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安全への道ものみの塔 1967 | 11月15日
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の安全を見いだすことを真実に望んでいる人は,それを見いだすことができます。救いは得られるのです。保護を与える町すなわち神の救いのご準備は近くにあります。しかしそこに達するにはある程度の努力が必要です。安全への道は春の散歩のようなものではありません。それは勤勉な働き,「信仰の戦い」をすることを意味します。―テモテ第一 6:12。
12 流血の罪を持つ人がどのように行なうべきかを示す良い手本となっているのは,だれですか。
12 この点で使徒パウロはすぐれた手本です。彼もサウロと呼ばれた時代にはユダヤ人の宗教組織の負う流血の罪にあずかっていました。彼は真のクリスチャンが殺されるのを見てそれを是認していたのです。たとえばステパノの殺害について「サウロは,ステパノを殺すことに賛成していた」と述べられています。(使行 8:1)しかしその後キリスト教に改宗したサウロは,真の信仰のために目ざましい戦いをしました。最後まで走りぬいて救いを確実にするために,彼は大変な努力をしました。伝道し,クリスチャンの兄弟にあてて多くの手紙を書き,あらゆる苦難を経験し,遂にはクリスチャンとして殉教したのです。パウロや他の多くの人の例は,永遠の生命を得るために真の努力が必要なことを示しています。―コリント第二 11:23-27。テモテ第二 4:6-8。
安全への道
13 (イ)のがれるには,どんな要求をはたすことが必要ですか。(ロ)信仰とは実際に何を意味しますか。
13 安全を目ざしてのがれるため,まず根本的に必要なのは,自分がエホバ神の前に悪を行なった者であり,神の目には罪人であるという自覚です。(詩 51:3-5)このことから,誠実な人は悔い改めに導かれます。それはまた心の変化を意味します。聖書,エホバ神,イエス・キリスト,神の国に対する信仰がそれに伴います。(使行 3:19。ヘブル 11:6。使行 16:31)しかし信仰は神の存在,またイエス・キリストが罪人を救うために来られたという事実を信ずるだけのことではありません。単にそれだけを信じている人は大ぜいいますが,それではとうてい不十分です。聖書によれば信仰はそれ以上のこと,すなわちエホバに全く信頼すること,神への全き従順を意味します。それは行動を意味します。(ヘブル 11:1)それはエホバに献身してキリストの追随者すなわちキリストの弟子,聖書にしるされた神のみこころに従って生きる者になることです。普通に考えられている意味での信仰は,真実の,深い聖書的な意味においての信仰とは全く違うことがおわかりでしょう。イエス・キリストはこう言明されました。「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は,またわたしのしているわざをするであろう」。(ヨハネ 14:12)生命を救う実体ののがれの町に逃げて安全を得る道は,イエスが言われた狭い道と実際には同じものです。「命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」― マタイ 7:14。
14 人は何から離れねばなりませんか。なぜですか。
14 この狭い道を歩むと同時に,滅びに通ずる広い道を行くことはできません。つまりわたしたちは現存する悪の事物の制度から離れなければなりません。(ローマ 12:2)真のクリスチャンは流血にまき込まれるおそれのあるどんな運動にも関係しないでしょう。そしてこの世の事柄に対して中立の立場をとります。(ヨハネ 18:36)すでに述べたように,この世そして特にその宗教は重い流血の罪を負っています。その中にとどまる人はその一部であり,これらの組織が全体として負う流血にあずかることになります。ゆえに使徒パウロが,流血の罪を持つユダヤ教から離れたように,今日でも誠実な人は大いなるバビロンから離れることでしょう。それはあらゆる偽りの宗教と縁を切るということです。偽りの宗教に臨む滅びのさばきにまき込まれたくないとすれば,だれでもそうしなければなりません。聖書はそうすることの必要を明らかにしています。「わたしの民よ。彼女から離れ去って,その罪にあずからないようにし,その災害に巻き込まれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天に達しており,神はその不義の行いを覚えておられる」― 黙示 18:4,5。
15 キリスト教国の教会が大いなるバビロンの一部であることは,どのように認められていますか。
15 キリスト教国の諸教会が大いなるバビロンの一部であることは,その著名な成員によっても認められています。世界教会協議会の前事務総長フーフト博士は諸教会のおかれている事態に通じていたに違いありません。同博士の最近の講演を論評した一宗教出版物は次のように述べていました。「[宗教上の]一致をはばむ別の要因として,フーフト博士は教会の“バビロン捕囚”をあげた。あらゆる教会は世の権力者,国家および国民のみならず,民族,文化,国家の実体ともなんらかの形で手を結んできた」― Schweiz.evang.Pressedienst, 1964年9月30日付。
16 のがれることを,なぜおくらせてはなりませんか。
16 命を愛し,神の目に正しいことを行なおうとする賢明な人は,政治,社会,宗教のいずれを問わず自分がこの世のどんな面に関係していたとしても,流血の罪があるこの世から離れることをちゅうちょしないでしょう。今はのがれる絶好の時です。血の復讐者が刑罰の執行を始めてからではまにあいません。時があるうちにのがれることの必要を強調して実体における血の復讐者イエス・キリストはこう言われています。「あなたがたの逃げるのが,冬または安息日にならないように祈れ。その時には,世の初めから現在に至るまで,かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである」。(マタイ 24:20,21)逃げおおせることを不可能にする事態がやがて起きます。それは大いなるバビロンの滅びと,それに続くハルマゲドンの戦いの時です。―黙示 16:14から17:18。
「のがれの町の中にとどまる」
17 今日,のがれの町の大祭司はだれですか。
17 すでにみたように,故意にではなく人を殺して,のがれの町に保護された者は,のがれた時に勤めていた大祭司が死ぬまでそこにとどまらねばなりませんでした。そして大祭司が死ぬと,自分が前に住んでいた土地に帰ることができました。血の復讐者にはその時もはや危害を加える権利はありません。預言的なひな型を成就してイエス・キリストもまた大祭司の役目をはたされます。ヘブル人への手紙 3章1節にあるとおり,イエス・キリストは確かにこのような大祭司です。「そこで……聖なる兄弟たちよ。あなたがたは,わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを,思いみるべきである」。
18 大祭司の死ぬまでのがれの町にとどまることは,(イ)天的な級の人々,(ロ)ハルマゲドンを生き残る人々にとって何を意味しますか。
18 したがってのがれの町の示す興味深い事柄の中で,キリストは二つの役割すなわち血の復讐者としての役と大祭司の役をはたされます。大祭司が死ぬと,町に保護された者は自由の身となりました。では,大祭司が死ぬまで町にとどまることは,実体的なのがれ町の場合何を意味していますか。二つの級の人々,「イスラエルの人々」と「他国の人」すなわち天国の成員と地的な級の成員とがこの町に避難しようとしていることから,次のように言えます。天国の級の人々である霊的なイスラエル人が不完全な人間としての地上の生涯を終え,天的かつ霊的な復活によって報われる時,大祭司は彼らに対していわば“死ぬ”ことになります。つまり彼らに対しては大祭司としての働きをやめます。もはや人間でない彼らは,罪をおおうための大祭司の働きをもはや必要としません。彼らは不滅の命によみがえらされ,キリストとともに王また祭司として千年のあいだ治めるのです。(黙示 20:6)ハルマゲドンを生き残る人々について言えば,キリストの千年統治が終わって,すべての人が地上で完全な人間にされた時,イエス・キリストは彼らのための大祭司としての勤めをやめられるでしょう。のがれの町のひな型に即して言えば,イエス・キリストはそのとき彼らに関しては“死なれた”ことになります。すなわち罪をおおう大祭司としてイエス・キリストは登場しません。そのとき大祭司の勤めはもはや必要ないでしょう。そのとき人々は,義に対していつまでも全く献身していることを証明するため,神の御手の中に直接に来ます。―コリント第一 15:24-28。ローマ 8:33; 6:7。
19 どんな警告が与えられていますか。
19 しかし不完全な人間であってのがれの町に逃げた人が大祭司の死ぬ前に町を離れるようなことをすれば,死の危険つまり合法的な血の復讐者の手で処刑される危険に身をさらすことになります。彼は大祭司のあがないの犠牲の益をもはや受けないからです。これはわたしたちに対する警告となっており,神のご準備に関連してそれが要求されているかぎり,実体的なのがれの町の中にとどまらねばならないことを示しています。永遠の救いを確実にするには,神の大祭司によって監督され,神の見える組織と結びついている,エホバ神の愛あるご準備の境界内にとどまっていなければなりません。永遠の死の危険にわたしたちをさらす欺きの自由を僅かのあいだ楽しもうとして,のがれの町の強力な保護を見捨てるような誘惑に陥ってはなりません。のがれの町にとどまる以上,いくらかの拘束を受けることは事実です。なんでも思いどおりに行ない,また語ることができるわけではありません。神のみこころに従い,あがない主であられる大祭司イエス・キリストの下にとどまることが必要です。それでも正しいことと善を行なう自由はじゅうぶんに与えられています。
20 弟子ヤコブはどんな助言を与えていますか。
20 それで昔のモーセの律法中にあるのがれの町の定めは,生死にかかわる緊急さをもってわたしたちに追ってきます。それは厳しゅくな教訓であり,流血の罪を持つ20世紀の人間社会に住むわたしたちにとって時宜を得た教訓となっています。それはわたしたち各人が,世の集団的な流血の罪と,悪の事物の制度に臨もうとしている神の罰をのがれる道を示しています。神の御要求を読み,聞くのみならず,直ちに,そして熱心にそれを自分の生活の中で実行する人は,ほんとうに幸いです。弟子ヤコブは次のように述べています。「そして,御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となってはいけない」― ヤコブ 1:22。
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「益のあること」が認識されたものみの塔 1967 | 11月15日
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「益のあること」が認識された
● カリフォルニアで開催された巡回大会で次の経験が述べられました。「私の働いている職場で数人がエホバの証人について話し合っていました。その中のひとりは自分の考えをのべ,エホバの証人は正しいと言い,証人はその題に『バビロン』という名の入った啓発的な本を持っていると語りました。私と一緒に働いている人はその男のひとに,私にたのめばその本を入手できるでしょうと知らせました。その翌朝,彼女から話を聞いて,その人に本を入手できることを話し,『聖書はみな神の霊感によるものにして益あり』という本を手許に1冊もっていることもつけ加えました。彼は『その本もください』と言い,私が『大いなるバビロンは倒れた! 神の国は支配する!』の本を明日もってきましょうと言うと,『そうしてください。10冊頼みます』と答えました。その本を昼休みに渡すことになりました。それを渡す時,『この本をどうなさるつもりですか』とたずねたところ,『この中の数冊は郵送し,あとは友人に渡すつもりです。この真理がそれを読んだ人に少しでも受け入れられるなら,とても良いことだと思います』と彼は言いました。後日,彼は電話で『バビロン』の本と『聖書はみな神の霊感』の本をそれぞれ2冊ずつ,そして新世界訳聖書を2冊注文してきました。彼は『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌の両方を予約し,さらに多くの聖書の手引きを注文しました。彼は他の土地に移転しましたが,近くで奉仕している証人が,この興味をもつ人をさらに援助するための取り決めを設けました」。
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