特権をも与えます。それは,必ず聞いていただけるとの確信のもとに祈りによって神に近づくことです。その特権をたいせつなものとし,それを日ごとに,そして終日活用してください。いろいろな問題の起きることは確かです。あなた自身の不完全さがあなたを悩ます場合もあるでしょう。しかし,聖書はこう助言しています。「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,いっさいの考えに勝る神の平和が,あなたがたの心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」― フィリピ 4:6,7。
25 信仰のゆえに試練や迫害に面する場合,それを忍耐する助けとなるものはなんですか。
25 平和と安全の真の源であられるエホバ神に仕える道を選び,神の義の新秩序に希望を託したなら,あなたは正しい出発をしたことになります。そして,使徒が言い表わすとおり,今「あなたがたには忍耐が必要なのです。それは,神のご意志を行なったのち,約束の成就にあずかるためです」。(ヘブライ 10:36)エホバ神との正しい関係を持つことから来る祝福を味わい知ったなら,それを決して放棄しないことを決意としてください。世のつかのまの快楽に連れ去られることがあってはなりません。敵対する世界からもたらされる試練と迫害が厳しくなるとしても,それがただ一時のものであることを忘れてはなりません。エホバ神がご自分を愛する者たちに与えてくださる祝福に比べれば,そうした苦しみは取るに足りないものです。―コリント第二 4:16-18。
26 (イ)わたしたちは今日特にどんなことを喜べますか。(ロ)わたしたちは,詩篇作者と同じように,エホバおよびエホバとの関係について常にどのように感じるべきですか。
26 敬神の専念の道を引き続き追い求めてください。それが今の生活の最善の道であり,神の新秩序でのとこしえの命に必ず到達するものであることを確信してください。(テモテ第一 4:8)その新秩序,またそれがもたらす永遠の平和と安全が今や近いのを見て喜んでください。エホバ神との関係を築き上げてゆかれるにつれ,霊感を受けた詩篇作者の記した次のことばが,常にあなたのものでありますように。
「神はわたしの心の岩,定めなくわたしの分。あなたから遠くにいる者,その者は滅び,すべてみだらを求めてあなたを離れる者,あなたはその者を必ず無言にされる。しかしわたし,わたしにとって神に近づくのは良いこと。わたしは主権者エホバを自分の逃れ所とした。そのすべてのみ業を宣べるために」― 詩篇 73:26-28,新。
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引用資料真の平和と安全 ― どこから得られるか
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引用資料
1. 1973年1月21日付ニューヨーク・タイムズ,32ページB。
2. ワシントン・ポスト特別版,ミシガン州ランシング(イースト・ランシング)のザ・ステイト・ジャーナル1970年7月22日付紙上(第1ページ)に掲載されたもの。
3. ハンソン・W・ボールドウイン著「第一次世界大戦」(1962年),1ページ。
4. ハロルド・W・ヘルフリック(Jr.)編「環境危機」(1970年),84ページ。
5. ニュージャージー州トレントンのタイムズ・アドバタイザー紙,1971年6月13日付,16ページ。
6. R.S.レイスナー,E.J.コルモンディー共編「人口と食糧」(1971年),18ページ。および,R.O.グリープ著「人口社会生態学読本」(1971年)の『人びとの広がり』と題する章,21ページ。
7. 1971年12月10日付アトランタ・ジャーナル紙。
8. USニューズ・アンド・ワールドリポート誌1967年5月1日号,64ページ。
9. タイム誌1970年2月2日号,62,63ページ。
10. オーストラリアン誌1971年11月3日号。
11. 1971年6月10日付ニューヨーク・タイムズ紙。
12. 1970年4月14日付ウォール・ストリート・ジャーナル紙。
13. 1972年4月4日付ニューヨーク・タイムズ紙。
14. 1971年6月6日付ニューヨーク・タイムズ紙,第4欄,14ページ。
15. ワールドブック百科事典(1970年版),第16巻207ページ。
16. 1966年12月29日付ニューヨーク・タイムズ紙,3ページ。
17. 1967年1月7日付ラ・デルニエール・ヘウル。
18. ペンシルバニア州ピッツバーグのクーリエ紙,1935年11月9日付。
19. 大英百科事典(1959年),第15巻387ページ。
20. サイエンス誌(第178巻4062号),1972年11月17日付,725ページ。
21. 新カトリック百科事典(1967年),第2巻384ページ。
22. 「ブロードマン聖書注解」,第1巻117,198ページ。
23. 1959年6月28日付ニューヨーク・タイムズ紙,書評欄。
24. オーストラリア,メルボルンのエイジ誌1967年12月9日号。
25. 「三州同盟から民衆同盟に至るスイス史」,無改訂第11版,1953年,198ページ。
26. ワールドブック百科事典(1970年),第20巻379ページ。
27. ウォール・ストリート・ジャーナル紙,1972年8月15日付。
28. 1960年8月4日付ロンドン・スター紙。
29. 1969年3月14日付ニューヨーク・ポスト紙,雑誌欄2ページ。
30. 1969年3月25日付ニューヨーク・タイムズ紙。
31. 1972年5月11日付ニューヨーク・タイムズ紙。
32. ワールドブック科学年鑑「サイエンス・イヤー」,320ページ。
33. ニューヨーク・タイムズ・マガジン1966年10月9日号,146ページ。
34. アンコール誌1960年秋季号,31ページ。
35. フロリダ州ジャクソンビルのジャーナル紙,1966年5月18日付。
36. G・フリードリッヒ編「新約聖書神学辞典」(1959年),587ページ。
37. 大英百科事典(1959年),第7巻110ページ。
38. 1971年1月25日付ニューヨーク・タイムズ紙,42ページ。
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