-
新しい世に備えていま生活するものみの塔 1960 | 8月1日
-
-
をつづけることができます。これは思いやりのある習慣であつて,賞賛に値するもてなしを示します。その村の人々はみなこの習慣のことを知つており,たとえ旅行者が所有主のいないときに食物を食べても,それを盗みとは決して見なしません。この習慣は,ユダヤ人の律法下にあつた見知らぬ人,旅行者あるいは貧乏人に対する準備を思い起させます。(レビ記 19章9節と10節を見なさい)しかし,習慣は変ります。この習慣はまだある田舎で行われていますが,現代文明の大都市では一般に行なわれていません。それで,それぞれの状況に適応することが必要です。盗みか,盗みでないかを安全にきめるものは,「私はこれを取る権利を持つているか」と自問することです。すなわち「私はこの食物や材料の所有主からそれを使用して持ち去る許可を有しているか」と自問することです。もしもそれが雇主の所有物であるなら,次のように尋ねることもできます,「もし雇主がここにいて,私がそれを持ちさるのを見るときでも,私はこれを持つて行くだろうか」もし,これらの質問に対する答が「いいえ」という否定のものであるなら,それを持ちさることは盗みである,と知ります。
26 正直にそして熱心に働く人は,何をすることができますか。
26 使徒の助言に従い,クリスチャンはいつしようけんめいに働き,手ずから良いことをなし,悪を行なつてはなりません。正直であると共に勤勉でもなければならず,十分の食物を得るために盗みをしてもなりません。クリスチャンは自分自身の必要物を備えるだけでなく,結婚しているなら自分の妻と子供たちの必要物を備えなければなりません。それだけでなく,思いもよらぬ損失や災害を受けた会衆内の仲間の不幸なクリスチャンたちをたすけることが必要です。また,会衆の資金に寄付をすることも必要です。それは会衆の必要な出費をまかない,その地で神の御国の良いたよりを伝道するわざを拡大するためです。
27,28 (イ)人々は金銭を借りるときは,どのように不正直ですか。(ロ)借りても返済しようとしない者たちについて聖書は何と述べていますか。(ハ)クリスチャンは,どんな良い性質をつちかうべきですか。どんな悪い性質を捨てねばなりませんか。
27 この古い組織制度には,利己主義が満ちています。人々は,生活に対する態度のなかにこのことを示します。なるべくわずかのものを与えて,できるだけ多くのものを得ようとつとめているのです。政治的な指導者や宗教的な指導者は,この利己主義に訴えてそれぞれの特定な制度の支持を得ようとしています。この利己主義は,金銭を借りるときは急いでしても,返済するときはおそいという人々の態度に見られます。多くの場合,借りる人は返済しようとする気持をもちません。ある人々は,金持ちから金を借りて返済しなくても,それは別に悪いことではない,金持ちはお金に不自由しないのだからと言つてこのことを正当化しようとつとめます。借金を返済しないために,なんと多くのけんかや争いが起きているのでしよう! そのわけで詩篇 37篇21節は次のように述べているのです,「あしき者はものかりて償はず」。
28 エホバは悪い者たちを祝福しません。エホバは,利己的なもの,貪欲なもの,得ることだけに興味を感じても他のものにはできるだけすこししか与えない,というような者たちを祝福しません。新しい世の生命を望む者たちは,利己主義よりも愛をつちかい,貪欲の精神よりも与える精神をつちかわねばなりません。クリスチャンは,物質の持物を殖やすために負債をするということをせず,むしろ必要なもので満足し,正直にいつしようけんめい働いて必要ななものを得ようとします。使徒パウロは,兄弟たちに無用な重荷を課せないように注意深く行ないました。彼は,使徒というその立場を用いて仲間のクリスチャンたちから物質的な利益を得ようとしませんでした。彼は「金銀」をむさぼらなかつたのです。全時間の使徒であつた彼は,会衆からの援助を感謝しました。その援助によつてパウロは全時間を宣教にささげることができたのです。しかし,この自発的な援助が来ないときは,パウロは手ずから天幕づくりの仕事をして自分の物質的な必要物をまかないました。―使行 20:33,34; 18:3。テサロニケ前 2:9。
-
-
神の新しい世に備えて生活する益ものみの塔 1960 | 8月1日
-
-
神の新しい世に備えて生活する益
1 ヤコブとパウロは,怒り,あらそい,そして舌の悪用について何と述べていますか。
今日のこの世の人々は,すぐに怒つて自分の気持を抑えられないということは,真実ではありませんか。この結果しばしば荒々しい乱暴な言葉,きたない不潔な言葉が出てくるようになります。その種類の話しは,他の人に対する親切と思いやりの不足を示し,私たちのまわりにある悪い状態に属する苦々しさ,しつと,そして争いを表わし示します。それで,聖書を書いたヤコブは,次のように問うています,「あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか。その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によつて示すがよい。しかし,もしあなたがたの心の中に,苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら,誇り高ぶつてはならない。また,真理にそむいて偽つてはならない。そのような知恵は,上から下つてきたものではなく……ねたみと党派心とのあるところには,混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」。(ヤコブ 3:13-16,新口)そのわけでパウロがエペソ書 4章29-32節(新口)で次のように語つているのも当然であります,「悪い言葉をいつさい,あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば,人の徳を高めるのに役立つような言葉を語つて,聞いている者の益になるようにしなさい。……すべての無慈悲,いきどおり,怒り,騒ぎ,そしり,また,いつさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く,あわれみ深い者となり,神がキリストにあつてあなた方をゆるして下さつたように,あなたがたも互にゆるし合いなさい。」
2 一瞬のあいだ激怒に襲われるとき,どんな助言に従わねばなりませんか。
2 両親が子供に対する場合とか,クリスチャン監督が会衆内の者に対する場合のように,矯正やしかることが必要なときでも,その話しは抑制されない気持を反映してはなりません。一瞬のあいだ激怒に襲われるとき,怒りがさめるまで,そして正しい釣合を保ちつつその事柄について語れる時まで黙つているべきです。そのような状態のときには,「語るにおそく」あるべきです。また「憤りやすい者は争いをおこし」ということを記憶すべきです。神の是認を得るためには,私たちは平和のうちに生活し,平和の者でなければなりません。なぜなら,「平和をつくり出す人たちは,さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」。―ヤコブ 1:19。シンゲン 15:18。マタイ 5:5,新口。
3,4 新しい世の社会内にあつてはならぬ他のいくらかのものは何ですか。
3 悪いもの,間ちがいのものに対して義憤を当然に感ずる時があります。エホバと善を愛する故に,またエホバの御名と民に非難があびせられるのを見て心の動揺を感ずる故に義憤を持つことがあります。しかし,その義憤を感ずることは,個人的な誇りの気持が傷つけられたためか,他の人に憎しみの気持を持つために怒ることとはちがうものです。また,自分のした悪が見つかるのではないか,という恐れをつつみかくすことともちがいます。
4 神の民の生活についての神の取り極めは,平和にみちたもの,秩序のあるものです。それに反対の働きをするものは,新しく形成されている新しい世の社会内に存在することができません。すると,闘争とか泥酔(これはしばしば争いをひきおこす)は,新しい世の生活の一部ではないという意味になります。―ロマ 13:13。
結婚と道徳行為に対する原則
5 どんな目的のために神は両性をつくりましたか。性交の特権には,どんな制限が課せられましたか。
5 神が男と女をエデンの楽園に最初置いたとき,この両人が子供を産んで殖え,人々の社会をつくり,ついには正しい人種で全地がいつぱいになる,というのが神の目的でした。子供を産むことができるようにするため,神は両人を創造したとき,生殖の能力をふたりに与えました。そのわけで神は,男性と女性の二つの性をつくられたのです。男と女が性交をするとき「その類に従つて」子供を産みます。両人がこれをすることは正しいこと,正当なことであり,それには恥ずかしいことが一つもありません。それですから,それは両人にとつて快い経験になるはずでした。しかし,この性交の特権を行使することについて,神は特定の制限を設けられました。それは,結婚の取り極めだけで行なわれるものです ― すなわち,夫は自分の妻だけと行ない,妻は自分の夫だけと行なうものです。
6 (イ)一夫多妻がイスラエル内で行なわれたのは神の目的でしたか。(ロ)マタイ伝 19章4-9節でイエスは結婚と離婚について何と言われましたか。
6 しばらくのあいだ,神はイスラエル人が一夫多妻主義を行なうことを許しました。しかし,これは彼らに対する神の目的ではなく,またこの行いをするよう神は彼らに命じたのでもありません。結婚が設立された最初のとき,神はアダムにひとりだけの妻を与えました。後日,イエスはユダヤ人の行なつていた一夫多妻と離婚について,次のように言われました,「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ,そして言われた,それゆえに,人は父母を離れ,その妻と結ばれ,ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや,二人ではなく一体である。だから,神が合わせられたものを,人は離してはならない」。彼らはイエスに言つた,「それでは,なぜモーセは,妻を出す場合には離縁状を渡せ,と定めたのですか」。イエスが言われた,「モーセはあなたがたの心が,かたくななので,妻を出すことを許したのだが,初めからそうではなかつた。そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなく
-